平場 安治(ひらば やすはる、1917年3月30日 - 20… 平場 安治(ひらば やすはる、1917年3月30日 - 2002年6月27日)は、大阪府出身の法学者、弁護士。1993年日本学士院会員。京都大学名誉教授。従三位勲二等瑞宝章。 新派刑法理論に立つ宮本英脩の弟子。戦後まもなくハンス・ヴェルツェルの目的的行為論・人的不法論を日本に紹介し、平野龍一、福田平と共に「三平」と呼ばれた(平野は後に目的的行為論批判に転じた。)。弟子に中森喜彦、鈴木茂嗣らがいる。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。
中里 精(なかざと せい、1917年(大正6年)3月30日 … 中里 精(なかざと せい、1917年(大正6年)3月30日 - 2000年(平成12年)12月30日)は、日本の政治家。栃木県真岡市長(1期)。 栃木県芳賀郡山前村(のち真岡町、現・真岡市)出身。山前農業協同組合長、山前村議会議員を経て、合併後の真岡町議会議員、市政施行後の真岡市議会議員、同議長を務め、真岡市長岩崎純三の下で助役を15年務めた。1977年、岩崎の退任により、真岡市長に就任、市長を1期務めた。1981年に市長を退任した。2000年に死去した。
坊城 俊民(ぼうじょう としたみ、1917年〈大正6年〉3月… 坊城 俊民(ぼうじょう としたみ、1917年〈大正6年〉3月29日 - 1990年〈平成2年〉4月6日)は、日本の国文学者、教育者。 東京市にて、堂上華族の嫡子として誕生。父・坊城俊良(としなが)は伯爵で宮内官。母は子爵入江為守の娘・朔子(叔父に、昭和天皇の侍従長を務めた入江相政)。神田区駿河台と麻布区笄町に育つ。 1935年(昭和10年)から翌年にかけ、親友・長與道夫の叔父・長與善郎(作家)の邸宅にて、中世国文学の研究者風巻景次郎の指導で源氏物語を初めて読み、文学的に大きな影響を受ける。 学習院では文芸部委員をつとめ、校友会誌『輔仁会雑誌』に詩や散文を発表すると共に、文芸部発行の「雪線」誌に自伝的小説『鼻と一族』などを発表。
川本 信彦(かわもと のぶひこ、1917年3月29日 - 2… 川本 信彦(かわもと のぶひこ、1917年3月29日 - 2011年8月21日)は、日本の経営者。小西六写真工業(現在のコニカミノルタ)社長、会長を務めた。兵庫県出身。 1939年に京都帝国大学経済学部を卒業し、同年に三菱銀行に入行。 1968年5月に小西六写真工業取締役に就任し、1970年5月に常務、1973年11月に専務を経て、1978年12月に副社長に就任し、1979年12月には社長に昇格。1983年12月から1989年3月までに会長を務めた。 2011年8月21日老衰のために死去。94歳没。
夏川 鉄之助(なつかわ てつのすけ、1917年(大正6年)3… 夏川 鉄之助(なつかわ てつのすけ、1917年(大正6年)3月29日 - 2014年(平成26年)3月7日)は、日本の実業家、
秋田 正彌(あきた まさや、1917年3月29日 - 200… 秋田 正彌(あきた まさや、1917年3月29日 - 2001年8月7日)は、日本の経営者。大同特殊鋼社長を務めた。広島県出身。 1947年に東京大学工学部機械工学科を卒業し、同年に大同製鋼(のちの大同特殊鋼)に入社。1967年8月に取締役に就任し、1970年8月に常務、1973年8月に専務を経て、1978年9月に副社長に就任し、1982年9月には社長に昇格。1986年5月に取締役相談役に就任し、1998年6月に相談役に就任。 1974年3月に大河内記念技術賞を受賞し、1983年4月に藍綬褒章を受章。 2001年8月7日老衰のために死去。84歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
足立 誠一(あだち せいいち、1917年〈大正6年〉3月29… 足立 誠一(あだち せいいち、1917年〈大正6年〉3月29日 - 2001年〈平成13年〉8月31日)は、昭和から平成時代の政治家。静岡県浜北市長。 浜北市出身。1934年(昭和9年)県立蚕業学校卒業(現静岡県立浜松大平台高等学校)。 1960年(昭和35年)浜北市議会議員を経て、1978年(昭和53年)11月、浜北市長に当選した。以来3期務め、1990年(平成2年)11月、落選した。 2001年(平成13年)8月31日死去、84歳。死没日をもって従七位から従五位に叙される。
安部 徹(あべ とおる、1917年3月28日 - 1993年… 安部 徹(あべ とおる、1917年3月28日 - 1993年7月18日)は、日本の俳優。本名:阿部 徹(読み同じ)。旧芸名:原 不二雄(はら ふじお)。 日活アクション映画や東映仁侠・ヤクザ映画など数多くの作品で悪役を演じ、戦後日本映画史に残る悪玉役者として知られる。戦前に新興キネマでデビューしており、若手時代は二枚目俳優として活躍した。妻は女優・声優の北原文枝だが入籍はしていない。 1917年(大正6年)3月28日、福岡県宗像郡東郷町(現在の宗像市)に、教師で糟屋郡志免町の青年学校長を務めていた父・大作と母・千代の4人兄弟の四男として生まれる。3人の兄はいずれも戦死している。 上京して府立四中(現在の都立戸山高校)を修了後、東京商科大学予科に進むが、酔っ払って西武線を止めて退学処分となる。
坂本 朝一(さかもと ともかず、1917年3月28日 - 2… 坂本 朝一(さかもと ともかず、1917年3月28日 - 2003年12月31日)は、日本の放送人。第12代日本放送協会(NHK)会長。「朝の連続テレビ小説」の生みの親として知られる。 東京都千代田区にある神田明神境内の割烹料理屋「開花楼」の主人・2代目坂本彦平(坂本猿冠者)の子として生まれる。旧制明治中学校から早稲田大学文学部英文学専攻科に進学し、同校を卒業。 1939年にNHKに入局。主にラジオドラマや演芸などの芸能番組を担当。1940年4月にはテレビ実験放送の公開番組として、日本初のテレビドラマである『夕餉前』を演出した。戦後には『二十の扉』『私は誰でしょう』『向う三軒両隣り』などを担当した。
井上薫(いのうえ かおる、1917年3月28日 - 2009… 井上薫(いのうえ かおる、1917年3月28日 - 2009年6月9日)は、日本の歴史学者、大阪大学名誉教授。文学博士(東京大学、1962年)。 大阪府北河内郡南郷村生まれ。浪速高等学校を経て、1940年東京帝国大学国史学科卒。1943年同大学院退学。1949年大阪大学教養部助教授、1962年「奈良朝仏教史の研究」で東京大学文学博士。1963年阪大教授。1980年定年退官、大阪大学名誉教授、奈良大学教授。1986年退職。1983年から1993年まで堺市博物館長を務めた。
渡辺 文夫(わたなべ ふみお、1917年3月28日 - 20… 渡辺 文夫(わたなべ ふみお、1917年3月28日 - 2012年2月10日)は、日本の経営者。東京海上火災保険(現・東京海上日動火災保険)社長・会長、日本航空会長、日本棋院理事長。公益社団法人日本コントラクトブリッジ連盟創設者。 東京府出身。東京帝国大学卒。 1939年、東京海上火災保険に入社。 1939年、短期現役海軍主計科士官(2期)を志願し、同年5月、海軍経理学校に入学し海軍主計中尉に任官。同年9月に卒業。赤城に配属。鈴谷庶務主任、漢口軍需部付、筑波海軍航空隊主計長兼副官を歴任。1941年5月、主計大尉に昇進し、1943年6月、予備役に編入。同年12月、召集され軍需省航空兵器総局付となり、1944年11月、主計少佐に進み終戦を迎えた。
竹内 春海 (たけうち はるみ、1917年3月28日 - 2… 竹内 春海 (たけうち はるみ、1917年3月28日 - 2005年8月20日)は、日本の外交官。外務省アメリカ局長や、儀典長、駐イタリア特命全権大使などを歴任した。 東京商科大学(現一橋大学)在学中、高等試験に合格し、1938年外務省に入省。米国留学、1940年アムハースト大学卒、1941年ハーバード大学大学院修了。 大日本帝国陸軍少尉、1947年内閣総理大臣秘書官、1949年調査局第二課長、米国在勤、1953年アジア第二課長、1954年欧米第一課長、1958年カルカッタ総領事、1959年在ドイツ連邦日本国大使館参事官、1961年アメリカ局外務参事官を経て、1963年アメリカ局長。1965年駐フィリピン特命全権大使。
田場 典正(たば てんせい、1917年 <大正6年> 3月2… 田場 典正(たば てんせい、1917年 <大正6年> 3月28日 - 2006年 <平成18年> 11月2日)は、日本の銀行家。琉球銀行頭取を務めた。位階は正五位。 沖縄県出身。1941年に早稲田大学商学部を卒業し、1942年に日本通運を経て、1948年6月に琉球銀行に入行。1972年1月に専務に就任し、1981年6月には頭取に昇格。1985年6月に会長に就任し、1994年6月には取締役相談役に退いた。 1987年4月に勲二等瑞宝章を受章。 2006年11月2日に肺炎のために死去。89歳没。死没日付をもって正五位に叙された。
河本 嘉久蔵(河本 嘉久藏、かわもと かくぞう、1917年(… 河本 嘉久蔵(河本 嘉久藏、かわもと かくぞう、1917年(大正6年)3月27日 - 1990年(平成2年)3月24日)は、日本の政治家、実業家。参議院議員(3期、自由民主党)、国土庁長官(第13代)、北海道開発庁長官(第47代)。アヤハグループ創業者。 1917年(大正6年)、滋賀県高島郡本庄村北船木(現在の高島市安曇川町北船木)に生まれる。1937年(昭和12年)に彦根高等商業学校(現・滋賀大学経済学部)を卒業。 同年丸紅に入社したが、まもなく従軍、支那事変と太平洋戦争に参戦する。 終戦後に丸紅を退社し、1946年(昭和21年)、山城織物株式会社(現綾羽)を設立。1958年(昭和33年)4月滋賀大学体育館建設費として10万円寄付により同年10月11日紺綬褒章受章。
柴田 敏夫(しばた としお、1917年3月27日 - 198… 柴田 敏夫(しばた としお、1917年3月27日 - 1984年6月29日)は、日本のジャーナリスト、経営者。九州朝日放送社長を務めた。大阪府大阪市出身。 1941年に京都帝国大学法学部政治学科を卒業し、同年に朝日新聞社に入社。1977年6月に九州朝日放送専務に就任し、1981年6月には社長に就任。 1984年6月29日に心不全のために死去。67歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
大沢 清輝(おおさわ きよてる、1917年3月27日 - 2… 大沢 清輝(おおさわ きよてる、1917年3月27日 - 2005年12月21日)は、日本の天文学者。萩原雄祐門下。日本における観測天体物理学の開拓者の1人である。東京府(現・東京都)出身。1982年紫綬褒章受章、1988年勲二等瑞宝章受章。
徐 廷学(日本語読み: じょ ていがく、朝鮮語読み: ソ・ジ… 徐 廷学(日本語読み: じょ ていがく、朝鮮語読み: ソ・ジョンハク、서정학、1917年3月26日 - 2005年7月2日)は、大韓民国の警察公務員、ソウル市警察局長、第11代内務部治安局長、第6代江原道知事、大韓剣道会会長などを歴任した。 日本統治時代の京畿道の漣川郡に生まれる。日本名では大島陽輝(おおしまはるき)と名乗った。北陽商業学校(現・関西大学北陽高等学校)を経て、関西大学専門部第二部法律学科(現・関西大学法学部)に入学。大学では剣道部に所属して大阪代表選手として活躍すると共に、関西大学剣道部の部長に就任した。当時、朝鮮半島出身者が内地の大学で剣道部部長に就任するのは初めてであった。1940年(昭和15年)に卒業後、大阪府庁に入庁。
柴田 錬三郎(しばた れんざぶろう、1917年〈大正6年〉3… 柴田 錬三郎(しばた れんざぶろう、1917年〈大正6年〉3月26日 - 1978年〈昭和53年〉6月30日)は、日本の小説家、ノンフィクション作家、中国文学者。本名齋藤錬三郎(さいとう れんざぶろう)。代表作に『眠狂四郎』シリーズ、『赤い影法師』『御家人斬九郎』『三国志 英雄ここにあり』などがあり、剣客ブームを巻き起こし、時代小説に新風を送った。「シバレン(柴錬)」の通称でも呼ばれた。 岡山県邑久郡鶴山村(現・備前市)の地主・柴田知太の三男として生まれる。父は日本画家でもあった。3歳で父を亡くしたが、遺された漢籍に親しみ、唐宋詩人の詩を愛吟して育った。 鶴山尋常小学校を卒業後、1929年に旧制岡山県第二岡山中学校に進学。
天野 春一(あまの しゅんいち、1917年 <大正6年> 3… 天野 春一(あまの しゅんいち、1917年 <大正6年> 3月26日 - 1985年 <昭和60年> 11月23日)は、日本の経営者。位階は従四位。 東京都出身。1939年に慶應義塾大学経済学部を卒業し、同年に三井物産に入社。 1945年に日本車輌製造に転じ、取締役に就任し、1949年4月に専務を経て、1955年1月には社長に就任。1982年6月に会長に就任し、1982年8月から1983年6月までに高橋宏社長の急逝により、社長も兼任した。 1985年11月23日肝腫瘍のために死去。68歳没。死没日付をもって従四位に叙された。
牧 真一(まき しんいち、1917年3月26日 - 1977… 牧 真一(まき しんいち、1917年3月26日 - 1977年)は、1952年ヘルシンキオリンピックに日本人として初めて出場したフェンシング選手(個人フルーレ、エペ、サーブルの3種目に出場)。戦後の日本フェンシング界の礎を築いた先駆者であり、実業家としても活躍した。 京都府京都市伏見区出身。慶應義塾大学経済学部を卒業。 1952年、ヘルシンキオリンピックに日本人として初めてフェンシング個人種目に出場した。戦後の混乱期、海外渡航が極めて困難だった時代に、フルーレ、エペ、サーブルの全3種目に単身で挑んだその足跡は、後の日本フェンシング界に多大な影響を与えた。語学に堪能で国際的なマナーにも精通していたことから、競技者としてだけでなく、スポーツ外交官として海外賓客の接待や国際会議への出席など、日本のスポーツ団体を代表して外交的役割を担うことも多かった。
羽賀 忠利(はが ただとし、1917年〈大正6年〉3月26日… 羽賀 忠利(はが ただとし、1917年〈大正6年〉3月26日 - 2010年〈平成22年〉3月7日)は、日本]の剣道家。剣道・居合道範士八段。羽賀準一の実弟。 広島県比婆郡東城町[要出典]に生まれる。1932年(昭和7年)に上京し、準一の世話になりながら[要出典]、国士舘中学(旧制)に入学した。 1937年(昭和12年)、準一が学資を出す形で[要出典]、国士舘専門学校に進学した。専門学校時代は斎村五郎・小野十生・岡野亦一・小城満睦・小川忠太郎・大島治喜太らに指導を受けた。卒業後は、国士舘中学、中野学園中学、東京市立芝商業学校などで指導した。太平洋戦争中には、三重海軍航空隊で海軍飛行予科練習生(予科練)の剣道教師を務めた。
日下寛治(くさか かんじ、1917年(大正6年)3月26日 … 日下寛治(くさか かんじ、1917年(大正6年)3月26日 - 2006年(平成18年)2月28日)は、日本の彫刻家。1933年(昭和8年)の日展初入選を皮切りに日彫賞など数多くの賞を受賞。日本美術家連盟会員、日本彫刻倶楽部会員、日本彫刻会会員として文展4回、日展22回の入選を重ね、日展無鑑査彫刻家として多くの作品を残した。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
加藤 春雄(かとう はるお、1917年3月25日 - 196… 加藤 春雄(かとう はるお、1917年3月25日 - 1961年2月27日)は、岐阜県出身のプロ野球選手。ポジションは外野手。後、加藤久幸に改名。弟は戦前の名捕手で特攻死した加藤三郎と、近鉄の内野手だった加藤政一。
國枝 忠雄(くにえだ ただお、1917年3月25日 - 20… 國枝 忠雄(くにえだ ただお、1917年3月25日 - 2015年1月10日)は、日本の実業家。中部日本放送社長を務めた。富山県富山市出身。 高岡高等商業学校を経て、1944年に九州帝国大学社会学科卒業。同年に日本放送協会に入社した。しかし、1950年に公職追放を受けたことにより解雇され、1952年に小嶋源作の紹介により、中部日本放送に入社した。 東京支社長、取締役、常務、専務を経て、1975年12月に社長に就任した。1987年6月から副会長に就任し、1989年6月から相談役に就任した。 1980年に藍綬褒章を受章し、1987年に勲二等瑞宝章を受章した。また、1979年にイタリア政府から「共和国有功勲章コンメダトーレ章」を受章し、1982年にオーストリア大使館からオーストリア大栄誉金章を受章し、1985年にフランス政府から国家功労章を受章した。
高田山 惠助(たかだやま けいすけ、1917年3月25日 -… 高田山 惠助(たかだやま けいすけ、1917年3月25日 - 1983年12月7日)は、岩手県東磐井郡千厩町(現・一関市)出身の昭和時代の元大相撲力士。白玉部屋→芝田山部屋→高田川部屋→高砂部屋所属。本名は金野 恵助。最高位は東十両8枚目。得意技は右四つ、寄り。 同郷の横綱宮城山が引退直後に部屋を興した白玉部屋(のち芝田山部屋)に入門。1931年5月場所に初土俵を踏んだ。当初の四股名は師匠が以前名乗った「岩手川」。幕下時代の1940年1月場所に「高田山」と改名した。1941年5月場所に十両に昇進。この場所8勝7敗と勝ち越した。翌1942年1月場所には東十両8枚目まで番付を上げたが、右膝を捻挫して途中休場。
原 忠三(はら ちゅうぞう、1917年 <大正6年> 3月2… 原 忠三(はら ちゅうぞう、1917年 <大正6年> 3月24日 - 2004年 <平成16年> 12月15日)は、日本の政治家。山梨県甲府市長(2期)、山梨県議会議員(3期)。位階は正五位。 山梨県出身。1933年、甲府市立商業学校(現・甲府市立甲府商業高等学校)卒。家業の製糸業に従事し、1946年、東京電力に入社する。1955年山梨県労連事務局長、1956年、同議長、1957年東電労組本部書記長を経て、1959年、山梨県議に当選。3期務め、1967年には副議長に就任した。1980年の第12回参議院議員通常選挙において山梨地方区から日本社会党公認で立候補したが落選した。1983年、甲府市長に当選、2期務めた。
安田 章生(やすだ あやお、1917年〈大正6年〉3月24日… 安田 章生(やすだ あやお、1917年〈大正6年〉3月24日 - 1979年〈昭和54年〉2月13日)は、昭和期の歌人、国文学者。文学博士。 尾上柴舟門下の歌人・安田青風の長男として兵庫県に生まれる。2歳のとき朝鮮・釜山に、4歳のとき京城に移る。1921年、兵庫県揖保郡龍野町(現たつの市)に転居。1925年、宍粟郡山崎町に移る。 龍野中学校(現兵庫県立龍野高等学校)、姫路高等学校文科を経て、東京帝国大学国語国文学科卒。大手前高等女学校教諭となる。戦中は土浦海軍航空隊教授嘱託、海軍教授を務める。1945年、天理語学専門学校(現天理大学)教授。1946年、樟蔭女子専門学校(現大阪樟蔭女子大学)教授。
向坊 隆(むかいぼう たかし、1917年3月24日 - 20… 向坊 隆(むかいぼう たかし、1917年3月24日 - 2002年7月4日)は、日本の応用化学者。東京大学総長。専門は電気化学で、金属の腐蝕、原子炉材料を研究し、日米原子力協力協定のまとめ役となり、原子力委員会委員長代理、日本原子力産業会議会長を務めた。1992年文化功労者。 関東州大連生まれ(父親が満鉄の理事だった)。大連二中、一高を経て、東京帝国大学応用化学科卒、1955年東京大学工学博士、「電気化学装置の化学工学的研究」。1959年東大教授。1968年の東大紛争時の工学部長で学内の改革に努め、1977年から総長。 1977年電気化学協会会長。1982年日本工学教育協会会長。
石田 正(いしだ ただし、1917年 <大正6年> 3月24… 石田 正(いしだ ただし、1917年 <大正6年> 3月24日 - 1996年 <平成8年> 1月4日)は、日本の経営者。グンゼ社長、会長を務めた。位階は従四位。 岡山県出身。1938年に長崎高等商業学校を卒業し、同年に朝鮮銀行に入行。 1945年に郡是製絲(のちのグンゼ)に転じ、1967年に取締役に就任し、1969年に常務、1975年に専務を経て、1979年2月には社長に就任。1985年2月に会長を経て、1988年6月には相談役に就任。 1983年4月に藍綬褒章を受章し、1988年4月に勲三等旭日中綬章を受章。 1996年1月4日肝不全のために死去。78歳没。死没日付をもって従四位に叙された。
村上 一治(むらかみ かずはる、1917年3月22日 - 1… 村上 一治(むらかみ かずはる、1917年3月22日 - 1965年9月16日)は、愛知県出身の元プロ野球選手(一塁手)。 南海軍に在籍した。
秋山 長造(あきやま ちょうぞう、1917年3月21日 - … 秋山 長造(あきやま ちょうぞう、1917年3月21日 - 2010年6月2日)は、日本の政治家。元日本社会党参議院議員・参議院副議長。 岡山県出身。1940年に東京大学法学部を卒業し、朝日新聞記者となる。 戦後日本社会党結成に参加。1953年の参院選に岡山県地方区から左派社会党公認で立候補、当選。1955年10月の社会党再統一後は党参議院政策審議副会長・参議院国会対策副委員長を歴任する。1964年に三木行治岡山県知事の死去に伴う知事選に社会党推薦で立候補した。この時、自民党はほとんど同期の参議院議員だった加藤武徳を擁立したため、両者による一騎討ちとなった。二人の立候補により告示日の同年10月18日付で公職選挙法の規定により両者は参議院議員を退職(自動失職)となった。
川原 英之(かわはら ひでゆき、1917年(大正6年)3月2… 川原 英之(かわはら ひでゆき、1917年(大正6年)3月21日 - 1966年(昭和41年)2月27日)は、日本の通産官僚。通商産業省大臣官房官房長。佐賀県唐津市出身。 城山三郎著『官僚たちの夏』の鮎川のモデル。合理的官僚像のモデルの片山(山下英明)と比較対照され、佐橋滋らの猛進型官僚のモデルの一人として描かれた。他に佐高信著『官僚たちの志と死』の「通産省の殉職者」の章にて、田辺俊彦と共に川原の死期が描かれている。
森山 克己(もりやま かつみ、1917年3月21日 - 20… 森山 克己(もりやま かつみ、1917年3月21日 - 2006年6月7日)は、日本の経営者。大和紡績社長を務めた。 島根県出身。1940年に大阪商科大学を卒業し、同年に大和紡績に入社した。1971年6月に取締役に就任し、1973年11月に常務、1975年7月に専務を経て、1980年7月に社長に就任。1984年7月に会長、1985年7月に相談役を経て、1997年12月には名誉顧問に就任。 2006年6月7日心不全のために死去。89歳没。
野口 定男(のぐち さだお 1917年3月21日 - 197… 野口 定男(のぐち さだお 1917年3月21日 - 1979年11月18日)は、日本の哲学者。専攻は中国哲学。立教大学教員を務める傍ら複数の運動部部長に就任、学生野球団体の理事なども務めた。 1917年、神奈川県横須賀市に生まれる。後に長野県へ転居、旧制松本高等学校に入学し1937年に卒業。東京帝国大学文学部に入学し1940年に卒業。東亜新秩序研究会勤務。1941年に召集を受けるも病気のため除隊。1944年、満州に渡り満州電業株式会社に勤務。戦後、満州から引き上げると立教大学予科講師、1949年に文学部講師を勤めた。当時は大学構内の留学生寮の管理人宿舎に住みこんでいた。その後、1951年に文学部助教授、1959年に教授となっている。
小泉 幸之輔(こいずみ こうのすけ、1917年3月21日 -… 小泉 幸之輔(こいずみ こうのすけ、1917年3月21日 - 1991年2月24日)は、日本の経済学者。 横浜市生まれ。1938年横浜市立経済専門学校卒。華北綜合調査研究所労務調査担当。戦後石炭鉱業会社で労務担当。1949年横浜市立大学助手、1951年助教授、1971年日本大学文理学部社会学科教授。1988年定年退任。
庄司 榮吉(しょうじ えいきち、1917年3月20日 - 2… 庄司 榮吉(しょうじ えいきち、1917年3月20日 - 2015年2月7日)は、日本の洋画家。日本藝術院会員。位階は従四位。 大阪府出身。1936年に赤松麟作に師事。1938年に大阪外国語学校フランス語科を卒業後、旧制東京美術学校(現東京芸術大学)入学、寺内萬治郎に師事。新文展「庭にて」初入選。1942年光風会展「F嬢の像」初入選・レートン賞、美校繰上げ卒業、1943年海軍派遣教員としてインドネシアのセレベスに赴任。1946年帰国、1952年日展「K牧師の像」で特選・朝倉賞、1967年新日展「音楽家」で菊華賞、1970年日展審査員、1981年光風会展「舞踊家とギタリスト」辻永記念賞、1982年光風会理事、1987年日展「音楽家たち」で文部大臣賞、1998年勲四等瑞宝章、2000年日展出品作品「聴音」恩賜賞・日本芸術院賞、2000年日本芸術院会員、日展参事、光風会理事長。
小林 美代子(こばやし みよこ、1917年3月19日 - 1… 小林 美代子(こばやし みよこ、1917年3月19日 - 1973年8月18日)は、日本の小説家。 岩手県釜石市出身。1924年に福島県伊達郡保原町(現伊達市)に移住。1929年、母の癌再発に伴って一家窮乏し、尋常小学校高等科1年で中退、単身上京して子守となる。家業の破産や家族の病死、逐電、精神錯乱などが相次ぎ、転々と職を変えた末、戦時下は速記者として生計を立てる。 戦後は三鷹市井の頭に自宅を構えるが、1955年、メニエール病で倒れ、以後入退院を繰り返す。1962年、近隣トラブルからノイローゼになり、精神病院に入院。1966年、閉鎖病棟の中で書き上げた処女作が『文芸首都』に掲載され、以後、同誌同人の中上健次、勝目梓らと切磋琢磨する日々をおくる。
名尾 良孝(なお りょうこう、1917年(大正6年)3月18… 名尾 良孝(なお りょうこう、1917年(大正6年)3月18日 - 1991年(平成3年)5月6日)は、日本の弁護士、政治家。参議院議員(2期)。父は内務官僚で、秋田県知事(官選)を務めた名尾良辰。 青森県青森市生まれ。名尾良辰の四男。1921年に浦和に移り、浦和中学を経て、1921年に中央大学法学部卒業。 戦後に弁護士を開業する。1959年、埼玉県議会議員に当選。以来連続6期在任する。在職中には埼玉県議会議長を務めた。その後1980年の第12回参議院議員通常選挙に自民党公認で埼玉県地方区(1986年の参院選は埼玉県選挙区)から立候補し初当選。鈴木派→宮沢派に属した。法務政務次官、参議院内閣委員長、同商工委員長、自由民主党埼玉県支部連合会会長、埼玉菊花連盟顧問などを歴任した。
金 鎮元(キム・ジヌォン、朝鮮語: 김진원、1917年3月1… 金 鎮元(キム・ジヌォン、朝鮮語: 김진원、1917年3月18日 - 2001年3月26日)は、大韓民国の政治家。茂朱面(現・茂朱邑(朝鮮語版))副面長・面長、茂朱郡郡守、第4代韓国国会議員。 日本統治時代の全羅北道(現・全北特別自治道)茂朱郡出身。広島県立世羅中学校(現・広島県立世羅高等学校)、明治大学専門部・法科卒。朝鮮放送協会での3年間の勤務を経て、茂朱面(現・茂朱邑(朝鮮語版))副面長(1949年時点)・面長、第7代茂朱郡守(1954年5月18日~1957年11月25日)、茂朱水利組合長、国民会茂朱郡支部長、自由党茂朱郡党委員長・中央委員、第4代国会内務委員会委員を務めた。 2001年3月26日、富川の病院で持病により死去。
神代 錦(かみよ にしき、1917年3月18日 - 1989… 神代 錦(かみよ にしき、1917年3月18日 - 1989年2月23日)は、日本の舞台女優。元宝塚歌劇団男役で、元同劇団理事。本名は稲垣 静子(いながき しずこ)。 花組主演男役、花組・星組組長を務めた後、1989年(平成元年)在団のまま死去。 愛称イナちゃん、靜いちゃん、イナゴ、チャガちゃん。公称身長164センチ。 鳥取県倉吉市出身。出身校倉吉成徳学校。姉は高砂松子。 1929年「春の踊り」で初舞台、同期生に園井恵子、桜緋紗子、千村克子、藤花ひさみらがいる。宝塚歌劇団19期生。 芸名は小倉百人一首の第24番:菅原道真の に由来。なお戦時中に軍の要請で芸名表記を嘉美代 錦としていた時期があった。
盛田 稔(もりた みのる、1917年3月15日 - 2019… 盛田 稔(もりた みのる、1917年3月15日 - 2019年6月10日)は、日本の経済史学者。青森山田学園特別顧問、青森大学名誉教授。 青森県七戸町生まれ。県立弘前中学校(現・青森県立弘前高等学校)、弘前高等学校文化乙類卒、1941年、東京帝国大学(現・東京大学)経済学部卒業。 翌年より近衛歩兵第5連隊補充隊に入営、陸軍経理学校を経て主計将校となり、歩兵第31連隊に配属。1944年(昭和19年)に主計大尉に累進し、歩兵第131連隊(長:重広三馬大佐)本部高級主計となる。7月の動員下令後、八戸市に宿営し物資調達のため奔走した。11月、派兵先が中支と決まり漢口に上陸。1945年3月、宝慶に新規編成された独立混成第86旅団(長:上野源吉少将)司令部に転じ、終戦を迎える。
角屋 堅次郎(かどや けんじろう、1917年(大正6年)3月… 角屋 堅次郎(かどや けんじろう、1917年(大正6年)3月15日 - 2017年(平成29年)4月7日)は、日本の農林技官、労働運動家、政治家。衆議院議員(11期)。 三重県度会郡豊浜村(現伊勢市豊浜)出身。学歴は宇治山田中学(現三重県立宇治山田高等学校)を卒業。その後三重高等農林学校(現在の三重大学)農業土木学科を卒業し、さらに満洲大同学院を卒業した。 満洲国開拓総局などに勤務。従軍して陸軍中尉で終戦を迎えた。その後、農林省に勤務して、農林技官、全農林中央執行委員長、日本社会党三重県本部委員長などを歴任する。 1955年(昭和30年)2月の第27回衆議院議員総選挙で左派社会党から立候補するが落選。
芦田 伸介(あしだ しんすけ、1917年〈大正6年〉3月14… 芦田 伸介(あしだ しんすけ、1917年〈大正6年〉3月14日 - 1999年〈平成11年〉1月9日)は、日本の俳優。本名:蘆田 義道(あしだ よしみち)。 満洲で演劇活動に加わり、敗戦の引き揚げ後に劇団民藝に入団。1950年代からは日活のアクション映画に常連出演し、舞台を中心に映画・テレビドラマと幅広く活躍した。渋い演技に定評があり、ドラマ『七人の刑事』『氷点』の演技で人気を得た。著書に自伝『ほろにがき日々』など。妻は元タカラジェンヌの香久美ひかる(本名:石川明子)。娘婿は俳優の松山英太郎、孫は女優の由夏と俳優の芦田昌太郎。 1917年(大正6年)3月14日(水曜日)、島根県松江市に生まれる。
谷 信一(たに しんいち、1917年3月14日 - 1980… 谷 信一(たに しんいち、1917年3月14日 - 1980年9月6日)は、日本の銀行家。生え抜き初の東海銀行(現三菱UFJ銀行)頭取を務めたが、病気で退任した。正四位勲二等瑞宝章。藍綬褒章受章。 岐阜県出身。1937年に名古屋高等商業学校(現名古屋大学経済学部)卒業し、同年に愛知銀行に入行。歴代頭取が日本銀行出向者に占められる中、1975年5月から生え抜きの初の東海銀行(現三菱UFJ銀行)頭取を務めたが、1980年に急病で頭取職を同窓たる加藤隆一に譲り退任した。1979年藍綬褒章受章。1980年正四位勲二等瑞宝章。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
長田 裕二(おさだ ゆうじ、1917年3月13日 - 200… 長田 裕二(おさだ ゆうじ、1917年3月13日 - 2003年4月28日)は、日本の政治家。位階は正三位、勲章は勲一等旭日大綬章。 参議院議長(第19代)、科学技術庁長官(第34代)、自由民主党参議院議員会長(第16代)、参議院予算委員長、参議院議員(4期)等を歴任した。元参議院議員の佐藤泰三は縁戚にあたる。 千葉県出身。東京府立第四中学校、旧制第一高等学校、東京帝国大学法学部卒業。1939年、逓信省(後の郵政省、現総務省)に入省。企画課属。経理局担当審議官、経理局長、郵務局長などを経て、1966年7月1日より郵政事務次官。退官後、1968年の第8回参議院議員通常選挙に自由民主党公認で全国区から出馬し、初当選した。
洪 璡基(ホン・ジンギ、朝鮮語: 홍진기、1917年3月13… 洪 璡基(ホン・ジンギ、朝鮮語: 홍진기、1917年3月13日 - 1986年7月13日)は、韓国の実業家、政治家。 本貫は南陽洪氏。号は維民(ユミン、유민)。日本名は徳山 進一。1940年に京城帝国大学法文学部法学科で学士号を取得して、その年の日本の高等文官試験に合格した。 李承晩政権に加わった後、洪璡基は1954年に法務部副長官、1958年に法務部長官を務め、1960年に内務部長官に就任した。1960年6月15日、尹潽善(第4代大統領)と張勉(第2代国務総理)が率いる第二共和国は、新憲法によって発足した。第二共和国発足の際、経済情勢には多くの問題があり、最終的には国家再建最高会議の下で軍事政権によって終結した。
森 英介(もり えいすけ、本名:佐藤重男、1917年3月13… 森 英介(もり えいすけ、本名:佐藤重男、1917年3月13日 - 1951年2月8日)は、日本の詩人。生前はまったく無名であったが、没後に評価されるようになった。 佐藤重男として、1917年(大正6年)3月13日、山形県米沢市に生まれる。1936年(昭和11年)、早稲田大学文学部哲学科に入学するも、1939年(昭和14年)に中退。1940年(昭和15年)、結婚。1941年(昭和16年)に召集され浜松の航空隊に入隊後、青森県三沢基地に転属、病気のため豊橋の陸軍病院に送還され、1943年(昭和18年)に召集解除。長男、次男が生れた後、1945年(昭和20年)の敗戦前に離婚。1946年(昭和21年)9月に総合雑誌『労農』を米沢で創刊(第3号で休刊)。
大塚 雅春(おおつか まさはる、1917年〈大正6年〉3月1… 大塚 雅春(おおつか まさはる、1917年〈大正6年〉3月12日 ‐ 2000年〈平成12年〉5月1日)は、日本の小説家、歌人。 高知県香美郡土佐山田町(現香美市)生まれ。本名は忠雄。1934年、高知県立高知工業学校(建築科)卒業。前職は大阪汽車会社社員。 1949年、大衆文芸賞受賞、長谷川伸主宰の雑誌『大衆文芸』でデビュー。主に歴史小説・時代小説を執筆。 妻は歌人の大塚布見子で、妻の主宰する歌誌「サキクサ」に参加した。孫は劇団アマヤドリの所属俳優・大塚由祈子。
内堀 保(うちぼり たもつ、1917年3月12日 - 199… 内堀 保(うちぼり たもつ、1917年3月12日 - 1997年1月30日)は、長崎県長崎市出身のプロ野球選手。ポジションは捕手。
山崎 勲(やまざき いさお、1917年3月12日 - 199… 山崎 勲(やまざき いさお、1917年3月12日 - 1999年10月31日)は、日本の経営者、銀行家。関西相互銀行社長を務めた。 熊本県出身。1940年に神戸商業大学を卒業し、同年に住友銀行に入行。1967年11月に取締役に就任し、1972年1月から1974年5月までに常務を務めた。。銀泉社長、大和ハウス工業監査役を歴任し、1978年12月には関西相互銀行社長に就任。1986年6月に会長を経て、1994年6月には関西銀行相談役に就任。 1987年4月に勲四等瑞宝章を受章。 1999年10月31日脳梗塞のために死去。82歳没。