スポーツ選手、俳優、学者、実業家、芸能人など各界で活躍する人物情報に加え、外の言語(多言語)で紹介されている内容や、その人物にゆかりのある地の観光資源データを集めました。
重政 誠之(しげまさ せいし、1897年3月20日 - 19… 重政 誠之(しげまさ せいし、1897年3月20日 - 1981年6月3日)は、日本の農商務官僚、政治家。元衆議院議員。従三位勲二等旭日重光章。参議院副議長を務めた重政庸徳は兄で、安倍源基は親戚。 広島県深安郡神辺町(現福山市)に生まれる。広島県立福山中学(現・広島県立福山誠之館高等学校)、第六高等学校 (旧制)を経て東京帝国大学法学部を卒業後、1923年、農商務省に入省。小磯内閣の農商次官、農業報国会理事、東久邇宮内閣の農林次官を歴任、商工省の岸信介とともに官僚の双璧と言われた。戦後は占領軍に公職追放された。1948年9月10日には昭和電工疑獄事件で嫌疑がかけられ逮捕され、一部無罪となるものの懲役1年・執行猶予1年が確定した。
小林 和一(こばやし わいち、1895年(明治28年)11月… 小林 和一(こばやし わいち、1895年(明治28年)11月25日 - 1968年(昭和43年)6月1日)は、日本の政治家、地方公務員。第5代福山市長。 広島県福山町(現・福山市地吹町)に生まれる。1915年(大正4年)、広島県立福山誠之館中学校(現・広島県立福山誠之館高等学校)卒業。深安郡書記、大阪北区職員を勤めたあと、関西法律学校(現・関西大学)に入り、同校を卒業した。 1919年(大正8年)7月、福山市は大水害に見舞われる。帰郷を決意し、福山市役所に奉職。庶務課長、税務課長、収入役などを歴任した。 1939年(昭和14年)1月、助役に選任される。小林壽夫市長の懐刀と言われた。1944年(昭和19年)9月26日、三菱鉱業取締役会長などを務めた三谷一二が第6代市長に就任。
唐川 安夫(からかわ やすお、1895年〈明治28年〉11月… 唐川 安夫(からかわ やすお、1895年〈明治28年〉11月19日 - 1977年〈昭和52年〉7月29日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 福山中学校、広島陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1917年(大正6年)5月、陸軍士官学校(29期)を卒業。同年12月、砲兵少尉に任官し野砲兵第1連隊付となる。陸軍砲工学校高等科を卒業し、さらに1927年(昭和2年)12月、陸軍大学校(39期)を卒業した。 野砲兵第1連隊中隊長、参謀本部付勤務、参謀本部員、イタリア駐在、陸軍兵器本廠付、陸軍重砲兵学校教官、参謀本部員を経て、1938年(昭和13年)6月から翌年3月まで大本営謀略課長を務めた。イタリア大使館付武官、参謀本部欧米課長、参謀本部謀略課長を歴任し、日中戦争に第13軍参謀長として出征。
徳永 豊(とくなが ゆたか、1895年(明治28年)5月1日… 徳永 豊(とくなが ゆたか、1895年(明治28年)5月1日 - 1976年(昭和51年)1月4日)は、日本の政治家、弁護士、画家。第7代福山市長(4期)。位階は従四位。 広島県深安郡福山町(現・福山市霞町)に生まれる。1914年(大正3年)3月、広島県立福山誠之館中学校(現・広島県立福山誠之館高等学校)卒業。1915年(大正4年)4月、第一高等学校入学。1921年(大正10年)に東京帝国大学法学部を卒業し、三菱造船(現・三菱重工業)に入社。本社総務部に配属される。翌1922年(大正11年)、病のため三菱造船を退職、療養生活に入る。 1926年(大正15年)、広島県福山師範学校の教師となる。1930年(昭和5年)、退職。
重政 庸徳(しげまさ ようとく、1895年1月15日 - 1… 重政 庸徳(しげまさ ようとく、1895年1月15日 - 1977年9月28日)は日本の政治家。元参議院副議長。衆議院議員の重政誠之は弟。正三位勲一等。 広島県深安郡神辺町出身。広島県立福山中学(現広島県立福山誠之館高等学校)から第五高等学校を経て東京帝国大学農学部卒業後、1923年農林省入省。岡山農地事務局長などを歴任した後1953年第3回参議院議員通常選挙で初当選。1962年に参議院副議長に就任。1967年、副議長在任時に重政の秘書が参議院副議長室を舞台に、暴力団幹部に対し拳銃を不法売買したという「国会内短銃密売事件」で逮捕されたため、2月2日に参議院本会議で議員辞職勧告決議が上程される。決議は否決されたが、重政は本会議場で自民党籍の離を脱し登院を控え謹慎することを表明し、謹慎は77日間になった。
福原 麟太郎(ふくはら りんたろう、1894年10月23日 … 福原 麟太郎(ふくはら りんたろう、1894年10月23日 - 1981年1月18日)は、日本の英文学者、随筆家、翻訳家。福山市名誉市民。 1894年、広島県沼隈郡神村(現・福山市)で生まれた。1912年、広島県立福山中学校(現・福山誠之館高校)を卒業し、東京高等師範学校英語科に進学した。在学中、G・K・チェスタトンの推理小説を訳し、『英語青年』に掲載。1917年に卒業。 1917年9月から翌1918年3月まで、静岡県立静岡中学校に英語教諭として赴任。1920年、東京高等師範学校研究科を修了。この間、『英語青年』の編集に携わった。 1921年、母校の東京高等師範学校助教授に就いた。著書、訳註を何冊か刊行した後、1929年に文部省在外研修員としてイギリス・ロンドン大学とケンブリッジ大学に留学し、トマス・グレイ作品を研究。
藤井 崇治(ふじい そうじ、1894年7月1日 - 1975… 藤井 崇治(ふじい そうじ、1894年7月1日 - 1975年3月18日)は、大正、昭和期の逓信官僚。電源開発総裁。位階は従三位。広島県深安郡山野村(現福山市山野町)出身。 広島県立福山中学(現福山誠之館高校)、旧制第三高等学校を経て1921年、京都帝国大学法学部法律科卒業。逓信省入省。1927年札幌逓信局規画課長、1932年郵務局規画課長。この時期を通して郵便配達方法の改善に着目、郵便戸番制の採用など独創的な方策を樹立し、これらは後に新住居制度や郵便番号制度の普及に役立ったとされる。満州事変から1か月半後の1933年4月、満洲電信電話設立の要務を帯びて関東庁逓信局長に任命され大連に赴任。旧満州国の電力サイクルの統一等に尽力。
藤野 恵(ふじの めぐむ、1894年(明治27年)4月16日… 藤野 恵(ふじの めぐむ、1894年(明治27年)4月16日 - 1949年(昭和24年)10月9日)は、日本の内務・文部官僚。官選県知事、文部次官。 広島県出身。藤野玖三の四男として生まれる。広島県立福山中学校、第六高等学校を卒業。1919年7月、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。内務省に入省し群馬県属となる。同年10月、高等試験行政科試験に合格。 1920年10月、群馬県多野郡長に就任。以後、静岡県理事官・内務部社会課長兼調査課長、臨時震災救護事務局事務官、内務省社会局事務官、兼社会局書記官・社会部福利課長、同部保護課長などを歴任。 1935年1月、香川県知事に就任。 1936年6月、文部省実業学務局長に転じ、さらに同普通学務局長を務めた。
挟間 茂(はざま しげる、1893年3月24日 - 1987… 挟間 茂(はざま しげる、1893年3月24日 - 1987年12月3日)は、日本の内務官僚、内務次官。 日本住宅公団総裁。広島県福山市出身。旧姓・三谷。「梜間茂」表記の文献もあり。戸籍上は旧字体の挾間。 海軍大佐挾間光太の養子。福山中学(現福山誠之館高校)~第六高等学校を経て1919年、東京帝国大学法学部法律学科卒業。内務省に入省、衛生局長、茨城県知事、土木局長、地方局長などを歴任。1937年衛生局長として保健所法制定に尽力、現在の保健所制度の基礎を作った。茨城県知事時代の大洪水に対する災害復旧政策は今日でも評価が高い。1940年第2次近衛内閣の内務次官に就任。大政翼賛会の結成をすすめ、翌1941年大政翼賛会組織局長として国民を戦時体制に動員した。
八杉 角五郎(やすぎ かくごろう、1890年(明治23年)3… 八杉 角五郎(やすぎ かくごろう、1890年(明治23年)3月4日 - 1977年(昭和52年)1月25日)は、日本の実業家。八杉商店社長、会長を務めたほか、広島地方裁判所司法委員、福山家庭裁判所調停委員、福山商工会議所副会頭などを歴任した。位階勲等は従五位勲五等。藍綬褒章受章。 現在の広島県府中市にて、小川良平の子として生まれた。旧制福山中学校(現・広島県立福山誠之館高等学校)に入学し、1907年(明治40年)に卒業した。中学校では剣道部に所属した。1910年(明治43年)に長崎高等商業学校(現・長崎大学経済学部)を卒業し、教員となった。 福山市深津町の八杉家の婿養子となって八杉商店6代目社長に就任、福山ガス(株)、ニコニコバス(株)、福山合金(株)、福山興業(株)の取締役を務めた。
藤井 清水(ふじい きよみ、1889年〈明治22年〉2月17… 藤井 清水(ふじい きよみ、1889年〈明治22年〉2月17日 - 1944年〈昭和19年〉3月25日)は、日本の作曲家。童謡作曲家、民謡研究家。広島県安芸郡焼山村(現・呉市)出身。生涯に約1900曲も作曲、編曲しながら、あまり世に知られることのなかった人である。のちに、『日本民謡大観』のもととなる民謡の採譜をたくさん行い、民謡の楽譜化に力を尽くして、日本民謡の音楽的研究の推進に多大な貢献をした。 医師として由緒ある家の三男として、生を享けた。幼い頃から三味線の音を聞き分け、調子を合わせることができたという。 焼山尋常小学校(現・呉市立昭和西小学校)、呉高等小学校をへて福山中学校で学んだ。音楽学校進学を志した清水だが、最初の受験には失敗し、1911年、東京音楽院受験科に入学する。
森戸 辰男(もりと たつお、1888年(明治21年)12月2… 森戸 辰男(もりと たつお、1888年(明治21年)12月23日 - 1984年(昭和59年)5月28日)は、日本の学者、社会思想家、教育者(初代広島大学学長・名誉教授)、政治家(衆議院議員、文部大臣)。広島県広島市、福山市名誉市民。文化功労者(1971年)、勲一等旭日大綬章(1974年)。位階は従二位。 広島県深津郡福山東堀端(現在の福山市)に旧福山藩士・森戸鸞蔵、チカの二男として生まれる。広島県立福山中学校(現在の広島県立福山誠之館高等学校)から1907年、第一高等学校に進学した。前年校長に就任した新渡戸稲造の倫理の講義に感銘を受ける。弁論部で活動し、一高を卒業する1911年2月、弁論部の後輩・河上丈太郎に頼まれ大逆事件を主題とした徳冨蘆花の講演会「謀叛論」を開催した。
藤井 厚二(ふじい こうじ、1888年〈明治21年〉12月8… 藤井 厚二(ふじい こうじ、1888年〈明治21年〉12月8日 - 1938年〈昭和13年〉7月17日)は、日本の建築家・建築学者。広島県出身。建築環境工学の先駆者の一人。東京帝国大学工科大学建築学科卒業。 広島県福山市の酒造家・金融業の「くろがねや」の次男として生まれる。経済的にも文化的にも恵まれた環境で育ち、福山中学校(現・福山誠之館高校)、第六高等学校を経て、1913年(大正2年)に東京帝国大学工科大学建築学科を卒業した後、竹中工務店に就職。大阪朝日新聞社などの設計を手がけ、1919年(大正8年)まで勤務。同社退職後から約9ヶ月間、欧米諸国を巡遊し、環境工学への関心を高めた。 欧米から帰国した後の1920年(大正9年)、同郷の武田五一が創設した京都帝国大学工学部建築学科に招かれ、1926年(大正15年)に教授となった。
岡田 偆一(おかだ しゅんいち、1887年(明治20年)5月… 岡田 偆一(おかだ しゅんいち、1887年(明治20年)5月10日〈1886年生とも〉- 1943年(昭和18年)12月24日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。位階および勲等は従四位・勲三等。 平民出身で初めて宮家(高松宮)付の武官となった人物。 広島県芦品郡駅家町大字服部本郷(現在の福山市)の屋号観音堂の、岡田馳次郎・アサの次男として生まれる。品治高等小学校2年を修了後、広島県第二中学校(後の誠之館)に入学する。1904年(明治37年)、19歳の時に広島県立福山中学校(誠之館)を卒業する。1907年(明治40年)、22歳の時に海軍兵学校を第35期生として卒業する。1909年(明治42年)、24歳の時に海軍大学を第16期生として卒業。
谷本 馬太郎(たにもと うまたろう、1886年〈明治19年〉… 谷本 馬太郎(たにもと うまたろう、1886年〈明治19年〉4月20日 - 1942年〈昭和17年〉11月11日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 広島県福山市出身。旧制広島県立福山誠之館中学校より海軍兵学校第35期入校。海軍兵学校入校時成績順位は183名中第82名、卒業時成績順位は172名中第37位。 第1次上海事変の際に、第3戦隊旗艦の軽巡洋艦「由良」艦長として参戦したが、上官の堀悌吉第3戦隊司令官の命令を忠実に守り、攻撃対象を中国軍関係に対してのみ限定させ中国国民への被害を最小限度に止めた為に作戦終了後、攻撃が手緩いとの批判が相次いだが、谷本は報告書の中で『堀司令官ノ判断処置ニ鑑ミ一点ノ非アラザル事明白ニシテ現地ニ於ケル事当ラザリシ者ガ非難スルハ司令官ヲ陥シ入レントスル意図明白ナリ』と憤懣やるかたなき状況を伝えている。
掛谷 宗一(かけや そういち、1886年〈明治19年〉1月1… 掛谷 宗一(かけや そういち、1886年〈明治19年〉1月18日 - 1947年〈昭和22年〉1月9日)は、日本の数学者。東京文理科大学兼東京帝国大学教授。統計数理研究所初代所長。理学博士。 1886年(明治19年)、広島県深安郡坪生村生まれ(現・福山市坪生町)。広島県第二中学校(現・広島県立福山誠之館高等学校)を卒業後、第三高等学校を経て、1906年(明治39年)10月に東京帝国大学理科大学数学科に進んだ。2、3年生時は特待生に選定され、3年進級時にはモルレー博士記念数学賞を受賞。1909年(明治42年)7月卒業。 1911年(明治44年)第一高等学校教授、1912年(大正元年)に東北帝国大学助教授に就任。
宮澤 裕(みやざわ ゆたか、1884年〈明治17年〉1月12… 宮澤 裕(みやざわ ゆたか、1884年〈明治17年〉1月12日 - 1963年〈昭和38年〉5月23日)は、日本の政治家。衆議院議員(6期)。 長野県庁勤めを経て、一時実業界入った後、逓信、内務各大臣秘書官。その間、昭和3年(1928年)郷里の広島3区から衆議院議員に当選して政界入り。以来連続6回当選し、鉄道政務次官、商工省参与などを歴任。内閣総理大臣などを務めた宮澤喜一は長男。 広島県沼隈郡金見村(現・福山市金江町金見)の小さな農家に生まれた。父・鹿吉の時代は生活は楽でなかった。だが教育熱心な鹿吉は、裕が村の小さな小学校を卒業すると、苦しい家計をやりくりして福山中学校に通わせた。裕は中学を卒業すると、さらに上級の高校を目指そうとした。
丸山 鶴吉(まるやま つるきち、1883年〈明治16年〉9月… 丸山 鶴吉(まるやま つるきち、1883年〈明治16年〉9月27日 - 1956年〈昭和31年〉6月3日)は、日本の内務官僚、政治家、教育者。警視総監、宮城県知事、武蔵野美術学校校長。位階は従三位。広島県沼隈郡松永村(現・福山市松永町)生まれ。 1883年(明治16年)、松永下駄の創始者、丸山茂助の四男として生まれる。負けん気の強い少年で、5年生になる頃には学校を仕切った。広島県立福山中学(現・福山誠之館高校)、第一高等学校を経て東京帝国大学法科大学政治学科に入学。卒業後1909年(明治42年)、内務省に入る。 香川県警部、警視庁特高課長、保安課長、静岡県内務部長を歴任。保安課長時代には私娼撲滅運動を展開した。
河内 源一郎(かわち げんいちろう、1883年4月30日 -… 河内 源一郎(かわち げんいちろう、1883年4月30日 - 1948年3月31日)は、日本の官僚、科学者、実業家。 「河内菌」の発見により焼酎の品質を飛躍的に向上させた近代焼酎の父。広島県深津郡吉津村(現・福山市吉津町)生まれ。 河内は、代々続く醤油屋の家に生まれた。幼少期から麹や醪に馴染み、広島県立福山中学(現・福山誠之館高校)を経て大阪高等工業醸造科(現・大阪大学工学部発酵工学科)を卒業。家業が不振となったため、1909年に大蔵省入りし、熊本税務監査局鹿児島工業試験場へ技師・酒の鑑定官として赴任した。同年秋、造り酒屋の技術指導員として訪れた巡視先で、鹿児島焼酎と出会う。当時の焼酎はとても不味く、また暑い時期はすぐに腐っていた。
岡本 半次郎(おかもと はんじろう、1882年4月22日 -… 岡本 半次郎(おかもと はんじろう、1882年4月22日 - 1960年3月4日)は日本の教育者。昆虫学者、農学博士。 妻せんは北海道開拓事業にその生涯を捧げ、“北海道酪農の父”とよばれた町村金弥の次女。 広島県福山市東町に岡本圭吉の子として生まれる。岡本家は旧備後福山藩士として勘定奉行を務めた家柄。 広島県第二中学校(現福山誠之館高校)を経て1907年札幌農学校本科を卒業し、北海道庁技手として北海道農事試験場に勤務。1912年から1年間東北帝国大学講師を兼ねる。1919年本邦産草蜻蛉科に関する論文で農学博士となった。1920年朝鮮総督府勧業模範場に招聘されて赴き水原高等農林学校教授を兼任し1925年12月に退官し帰郷する。
小林 躋造(こばやし せいぞう、1877年〈明治10年〉10… 小林 躋造(こばやし せいぞう、1877年〈明治10年〉10月1日 - 1962年〈昭和37年〉7月4日)は、日本の海軍軍人、政治家。最終階級は海軍大将。 広島県広島市出身。福山誠之館中学、修道学校(現:修道中学校・高等学校)、旧制私立海軍予備校を経て海軍兵学校第26期入校。入校時成績順位62名中第4位、卒業時成績順位59名中第3位。海軍次官、連合艦隊司令長官、台湾総督、翼賛政治会総裁、小磯内閣の国務大臣などを歴任した。 一部の書籍で同郷の加藤友三郎元帥・内閣総理大臣の甥と記載されているが、加藤の兄弟姉妹に小林の縁故者はおらず、加藤との姻戚関係はないことが強く推定される。弟は早川幹夫中将、義弟(妹の夫)は新見政一中将。
守屋 松之助(もりや まつのすけ、1877年(明治10年)2… 守屋 松之助(もりや まつのすけ、1877年(明治10年)2月16日 - 1951年(昭和26年)12月23日)は、明治末から昭和期の実業家、政治家。衆議院議員、岡山県岡山市長、小田郡矢掛町長。旧姓・石井。大原財閥の四天王と称された。号・覚堂(かくどう)。 広島県深津郡深津村(深安郡深津村を経て現福山市東深津町)で、石井治郎右衛門の二男として生まれる。11歳で父を亡くし、苦学して深津小学校、尋常中学誠之館(現広島県立福山誠之館高等学校)を卒業。三菱合資会社三菱造船所(現三菱重工業長崎造船所)に勤務。日清戦争、日露戦争に従軍。1901年(明治34年)小田郡矢掛町の守屋忠作長女(火+禾)の入夫となり家督を相続。
永井 潜(ながい ひそむ、1876年11月14日 - 195… 永井 潜(ながい ひそむ、1876年11月14日 - 1957年5月17日)は、日本の医学者、生理学者、優生学者。 広島県賀茂郡下市村(現・竹原市)出身。終戦直後に外務次官を務めた河相達夫は実弟。 1902年、東京帝国大学医科大学を卒業後、1903年よりドイツに留学。ゲッティンゲン大学で生理学者マックス・フェルヴォルン(Max Verworn)の薫陶を受け、冬眠動物の代謝生理の研究を行う。1906年に帰国、1915年には大沢謙二の後を継ぎ東京帝大医科大学生理学教室第2代教授となる。その前後から一般雑誌や婦人雑誌などに盛んに優生学や生命論をはじめとした論稿を多数発表している。1930年に日本民族衛生学会を設立、理事長として優生学研究の推進と国民優生法(1940年)の前身である民族優生保護法案の提出に大きな役割を果たした。
杉山 金太郎(すぎやま きんたろう、明治8年(1875年)9… 杉山 金太郎(すぎやま きんたろう、明治8年(1875年)9月19日 - 昭和48年(1973年)3月10日)は、日本の実業家。豊年製油(現J-オイルミルズ)会長。
木村 茂(きむら しげる、明治6年(1873年)2月11日 … 木村 茂(きむら しげる、明治6年(1873年)2月11日 - 1972年8月25日)は、日本の陸軍軍人。歩兵将校の後主計科に転じ、陸軍被服本廠長・第1師団経理部長・陸軍経理学校長を歴任する。階級は陸軍主計総監。 広島県福山市に生まれる。尋常中学福山誠之館を経て、1891年(明治24年)志願兵として入営、1892年(明治25年)から陸軍士官学校(5期)に入校、1894年(明治27年)7月27日に卒業する。同年9月18日、陸軍歩兵少尉に任官される。歩兵将校として大尉迄進むが、1902年(明治35年)から経理将校を目指し陸軍経理学校に入校する。 1904年(明治37年)に卒業し改めて陸軍二等主計に任官され騎兵第1連隊附を命ぜられる。
三谷 一二(みたに いちじ、1871年12月4日(明治4年1… 三谷 一二(みたに いちじ、1871年12月4日(明治4年10月22日)- 1965年(昭和40年)10月26日)は、日本の政治家、銀行員、実業家。第2代三菱鉱業会長を経て、第4代福山市長(1期)を務めた。 福山県沼隈郡山手村(現・広島県福山市山手町)に生まれる。1889年(明治20年)4月12日、広島県福山中学校(現・広島県立福山誠之館高等学校)初等科第四級を修了。1896年(明治29年)に高等商業学校(現・一橋大学)を卒業し、三菱合資会社銀行部に入社。 1900年(明治33年)、義和団の乱に出征。1904年(明治37年)、日露戦争に出征。その後、三菱合資会社銀行部上海支店長、長崎支店長兼唐津支店長、東京本社営業部石炭課長兼東京支店長などを務めた。
大平 駒槌(おおだいら こまつち、1870年1月25日(明治… 大平 駒槌(おおだいら こまつち、1870年1月25日(明治2年12月24日)- 1957年(昭和32年)4月11日)は、日本の農商務官僚、実業家、政治家。貴族院勅選議員、枢密顧問官。 広島県で大平儀右衛門の二男として生まれる。第三高等学校を経て、1896年7月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。1897年3月、農商務省に入省し、鉱山監督官輔に任じられ福岡鉱山監督署に在勤。 以後、農商務属・鉱山局勤務、札幌鉱山監督署鉱政課長、東京鉱山監督署鉱政課長、大阪鉱山監督署長を歴任し、1906年3月に退官した。 その後、大阪藤田組に入り、鉱山部庶務課長、兼小坂鉄道 (株) 専務取締役、藤田組証券課長、兼大阪合同紡績 (株) 監査役を務め、1908年12月に退社した。
井上 角五郎(いのうえ かくごろう、万延元年10月18日〈1… 井上 角五郎(いのうえ かくごろう、万延元年10月18日〈1860年11月30日〉 - 昭和13年〈1938年〉9月23日)は、日本の実業家、政治家。東京府平民。 壬午事変後に朝鮮政府の顧問となる。1883年10月に「漢城旬報」を発刊、1886年1月には「漢城周報」を創刊。甲申政変に深く関与し、金玉均・朴泳孝と関係を持った。第1回の帝国議会衆議院議員に当選以来連続当選14回、第47回まで14回代議士を務める。北海道炭礦鉄道社長、日本製鋼所設立者、会長、国民工業学院理事長、慶應義塾評議員等を歴任し、大正9年(1920年)緑綬褒章下賜。京釜鉄道、南満州鉄道の設立にも関わった。号は閔妃の実甥・閔泳翊から贈られた琢園。
清水 郁太郎(しみず いくたろう、安政4年10月13日〈18… 清水 郁太郎(しみず いくたろう、安政4年10月13日〈1857年11月29日〉 - 明治18年2月26日〈1885年〉)は、日本の医学者、産婦人科医。医学博士第1号。初代の東京大学医学部産婦人科学教授。広島県吉津村(現・福山市)生まれ。 慶応元年(1865年)、藩校誠之館(現・広島県立福山誠之館高等学校)に入学、早くからその穎才を認められ明治2年(1869年)には、全国各藩の俊才数十名が選抜された東京遊学に、16歳から20歳という年齢制限が有るにもかかわらず12歳にして選ばれる。 明治4年(1871年)、大学南校(現・東京大学)入学、独学を専攻。翌明治5年(1872年)、大学東校(現・東京大学医学部)に転入。
江木高遠(えぎたかとお、1850年2月3日(嘉永2年12月2… 江木高遠(えぎたかとお、1850年2月3日(嘉永2年12月22日) - 1880年(明治13年)6月6日)は、文明開化期の学者、啓蒙家、外務官僚。養子に入り、『高戸賞士』を名乗った時期があった。米国で軍事と法律を学び、教員を経て演説家として名を馳せたが、外交官として渡米後ピストル自殺した。 備後福山藩の儒官、江木鰐水の第四子として福山に生まれた。幼名は賞士、通称は賞一郎。母は、年(とし)。 1856年(安政3年)(7歳)、藩校誠之館に入り、1868年(明治元年)(19歳)秋、長崎でフルベッキに学び、翌年、藩の推薦により東京の開成学校に転じ、明治2年(1869年)に慶應義塾に学んだ。1870年(明治3年)(21歳)、華頂宮博経親王の随員の一人としてニューヨークへ渡り、コロンビア法律学校(Columbia Law School)に学んだが、1872年、病気の親王と帰国し、1874年再渡米して、1876年卒業した。
五十川 基(いかがわ もとい、天保15年9月6日(1844年… 五十川 基(いかがわ もとい、天保15年9月6日(1844年10月17日) - 明治6年(1873年)2月22日)は、幕末・明治初期の備後福山藩士、医師。通称は基之丞、芳之丞。字は敬甫、号は米里。福山医学校兼病院(のちの同仁館病院)の設立に尽力した。 備後国に藩医・五十川周圭の嗣子として生まれる。五十川家は代々漢方医を業とし、周圭の代で蘭方に転じた。江木鰐水、寺地舟里の薫陶を受け、藩校・誠之館で学び、文久3年(1863年)10月17日に藩から洋学修業を命ぜられ、江戸の藩邸に寄留し、蕃書調所・医学所に通学修業。佐藤春海(尚中)の塾において、蘭学を修め、転じて慶応2年(1866年)に福沢諭吉の慶應義塾へ入塾(『慶應義塾入社帳』第一巻58頁,167頁)。
杉原 愛(すぎはら あい、4月16日 - )は、ラジオ沖縄 … 杉原 愛(すぎはら あい、4月16日 - )は、ラジオ沖縄 (ROK) のアナウンサー。 広島県福山市出身。旧広島市民球場には福山から何度も通い、ヒーローインタビューをするアナウンサーに憧れた。広島県立福山誠之館高等学校を経て、立教大学卒業。大学在学時にはボイスワークス運営のアナウンススクールに通っていた。またその一環で、むさしのFMで放送の『ランチタイムボックス』に出演していた。 大学を卒業後、ラジオ沖縄に入社。ワイド番組のMCを担当するだけでなく、沖縄県内のスポーツ関連番組のMCや、おきなわマラソン、全国高等学校野球選手権大会沖縄県大会決勝の各実況も担当するなど幅広いジャンルで番組に出演。現在では、スポーツ実況をメインに担当した宮田隆太郎元アナウンサーが総務部に異動しアナウンサー職を離れたため、後を継ぐ形でキングスコートサイドライブの実況を担当するようになる。
高垣 広徳 は、日本の政治家。広島県東広島市長(3期)。元広… 高垣 広徳 は、日本の政治家。広島県東広島市長(3期)。元広島県副知事。
野々村 聡子 は、日本の元女子プロ野球選手、野球指導者。
井藤 勲雄 は、日本の経営者、銀行家。位階は正五位。
山本 謙 は、日本の経営者。UBE(旧・宇部興産)会長。広島… 山本 謙 は、日本の経営者。UBE(旧・宇部興産)会長。広島県出身。
白貝 真理子(しらがい まりこ)は日本の女優、リポーター。本… 白貝 真理子(しらがい まりこ)は日本の女優、リポーター。本名は白貝 眞理子(読み同じ)。 広島県出身。身長156cm(1981年時点)。3人姉弟の第2子(姉と弟がいる)。実家はカラーフィルムの現像所。自ら、父の会社の忘年会で制作費50万円でモダンバレエの舞台をプロデュースしたことがある。中学生・高校生時代共に部活は放送部で、当時はアナウンサー志望だった。広島県立福山誠之館高等学校に在学中には第19回と第20回のNHK杯全国高校放送コンテストのアナウンス部門に入選している。 大学受験に失敗した後、予備校生時代に演劇集団 円の研修生となり、予備校に通いながら演劇活動を行って結局「演劇の方が面白くなって」、活動を演劇一本に絞って芸能の方へ進む。
石井 英太郎 (いしい えいたろう、天保14年(1843年)… 石井 英太郎 (いしい えいたろう、天保14年(1843年)1月 - 昭和2年(1927年)10月14日)は、明治時代の政治家。 広島県議会初代議長。広島県福山中学校(現広島県立福山誠之館高等学校)初代校長。福山初の小学校である深津啓蒙所(現福山市立深津小学校)設立に尽力した。深津村庄屋で義倉財団創設に関係する石井武右衛門の玄孫にあたる。四女が石井スエ(大原寿恵子)で孫が大原総一郎。 備後国深津郡深津村(現広島県福山市東深津町)で庄屋の家に生まれる。 慶応元年(1865年)閏5月、家督相続し深津村庄屋を拝命する。同年6月備後福山藩御用達となり 、明治2年(1869年)福山藩下議員として公議所に出仕する。