スポーツ選手、俳優、学者、実業家、芸能人など各界で活躍する人物情報に加え、外の言語(多言語)で紹介されている内容や、その人物にゆかりのある地の観光資源データを集めました。
小野卓爾(おの たくじ、1906年7月14日 - 1991年… 小野卓爾(おの たくじ、1906年7月14日 - 1991年2月20日)は、北海道白老郡白老町出身のサッカー選手、サッカー指導者。 北海道庁立札幌第一中学校(現:北海道札幌南高等学校)を経て、1927年に中央大学法学部英法科に入学。在学中に札幌一中時代のチームメイトと共にサッカー部を創部した。 1933年に大学を卒業し、1935年より日本蹴球協会(現:日本サッカー協会、JFA)代議員に就任し、同年の第1回日満親善蹴球大会では選手団団長。1936年のベルリンオリンピックでは日本代表に帯同し総務全般を担当した。 1951年、JFA常務理事に就任し総務・財務といった実務を担当。1974年からはJFAの財団法人化に伴い専務理事に就任した。
梶浦 善次(かじうら ぜんじ、1905年8月30日 - 19… 梶浦 善次(かじうら ぜんじ、1905年8月30日 - 1993年8月4日)は、日本の哲学者・教育者。専門は教育哲学・ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲルに関する研究。北海道における学校経営者。 北海道留萌市出身。1925年札幌師範学校卒業。卒業後、北海道小樽市の小学校訓導として奉職するも、1926年に東京高等師範学校文科第三部に入学。1930年同学校卒業、北海道庁立札幌第一中学校(後の北海道札幌南高等学校)英語教諭。1938年北海道庁立小樽中学校(後の北海道小樽潮陵高等学校)英語教諭に転任。1942年東京文理科大学哲学科に入学、1944年同大学卒業。同年9月、北海道第一師範学校講師、同年12月教授。
森山 豊(もりやま ゆたか、1904年10月18日 - 19… 森山 豊(もりやま ゆたか、1904年10月18日 - 1988年11月19日)は、日本の産婦人科医。
村中 孝次(むらなか たかじ[注釈 1]、1903年10月3… 村中 孝次(むらなか たかじ[注釈 1]、1903年10月3日 - 1937年8月19日)は、日本の陸軍軍人で皇道派、国家社会主義者。
奥田 良三(おくだ りょうぞう、1903年6月12日 - 1… 奥田 良三(おくだ りょうぞう、1903年6月12日 - 1993年1月27日)は、日本のテノール歌手。 1903年(明治36年)6月12日に北海道札幌区(現・札幌市)で生まれる。後に陸上選手となる南部忠平は幼稚園からの幼なじみ。北海道庁立札幌第一中学校3年修了時に上京。同郷の先輩である梁田貞の世話により、成城中学校と東京音楽学校分教場夜間部に入り、また村井満寿から個人レッスンを受ける。1922年(大正11年)に東京音楽学校に入学するが、翌1923年の関東大震災により国内での勉学を断念し、同校を中退。その後渡欧して、ローマのサンタ・チェチーリア国立アカデミア、ベルリン音楽大学で声楽を学ぶ。帰国後、1934年(昭和9年)ポリドールレコードから映画『狂乱のモンテカルロ(ドイツ語版)』主題歌「モンテ・カルロの一夜」「これぞマドロスの恋」や、映画『会議は踊る』主題歌「命かけて只一度」を吹き込む。
三岸 好太郎(みぎし こうたろう、1903年(明治36年)4… 三岸 好太郎(みぎし こうたろう、1903年(明治36年)4月18日 - 1934年(昭和9年)7月1日)は、日本の洋画家。戦前のモダニズムを代表する洋画家の1人。妻は同じく洋画家の三岸節子(旧姓:吉田)、異父兄は作家の子母澤寛(本名:梅谷松太郎)。 祖父の梅谷十次郎は元御家人で、石狩国の漁村厚田村(現:石狩市厚田区厚田)の網元だった(子母澤寛を参照)。父は橘巌松、母は三岸イシ。父の巌松は旧加賀藩前田氏に仕えた御殿医の家に生まれるも、医学修業中に吉原遊廓通いで身を持ち崩して石狩へ流れ着き、十次郎の営む料理店で働いていたと伝わる。また、薄野の大妓楼「高砂楼」の番頭だったとも伝わる。祖父が両親の結婚を許さなかったため、三岸家の戸主である母の姓を名乗る。
西田 信春(にしだ のぶはる、1903年1月12日 - 19… 西田 信春(にしだ のぶはる、1903年1月12日 - 1933年2月11日)は、日本の戦前の社会運動家・平和運動家。 北海道新十津川村出身。出生は岩見沢市で4歳から新十津川で幼児期をすごす。札幌第一中学校、第一高等学校を経て東京帝国大学文学部倫理学科に入学。東大時代はボート部に所属し、社会科学、社会主義を学ぶ。小樽高等商業学校での軍事演習に対する抗議行動に端を発した軍事教育批判が全国の大学に広がる中、治安維持法改悪により私有財産制の否定や平和運動が処罰の対象となった1925年秋、新人会に参加し、石堂清倫らと活動を始める。1926年5月より大衆教育同盟本部書記などを務め、社会科学研究会でも活動。
高倉 新一郎(たかくら しんいちろう、1902年11月23日… 高倉 新一郎(たかくら しんいちろう、1902年11月23日 - 1990年6月7日)は、日本の農業経済学者・歴史学者。北海道大学名誉教授。農業経済学・北海道史・アイヌ文化史で業績がある。 1902年、北海道帯広市で実業家・高倉安次郎の子として生まれた。札幌中学校(現北海道札幌南高等学校)で学び、1920年に北海道帝国大学入学した。農学部教授であった高岡熊雄に師事し、農政学植民学を学んだ。1926年、北海道帝国大学農学部農業経済学科を卒業。 卒業後は同年より、北海道帝国大学農学部副手に就き、1927年に助手、1936年に植民学講座の助教授に就任した。1945年、北海道帝国大学に学位論文『アイヌ政策史』を提出して農学博士号を取得。
稲村 順三(いなむら じゅんぞう、1900年9月30日 - … 稲村 順三(いなむら じゅんぞう、1900年9月30日 - 1955年2月21日)は、日本の農民運動家・政治家。衆議院議員(5期)。本名は「稲村 順蔵」、ペンネームは「村上 進」。 新潟県三条市出身。稲村道三郎の二男として生まれた。北海道帝国大学予科から東京帝国大学へ入学するが、兄・稲村隆一の影響を受け農民運動に関わるようになり大学を中退。1926年に労働農民党に入党し、雑誌「マルクス主義」の編集者。無産大衆党書記や社会大衆党書記を務め、1927年『労農』同人。1928年に日本大衆党に参加するが翌1929年5月21日に除名処分を受ける。1932年には秋田、新潟の農民運動に参加するも、1937年人民戦線事件で検挙され、釈放の後に帝国農業会嘱託や中央農会副参事として勤務する。
小原 重孝(おばら しげたか、1899年10月24日 - 1… 小原 重孝(おばら しげたか、1899年10月24日 - 1971年7月13日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大佐。小原 重厚と表記する文献も有る。 東京府出身(北海道札幌市出身とする資料も有り)。司法官・小原文太郎の長男として生まれる。札幌一中卒を経て、1920年(大正9年)5月、陸軍士官学校(32期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し、歩兵第25連隊付となる。陸士予科生徒隊付などを経て、1929年(昭和4年)11月、陸軍大学校(41期)を卒業し、歩兵第25連隊中隊長となる。 1930年(昭和5年)12月、参謀本部付勤務(ロシア班)となる。同年、ロシア班長の橋本欣五郎が結成した桜会に参加。
高田 正(たかだ ただし、1899年3月26日 - 1947… 高田 正(たかだ ただし、1899年3月26日 - 1947年1月6日)は、日本の裁判官。ゾルゲ事件で裁判長を務めた。 北海道札幌市出身。北海道庁立札幌第一中学校、第一高等学校を経て、1925年に東京帝国大学法学部を卒業。同年司法官試補となり、以後東京地方裁判所判事・検事、対満事務事務官、企画院書記官、司法省刑事局第4課長・第3課長などを歴任。 1942年東京刑事地方裁判所部長判事として、ゾルゲ事件の主犯とされた尾崎秀実とリヒャルト・ゾルゲらの裁判(同裁判所第9部)の裁判長となる。尾崎とは一高・東京帝大を通じて同期生・友人の間柄であったが、高田が尾崎に対して下した判決は死刑であった。高田は判決の後、次のように付け加えたという。
佐藤 貢(さとう みつぎ、1898年〈明治31年〉2月14日… 佐藤 貢(さとう みつぎ、1898年〈明治31年〉2月14日 - 1999年〈平成11年〉9月26日)は、大正時代から昭和時代の北海道の経営者・教育者。位階は正四位。 北海道興農公社の設立に関わり、後身の雪印乳業の初代社長を務めた。また、長らく学校法人酪農学園の理事長を務めた。 札幌市生まれ。北海道庁立札幌第一中学校・ 北海道帝國大學農学部卒業。アメリカのオハイオ州立大学農科大学で細菌学と乳業を学び、1922年(大正11年)に帰国。家業である農業を継ぐ。 1925年(大正14年)、父・善七が設立者の一人であった有限会社北海道製酪販売組合の技師となり、雪印の名で「北海道バター」を製造販売。1940年(昭和15年)から有限会社北海道興農公社の専務を務め、1946年(昭和21年)には経済安定本部勤務。
栗林 友二(くりばやし ともじ、1898年1月3日 - 19… 栗林 友二(くりばやし ともじ、1898年1月3日 - 1977年8月8日)は、日本の実業家・篤志家・馬主。 実業家・政治家の栗林五朔の息子として北海道に生まれる。札幌中学を経て東京帝国大学農学部獣医学科を卒業後、イギリス・ケンブリッジ大学に留学。帰国後は父が興した栗林商船に入社し、後に会長を務めた。本業の傍らで競走馬の馬主としても著名であり「ミスター・ケイバ」と呼ばれ、全日本馬主協会連合会(現・日本馬主協会連合会)会長などを歴任した(後述)。1977年8月8日、肺炎により79歳で死去。 兄は栗林商船や栗林商会社長、政治家などを務めた栗林徳一。弟には南方林業の社長を務めた栗林定四朗がいる。長男・定友は栗林商船、三男・英雄は栗林運輸の社長を務めた。
真田 穣一郎(さなだ じょういちろう、1897年(明治30年… 真田 穣一郎(さなだ じょういちろう、1897年(明治30年)11月21日 - 1957年(昭和32年)8月3日)は、日本の陸軍軍人。 第2総軍参謀副長・陸軍省軍務局長・参謀本部第一部長を歴任し、階級は陸軍少将功四級に至る。 屯田兵、沼貝町長真田嘉七の長男として生まれ、北海道庁立札幌第一中学校(後の北海道札幌南高等学校)・仙台陸軍地方幼年学校・陸軍中央幼年学校を経て1919年(大正8年)5月陸軍士官学校(31期)を卒業。 同年12月、陸軍歩兵少尉に任官され、歩兵第9連隊附を命ぜられる。 1922年(大正11年)12月中尉に進級し、1924年(大正13年)12月26日陸軍大学校(39期)に入校。1927年(昭和2年)12月6日卒業する。
橋本 彦七(はしもと ひこしち、1897年(明治30年)8月… 橋本 彦七(はしもと ひこしち、1897年(明治30年)8月11日 - 1972年(昭和47年)9月12日)は、日本の政治家、技術者。熊本県水俣市長(4期)。日本窒素肥料株式会社(現・チッソ)水俣工場勤務時代、水銀触媒を用いたアセトアルデヒドと酢酸の合成法を発明。1938年(昭和6年)から1946年(昭和21年)まで水俣工場長を務めた。 現在の北海道札幌市に南部家の四男として生まれる。旧制札幌第一中学校卒業後、1916年(大正5年)、東京市日本橋在住の橋本家の養子となる。1919年(大正8年)、東京高等工業学校電気化学科(現・東京工業大学)卒業。同年、日本窒素肥料(現・チッソ)に入社。 1931年(昭和6年)、橋本らは、カーバイトからアセチレンを作り,これを水銀触媒を使ってアセトアルデヒドに変える一連の合成方法を発明し、特許原簿に登録した。
瀬尾 俊三(せお しゅんぞう、1897年4月11日 - 19… 瀬尾 俊三(せお しゅんぞう、1897年4月11日 - 1980年9月17日)は、日本の経営者。雪印乳業社長を務めた。 北海道札幌市出身。札幌第一中学校(現・北海道札幌南高等学校)を経て、1922年に早稲田大学商学部を卒業。東海林太郎とは大学時代に同じ下宿にいた親友。 名古屋銀行での勤務を経て、1926年に北海道酪農販売組合連合会主事に就任し、1938年に専務、1950年6月に雪印乳業専務、1957年5月に副社長を経て、1963年5月に社長に就任。1971年5月に会長を経て、1973年5月には相談役に就任した。 1963年に藍綬褒章を受章し、1967年4月に勲三等瑞宝章を受章。 1980年9月17日、急性肺炎のために死去。
今田 敬一(こんだ けいいち、1896年11月8日 - 19… 今田 敬一(こんだ けいいち、1896年11月8日 - 1981年5月5日)は、日本の画家、童話作家、美術史家、林学者。北海道大学名誉教授。北海道大学では森林気象学関連の研究の他、新島善直の森林美学を継承したと評されている。 画家としては「道展」に創立当時から関わり、1974年には北海道美術協会会長もつとめ、北海道美術界の発展に寄与した。 秋田市で第二子(上に姉があり、長男)として生まれる。父の今田佐吉は養蚕指導者で、父の仕事の都合により1900年から札幌に定住した。北海道師範学校付属小学校(現・北海道教育大学附属札幌小学校)に入学し、水彩画好きな教員の影響を受けて、4-5年生の頃には父に買ってもらった画材により絵を描き始めた。
工藤 良一( くどう りょういち、1896年10月2日 - … 工藤 良一( くどう りょういち、1896年10月2日 - 1959年1月26日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。
上村 伸一(かみむら しんいち、1896年〈明治29年〉6月… 上村 伸一(かみむら しんいち、1896年〈明治29年〉6月15日 - 1983年〈昭和58年〉7月27日)は、日本の外交官。東京帝国大学法科(現在の東京大学法学部)卒業。外務省東亜局第一課長。駐イギリス日本大使館臨時代理大使、トルコ大使などを務めた。著書多数。 千葉県印旛郡佐倉町(現・佐倉市)にて上村蔦松の長男として生まれる。札幌中学、二高を経て東京帝国大学法科へ進学。在学中の1920年(大正9年)10月に文官高等試験外交科(外交官及領事館試験)に合格。1921年(大正10年)、東京帝国大学法科卒業。同年、外務省に入省、牛荘官補に配属。昭和時代の幕開けを革命進行中のソビエト連邦駐在中に迎え、満州事変以降は中国外交の現場で奔走。
阿部 謙夫(あべ しずお、1894年〈明治27年〉4月13日… 阿部 謙夫(あべ しずお、1894年〈明治27年〉4月13日 - 1972年〈昭和47年〉1月2日)は、日本の技術官、実業家。 逓信省、東京市、鉄道省に勤務した後、北海道新聞社社長となり、北海道放送を設立して初代社長を務めた。 阿部宇之八の三男として札幌区に生まれる。札幌区創成尋常小学校、札幌区創成高等小学校、北海道庁立札幌中学校を経て、1911年(明治44年)第一高等学校第二部甲類に無試験検定で入学、1914年(大正3年)同校第二部工科卒業。1917年(大正6年)東京帝国大学工科大学土木工学科卒業。 同年逓信省に入省。翌1918年(大正7年)に九州逓信局水力課長となり、九州各地の河川水を発電に利用するための水量調査を行った。
大須賀 応(おおすか ことを、1894年(明治27年)1月2… 大須賀 応(おおすか ことを、1894年(明治27年)1月25日 - 1945年(昭和20年)3月26日(異説あり。本文参照))は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 北海道札幌郡琴似村大字篠路村(現・札幌市北区屯田)出身。陸軍屯田兵軍曹・大須賀忠夫の子として生まれる。札幌中学を経て、1915年(大正4年)5月、陸軍士官学校(27期)を卒業。同年12月、砲兵少尉に任官し野砲兵第7連隊付となる。1927年(昭和2年)12月、陸軍大学校(39期)を卒業した。 1937年(昭和12年)12月、第16師団参謀として南京攻略戦に参加[要出典]。1938年(昭和13年)7月、砲兵大佐に昇進し野砲兵第22連隊長に就任。
伊藤 豊次(いとう とよじ、1893年(明治26年)6月27… 伊藤 豊次(いとう とよじ、1893年(明治26年)6月27日 - 1962年(昭和37年)11月2日)は、日本の実業家・政治家。北海道札幌市出身。伊藤組土建初代代表取締役社長。北海道庁立札幌中学校卒。 病弱だったため、進学を断念。伊藤組に入社し、同社・支配人田中銀次郎が教育。1920年に外遊し、近代的な土木建築経営を身近に見て翌年帰国。1923年父より家督を相続し、組報第一号刊行。設計部門を置き、鉄筋コンクリート造建築に脱皮を図る。組織も建築部・設計部・木材部・造材部と部制を敷き、さらに、伊藤組土建・伊藤組木材・伊藤組鉄工・伊藤組農林に発展させ設立させる。1946年、北海道多額納税者として貴族院多額納税者議員に互選され、同年10月2日に就任し、同和会に所属し1947年5月2日の貴族院廃止まで在任。
稲田 昌植(いなだ まさたね、1890年(明治23年)8月2… 稲田 昌植(いなだ まさたね、1890年(明治23年)8月28日 - 1968年(昭和43年)11月28日)は、大正時代から昭和時代の農学者、政治家。稲田家17代当主。男爵。北海道帝国大学初代総長佐藤昌介の子で、稲田家16代当主稲田邦植の養子。妻は有馬頼寧の次女久米。
中原 悌二郎(なかはら ていじろう、1888年10月4日 -… 中原 悌二郎(なかはら ていじろう、1888年10月4日 - 1921年1月7日)は、大正期日本を代表する彫刻家の一人。 北海道釧路市の生まれ。1897年に母とともに旭川市に移り、母方の叔父の養子となる。1902年に忠別尋常高等小学校高等科(現・旭川市立日章小学校)を卒業し北海道庁立札幌中学校(現・北海道札幌南高等学校)に入学する。 医師を目指していたが、美術教師の林竹治郎に影響を受けて17歳の時に画家を志し、3年生のとき落第したのを機に札幌中を中退して上京、白馬会研究所・太平洋画会研究所洋画部で学び中村彝と親交を結ぶ。その後荻原碌山の感化によって彫刻に転じ、太平洋画会研究所彫塑部で新海竹太郎に師事。
阿部 良夫(あべ よしお、1888年〈明治21年〉1月6日 … 阿部 良夫(あべ よしお、1888年〈明治21年〉1月6日 - 1945年〈昭和20年〉4月15日)は日本の物理学者、新聞社社長。 阿部宇之八の長男として北海道札幌区に生まれる。北海道庁立札幌中学校から第一高等学校を経て、1912年(明治45年)7月東京帝国大学理科大学理論物理学科を卒業。1913年(大正2年)4月から8月までシーメンス・シュッケルト社(現・シーメンス)技師、1916年(大正5年)4月から早稲田大学高等師範部講師、1920年(大正9年)4月から早稲田大学高等学院教授となり、科学哲学と科学史の研究に精励する。1923年(大正11年)10月辞職。父の死去に伴い、1925年(大正14年)に北海タイムス社理事、1927年(昭和2年)に同社社長となる。
田下 政治(たしも まさじ / せいじ、1886年(明治19… 田下 政治(たしも まさじ / せいじ、1886年(明治19年)6月5日 - 1953年(昭和28年)9月4日)は、日本の政治家。衆議院議員、新潟県南蒲原郡加茂町長。 新潟県南蒲原郡加茂町(現加茂市)で、田下元平の長男として生まれたが、幼くして父が死去し、祖父・五郎七(海産物商・町御用掛)に養育された。1904年、北海道庁立札幌中学校を卒業。1905年、一年志願兵として村松歩兵第30連隊に入隊し、歩兵少尉に昇進して除隊した。 1910年、加茂町収入役に就任。1922年1月、加茂町会議員に当選し、その後、同議長に就任。1923年、新潟県会議員に当選し、同議長も務めた。1940年、大政翼賛会が組織され新潟県参与に就任し、大政翼賛会南蒲原郡協力会議長、県中央協力会議員、加茂町翼賛壮年団長などを歴任。
石橋 智信(いしばし とものぶ、1886年5月15日 - 1… 石橋 智信(いしばし とものぶ、1886年5月15日 - 1947年12月21日)は、日本の宗教学者。
長谷川 昇(はせがわ のぼる、1886年5月11日 - 19… 長谷川 昇(はせがわ のぼる、1886年5月11日 - 1973年8月26日)は、日本の洋画家、日本芸術院会員。 福島県会津若松市生まれ、両親と死別して北海道小樽市の祖父母に養育される。札幌中学校を経て、1905年、東京美術学校西洋画科に入学、黒田清輝に師事した。在学中の1908年、第2回文展に「海辺」が初入選した。1910年(明治43年)に東京美術学校を卒業、第4回文展に「白粉」が入選した。1911から渡欧し、ルノワールらに傾倒した。1915年(大正4年)、帰国して日本美術院洋画部同人となる。再度渡欧し、帰国後の1923年(大正12年)、同志と春陽会を設立した。1937年(昭和12年)、海洋美術会(後に大日本海洋美術協会)の設立メンバーとなる。
中島 九郎(なかじま くろう、1886年3月5日 - 195… 中島 九郎(なかじま くろう、1886年3月5日 - 1959年)は、日本の農学者・経済学者。農学博士。北海道大学名誉教授。札幌短期大学学長事務取扱。佐賀県出身 1910年東北帝国大学農科大学助手、1912年同助教授を経て、1922年北海道帝国大学農学部教授(農政学・農業経済学を担当) この他、北海学院兼任教授も務めた。 大正から昭和前期にかけて農政学の第一人者。農業経済学にも精通。恩師は、上原轍三郎。また、北大史のパイオニアで、『北海道帝國大學沿革史』という北大の通史編集や『佐藤昌介』等の北大著名人の人物伝を執筆した。
梁田 貞(やなだ ただし(てい))、1885年7月3日 - … 梁田 貞(やなだ ただし(てい))、1885年7月3日 - 1959年5月9日)は教育者、作曲家。北海道札幌市出身。
土居 通次(どい みちつぐ、1884年(明治17年)12月2… 土居 通次(どい みちつぐ、1884年(明治17年)12月22日 - 1952年(昭和27年)1月23日)は、日本の内務・警察官僚、政治家。官選徳島県知事、室蘭市長。 堺県堺区(現・大阪府堺市堺区)で土居栄十郎の長男として生まれる。その後、北海道に移り、北海道庁立札幌中学校を卒業。第二高等学校文科を経て、1912年(明治45年)、東京帝国大学法科大学法律学科 (独法)(現・東京大学法学部)を卒業。1913年(大正2年)11月、文官高等試験に合格。内務省に入省し宮城県属となる。 以後、宮城県柴田郡長、同遠田郡長、同牡鹿郡長、茨城県理事官、高知県警察部長、熊本県警察部長、佐賀県警察部長、島根県書記官・内務部長、群馬県書記官・内務部長、福井県書記官・内務部長、滋賀県書記官・内務部長などを歴任。
大久保 偵次(おおくぼ ていじ、1883年(明治16年)6月… 大久保 偵次(おおくぼ ていじ、1883年(明治16年)6月15日 - 1973年(昭和48年)2月10日)は、日本の大蔵官僚。銀行局長時代に帝人事件の被告となるも無罪判決を受けた。関場家の養子となっていたため、前半生では関場偵次と名乗る。 鹿児島県に生まれる。長兄が屯田兵となっていたことから北海道琴似村に移住し、17歳で関場不二彦の養子となった。札幌中学、第一高等学校を経て、東京帝国大学法科大学を卒業。文官高等試験に合格し、大蔵省に入省する。同期生に首席の後藤文夫や、石黒忠篤などがいる。 官歴は大蔵属に始まる。大蔵省事務官、同書記官を経て、仏国、英国各駐剳財務官代理、国際連盟総会随員を歴任。第一次世界大戦終結後の独国による対日賠償に関わった。
安孫子 孝次(あびこ こうじ / たかつぐ、1882年(明治… 安孫子 孝次(あびこ こうじ / たかつぐ、1882年(明治15年)12月16日 - 1973年(昭和48年)3月26日)は、日本の農学者、教育者、政治家。衆議院議員、北海道札幌郡琴似町長。 北海道札幌郡琴似村屯田兵村(現札幌市西区琴似)で旧会津藩士・屯田兵、安孫子倫彦の長男として生まれる。農作業の経験から、寒冷地農業の確立の志を持つようになる。北海道庁立札幌中学校を経て札幌農学校に入学。同校が改称した東北帝国大学農学部を1908年に卒業した。 卒業後、北海道庁地方農事試験場技手として採用され、北見分場長に就任。1910年、北海道庁技師・北海道農事試験場渡島支場長に就任。1927年、北海道農事試験場長となる。
苫米地 義三(とまべち ぎぞう、1880年〈明治13年〉12… 苫米地 義三(とまべち ぎぞう、1880年〈明治13年〉12月25日 - 1959年〈昭和34年〉6月29日)は、日本の実業家、政治家。位階は正三位。運輸大臣(第8代)、内閣官房長官(第3代)、衆議院議員(3期)、参議院議員(1期)、サンフランシスコ講和会議全権委員。 1880年(明治13年)12月25日、青森県上北郡相坂村(藤坂村を経て現在の十和田市)に生まれる。父の金次郎は村の評議員で、明治22年の市町村制施行時は、藤坂村の第1期村会議員にも選ばれた地域の有力者だった。一方で北海道開拓に並々ならぬ関心を抱いており、翌1890年(明治23年)には全財産を担保にして土地を買い、後志国磯谷郡南尻別村大谷地(現在の北海道蘭越町大谷地)に移り住んだ。
安東 昌喬(あんどう まさたか、1880年(明治13年)5月… 安東 昌喬(あんどう まさたか、1880年(明治13年)5月28日 - 1956年(昭和31年)4月7日)は、日本海軍の軍人。最終階級は海軍中将。 岐阜県士族安東吉右衛門の五男として生れる。札幌中学校を経て、1900年12月、海軍兵学校(28期)を卒業し、1902年12月、海軍少尉任官。日露戦争では第15艇隊付として出征し、日本海海戦では「常磐」分隊長であった。砲術練習所で学んだ後、呉海兵団分隊長、「筑波」分隊長、「卯月」艦長、「日進」砲術長、呉鎮守府参謀などを経て、1911年5月、海軍大学校(甲種9期)を首席で卒業した。 イギリス駐在、「香取」砲術長、軍令部参謀、軍令部第1班第1課部員などを歴任。
布施 現之助(ふせ げんのすけ、1880年1月24日 - 1… 布施 現之助(ふせ げんのすけ、1880年1月24日 - 1946年12月12日)は、解剖学者。医学博士。専攻は神経解剖学。
結城弘毅(ゆうき こうき、1878年12月 - 1956年)… 結城弘毅(ゆうき こうき、1878年12月 - 1956年)は、鉄道省(国鉄を当時運営)の局員であった人物。
林 竹治郎(はやし たけじろう、1871年(明治3年) - … 林 竹治郎(はやし たけじろう、1871年(明治3年) - 1941年(昭和16年))は、日本の画家である。「朝の祈り」という名画を描き、北海道美術界の基礎を築いた。ハンセン病患者のために生涯を尽くした医師林文雄の父。 1871年に宮城県に生まれ、仙台師範学校(現宮城教育大学)へ入学した。師範学校在学中の1889年(明治22年)にキリスト教の洗礼を受けた。同年上京して東京美術学校(現東京芸術大学)へ入学し、3年後の1892年(明治25年)東京美術学校の特別課程を卒業すると、1898年(明治31年)9月北海道師範学校の教諭になった。2年後に退職し、札幌第一中学校(現北海道札幌南高等学校)の教諭として28年間美術を教えた。
左乙女 豊秋(さおとめ とよあき、1855年 - 没年不詳)… 左乙女 豊秋(さおとめ とよあき、1855年 - 没年不詳)は、日本の教育者、聖職者。立教学校(現・立教大学)主監、立教中学校初代校長、立教専修学校校長、東京英語専修学校校長、札幌中学校(現・北海道札幌南高等学校)初代校長、私立奈良尋常中学校(奈良英和学校の後身)校長、和歌山県立田辺中学校(現・和歌山県立田辺中学校・高等学校)校長、大阪・英和学舎教授、大阪聖パウロ教会牧師。 1855年(安政2年)6月、名古屋藩生まれ。大阪・英和学舎(立教大学の前身の一つ)出身。英和学舎では、テオドシウス・ティングに学んだ。 その後、英和学舎の教員となるが、ティングやアーサー・ラザフォード・モリス、聖バルナバ病院創設者のヘンリー・ラニングら宣教師らに加え、英文学の第一人者の名声を得ていた清水泰次郎、洋行帰りとして大変珍しがられた山中幸平らの同僚教師とともに英語では他を圧倒した。
池上 重輔(いけがみ じゅうすけ)は、日本の経営学者。早稲田… 池上 重輔(いけがみ じゅうすけ)は、日本の経営学者。早稲田大学大学院経営管理研究科教授。学位は、経営学修士(ケンブリッジ大学)、経営学博士(一橋大学)。 北海道札幌南高等学校を経て、早稲田大学商学部卒業、英国ケンブリッジ大学ジャッジ・ビジネススクール経営学修士(MBA)、英国シェフィールド大学国際関係論修士、英国ケント大学国際政治学修士。2015年一橋大学大学院国際企業戦略研究科より経営学博士(DBA)を取得。主査阿久津聡教授。 ボストン・コンサルティング・グループ、MARS Japanブランドマネジャー、ゼネラル・エレクトリック欧州部門プロダクトマネジャー、ソフトバンクECホールディングス新規事業統括部ディレクター、ニッセイ・キャピタル・チーフ・ベンチャー・キャピタリスト、早稲田大学大学院商学研究科客員助教授等を経て、2015年東洋インキSCホールディングス監査役。
上田 敏也 は、日本の声優、俳優。最終所属は81プロデュース… 上田 敏也 は、日本の声優、俳優。最終所属は81プロデュース。北海道札幌市出身。
小林 さやか は、日本の声優、女優。北海道札幌市出身。 大沢… 小林 さやか は、日本の声優、女優。北海道札幌市出身。 大沢事務所(声優業)・エンパシィ(俳優業)所属。
門山 泰明 (かどやま やすあき、1953年 - )は、日本… 門山 泰明 (かどやま やすあき、1953年 - )は、日本の総務官僚、弁護士。自治大学校長や、総務省大臣官房長、総務省自治行政局長等を経て、一般財団法人日本消防設備安全センター理事長。 北海道札幌南高等学校、東京都立西高等学校(1年次編入)を経て、東京大学法学部第2類(公法コース)卒業。1977年 自治省入省(財政局公営企業第一課)。同年7月 滋賀県総務課。1978年4月 滋賀県企画調整課。1979年3月 自治省大臣官房総務課。1980年4月 自治省行政局行政課。その後は福岡市企画課長、国土庁計画・調整局課長補佐、三重県財政課長、奈良県総務部長、総務省自治行政局行政課長、総務省大臣官房審議官、総務省選挙部長、自治大学校長、総務省大臣官房地域力創造審議官などを経て、2012年9月11日 総務省大臣官房長。
寺谷 広司(てらや こうじ)は、日本の法学者。専門は国際法。… 寺谷 広司(てらや こうじ)は、日本の法学者。専門は国際法。学位は、学士(法学)(東京大学)。東京大学法学部卒業。現在、東京大学大学院法学政治学研究科教授。
本多 平直 は、日本の政治家。現在は衆議院議員政策秘書。妻は… 本多 平直 は、日本の政治家。現在は衆議院議員政策秘書。妻は衆議院議員の西村智奈美。
松浦 克巳(まつうら かつみ)は、日本の大蔵・財務官僚。 北… 松浦 克巳(まつうら かつみ)は、日本の大蔵・財務官僚。 北海道網走市生まれ。北海道札幌南高等学校を経て、1988年 東京大学法学部卒業、大蔵省入省。内閣官房長官秘書官などを務めた。ハーバード大学留学。1992年7月 大蔵省主税局調査課外国調査第一係長。1994年7月10日 尾道税務署長。1995年 国際通貨基金派遣。1998年 大蔵省理財局資金第一課資金企画室課長補佐。1999年 理財局総務課課長補佐(総合資金・資金調整・調査)。2001年 財務省主税局税制第二課課長補佐(法人税)。2006年 財務省理財局総務課調査室長。2008年 財務省主計局司計課予算執行調査室長。2011年 財務省主計局主計官(防衛係担当)。
龜徳 正之 は、日本の大蔵官僚。財務参事官、大臣官房長、国税… 龜徳 正之 は、日本の大蔵官僚。財務参事官、大臣官房長、国税庁長官などを歴任。
香城 敏麿 は、日本の裁判官。主に刑事裁判を担当し、福岡高等… 香城 敏麿 は、日本の裁判官。主に刑事裁判を担当し、福岡高等裁判所長官を歴任した。
荒川 勝利 は、日本の経営者。共栄火災海上保険社長、会長を務… 荒川 勝利 は、日本の経営者。共栄火災海上保険社長、会長を務めた。
河原崎 篤 は、日本の経営者。三井鉱山社長、会長を務めた。福… 河原崎 篤 は、日本の経営者。三井鉱山社長、会長を務めた。福岡県大牟田市出身。