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中村 尚夫(なかむら ひさお、1923年12月17日 - 2… 中村 尚夫(なかむら ひさお、1923年12月17日 - 2008年6月25日)は、日本の経営者。クラレ社長を務めた。京都府京都市出身。 第三高等学校を経て、1948年に京都大学経済学部を卒業し、1950年に同大学院を修了し、同年にクラレに入社した。 1972年11月に取締役に就任し、1976年6月には常務に就任し、1981年6月には副社長に就任した。 1985年6月には社長に昇格し、1993年6月には会長に就任した。2000年6月から相談役に就任した。 1990年11月に藍綬褒章を受章し、1996年11月に勲二等瑞宝章を受章した。 2008年6月25日急性冠症候群のために兵庫県宝塚市の病院で死去。
喜田村 健三(きたむら けんぞう、1917年(大正6年)6月… 喜田村 健三(きたむら けんぞう、1917年(大正6年)6月24日 - 没年不明)は日本の大蔵官僚、実業家。国税庁元次長。万有製薬(現:MSD、メルク・アンド・カンパニーの日本法人)元専務取締役。東京都世田谷区在籍。長男は弁護士(ミネルバ法律事務所所属)の喜田村洋一。 京都府京都市出身。喜田村眼科病院院長を務めた喜田村朔治の三男として生まれる。第三高等学校を卒業。1939年(昭和14年)高等試験行政科に合格。1940年(昭和15年)東京帝国大学法学部法律学科を卒業し、大蔵省に入る。短期現役海軍主計科士官(5期)を志願し、同年9月に海軍経理学校に入学し、海軍主計中尉に任官。1941年(昭和16年)1月、経理学校を卒業し山城に配属。
竹之内 静雄(たけのうち しずお、1913年11月25日 -… 竹之内 静雄(たけのうち しずお、1913年11月25日 - 1997年12月19日)は、日本の小説家、筑摩書房社長。 静岡県生まれ。旧姓・桑原。1932年第三高等学校に入学、野間宏、富士正晴と、竹内勝太郎に師事して雑誌『三人』を刊行する。大学では吉川幸次郎に師事、1940年京都帝国大学文学部哲学科卒、河出書房に入社する。のち筑摩書房に移り、戦時中は海軍に応召した。1950年「ロッダム号の船長」で芥川賞候補となる。1966年から1972年まで古田晁の後を受けて筑摩書房2代目社長を務めた。
足羽 則之(あしば のりゆき、1905年〈明治38年〉9月2… 足羽 則之(あしば のりゆき、1905年〈明治38年〉9月22日 - 1966年〈昭和41年〉2月2日)は、日本の鉄道官僚、運輸官僚、実業家。小田急百貨店副社長。 鳥取県鳥取市西町の鳥取士族で、衆議院議員(鳥取市選出)、鳥取市会議長、鳥取県会議員などをつとめた木下義之の三男。足羽家に入る。1926年に第三高等学校文科乙類卒業。1928年に高等試験行政科合格。1929年に東京帝国大学法学部法律学科卒業。 鉄道省に入り鉄道事務官兼企画院・外務省各書記官、運輸大臣官房人事課長を経て1946年に新潟鉄道局長となり1949年に運輸省鉄道監督局長に転じ、1952年4月に退官、私鉄経営者協会専務理事事務局長に就任、関東鉄道協会常任理事事務局長の後1956年5月に小田急取締役に挙げられ、1959年2月に常務に推される。
堀田 健男(ほった たけお、1903年(明治36年)2月23… 堀田 健男(ほった たけお、1903年(明治36年)2月23日 - 1966年(昭和41年)11月28日)は、日本の内務官僚、実業家。官選県知事。勲三等旭日中綬章。 大阪府出身。堀田勇次の三男として生まれる。第三高等学校を卒業。1924年11月、高等試験行政科試験に合格。1925年、東京帝国大学法学部法律学科(仏法)を卒業。内務省に入省し土木局属となる。 以後、岩手県書記官・警察部長、内務省社会局書記官、厚生書記官などを歴任。 1942年7月、奈良県知事に就任し、戦時下の対応に尽力。1943年7月、企画院第三部長に転任。新潟県参事官、内務省国土局長を歴任。1945年9月、静岡県知事に転任し、戦災の復興に尽力した。
趙 炳漢(チョ・ビョンハン、朝鮮語: 조병한/趙炳漢、190… 趙 炳漢(チョ・ビョンハン、朝鮮語: 조병한/趙炳漢、1902年11月10日 - 没年不詳)は、大韓民国の実業家、政治家。制憲韓国国会議員。 慶尚北道聞慶郡(現・聞慶市)出身。聞慶公立普通学校(現・聞慶初等学校)、大邱高等普通学校、旧制の第三高等学校、東京帝国大学(現・東京大学)法学部卒。 株式会社テドン貿易公社社長、マンジュ家畜振興株式会社監査役などを務めた。朝鮮戦争時の1950年9月2日、鐘路区にて北朝鮮側の関係者3名により拉致された。 1956年7月より在北平和統一促進協議会中央委員を務め、1958年に江界市方面の農場に移住したとされるが、以後消息不明。
谷口 豊三郎(たにぐち とよさぶろう、1901年7月29日 … 谷口 豊三郎(たにぐち とよさぶろう、1901年7月29日 - 1994年10月26日)は、昭和時代の日本の実業家。元東洋紡績社長。日本繊維産業連盟・初代会長。理論物理や数学などの研究に資金援助した谷口工業奨励会(後の谷口財団)の創設者。 1901年(明治34年)7月29日、大阪船場生まれ。旧制大阪府立天王寺中学校、旧制第三高等学校を経て、東京帝国大学工学部機械学科、東京帝国大学法学部政治学科卒業。1928年(昭和3年)、父・谷口房蔵の経営する大阪合同紡績に入社。1931年(昭和6年)、東洋紡に吸収されるが取締役でのこる。公職追放となるが、解除後副社長として復帰。1947年(昭和22年)に社長、1966年(昭和41年)に会長を歴任する。
小泉 梧郎(こいずみ ごろう、1895年(明治28年)8月2… 小泉 梧郎(こいずみ ごろう、1895年(明治28年)8月24日 - 1974年(昭和49年)3月4日)は、日本の内務官僚、実業家。官選県知事。位階は正四位。勲二等瑞宝章。 鳥取県出身。小泉謙蔵の五男として生まれる。第三高等学校を卒業。1921年11月、高等試験行政科試験に合格。1922年、東京帝国大学法学部法律学科(独法)を卒業。内務省に入省し山梨県属となる。 以後、内務省社会局事務官、山形県書記官・警察部長、熊本県書記官・経済部長、広島県書記官・警察部長、福岡県書記官・警察部長、兵庫県書記官・警察部長、国民精神総動員本部常任理事、大政翼賛会協力会議部長などを歴任。 1942年1月、島根県知事に就任。
岸田 幸雄(きしだ さちお、1893年2月24日 - 198… 岸田 幸雄(きしだ さちお、1893年2月24日 - 1987年10月16日)は、日本の政治家、実業家。京都府出身。 兵庫県知事(官選1期・公選2期)、参議院議員(2期)を歴任した。 1893年(明治26年)、山口県士族・岸田氏美の三男として京都府に生まれる。第三高等学校を経て1916年(大正5年)に京都帝国大学法科を卒業し、高等文官試験に合格するも官僚とはならず大阪商船(現在の商船三井)に入社した。1920年(大正9年)、イタリアのジェノヴァで開催された国際労働者会議に使用者代表の随行員として参加する。日本に帰国後、大阪商船子会社の大阪海上火災(現在の三井住友海上)へ出向して神戸支店および東京支店長を務めた。
土井 藤右衛門(どい とうえもん、旧姓・木村、前名・卓爾、1… 土井 藤右衛門(どい とうえもん、旧姓・木村、前名・卓爾、1892年(明治25年)1月9日 - 没年不明)は、日本の会社役員。族籍は三重県平民。 三重県員弁郡東員村(現東員町)出身。木村誓太郎の七男。木村秀興の弟。先代藤右衛門の養子となり、1910年に家督を相続し、卓爾を改め襲名する。 1912年、第三高等学校を卒業。1916年、東京帝国大学法科大学独法科を卒業する。東京練炭製造所、北山索道、草津電鉄、日化燃料、佐藤衡器各会社の重役である。 紀勢東線相賀尾鷲間の工事開始等は土井が帝都にあって尽くすところが多かった。 住所は三重県北牟婁郡尾鷲町大字南浦(現・尾鷲市)、東京市芝区白金三光町、赤坂区青山南町二丁目。
安住 悦太郎(あずみ えつたろう、1891年〈明治24年〉5… 安住 悦太郎(あずみ えつたろう、1891年〈明治24年〉5月20日 - 没年不明)は、日本の商人(薬種貿易商)、実業家。族籍は大阪府平民。 鳥取県八頭郡那岐村大字奥本(現・智頭町)出身。安住瀧蔵の二男。叔父・安住伊三郎の養子となる。1913年、第三高等学校卒業。1916年、京都帝国大学法科大学卒業。 薬種貿易商で、殺虫剤製造業及び輸出業を営む。安住大薬房社長・同常務取締役・同専務取締役、安住産業会長・同取締役、タイ国名誉副領事などをつとめる。 宗教は真言宗。趣味は釣魚、長唄。大阪市在籍で、住所は大阪府豊能郡箕面半町(現・箕面市)。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
久保 孚(くぼ とおる、1887年5月5日 - 1948年4… 久保 孚(くぼ とおる、1887年5月5日 - 1948年4月19日)は、日本の鉱山技術者(工学博士)、経営者。撫順炭鉱など満洲における鉱物資源採掘、経営に携わった。中華民国(国民政府)によって平頂山事件の責任を問われ銃殺刑に処されたが、日本では冤罪と考えられている。 1887年(明治20年)5月5日、父・義道と母・久米の長男として高知県土佐郡大川筋で生まれた。幼名は東洋士。1905年(明治38年)に高知県立第一中学校を卒業、第三高等学校を経て東京帝国大学に進学。1912年(明治45年)7月に同大学工科大学採鉱冶金学科を卒業すると、すぐに南満洲鉄道に就職、撫順炭鉱の鉱務課に勤務した。 順調に昇進を続け、1932年(昭和7年)には撫順炭鉱長に着任。
村上 義一(むらかみ ぎいち、1885年(明治18年)11月… 村上 義一(むらかみ ぎいち、1885年(明治18年)11月10日 - 1974年(昭和49年)1月20日)は、日本の官僚、政治家、実業家。日本通運社長、近畿日本鉄道社長、日本民営鉄道協会顧問、日本交通公社会長。 滋賀県東浅井郡虎姫町(現長浜市)出身。旧制第三高等学校、東京帝国大学法科大学独法科卒業。1912年に鉄道院(のち鉄道省)に入り、1927年(昭和2年)神戸鉄道局長、1928年(昭和3年)大阪鉄道局長、その後1930年(昭和5年)には南満洲鉄道(満鉄)で理事となった。 1937年(昭和12年)には朝鮮運送社長、同年10月1日発足した鉄道省系の国営企業の日本通運の副社長に、1940年には社長に就任する(1943年まで)。
松山 常次郎(まつやま つねじろう、1884年(明治17年)… 松山 常次郎(まつやま つねじろう、1884年(明治17年)3月22日 - 1961年(昭和36年)6月15日)は、日本の実業家、政治家、衆議院議員。 1884年(明治17年)3月22日、和歌山県伊都郡九度山村(現:九度山町)に松山常治・さわの長男として生まれる。奈良県立五条中学校、第三高等学校を経て、1905年(明治38年)、東京帝国大学土木工学科入学。在学中に日本組合基督教会霊南坂教会で洗礼を受けクリスチャンとなる。 1908年(明治41年)、東京帝国大学土木工学科を卒業後に渡米し、橋梁設計などを学ぶ。日本に帰国したのち、1915年(大正4年)朝鮮に渡り、干拓・開墾事業に従事。南海拓殖株式会社や鮮満拓殖株式会社などを設立し、水田開拓事業で成功を収めた。
原 邦造(はら くにぞう、1883年〈明治16年〉6月19日… 原 邦造(はら くにぞう、1883年〈明治16年〉6月19日 - 1958年〈昭和33年〉3月30日)は、日本の経営者。第百銀行頭取、愛国生命社長・会長、帝都高速度交通営団総裁、日本航空会長などを務めた。旧姓・田中。 大阪府島下郡、のちの三島郡茨木村(茨木町を経て現茨木市)で、田中友次郎の二男として生まれ原六郎の養子となる。第三高等学校を経て1907年に京都帝国大学法科経済学部を卒業し、同年に満鉄に入社。 第百銀行頭取、愛国生命社長を経て、1930年に愛国生命会長に就任した。1940年には取締役を務めていた東武鉄道で根津嘉一郎、吉野伝治と社長の死去が相次ぎ、一時的に東武の会長および社長を務めた。
高石 弁治(高石 辨治、たかいし べんじ、1882年〈明治1… 高石 弁治(高石 辨治、たかいし べんじ、1882年〈明治15年〉12月17日 - 1940年〈昭和15年〉3月8日)は、明治末期から昭和戦前期にかけて活動した日本の電気技術者・実業家である。愛知県岡崎市の電力会社岡崎電灯に技師として入社し、技師長・常務取締役と昇進、後身の中部電力(岡崎)では副社長を経て社長まで昇った。愛媛県出身。 高石弁治は1882年(明治15年)12月17日、愛媛県宇摩郡寒川村(現・四国中央市)に高石佐吉の長男として生まれた。愛媛県立西条中学校を経て京都の第三高等学校へ進み、1906年(明治36年)7月第二部工科を卒業。次いで1909年(明治42年)7月京都帝国大学理工科大学電気工学科を卒業した。
後藤 幸三(ごとう こうぞう、1881年〈明治14年〉6月2… 後藤 幸三(ごとう こうぞう、1881年〈明治14年〉6月22日 - 1977年〈昭和52年〉7月9日)は、大正・昭和期に愛知県名古屋市を拠点に活動した実業家である。株式相場で財を成した後藤安太郎の長男で、日本車輌製造社長や中央製作所社長をはじめ多数の会社役員を務めた。 美術品収集家でもあり、死後の1978年(昭和53年)になって自邸跡に美術品を一般公開する「昭和美術館」が開館した。 1881年(明治14年)6月22日、岐阜県海津郡今尾町(現・海津市)出身。後藤安太郎の長男として生まれた。後藤は1904年(明治37年)7月に京都の第三高等学校を卒業し、1908年(明治41年)7月に東京帝国大学法科大学政治学科を卒業した。
11代奥野 小四郎(おくの こしろう、1880年(明治13年… 11代奥野 小四郎(おくの こしろう、1880年(明治13年)4月14日 - 1958年(昭和33年)7月23日)は、日本の篤農家、実業家、政治家。衆議院議員、官選帯広市長。旧姓・武田、初名・雄次。 兵庫県三原郡広田村(のち緑村、緑町を経て、現・南あわじ市)で武田泰三の三男として生まれる。1898年、郁文館中学校を卒業し、同年、第三高等学校第一部に入学したが、家事の都合により一年で退学した。その後、洲本町の先代奥野小四郎の婿養子となり家業に従事。 1904年5月に来道して先代が拓いた上川郡士別村の農場の経営を担当。1906年から2年間、北海道庁真駒内種畜場で畜産獣医の講習を受け、1908年、十勝国中川郡居辺原野で先代と共に牧場を経営し、産馬の改良繁殖に尽力した。
白男川 譲介(しろおかわ / しろおがわ じょうすけ、188… 白男川 譲介(しろおかわ / しろおがわ じょうすけ、1880年(明治13年)1月19日 - 1951年(昭和26年))は、日本の内務・警察官僚、実業家。官選県知事、鹿児島市長。旧姓・池田。 鹿児島県鹿児島市出身。池田休兵衛の四男として生まれ、1885年、母方の白男川渉の養子となる。第三高等学校を卒業。1906年、京都帝国大学法科大学政治学科を卒業し、大阪市に入る。1909年12月、文官高等試験に合格。内務省に転じ沖縄県属となる。 以後、福井県三方郡長、富山県警察部長、新潟県警察部長、北海道庁土木部長、奈良県内務部長、京都府内務部長などを歴任。 1921年5月、床次竹二郎内務大臣により起用され福井県知事に就任。
人見 次郎(ひとみ じろう、1879年〈明治12年〉12月1… 人見 次郎(ひとみ じろう、1879年〈明治12年〉12月16日 - 1959年〈昭和34年〉12月2日)は、日本の農商務官僚、実業家。朝鮮総督府総督官房鉄道局長、台湾総督府総務長官。 京都府船井郡富本村(現:南丹市八木地区)で人見次郎八の二男として生まれる。第三高等学校を経て、1904年(明治37年)7月、東京帝国大学法科大学法律学科を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格した。農商務省に入り、山林局属となる。特許局事務官・庶務課長、兼特許局図書館長、衆議院事務局書記官兼特許局事務官などを歴任。 1908年(明治41年)、統監府に転じ、特許局事務官に就任。1910年(明治43年)8月に朝鮮総督府が設置されると、書記官・農商工部商工課長に就任。
玉水 弘(たまみず ひろし、1876年(明治年9年)3月25… 玉水 弘(たまみず ひろし、1876年(明治年9年)3月25日 - 没年不詳)は、日本の技術者、実業家。関西ペイントの創業者。旧姓・花山。 三重県員弁郡中上村(久米村中上、東員村を経て現東員町中上)の花山家に生まれる。のち兵庫県の玉水庄太郎の養子となる。 第三高等学校を経て、1904年(明治37年)東京帝国大学工科大学応用化学科を卒業。先発メーカーの日本ペイント、東亜ペイントを経て独立。1917年(大正6年)に関西ペイント工業所を創業した。研究施設や工場拡大のための資金調達に窮し、岩井勝次郎を紹介され1918年、岩井商店の援助により関西ペイントを設立する事となる。 援助の代償として経営権を岩井商店に譲渡。
馬場 恒吾(ばば つねご、1875年7月13日 - 1956… 馬場 恒吾(ばば つねご、1875年7月13日 - 1956年4月5日)は、日本のジャーナリスト・政治評論家・実業家。ジャパンタイムズや国民新聞などで自由主義擁護の論陣を張る。第二次大戦後、読売新聞社社長。 岡山県邑久郡長浜村奥浦(現・瀬戸内市牛窓町)に、代々庄屋を務めた馬場家の長男として生まれる。1892年、京都の第三高等学校予科に入学。1895年、三高予科を修了し、仙台の第二高等学校入学。東北学院で押川方義が行っていた聖書の講義に通い、メソジストとして洗礼を受ける。1896年、二高中退。1897年、安部磯雄を追って同志社神学校(現・同志社大学神学部)に入学するが、葛藤の末キリスト教と決別し、一年弱で中退。
伊藤 俊介(いとう しゅんすけ、1870年9月5日(明治3年… 伊藤 俊介(いとう しゅんすけ、1870年9月5日(明治3年8月10日)- 1924年(大正13年)1月24日)は、明治から大正期の実業家、政治家。衆議院議員、神戸基督教青年会会長。 播磨国宍粟郡、のちの兵庫県宍粟郡染河内村(一宮町を経て現宍粟市一宮町)で生まれた。のち伊藤繁右衛門の養子となる。同志社、第三高等学校を経て、1896年(明治29年)帝国大学法科大学政治学科を卒業した。 兵庫県農工銀行に入り、のち取締役兼支配人に就任。伊藤博文の別名と間違えられて有名となり、1902年(明治35年)8月、第7回衆議院議員総選挙(兵庫県郡部、壬寅会)で当選し、衆議院議員に1期在任した。しかし、農工銀行の経営に支障が起こり、その責めを負って退社した。
安川 雄之助(やすかわ ゆうのすけ、1870年5月4日(明治… 安川 雄之助(やすかわ ゆうのすけ、1870年5月4日(明治3年4月4日) - 1944年(昭和19年)2月13日)は日本の実業家。東洋拓殖総裁、三井合名会社理事。 1870年(明治3年)4月4日、京都府南桑田郡篠村(現・亀岡市)に生まれる。第三高等学校に入学するも、大阪商業学校(大阪市立天王寺商業高等学校および大阪市立大学の前身)に転じ、1890年(明治23年)に卒業する。卒業後、三井物産に入社し、天津支店長、満洲営業部長、大連支店長を経て、1914年(大正3年)に本店営業部長となる。1918年(大正7年)に取締役、同年さらに南条金雄、武村貞一郎とともに常務取締役となり、1924年(大正13年)に筆頭常務に就任する。
福地 銭吉(錢吉、ふくち せんきち、1868年11月25日(… 福地 銭吉(錢吉、ふくち せんきち、1868年11月25日(明治元年10月12日)- 1921年(大正10年)4月4日)は、明治から大正期の農業経営者・実業家・政治家。衆議院議員、三重県阿山郡東柘植村長。 伊賀国阿拝郡上柘植村(三重県阿山郡東柘植村上柘植、柘植町、伊賀町を経て現伊賀市)で、福地次郎の長男として生まれる。第三高等学校で学んだ。農業を営む。 伊賀筵叺同業組合長、阿山郡連合産業組合理事、東柘植村産業組合長、第八十三銀行取締役、東海製糸監査役などを務めた。 政界では、東柘植村長、阿山郡会議員、三重県会議員(1911年-1920年)などに在任し、学務委員、所得税調査委員なども務めた。1920年(大正9年)5月、第14回衆議院議員総選挙に三重県第10区から立憲国民党公認で出馬し、川崎克との激しい選挙戦を制して当選したが、議員在任中の1921年4月に死去した。