山崎 勝弘(やまざき かつひろ、1906年11月15日 - … 山崎 勝弘(やまざき かつひろ、1906年11月15日 - 1987年2月22日)は、日本の服飾史学者。 1927年京都高等工芸学校(現京都工芸繊維大学)図案科卒。31年同校助教授、1951年奈良女子大学教授、70年定年退官、名誉教授、金蘭短期大学教授。
1900年代生まれ:6,226人
山崎 勝弘(やまざき かつひろ、1906年11月15日 - … 山崎 勝弘(やまざき かつひろ、1906年11月15日 - 1987年2月22日)は、日本の服飾史学者。 1927年京都高等工芸学校(現京都工芸繊維大学)図案科卒。31年同校助教授、1951年奈良女子大学教授、70年定年退官、名誉教授、金蘭短期大学教授。
服部 敏良(はっとり としろう、1906年11月15日 - … 服部 敏良(はっとり としろう、1906年11月15日 - 1992年6月16日)は、日本の医師、医学史研究家。医学博士、文学博士。 岐阜県山県郡高富町(現・山県市)生まれ。名古屋医科大学(現・名古屋大学医学部)卒業。1936年、「アドレナリンとヒスタミンの胃液分泌に及ぼす拮抗作用に就いての臨床的並びに実験的研究」で同大学より医学博士を授与される。愛知県一宮市の山下病院に勤務、1942年から1976年まで院長を務める。 医業のかたわら日本医学史の著作を多く著し、1965年「日本医学史、とくに鎌倉時代医学史の研究」で第18回中日文化賞を受賞。1973年「日本中世医学史の研究」で文学博士(駒澤大学)を取得した。
野々村 一男(ののむら かずお、1906年11月15日 - … 野々村 一男(ののむら かずお、1906年11月15日 - 2008年2月11日)は、日本の彫刻家。愛知県立芸術大学名誉教授。日本芸術院会員。 愛知県名古屋市に生まれる。東京美術学校卒業。同校在学中の1929年、第10回帝展に「座女」にて初入選。1955年、中日文化賞受賞。1981年、「物との、はざま」にて日本芸術院賞受賞。1988年、日本芸術院会員。1989年、勲三等瑞宝章受章。2008年2月11日午前11時33分、老衰のため名古屋市の自宅にて死去。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
梅林 時雄(うめばやし ときお、1906年(明治39年)11… 梅林 時雄(うめばやし ときお、1906年(明治39年)11月15日 - 1956年(昭和31年)5月29日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 福岡県築上郡東吉富村(現吉富町)で、梅林宇十郎の長男として生まれる。1929年、明治大学政治経済学科卒。梅林組に入る。東洋産業開発、東洋商事、東洋加工各(株)取締役社長、大分液体燃料、西日本工業、梅林土木各(株)会長、大分県土木建築、同石材採掘各工業組合理事長などを歴任した。 1947年の第23回衆議院議員総選挙において大分1区から民主党公認で立候補して当選。1949年の第24回衆議院議員総選挙で落選した。
徳田 與吉郎(与吉郎、とくだ よきちろう、1906年(明治3… 徳田 與吉郎(与吉郎、とくだ よきちろう、1906年(明治39年)11月15日 - 1995年(平成7年)11月11日)は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員、石川県金沢市長。 石川県石川郡比楽島村(石川村、松任町、松任市を経て現白山市水島町)で生まれた。1926年(大正15年)5月、東京市の順天中学校(現順天中学校・高等学校)4年修了後、家業の米穀薪炭販売業に従事した。 1942年(昭和17年)3月、石川県食糧営団会計主任に就任し、同会計課長、同金沢支所長、同経理部長を歴任。以後、食糧配給公団石川県支局経理部長、石川県食糧事業協同組合常任監事、石川県米穀取締役、糧栄不動産監査役、北糧商会社長、金沢燃料社長などを務めた。
洞 富雄(ほら とみお、1906年11月14日 - 2000… 洞 富雄(ほら とみお、1906年11月14日 - 2000年3月15日)は、日本の歴史学者。専攻は日本史。元早稲田大学文学部教授。文学博士(早稲田大学)。
久保 喬(くぼ たかし、本名:久保 隆一郎、1906年11月… 久保 喬(くぼ たかし、本名:久保 隆一郎、1906年11月13日 - 1998年10月23日)は、日本の児童文学作家。 愛媛県宇和島市出身。愛媛県立松山商業学校卒業後、窪田空穂が主宰する短歌雑誌『国民文学』の同人となる。上京して東洋大学専門部東洋文科に進学。太宰治、檀一雄と出会い、同人誌「青い花」に参加。中退後、川端康成の紹介で創元社編集部の手伝いを経て、1939年に児童図書出版社の教養社へ入社したのを機に児童文学創作を志す。1942年に評論「童話の本質」を発表。1946年に日本児童文学者協会設立と同時に会員となる。 『ビルの山ねこ』で小学館文学賞、『赤い舟の帆』で日本児童文学者協会賞をそれぞれ受賞。
滝沢 修(たきざわ おさむ、1906年11月13日 - 20… 滝沢 修(たきざわ おさむ、1906年11月13日 - 2000年6月22日)は、日本の俳優、演出家。本名は滝沢 脩。
宮内 巌(みやうち いわお、1906年11月13日 - 19… 宮内 巌(みやうち いわお、1906年11月13日 - 1987年10月30日)は、日本の実業家。 千葉県出身。1927年、和歌山高等商業学校卒業。安田信託銀行での勤務を経て、1935年に西武鉄道に転職し、総務部長に就任。常務、専務を経て、1973年から副社長に就任。1979年に発足した西武ライオンズの球団社長も務めた。1969年11月に藍綬褒章を受章し、1977年5月に勲三等旭日中綬章を受章した。 1987年10月30日、腎不全で死去。80歳没。
上田 勤(うえだ つとむ、1906年11月12日 - 196… 上田 勤(うえだ つとむ、1906年11月12日 - 1961年3月2日)は、英文学者。 北海道函館市生まれ。第三高等学校卒、東京帝国大学英文科卒、第四高等学校教授、第一高等学校教授ののち、戦後、東京大学教養学部イギリス科主任教授を務めるが在職中に急逝した。現代英国小説を専攻し、モーム評伝のほか、オルダス・ハクスリー、ヘンリー・ジェイムズ、アレグザンダー・ポープなどを翻訳した。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
南条 三郎(南條 三郎、なんじょう さぶろう、1906年11… 南条 三郎(南條 三郎、なんじょう さぶろう、1906年11月12日 - 1957年5月22日)は、日本の小説家、歴史作家。 岡山市生まれ。本名・安井徳雄。1931年早稲田大学文学部英文科卒業。毎日新聞社「小学生新聞」編集記者、高校教師などの職につく。1939年長編『断雲』で『サンデー毎日』の千葉亀雄賞に当選、サンデー毎日大衆文藝賞に1937年、1938年、1946年の3回当選。戦後は地方新聞に歴史小説を連載した。代表作『小説本阿弥一門』は『東京日日新聞』に1957年から1958年まで連載された。 小説家の南原幹雄は息子である。
舘(館) 稔(たち みのる、1906年(明治39年)11月1… 舘(館) 稔(たち みのる、1906年(明治39年)11月11日 - 1972年(昭和47年)3月21日)は、日本の人口学者。1939年(昭和14年)東京帝国大学卒業。厚生省(現厚生労働省)人口問題研究所に入所。1959年(昭和34年)所長(第二代)に就任。国際連合人口委員会委員、国際人口学会、国際統計協会などの役員を務めた。 1950年代から、「ベビーブームからベビーデフレへ」との表現で日本の少子化問題を指摘していた。ベビーブームが1950年に鎮火したこと、さらに結婚年齢の変化や出産年齢層の変化などから出生率の低下傾向が続き、出生減退が起きることを予測した。 当時は日本を含め、世界的には発展途上国の人口爆発と資源の有限性の観点から「人口抑制」「出生抑制」の必要性のほうが強調されており、少子化が社会問題としてマスメディア等で指摘されるようになったのは、1989年に日本の合計特殊出生率が1.57を下回り「1.57ショック」を迎えてからのことである。
横山 東六(よこやま とうろく、本名:横山 登二、1906年… 横山 東六(よこやま とうろく、本名:横山 登二、1906年11月11日 - 1980年11月6日)は、昭和期に活躍した漫才師、横山ホットブラザーズ創始者。 映画の楽士出身で、一家を従え楽器を用いた破天荒な漫才を行なった。賑やかで朗らかな芸風は息子達によって受け継がれている。 横山は本名由来で、横山エンタツ一門とは無関係。 愛媛県新居浜市の生まれ、19歳で来阪し桜ノ宮音楽学院で学んで映画の楽士になる 。1928年より関西交響楽団(現在の大阪フィルハーモニー交響楽団の前身とは別の団体。こちらは戦後の設立)に入団。傍ら楽士をしていたが映画のトーキー化で仕事が激減する。 1933年より陽気屋東六の名で音曲漫才に転向し、落語家出身の笑福亭福之助(後の鹿島洋々)とコンビを組み、新世界アシベ劇場で漫才初舞台。
藤原 節夫(ふじわら せつお、1906年〈明治39年〉11月… 藤原 節夫(ふじわら せつお、1906年〈明治39年〉11月10日 - 1992年〈平成4年〉4月17日)は、日本の新聞記者、官僚、政治家。衆議院議員、総理府総務副長官(事務担当)。 岡山県出身。1932年(昭和7年)東京帝国大学法学部法律学科を卒業した。 時事新報、読売新聞の記者を経て官界に転じ、逓信大臣秘書官、司法大臣秘書官、綜合計画局参事官、戦災復興院事務官、建設省弘報課長、総理府総務副長官(事務)を歴任。臨時恩給等調査会委員、南方同胞援護会設立委員、中央青少年問題協議会副会長、日本民主党事務局長、自由民主党事務局長も務めた。 1958年(昭和33年)の衆議院総選挙で岡山県第2区から自民党公認で出馬するが次々点で落選(ちなみに次点は藤井勝志)、1960年(昭和35年)の総選挙でトップ当選して衆議院議員となるが、この時大規模な選挙違反を起こして運動員や妻が検挙される。
石川 湧(いしかわ ゆう、1906年11月10日 - 197… 石川 湧(いしかわ ゆう、1906年11月10日 - 1976年10月31日)は、日本のフランス文学者、翻訳家。東京学芸大学名誉教授。 栃木県生まれ。本名・わくみ。1927年東京外国語学校フランス語科卒業。はじめ唯物論、マルクス主義関係の文献、フランス文学を訳す。戦後、東京学芸大学教授を務め、モーリス・ルブラン、ジュール・ヴェルヌなどの翻訳で知られた。翻訳家の石川布美は娘。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
太田 廣(おおた ひろし、1906年11月10日 - 198… 太田 廣(おおた ひろし、1906年11月10日 - 1984年11月26日)は、日本の歴史学者。専攻は西洋史、特にドイツの宗教改革史。 東北帝国大学法文学部で大類伸に師事し、1933年に卒業。東京文理科大学の嘱託、助手となった。一方で、東京高等師範学校書記、助教授を兼務し、1939に東京高等師範学校助教授専任となる。 1942年、台北高等学校教授に着任したが、1946年に辞職。その後、鉄道教習所講師、実践女子専門学校講師などを経て、1949年に発足間もない新潟大学人文学部の助教授となり、1952年には教授に昇任した。 1972年に新潟大学を定年退職し、名誉教授。1973年には城西大学経済学部教授に就任し、1981年に退職した。
杉本 三吾(すぎもと さんご、1906年11月9日 - 19… 杉本 三吾(すぎもと さんご、1906年11月9日 - 1978年8月28日)は、日本の経営者。西松建設社長を務めた。 山梨県出身。1919年9月に西松組(のちの西松建設)に入社し、1930年に攻玉社工学校土木本科を卒業。1946年1月に理事に就任し、1948年3月に取締役、1956年に常務、1964年に専務、1965年に副社長を経て、1971年11月には社長に就任。1977年6月には会長に就任。 1963年に黄綬褒章を受章。 1978年8月28日、心不全のために死去。71歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
徳川 義寛(とくがわ よしひろ、1906年 <明治39年> … 徳川 義寛(とくがわ よしひろ、1906年 <明治39年> 11月7日 - 1996年 <平成8年> 2月2日)は、日本の官僚。宮内官僚として52年にわたり天皇家を支え、昭和天皇の側近、侍従長の役割も果たした。位階は従二位。勲一等端宝章。 尾張(名古屋)藩主徳川慶勝の孫で、実弟津軽義孝は常陸宮正仁親王妃華子の父であり、妹祥子は北白川宮永久王の妃で皇籍離脱後は香淳皇后付の女官長、皇太后宮女官長を務めた。 1906年(明治39年)、尾張徳川家分家、徳川義恕の長男として東京府に生まれる。1927年(昭和2年)、学習院高等科を卒業し、1930年(昭和5年)、東京帝国大学文学部美学美術史学科を卒業。ベルリン大学留学後、帝室博物館(現東京国立博物館)研究員。
江上 波夫(えがみ なみお、1906年11月6日 - 200… 江上 波夫(えがみ なみお、1906年11月6日 - 2002年11月11日)は、日本の考古学者。東京大学名誉教授。文化功労者・文化勲章受章者。 山口県下関市生まれ。1948年に「日本民族=文化の源流と日本国家の形成」と題するシンポジウムで騎馬民族征服王朝説などを発表。その要旨は、「日本における統一国家の出現と大和朝廷の創始が、東北アジアの夫余系騎馬民族の辰王朝によって、4世紀末ないし5世紀前半ごろに達成された」と推論している(著書『騎馬民族国家』より)。 江上が一般の歴史・考古学ファンの心をつかんだのは、ロマンあふれる騎馬民族征服王朝説だった。古事記、日本書紀等の古い時代の資料に日本人が騎馬民族であるかのような記述は見られないが、渡来人に関する記述は数多くみられる。
竹田 道太郎(たけだ みちたろう、1906年(明治39年)1… 竹田 道太郎(たけだ みちたろう、1906年(明治39年)11月6日 - 1997年(平成9年)12月10日)は、日本の美術評論家。 新潟県柏崎市出身。早稲田大学文学部ドイツ文学科卒業。都新聞社の記者を経て、1936年2月から朝日新聞社記者。社会部、学芸部、雑誌編集室で美術関係の記事を担当した。近代日本の日本画家を対象として評論活動をおこなった。1961年朝日新聞社を定年退社。定年後は女子美術大学教授、武蔵野美術大学教授を務めた。
林 謙一(はやし けんいち、1906年11月6日 - 198… 林 謙一(はやし けんいち、1906年11月6日 - 1980年11月1日)は、日本の随筆家。 東京生まれ。早稲田大学理工学部建築学科卒。東京日日新聞記者を経て、内閣情報部事務嘱託として『写真週報』の創刊等に携わる。のち情報局情報官、海軍司政官。敗戦後は日本交通公社全日本観光連盟業務部長、退職後随筆家。 1962年、『婦人画報』に連載した母の生涯を描いた随筆を原作としてNHKで放送された単発ドラマ『おはなはん一代記』(森光子主演)が芸術祭奨励賞を受賞。1966年、これを連続ドラマ化した『おはなはん』(小野田勇脚本)が、NHKの朝の連続テレビ小説として放送される。全国日曜画家連盟同人幹事。 息子に脚本家の林秀彦。
森 鹿三(もり しかぞう、1906年11月5日 - 1980… 森 鹿三(もり しかぞう、1906年11月5日 - 1980年8月10日)は、日本の東洋史学者。京都大学名誉教授。 1906年、兵庫県神戸市生まれ。旧制神戸第二中学校から第三高等学校文科丙類に進学。1926年、京都帝国大学文学部東洋史学科へ入学し、1929年に卒業した。 卒業後は、東方文化学院京都研究所の助手となった。翌1930年より研究員。研究所の歴史地理学研究室で研究に従事。戦後、東方文化学院が京都大学の機関となると、1949年より京都大学人文科学研究所教授となった。1963年から67年(第4代)、1969年から70年(第6代)の2期にわたって所長を務めた。1961年 京都大学にて文学博士を取得。
原 賢一(はら けんいち、1906年(明治39年)11月4日… 原 賢一(はら けんいち、1906年(明治39年)11月4日 - 1974年(昭和49年))は、昭和期の政治家。長野県上伊那郡西箕輪村長、伊那市長。 長野県上伊那郡西箕輪村(現伊那市)生まれ。旧制伊那中学(長野県伊那北高等学校)を経て、1934年(昭和9年)東北帝国大学を卒業。東筑摩郡入山部実業公民学校教諭に就任。その後、渡満し炭鉱会社に勤めた。 1945年(昭和20年)西箕輪村嘱託となり、戦後の農地問題に取り組む。1951年(昭和26年)西箕輪村長に就任。1955年(昭和30年)合併後の伊那市議会議員となり初代議長を務めた。 1958年(昭和33年)4月、伊那市長選挙に当選し、1966年(昭和41年)4月まで2期務めた。
木村 英一(きむら えいいち、1906年11月4日 - 19… 木村 英一(きむら えいいち、1906年11月4日 - 1981年11月15日)は、日本の中国哲学研究者。大阪大学名誉教授。 京都府出身。1930年京都帝国大学文学部支那哲学史卒。1960年「老子の新研究」で京都大学文学博士。京大助教授、1949年大阪大学文学部教授、67年定年退官、名誉教授、追手門学院大学教授。
熊谷 太三郎(くまがい たさぶろう、1906年11月3日 -… 熊谷 太三郎(くまがい たさぶろう、1906年11月3日 - 1992年1月15日)は、日本の実業家、政治家。 科学技術庁長官(第32代)、参議院議員(4期)、福井市長(官選第10代、公選初代)。熊谷組2代目社長。行政、事業の両面で原子力発電所の建設を推進した。 建設業を営む熊谷三太郎の二男として福井県福井市豊島上町に生まれた。旧制福井県立福井中学校、旧制第一高等学校を経て、京都帝国大学経済学部に入学し1930年に卒業。一高在学時には、アララギ会に入会。このとき、斎藤茂吉や土屋文明から短歌の指導を受けている。 その後、家業の建設業に従事していたが、1933年4月、飛島組(現在の飛島建設)社長の後援により福井市会議員選挙に市議でもあった父の後継として当選。
吉田 留三郎(よしだ とめさぶろう、1906年11月3日 -… 吉田 留三郎(よしだ とめさぶろう、1906年11月3日 - 1978年5月25日)は、日本の評論家、上方芸能評論家。愛称は「留サン」。 大阪府大阪市出身。旧制大阪府立生野中学校、松江高等学校を経て、京都帝国大学文科卒業。 学生時代から寄席に通い詰め、戦前は吉本興業、戦後は松竹芸能に在籍。織田作之助、秋田實らとともに、上方芸能の発展に寄与した。 1977年、秋田が死去した後、秋田が育てた漫才師のミヤコ蝶々、夢路いとし・喜味こいしらに呼び掛け、玉造稲荷神社に記念碑を建設した。 1978年に死去。生前の業績を讃え、雑誌『上方芸能』第58号で「吉田留三郎の死と総合芸能時代の終焉」と題する特集が組まれた。
宮武 徳次郎(みやたけ とくじろう、1906年 <明治39年… 宮武 徳次郎(みやたけ とくじろう、1906年 <明治39年> 11月3日 - 1989年 <平成元年> 8月23日)は、日本の経営者。大日本製薬社長、会長を務めた。香川県高松市出身。位階は正五位。 1928年に高松高等商業学校を卒業し、同年に大日本製薬に入社。1947年に取締役に就任し、1949年に常務、1950年に専務を経て、1956年には社長に就任。社長在任時にはサリドマイド事件の対応に追われた1981年から1985年までに会長を務めた。 1977年4月に勲三等瑞宝章を受章。 1989年8月23日心不全のために死去。82歳没。死没日付をもって正五位に叙された。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
新名 丈夫(しんみょう たけお、1906年(明治39年)11… 新名 丈夫(しんみょう たけお、1906年(明治39年)11月3日 - 1981年(昭和56年)4月30日)は、日本の評論家、元毎日新聞記者。 香川県高松市に生まれる。1932年(昭和7年)、慶應義塾大学法学部卒。慶應義塾大学では弁論部に所属した。同年、東京日日新聞(現、毎日新聞)に入社した。 太平洋戦争中、黒潮会(海軍省記者クラブ)の主任記者であった新名は、1944年(昭和19年)2月23日付東京日日新聞(現・毎日新聞)一面に、「勝利か滅亡か、戦局は茲(ここ)まできた」、「竹槍では間に合わぬ、飛行機だ、海洋飛行機だ」という記事を執筆、これに東條英機首相が反発し二等兵として陸軍に懲罰召集を受けることになった。
国松 孝二(國松孝二、くにまつ こうじ、1906年11月3日… 国松 孝二(國松孝二、くにまつ こうじ、1906年11月3日 - 2006年5月8日)は、日本のドイツ文学者。旧制武蔵高等学校教員、九州帝国大学教授、東京大学教授、立教大学教授、専修大学教授を歴任。 兄は経済地理学者の国松久弥。 千葉県船橋町(現船橋市)生まれ。旧制水戸高等学校を経て、1930年東京帝国大学文学部独文科卒。1931年旧制武蔵高等学校教員。1945年九州帝国大学教授。1950年東京大学教養学部教授、1956年同文学部教授、1967年定年退官、立教大学教授。1970年から専修大学教授、1977年、退職。 中世から近現代までのドイツ語ドイツ文学に精通し、ゲーテ、 シュトルム 、ハンス・カロッサ等の名作の名訳を残した。
宮川 正澄(みやかわ まさすみ 1906年(明治39年)11… 宮川 正澄(みやかわ まさすみ 1906年(明治39年)11月3日 - 1994年(平成6年)4月17日)は、日本の医学者、病理学者。医学博士。元名古屋大学医学部教授。名古屋大学名誉教授。名古屋医科大学(現名古屋大学医学部)卒業。日本における実験動物の無菌飼育に新たな道を開いた。石川県出身。 1938年 名古屋大学 医学博士 論文の題は 「白血球の游走速度とグリコーゲンに関する研究」。 この項目は、医学に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:医学/Portal:医学と医療)。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
滑川 道夫(なめかわ みちお、1906年11月3日 - 19… 滑川 道夫(なめかわ みちお、1906年11月3日 - 1992年12月13日)は、日本の教育者、教育学者。 秋田県湯沢市生まれ。生家は旧士族で父親は道太郎。両親ともに教師。教員準備場から秋田師範学校に進んだ。父の指導を受け自由律俳句に親しみ、俳号は三千夫。万葉研究家境田四郎教諭のもと、文学教育の重要性に目覚め、専攻科を卒業。秋田師範付属小学校の訓導時代の1930年『北方教育』を創刊し、生活綴方運動を展開し「東京綴方の会」に参加。1932年上京し成蹊学園訓導となり、日本大学卒業。また教育科学研究会言語教育部会に参加。戦後、1946年児童雑誌『銀河』創刊に参加、1957年成蹊学園教育研究所長、1966年東京成徳短期大学教授、東京教育大学教授として国語教育、児童文化を研究。
小林 武(こばやし たけし、1906年11月3日 - 198… 小林 武(こばやし たけし、1906年11月3日 - 1987年4月4日)は、日本の政治家。日本社会党参議院議員(2期)。日本教職員組合中央執行委員長。 北海道石狩郡石狩町(現:石狩市)生まれ。1928年北海道札幌師範学校(現:北海道教育大学札幌校)卒。帯広市立三条中学校等の教師を務め、1951年北海道教職員組合委員長、1953年日本教職員組合委員長に就任する。勤務評定闘争や学力テスト闘争を指導し、1958年には高知県で闘争反対の父母の集団暴行に遭い重傷を負った。1962年に教職を辞めた。 日教組の日本社会党支持路線を決定し、1962年の第6回参議院議員通常選挙で全国区から日本社会党公認で立候補して当選。
西園寺 公一(さいおんじ きんかず、1906年(明治39年)… 西園寺 公一(さいおんじ きんかず、1906年(明治39年)11月1日 - 1993年(平成5年)4月22日)は、日本の政治家、実業家。参議院議員(1期)、外務省嘱託職員、太平洋問題調査会理事などを歴任した。ゾルゲ事件に連座して逮捕、有罪となり、公爵家を廃嫡となった。 1906年(明治39年)11月1日、西園寺家の嫡男として神奈川県に誕生した。祖父は元老・西園寺公望、父は公望の婿養子となった西園寺八郎(実父は旧長州藩主の毛利元徳)で、母は公望の長女・新子である。 学習院初等科を経て、1924年(大正13年)に東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業。附属中の同級生には、朱牟田夏雄(東京大学名誉教授)、春山泰雄(サッカー日本代表)などがいた。
松井 道夫(まつい みちお、1906年(明治39年)11月1… 松井 道夫(まつい みちお、1906年(明治39年)11月1日 - 2014年(平成26年)9月19日)は、日本の弁護士、裁判官、政治家。緑風会所属参議院議員。
松井 道夫(まつい みちお、1906年(明治39年)11月1… 松井 道夫(まつい みちお、1906年(明治39年)11月1日 - 2014年(平成26年)9月19日)は、日本の弁護士、裁判官、政治家。緑風会所属参議院議員。都市計画家・早稲田大学教授の松井達夫は兄。 新潟県出身。1929年、東京帝国大学法学部法律学科(英法)を卒業し、弁護士となる。 その後、判事に任官。長野地方裁判所、千葉地方裁判所、松山地方裁判所、甲府地方裁判所で判事を務めた。満洲国に転じ、ハルビン地方法院審判官、牡丹江高等法院審判官、チャムス地方法院次長を歴任。帰国後、甲府地方裁判所部長を務めた。 1947年4月、第1回参議院議員通常選挙において全国区に出馬し当選(任期3年)。1950年6月、第2回通常選挙で落選したため、参議院議員を一期のみ務めた。
坂田 吉雄(さかた よしお、1906年 <明治39年> 11… 坂田 吉雄(さかた よしお、1906年 <明治39年> 11月 - 2000年 <平成12年> 8月24日)は、日本の歴史学者。京都大学名誉教授。専門は日本近世史・近代史。位階は正四位。
中田 吉雄(なかた よしお、明治39年(1906年)10月3… 中田 吉雄(なかた よしお、明治39年(1906年)10月30日 - 昭和60年(1985年)5月1日)は日本の政治家。参議院議員(3期、日本社会党)。 妻は日本初の女性弁護士で、鳥取県弁護士会長、日本弁護士連合会理事などを歴任した中田正子。 鳥取県八頭郡若桜町根安出身。竹次郎の長男。 1933年京都帝国大学農学部農林経済学科卒。1938年東亜研究所勤務、1945年若桜町農業会専務理事(以降農業関係の役職を歴任)、1947年4月鳥取県議会議員当選、1947年5月鳥取県議会議長。 1950年6月参議院議員(第2、3、5回通常選挙当選)、1954年参議院地方行政委員長、1955年日本社会党参議院副会長(1959年6月の第5回通常選挙では39票差で当選。
須藤 克三(すとう かつぞう、1906年(明治39年)10月… 須藤 克三(すとう かつぞう、1906年(明治39年)10月30日 - 1982年(昭和57年)10月18日)は、日本の教育者・児童文学者。 教員、編集者を経て山形新聞社論説委員兼文化部長を歴任。また山形県芸術文化会議会長、山形県県民芸術祭運営委員長などを務め、戦後の同県における教育文化活動の主軸を担った。さらに無着成恭を見いだした。 山形県宮内町(現:南陽市)出身。郵便局員でホトトギス派の俳人である流陰と号した父・多蔵と母・ていの三男として生まれる。幼いころから読書家として過ごす。1923年(大正12年)に山形県師範学校に入学すると文芸部委員になり、校友会雑誌『真琴』で短歌や文章を発表した。卒業後、宮内小学校訓導に就くが自身の力量不足を実感し、より一層学問を修めようと決意。
榊原 美文(さかきばら よしぶみ、1906年10月30日 -… 榊原 美文(さかきばら よしぶみ、1906年10月30日 - 1979年7月6日)は、日本文学研究者。 愛知県生まれ。1931年早稲田大学文学部国文科卒。日本俳優学校講師、1936年大阪に移住、中学校教員となる。戦後、愛知学芸大学教授、帝塚山大学教授。1977年定年退任、名誉教授となる。近藤忠義、石山徹郎、野坂昭如と親しかった。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
大石 重成(おおいし しげなり、1906年(明治39年)10… 大石 重成(おおいし しげなり、1906年(明治39年)10月29日 - 1984年(昭和59年)10月25日)は、日本の鉄道技術者。 東海道新幹線建設時の1960年から1963年にかけて、国鉄常務理事・新幹線総局初代局長として新幹線の線路選定、用地買収から建設工事全般の総指揮にあたり、十河信二総裁、島秀雄技師長とともに「新幹線三羽烏」の異名をとった。退官後は 鉄建建設社長を務め(1967.5 - 1984.10)、また社団法人鉄道建設業協会会長(1968.4-1984.10)、社団法人日本建設業団体連合会副会長(1968 - 1984)、土木学会会長(1970年 - 1971年)などを兼務した。
和田 鶴蔵(わだ つるぞう、1906年10月29日 - 19… 和田 鶴蔵(わだ つるぞう、1906年10月29日 - 1992年10月19日)は、日本の法学者。 兵庫県出身。立命館大学法学部卒、1970年「国民の一般的基本義務と教育」で法学博士。神戸大学教育学部助教授、教授を務め、1970年定年退官、名誉教授、近畿大学法学部教授となる。1983年退職。憲法・教育が専門。
白畑 よし(しらはた よし、1906年10月29日 - 20… 白畑 よし(しらはた よし、1906年10月29日 - 2006年6月2日)は、日本の美術史家。日本の女性美術史家の草分けであった。 山形県酒田市出身。指物師であった父の上京に従い9歳で東京に移る。文部省美術研究所(現東京国立文化財研究所)を経て、1952年京都国立博物館に入る。1962年資料室長。絵巻、大和絵を研究、女絵の様式展開の解明に貢献した。
佐藤 敬(さとう けい、1906年(明治39年)10月28日… 佐藤 敬(さとう けい、1906年(明治39年)10月28日 - 1978年(昭和53年)5月8日)は、日本の洋画家。新制作協会の創立メンバー。妻は声楽家の佐藤美子。 妻の佐藤美子(1903-1982)は、神戸生まれ横浜育ちの日仏混血のオペラ歌手。美子の父親の佐藤友太郎(1862-1940)は、京都府の派遣で1887年からフランスに留学し西洋式製磁法を学び、京都陶器の技師長となったが会社が倒産したため、美子が生まれたころは税関吏に転じていた。フランス人の母親ルイズは、友太郎が学んだリモージュ装飾工芸学校の工場長の娘。美子は東京音楽学校在学中に田谷力三らとオペラ活動を始め、1928年に卒業後フランスに4年間留学、帰国後「カルメン」の日本初演で一躍有名となり「カルメンお美」の愛称で人気オペラ歌手となる。
中田 正一(なかた しょういち、1906年(明治39年)10… 中田 正一(なかた しょういち、1906年(明治39年)10月28日 - 1991年(平成3年)10月27日)はNGOである「風の学校」の創設者。農学博士。東京医科歯科大学名誉教授の中田修は実弟。 千葉県などで、伝承される古式の井戸掘り技術である「上総掘り」を中心に、風車や揚水技術などの生活基盤の整備技術と農業技術を学ぶための学校である。適正技術といって発展途上国の物資のない状況でもすぐに活用できる技術に重きを置いた。卒業生は100名を超え、その卒業生は、培った技術を発展途上国の現地の人々だけでなく、日本の国際協力を志す後輩にも伝え、その育成にも努めている。
大野 一雄(おおの かずお、1906年〈明治39年〉10月2… 大野 一雄(おおの かずお、1906年〈明治39年〉10月27日 - 2010年〈平成22年〉6月1日)は、日本の舞踏家。モダンダンサー。マイム師、教育者。北海道函館市出身。 「ラ・アルヘンチーナ頌」「わたしのお母さん」「死海」「睡蓮」 1906年10月27日、函館の弁天町に生まれた。家は北洋を漁場にする網元で、モダンな家庭であった。父はロシア語を話し、冬はカムチャッカ半島まで漁に出た。母はグラタンなどの西洋料理を得意とし、琴は六段の名手で、オルガンも弾いた。 ロシア正教会の幼稚園に通う。 1919年4月、旧制北海道庁立函館中学校(現・北海道函館中部高等学校)に入学後、母方の秋田県の親戚白石家にあずけられる。
山辺 知行(やまのべ ともゆき、1906年10月27日 - … 山辺 知行(やまのべ ともゆき、1906年10月27日 - 2004年10月1日)は、日本の染織研究家。東京出身。京都帝国大学卒業。東京帝室博物館(のち東京国立博物館)退官後、多摩美術大学教授、遠山記念美術館館長。日本、インド、インドネシアの染織品・人形のコレクター。
山口 波津女(やまぐち はつじょ、1906年〈明治39年〉1… 山口 波津女(やまぐち はつじょ、1906年〈明治39年〉10月25日 - 1985年〈昭和60年〉6月17日)は、日本の俳人。山口誓子の妻。本名は梅子。 浅井義晭(よしてる)・まさ夫妻の長女として、大阪市北区中之島に生まれる。大阪商船に務める父が1909年(明治42年)に韓国仁川の支店長として赴任したのに伴い、仁川に移住した。次いで1914年(大正3年)父の香港支店長として赴任に伴い、香港に移住した。 帰国すると1919年(大正8年)に大阪市東区宰相山町(現・天王寺区の三光神社の近隣)に居住した。近くの大阪府立清水谷高等女学校(現・大阪府立清水谷高等学校)に入学。1923年清水谷高女を卒業後、大手前之町の大阪府立大手前高等女学校(現・大阪府立大手前高等学校)の高等科に入学した。
真下 信一(ました しんいち、1906年10月24日 - 1… 真下 信一(ました しんいち、1906年10月24日 - 1985年2月9日)は、日本の哲学者。名古屋大学名誉教授。 京都府福知山市生まれ。京都府立一中、第三高等学校から京都帝国大学文学部哲学科に学ぶ。中学の同期には湯川秀樹がいた。三高時代には武田麟太郎と親交を結んだ。大学の同窓には戸坂潤がいた。大学院に進学、1933年の滝川事件のときには院生代表として活動する。院修了後は同志社大学勤務、のち教授。1935年中井正一らと雑誌『世界文化』を創刊、反ファシズムの立場で活動したが、1937年11月、新村猛らとともに治安維持法違反の容疑で検挙された。 戦後は、民主主義科学者協会に所属しながら唯物論哲学の立場で発言、名古屋大学助教授、教授。
藤井 駿(ふじい しゅん、1906年10月24日 - 198… 藤井 駿(ふじい しゅん、1906年10月24日 - 1989年7月19日)は、日本の歴史学者。専門は日本中世史。 岡山県の吉備津神社の神職の家に生まれる。岡山県立第一岡山中学校から第六高等学校文科に進学。1927年に同校を卒業し、京都帝国大学文学部史学科に入学。同期入学に山根徳太郎、池内義資らがいた。卒業論文「文藝復興期に於ける日本道への歸着」をまとめ、1930年に卒業。 大学卒業後は、六高における恩師でもある松本彦次郎の推薦により、その後任として第六高等学校講師となり、同年10月に同校教授。1950年に岡山大学法文学部教授。1972年に退官し、名誉教授となり、1978年まで山陽学園短期大学教授を務めた。
鹿野 忠雄(かの ただお、1906年(明治39年)10月24… 鹿野 忠雄(かの ただお、1906年(明治39年)10月24日 - 1945年(昭和20年)7月15日? 消息不明)は、東京生まれの博物学者。 理学博士で昆虫学者、探検家。 業績は多岐にわたり、生物地理学者、文化人類学者、民俗学者、または近年ではナチュラリストなどとしても知られる。 台湾を中心に東南アジアでさまざまな研究調査活動を行い、第二次世界大戦終戦直前の1945年夏、ボルネオ島北部で行方不明になり消息を絶った。当時38歳。 主な著書に『山と雲と蕃人と』などがある。 1906年(明治39年)10月24日 - 東京市淀橋区柏木(現東京都新宿区)に生まれる。 1919年(大正8年) - 12~13歳頃、月刊雑誌『昆虫世界』に初めての論文が掲載される。