スポーツ選手、俳優、学者、実業家、芸能人など各界で活躍する人物情報に加え、外の言語(多言語)で紹介されている内容や、その人物にゆかりのある地の観光資源データを集めました。
湊 栄吉(榮吉、みなと えいきち、1894年(明治27年)4… 湊 栄吉(榮吉、みなと えいきち、1894年(明治27年)4月14日 - 1978年(昭和53年)12月2日)は、日本の政治家。1959年から1971年まで富山市長を3期務めた。位階は正五位。 富山県上新川郡東岩瀬町(現富山市東岩瀬町)出身。富山県立富山中学校(現富山県立富山高等学校)卒業。1929年(昭和4年)富山市議会議員に初当選、以後富山市議会議員(3期)、富山県議会議員(3期、自由党(現自由民主党)公認、1952年から1954年まで富山県議会議長)、自由党県連幹事長を歴任。 1959年(昭和34年)富山市長に当選就任。以後1971年まで3期にわたり市長を務めた。 全国市長会理事、加越能鉄道(現加越能バス)取締役、立山黒部貫光取締役を歴任。
高木 常七(たかぎ つねしち、1893年〈明治26年〉3月1… 高木 常七(たかぎ つねしち、1893年〈明治26年〉3月15日 - 1975年〈昭和50年〉8月15日)は、日本の裁判官。最高裁判所判事。富山県出身。 富山中学校を経て、1916年(大正7年)に早稲田大学法科を卒業。1917年(大正8年)7月にいったん検事となるが、1923年(大正12年)6月に弁護士に転身した。 1946年(昭和21年)2月に法曹一元制度のため、岩田宙造司法大臣に口説かれ、静岡地裁所長となる。その後、横浜地裁所長、東京家裁初代所長、札幌高裁長官、広島高裁長官、名古屋高裁長官を歴任。 1958年(昭和33年)6月に最高裁判所裁判官となる。八海事件の第二次上告審では有罪説を取る破棄差戻しの多数意見に反対し、無罪説の上告棄却の少数意見を述べた。
井本 政信(いもと まさのぶ、1891年 - 1957年)は… 井本 政信(いもと まさのぶ、1891年 - 1957年)は、日本の造園家。政治家。明治神宮造営局に奉職、ついで造園の内務技師として横浜市の震災復興三公園、兵庫県立明石公園の建設に関わったほか、郷里で町長となって地方自治にも参画する。 富山県上新川郡水落村の阿波加家に生まれ富山中学・旧制第四高等学校(金沢市)卒業後、富山県婦負郡四方町の井本三信家を継ぎ同家のあやと結婚。1919年東京帝国大学農科大学で造園・土木を専攻・卒業。師である原熙の推挙により、明治神宮造営局に奉職し内外苑、殊に御苑(通称、神宮御苑)の造園を担当した。大名下屋敷の庭園から代々木御苑となり、昭憲皇太后がしばしば行啓し、明治天皇が御茶屋「隔雲亭」・あずまや・お釣台を設け、菖蒲田を昭憲皇太后のため植えさせられたという名園で、最奥に清正井と呼ぶ泉が湧いており、武蔵野の昔を偲ばせ訪う人が多い。
亀谷 凌雲(かめがい りょううん、1888年4月9日 - 1… 亀谷 凌雲(かめがい りょううん、1888年4月9日 - 1973年3月16日)は、元浄土真宗の僧侶(住職)で、後にキリスト教(プロテスタント)に改宗して牧師になった人物。日本基督教団富山新庄教会を設立した。 1888年(明治21年)富山県新庄町(現、富山市荒川)の浄土真宗大谷派正願寺の住職の息子として生まれた。親鸞の直系である蓮如から、18代の末裔である。 十七代目住職である父が2歳の時、山崩れのため大水が出て、家族は助かったが、寺は流され無一文になった。父は無理をして新庄町に寺を再建したが、借金を負い、檀家も少なくなって生活は貧しかった。 僧侶となる教育を受けて、富山中学校卒業後、第四高等学校 (旧制)で、倫理の時間に西田幾多郎よりキリスト教の説明を聞いたが、その時はよくわからず仏教の信仰を熱心に求めていた。
岡崎 文夫(おかざき ふみお、1888年(明治21年)2月2… 岡崎 文夫(おかざき ふみお、1888年(明治21年)2月23日 - 1950年(昭和25年)3月24日)は、富山県生まれの東洋史学者。字は煥卿、号は桜洲。東北大学文学部教授。 江戸時代から続く鵜坂村(現・富山市西本郷)の豪農で、代々富山藩の十村役を務めた名家・岡崎家の十六代として1888年に生まれた。1905年、旧制富山中学校(現:富山県立富山高等学校)を卒業し、第四高等学校に進んだ。京都帝国大学文科大学史学科に入学し、内藤湖南に師事。1912年に卒業した。同大学大学院に進学し、在学中の1919年から1921年まで上野育英会の資金補助を受けて中国に留学した。 帰国後、東北帝国大学における東洋史学専攻講座の開設にあたった。
翁 久允(おきな きゅういん、1888年2月8日-1973年… 翁 久允(おきな きゅういん、1888年2月8日-1973年2月14日)は、日本の作家、ジャーナリスト。幼名信(ノブ)、筆名六渓、号太稚、稚翁、稚仙。 富山県上新川郡六郎谷(ろくろだん)村壱番地(現在の中新川郡立山町六郎谷)に漢方医の父・翁源指(げんし)(文久元年3月6日生)、母・フシイ(慶應2年1月3日生)の次男として誕生。富山中学校(現在の富山県立富山高等学校)に入学して校友会月刊誌や雄弁会で文才を発揮する。3年生のときに寄宿舎の舎監に反抗して糞を床に撒く事件を起こして新聞沙汰となり、知事や県議会も巻き込む騒ぎとなったため、首謀者ではなかったものの放校処分に遭う(しかし同窓会名簿には第19回卒業生として記載されている)。
三辺 長治(みなべ ちょうじ、1886年(明治19年)12月… 三辺 長治(みなべ ちょうじ、1886年(明治19年)12月23日 - 1958年(昭和33年)4月27日)は、日本の内務官僚。官選府県知事、東京市助役。 富山県上新川郡飯野村(のち広田村飯野、現在・富山市)出身。三辺長三郎の三男として生まれる。富山中学、第四高等学校を経て、1911年7月、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業し、内務省に入り埼玉県属となる。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格し、内務属となり警保局に配属。その後、大正3年(1914年)に愛媛県視学官、大正5年(1916年)に大阪府視学官、大正8年(1919年)に内務省地方局事務官となり、地方局市町村課長・都市課長・行政課長などを歴任。
安井 藤治(やすい とうじ、1885年〈明治18年〉10月1… 安井 藤治(やすい とうじ、1885年〈明治18年〉10月11日 - 1970年〈昭和45年〉7月8日)は、明治期から昭和期の陸軍軍人、政治家。従三位勲一等。陸軍中将まで昇った後、鈴木貫太郎内閣の国務大臣(無任所)を務めた。 富山県出身。商業・安井藤蔵の長男として生まれる。富山中学校、名古屋陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1905年(明治38年)11月、陸軍士官学校(第18期)920名中を首席卒業。同期生には、陸軍大将になった山下奉文、岡部直三郎、阿南惟幾、山脇正隆、藤江恵輔等がいる。 1906年(明治39年)6月、歩兵少尉に任官し、石川県金沢市野田村に駐屯する歩兵第35聯隊附となる。 1913年(大正2年)11月、陸軍大学校(第25期)を優等で卒業。
田部 重治(たなべ じゅうじ、1884年〈明治17年〉8月4… 田部 重治(たなべ じゅうじ、1884年〈明治17年〉8月4日 - 1972年〈昭和47年〉9月22日)は、日本の英文学者・登山家。 富山県富山市長江(旧:富山県上新川郡山室村)生まれ。田部家と養子縁組したが旧姓は南日で、長兄の英語教育者南日恒太郎、次兄の英文学者田部隆次、と共に南日三兄弟と呼ばれる。玄孫に建築家の永山祐子がいる。 1897年富山中学校入学(14回生)、1902年には四高(現金沢大)入学を経て、1905年9月に東京帝国大学英文科入学。在学中に夏目漱石や上田敏らに師事し、中勘助らと級友となります。大学卒業後、海軍経理学校、東洋大学、法政大学などで講義をする。研究対象は19世紀の英文学で、ウォルター・ペイター、ウィリアム・ワーズワースなどを研究した。
山崎 定義(やまざき さだよし、1883年(明治16年)2月… 山崎 定義(やまざき さだよし、1883年(明治16年)2月1日 - 1971年(昭和46年)6月4日)は、日本の陸軍軍人、政治家。最終階級は陸軍中将。富山市長。 富山県上新川郡富山千石町(現富山市)で、旧富山藩士、陸軍大尉・山崎定孝、敏(とき)夫妻の長男として生まれたが、生後11ヵ月で父が病のため死去した。啓迪高等小学校(その後、八人町小学校を経て現富山市立芝園小学校)を経て、富山県立富山中学校に進み、三年次に名古屋陸軍地方幼年学校を受験して合格。中央幼年学校を経て陸軍士官学校(15期)に進み、1903年11月30日、同校を卒業して金沢歩兵第35連隊に勤務。1904年2月12日、陸軍歩兵少尉に任官。
島田 七郎右衛門(しまだ しちろうえもん、1883年1月17… 島田 七郎右衛門(しまだ しちろうえもん、1883年1月17日 - 1962年7月25日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)。 富山県出身。1901年、富山県立富山中学校(現・富山県立富山高等学校)卒。日露戦争に従軍、陸軍歩兵中尉となる。三等郵便局長、福岡町(現・高岡市)議、同町長、富山県議、西砺波郡農会長、富山県農会長、同山林会副会長、福岡信用組合理事長、北陸製絹、高岡新報、中越土木、笹川窯業、高岡電燈、岡吉商事、大岩電気、飛越電気、戸出物産各(株)重役を務める。 1930年の第17回衆議院議員総選挙で富山2区(当時)から立憲政友会公認で立候補したが落選。1932年の第18回衆議院議員総選挙で初当選。
細野 長良(ほその ながよし、1883年(明治16年)1月7… 細野 長良(ほその ながよし、1883年(明治16年)1月7日 - 1950年(昭和25年)1月1日)は、日本の裁判官、弁護士。最後の大審院院長を務めた。 富山県立富山中学校(後の富山県立富山高等学校)中退、旧制第六高等学校卒業。1908年、京都帝国大学法学部卒業。1918年、東京控訴院判事。広島控訴院院長の時に1944年2月の東條演説事件に対して、司法権独立の侵害と憲法違反に抗議する意見書を提出した。 1946年2月に第23代大審院長に就任。これは岩田宙造司法大臣による人事であり、細野は岩田大臣と司法権独立で意気投合していた。細野は日本の司法改革に意欲を持つGHQ民政局司法法制課課長のアルフレッド・C・オプラーとも意気投合した。
高松 梅治(たかまつうめじ、うめはる、明治15年1882年1… 高松 梅治(たかまつうめじ、うめはる、明治15年1882年12月〜)とは、日本の軍人、学者、発明家である。無限軌道を発明したことで知られる。 富山県新川郡新保村(現・富山市栗山)に高松清重の子として生まれる。中学のころ井上円了に学び、慶應義塾に入学、明治40年(1907年)に同校法科を卒業。 巣鴨・板橋(白山)間を走る乗合馬車(通称・ガタ馬車)に乗った妊婦がその激しい揺れにより車上流産したを知り、滑らかに回転させるものとして無限軌道の研究を始め、13年の試行錯誤の末、明治44年(1911)に欧米8か国に特許申請し、国内では農商務省の特許を取得した(発明自体は1899年とする説、1907年ごろとする説あり)。
牛塚 虎太郎(うしづか とらたろう、1879年(明治12年)… 牛塚 虎太郎(うしづか とらたろう、1879年(明治12年)4月28日 - 1966年(昭和41年)11月1日)は、東京市長および衆議院議員を歴任した官僚、政治家。
石川 日出鶴丸(いしかわ ひでつるまる、1878年(明治11… 石川 日出鶴丸(いしかわ ひでつるまる、1878年(明治11年)10月5日 - 1947年(昭和22年)11月8日)は、医師。専門は生理学、鍼灸治療。 1878年(明治11年)、代々医家を営む石川昌徹の五男として石川県射水郡小白石村(後に富山県小杉町を経て、現在の射水市)に生まれた。1888年(明治21年)、10歳の時に父を亡くす。富山県尋常中学校(現・富山県立富山高等学校)、旧制第四高等学校を卒業し、東京帝国大学医学部に進んだ。1903年(明治36年)、東京帝国大学医学部を卒業。 卒業後は、1904年(明治37年)より京都帝国大学医科大学生理学教室の天谷千松の下で研究を続けた。1905年、京都帝国大学医学部助教授となった。
岩城 準太郎(いわき じゅんたろう、1878年3月12日 -… 岩城 準太郎(いわき じゅんたろう、1878年3月12日 - 1957年4月9日)は、日本の国文学者。 富山県上新川郡大広田村字大村(現富山市)出身。富山県尋常中学校(現富山県立富山高等学校)、第四高等学校を経て、1902年東京帝国大学文学部国文科卒。三重県立第一中学校教師、第四高等学校教授、1916年奈良女子高等師範学校(現奈良女子大学)教授。1906年『明治文学史』を刊行し、明治文学史を初めて文学史の対象とした。おもな著作に「明治大正の国文学」「新修日本文学史」などがある。
二上 兵治(ふたがみ ひょうじ / へいじ、1878年(明治… 二上 兵治(ふたがみ ひょうじ / へいじ、1878年(明治11年)2月25日 - 1945年(昭和20年)11月19日)は、日本の官僚、政治家。枢密院書記官長、行政裁判所長官、貴族院議員、枢密顧問官等を歴任した。法学博士。 石川県射水郡高岡縄手中町(現富山県 高岡市)で、酒造業・二上兵太郎の長男として生まれる。富山県尋常中学校(現富山県立富山高等学校)、第四高等学校(首席)を経て、1904年(明治37年)7月11日、東京帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業、成績優秀のため銀時計を授与された。逓信省に入省し、同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。 以後、東京郵便局郵便課長、逓信省通信局外信課長、同参事官兼逓信書記官・通信局外信課長、兼大臣官房秘書課長などを歴任。
木間瀬 策三(きませ さくぞう、1876年〈明治9年〉9月9… 木間瀬 策三(きませ さくぞう、1876年〈明治9年〉9月9日 - 1956年〈昭和31年〉12月10日)は、明治末から昭和期の内務官僚、実業家。官選富山県知事。 千葉県出身。従五位勲五等の官吏木間瀬柔三の五男として生まれる。富山中学校で中学1年に在学。第一高等学校を卒業。1900年(明治33年)東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入省し宗教局属となる。 以後、三重県事務官、愛知県事務官、千葉県事務官・第二部長、茨城県事務官・第四部長、同県事務官・警察部長、同県事務官・内務部長、新潟県内務部長、大阪府内務部長などを歴任。 1915年(大正4年)8月12日、富山県知事に就任。
志田 義秀(しだ ぎしゅう、1876年7月27日 - 194… 志田 義秀(しだ ぎしゅう、1876年7月27日 - 1946年1月17日)は、日本の国文学者・俳人。学位は、文学博士(1937年)(学位論文「問題の点を主としたる芭蕉の伝記の研究」)。元東洋大学教授。連歌俳諧研究、説話研究、歌謡研究、辞典の編纂など、多方面に業績を残した。 富山県上新川郡出身。旧姓は藤井。俳号は素琴。富山中学校[要出典]、第四高等学校を経て[要出典]、1903年東京帝国大学文学部国文科卒。第六高等学校教授、1925年旧制成蹊高等学校教授、東洋大学教授。1937年「問題の点を主としたる芭蕉の伝記の研究」で文学博士の学位を取得。日本で初めて俳文学によって文学博士の学位を取得した[要出典]。
6代 木津 太郎平(きづ たろへい、1875年(明治8年)1… 6代 木津 太郎平(きづ たろへい、1875年(明治8年)12月14日 - 1950年(昭和25年)7月8日)は、明治時代後期から昭和時代前期の政治家、実業家。衆議院議員。富山県高岡市長。富山県多額納税者。幼名は清太郎。号・蒼石、杉雨。 新川県射水郡高岡上川原町(石川県、富山県射水郡高岡上川原町を経て現・高岡市川原本町)で、先代・太郎平の長男として生れ、1903年(明治36年)3月に家督を相続し、幼名を改め、6代太郎平を襲名した。富山県立富山中学校(現富山県立富山高等学校)を卒業後、志願兵として従軍し陸軍歩兵中尉に任官する。日露戦争の功により功五級金鵄勲章および日独戦争の功により勲四等を叙勲される。
田部 隆次(たなべ りゅうじ、1875年(明治8年)10月2… 田部 隆次(たなべ りゅうじ、1875年(明治8年)10月20日 - 1957年(昭和32年)12月20日)は、日本の英文学者。 富山県の南日家に生まれ、生後まもなく田部家の養子となる。兄に英語教育者の南日恒太郎、弟に別の田部家へ養子に入った英文学者の田部重治がいる。村松剛・村松英子の母方の祖父。村松えりの曾祖父。 富山中学校、早稲田大学専門部を経て、東京帝国大学英文科でラフカディオ・ハーンに学び、後年ハーンの研究を行った。女子学習院教授を務め、第一書房の『小泉八雲全集』を大谷正信らと共訳した。 1921年学習院大学教授をしていた時に、近所付合いをしていた小泉一雄(ラフカディオ・ハーンと妻セツの長男)に見送られて横浜から一年間の留学に発った。
山田 孝雄(やまだ よしお、1875年〈明治8年〉8月20日… 山田 孝雄(やまだ よしお、1875年〈明治8年〉8月20日 - 1958年〈昭和33年〉11月20日)は、日本の国語学者、国文学者、歴史学者。東北帝国大学教授を歴任。文化勲章受章。 独学の人として知られる。「契沖、真淵、宣長以来の国学の伝統に連なる最後の国学者」とも評される。 1873年、富山県富山市総曲輪(そうがわ)に於保多神社宮司山田方雄の次男として生れる。父は前田利保に歌を学んだ連歌の宗匠でもあった。履新小学校卒業。富山県尋常中学校を中退後、独学で小、中学校教員検定試験(文検)に合格。富山県内の小学校や兵庫、奈良、高知などの中学校で教員を務める。 1907年(明治40年)文部省国語調査委員会補助委員、1920年(大正9年)日本大学講師、1921年(大正10年)日本大学文学部国語科主任、1925年(大正14年)東北帝国大学講師、1927年(昭和2年)同教授に昇格。
石坂 豊一(石坂 豐一、いしさか とよかず、1874年〈明治… 石坂 豊一(石坂 豐一、いしさか とよかず、1874年〈明治7年〉5月3日 - 1970年〈昭和45年〉5月5日)は、日本の政治家。位階は従三位、勲等は勲一等。富山市長、衆議院議員(5期)、参議院議員(2期)。 1874年富山県新川郡大崎野村(上新川郡東加積村、中新川郡東加積村、滑川町を経て現・滑川市大崎野)に10人兄弟の末っ子として生まれる。中学進学は家計上困難だったが、姉の力添えで1892年に富山県尋常中学校(現・富山県立富山高等学校)を卒業。同期に山田孝雄。税関監吏補試験に合格して神戸税関に勤務しながら京都の同志社で学ぶ。1897年に中退して帰郷し、郡書記、富山県属、婦負郡長などを務め、上司だった永井金次郎が樺太庁長官に就任したのを機に招聘され、樺太庁長官官房主事兼地方課長を歴任する。
荒井 建三(あらい けんぞう、1873年〈明治6年〉9月15… 荒井 建三(あらい けんぞう、1873年〈明治6年〉9月15日 - 1956年〈昭和31年〉7月22日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員(1期)。旧姓・正村。 新川県射水郡高岡町源平町(現富山県高岡市)で、実業家・正村義平の三男として生まれ、1887年(明治20年)実業家・荒井荘蔵の養子となる。富山県尋常中学校(現富山県立富山高等学校)を経て、1897年(明治30年)専修大学卒。高岡市参事会員、富山県議、同議長、高岡商業会議所会頭、高岡紡績(株)常務取締役、高岡銀行、高岡商業銀行、高岡電燈、山又機業、オリエンタル写真工業各(株)取締役、北陸信託(株)、高岡信用組合各社長、日本米穀(株)高岡市場参与となる。
南日 恒太郎(なんにち つねたろう、明治4年9月30日(18… 南日 恒太郎(なんにち つねたろう、明治4年9月30日(1871年11月12日) - 昭和3年(1928年)7月20日)は、明治から大正にかけての教育者・英文学者。旧制富山高等学校初代校長。 富山県富山市長江生まれ。実弟には田部隆次(英文学者)、田部重治(英文学者・登山家)がおり、英文学の南日三兄弟と呼ばれた。 恒太郎は努力家で学業が優秀だった。富山県尋常中学校(現富山県立富山高等学校)在学中の明治23年10月、文部大臣森有礼が来校し、突然英語で質問した際にも明快に答えたという。 1885年(明治18年)9月富山県尋常中学校に入学し、同期の南弘(官僚・富山県初の大臣)や蟹江義丸(哲学者)らと学び、旧制第四高等学校(現金沢大学)進学を目指したが、南弘と共に県に建白書を出してストライキに加担したこと、重い眼病になったことなどから中退し、5年で退学。
横山 源之助(よこやま げんのすけ、明治4年2月21日〈18… 横山 源之助(よこやま げんのすけ、明治4年2月21日〈1871年4月10日〉- 大正4年〈1915年〉6月3日)は、富山県中新川郡魚津町(現在の魚津市)出身のジャーナリスト。号は天涯茫々生。他に有磯逸郎・無膓・夢蝶・漂天痴童・樹下石上人といった筆名を用いた。 魚津の網元の家に私生児として生まれ、すぐに左官職人の横山伝兵衛の養子となる。1881年、魚津明理小学校を卒業後、商家(醤油醸造業)に住み込み奉公をしながら独学し、1885年に富山県立富山中学校に1期生として入学する。しかし2年生の時に中退、代言人(弁護士)を目指して上京し、英吉利法律学校(現在の中央大学)に学ぶ。その後、弁護士試験を数度にわたって受験するが合格できず、各地を放浪する。
南 弘(みなみ ひろし、1869年11月13日〈明治2年10… 南 弘(みなみ ひろし、1869年11月13日〈明治2年10月10日〉- 1946年〈昭和21年〉2月8日)は、日本の官僚・政治家。 後の富山県氷見市仏生寺の豪農岩間覚平の次男・鉄郎として生まれる。岩間家は3代にわたり県会議員を輩出した名望家で、広大な屋敷地や山林を所有していた。生家の近くに御田神社があり、幼少時よりその宮司平井正承の教えを受けた。その後仏生寺小学校、富山中学校、第四高等学校に進み、1896年(明治29年)に東京帝国大学法科大学政治学科を卒業、文官高等試験に合格し官僚となった。 その後、同県高岡の旧家出身で第2代富山県会議長を務めた南兵吉の養子となり、その長女・操と結婚した際、「弘」と改名した。
伊東 祐賢(いとう すけたか、1869年3月5日〈明治2年1… 伊東 祐賢(いとう すけたか、1869年3月5日〈明治2年1月23日〉- 1945年〈昭和20年〉1月25日)は、明治後期から昭和前期の実業家、政治家。衆議院議員、富山県下新川郡泊町長。幼名・柳太郎。 越中国新川郡沼保村(富山県下新川郡泊町沼保を経て現朝日町沼保)で、温泉業・伊東次郎左衛門祐明の長男として生まれる。祐明の養子・祐寛の相続人となり1891年(明治24年)家督を相続した。岡田信之に師事し漢籍を修めた。富山県尋常中学校(現富山県立富山高等学校)を卒業し、上京して専修学校(現専修大学)で経済学を学んだ。 家業の小川温泉の経営を行う。1912年(明治45年)の大洪水で小川温泉が多大な損害を受けたため、移転も検討されたが泊町での再建が決定され、1913年(大正2年)7月、小川温泉株式会社が設立され社長に就任した。
大橋 十右衛門(十右衞門、おおはし じゅうえもん、1858年… 大橋 十右衛門(十右衞門、おおはし じゅうえもん、1858年4月14日(安政5年3月1日)- 1940年(昭和15年)2月2日)は、明治から昭和前期の農業経営者、政治家、漢詩人。衆議院議員、富山県会議長。号・二水(にすい)、鹿陽(ろくよう)。 越中国射水郡掛開発村(富山県射水郡掛開発村大字掛開発村を経て現高岡市)で、町年寄・鷲塚屋七右衛門の息子として生まれた。1879年(明治12年)京都の草場船山に師事し漢文学を修めた。その後、東京で英学を学び、犬養毅らと交友した。 1881年(明治14年)帰郷して海内果から示唆を受け、高岡町片原横町に中等教育塾・越中義塾を設立して教育を行うが、1883年(明治16年)旧制富山中学校(現富山県立富山高等学校)が開校して生徒数が減少し、1884年(明治17年)に塾を閉じた。
田作 健一 (たさく けんいち) は日本の実業家。クリエイテ… 田作 健一 (たさく けんいち) は日本の実業家。クリエイティブフィナンシャルマーケティング株式会社(Creative Financial Marketing Co.,ltd.)の取締役マネジング・ディレクター。データベース・マーケティングの専門家。空間ディスプレイ・クリエイター。地域物産店舗「越中國富山縣陣屋」統括運営者。 富士銀行(現・みずほフィナンシャルグループ)で事業金融やベンチャー企業の発掘などに携わった後、アメリカのPOSレジ・マーケティング会社であるカタリナマーケティングコーポレーション(Catalina Marketing Co.,ltd.)の日本法人のスタートアップに加わり、日本におけるビッグデータ解析の草創期において小売業・外食産業などの購買POSデータを独自の数理モデルと分析手法を用いて体系化した。
開 祐司(ひらき ゆうじ)は日本の科学者、元京都大学ウイルス… 開 祐司(ひらき ゆうじ)は日本の科学者、元京都大学ウイルス・再生医科学研究所所長、教授(生体分子設計学分野)。 再生医学において業績を残している。
中田 榮一(中田 栄一、なかた えいいち、生年不詳 - 20… 中田 榮一(中田 栄一、なかた えいいち、生年不詳 - 2008年9月10日)は、日本の地理学者、歴史学者、教育者。立教大学教授、帝京大学教授、歴史地理学会名誉会員。 富山県出身。富山高等学校 (旧制)に入学し、石井逸太郎に学ぶ。 その後、京都帝国大学で地理学を専攻して卒業。京都帝国大学では高山岩男に師事し、歴史地理学への関心を高めた。 大学卒業後、東京小金井の国民精神文化研究所の助手となる。 2年ほど勤務した後、第二次大戦前に立教大学予科に務めると、予科教授となり、後に立教大学文学部助教授を経て、同教授を務めた。 1954年4月に、史学科で地理学を担当していた中田の誘いを受けて別技篤彦が立教大学史学科教授に赴任する。
石本 沙織 は、日本のフリーアナウンサー。元フジテレビアナウ… 石本 沙織 は、日本のフリーアナウンサー。元フジテレビアナウンサー。富山県出身。
木地 智美 は、日本のフリーアナウンサー。気象予報士、防災士… 木地 智美 は、日本のフリーアナウンサー。気象予報士、防災士である。
瀧川 修(たきかわ おさむ)は、日本の生物学者・生理学者(機… 瀧川 修(たきかわ おさむ)は、日本の生物学者・生理学者(機能生物化学・薬理学一般・病態医化学)。学位は医学博士(京都大学・1983年)。国立研究開発法人日本医療研究開発機構戦略推進部脳と心の研究課調査役。姓の「瀧」が常用漢字表に収録されていないため、滝川 修(たきかわ おさむ)と表記されることもある。 和歌山県立医科大学医学部助手、財団法人大阪バイオサイエンス研究所研究員、北海道大学医学部助教授、国立長寿医療センター研究所ラジオアイソトープ管理室室長、独立行政法人国立長寿医療研究センター研究所ラジオアイソトープ管理室室長などを歴任した。 富山県富山市出身。地元の富山県立富山高等学校を卒業した。
深井 ゆきえ は、日本のフリーアナウンサー・日本オーガニック… 深井 ゆきえ は、日本のフリーアナウンサー・日本オーガニック推進協議会認定講師。元ミヤギテレビアナウンサー。3人姉妹の次女。