辻 良雄(つじ よしお、1909年1月1日 - 1980年1… 辻 良雄(つじ よしお、1909年1月1日 - 1980年11月30日)は、日本の経営者。広島県広島市出身。鴻池運輸創業家に婿入りした辻卓史は子。 1934年に神戸商業大学(現神戸大学)を卒業。サンマス貿易での勤務を経て、1939年に日商に転じ、取締役、常務、専務を経て、1968年10月に日商岩井専務に就任し、1969年11月には社長に昇格。 1971年10月に藍綬褒章を受章。 1980年11月30日急性肝炎のために死去。71歳没。
鶴 彬(つる あきら、1909年1月1日(戸籍上、実際には前… 鶴 彬(つる あきら、1909年1月1日(戸籍上、実際には前年12月といわれている) - 1938年9月14日)は、日本のプロレタリア文学の影響を強く受けた反戦川柳作家。石川県河北郡高松町(現かほく市)生まれ。本名、喜多 一二(きた かつじ)。佐高信は鶴を「『川柳界の小林多喜二』と言われた」と自著で紹介している。 1909年1月1日、石川県河北郡高松町に、竹細工職人の喜多松太郎とスズの次男として生まれた。翌年に叔父の喜多弁太郎の養子となり、1915年尋常小学校に入学し、1923年には高等小学校を卒業する。その間、9才の時に父が死に、母が再婚して兄弟姉妹6人は離別する。小学校在籍中から、『北国新聞』の子ども欄に短歌・俳句を投稿し、1924年にはペンネーム「喜多一児」で「北国歌壇」(『北国新聞』)に作品を発表する。
吉田 貫三郎(よしだ・かんざぶろう、1909年 - 1945… 吉田 貫三郎(よしだ・かんざぶろう、1909年 - 1945年)は、昭和時代前期の挿絵画家。本名は貫一。 兵庫県明石市出身。1928年(昭和3年)に神戸商業学校を卒業し、一時は電気会社の会計などをしていたが、在学中から凝っていた漫画の投稿に力を入れ、漫画雑誌『月刊マンガ・マン』で入選したのをきっかけに、1929年(昭和4年)に上京。同年、同誌の版元である東京漫画新聞社に入社する。1932年(昭和7年)から横山隆一、近藤日出造、矢崎茂四を中心とする新漫画派集団に加わり、当初は漫画家として活動していた。1933年(昭和8年)頃より『新青年』などで小説の挿絵を描くようになり、怪奇推理小説から現代小説、時代小説の挿絵まで幅ひろく手がけた。
五十嵐 醇三(いがらし じゅんぞう、1909年 - 1973… 五十嵐 醇三(いがらし じゅんぞう、1909年 - 1973年)は、日本の技術者、都市計画家。土地評価の基準となっている区画整理の根幹である土地評価の定型化を図るため、路線評価方式を考案した。 1909年、和歌山県和歌山市に生まれる。旧制和歌山県立和歌山中学校、旧制大阪高等学校を経て、1932年に東京帝国大学工学部土木工学科を卒業。同年東京府に入った後、1934年に内務省に移り都市計画課に勤務。1941年に内務省国土局計画課に勤務する。荒川上流改修事務所戸田工場主任として戸田ボートコース新設に従事。その後北支建設給署で都市局技術と計画の各課長をつとめる。 1946年、戦災復興院に移籍し土地局工務課勤務。
荒木 時次(あらき ときじ、1909年 - 没年不詳)は日本… 荒木 時次(あらき ときじ、1909年 - 没年不詳)は日本の経済学者、翻訳家。 熊本県に生まれる。熊本県立玉名中学校(1926年卒業)、福岡高等学校を経て、東京帝国大学経済学部を卒業した。その後、東京帝国大学経済学部大学院で研究した。 大学院終了後、得意のドイツ語を生かして、ナチス・ドイツの文献の翻訳などを行った。 主な作品にドイツ小国民美談・銃後の巻や陸軍の巻などがある。戦後、それらの作品は連合軍によって発禁処分となった。 戦後は自ら研究所を主催し、反共産主義の立場で活動した。
松澤 知恵(まつざわ ちえ、1909年(明治42年) - 2… 松澤 知恵(まつざわ ちえ、1909年(明治42年) - 2006年(平成18年))は、昭和初期の社団法人日本放送協会東京中央放送局の女性アナウンサー。 群馬県桐生市出身。7人姉弟の2番目として生まれる。桐生で生まれた後、すぐ京都へ移り、小学校入学の時に東京へ転居。女学校時代は再び桐生へ戻り、その後大阪へ移る。大阪府女子専門学校(後の大阪女子大学 → 現・大阪府立大学)国文科卒業。学生時代の1930年2月に大阪放送局にて童話の放送への出演を経験している。最初、学校を卒業した後は国語の教員になろうと思っていた。学校を卒業した後、父の転勤により東京へ移り住む。長姉が嫁いだ後に、当人については「良い働き口があれば、働きに出したい」と方針が変わり、1932年に東京中央放送局がアナウンサーを募集した際、親がたまたまラジオを聴いていてそのアナウンサー募集を知り、アナウンサー受験を勧めて叔母の家へ手伝いに行っていた先の桐生から東京へ戻る。
田々宮英太郎(たたみや えいたろう、1909年 - 2004… 田々宮英太郎(たたみや えいたろう、1909年 - 2004年)は、日本の現代史家。「現代史懇話会」代表。 石川県生まれ。関西大学専門部商科に学び、戦前の同盟通信社から戦後の共同通信社政治記者を経て郵政大臣秘書官となる。
濱 一衛(はま かずえ、1909年 – 1984年)は、日本… 濱 一衛(はま かずえ、1909年 – 1984年)は、日本の中国文学者。専門は中国演劇。 1909年、大阪府に生まれる。1930年、旧制浪速高等学校(現在の大阪大学)卒業、1933年、京都帝国大学卒業(中国文学専攻)。1934年、外務省文化事業部第三種補給生として北京に留学し、周作人宅に寄宿する。以来、周作人と親交を続けた。帰国後、松山高等商業学校(現在の松山大学)を経て、1949年、九州大学教養部に着任。1973年、定年退官。1984年、逝去。 死後、中国戯劇関係の和古書やパンフレットは濱文庫として、九州大学図書館に収められた。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
加藤 恭平(かとう きょうへい、1909年 - 1983年)… 加藤 恭平(かとう きょうへい、1909年 - 1983年)とは、日本の報道写真系統の写真家。栃木県に生まれる。慶應義塾大学卒業。 なお、回顧展などの加藤恭平を紹介する企画は開催されていない。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
李 弘稙(イ・ホンジク、1909年 - 1970年)は、韓国… 李 弘稙(イ・ホンジク、1909年 - 1970年)は、韓国の歴史学者。朝鮮古代史を専攻。本貫は韓山李氏。 号は南雲。京畿道利川市出身。幼少時に日本に移住する。1931年、浦和高等学校卒業。1935年、東京帝国大学文学部卒業。1936年に帰国。帰国後は李王職に在職していた。 解放後は延禧専門学校講師、明倫専門学校講師、国立中央博物館課長(1945年 - 1951年)。1953年、延禧大学(延世大学)教授。1958年、高麗大学教授。学外では、国史編纂委員会委員、国宝古蹟名勝天然記念物保存会副委員、文化財委員会委員長、大韓民国学術院委員など。 史料批判を重視した実証的な高水準の研究により、韓国の歴史学の発展に大きく寄与した。
梶山 力(かじやま つとむ、1909年 - 1941年4月)… 梶山 力(かじやま つとむ、1909年 - 1941年4月)は、昭和前期の経済社会学者。ウェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の翻訳で知られる。旧姓・田中。 岡山県出身(福山市生れ、まもなく岡山市に移転)。第一高等学校を経て、1929年に東京帝国大学経済学部に入学。一高以来の恩師本位田祥男のもと、ドイツ宗教改革史、ドイツ農民戦争史の研究を進める。1933年4月、大学卒業。 1934年4月に丸の内の経済問題研究所研究員、この年、山崎朝子と結婚。1935年4月、松山高等商業学校講師となり経済史を講じるが、病気のため12月に辞任。 療養のため辻堂に移転。妻とキリスト教伝道誌「葡萄園」を刊行。
橋本 文夫(はしもと ふみお、1909年 - 1983年)は… 橋本 文夫(はしもと ふみお、1909年 - 1983年)は、日本のドイツ語学者、中央大学名誉教授。 1934年、東京帝国大学文学部独文科卒業。戦後、中央大学教授、1980年定年退任、名誉教授。娘婿に松原秀一。
永田 逸郎(ながた いつろう、1909年 - )は、日本の翻… 永田 逸郎(ながた いつろう、1909年 - )は、日本の翻訳家、アフリカ問題研究家。愛知県岡崎生まれ。1931年東京外国語大学フランス語科卒。1963-69年アフリカ、主としてカメルーンに滞在。
越谷 達之助(こしたに たつのすけ、1909年 - 1982… 越谷 達之助(こしたに たつのすけ、1909年 - 1982年)は、日本の音楽教育家、作曲家、伴奏ピアニスト。 1931年、東京音楽学校師範科を卒業。和歌山師範学校に教官として赴任する。その後、俳優(芸名・高倉彰)を経て作曲家、伴奏ピアニスト(特に三浦環の伴奏家として著名)として各地で活躍する。第二次世界大戦後は、青山学院高等部に長年勤め、その傍ら同学院大学、短大講師を務めた。教育者としては一級であった。 この項目は、クラシック音楽に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ポータル クラシック音楽/ウィキプロジェクト クラシック音楽)。 この項目は、音楽家(演奏者・作詞家・作曲家・編曲家・バンドなど)に関連した書きかけの項目です。
岡本 博之(おかもと ひろゆき、1909年 - 2002年)… 岡本 博之(おかもと ひろゆき、1909年 - 2002年)は、日本の経済学者・大阪市立大学教授。雑誌『経済』初代編集長、日本共産党中央党学校校長、出版局長、社会科学研究所所長、新約『資本論』翻訳出版責任者等を歴任。専攻は経済学説史。先の大戦では、1943年より中部第二部隊に召集され、下士官として参戦。1945年日本の敗戦後1949年までシベリアに抑留された。 この項目は、経済学者(経済評論家を含む)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ウィキポータル 経済学、ウィキプロジェクト 経済)。
北川 一雄(きたがわ かずお、1909年 - 1983年)… 北川 一雄(きたがわ かずお、1909年 - 1983年)は、日本の経済学者。元名古屋大学経済学部長。従三位。 岐阜県生まれ。岐阜商業学校(現岐阜県立岐阜商業高等学校)を経て、1932年名古屋高等商業学校(現名古屋大学経済学部)卒業。山田勇一橋大学名誉教授とともに名古屋高商が産んだ逸材の双璧とされた。 1948年名古屋大学法経学部助教授兼名古屋経済専門学校教授、十級五号俸。1950年名古屋大学経済学部教授、文部教官一級。1953年東海船員地方労働委員会委員。1954年神戸大学より経済学博士の学位を取得。1963年名古屋大学経済学部長。 1974年に退官後、名古屋学院大学教授。従六位から、1983年に正四位勲三等旭日中綬章追贈とともに、特旨を以て位一級追陞せられ従三位に叙せられた。
木村 学司(きむら がくし、1909年 - 1982年)は日… 木村 学司(きむら がくし、1909年 - 1982年)は日本の浪曲作家、劇作家である。浅香光代、不二洋子などの台本を手がけ、女剣劇の普及に努めた人物。戦後、NHKの専属作家にもなる。 晩年には「宗教レコード制作本部」を立ち上げ、道元、親鸞、法然など、日本の名僧を題材とした浪曲を制作。それらを一冊にまとめ上げた作品集「日本名僧浪曲列伝」を執筆後に他界。 浅草に移り父が医院を開業。医者の大学を勧められ受験するが二年浪人する。中学の頃から芝居に興味を持ち劇場に頻繁に足を運んでいた学司は、浪人中に「プペダンサント」を結成した榎本健一が脚本を募集していたことを知り一晩で「ミス浅草」というコメディーを書き上げ投稿。
馬渡 勇喜(まわたり ゆうき、1909年(明治42年) - … 馬渡 勇喜(まわたり ゆうき、1909年(明治42年) - 没年不明)は、昭和時代の競泳選手。 明治大学在学中、1928年アムステルダムオリンピックに競泳日本代表として男子200m平泳ぎに出場したが予選落ちに終わった。 のち長崎游泳協会教師として木浦游泳場で水泳を指導した。
柴田 隆二(しばた りゅうじ、1909年(明治42年) - … 柴田 隆二(しばた りゅうじ、1909年(明治42年) - 1984年(昭和59年))は、静岡県掛川市出身の写真家。国画会会員。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
玻座間 里芳(はざま りほう、1909年 - 1970年)は… 玻座間 里芳(はざま りほう、1909年 - 1970年)は、昭和時代日本の医学者、作詞家。沖縄県出身。 1909年(明治42年)、沖縄県八重山郡八重山村(現在の石垣市)に生まれる。1931年(昭和6年)に台北医学専門学校を卒業し、台北帝国大学附属医学専門部に講師として在職中の1938年(昭和13年)11月に博士号を授与された。 終戦後は台湾から郷里の石垣島へ引き揚げて市内で産婦人科医を営む傍ら作詞家として活動し、1967年(昭和43年)に「石垣市歌」の懸賞募集で入選した。 1970年(昭和45年)、脳血管障害のため死去。享年62。 この項目は、医療関係者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:医学と医療、PJ:医学、PJ:歯学)。
葛巻 義敏(くずまき よしとし、1909年(明治42年) -… 葛巻 義敏(くずまき よしとし、1909年(明治42年) - 1985年(昭和60年)12月16日)は、東京市(現在の東京都)出身の作家、文芸評論家。芥川龍之介の甥。 芥川龍之介の次姉ヒサと獣医葛巻義定の長男として、東京市新宿(現在の東京都新宿区新宿)の耕牧舎牧場に生まれる。1910年に両親が離婚したため、東京市芝区銭座町(現在の東京都港区浜松町)の新原家(母の実家)で育てられる。ヒサはその後、西川豊と再婚し、龍之介の長男芥川比呂志の妻となる瑠璃子(1916年 - 2007年)を設けている。 1922年、東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)に入学。在学中、新しき村への参加を望んで家出した。
佐藤 雅子(さとう まさこ、1909年(明治42年) - 1… 佐藤 雅子(さとう まさこ、1909年(明治42年) - 1977年(昭和52年)2月28日)は、日本の料理研究家、エッセイスト。 1909年(明治42年)、東京・小石川生まれ。父は海軍軍人の竹内寛(最終階級は海軍少将)。 東京府立第二高等女学校(現在の東京都立竹早高等学校)を卒業。1931年(昭和6年)、内務官僚であった佐藤達夫(のち法制局長官、人事院総裁)と結婚。 昭和40年代から50年代にかけて、主婦業のかたわら、雑誌「ミセス」でモデルとなるとともに、料理や四季折々の暮らしを紹介、また講演活動も行った。「カリスマ主婦」のはしりとも評される。著述の内容は、生家や婚家で伝えられた日本式・西洋式の料理のレシピや、家事の工夫や知恵、家族との思い出など多岐にわたる。
平野 光雄(ひらの みつお、1909年 - )は、時計史研究… 平野 光雄(ひらの みつお、1909年 - )は、時計史研究家。秋田県秋田市生まれ。小学校卒業後、鎌倉、東京に住む。1927年旧制鎌倉中学(現:鎌倉学園)卒。1931年東洋大学支那哲学科卒。株式会社第二精工舎嘱託。戦前からの時計収集家であり、戦後は『精工舎史話』などの社史をまとめる傍ら、1951年に発足した日本時計倶楽部の中心メンバーとして『時計文化』『日本時計倶楽部通信』などのガリ版刷機関誌を発行。時計に関する著書も多い。
新井 信男(あらい のぶお、1909年(明治42年) - 1… 新井 信男(あらい のぶお、1909年(明治42年) - 1990年(平成2年)6月15日)は、日本の競泳選手。1928年アムステルダムオリンピック男子800m自由形リレー銀メダリスト。旧制同志社中学、早稲田大学専門部政治経済科卒業。京都武徳会所属。 1928年のアムステルダムオリンピック競泳男子800m自由形リレーで米山弘、佐田徳平、高石勝男とともに銀メダルを獲得。
堀 定一(ほり さだいち、1909年(明治42年) - 19… 堀 定一(ほり さだいち、1909年(明治42年) - 1936年(昭和11年)2月21日)は、日本の元アマチュア野球選手。香川県出身。
黄 鍾律(ファン・ジョンニュル / ジョンユル、朝鮮語: 황… 黄 鍾律(ファン・ジョンニュル / ジョンユル、朝鮮語: 황종율 / 황종률、1909年 - 1972年1月21日)は、満洲国および大韓民国の官僚、政治家。第8代国会議員。カトリック教徒。 1909年に漢城府で誕生。日本の内地に留学し、中央大学予科を経て、1935年九州帝国大学法文学部法科を卒業。満州国大同学院を経て、同国の官吏となった。満洲国経済部金融司において金融事務官を務め、経済分野に注力した。 第二次世界大戦終戦で満州国が消滅すると、朝鮮半島の軍政庁地域に戻った。1945年から延禧専門学校(現延世大学校)教授をしばらく務めた後、在日本公館長(1947年)、外資購買処長(1952年)、外資管理局長(1952年)、東国大学校法政大学教授(1959年)、忠清北道知事(1960年-1961年)を歴任。
牧 幹夫(まき みきお、1909年 - 1970年6月14日… 牧 幹夫(まき みきお、1909年 - 1970年6月14日)は、日本のバレエダンサー、インド文化研究家である。エリアナ・パヴロワのもとでバレエを始め、草創期の日本バレエ界で活躍した。妻は同じくエリアナ・パヴロワ門下の橘秋子。橘との間の一女、牧阿佐美も父母と同じくバレエの道に進んだ。1938年に単身でインドに渡航したが、日本への帰国が叶わないまま1970年にボンベイで死去した。 宇都宮の出身。本名は北沢 牧三郎といい、1909年に弁護士の三男として生まれた。生後すぐに母が死去し、父が顧問をしていた宇都宮四條町教会のE・C・フライ牧師夫妻に引き取られた。フライ牧師夫妻は、1904年に宇都宮に赴任した後に女学校や幼稚園を設立するなど、この地の教育に功績があった。
岩田 仭(いわた たかし、1909年~1910年 - 194… 岩田 仭(いわた たかし、1909年~1910年 - 1943年1月8日)は、日本の経済学者。専門は国際貿易論。慶應義塾大学助教授。 東京高師附属中学を経て、慶應義塾大学に入学し向井鹿松の下で学ぶ。1934年に慶應義塾大学経済学部を卒業し、直ちに助手となり、1940年に同学部助教授となる。 1942年9月初旬に原因不明の発熱により入院するも、「1,2週間くらいで退院できる症状だ」と元気に語っていた。しかし、数週間ほど原因不明のまま発熱に苦しみ、その後心内膜炎と判明する。山本登も度々病床を訪れ激励するも、同年の11月下旬に面会謝絶となり、1943年1月8日に逝去する。 慶應義塾大学では商業政策、貿易理論、独(英)語経済学の講義を担当した。
中村 英一 (なかむら えいいち、1909年 - 1945年… 中村 英一 (なかむら えいいち、1909年 - 1945年5月26日)は、日本のフィールドホッケー選手。 東京都出身。慶應義塾大学出身。 1932年ロサンゼルスオリンピックで日本代表チームの一人に選ばれる。日本代表チームには慶應大学出身者が3人含まれていた(主将の浅川増幸(OB)、浜田駿吉、中村英一)。ホッケーには3か国(英領インド・日本・米国)が出場し、日本は前回優勝国インドに大敗を喫したものの開催国アメリカに勝利を収め、銀メダルを手にした。 陸軍准尉として軍籍にあった1945年5月、東京大空襲のため死去。 浅川増幸 | 猪原淳三 | 宇佐美敏夫 | 小西健一 | 小林定義 | 今治彦 | 酒井義雄 | 柴田勝見 | 左右田秋雄 | 永田寛 | 中村英一 | 浜田駿吉 | 三浦四郎 | 監督: 広瀬藤四郎 この項目は、スポーツ関係者に関連した書きかけの項目です。
宮田 丈夫(みやた たけお、1909年 - 1986年3月1… 宮田 丈夫(みやた たけお、1909年 - 1986年3月15日)は、日本の教育学者。お茶の水女子大学名誉教授。 山形県生まれ。1930年山形県師範学校卒、山形県内の小学校教諭、35年山形高等学校入学、38年卒業、41年東京帝国大学文学部教育学科卒、42年同大学院中退、新潟県長岡女子師範学校教授、福島師範学校教授、文部省勤務、東京学芸大学助教授、55年お茶の水女子大学助教授、教授。1958年、細谷俊夫、大嶋三男、上滝孝治郎、宮坂哲文らと教育経営学会を設立。73年定年退官、名誉教授。
上武 正二(かみたけ まさじ、1909年 - 1983年7月… 上武 正二(かみたけ まさじ、1909年 - 1983年7月28日)は、日本の心理学者。 1935年に東京文理科大学心理学科を卒業後、ベルリン大学に学んだ。東京教育大学助教授、教授、教育学部長を歴任。1962年「双生児法による心的遺伝の研究」で東京教育大学より文学博士の学位を取得。1965年に定年退官し名誉教授となり、明星大学教授に就任。1980年11月 勲三等旭日中綬章を受章。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
橘 忠衛(たちばな ただえ、男性、1909年 - 1975年… 橘 忠衛(たちばな ただえ、男性、1909年 - 1975年3月15日)は、英文学者。 高知県香美郡(現・香美市)に生まれる。高知高等学校を経て、1931年東北帝国大学英文科卒業、外務省嘱託、神戸大学助教授、明治大学教授を歴任。シェイクスピア、ゲーテを研究した。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
柳 聖甲(ユ・ソンガプ、朝鮮語: 유성갑、1909年または1… 柳 聖甲(ユ・ソンガプ、朝鮮語: 유성갑、1909年または1910年11月11日 - 没年不明)は、大韓民国の政治家。制憲韓国国会議員。仏教徒。 本貫は高興柳氏(朝鮮語版)。ハングル表記はリュ・ソンガプ(류성갑)とも。 日本統治時代の全羅南道高興郡出身。漢文修学を経て宝城郡筏橋宋明学館、城西学院中学校卒。大正大学予科修了、日本大学法科卒。満洲で活躍した後、大韓独立促成全国青年総連盟常任委員、国民会青年団監察委員長・総務部長、東国大学講師、国華女子専門学校教授、檀民党所属の国会議員、国会法制司法委員を務めた。
指田 吾一(さしだ ごいち、1909年〈明治42年〉 - 1… 指田 吾一(さしだ ごいち、1909年〈明治42年〉 - 1969年〈昭和44年〉3月24日)は、日本の医師、政治家。東京都田無市(現在の西東京市)長を務めた(2期)。 熊本県宇土市出身。日本医科大学を卒業した。戦時中は軍医として活動する。1945年、広島で原子爆弾により被爆する。この時の被爆体験を記録し、後日『原爆日記』として出版した。1953年12月、東京都北多摩郡田無町で開業する。1962年、田無町長に就任した。田無町は東京のベッドタウンとして人口が急増し、町長2期目の1967年に田無町は市制施行した。教育施設の整備のほか、急増する人口にともない、ゴミや屎尿の処理が大きな問題となり、市内に屎尿処理場を建設することを決定した。
柴田 勝見(しばた かつみ、1909年(明治42年) - 1… 柴田 勝見(しばた かつみ、1909年(明治42年) - 1942年(昭和17年)8月8日)は、日本のフィールドホッケー選手。1932年ロサンゼルスオリンピックに出場し、銀メダルを獲得した。1942年に再召集を受けて出征した中国で戦死。「戦没オリンピアン」の一人である。 名前については「勝巳」と表記もされるが、「一橋いしぶみの会」によると、本人は「勝見」を使っていたという。 愛知県生まれ。1926年に東京商科大学(現在の一橋大学)に入学。同大学のホッケー部を全国レベルの強豪に押し上げたという。 1932年に東京商科大学卒業をして間もなく、1932年ロサンゼルスオリンピックにホッケー競技のメンバーとして参加。
相川 博(あいかわ ひろし、1909年 - 1948年6月4… 相川 博(あいかわ ひろし、1909年 - 1948年6月4日)は日本の雑誌編集者、記者。雑誌「改造」の編集人、横浜事件の当事者の一人。 1909年、山口県に生まれる。広島高等学校理科を病気で中退後、上京し、法政大学予科に入学、1932年に同大学法文学部独文科に進学する。在学中、大学内の左翼読書会グループに参加し、『戦旗』やマルクスの『賃労働と資本』などを読む。1934年に卒業し、神保町の尚文堂書店に勤務し、月刊『独逸語』の編集・校正に携わる。1937年に改造社に入社し、編集部に所属、記者として勤務する。雑誌『大陸』の記者などをし、1940年に編集主任、1941年10月頃に雑誌『改造』の編集次長となる。
小野 康人(おの やすひと、1909年 - 1959年1月5… 小野 康人(おの やすひと、1909年 - 1959年1月5日)は日本の雑誌編集者。『改造』編集人、横浜事件の当事者の一人。 1909年、東京に生まれる。東京神田の大成中学を卒業し、1928年に法政大学予科に入学する。1931年に大学予科を卒業し、実兄が経営する出版業を手伝い、そのかたわらプロレタリア作家同盟東京支部に関係し活動する。1935年に法政大学法文学部英文科に入学し、1938年3月に卒業、同年4月に改造社に入社する。編集部に所属し、『大陸』『改造時局版』『改造』などの諸雑誌の編集業務に携わる。 1942年7月、細川嘉六の『植民史』の出版記念を兼ねた招待旅行・「泊旅行」に参加する。1943年5月26日、西尾忠四郎、相川博、木村亨、加藤政治らとともに治安維持法違反容疑で神奈川県特別高等警察に検挙される。
森 東吾(もり とうご、1909年(明治42年) - 200… 森 東吾(もり とうご、1909年(明治42年) - 2001年(平成13年)12月26日)は、日本の社会学者。大阪大学名誉教授、追手門学院大学名誉教授。専門は理論社会学、宗教社会学。 1909年(明治42年)、神奈川県に生まれる。1932年(昭和7年)に法政大学法文学部哲学科を卒業し、文部省に入省する。 文部省社会教育局、岡崎高等師範学校教員を経て、大阪大学助教授に就任する、のち教授。大阪大学を退官後、追手門学院大学教授に就任する。 2001年(平成13年)12月26日に死去、92歳。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
内田武志(うちだ たけし、1909年 - 1980年12月3… 内田武志(うちだ たけし、1909年 - 1980年12月3日)は、日本の民俗学者。血友病で動けない体で研究を続け、菅江真澄研究の第一人者として知られる。柳田国男賞受賞者。 尾去沢鉱山碇発電所で働く修三とサトの二男・武として八幡平宮川村(現・秋田県鹿角市)に生まれる。大正12年(1923年)に鎌倉に転居したが関東大震災で家が全焼し、1年後に静岡へ転居、静岡商業学校に入学するも血友病を発病して退学。この頃蒲原有明の知遇を得て、柳田国男・渋沢敬三に師事し、昭和5年(1930年)に雑誌『⺠俗学』に「年中行事・鹿角郡宮川村地方」を発表、昭和11年には『鹿角方⾔集』を刊行した。 昭和20年、戦争により、親戚を頼って毛馬内に疎開し、江戸時代に東北の旅記録を残した菅江真澄の研究に没頭、翌年妹ハチとともに秋田市に転居し、柳田・渋沢の支援で「菅江真澄研究会」を設⽴。
大槻 筆子(おおつき ふでこ、1909年 - 1992年9月… 大槻 筆子(おおつき ふでこ、1909年 - 1992年9月19日)は、日本のキリスト教伝道者。夫は同じく伝道者の大槻武二。武二とともに聖イエス会の中心人物であり、教団内では霊母と呼ばれた。 1931年3月、キリスト教に関心を持つ。5月27日に高浜の城山海岸にて、東舞鶴教会の上井乙熊牧師より受洗。1932年3月11日、「なんじは我に従え」との召命に従い、西舞鶴教会・綾部教会を経て神戸ホーリネス教会に出家、献身。12月3日に大槻武二と結婚。 1933年にホーリネス教会が分裂し、中田重治を支持してきよめ教会に所属し、1934年2月に武二とともに須磨きよめ教会に任命される。1936年満州国奉天の奉天きよめ教会に任命される。
八村 信三(はちむら のぶぞう、1908年〈明治41年〉12… 八村 信三(はちむら のぶぞう、1908年〈明治41年〉12月29日 - 1990年〈平成2年〉6月2日)は、日本の実業家。鳥取銀行元頭取。鳥取ガス元監査役。鳥取商工会議所元会頭。鳥取県経済同友会元代表幹事(東部)。旧姓・山田。位階は正五位。 大阪府布施市(現:東大阪市)の素封家・山田勝太郎の次男として生まれる。大阪府立天王寺中学校 、静岡高等学校を経て、1934年(昭和9年)東京帝国大学経済学部を卒業。 1934年(昭和9年)7月、鳥取市の素封家・八村八太郎の養嗣子となる。 1936年(昭和11年)鳥取市収入役となり、同市助役を経て、1944年(昭和19年)退任。1949年(昭和24年)鳥取銀行常務、1959年(昭和34年)専務、1961年(昭和36年)副頭取を経て、同年11月頭取に就任。
淡中 忠郎 (たんなか ただお、1908年12月27日 - … 淡中 忠郎 (たんなか ただお、1908年12月27日 - 1986年10月25日)は、日本の数学者。専門は代数学。 愛媛県松山市生まれ。東北帝国大学卒。1945年東北帝国大学教授、後に東北学院大学教授を務めた。ポントリャーギン双対性をコンパクト群へ拡張した淡中-クラインの双対定理で著名。 この定理はグロタンディークによる淡中圏の概念へと発展した。 東京出版の月刊誌『大学への数学』で、「数学雑談」という連載記事の執筆を1960年(昭和35年)から晩年まで担当していた。 この項目は、数学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
斎藤 秀一(さいとう ひでかつ、1908年12月24日 - … 斎藤 秀一(さいとう ひでかつ、1908年12月24日 - 1940年9月5日)は、日本の言語学者、僧侶。エスペランティスト、ローマ字論者。別名に森馥、鳥海昇、北島三郎、野沢愛蘭。 明治41年、山形県東田川郡山添村(現:鶴岡市櫛引地区)泉流寺の長男として生まれる。鶴岡中学(現・山形県立鶴岡南高等学校)、1931年駒澤大学文学部東洋文学科卒業。大学在学中、日本エスペラント学会、カナ文字会、秋田雨雀らのソビエトの会の会員となる。 大学卒業後、朝日村大泉小学校教員となり、大平や八久和などの分校に勤めていたが、軍国主義教育に批判的であり、児童にローマ字を教えていたことが問題視され、赤化教員の疑いで鶴岡警察署に1度目の逮捕。
永井 行蔵(ながい こうぞう、1908年〈明治41年〉12月… 永井 行蔵(ながい こうぞう、1908年〈明治41年〉12月22日 - 1988年〈昭和63年〉8月23日)は、日本の国文学者。新潟大学名誉教授。 新潟県南蒲原郡長沢村大字中野原新田(現 三条市中野原)の教育者・永井長祥の三男として出生。 1926年(大正15年)3月に新潟中学校を卒業、1929年(昭和4年)3月に新潟高等学校を卒業、1932年(昭和7年)3月に東京帝国大学文学部国文学科を卒業。池田亀鑑のもとで『神皇正統記』の研究や『校異源氏物語』の作成に従事。 1933年(昭和8年)1月に岩波書店から出版の『岩波講座 日本文學』の付録の雑誌『文學』第19号に「神皇正統記阿刀氏本に就いて」という題名の論文を発表し、その中で『神皇正統記』の阿刀本を紹介して草稿もしくは初稿本と推定した。
稲村 耕雄(いなむら やすお、1908年12月21日 - 1… 稲村 耕雄(いなむら やすお、1908年12月21日 - 1967年4月24日)は、日本の無機化学者、色彩学者。元東京工業大学教授。インターカラー共同設立者。 父は中型ゆかた本舗の染色会社社長で、経営者になるため当初は東京高等商業学校(現一橋大学)を志望していたが、戦後恐慌のため家業が倒産し、1930年に東京高等工業学校染料科を卒業。1933年東京工業大学染料化学科卒業。1938年から日仏交換留学生としてコレージュ・ド・フランス、モンペリエ大学科学研究所に留学。 東京工業大学講師、東京工業大学助教授を経て、東京工業大学教授。1949年大阪大学理学博士。 1953年日本流行色協会発起人。1963年インターカラー設立。
山田 坂仁(やまだ さかじ、1908年12月20日 - 19… 山田 坂仁(やまだ さかじ、1908年12月20日 - 1987年6月3日)は、日本の哲学者。 長野県諏訪郡豊田村(現・諏訪市)出身。旧制長野県立諏訪中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校)、旧制松本高等学校を経て、1929年東京帝国大学文学部哲学科卒業、報知新聞社入社。プロレタリア科学研究所、唯物論研究会に所属し、「哲学のレーニン的段階」に関する論争に参加、山岸辰蔵・薬袋俊二・鵜飼隆夫などの筆名で機関誌『唯物論研究』などを執筆。1937年東京府立第九中学校(現・東京都立北園高等学校)英語教師。1940年読売新聞社外報部嘱託。1943年北隆館出版部長。1946年千葉工業大学予科教授。1957年明治大学経営学部教授。
長谷川 鉱平(長谷川鑛平、はせがわ こうへい、1908年12… 長谷川 鉱平(長谷川鑛平、はせがわ こうへい、1908年12月20日 - 1995年7月16日)は、日本の編集者、文筆家。 岐阜県出身、名古屋市生まれ。1924年、私立目白中学校3年編入学、埴谷雄高が同期。1926年、目白中学校4年修了で第一高等学校 (旧制)に入ったが1928年に病気のため退学。1929年、法政大学予科第二部入学。法政大学文学部哲学科卒。岩波書店、1946年中央公論社勤務、『思想の科学』などの編集に当たる。63年中央公論社を定年退職。本州大学教授、改称で長野大学教授、1984年退職。文学、哲学などについて執筆した。
田村 しげる(たむら しげる、本名:田村 茂、1908年(明… 田村 しげる(たむら しげる、本名:田村 茂、1908年(明治41年)12月20日 - 1980年(昭和55年)10月14日)は、昭和期の作曲家。妻は作詞家の寺尾智沙、娘は女優の田村奈巳。 京都府中郡峰山町(現京丹後市)出身。家は、現在の田村写真館(京丹後市峰山町白銀)1925年(大正14年)地元の宮津中学校を卒業し上京。武蔵野音楽学校に入学。1927年(昭和2年)3月7日に発生した北丹後地震で故郷の家が被災し、財産を喪失。苦学する。 1931年(昭和6年)武蔵野音楽大学を卒業。ビクターレコードから「酔って笑って」を作曲し作曲家デビュー。翌年キングレコードの専属となって松島詩子らの曲を作曲し、さらにポリドールレコードの東海林太郎などにも曲を提供した。
横山 林二(よこやま りんじ、1908年(明治41年)12月… 横山 林二(よこやま りんじ、1908年(明治41年)12月20日-1973年(昭和48年)2月25日)は、日本の自由律俳句の俳人。層雲の荻原井泉水に師事、のちプロレタリア俳句運動に転じ、新興俳句弾圧事件により投獄された。戦後は新俳句人連盟常任委員、現代俳句協会会員。東京都生まれ、本名は吉太郎。 東京都港区に生まれ、芝新網町に育つ。父は露天商、母は日雇労働者、二人の姉は芸者と女工という貧しい家庭だった。新網の特殊小学校、専修商業学校を経て早稲田大学政経学部を卒業。14歳の時に関東大震災を経験。関東大震災朝鮮人虐殺事件や甘粕事件を契機に社会性俳句に目覚め、その年の1923年、荻原井泉水が選者をしていた朝日新聞の自由律俳句欄に投句、翌年にはその井泉水が主宰する層雲に入会、同じ層雲の栗林一石路や橋本夢道らとプロレタリア俳句運動を展開する。
大村 武彦(おおむら たけひこ、1908年12月19日 - … 大村 武彦(おおむら たけひこ、1908年12月19日 - 1994年8月23日)は、日本の銀行家。西日本相互銀行社長、会長を務めた。福岡県出身。位階は正五位。 1936年に九州帝国大学法科を卒業し、同年に朝鮮銀行に入行。 1947年3月に福岡税務署で勤務し、1948年3月に熊本財務局理財局長を経て、1952年2月に西日本相互銀行に転じ、1964年5月に取締役に就任し、1968年5月に常務、1971年5月に専務を経て、1973年7月に社長に就任。1982年10月に会長に就任し、1984年6月に名誉会長を経て、1986年6月に常任相談役に就任。 1975年9月に藍綬褒章を受章し、1981年4月に勲三等瑞宝章を受章。