張 仲直(ちょう ちゅうちょく、繁体字: 張仲直; 簡体字:… 張 仲直(ちょう ちゅうちょく、繁体字: 張仲直; 簡体字: 张仲直; 拼音: Zhāng Zhòngzhí; ウェード式: Chang Chung-chih、1901年 - 1951年5月20日)は、中華民国の政治家。南京国民政府(汪兆銘政権)華北政務委員会の要人で、王克敏の腹心と目された。 1919年に日本へ留学し、神戸高等商業学校の第17回生として入学した。1923年に卒業し、東京商科大学(現一橋大学)に進学している。 1937年(民国26年)12月に中華民国臨時政府が成立した後、翌1938年(民国27年)5月15日に同政府行政委員会委員長兼行政部総長・王克敏の下で行政部秘書となった。同年10月22日、行政委員会事務処処長に任命されている 1940年(民国29年)3月、臨時政府が汪兆銘政権に合流し華北政務委員会に改組された後も、委員長・王克敏の下で張仲直は引き続き腹心を務めた。
井上 精三(いのうえ せいぞう、1901年 - 1988年5… 井上 精三(いのうえ せいぞう、1901年 - 1988年5月18日)は、郷土史家。 福岡県博多下西町(現福岡市博多区)生まれ。西南学院高等学部(現西南学院大学)卒業。NHKに入り、各地の放送局で勤務。1951-1955年弘前放送局長、1956年退職。郷土史研究者として活動した。
寺平 忠輔(てらだいら ただすけ、1901年(明治34年)-… 寺平 忠輔(てらだいら ただすけ、1901年(明治34年)- 1968年(昭和43年)3月10日)は、日本陸軍の軍人、最終階級は中佐。北平特務機関補佐官として盧溝橋事件発生深夜から事件不拡大に尽力した。大東亜戦争復員後は、盧溝橋事件解明に生涯を捧げた。没後の1970年7月、著書『盧溝橋事件 ー日本の悲劇ー』が発刊。事件渦中の人物が直接記した詳細な手記であると共に、戦後聴取した関係者の証言が加筆され、盧溝橋事件の日本側の第一級資料として、今日に至るまで研究が重ねられている。 1901年(明治34年)、静岡県出身。静岡県立静岡中学校を経て、1923年(大正12年)、陸軍士官学校(35期)卒業後、陸軍委託学生として1928年(昭和3年)、東京外国語学校に入学、3年間支那語を修めた。
朴 権熙(パク・クォニ、朝鮮語: 박권희/朴權熙、1901年… 朴 権熙(パク・クォニ、朝鮮語: 박권희/朴權熙、1901年または1926年4月17日 - 没年不詳)は、在日韓国人の医師、大韓民国の政治家。第5代韓国国会議員。 兄も医師で弟は教授、英文学者の呂石基(朝鮮語版)は姉の夫。性格は穏やかな紳士タイプである。 慶尚南道密陽出身。東京慈恵会医科大学卒。日本での医師活動を経て、1954年の第3代総選挙と1958年の第4代総選挙で落選した後、1960年の第5代総選挙では革新政党の社会大衆党の候補として当選した。その後は金哲らが結成した統一社会党の組織局長や国会国防委員会の委員も務めた。ただし、この当選は彼が地元の名士の子であるためであり、政治環境が比較的に自由な日本にいるうちに革新的な思想を持つようになったが、闘士タイプではないため、それで当選したわけではないと当時朴と親しんだ元政治部記者の南載熙が指摘した。
李 浩錫(イ・ホソク、朝鮮語: 이호석、1901年または19… 李 浩錫(イ・ホソク、朝鮮語: 이호석、1901年または1911年11月12日 - 1959年)は、大韓民国の教員、政治家、農家。第2代慶尚北道大邱市(現・大邱広域市)長、制憲韓国国会議員。本貫は星山李氏(朝鮮語版)。字は致亨(チヒョン、치형)。 日本統治時代の慶尚北道星州郡出身。星州公立普通学校(現・星州初等学校)、大邱公立農業学校(現・大邱農業マイスター高等学校)、日本大学法学部卒。星州公立普通学校で教員を務めたほか、満州の吉林省で農場を経営した。1948年の初代総選挙では星州郡選挙区から無所属で出馬し国会議員に当選した。1951年9月19日から第2代大邱市長を務め、1952年5月5日に地方自治制度により大邱市議会(朝鮮語版)の間接選挙で初代民選市長に選出された。
岡村 基春(おかむら もとはる、1901年 - 1948年7… 岡村 基春(おかむら もとはる、1901年 - 1948年7月13日)は、日本の海軍軍人。海軍兵学校第50期卒業。最終階級は海軍大佐。 1901年高知県安芸郡井ノ口村(現在の安芸市井ノ口)の瓦葺き職人の父岡村熊之助のもとに生まれる。兄に岡村徳長、妹聖子の夫に江草隆繁がいる。1922年6月1日海軍兵学校50期を卒業。第13期飛行学生を戦闘機搭乗員として卒業。1928年鳳翔勤務時、振武盃を下賜される。 飛行学生17期の出身で、三式艦上戦闘機搭乗以来の長いキャリアを持つ戦闘機搭乗員で、特に編隊飛行の名手であり、横須賀航空隊分隊長時代、戦闘機の特殊編隊飛行の公演を行って「岡村サーカス」の名前で知られた。
大石 郁雄(おおいし いくお、1901年 - 1944年12… 大石 郁雄(おおいし いくお、1901年 - 1944年12月4日)は、日本の映画監督、アニメーション作家、脚本家である。初期には大石 郁(おおいし いく)とも。 1901年(明治34年)、東京府東京市日本橋区(現・東京都中央区)に生まれる。東京開成中学校 から黒田清輝画塾に通い、同門の横尾泥海男、鈴木重吉と知り合って漫画映画製作に興味を持ち、鈴木の所有していたドイツ製のウエルテルカメラを使って動画の習作をいくつか制作する。 1918年(大正7年)8月、森永製菓が「森永ミルクチヨコレート」発売に際し、宣伝用漫画映画『兎と亀』を製作、習作動画の腕を買われ、16歳の「大石郁」がこの動画を制作。日本初の広告用アニメーションであるが、本作は現存しない。
野口 三四郎(のぐち さんしろう、1901年〈明治34年〉-… 野口 三四郎(のぐち さんしろう、1901年〈明治34年〉- 1937年〈昭和12年〉2月22日)は日本の人形作家。静岡県三島市(旧三島町)大中島地区出身。張り子製を中心とする人形「三四呂人形」(みよろにんぎょう)を製作した早逝の作家として知られる。作品の一部は三島市が指定する有形文化財に指定されている。 1901年(明治34年)に当時の静岡県田方郡三島町大中島の質屋の家に生まれる。名前の由来は生年の「明治三十四年」による。静岡県立韮山中学校(現・静岡県立韮山高等学校)に入学後、美術部に入り絵画の技術を身につける。 卒業後は写真技術を身につけ、1928年(昭和3年)頃に東京の三越百貨店に写真技師として就職。
違星 北斗(いぼし ほくと、男性、1901年(明治34年) … 違星 北斗(いぼし ほくと、男性、1901年(明治34年) - 1929年(昭和4年)1月26日)はアイヌの歌人・社会運動家。 アイヌ民族の地位向上のための運動に一生を捧げ、その思想を新聞や雑誌に短歌の形で発表して、同時代のアイヌの青年たちに影響を与えた。また道内のアイヌコタンを廻って、まずアイヌ自身が自覚し、団結することが必要であると説いた。 バチェラー八重子、森竹竹市と並ぶ、「アイヌ三大歌人」の一人。「アイヌの啄木」と称されることもある。著作に『違星北斗遺稿 コタン』(昭和5年・希望社出版部、現在は草風館より復刊)、『違星北斗歌集 アイヌと云ふ新しくよい概念を』(角川ソフィア文庫)がある。 違星北斗は1901年(明治34年)、北海道後志支庁余市町大川町1丁目に、父甚作と母ハルの間の三男として生まれる。
大江 捨一(おおえ すていち、1901年 - 2001年9月… 大江 捨一(おおえ すていち、1901年 - 2001年9月26日)は、日本の牧師。中田重治の娘婿。ホーリネス教会と後に、アライアンス教会の発展のために貢献した指導者。父は大江邦治、息子は大江寛人。 1901年(明治34年)に当時、米子郵便局員だった大江邦治の息子として、鳥取県米子市に誕生する。1902年(明治35年) 父邦治が、日本伝道隊に入隊バークレー・バックストンに薫陶を受ける。捨一も父と共に九州各地で伝道を行う。1915年(大正4年)に日本ホーリネス教会鹿児島復活教会でキリスト教の洗礼を受ける。 ホーリネス教会で直接献身をするために聖書学院に入学する。卒業直前に1926年(昭和4年)日本ホーリネス教会中田重治監督の長女である中田陸奥と結婚する。
川崎 悦行(かわさき えつこう、かわさき えつぎょう、190… 川崎 悦行(かわさき えつこう、かわさき えつぎょう、1901年 - 1923年11月12日)は、戦前の日本の政治運動家、初期の共産主義運動家である。 石川県輪島市出身。本名川崎 憲次郎。輪島男児尋常高等小学校を経て、1915年石川県立金沢商業学校に入学。在学中弁論部員として活動するかたわら、社会運動に関心をもち中途退学した。帰郷して總持寺祖院に入り、禅僧となって「悦行」の僧名を受けた。 1921年、上京して暁民会に参加、のち日本社会主義同盟の機関紙編集にたずさわった。1922年7月15日の日本共産党の結成に参加した。 1923年2月4日の党第2回大会で、共産青年同盟の組織準備委員に任命され、4月5日創立された日本共産青年同盟の初代中央委員となった。
長澤 浩(ながさわ こう、1900年(明治33年)12月29… 長澤 浩(ながさわ こう、1900年(明治33年)12月29日 - 1967年(昭和42年)4月17日)は、日本の海軍軍人、海上自衛官。第2代海上幕僚長。海兵49期、海大甲種30期。 福島県福島市出身。福島県立福島中学校(現・福島県立福島高等学校)を経て、海軍兵学校に進む。海軍時代は主に人事畑を歩む。 戦後、公職追放を経て、山本善雄元少将、保科善四郎元中将、野村吉三郎元大将のラインで海軍再建計画を進める。これが後にY委員会に発展、同委員会において渉外及び制度、機構、定員等の立案する部門を担当する。海上幕僚長に就任後は掃海隊、練習隊群、需給統制隊、海上訓練指導隊、術科学校、遠洋航海など今日の海上自衛隊の骨格となる部門を次々に発足させ、海上自衛隊の実質的な開祖とされる。
早嶋 喜一(はやしま きいち、1900年(明治33年)12月… 早嶋 喜一(はやしま きいち、1900年(明治33年)12月28日 - 1966年(昭和41年)2月4日)は、日本の実業家。産業経済新聞社長で旭屋書店の創業者。産経学園理事長。 岡山県津山市の出身。津山中学から早稲田大学に進学するも中退。職を転々とした後、1924年(大正13年)に前田久吉の経営する南大阪新聞社に入社する。前田が『南大阪新聞』・『日本工業新聞』を根城に事業を拡張すると早嶋もそれらの事業に関与し、戦時中の新聞統制に伴う合併を経て、2紙は『大阪新聞』と『産業経済新聞』となるが、早嶋は大阪新聞では専務、産業経済新聞では社長にまで登り詰める。 戦後の1947年(昭和22年)、早嶋は公職追放に伴い大阪新聞・産業経済新聞の役職を退くが、前年に大阪市北区で創業していた雑貨・化粧品販売店「旭屋商店」を書籍専業の「旭屋書店」とし、書店経営に専念する。
久保 栄(くぼ さかえ 1900年(明治33年)12月28日… 久保 栄(くぼ さかえ 1900年(明治33年)12月28日 - 1958年(昭和33年)3月15日)は、日本の劇作家・演出家・小説家・批評家。代表作に『火山灰地』、『のぼり窯』などがある。
稲垣 足穂(いながき たるほ、1900年12月26日 - 1… 稲垣 足穂(いながき たるほ、1900年12月26日 - 1977年10月25日)は、日本の小説家。 1920年代(大正末)から1970年代(昭和後期)にかけて、抽象志向と飛行願望、メカニズム愛好、エロティシズム、天体とオブジェなどをモチーフにした数々の作品を発表した。代表作は『一千一秒物語』、『少年愛の美学』など。 稲垣は1900年(明治33年)の年末、大阪市船場に歯科医の次男として生まれた。7歳の頃から謡曲、仕舞を習う。小学生の時に祖父母のいる明石に移住し、神戸で育った。小さいころから映画や飛行機などに魅了され、その経験を後の作品に昇華させている。1914年、関西学院普通部に入学。同院では今東光と同級になる。
藤田 実彦(ふじた さねひこ、1900年〈明治33年〉12月… 藤田 実彦(ふじた さねひこ、1900年〈明治33年〉12月25日 - 1946年〈昭和21年〉3月15日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大佐。陸士33期、陸大42期。 別名、田友・田通。髭の参謀とも呼ばれた。通化事件の首謀者として八路軍に拘束され、肺炎で急死した。 鹿児島県の士族出身。薩摩郡隈之城村大字東手(現在の薩摩川内市宮崎町)出身。陸士卒業後、歩兵第23連隊附。陸大卒業後は独立軽装甲車第2中隊長として華北戦線、南京攻略戦に参加。内地に帰還し内閣情報局第1部第3課長、戦車第1連隊長を歴任。1945年、再び大陸へ向かい第125師団参謀長となった。 ポツダム宣言が受諾された翌日、関東軍にも武装解除命令が通達されたが、納得の行かない藤田は関東軍作戦班長の草地貞吾大佐に電話をかけ、「草地君、ワシの師団は関東軍命令はきかないからなあ」と命令拒否と師団の徹底抗戦を宣言した。
島村 亀鶴(しまむら きかく、1900年12月25日 - 1… 島村 亀鶴(しまむら きかく、1900年12月25日 - 1993年4月27日)は日本の牧師である。俳人でもあり哉哉(さいさい)と称した。 高知県安芸郡室戸村室津(現室戸市)で捕鯨業の家に生まれる。1930年に明治学院大学神学部を卒業し、前橋で開拓伝道をする。そして、10年間群馬教会牧師として仕える。 1939年富士見町教会の牧師に就任する。第3代目主任牧師三吉務の元で奉仕を続ける。1948年3月に三吉が主任牧師を辞任すると、1950年より富士見町教会第4代目主任牧師に就任する。1963年に日本基督伝道会の会長に就任する。1969年以降は俳誌『九十九里』の選者になる。 1979年に牧師を引退し、名誉牧師になる。
瀧本 義一(たきもと ぎいち、1900年(明治33年)12月… 瀧本 義一(たきもと ぎいち、1900年(明治33年)12月23日 - 1986年(昭和61年)8月5日)は、日本の建築工学・建築構造学者。大阪工業大学名誉教授。工学博士(京都大学)。建築学教室担当。 専門は、建築工学・建築構造(特にラーメン構造・構造計算)、建築材料(特にコンクリート工学)。 京都帝国大学工学部建築学科卒業(指導教授:京都帝国大学建築学科創設者で、関西建築界の父といわれる武田五一)。のちに工学博士(京都大学)。大阪工業大学工学部建築学科に着任。1958年同学科教授。1971年大阪工業大学名誉教授。大阪工業大学建築学科にて長きに渡り教鞭を執り、大学初期の建築構造・建築材料の研究推進・育成に貢献した。
寺崎 英成(てらさき ひでなり、1900年(明治33年)12… 寺崎 英成(てらさき ひでなり、1900年(明治33年)12月21日 - 1951年(昭和26年)8月21日)は、日本の外交官、元・宮内省御用掛。 1900年、貿易商・寺崎三郎(福岡藩出身)の二男として神奈川県に生まれた。兄は、外交官・寺崎太郎。暁星中学より旧制一高を経て東京帝大法学部を中退し、1927年に外務省入省。ブラウン大学に公務留学。1931年、ワシントンD.C.の日本大使館在勤中に米国人グエンドレン・ハロルド(Gwen Harold, 1908-1990)と出会い結婚。 その後、上海(勤務時に娘マリコが出生)、ハバナ、北京など在外勤務を経て、1941年に再びワシントンの日本大使館に赴任。
池田 末男(いけだ すえお、1900年〈明治33年〉12月2… 池田 末男(いけだ すえお、1900年〈明治33年〉12月21日 - 1945年〈昭和20年〉8月18日)は、日本の陸軍軍人。陸士34期。 太平洋戦争終戦3日後の1945年(昭和20年)8月18日 午前1時30分頃、千島列島(日本領)と南樺太(日本領)の占領を図る赤軍が、占守島(千島列島の北端)に侵攻してきた(占守島の戦い)。 池田は戦車第11連隊を陣頭指揮して赤軍を迎え撃ち、8月18日午前に戦死した(満44歳没)。戦死時の階級は陸軍大佐、戦死により同日付で陸軍少将に進級。 愛知県豊橋市向山町(現)で出生。陸軍憲兵少佐・池田筆吉の五男。兄の池田廉二(陸士23期)は陸軍中将。 愛知県豊橋中学校(現:愛知県立時習館高等学校)、陸軍中央幼年学校予科(東京陸軍幼年学校に相当)、陸軍中央幼年学校本科(後の陸軍士官学校予科、陸軍予科士官学校)を経て、陸軍士官学校に入校。
許 永鎬(ホ・ヨンホ、朝鮮語: 허영호、1900年12月21… 許 永鎬(ホ・ヨンホ、朝鮮語: 허영호、1900年12月21日 - 1952年1月30日?)は、日本統治時代の朝鮮の独立運動家、社会運動家、仏教の僧侶・宗教家、大韓民国の教育者、政治家。制憲国会議員。 別名に許 允(ホ・ユン、허윤)などがある。号は玄州(ヒョンジュ、현주)。法名は鏡湖(キョンホ、경호)。日本名は徳光 允、徳光 翼。 慶尚南道釜山府(現・釜山広域市)出身。東萊高等普通学校(現・東萊高等学校)、東洋大学、大正大学仏教学科卒。 梵魚寺が運営する中等学校の3年在学中に三・一運動に関連する東莱市場の独立万歳デモを主導したため、逮捕され1年間投獄された。出獄後は日本留学を経て、朝鮮に帰り講演活動を行った。
城戸 芳彦(きど よしひこ、1900年12月20日 - 19… 城戸 芳彦(きど よしひこ、1900年12月20日 - 1973年6月18日)は、日本の弁護士。最高裁判所判事。福岡県出身。 1924年(大正13年)に日本大学商科を卒業。法律評論社に入社したが、サラリーマン生活が嫌で同年12月に高等文官試験司法科を受験して合格し、1925年(大正14年)5月に弁護士になり、同時に同社を退社した。 著作権に興味を持ち、弁護士になって間もなく大日本作曲家協会の法律顧問となり、戦後の1947年(昭和22年)3月から1963年(昭和38年)まで日本音楽著作権協会法律顧問を務めた。1950年(昭和25年)10月に著作権法の改訂の際に、城戸試案をまとめた。1951年(昭和26年)12月に「著作権法研究と音楽著作権」の学位論文で法学博士。
静田 錦波(しずた きんぱ、本名:高岸 近治、1900年〈明… 静田 錦波(しずた きんぱ、本名:高岸 近治、1900年〈明治33年〉12月20日 - 1976年〈昭和51年〉8月10日)は、活動弁士。 群馬県佐波郡宮郷村(現・伊勢崎市)出身。大正時代に石井春波の弟子となり、弁士の技術を学ぶ。 デビュー後は、浅草の電気館や帝国館といった松竹系の直営館に出演。帝国館では現代劇の主席弁士を勤めている。主に松竹蒲田撮影所の作品を解説し、美声と名調子で観客(特に女性)を魅了した。 映画がトーキーの時代を迎えた1935年(昭和10年)には、弁士・楽士の全員解雇を通知する松竹側に対し、争議委員長として交渉するも決裂。3月19日から28日にかけてストライキを指揮した。その後は、主に歌謡曲のナレーションを務めた。
荒井 源次郎(あらい げんじろう、1900年12月20日 -… 荒井 源次郎(あらい げんじろう、1900年12月20日 - 1991年8月31日)は、昭和期の日本の社会運動家。アイヌとして近文アイヌ地返還運動に尽力した。 北海道士別市上士別にて、父ケトンチナイと母レタルオソラの長男として生まれる。1907年に上川第三尋常小学校に入学し、1913年に上川第五尋常小学校(アイヌ児童のみの学校)を卒業。1915年に上川第三尋常高等小学校を卒業し、その4月に旭川商工補習学校に入学し、1917年に卒業する。その年の12月には旭川区裁判所に採用される。源次郎の育った地元ではそれまで民間のサラリーマンや公務員は一人もおらず、アイヌ民族では初めてのことだった。1919年に第七師団司令部事務職に転じ、1924年に第七師団に入隊。
中西 利雄(なかにし としお、1900年〈明治33年〉12月… 中西 利雄(なかにし としお、1900年〈明治33年〉12月19日 - 1948年〈昭和23年〉10月6日)は、日本の洋画家。透明水彩絵具に不透明水彩絵具を併用する新たな水彩技法を編み出した。 東京府京橋区(現・東京都中央区)に生まれる。日本中学校、1927年東京美術学校西洋画科卒業。1920年代、日本水彩展、光風会展、帝展などに参加し、1928年(昭和3年)にフランスへ渡る。翌年、大学同期の小磯良平とともにヨーロッパをめぐり、サロン・ドートンヌに多数作品を出品して入選した。1931年(昭和6年)11月に日本へ帰国。帰国後の1934年(昭和9年)、第15回帝展に「優駿出場」を出品して特選。1935年(昭和10年)には第二部会展で「婦人帽子店」特選。
小沢 久太郎(小澤 久太郎、おざわ きゅうたろう、1900年… 小沢 久太郎(小澤 久太郎、おざわ きゅうたろう、1900年〈明治33年〉12月19日 - 1967年〈昭和42年〉9月18日)は、昭和期の日本の内務官僚、政治家。参議院議員(3期)、郵政大臣(第19代)。 千葉県市原郡加茂村(現在の市原市)出身(出生地は東京府東京市芝区愛宕下町)。第一高等学校を経て、1927年に東京帝国大学工学部土木工学科を卒業、内務省に入り、土木畑を歩む。特別調達庁促進局次長・近畿地方建設局長・経済安定本部建設交通局長、経済審議庁審議官などを歴任した。 1953年の第3回参議院議員通常選挙に於いて自由党公認候補として全国区に立候補して初当選、保守合同以後は自由民主党に属する。
志波 西果(しば せいか、1900年12月17日 - 196… 志波 西果(しば せいか、1900年12月17日 - 1960年代半ば)は、日本の映画監督、脚本家である。本名-頼之(よりゆき)、。 1900年(明治33年)12月17日、佐賀県佐賀市城内町(現在の同市城内)に生まれる。旧制・佐賀県立佐賀中学校(現在の佐賀県立佐賀西高等学校)を卒業後、1922年(大正11年)、東京の国際活映に入社、同社の常設館に勤務する。同年、志波が書いたオリジナルストーリーが同社の巣鴨撮影所で採用され、細山喜代松監督によって映画化され、『雲光の岐に』として同年9月1日に公開された。 1923年(大正12年)5月、22歳のときに、オリジナル脚本『彼の山越えて』がマキノ映画製作所に採用され、衣笠貞之助監督によって映画化され、脚本家としてデビューするとともに、同社の等持院撮影所に助監督として入社する。
駒井 健一郎(こまい けんいちろう、1900年(明治33年)… 駒井 健一郎(こまい けんいちろう、1900年(明治33年)12月17日 - 1986年(昭和61年)10月2日)は、日本の実業家、第三代日立製作所社長・会長。
鳥取 春陽(とっとり しゅんよう、1900年12月16日 -… 鳥取 春陽(とっとり しゅんよう、1900年12月16日 - 1932年1月16日)は大正時代の街頭演歌師。街頭演歌師の立場から洋楽の手法をもって民衆歌謡を創作した。 岩手県新里村(現在の宮古市)出身。本名:鳥取 貫一(とっとり かんいち)。 「籠の鳥」を作曲し、演歌師・作曲家として一世を風靡した。また、ヒコーキ印の帝国蓄音器商会で吹込んだ「船頭小唄」は鳥取春陽の街頭演歌師としての声価を高めた。 1923年、関東大震災後、活動拠点を大阪に移し、歌手兼作曲家として活躍。大正後期、鳥取春陽は絶頂期を迎えた。「すたれもの」「赤いばら」などが街頭やカフェーで流れた。1926年、日本蓄音器商会傘下のオリエントレコード専属となる。
高浜 年尾(たかはま としお、1900年12月16日 - 1… 高浜 年尾(たかはま としお、1900年12月16日 - 1979年10月26日)は、俳人。ホトトギス代表。俳人高浜虚子の長男。「年尾」の名は正岡子規の命名による。 東京市神田区猿楽町に虚子・いと夫妻の長男として生まれる。開成中学校から小樽高等商業学校(現・小樽商科大学)に進む。小樽高商時代は同期に小林多喜二、1期下に伊藤整がおり、全員でフランス語劇に出演したこともある。卒業後、旭シルクに入社する。のち転勤により兵庫県芦屋に転居する。句作は父虚子の手ほどきを受けて中学時代から始めていたが、この時期に一時中断、1938年に『俳諧』を発行し連句をはじめる。「俳諧」は俳句、連句、俳文、俳詩、俳論などのほか俳句の英・仏・独訳を載せるなど意欲的な俳誌であった。
井上 満(いのうえ みつる、1900年12月16日 - 19… 井上 満(いのうえ みつる、1900年12月16日 - 1959年5月14日)は、日本のロシア文学者、翻訳家。筆名は落合 文雄など。 福岡県久留米市米屋町(現・同市中央町)に生まれる。1920年、19歳の時に福岡県立中学明善校(現・福岡県立明善高等学校)卒業、同年、福岡県派遣留学生として日露協会学校に入学。1924年同校卒業。同年、神代ちとせと恋愛結婚。その後、兵役に服すが、病気のために除隊。1926年上京して文筆活動に入り、主に社会科学文献を翻訳。 1930年から6年間、当時の東京市麻布区麻布狸穴町にあった駐日ソ連大使館に勤務し(外交交渉通訳などに携わる)、二・二六事件直後の1936年3月に軍機保護法違反で逮捕されて、1938年10月まで2年7か月間投獄される。
趙 伯顕(チョ・ベッキョン、朝鮮語: 조백현/趙伯顯、190… 趙 伯顕(チョ・ベッキョン、朝鮮語: 조백현/趙伯顯、1900年12月15日 - 1994年7月13日)は、大韓民国の土壌学者、農芸化学者。 本貫は平壌趙氏。号は華農(ファノン)。 1900年12月15日、日本統治時代の朝鮮でソウルにて大韓帝国陸軍の参事であった趙性根の息子として生まれた。また、義兄には史学者の李丙燾がいる。 近代の農学および生化学研究の先駆けとなる科学者で、伝統食品の研究を実際の国民の食生活と連携させ、農学および食品産業分野を発展させた。 豆、キムチ、伝統醤類などに関する研究を通して韓国の伝統食品に科学的かつ体系的にアプローチし種菌の開発や繁殖などの研究に貢献した。 すなわち、キムチの栄養価値、味噌玉麹カビの分類、コチュジャン成分分析などの伝統食品を農学へと発展させた。
小原 謙太郎(おはら けんたろう、1900年(明治33年)1… 小原 謙太郎(おはら けんたろう、1900年(明治33年)12月15日 - 1990年(平成2年)10月2日)は、昭和期の政治家、華族。貴族院男爵議員。 本籍・岐阜県。官僚・小原駩吉の長男として生まれる。父の死去に伴い、1932年(昭和7年)6月15日、男爵を襲爵した。 1927年(昭和2年)3月、京都帝国大学法学部を卒業した。同年、大阪商船に入社し、東京支店勤務を経て、本社勤務となった。 1944年(昭和19年)7月22日、貴族院男爵議員補欠選挙で当選し、公正会に属して活動し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。同年の第1回参議院議員通常選挙に全国区から立候補したが落選した。
京極 高鋭(きょうごく たかとし、明治33年(1900年)1… 京極 高鋭(きょうごく たかとし、明治33年(1900年)12月15日 - 昭和49年(1974年)12月7日)は、昭和時代の華族、音楽評論家。男爵加藤照麿(旧出石藩士)の五男。兄に加藤成之、浜尾四郎。弟に古川緑波、増田七郎がいる。京極子爵家(旧峰山藩主家)当主京極高頼の婿養子となる。 東京出身。初名は加藤鋭五。幼少の頃は迪宮(昭和天皇)のお相手を務めた。学習院に入学し、部活動では吹奏楽、また声楽の勉強に熱中した。東京帝国大学経済学部を卒業する。大正15年(1926年)に東京日日新聞の記者となり、昭和7年(1932年)に読売新聞へ移籍する。また、昭和6年(1931年)頃より音楽ジャーナリストして音楽雑誌に執筆を行う。
吉武 好孝(よしたけ よしのり、1900年12月15日 - … 吉武 好孝(よしたけ よしのり、1900年12月15日 - 1982年2月21日)は、日本の英文学者・比較文学者・翻訳家。 大分県生まれ。東北帝国大学卒。1962年「現代イギリスの文芸批評における人間像」で文学博士。武蔵野女子大学教授を務めた。日本英学史学会第2代会長。 勲三等瑞宝章を受章。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
東井 三代次(とうい みよつぐ、1900年〈明治33年〉12… 東井 三代次(とうい みよつぐ、1900年〈明治33年〉12月14日 - 1998年〈平成10年〉8月2日)は、昭和期の宗教家、政治家。衆議院議員。 滋賀県出身。1928年(昭和3年)東京帝国大学法学部法律学科を卒業した。 天理教教庁印刷所長、同庶務課長、同輸送部長、同東京出張所長兼教庁総務、図書出版 (株) 養徳社社長などを務めた。 1946年(昭和21年)4月の第22回衆議院議員総選挙で奈良県全県区に無所属で立候補して初当選。1947年(昭和22年)4月の第23回総選挙で奈良県全県区に無所属で立候補して再選。1949年(昭和24年)1月、第24回総選挙に民主党公認で立候補して再選され、衆議院議員に連続3期在任した。
尾形 亀之助(おがた かめのすけ、1900年〈明治33年〉1… 尾形 亀之助(おがた かめのすけ、1900年〈明治33年〉12月12日 - 1942年〈昭和17年〉12月2日)は、日本の詩人。宮城県柴田郡大河原町出身。東北学院普通部中退。 近代に活躍した詩人で、「歴程」の創刊同人。大河原町の繁昌院に墓がある。 1920年石原純、原阿佐緒らの歌誌「玄土」に参加して短歌を発表。1921年(21歳)に結婚して上京、妻タケの叔父、木下秀一郎 のすすめで未来派美術協会第2回展(上野 青陽楼)に出品、〈競馬〉〈朝の色感〉は『中央美術』の批評に取り上げられる。1922年、会員となり同第三回展「三科インデペンデント展」〈コンダクター〉など7点。 同年、仙台の個展で発表したとされる〈化粧〉が、現存するただ1点。
金子 尚一(かねこ ひさかず、1900年〈明治33年〉12月… 金子 尚一(かねこ ひさかず、1900年〈明治33年〉12月12日 - 1997年〈平成9年〉)は、日本の英米文学者、教育者、立教大学名誉教授、立教大学文学部教授・予科教授・学生部長。立教大学オーケストラ部長を務めたほか、立教大学英語会(ESS)の支援も行うなど、学生らの活動にも深く携わった。 群馬県前橋市出身。1919年旧制前橋中学校卒。 1925年に立教大学文学部英文学科を卒業し、ただちに立教大学文学部助教授に就任。同年よりアメリカに留学してケニオン大学で文学修士(MA)を取得する。 1929年に立教大学予科教授に就任し、その後文学部教授も兼任し、予科では英作文と英訳を、文学部では英文学を講じた。
坂井 卓三(さかい たくぞう、1900年12月12日 - 1… 坂井 卓三(さかい たくぞう、1900年12月12日 - 1954年9月18日)は、日本の物理学者。専門は量子力学や高分子物理学、統計力学など多岐にわたる。 静岡県出身。東京帝国大学理学部物理学科を1924年に卒業。東京帝国大学工学部講師から1929年に同大学理学部助教授を経て、1939年に教授に就任した。1940年には大学在職のまま、小林理学研究所(リオンの前身)の研究員を兼務した。1939年に朝永振一郎が東京帝国大学から理学博士号を取得した際、仁科芳雄・落合麒一郎とともにその論文審査をおこなった。
笠 信太郎(りゅう しんたろう、1900年12月11日 - … 笠 信太郎(りゅう しんたろう、1900年12月11日 - 1967年12月4日)は、日本のジャーナリスト。朝日新聞論説主幹をつとめた。
菅沼 貞三(すがぬま ていぞう、1900年12月11日 - … 菅沼 貞三(すがぬま ていぞう、1900年12月11日 - 1993年2月20日)は、日本美術史学者。 静岡県小笠郡菊川町(現・菊川市)生まれ。慶應義塾大学卒。1946年慶大助教授、1960年「渡辺崋山 近世日本画家の研究」で慶大文学博士。1962年教授。崋山、池大雅など、近世文人画を研究。1966年定年退任。常葉美術館館長、のち名誉館長。
入来 重盛(いりき しげもり、1900年12月10日 - 1… 入来 重盛(いりき しげもり、1900年12月10日 - 1984年2月9日)は、日本の生物学者・動物学者。東京教育大学名誉教授。専門は動物細胞学・細胞生物学。理学博士。 現在の鹿児島県鹿児島市谷山地区出身。(旧制)鹿児島県立第二鹿児島中学校、東京高等師範学校、京都帝国大学理学部卒業。「両棲類の染色体、とくに性染色体に関する研究」の論文で理学博士号取得。 東京高等師範学校および東京文理科大学の教授から学制改革によって東京教育大学理学部教授となり、1964年に定年退官。著書に『動物の解剖』(地球出版、1966年)などがあり、生物学や理科の教科書・参考書の共著をしているほか、児童向け図鑑の編著・共著が多数ある。
日野西 資忠(ひのにし すけただ、1900年(明治33年)1… 日野西 資忠(ひのにし すけただ、1900年(明治33年)12月9日 - 1970年(昭和45年)11月7日)は、大正から昭和期の宮内官、政治家、華族。貴族院子爵議員。 侍従・日野西資博の長男として生まれ、父の死去に伴い、1942年(昭和17年)11月、家督を継承し、1943年(昭和18年)1月15日、子爵を襲爵した。 学習院を経て、1933年(昭和8年)、明治大学専門部法科を卒業した。 1926年(大正15年)殿掌に就任。その後、大礼使典儀官、寿工業書記などを務めた。 1946年(昭和21年)6月28日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し、研究会に所属し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
谷口 忠(たにぐち ただし、1900年(明治33年)12月8… 谷口 忠(たにぐち ただし、1900年(明治33年)12月8日 - 1995年(平成7年)12月11日)は、昭和期の建築学者である。
上野 直蔵(うえの なおぞう、1900年12月7日 - 19… 上野 直蔵(うえの なおぞう、1900年12月7日 - 1984年10月2日)は、日本の英文学者・英語学者。同志社大学名誉教授。専門は中世英文学・米文学。 京都府京都市生まれ。1927年、同志社大学文学部英文学科卒。1934年から1936年まで、シカゴ大学に留学。1936年、同志社大学文学部講師、のち1938年に助教授、1941年に教授。1949年から1950年まで文学部長。1952年、チョーサーに関する論文で同志社大学より文学博士の学位を取得。1954年から1956年まで再び文学部長。1960年から1965年まで学長。1968年から1970年までアメリカ学会会長。1970年、定年退職、名誉教授となる。
時枝 誠記(ときえだ もとき、1900年〈明治33年〉12月… 時枝 誠記(ときえだ もとき、1900年〈明治33年〉12月6日 - 1967年〈昭和42年〉10月27日)は、日本の国語学者。学位は、文学博士(東京帝国大学・論文博士・1943年)(学位論文「言語過程説の成立とその展開」)。東京大学名誉教授。 横浜正金銀行サンフランシスコ支店長を務めた時枝誠之の子として東京神田に生まれる。 暁星中学校、第六高等学校(現・岡山大学)を経て、1925年に東京帝国大学文学部国文科を卒業。卒業論文は『日本に於ける言語意識の發達及び言語研究の目的と其の方法』。1943年に学位論文「言語過程説の成立とその展開」で東京帝国大学より文学博士の学位を取得。 1925年に旧制第二東京市立中学校(現・東京都立上野高等学校)教諭。
脇村 義太郎(わきむら よしたろう、1900年12月6日 -… 脇村 義太郎(わきむら よしたろう、1900年12月6日 - 1997年4月17日)は、日本の経済学者。専攻は経営史。1964年から日本学士院会員、1988年から1994年まで第20代日本学士院院長を務める。1992年文化功労者。東京大学名誉教授。 父は実業家・脇村市太郎。甥に日本高等学校野球連盟会長を務めた脇村春夫がいる。 1900年、現在の和歌山県田辺市に生まれる。旧制和歌山県立田辺中学校(現・和歌山県立田辺高等学校)を経て、1921年第三高等学校卒業。1924年、東京帝国大学経済学部商業学科卒業。 1924年東京帝大助手、1926年東京帝大助教授となる。1935年から37年にかけてヨーロッパへ留学するも、帰国後の1938年人民戦線事件で検挙され、退官。
中村 是好(なかむら ぜこう、1900年〈明治33年〉12月… 中村 是好(なかむら ぜこう、1900年〈明治33年〉12月6日 - 1989年〈平成元年〉12月6日)は、日本の俳優・盆栽家。本名は中村愚堂。愛称はゼコやん。 榎本健一のカジノ・フォーリーの旗揚げに参加し、エノケン一座の中堅として活躍。エノケン主演の映画でも三枚目を演じ、戦後は庶民的な演技で多くの作品に出演した。晩年は盆栽家として知られ、日本小品盆栽協会会長を務めた。 1900年(明治33年)12月6日、佐賀県杵島郡朝日村大字(現武雄市)に生まれる。11歳の時に嬉野市の瑞光寺で得度して、名を禅徳、号を愚堂と改め、のち愚堂を本名とする。1919年(大正8年)に京都市の大徳寺の般若林に入学する。 1921年(大正10年)、新派新声劇の伊東好郎の門下となり、以後、道頓堀の山長一座や神田劇場の中村歌扇一座、根岸大歌劇団、曾我廼家十吾一座、曾我廼家五九郎劇などで活動する。
田代 文久(たしろ ふみひさ/ぶんきゅう、1900年12月5… 田代 文久(たしろ ふみひさ/ぶんきゅう、1900年12月5日 - 1996年2月29日)は、日本の政治家。元衆議院議員(日本共産党公認、4期)。囲碁3段。妻は治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟福岡県本部顧問のレツ(50年党員、2006年死去)。 福岡県直方市生まれ。旧制東筑中学(のちの福岡県立東筑高等学校)、第五高等学校を経て京都帝国大学経済学部卒業。京都帝大在学中は、淡徳三郎らの主宰する読書会から発展した社会科学研究会に所属し、帝大を卒業した1929年日本共産党に入党。 真岡炭鉱で事務員を務めた後、共産党九州地方委員会議長や党中央委員などを歴任。1949年の総選挙で福岡2区から立候補し初当選を果たす。
五島 茂(ごとう しげる、1900年12月5日 - 2003… 五島 茂(ごとう しげる、1900年12月5日 - 2003年12月19日)は、日本の歌人、経済史学者。