河井 洋一(かわい よういち、1907年[要出典] - 19… 河井 洋一(かわい よういち、1907年[要出典] - 1980年2月)は、日本の実業家。旭電化工業株式会社(現・株式会社ADEKA)元社長、会長。 1907年生まれ。慶應義塾大学卒業後、古河電工常務取締役を経て、古河化学工業社長、日本石油化学副社長を歴任し[要出典]、1971年5月旭電化工業株式会社社長就任。1977年6月会長就任。1979年6月相談役就任。1980年2月死去。 父は横浜護謨製造(現・横浜ゴム)初代社長の河井浩。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
中島 関爾(なかじま かんじ、1907年 - 1980年)は… 中島 関爾(なかじま かんじ、1907年 - 1980年)は、日本の英文学者、博士。駒澤大学教授、僧侶。 駒澤大学文学部人文学科(英文学)卒業。曹洞宗研究生を経て、国際仏教協会に就職。東亜研究所嘱託も務めた。戦後、駒澤大学教授となる(英文学)。 1961年、論文「シェイクスピアの批判的研究」で博士号(文学、駒澤大学)取得。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
前田 幸蔵(まえだ こうぞう、1907年(明治40年) - … 前田 幸蔵(まえだ こうぞう、1907年(明治40年) - 1986年(昭和61年))は、日本の公認会計士、税理士。元日本税理士会連合会会長。 鳥取県八頭町(旧船岡町)出身。1934年(昭和9年)拓殖大学商科を卒業し、同年計理士に登録。1950年(昭和25年)、公認会計士試験に合格する。日本計理士会常任理事、税理士試験委員、中小企業中央連絡懇談会委員等を歴任。 1965年の第7回参議院議員通常選挙では、全国区で立候補して当選した青木一男を支援。後に公職選挙法違反(違法文書配布)の容疑で警視庁に逮捕された。
西里 龍夫(にしさと たつお、1907年 - 1987年)は… 西里 龍夫(にしさと たつお、1907年 - 1987年)は、日本の社会主義運動家。戦後は日本共産党熊本県委員長を務めた。 熊本県出身。東亜同文書院大学に26期生として入学。在学中、「日支闘争同盟」を結成し、海軍陸戦隊に反戦ビラをまく事件を起こした。安斎庫治、中西功らとともに反戦運動を行う。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
宮崎 一老(みやざき いちろう、1907年(明治40年) -… 宮崎 一老(みやざき いちろう、1907年(明治40年) - 没年不明)は、日本の水産学者。兵庫県生まれ。旧制姫路高等学校を経て、1932年に東京帝国大学農学部水産学科を卒業、農林省水産講習所(現東京海洋大学)金沢演習場、農林省水産局(現農林水産省)、宮崎県経済部水産課、鯨類研究所勤務。1962年「二枚貝の発生、特に浮游幼貝の識別に関する研究」で東北大学農学博士。日本捕鯨協会勤務。
小沢 武夫(おざわ たけお、1907年 - 1996年)は、… 小沢 武夫(おざわ たけお、1907年 - 1996年)は、日本の外交官。シカゴ総領事、駐チェコスロヴァキア特命全権大使などを務めた。 神奈川県出身。1932年東京商科大学(現一橋大学)卒業。1936年高等試験外交科合格、外務書記生(アメリカ合衆国)。1937年外交官補(アメリカ合衆国)。1938年上海・漢口領事官補。1940年外務省東亜局第二課兼対満事務局事務官。1942年満州国勲三位桂国章受章。1943年満州国国勢調査紀念章受章。 日本の降伏後、一等書記官を経て、1945年終戦連絡地方事務局連絡官。1948年総理庁官房財閥役員審査課長。1951年外務省連絡局調整課長。1952年、サンフランシスコ平和条約の発効によりペルーとの国交が再開したことに伴い、駐ペルー臨時代理公使に赴任。
矢吹 勝二(やぶき かつじ、1907年 - 1986年)は、… 矢吹 勝二(やぶき かつじ、1907年 - 1986年)は、日本の英語学者。 広島県生まれ。1931年早稲田大学高等師範部英語英文学科卒業、ジャパン・ツーリスト・ビューロー入社。1967年定年退職、調布学園女子短期大学教授。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
石津 良介(いしづ りょうすけ、明治40年(1907年) -… 石津 良介(いしづ りょうすけ、明治40年(1907年) - 昭和61年(1986年))は、日本の写真家。ファッションデザイナー・石津謙介の兄。 岡山県岡山市片瀬町(現・岡山市北区天瀬)の老舗紙問屋「紙石津」の長男として生まれる。慶應義塾大学経済学部に入学。在学中に家業を継がないことを宣言し、これにより弟の謙介が家業を継ぐ羽目になった。昭和7年(1932年)大学を中退。帰郷し写真家を志す。 一時期、松竹キネマに入社。昭和9年(1934年)岡山在住の写真家・大森一夫、山崎治雄らと県下で初の写真家集団「光ト影の会」を結成(のちの岡山県知事・長野士郎が旧制第六高等学校時代、石津に憧れ同会に入会している)。
入江 好之(いりえ よしゆき、本名:入江 好行、1907年(… 入江 好之(いりえ よしゆき、本名:入江 好行、1907年(明治40年) - 1989年(平成元年))は、日本の詩人・児童文学作家・教育者・経営者。 北海道小樽市生まれ。1928年(昭和3年)旭川師範学校(現・北海道教育大学旭川校)卒業。 在学中に詩誌「北斗星」を創刊。旧制中学校教諭]しながら、作詩活動を続け、詩誌「青光」を創刊。1936年(昭和11年)に第一詩集「あしかび」を刊行。その後官憲の弾圧を受け、教職を辞職し、1943年(昭和18年)に満州国に渡る。満州国日本人中学校の教員をしていたが、終戦。シベリア抑留を経て、1949年(昭和24年)に帰国。 1956年(昭和31年)北海道詩人協会の設立に参画し、同協会事務局長に就任( - 1976年(昭和51年))。
本部 マサ(ほんぶ マサ、1907年 - 1991年)は、宮… 本部 マサ(ほんぶ マサ、1907年 - 1991年)は、宮崎県において埴輪の複製の制作に従事し、多数の作品を残した女性。「はにわ製作の先駆者」と評される。1955年には、宮崎市に本部はにわ製作所を開業して、以降、土産物などとして販売される埴輪を多数制作した。 1963年に開園した宮崎市の平和台公園にある「はにわ園」には、本部が制作した複製の埴輪およそ400基が配置された。 本部マサは、下穂北村(後の西都市の一部)に生まれた。父親の大次郎は、林業経営の傍ら商家でもあったが、古墳の遺跡や出土品への関心をもっており、西都原古墳群の発掘調査にも関わりがあったため、マサは幼い頃から出土品に触れる機会があった。
永田 寛(ながた ひろし、1907年(明治40年) - 不明… 永田 寛(ながた ひろし、1907年(明治40年) - 不明)は、日本のホッケー選手。第10回ロサンゼルスオリンピック銀メダリスト。
佐藤 昌胤(さとう しょういん、1907年(明治40年)- … 佐藤 昌胤(さとう しょういん、1907年(明治40年)- 1970年(昭和45年)9月4日)は画家。伊勢湾台風を題材にした絵画などで知られる。三重県桑名郡長島町(現在の三重県桑名市)出身、長島町町会議員も務めた。 晩年住んだ屋敷は改修され、桑名市の情報交流施設・又木茶屋として利用されている。 1921年(大正10年)、三重県立津中学校に入学する。1924年(大正13年)、三重県立富田中学校に編入学するも、翌年退学する。同校の先輩の丹羽文雄の影響を受け、文学を志し上京した。川端画学校で油絵の修業を始め、曽宮一念の指導を受けた。1928年(昭和3年)「晩秋の丘」が帝展に入選する。1930年から春陽会に出品し、1948年に準会員として推挙され、後に会員となる。
本庄 光郎(ほんじょう こうろう、1907年 - 1995年… 本庄 光郎(ほんじょう こうろう、1907年 - 1995年6月7日)は、大阪府出身の写真家。シュルレアリスムなど前衛芸術に強く影響され、あらゆる技法を駆使したヌード作品を多く制作したことで知られる。大阪大倉商業学校(現・関西大倉高等学校)出身。
小畠 元雄(おばたけ もとお、1907年〈明治40年〉 - … 小畠 元雄(おばたけ もとお、1907年〈明治40年〉 - 2004年〈平成16年〉8月17日)は、日本の演劇学者。 大阪生まれ。神戸第一中学校(現兵庫県立神戸高等学校)卒、第六高等学校卒、1929年東京帝国大学文学部美学美術史学科卒業、同大学院入学後、1931年演劇研究のため渡米、ミネソタ大学、コロンビア大学大学院で学び、その後ヨーロッパに滞在、1934年帰国。1935年国士舘大学教授、大阪学芸大学(のち大阪教育大学)教授。1969年『演劇学の基本問題』で日本演劇学会河竹賞受賞。1970年大阪教育大学名誉教授。1978年勲三等旭日中綬章受勲。
猪野 俊平(いの しゅんぺい、1907年(明治40年) - … 猪野 俊平(いの しゅんぺい、1907年(明治40年) - 1981年(昭和56年)7月4日)は、日本の植物形態学者。愛媛県生まれ。松山中学校(現・愛媛県立松山東高等学校)、松山高等学校卒、東京帝国大学理学部生物学科卒。1946年「ネジモクの胚発生について」で東北帝国大学理学博士。北海道帝国大学理学部講師、岡山大学助教授、教授。1970年定年退官、名誉教授。
正田 満三郎(しょうだ まんさぶろう 1907年 - 没年不… 正田 満三郎(しょうだ まんさぶろう 1907年 - 没年不明)は、日本の裁判官、法学者。
保田 耕(やすだ こう、1907年 - 1943年9月7日)… 保田 耕(やすだ こう、1907年 - 1943年9月7日)は、日本の眼科医。外島保養院と邑久光明園というハンセン病療養所に勤務し、初代奄美和光園園長が発令されたが、応召し、中国で戦病死した。 1907年、和歌山県で出生。 1932年。大阪大学卒業。外島保養院医員。1934年。外島保養院水害後は邑久光明園に勤務。1938年。邑久光明園医務課長。1943年4月。奄美和光園園長発令。5月27日園長保田耕ほか職員7名と家族21名が奄美大島に到着。戦争が激しく奄美島民の出迎えはなかった。1943年8月31日。応召。1943年9月7日。中国で戦死。同日 松本当太郎が奄美和光園園長心得に発令。別の文献によると、43年9月に赤紙がきた。
中森 三彌(なかもり さんや、1907年(明治40年)- 2… 中森 三彌(なかもり さんや、1907年(明治40年)- 2002年(平成14年)7月16日)は、日本の写真家である。 大阪新橋の染物屋に生まれる。関西大学専門部中退。大阪光芸倶楽部、銀影探光倶楽部を経て、1940年(昭和15年)、浪華写真倶楽部に入会。小石清、本庄光郎、花和銀吾らから指導を受ける。長く同倶楽部の幹事長や代表を務めた。中藤敦らと堺公共職業補導所写真科にて指導、なんばデザイナー学院写真科教授。サンフォトクラブを主宰する傍ら、他写真クラブを指導しアマチュア写真家の育成に携わった。他にくらぶ草土会、オール関西写真集団に属した。日赤大阪府支部写真奉仕団団長、大阪写真材料商業組合理事、全日本写真連盟関西本部顧問を務め、日本写真協会功労賞、全日本写真連盟関西本部表彰、日本赤十字社厚生大臣特別表彰など各方面から受賞。
李 錫基(イ・ソッキ、朝鮮語: 이석기、1907年または19… 李 錫基(イ・ソッキ、朝鮮語: 이석기、1907年または1908年1月2日 - 1974年6月25日または1975年6月25日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の公務員、政治家、実業家。牙山郡守、公州郡守、第4・5代大田府尹、ソウル特別市副市長、第2・3・5代韓国国会議員を歴任した。 本貫は洪川李氏。仏教徒。元国会議員の方一弘は娘婿。 忠清南道扶余郡出身。1931年京城法学専門学校卒、1939年中央大学法学部卒。弁護士試験、高等文官試験行政科合格。京畿道内務部を経て、1941年に牙山郡守、1945年に公州郡守、忠清南道地方課長、1946年に第4・5代大田府尹、1948年にソウル特別市副市長、1950年に文教部秘書室長、国会議員、1953年に国会内務委員長、以後弾劾裁判所審判官、民主党院内副総務・総務、1967年に新韓党常務委員を歴任した。
井上 真六(いのうえ しんろく、1907年 - 没年不詳)は… 井上 真六(いのうえ しんろく、1907年 - 没年不詳)は第二次大戦中の資材不足を補うため、純国産木製飛行機の製造を提唱し、キ107を開発した航空機技術者。父は李氏朝鮮顧問であり、ハングル普及に尽力したことでも知られる井上角五郎。 東京の麹町区一番町で1907年(明治40年)4月9日に生まれる。衆議院議員を長く務め、いくつもの企業設立に関わる実業家でもあった父の邸宅で育ち、兄弟一人ずつに女中が付く生活であった。東京府立第五中学校から第一高等学校へ進学。1931年(昭和6年)3月に東京大学工学部航空学科を卒業し、中島飛行機製作所へ入社した。同社では太田工場設計部技師となり、試作設計業務に従事する。
佐藤 章蔵(さとう しょうぞう、1907年〈明治40年〉 -… 佐藤 章蔵(さとう しょうぞう、1907年〈明治40年〉 - 1981年〈昭和56年〉7月12日)は日本の工業デザイナー。東京都出身。若い頃から自動車の造形美に魅せられ、第二次世界大戦前から東京の街頭で多くの名車・珍車を撮影していた。 1937年(昭和12年)に東京帝国大学工学部機械工学科を卒業し、日産自動車に入社。1954年(昭和29年)に同社初代造形課課長となり、ダットサン・110/210型系(1955年発表)及びその後継車である初代ブルーバード(310型系、1959年発表)をデザインした。1956年(昭和31年)には110型の改良型である112型のデザインで毎日デザイン賞を受賞する。両車のデザインは共に虚飾が無く、シンプルで機能的なことが特徴であった。
中村 常次郎(なかむら つねじろう、1907年 - 1980… 中村 常次郎(なかむら つねじろう、1907年 - 1980年7月16日)は、日本の経営学者。東京大学名誉教授。 秋田県秋田市出身。東京帝国大学経済学部卒、1954年「経営経済学の展開」で東京大学より経済学博士の学位を取得。福島高等商業学校教授を務め、1949-1951年福島大学の初代学長、東京大学経済学部教授となり、1968年定年退官、名誉教授、中央大学教授、創価大学教授を務めた。
浜田 義一郎(はまだ ぎいちろう、1907年 - 1986年… 浜田 義一郎(はまだ ぎいちろう、1907年 - 1986年6月11日)は、日本の国文学者。近世の狂歌、川柳を研究した。 東京神田神保町生まれ。1932年、東京帝国大学国文科卒。東洋大学助教授、教授を経て、1969年、大妻女子大学教授。
吉倉 範光(よしくら のりみつ、1907年 - 1988年3… 吉倉 範光(よしくら のりみつ、1907年 - 1988年3月23日)は、日本の精神医学者。 東京出身。1933年東京慈恵会医科大学卒業、千葉医科大学講師、フランス留学、1947年「青年期「独創的危機」の精神病理学的研究」で慶応義塾大学医学博士。戦後は日本大学医学部教授。
頭山 秀三(とうやま ひでぞう 1907年 - 1952年)… 頭山 秀三(とうやま ひでぞう 1907年 - 1952年)は、日本の右翼活動家。 頭山満の三男。東京農業大学卒業。1931年に天行会を創設して会長となる。1932年に古賀清志、中村義雄から計画を打ち明けられ、五・一五事件に後援していた。児玉誉士夫らと共に暗殺計画を企てていたことから検挙され、禁固3年となる。1940年には大森曹玄らと日本主義青年会議を結成。大政翼賛会参与にもなる。1952年より街頭で演説会を行っていたが、1か月で交通事故で死去。三島由紀夫の小説のモデルにもなる。 1945年8月20日に放送のNHKの放送原稿を執筆する。そこでは日本にたった1つ不足していたことは、負けた国というのはどれほど苦しくて恥ずかしいかということを少しも知らなかったことであるとする。
宇高 勲(うだか いさお、1907年 - 1979年12月2… 宇高 勲(うだか いさお、1907年 - 1979年12月26日)は日本の実業家、プロ野球球団経営者・スカウト。 1907年(明治40年)和歌山県生まれ。父親は鉄道省勤務。早稲田大学理工科卒業。大学卒業後単身中華民国青島市に渡り、貿易業に従事した。ここで得た利益をもとに帰国後、兵庫県神戸市で貿易商を営む傍ら、大阪市で旋盤工場を経営した。この時期に戦況の激化を考慮し、兵庫県尼崎市に電線工場を購入した。1944年(昭和19年)応召。応召期間中に大阪の旋盤工場は空襲で焼失したが、尼崎の電線工場は焼け残ったため、第二次世界大戦後、自動車クラクションの製造を開始した。この自動車部品製造会社、宇高産業は成功を収め、巨額の利益をあげた。
河村 みゆき(かわむら みゆき、1907年-1947年)は、… 河村 みゆき(かわむら みゆき、1907年-1947年)は、自由律俳句の荻原井泉水に学んだ女流俳人。神奈川県小田原市の出身。旧姓は富田。 若くから求道者的な姿勢をもち、一燈園に身を投じ、その後岡山の金光教に移り、そこで夫河村恵雲と知り合う。結婚後は、夫の両親と、愛媛県西条市にある香園寺で暮らすが、まもなく肺結核を病んで床につく。そこに1939年10月8日に同門の俳人種田山頭火が見舞いに訪れ、13日まで滞在した。雑誌『層雲』(1936年)に句が残っている。山頭火に送った追悼文「をぢさん-山頭火翁の霊前に-」(『層雲』昭和16年4月号所収)がある。『層雲』には度々彼女の句が掲載されているが、闘病生活を詠んだものが多い。
山田 国広(やまだ くにひろ、1907年 - 1987年12… 山田 国広(やまだ くにひろ、1907年 - 1987年12月27日)は、左翼の政治運動家。 長野県諏訪郡上諏訪町(現諏訪市)生まれ。1924年長野県立諏訪中学校(現長野県諏訪清陵高等学校)卒。永明小学校代用教員。 日本共産党に入り、1933年検挙(長野県教員赤化事件)。34年下獄。36年釈放。1937年上京、思想犯保護団体帝国更新会に入り、のちその事務員となる。 1942年頃から東京の目黒、蒲田などの町工場の徒弟教育の仕事に従事、戦時中はそれらの工場舎監、青年学校の事務をとる。44年諏訪に疎開し工場に勤務、敗戦を迎える。 46年から61年まで民主化運動に従事。党内闘争で共産党を除名され、文筆をもって訴える。
飛鳥 明子(あすか あきこ、1907年 - 1937年8月1… 飛鳥 明子(あすか あきこ、1907年 - 1937年8月15日)は、OSK日本歌劇団(当時は松竹楽劇部)の最初期のトップスター(当時の呼称は「幹部」)。1933年の労働争議、いわゆる桃色争議を機に退団。退団後に同歌劇団の振付師、舞踊教師。本名:片野 貞子(かたの さだこ)。旧姓・松田。大阪府高石市出身。 開業医の娘として生まれる。ロシア革命の影響で日本に亡命したバレリーナ・エリアナ・パヴロワの舞台を見てバレリーナを志す。高等女学校を経て、松竹楽劇部(後のOSK日本歌劇団)に入団し、OSKの誕生時から舞台に立つ。1世紀以上の歴史を持つOSK初の看板になるスターで、当時のOSKはトップスター制ではなく幹部制だが、初代トップスターと呼ばれる 。
飯島 綾子(いいじま あやこ、1907年 - 1954年9月… 飯島 綾子(いいじま あやこ、1907年 - 1954年9月25日)は、日本の舞台女優、日本舞踊家、歌手、声優。主に戦前の昭和初期に活躍した。本名は飯田 日出子(いいだ ひでこ)。舞踊家としては藤間 勘秀(ふじま かんひで)を名乗る。元夫は俳優の三島雅夫。 東京府東京市赤坂区(現・東京都港区赤坂)出身。幼少時に父親を亡くし、仕立物で生計を立てる母親のもとで育つ。 1921年(大正10年)に帝国劇場付属技芸学校(旧・帝国女優養成所。女優川上貞奴の創立した養成所)の7期生として入学し、1923年(大正12年)に卒業。同期に女優の河原崎しづ江(山岸静江→山岸しづ江)・舞踊家の吾妻徳穂(藤間春江)らがいる。
小竹 豊治(こたけ とよじ、1906年12月30日 - 19… 小竹 豊治(こたけ とよじ、1906年12月30日 - 1990年2月11日)は日本の経済学者。証券経済論。
内藤 良一(ないとう りょういち、1906年12月26日 -… 内藤 良一(ないとう りょういち、1906年12月26日 - 1982年7月7日)は、日本の軍医。1950年、日本ブラッドバンク(後のミドリ十字)を創業。医学博士。 京都府綾部町出身。茨木中学校、旧制三高を経て、1927年(昭和2年)京都帝国大学医学部に入学し、1931年(昭和6年)に卒業。1936年(昭和11年)に京大大学院を卒業。「バクテリオファージ研究補遺」で医学博士となる。 1937年(昭和12年)からヨーロッパ、アメリカでの研究、情報収集を行った後、陸軍軍医学校防疫研究室の責任者として、731部隊が主導した細菌兵器の開発・研究や人体実験にも関わったとされる。帰国後、東京・戸山の陸軍軍医学校で終戦まで軍医教官として勤務した。
立 正嘉(たち まさよし、1906年 <明治39年> 12月… 立 正嘉(たち まさよし、1906年 <明治39年> 12月26日 - 1990年 <平成2年> 10月13日)は、日本の銀行家。山陰合同銀行頭取を務めた。位階は正五位。 東京都出身。1929年に東京帝国大学独法科を卒業し、同年に日本銀行に入行した。1959年11月から1975年12月までに山陰合同銀行頭取を務めた。 1969年9月に藍綬褒章を受章し、1980年4月に勲三等旭日中綬章を受章。 1990年10月13日肺炎のために死去。83歳没。死没日付をもって正五位に叙された。
松原 祐善(まつばら ゆうぜん、1906年12月25日 - … 松原 祐善(まつばら ゆうぜん、1906年12月25日 - 1991年1月7日)は、日本の仏教学者、真宗学者。金子大栄、 曽我量深に師事。 大谷大学名誉教授、元学長。 1906年、福井県大野市生まれ。旧制福井県立大野中学校(現福井県立大野高等学校)卒。大谷大学卒。大谷大学教授、学長。1980年退任、名誉教授。真宗大谷派円徳寺元住職。
石澤 守雄(いしざわ もりお、1906年12月24日 - 1… 石澤 守雄(いしざわ もりお、1906年12月24日 - 1979年4月8日)、日本の内務官僚。京都府副知事。 東京帝国大学法学部卒業。内務省役人として京都府に赴任、鹿児島県庁に転勤後、蜷川虎三京都府知事の要請で京都に呼び戻され、京都府副知事として、蜷川府政7期(28年間)のうち3期を支え、赤字財政を立て直した。 蜷川は退任後こう語る。 夫人の石澤千恵子(日本女子大出身)の父は初代・岡田春夫で、実兄は2代目・岡田春夫(衆議院副議長を2期務める)で、実弟は岡田晃(外交官)。他に岡田豊(フジサンケイグループ取締役)がいる。 石澤守雄亡き後も、石澤千恵子は保護司や更生保護女性会長、名誉会長として活動した。
岡 精義(おか きよし、1906年12月24日 - 不明)は… 岡 精義(おか きよし、1906年12月24日 - 不明)は、日本のヤクザ、実業家。暴力団・三代目山口組舎弟。三友企業 社長。神戸生コン運輸社長。全国港湾荷役振興協会理事兼神戸副支部長。岡山県倉敷市出身。 明治39年(1906年)12月、 岡山県倉敷市で生まれた。岡精義は、幼少の頃から叔母の元で育った。 岡精義は、旧制中学校を卒業した。 大正12年(1923年)、神戸市へ移住し、港湾荷役の沖仲仕として働き始めた。 昭和5年(1930年)、神戸の賭場で、田岡一雄(後の三代目山口組組長)と知り合った。その後、金銭的に苦しかったこともあり、田岡一雄の借り上げた部屋に、度々滞在し寝食を共にするようになった。
河上 健次郎(かわかみ けんじろう、1906年12月22日 … 河上 健次郎(かわかみ けんじろう、1906年12月22日 - 1985年6月12日)は、日本の経営者。大阪府出身。 1936年に東京帝国大学法学部法律学科を卒業し、同年に住友本社に入社。1946年に井華工業(のちの住友金属鉱山)に転じ、取締役に就任し、1948年に常務、1956年6月に専務を経て、1963年5月に社長に就任。1973年5月に会長に就任し、1979年4月に会長に就任。 1967年10月に藍綬褒章を受章し、1977年5月に勲一等瑞宝章を受章。 1985年6月12日呼吸器疾患のために死去。78歳没。墓所は神奈川県鎌倉市の鎌倉霊園。
秋山 徳雄(あきやま とくお、1906年(明治39年)12月… 秋山 徳雄(あきやま とくお、1906年(明治39年)12月22日 - 1979年(昭和54年)3月1日)は、昭和期の労働運動家、政治家、実業家。衆議院議員(1期)。 神奈川県三浦郡、のちの横須賀市で秋山清平の長男として生まれる。1924年(大正13年)横須賀市立実業補習学校を卒業した。 横須賀海軍工廠員として勤務。その後、横須賀市吏員、川崎市吏員を歴任。社会民衆党、社会大衆党に入党した。労働運動に加わり、全日本自治団体労働組合(自治労)特別執行委員、横須賀市労連顧問などを務めた。 1947年(昭和22年)神奈川県議会議員に選出された。日本社会党清掃特別委員会事務局長、同選挙制度対策特別委員会事務局長、地方公営企業対策特別委員会事務局長、地方公務員定年制反対特別委員会事務局長、同神奈川県連副会長、同横須賀支部長などを務めた。
竹本 孫一(たけもと まごいち、1906年12月21日 - … 竹本 孫一(たけもと まごいち、1906年12月21日 - 2002年5月30日)は、日本の政治家。元民社党衆議院議員。 山口県に生まれる。第五高等学校を経て1931年に東京帝国大学法学部政治学科を卒業。国際労働機関嘱託として浅利順四郎の下で働いた後、1935年に内閣調査局に入局。奥村喜和男らと経済統制政策の立案に関わり、4年後に企画院調査官となる。企画院調査官として「新政治体制確立要綱(試案)」等を作成し近衛文麿らの新体制運動の政策策定に関与した。その後大政翼賛会制度部副部長・情報局出版課長を経て、1943年12月に満州国国務院総務庁参事官に就任。 戦後、逓信省嘱託から片山内閣での首相秘書官になるが、1947年に公職追放。
原田 常雄(はらだ つねお、1906年12月21日 - 20… 原田 常雄(はらだ つねお、1906年12月21日 - 2000年11月13日)は、日本の光源研究者。 浜磯太郎の二男として、福岡市に生まれ、原田あやめ(金次郎未亡人)の養子となる。東京大学医学部名誉教授で、日本学士院会員に選ばれた医学者浜清は実弟。1924年福岡県立中学修猷館を経て、1929年東京帝国大学理学部物理学科を卒業。 1929年芝浦製作所(現・東芝)に入社。光源及び放電管の研究に従事し、1942年綜合電灯研究所副所長兼電灯第一課長、光学工業研究所所長、1949年マツダ研究所所長、1961年中央研究所次長、1962年5月取締役、1964年5月常務取締役を経て、1966年5月専務取締役に就任。
林 竹二(はやし たけじ、1906年12月21日 - 198… 林 竹二(はやし たけじ、1906年12月21日 - 1985年4月1日)は、日本の教育哲学者。東北大学名誉教授。宮城教育大学学長。専攻はギリシア哲学。プラトンについての論文がある。 栃木県矢板市の生まれ。東北学院に学び、のち1934年旧制の東北帝国大学法文学部哲学科を卒業。 東北学院では山川丙三郎に師事した。東北帝国大学では阿部次郎に親炙し全集の編集に携わった。またA.E.テイラーの『ソクラテス』の注釈つき翻訳を出版したために、バーネット・テイラー説の信奉者として知られた。 第二次世界大戦の敗戦後、東北大学教育学部で教育史を担当。森有礼について研究した。またソクラテスの問答法を下敷きにした人間形成論を構想した。
竹中英太郎(たけなか えいたろう 1906年(明治39年)1… 竹中英太郎(たけなか えいたろう 1906年(明治39年)12月18日 - 1988年4月8日)は、日本の挿絵画家、労働運動家、実業家。 長男は評論家の竹中労。『琉球共和国』、『仮面を剥ぐ』、『左右を斬る』、『浪人街 天明餓鬼草紙』などの労の著作や、労が制作したレコードのジャケットなどの装画を数多く手掛けた。次女の金子紫は「竹中英太郎記念館」館長。 福岡県福岡市上名島(現・福岡市中央区大名)の没落士族の家庭に生まれる。心臓逆位症で心臓が右、十二指腸が左にある珍しい体の持ち主であったと竹中労は伝えているが、金子紫はこの説を否定している。1歳で父を亡くし、極貧の中で育つ。11歳で熊本に移住。熊本中学夜間部に学びつつ警察で給仕として働いている時、押収された社会主義関係の文書を読んで社会主義者となる。
兼子 一(かねこ はじめ、1906年12月18日 - 197… 兼子 一(かねこ はじめ、1906年12月18日 - 1973年4月6日)は、日本の法学者。専門は民事訴訟法。元東京大学教授。従三位勲一等瑞宝章。
高田 三九三(たかだ さくぞう、1906年12月18日 - … 高田 三九三(たかだ さくぞう、1906年12月18日 - 2001年1月29日)は、日本の作詞家である。 東京都出身。明治39年生まれの三男だから「三九三」と名付けられた。東京外国語学校(現東京外国語大学)仏文科卒業。マンドローネ奏者。大使館勤務の経験あり。戦後は日本交通公社に勤務。欧米の民謡の訳詞でも知られる。晩年には全日本児童音楽協会会長を務めた。2001年1月29日、心不全で94歳にて死去。 海沼實作曲の曲などでの作詞がある。 アメリカ、イギリス、フランスなどの民謡、クリスマス・キャロル等の訳詞を手がけている。
湯浅 佑一(ゆあさ ゆういち、1906年12月17日 - 1… 湯浅 佑一(ゆあさ ゆういち、1906年12月17日 - 1994年4月17日)は、日本の実業家。ユアサコーポレーション、ユアサ商事社長、会長を務めた。京都府出身。 1930年に京都帝国大学法学部を中退し、父親が経営する金物問屋湯浅七左衛門商店に入社した。取締役、専務を経て、1945年から社長に就任し、1983年から会長に就任した。 関西経済同友会初代代表幹事、関西経済連合会副会長、関西経営者協会会長、湯川記念財団理事長などを歴任し、関西財界の重鎮として活躍した。また、1975年から日本高校野球連盟最高顧問も務めた。 1964年に紺綬褒章を受章し、1973年に藍綬褒章を受章し、1978年に勲二等瑞宝章を受章し、1987年に第3回ヒューマン大賞を受賞し、1989年に京都府スポーツ賞特別栄誉賞を受賞した。
岡本 隆一(おかもと りゅういち 1906年(明治39年)1… 岡本 隆一(おかもと りゅういち 1906年(明治39年)12月16日 - 2004年(平成16年)10月9日)は、日本の政治家、医師。衆議院議員(5期)。 1906年に京都市で生まれる。 1930年京都府立医科大学卒。同大学の助手となり、父親が運営していた京都府にある診療所を受け継ぎ、1954年に医療法人岡本病院を設立し、院長となる。京都府議会議員を経て、1955年の第27回衆議院議員総選挙で日本社会党左派で京都府第2区から立候補し、当選する。1977年春の叙勲で勲二等瑞宝章受章。5期を務め、その後、1990年から岡本病院の会長となる。社会民主党の京都府連合の名誉顧問を務めていた。 2004年10月4日に京都市伏見区の病院で老衰のため死去、97歳。
山室 静(やまむろ しずか、男性、1906年(明治39年)1… 山室 静(やまむろ しずか、男性、1906年(明治39年)12月15日 - 2000年(平成12年)3月23日)は、日本の詩人・文芸評論家・翻訳家。 教師であった父茂次郎、母いまの第5子として、赴任先の鳥取県鳥取市に生まれる。兄に中部日本新聞社社長となった山室次郎、九州大学教授・中国哲学者の山室三良がいる。母も断続的に教師として勤務していた。7歳から父母の郷里である長野県北佐久郡岩村田町(現佐久市)で育ち、旧制野沢中学(現在の長野県野沢北高等学校)卒業後、代用教員などを務め) 1927年に岩波書店に入社、東洋大学夜間部、日本大学夜間部に通い、1930年に労働争議により岩波書店を退社、アンドリュウス商会に勤めたが、1937年に同社の解散により失業している。
手塚 英孝(てづか ひでたか、1906年12月15日 - 1… 手塚 英孝(てづか ひでたか、1906年12月15日 - 1981年12月1日)は、日本の文学研究者、作家である。 山口県熊毛郡周防村(現光市小周防)に代々続く医師の長男として生まれる。維新の英蘭学者手塚律蔵は曾祖父の弟にあたる。 旧制徳山中学から慶應義塾大学に進学する。徳山中学在学中に19世紀ロシア文学を愛読、特にトルストイの影響を受ける。慶應在学中に社会運動に参加するようになり、その後当時非合法だった日本共産党に入党し、文化団体の活動をする。日本プロレタリア作家同盟(ナルプ)の新人作家であったこの時期の作品に1932年に発表した「虱」がある。 1933年に検挙され、出獄した後は同じ中学の一年後輩だった宮本顕治の救援活動をおこない、宮本百合子と協力して獄中でのたたかいを支えた。
伊達 信(だて しん、1906年12月15日 - 1960年… 伊達 信(だて しん、1906年12月15日 - 1960年5月6日)は、日本の俳優。
遠山正瑛(とおやま せいえい、1906年12月14日 - 2… 遠山正瑛(とおやま せいえい、1906年12月14日 - 2004年2月27日)は、日本の農学者・園芸学者。鳥取大学名誉教授。中国内モンゴル自治区のクブチ砂漠の約2万ヘクタールの砂漠の緑化に成功し、その取り組みが高く評価されている。 1906年12月14日、山梨県南都留郡瑞穂村新倉(後の旧下吉田町新倉、現・富士吉田市新倉)に生まれる。実家は浄土真宗本願寺派の寺院である大正寺で、6人兄弟の3番目だった。旧制山梨県立日川中学校(現:山梨県立日川高等学校)、旧制第二高等学校を卒業。高校時代に旧制第二高等学校の先輩である、菊池秋雄教授に出会い農学を志す。京都帝国大学農学部農学科に入学。京都大学で卒業後は同大で助手として働いた。