古崎 博(ふるさき ひろし、1911年 - 没年不詳)は、日… 古崎 博(ふるさき ひろし、1911年 - 没年不詳)は、日本の翻訳家、教育者。主に中東・イスラエル関連の著作の翻訳で知られる。また、鎮西学院(長崎県)関連の教育機関で理事長などを務め、オペラ『蝶々夫人』の原作小説の日本語訳を出版したことでも知られる。 東京帝国大学理学部を卒業後、三井物産に勤務。 1940年(昭和15年)、軍事物資である水銀調達の相談のため大連特務機関長・安江仙弘大佐を訪問した際、杉原千畝がリトアニアでユダヤ難民に大量の通過査証を発行していた話を聞き、その事実を記録した。この記録は戦後、杉原千畝の「命のビザ」に関する重要な証言資料の一つとなっている。 また、陸軍主計大佐の新庄健吉がアメリカの国力を調べるためにニューヨークに赴いた際、三井物産社員として調査に協力している。
桜井 潔(さくらい きよし、1911年 - 1961年)は、… 桜井 潔(さくらい きよし、1911年 - 1961年)は、昭和初期から、おもにタンゴ音楽の分野で活動した、日本のヴァイオリニスト。1935年に自身の楽団である、桜井潔とその楽団(当時の表記では、櫻井潔と其楽團)、スペイン語でサクライ・イ・ス・オルケスタ (Sakurai y su Orquesta) を組んで、活動を始めており、アコーディオンの輸入を受けて、本格的なタンゴ楽団を結成した、日本で最初の人物とされている。 静岡県の旧家に生まれた。 東洋音楽学校(後の東京音楽大学の前身)に学んで、1932年以降、クラシック音楽のヴァイオリニストとして活動を始め、近衛秀麿が率いた新交響楽団(後のNHK交響楽団の前身)に参加して、コンサートマスターも務めた。
今井 宇三郎(いまい うさぶろう、1911年 - 2005年… 今井 宇三郎(いまい うさぶろう、1911年 - 2005年)は、日本の中国思想史学者。学位は、文学博士(東京教育大学・論文博士・1961年)(学位論文「宋代易学の研究」)。大東文化大学教授を経て、追手門学院大学教授。 1939年東京文理科大学卒、筑波大学教授、筑波大学哲学思想学系初代学系長。1961年「宋代易学の研究」で東京教育大学より文学博士の学位を取得。1975年定年退官。 大東文化大学教授を経て、追手門学院大学教授。 易学が専門だが、『菜根譚』の注釈でも知られる。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
東 一夫(ひがし いちお、1911年(明治44年) - 没年… 東 一夫(ひがし いちお、1911年(明治44年) - 没年不詳)は、日本の中国史学者、東京学芸大学名誉教授。 1911年、鹿児島県で生まれた。東京文理科大学東洋史学科で学び、卒業。 東京学芸大学助教授に就き、後に教授昇格。また、東京学芸大学附属高等学校副校長も務めた。1971年、学位論文『王安石新法の研究』を東京教育大学に提出して文学博士の学位を取得。1975年に東京学芸大学を定年退官し、名誉教授となった。
河合 徹(かわい とおる、1911年(明治44年) - 19… 河合 徹(かわい とおる、1911年(明治44年) - 1992年(平成4年))は、日本の政策研究者、地方政治家。 神戸市生まれ、東北帝国大学法文学部出身。在学中から社会問題に関心を持つようになり、1937年、全国農民組合関東出張所書記になる。当時は共産主義は危険思想として治安維持法の取り締まり対象となっていたため、1938年、人民戦線事件に連座して逮捕される。 1939年4月に転向を宣言(偽装転向)することにより、起訴猶予処分で釈放される。その後、友人の紹介で昭和研究会に事務職員として参画する。昭和研究会は近衛文麿のブレーン組織として各界の有識者を集めていたが、一方では革新官僚に代表される社会主義者が多数所属し、国家社会主義的な政策を提唱していた。
鈴木 誠一(すずき せいいち、1911年(明治44年) - … 鈴木 誠一(すずき せいいち、1911年(明治44年) - 没年不明)は、東京都小金井市長(3期)。 東京府北多摩郡小金井村(小金井町を経て、現在の東京都小金井市)生まれ。1933年(昭和8年)日本大学法学部を卒業。教員生活を送り、その後は小金井町役場に入り、民生、総務の各課長を務めた。 1955年(昭和30年)小金井町長に初当選。在任中に小金井町は1958年(昭和33年)に市制施行した。 市制施行後は社会福祉協議会の発足、国鉄武蔵小金井駅北口広場の整備、公団小金井団地への入居開始、国鉄東小金井駅の開業などがあった。 市長は1967年(昭和42年)まで務めた。
佐藤 信吉(さとう しんきち、1911年 - 2004年)は… 佐藤 信吉(さとう しんきち、1911年 - 2004年)は、日本の経営学者。横浜国立大学名誉教授。日本経営数学会名誉会長。 神奈川県出身。1935年東京商科大学(現一橋大学)学部卒業。1942年山口高等商業学校教授。1950年横浜国立大学経済学部助教授。 1951年久武雅夫らと商業数学研究会(のちの日本経営数学会)を設立。1952年横浜国立大学経済学部教授、企業会計審議会臨時委員。1958年論文「単利計算の数理的研究」で名古屋大学より経済学博士の学位を取得。 1963年に横浜国立大学経済学部が経済学科と経営学科の2学科制になると、経営学科の教授に就任。1967年に経営学部が新設されると同教授に就任。
武野 義治(たけの よしはる、1911年 - 1989年)は… 武野 義治(たけの よしはる、1911年 - 1989年)は、日本の外交官。初代駐イスラエル特命全権大使、駐ブルガリア特命全権大使、アジア・太平洋国会議員連合事務総長。 東京府(現・東京都)出身。1936年東京商科大学(現一橋大学)卒業、外務省入省。大学在学中は同期の大平正芳(のちに内閣総理大臣)や小島太作(のちに駐インド特命全権大使)、吉永榮助(のちに一橋大学名誉教授)、富樫総一(のちに労働事務次官)らと、憲法の田上穣治講師や国際法の大平善梧教授が中心となっていた研究会で勉強し、高等試験外交科に合格した。 1949年外務省特別資料部第一課長。同年外務省管理局引揚渡航課長。1950年外務省管理局引揚課長。
戸谷 喜一(とや きいち、1911年 - 没年不明)は、日本… 戸谷 喜一(とや きいち、1911年 - 没年不明)は、日本の小説家、元刑務官。 群馬県生まれ。1933年法政大学法科卒。1940年より大審院検事局記録係主任書記官を務める。1943年に出征し、華北方面に派遣される。1944年に復員し、看守長となる。仙台拘置所、大阪拘置所など各地の矯正施設に勤務。1972年に定年退職。その後堺簡易裁判所民事調停委員を11年間務めた。日本カウンセリング学会初回名誉会員、大阪地方裁判所名誉調停委員、勲五等瑞宝章受章。死刑廃止論者。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
佐藤 哲夫(さとう てつお、1911年 - 没年不詳)は、日… 佐藤 哲夫(さとう てつお、1911年 - 没年不詳)は、日本の実業家、編集者。文芸雑誌「新潮」元編集長、新潮社元取締役。 1911年、新潮社の創業者である佐藤義亮の四男として生まれる。 1936年、立教大学経済学部卒業。大学卒業後、新潮社に入社。 1945年、新潮社が発行する文芸雑誌「新潮」の編集長に就任。新潮社取締役を務めるなど重役を歴任した。 息子の佐藤啓次郎は、冷凍食品、食材宅配のパイオニアである株式会社シュガーレディ(現・SL Creations)の創業者である。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
佐藤 章(さとう あきら、1911年 - 1985年)は、日… 佐藤 章(さとう あきら、1911年 - 1985年)は、日本の素描画家。drawings Artist。素描画 エッチング画 スケッチ 元日本山林美術協会会員。 宮城県栗原郡高清水町(現・栗原市)に生まれる。 太平洋美術学校卒業。鶴田吾郎に師事。「素描は米の飯というべきもので、ぜいたくな料理がないときほど、日本人には飯の味がよくわかるものである」という鶴田の言葉に励まされ、戦前戦後を通じ素描画専門の制作を貫く。素描のもつ素朴さと、その直截的な表現力に惹かれ、20数年、日本の民家をモノクロームの世界で描き続けた。 発表は主に個展で戦前「川向う 素描展」など6回。戦中は「工場地帯」「裏街」等、工場地帯で働く少年工を描く。
正延 正俊(まさのぶ まさとし、1911年(明治44年) -… 正延 正俊(まさのぶ まさとし、1911年(明治44年) - 1995年(平成7年))は、日本の画家。具体美術協会の結成メンバーであり、抽象絵画を手がけた。 1911年(明治44年)、高知県高岡郡須崎町(現在の須崎市)に生まれる。1933年(昭和8年)、高知県師範学校(現在の高知大学教育学部)専攻科を卒業。 1935年(昭和10年)に東京に移り、また1940年代半ばに神戸市に移った。この間、高知県内、東京、神戸市内で小学校の図工教員として勤務し、1968年(昭和43年)まで教員生活を送った。 戦前期から具象的な絵画を制作し公募展に出品を行っていた。1948年(昭和23年)頃に神戸で吉原治良に出会い、師事するようになると、急速に抽象絵画に展開。
角 邦雄(すみ くにお、1911年または1919年生まれ -… 角 邦雄(すみ くにお、1911年または1919年生まれ - ?)は、日本の翻訳家。 鳥取県米子市出身。関西大学文学部を中退または卒業。北海道新聞で外信部長をつとめる。のち、貿易会社の常務をつとめる。 はじめジョン・スタインベックなどのノンフィクションを翻訳、のち「犬もの」の翻訳で人気を博した。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・作詞家・作家・放送作家・随筆家(コラムニスト)・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ:作家)。
梶原 英夫(かじわら ひでお 1911年 - 1943年夏)… 梶原 英夫(かじわら ひでお 1911年 - 1943年夏)は、日本のアマチュア野球選手。右投。香川県出身。身長180cm。東京帝国大学野球部に所属し、昭和初期の東京六大学野球で活躍した。
西 常雄(にし つねお、1911年 - )は、日本の彫刻家。
菊池 信(きくち しん、1911年(明治44年) - 198… 菊池 信(きくち しん、1911年(明治44年) - 1981年(昭和56年)1月4日)は、日本のホッケー選手。1936年ベルリンオリンピックに日本代表として出場した。 1924年に旧制盛岡中学校に入学。在学中はフットボールに親しんだ。 1929年に中学を卒業し、東京商科大学予科(現・一橋大学)に進学。大学在学中にフィールドホッケーに転向し、全日本選手権で連覇を達成するなど頭角を現した。得点の6割を占めるポイントゲッターとしてチームを牽引した。 1936年に開催された1936年ベルリンオリンピックに日本代表として出場。グランドホッケー競技で予選リーグを戦い、2勝1敗の成績を収めたが、決勝トーナメント進出はならなかった。
菅沼 五十一(すがぬま いそいち、1911年 - 1995年… 菅沼 五十一(すがぬま いそいち、1911年 - 1995年8月30日)は、日本の詩人、小説家。 『東海文学』同人、『遠州文学』同人、『麒麟』主宰、『独立文学』編集同人、浜松読書文化協力会会長、浜松ユネスコ協会会長などを歴任した。 静岡県小笠郡佐束村にて生まれた。佐束尋常小学校などを経て、静岡県立掛川中学校に進学した。旧制中学校在学中、詩人の三木露風の作品に影響を受け、詩作に熱中し、友人らと文芸誌を発刊した。その後、上京し、二松學舍専門学校に進学した。しかし、病により、やむなく二松學舍専門学校を中途退学した。 旧制専門学校を中途退学してからは、佐束村に戻って文学活動を続けることにした。同じ旧制中学校の先輩でもある文芸評論家の窪川鶴次郎から、大いに励ましを受けた。
木村 徳三(きむら とくぞう、1911年 - 2005年1月… 木村 徳三(きむら とくぞう、1911年 - 2005年1月23日)は、日本の編集者。 京都市に生まれ育つ。少年時代から歌舞伎に親しみ、旧制京都府立京都第一中学校(京都府立洛北高等学校・附属中学校)時代に谷崎潤一郎や中里介山、江戸川乱歩、菊池寛、郡虎彦などを愛読。旧制第三高等学校の同期に田宮虎彦、青山光二、森本薫がいた。 もともと作家か劇作家になることを志望していたが、東京帝国大学文学部フランス文学科在学中、1935年に太宰治の「逆行」を読んで自らの才能に絶望し、創作の道に進むことを断念する。大学卒業後、1937年6月に改造社入社、出版部に配属されて改造文庫の編集を担当。1938年2月に、『文藝』編集部に異動。
黒崎 秀明(くろさき しゅうめい、1911年 - 1976年… 黒崎 秀明(くろさき しゅうめい、1911年 - 1976年2月24日)は、岡山県岡山市出身の脚本家、郷土史家。 1911年、岡山市蕃山町で生まれる。1927年、岡山第一商業高校(現・岡山東商業高校)卒業後、上京し、独学で劇作を学ぶ。 戦後、NHK岡山放送局専属のシナリオライターとして活躍した。 また、版画が上手く、1967年、『版画 岡山後楽園』を出版した。郷土史研究を行っており、晩年は、岡山県の人物に関する著書を出版した。
伊丹 明(いたみ あきら、英語名:デイヴィッド・アキラ・イタ… 伊丹 明(いたみ あきら、英語名:デイヴィッド・アキラ・イタミ〈David Akira Itami〉、1911年 - 1950年12月26日)は、アメリカ合衆国の陸軍軍人。愛称は“デイブ(Dave)”。 カリフォルニア州オークランド生まれ。3歳より、鹿児島県加治木町の叔母の下に預けられ、そこで少年期を過ごす。鹿児島県加治木中学校を卒業後、1928年より大東文化学院に入学し、漢籍やインド哲学を研究する。 1931年にアメリカに戻ると、1935年に日本国籍を離脱。カリフォルニア大学に入学し、日本語新聞の『加州毎日』の記者となる。1941年12月に勃発した太平洋戦争により、収容所生活を強いられるが、アメリカ陸軍情報部に勤務することとなる。
松沢盛茂(まつざわ もりしげ、1911年(明治44年) - … 松沢盛茂(まつざわ もりしげ、1911年(明治44年) - 1999年(平成11年)11月25日)は、日本の農業経済学者。
矢島 粂安(やじま くめやす 1911年 - 1944年4月… 矢島 粂安(やじま くめやす 1911年 - 1944年4月)は、日本のプロ野球選手。長野県出身。結婚後の姓は、繁原(しげはら)。
竹内榮(たけうち さかえ、1911年-2006年5月25日)… 竹内榮(たけうち さかえ、1911年-2006年5月25日)は、日本の工学者。専門は金属工学・金属学。理学博士。室蘭工業大学元学長。東北大学名誉教授。宮城県出身で生後間もなく札幌市に移り住んだ。
根本 清蔵(清藏、ねもと せいぞう、1911年(明治44年)… 根本 清蔵(清藏、ねもと せいぞう、1911年(明治44年)- 2000年(平成12年)11月12日)は、日本の政治家。茨城県議会議員、茨城県議会副議長(第67代)、江戸崎町長(第5代)、鹿島地域整備調査特別委員会委員長を歴任した。位階は正五位。 根本は当時、県の重要課題であった鹿島臨海工業地帯の開発において、その公害対策における県議会鹿島地域整備調査特別委員会の委員長を務めていた。 1960年以降、茨城県では全国総合開発計画で謳われている拠点開発方式の実践として、鹿島港が工業整備特別地域に指定され、国家プロジェクトによる巨大開発が行われたが、これは低迷に苦しんでいた県民の所得の増大を目的に、1960年に「鹿島灘沿岸地域総合開発の構想」を打ち出し、工場誘致を推進したことによるものである。
岡 直遙(おか なおはる、1911年 - 1965年5月10… 岡 直遙(おか なおはる、1911年 - 1965年5月10日)は、日本の法学者。専門は行政法。八幡大学教授。福岡県宗像郡出身。 宗像郡の神社宮司の四男として生まれる。福岡高等学校 (旧制)から九州帝国大学法文学部法律学科に入学、宇賀田順三に師事する。 九大卒業後、三井鉱山に入社。1954年(昭和29年)八幡大学法経学部に講師として就任。行政法各論、地方自治法、国家公務員法の講義を受け持った。古武士的な峻厳さと謙虚さを兼ねる反面リベラル的な性格も持った責任感の強い教授であった。また大学の厚生補導課長として八幡大学野球部長を務め1961年(昭和36年)には九州六大学野球連盟リーグで初優勝を齎した。
吉竹 迪夫(よしたけ みちお、1911年 - 1979年9月… 吉竹 迪夫(よしたけ みちお、1911年 - 1979年9月12日)は、日本の英文学者。 埼玉県川越市生まれ。青山学院英文科卒、1935年九州帝国大学法文学部英文科卒。福岡県で旧制中学校教師、明治専門学校(九州工業大学)講師、福岡学芸大学助教授をへて、九州大学教養部助教授、教授。1974年定年退官、名誉教授。
山岡 良文(やまおか りょうぶん、1911年 - 1970年… 山岡 良文(やまおか りょうぶん、1911年 - 1970年11月17日)は、昭和戦中戦後に活躍した前衛の日本画家である。 東京に生まれる。1931年京都市立絵画専門学校(絵専、現・京都市立芸術大学)に入学。石崎光瑤の指導を受け、翌年退学。帰郷して川端龍子に師事し、青龍社展に出品した《ガソリン風景》が初入選。1934年福田豊四郎、吉岡堅二らと新日本画研究会を結成。1938年第2回自由美術家協会展にも出品し会友となる。 同1938年岩橋英遠、田口壮、船田玉樹らと歴程美術協会を結成。 また、翌年に発行された機関誌『歴程美術』の編集兼発行人となる。第1回歴程美術協会展に出品した《シュパンヌンク》は、それまでの「日本画」にまったく見られない「純粋抽象(非対象)」表現として知られる。
栗原 健(くりはら けん、1911年 - 2005年12月2… 栗原 健(くりはら けん、1911年 - 2005年12月2日)は、日本のアーキビスト・歴史学者。文学博士。専門は、外交史・日本近代史。 1934年、國學院大學国史科を卒業。1935年、外務事務官として外務省に入省する。 文書課に配属され、外交文書や電報類の整理に従事して以来、『日本外交文書』・『終戦史録』(1952年)・『日本外交年表並主要文書 1840-1945』(1955年)・『外務省の百年』上・下(1969年)の編纂や外交史料館の立ち上げ(1971年開館)に尽力した。 外務省退官後も『日本外交文書』編纂委員・顧問、また日本国際政治学会名誉理事として後進の指導に当たった。また、外交文書の閲覧のために来訪する海外の研究者に対しても、懇切丁寧に対応してその研究を支援し続けた。
尹 崑崗(ユン・ゴンガン、朝鮮語: 윤곤강、1911年 - … 尹 崑崗(ユン・ゴンガン、朝鮮語: 윤곤강、1911年 - 1950年2月23日〈1949年〉)は、日本統治時代の朝鮮及び大韓民国の詩人。本貫は漆原尹氏。本名は尹 朋遠(ユン・ブンウォン、윤붕원)。 瑞山出身。1933年に専修大学を卒業後、1934年『詩学』同人の一員として文壇に登場した。初期には朝鮮プロレタリア芸術家同盟の一員として詩を書くも作風は退廃的で風刺的なものであった。解放後は朝鮮半島の伝統とその情緒への愛着などを題材とした。週刊同人誌『詩学』や、そのほか『ビンハ』、『動物詩集』、『サルアリ』や、詩論集として『詩と真実』などを執筆している。 1950年2月23日、宿痾により40歳で死去した。
佐藤 重平(さとう じゅうへい、1911年(明治44年) -… 佐藤 重平(さとう じゅうへい、1911年(明治44年) - 1996年(平成8年)5月5日)は、日本の植物学・遺伝学者。 岩手県出身。第二高等学校卒、1934年東京帝国大学理学部植物学科卒、同大学院満期退学。理学博士。第四高等学校教授、東京高等学校教授、東京大学教養学部助教授、教授、1971年定年退官、名誉教授、順天堂大学教授、自治医科大学教授。没後正四位受勲。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
田栗 テル(たぐり てる、1911年〈明治44年〉 - 19… 田栗 テル(たぐり てる、1911年〈明治44年〉 - 1983年〈昭和58年〉6月27日)は、日本の洋画家である。 東京都出身。日本女子大学校卒。1961年(昭和36年)朱葉会会員、一水会会員。女流画家で、2回の受賞歴を持つ。文部大臣賞他2。選抜展出品。個展15回。欧東南ア遊。田崎広助を師とする。 小鳥や野鳥を題材にした作品を数多く遺しており、静物画の中に逢えて鳥獣等の小動物を織り交ぜる事により、従来の油彩画には無かった、斬新なイメージを画界に吹き込んだことで知られている。愛情溢れる情緒豊かな画風で、大自然のふくよかな叡智を表現する事に長けている。また、観照する者の心を優しく包み込む、温もり在る画風が特徴的で、その明るくも強烈な色使いと観る者を圧倒させる大胆な構図からは、師である田崎広助ら後期印象派の影響を受けており、独特の色使いから高い絶賛を受けた。
加藤 康郎(かとう やすろう、1911年(明治44年) - … 加藤 康郎(かとう やすろう、1911年(明治44年) - 1998年(平成10年)3月13日)は、日本の政治家。藤島町長、栄典・称号は、従五位・勲四等・旭日小綬章・藤島町名誉町民(現・鶴岡市名誉市民)
大越 勝秋(おおこし かつあき、1911年 – 1984年1… 大越 勝秋(おおこし かつあき、1911年 – 1984年1月24日)は、日本の歴史家、民俗学者。 福島県生まれ。1936年に立正大学専門部に入学し、1939年に卒業する。1940年、東京高等師範学校研究科に進学し、1941年3月に卒業。同年、大阪府立岸和田中学校に入職し、学制改革後も大阪府立岸和田高等学校に勤務し、1971年に退職。同年から阪南大学教授となり、1981年まで務める。大阪府域の条里制坪名の調査を行ったほか、岸和田高校では生徒の課外活動(クラブ活動)の指導から発展して宮座や民謡の研究を行った。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
稲垣 源四郎(いながき げんしろう、1911年 - 1995… 稲垣 源四郎(いながき げんしろう、1911年 - 1995年11月17日)は、日本の弓道家。日置流印西派師家。 東京生まれ。早稲田大学理工学部を卒業。1969年より、ドイツなどヨーロッパ各地で指導。東京教育大学教授、早稲田大学・筑波大学弓道部・ドイツ弓道連盟師範などを務めた。全日本弓道連盟範士9段。1995年11月17日、膵臓癌のため死去。 この項目は、スポーツ関係者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ポータル スポーツ/プロジェクト スポーツ人物伝)。
日本民謡名人位 ・初代浅野 梅若(あさの うめわか、1911… 日本民謡名人位 ・初代浅野 梅若(あさの うめわか、1911年 - 2006年8月4日、本名・浅野 保二(あさの やすじ))は、秋田県秋田市出身の日本の民謡歌手、三味線奏者。 秋田県由利郡大正寺村神ケ村(後に、河辺郡大正寺村、河辺郡雄和村、河辺郡雄和町を経て、現在は秋田市雄和神ケ村)生まれ。「民謡王国・秋田」を確立させた。秋田民謡界のみならず、日本民謡界の大御所であった。日本民謡梅若流梅若会の初代宗家。 1962年に内弟子として迎え、民謡日本一となった二代目浅野梅若(旧名・浅野和子)は養女(1973年より)であり、梅若流梅若会の現宗家。2代目梅若の夫は、梅若芸能企画の代表者で、梅若流大師範、秋田県民謡協会公認教授、三味線・尺八奏者の梅若梅貢、その長女は同じく大師範、秋田県民謡協会公認助教授の浅野江里子、同長男は同名取大師範、秋田県民謡協会公認助教授で梅貢の直弟子に当たる三味線奏者の梅若鵬修である。
若松 幸禧(わかまつ ゆきよし、1911年(明治44年)- … 若松 幸禧(わかまつ ゆきよし、1911年(明治44年)- 1944年(昭和19年)12月18日)は、大日本帝国陸軍の軍人。戦闘機操縦者。最終階級は中佐。鹿児島県薩摩郡高江村(現在の薩摩川内市)出身。通り名・異名は「赤鼻のエース」。 鹿児島県薩摩郡高江村大字久見崎(現在の薩摩川内市久見崎町)出身。太平洋戦争(大東亜戦争)中後期の中国戦線で活躍した、二式単座戦闘機「鍾馗」と四式戦闘機「疾風」乗りのエース・パイロット。二等兵として入営し、下士官から少尉候補者を経て少佐にまでのぼりつめた。冴えた空戦技術と円熟した優れた人格を持ち合わせた理想的な戦闘隊指揮官であった。 その活躍から敵の中華民国重慶政府より若松の首に賞金が懸けられ(当初は2万元、のち5万元に増額)、また、若松の所属する飛行第85戦隊第2中隊機のスピナーと垂直尾翼前縁(部隊マーク)に塗られた中隊色の赤色から、若松は在中国米空軍(在支米空軍)や友軍より「赤鼻(RedNose)のエース」、「赤ダルマ隊長」として存在が広く知られていた。
樋口 静雄(ひぐち しずお、1911年(明治44年) - 1… 樋口 静雄(ひぐち しずお、1911年(明治44年) - 1973年(昭和48年)1月24日)は、昭和期の歌手。 大分県日田市出身。1937年(昭和12年)、キングレコードから「満州娘」でデビュー。同年、林伊佐緒、近衛八郎と吹き込んだ「男なら」がヒットする。 彼はアメリカで流行していたクルーナー唱法を何とかして歌謡曲に取り入れようとするが、時局上軍歌などに押され、上手く発揮することは出来なかった。 1939年(昭和14年)、支那(中国)手品師を主人公にして片言の日本語で歌う、ユーモア歌謡「チンライ節」が大ヒットする。このレコードは数万枚が軍部に買われ、大陸戦線に配布されたという実績を持っている。
市田 左右一(いちだ そういち、1910年12月30日 – … 市田 左右一(いちだ そういち、1910年12月30日 – 1986年6月30日)は、日本の実業家。国際サッカー連盟 (FIFA) 常任理事を日本人としてはじめて務めた。著名な切手収集家でもあり、日本の手彫切手の収集・研究に努めるとともに、多くの著作を通じてその成果を海外に紹介した。 1910年(明治43年)、市田幸四郎・四寿子夫妻の長男としてとして、東京に生まれる。父は日本におけるオフセット印刷の創始者と呼ばれる人物。母はキリスト教伝道者金森通倫の娘。市田家は神戸元町通で著名な写真館「市田写真館」を営んでおり、幸四郎は明治初年に神戸で活動した写真家市田左右太(1843年 - 1896年)から数えて3代目にあたる(ただし市田家は男子に恵まれず代々を養子で継いでおり、幸四郎も養子である)。
松井 魁(まつい いさお、1910年12月30日 - 198… 松井 魁(まつい いさお、1910年12月30日 - 1987年8月19日)は、日本の魚類学者。 山口県新南陽市(現・周南市)生まれ。1934年水産講習所(現・東京海洋大学)増殖学科卒。水産講習所助教授、1946年第二水産講習所教授、1952年「日本産鰻の形態及び生態に関する研究」で京都大学理学博士、下関水産科学賞受賞、水産学会賞、1953年小野臨湖実験場長、1954年日本農学会賞受賞、1971年水産大学校長、1975年下関水族館顧問。1976年宇部短期大学学長。1983年勲三等旭日中綬章受勲、主として鰻を研究し、随筆も書いた。
亀井 トム(かめい とむ、1910年12月29日 - 200… 亀井 トム(かめい とむ、1910年12月29日 - 2000年?)は、日本のジャーナリスト。『週刊埼玉』社長。本名、亀井 兎夢。出生名、久松 兎夢。トム・カメイ名義による著作もある。 子爵久松定弘(旧姓、大河内)の六男として東京市下谷区(現・東京都台東区)に生まれる。1928年、東京府立一商(現・東京都立第一商業高等学校)卒。日本大学専門部経済学科を2年で中退し、叔父の湯目補隆(ゆのめ すけたか、旧制大阪高校や旧制第二高校の校長を歴任)の私塾で学ぶ。1933年、亀井家の養子となる。 埼玉県川越市に住み、1953年から地方新聞『週刊埼玉』を発行。1970年1月、日本国民救援会系の「石川さんを守る会」川越地区の岸野茂(農林技官)と杉山英夫(横川元代議士襲撃事件被告人、大井医院事務長)の来訪と資料提供を受け、1970年2月から同紙で「狭山事件の再検討」を月1回特集する。
赤松 秀雄(あかまつ ひでお、1910年12月27日 - 1… 赤松 秀雄(あかまつ ひでお、1910年12月27日 - 1988年1月8日 )は、日本の物理学者・化学者。学位は、理学博士(東京大学・1942年)(学位論文「固液界面における吸着現象の実験的研究」)。東京大学教授・横浜国立大学工学部長・岡崎国立共同研究機構分子科学研究所初代所長を歴任。有機半導体の発見者として知られる。1981年勲二等旭日重光章受章。 1954年、井口洋夫らとともにペリレンと臭素の錯体が高い導電性を示すことを発見し、有機半導体の概念を提唱した。これは後に白川英樹らによる導電性高分子の発見にもつながった。 門下に井口洋夫、中川鶴太郎ら。日本の炭素研究の先駆者である他、水素エネルギーの研究にも先駆的な役割を果たした。
大和田 信(おおわだ しん、1910年(明治43年)12月2… 大和田 信(おおわだ しん、1910年(明治43年)12月26日 - 1991年(平成3年)3月16日)は日本の航空技術者。 1910年(明治43年)12月、茨城県東茨城郡生まれ。旧制水戸中学校、水戸高校卒業。1935年(昭和10年)、東京帝国大学工学部航空学科卒業。同級に、糸川英夫、小谷敏夫(海軍彗星爆撃機設計員・技術大尉(サイパン島で戦死))、品川信次郎(立川一式双発高等練習機設計)等がいる。 1935年(昭和10年)、川崎造船所飛行機部入社、初めにキ‐32(九八式軽爆撃機)設計スタッフとなり、次に土井武夫課長のキ‐48(九九式双発軽爆撃機)の主翼設計担当となる。その成果が土井に認められ、その後土井設計部長の下でキ‐61、キ‐61 II、キ‐61 II改、キ‐100の設計課長及び翼担当課長を務める(川崎航空機は1人で全開発機の各部専任担当課長と個別の機体の設計課長を兼務する方式をとっていた)。
栗原 百寿(くりはら はくじゅ、1910年12月26日 - … 栗原 百寿(くりはら はくじゅ、1910年12月26日 - 1955年5月24日)は、日本の農業経済学者。茨城県東茨城郡石塚町(現在の城里町)出身。 医者の長男として生まれ、家業を継ぐために水戸中学校から水戸高等学校へ進む。1931年に同校理科乙類を卒業するが、医学部へは進まず、東北帝国大学法文学部に進学する。大学時代は歴史哲学を学び、宇野弘蔵、新明正道らの講義を聴講していた。卒業論文は「ジョン・スチュアート・ミルの思想史的研究」。1937年に大学を卒業、直後に人民戦線事件で検挙される。 1939年、帝国農会へ就職するが、1942年12月に再び治安維持法違反容疑で逮捕される。戦後は農林省統計調査局調査室嘱託などを経て、1953年に拓殖大学政経学部教授となる。
末松 玄六(すえまつ げんろく、1910年12月25日 - … 末松 玄六(すえまつ げんろく、1910年12月25日 - 1993年8月30日)は、日本の経営学者。専門は中小企業適正規模論。名古屋大学名誉教授。日経・経済図書文化賞受賞、日本中小企業学会初代副会長。 その学術論ゆえに、信用金庫整理において小原鐵五郎に敗北したことでも有名。 岐阜県出身。東京商科大学(現一橋大学)卒。上田貞次郎門下。1961年「中小企業の成長に関する経営経済学的研究」で名古屋大学より経済学博士の学位を取得。彦根高等商業学校教諭、山口高等商業学校助教授、名古屋経済専門学校教授、名古屋大学経済学部助教授、教授、1974年定年退官し名誉教授となり、愛知大学法経学部教授を務めた。1980年から1986年まで山中篤太郎初代会長等の下で日本中小企業学会初代副会長。
大平山 圭四郎(おおひらやま けいしろう、1910年12月2… 大平山 圭四郎(おおひらやま けいしろう、1910年12月23日 - 1981年5月18日)は、昭和時代の大相撲力士。春日野部屋所属。本名は斎藤 四郎。最高位は十両4枚目。 栃木県宇都宮市出身。上京し鐘淵紡績に就職、会社では運動部員として活躍し、相撲では東京府代表として明治神宮の大会に出場した。春日野部屋に入門し、1934年1月働いていた会社にちなみ「鐘ヶ渕」の四股名で初土俵を踏んだ。順調に番付を上げ、1941年1月に十両に昇進したが3勝12敗と負け越し、幕下に落ちた。幕下で十両復帰を目指したが、この間四股名を「大平山」と改めた。1943年1月に十両に復帰した。十両では勝ち越しと負け越しを繰り返し、9勝が最高成績だった。
恒松 恭助(つねまつ きょうすけ、1910年12月22日 -… 恒松 恭助(つねまつ きょうすけ、1910年12月22日 - 2001年4月13日)は、日本の作家、放送作家。 千葉県生まれ。1936年早稲田大学英文科卒。大学時代より同人誌『人間』に所属、戦後は早大系の『文学者』の編集委員。1956年から1964年までNHKで放送された人形劇『チロリン村とくるみの木』の原作者であり作者で、最終回までの全812回分、および1966年にフジテレビで放送された続編『おーい!チロリン村だよ』の全30回分を単独で執筆。作家としては私小説を書いた。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
大泉 源郎(おおいずみ げんろう、1910年(明治43年)1… 大泉 源郎(おおいずみ げんろう、1910年(明治43年)12月20日 - 2005年(平成17年)12月28日)は、日本の政治家。北海道苫小牧市2代目市長(1963年5月~1983年4月)。苫小牧市名誉市民。 勇払郡苫小牧村(現・苫小牧市)に質屋の三男として生まれる。室蘭商業学校に進学して程無く旧制北海中学校に編入し(同級生として坊屋三郎がいる)、同校卒業後に苫小牧へ戻るが職が見つからず、当時の苫小牧町役場に臨時職員として入庁し徴税課員を経て常勤に。1947年(昭和22年)町長の田中正太郎に36歳で助役に抜擢され、1948年(昭和23年)の市制を迎える。 1963年(昭和38年)に引退する田中市長の後継を決める市長選で、北海道衛生部長を務めた稲垣是成らを破って初当選。
奥平 泉一(おくひら せんいち、1910年 <明治43年> … 奥平 泉一(おくひら せんいち、1910年 <明治43年> 12月20日 - 1978年 <昭和53年> 3月26日)は、日本の経営者。住友信託銀行社長を務めた。位階は従四位。勲二等瑞宝章。 大分県出身。1934年に京都帝国大学経済学部を卒業し、同年に住友信託銀行に入行。1957年5月に取締役に就任し、1962年11月に常務、1963年7月に専務、1969年5月に副社長を経て、1972年5月から1976年9月までに社長を務めた。 1978年3月26日に腎不全のために死去。67歳没。死没日付をもって従四位に叙され、勲二等瑞宝章を追贈された。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
成瀬 幡治(なるせ ばんじ、1910年12月17日 - 19… 成瀬 幡治(なるせ ばんじ、1910年12月17日 - 1992年12月3日)は、日本の政治家、労働運動家。参議院議員(4期、日本社会党)。 愛知県西加茂郡小原村(現豊田市)に生まれる。本城小学校(現豊田市立本城小学校)卒業。1931年(昭和6年)、愛知第一師範学校専攻科卒業。教員となり、終戦後、愛知県教員組合の初代委員長に就任し、組合運動に参加。学校生活協同組合理事長なども務めた。 1950年(昭和25年)6月の第2回参議院議員通常選挙に愛知県選挙区から日本社会党公認で立候補し、地方区としては全国最多得票数で初当選を果たした。1962年(昭和37年)に3選。 1966年(昭和41年)、翌年2月執行の愛知県知事選挙の候補者に社会党は成瀬を擁立。
石井 英子(いしい ひでこ、1910年12月15日 - 19… 石井 英子(いしい ひでこ、1910年12月15日 - 1998年6月7日)は、講談の定席として知られた東京・上野の寄席「本牧亭」の経営者。 寄席「鈴本亭」(鈴本演芸場)の席亭であった鈴木孝一郎の三女として、東京・上野に生まれる。東京府立第一高等女学校(後の東京都立白鷗高等学校・附属中学校の前身)を卒業した。 曲芸師であった春本助次郎(2代目)と結婚し、娘2人をもうけるが、5年で死別する。 父・鈴木孝一郎は、戦後1948年に再開した本牧亭の経営を英子に委ね、席亭とした。1950年以降、本牧亭は40年にわたって講談の定席として維持されたが、1990年に閉場した。 1992年には、池之端の料理屋の2階に場所を移し、「池之端本牧亭」として、定員30人の小規模な形で本牧亭を再開したが、以降の経営は娘夫婦に委ね、長女の清水孝子を席亭とし、その夫清水基嘉を本牧亭社長として、自らは会長となって「隠居」を自称していた。