中井 幸一(なかい こういち、本名:中井 幸房(なかい ゆき… 中井 幸一(なかい こういち、本名:中井 幸房(なかい ゆきふさ)、1917年(大正6年)2月15日 - 2020年(令和2年)12月28日)は、日本の写真評論家、広告評論家。 京都府出身。日本大学芸術学部卒業。1951年、電通に入社。1973年、電通を退社。 電通に勤務し、アートディレクター制(アート・ディレクター・システム。クライアントとデザイナーの間にアートディレクターを置き、アートディレクターが両者の単なる橋渡し(連絡係的役割)だけではなく、積極的にデザインをまとめ上げる中核的な役割をになうシステム)の導入を積極的に行った。 日本大学芸術学部教授も務めた。1992年に日本大学を定年退職。
曲 壽郎(まがり としろう、1917年〈大正6年〉2月15日… 曲 壽郎(まがり としろう、1917年〈大正6年〉2月15日 - 2012年〈平成24年〉12月12日)は、日本の陸軍軍人、陸上自衛官、簡易裁判所判事、弁護士。 最終階級は、帝国陸軍では陸軍少佐、陸自では陸上幕僚長(第11代)たる陸将(陸軍大将に相当)。 陸士50期首席、陸軍科学学校高等科(45期)優等、陸大58期。 長崎県大村市出身。小学校教員・曲義彦の三男として生まれる。 佐世保中学、東京陸軍幼年学校・陸士予科を経て、1937年(昭和12年)12月に陸軍士官学校(50期)を首席で卒業して恩賜の銀時計を拝受した。翌年1月、陸軍砲兵少尉に任官した。 1939年(昭和14年)、ノモンハン事件に野戦重砲兵第1連隊中隊長として出征した。
小佐野 賢治(おさの けんじ、1917年(大正6年)2月15… 小佐野 賢治(おさの けんじ、1917年(大正6年)2月15日 - 1986年(昭和61年)10月27日)は、日本の実業家。国際興業グループ創業者。 戦時体制下では軍需省に取り入って蓄財し、日本の敗戦後には駐留外国人相手の事業で成功した。また、運輸・観光事業も手広く行い、日本国内の有名ホテルを複数買収したほか、ハワイの観光資源にいち早く注目してワイキキの名門ホテルを多数手中にするなどして、「ホテル王」と呼ばれたこともある。 また、後の内閣総理大臣・田中角栄との関係が「刎頸の友」と言われるなど有力な政商として知られ、政財界と暴力団の橋渡しを行っているなどとの噂から、「裏世界の首領」、「黒幕」などと揶揄されることもあった。
橋本 正己(はしもと まさみ、1917年2月14日 - 20… 橋本 正己(はしもと まさみ、1917年2月14日 - 2003年1月26日)は、日本の公衆衛生学者。国立公衆衛生院名誉教授。1989年勲三等旭日中綬章受章。 大阪府豊中市生まれ。1940年大阪帝国大学医学部卒。短期現役士官海軍軍医、1948年「昭和二十一年春季阪神地方流行時に於ける発疹チフス患者百七十名の疫学的並に臨床的観察」で大阪帝国大学より医学博士の学位を取得。豊中保健所勤務、厚生省公衆衛生局、国立公衆衛生院部長、名誉教授。1982年埼玉県立衛生短期大学学長。1989年勲三等旭日中綬章受勲。
早川 良雄(はやかわ よしお、1917年2月13日 - 20… 早川 良雄(はやかわ よしお、1917年2月13日 - 2009年3月28日)は、昭和期の日本を代表するグラフィックデザイナー。それぞれに違う色彩と描かれ方の違うパーツからなる『女の顔』シリーズ(1985年 - )や、独特の形態、配置から構成されるポスター作品などが特徴とされる。 1917年大阪府に生まれる。大阪市立工芸学校(現・大阪市立工芸高校)図案科(現在はビジュアルデザイン科・プロダクトデザイン科・インテリアデザイン科に分科)卒(1936年卒)。敗戦後、百貨店の三越などの広告部のデザイナーを経てグラフィックデザイナーとして独立、以後海外の国際的なデザインプロジェクトなどに精力的に関わる。 デザイナーとして、今日では伝説的ともいえる斬新なポスター・広告を多数製作、戦後日本のモダニズムを表現し、一躍注目を集めた。
三浦 巖(みうら いわお 1917年2月13日 - 1982… 三浦 巖(みうら いわお 1917年2月13日 - 1982年1月30日)は日本の画家。水彩画家。東京帝国大学文学部卒業という異色の経歴を持ち、短い期間ではあるがフランスでも活動した。 1917年(大正6年)大阪府大阪市に生まれる。1941年(昭和16年)東京帝国大学文学部東洋史学科を卒業。同年同大学院へ進学した。1942年(昭和17年)頃から本郷絵画研究所に学び、1949年(昭和24年)第37回日本水彩展においてみずゑ賞を受賞、日本水彩画会会員となった。 1964年(昭和39年)から一年間パリに滞在。1970年(昭和45年)「薬師寺の塔」がル・サロン(フランス芸術家協会サロン展)で銀賞を受け、翌1971年(昭和46年)「パリ風景」が金賞を受賞、以後ル・サロンにおいて無鑑査となる。
吉阪 隆正(よしざか たかまさ、1917年2月13日 - 1… 吉阪 隆正(よしざか たかまさ、1917年2月13日 - 1980年12月17日)は、日本の建築家。 吉阪俊蔵・花子夫妻の長男として東京都文京区(当時は東京市小石川区)に生まれた。父・俊蔵は内務官僚で、母・花子は動物学者として有名な箕作佳吉の次女。従って隆正は箕作阮甫の玄孫にあたる。 1923年、父の勤務先のスイスから一家で帰国して東京百人町に住み、暁星小学校に入学。小学校6年生の終わりに父の転勤でジュネーヴに移住。中学生の頃から父と登山をはじめる。[要出典]中学3年のとき2度目のスイス滞在から単身帰国し、早稲田高等学院に進み、1941年早稲田大学理工学部建築学科を卒業。大学生時代は山岳部で活動し、一年の半分は山で過ごしていた。
福武 直(ふくたけ ただし、1917年2月12日 - 198… 福武 直(ふくたけ ただし、1917年2月12日 - 1989年7月2日)は、日本の社会学者。文学博士(東京大学)。東京大学名誉教授。岡山県岡山市出身。 1917年(大正6年)岡山県岡山市に出生する。旧制岡山第一中学(現:岡山県立岡山朝日高等学校)を経て、1937年(昭和12年)第六高等学校を卒業する。その後、1940年(昭和15年)東京帝国大学文学部社会学科卒業した。 卒業論文は「社會學と社會的現實−社會學方法論における諸問題−」。1948年に東京大学文学部助教授、1960年に教授。1962年に「日本村落の社会構造」で東京大学より文学博士の学位を取得。1977年(昭和52年)に定年退官、名誉教授。
松野 頼三(まつの らいぞう、1917年(大正6年)2月12… 松野 頼三(まつの らいぞう、1917年(大正6年)2月12日 - 2006年(平成18年)5月10日)は、日本の政治家。軍人時代の最終階級は海軍主計少佐。位階は正三位。勲等は旭日大綬章。総理府総務長官、労働大臣、防衛庁長官、農林大臣を歴任した。長男に松野頼久(政治家)、孫娘に松野未佳(2016年ミス日本グランプリ)がいる。
恩地 三保子(おんち みおこ、1917年〈大正6年〉2月12… 恩地 三保子(おんち みおこ、1917年〈大正6年〉2月12日 - 1984年〈昭和59年〉12月27日)は、日本の児童文学翻訳家。 画家・恩地孝四郎の長女として東京市麹町区中六番町(現・東京都千代田区四番町)に生まれる。1938年東京女子大学英文科卒業、同年7月師範学校中学校高等女学校教員免許状(英語)取得。 戦後、東京のアメリカ第8軍教育本部勤務や国際基督教大学美術史教授ヒューゴ・ムンスターバーグ(wikidata)の著作執筆の助手等を経て、明星学園高等学校講師を務めるなどして、1951年頃から英米文学の翻訳を始めた。はじめ推理ものや少女ものを訳し、ローラ・インガルス・ワイルダーの作品の訳者として知られる。
生方 明(うぶかた あきら、1917年2月12日 - 没年不… 生方 明(うぶかた あきら、1917年2月12日 - 没年不詳)は、日本の俳優、元子役である。本名同じ。 1917年(大正6年)2月12日、東京府東京市神田区神田(現在の東京都千代田区神田)に生まれる。 1923年(大正12年)12月、渋谷幡代尋常小学校(現在の渋谷区立幡代小学校)1年生の時、築地小劇場で小山内薫演出『そら豆が煮えるまで』で初舞台を踏む。1934年(昭和9年)、青山学院中等部を卒業するまでに、父親である生方賢一郎(1882年 - 1961年)が関係する新劇協会や築地座の公演に子役として出演した。 映画では中学校1年から教育映画や1932年(昭和7年)に公開された、鈴木重吉監督映画『熊の出る開墾地』などに出演していたが、1934年(昭和9年)、父・賢一郎が在籍するP.C.L.映画製作所が製作した木村荘十二監督映画『只野凡児 人生勉強』に出演したのがきっかけで中学卒業直後の同年4月に入社。
小野 登(おの のぼる、1917年2月11日 - 2008年… 小野 登(おの のぼる、1917年2月11日 - 2008年7月20日[要出典])は、日本の映画監督、テレビディレクター。岡山県川上郡吹屋町(後の高梁市成羽町吹屋)出身。 1935年に香川県立高松商業学校を卒業し、日本大学芸術学部映画学科に進学。在学中、自作の脚本が映画監督の白井戦太郎に認められ、彼に師事するために1938年に大学を中退。大都映画に助監督として入社する。 1940年に東宝映画へ移籍して編集技師になるも、1947年に[要検証 – ノート]再び助監督となり、山本薩夫に師事する。 1955年からは東映京都撮影所で活動。1958年にテレビディレクターに、そして1960年に映画監督になる。
三枝 康高(さいぐさ やすたか、1917年2月11日 - 1… 三枝 康高(さいぐさ やすたか、1917年2月11日 - 1978年3月27日)は、日本近代文学研究者、文芸評論家、元静岡大学教授。 神奈川県出身。静岡県立静岡中学校卒業。旧制姫路高等学校文科甲類卒業。東京帝国大学文学部卒業。在学中に亀井勝一郎、太宰治と相知り、『日本浪漫派』に参加。創作・評論活動をおこない、戦後静岡大学教育学部助教授、のち教授。 1959年「日本浪曼派の運動」のほか、太宰、川端康成、三島由紀夫など昭和期作家、および国学の研究・評論に幅広く活躍した。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
西垣 勇蔵(にしがき ゆうぞう、1917年2月9日 - 19… 西垣 勇蔵(にしがき ゆうぞう、1917年2月9日 - 1988年1月2日)は、長唄唄方。教育者。 1917年(大正6年)大阪府に生まれる。1936年(昭和11年)東京音楽学校邦楽科に入学。この年、邦楽科は選科から本科へ昇格しており第一期生となった。1939年(昭和14年)同校を卒業。1957年(昭和32年)東音会創立に参加し、1970年(昭和45年)からは会長も務めた。 その後、東京芸術大学教授、同大学名誉教授。
丘 灯至夫(おか としお、1917年〈大正6年〉2月8日 -… 丘 灯至夫(おか としお、1917年〈大正6年〉2月8日 - 2009年〈平成21年〉11月24日)は日本の作詞家。本名は西山安吉。丘灯至夫以外にも丘十四夫、河野一郎など数々のペンネームを持つ。 好々爺として知られ、その明るい人柄から作品も明るい青春歌やホームソング的なものが多い。代表作は『高原列車は行く』、『高校三年生』、『あこがれの郵便馬車』など。アニメの主題歌なども手がけており、『ハクション大魔王』、『みなしごハッチ』、『ガッチャマンファイター』などが知られている。 ペンネームの由来は、新聞記者としての経験から「押しと顔」を逆から読んだものといわれている。新聞記者は押しが強くて面の皮が厚い、と言われることから。
佐川 博男(さがわ はくお、1917年〈大正6年〉2月8日 … 佐川 博男(さがわ はくお、1917年〈大正6年〉2月8日 - 2004年〈平成16年〉12月)は、日本の居合道家、剣道家。段位は居合道範士九段、剣道教士七段。居合の流派は夢想神伝流。 福島県東白川郡塙町で生まれる。1928年(昭和3年)、福島県立白河中学校(現福島県立白河高等学校)に入学し、剣道部に入部。3年生のころ郡山で開かれた剣道大会で大島治喜太の居合演武を見て、居合を志す。 1936年(昭和11年)11月16日、仙台陸軍教導学校を卒業し、軍人として第二次世界大戦では中国戦線に出征した。この戦争での白兵戦の経験から、「日本刀は3人斬ると脂が付いて斬れなくなる」という俗説には否定的であった。
石川 貫之(いしかわ かんし、1917年(大正6年)2月7日… 石川 貫之(いしかわ かんし、1917年(大正6年)2月7日 - 1994年(平成6年)7月11日)は、日本の陸軍軍人、航空自衛官。最終階級は日本陸軍では陸軍少佐、航空自衛隊では航空幕僚長たる空将。 果樹園経営・石川琢次の二男として生まれる。大分中学を卒業し、陸軍航空士官学校(50期)に入校。旧陸軍時代は当初、軽爆撃機操縦者であり、飛行第16戦隊に所属していた1939年(昭和14年)、ノモンハン事件で初陣を迎える。同年8月には九七式軽爆撃機で出撃し、ソ連軍のI-16に撃墜され草原に不時着したが、間一髪のところで友軍機に救助されたという。 1941年(昭和16年)3月、大尉に進級すると同隊の中隊長となるが、1943年(昭和18年)夏、飛行分科を戦闘に転科。
上杉 隆憲(うえすぎ たかのり、1917年〈大正6年〉2月5… 上杉 隆憲(うえすぎ たかのり、1917年〈大正6年〉2月5日 - 1995年〈平成7年〉10月30日)は、米沢上杉家15代当主。 上杉憲章の三男として東京で生まれる。長兄・定憲と次兄・資憲が早世したため、父の跡を継ぎ米沢上杉家の当主となる。 学習院で初等科から高等科まで学び、中等科時代には海軍大将男爵山下源太郎宅に寄宿し、教育を受けた。 1941年(昭和16年)東京帝国大学文学部教育学科を卒業。文部省に入省。戦時中には山形師範学校助教授となり、一時県教育庁社会教育課に籍をおいたこともあった。 戦後、東京に戻り、児童福祉司、東京都中央児童相談所長、石神井学園長、東京都児童会館長、東京文化会館長など子供の教育施設一筋に歩んだ。
前田 利貴(まえだ としたか、1917年(大正6年)2月4日… 前田 利貴(まえだ としたか、1917年(大正6年)2月4日 - 1948年(昭和23年)9月9日)は、日本の軍人。最終階級は陸軍大尉。 加賀前田家の分家、前田男爵家の嫡子として生まれる。利貴の出た家は、加賀藩主・前田斉泰の十二男・前田利武が男爵になったことにはじまる。利貴の父である前田利功(としこと)は、元富山藩主・前田利聲の三男で、利武の養子となって男爵家を継いだ。学習院を経て、1940年(昭和15年)に法政大学法学部を卒業し、三井物産に入社する。 その後、太平洋戦争で出兵し、インドネシアで終戦を迎える。オランダ軍によりティモール島クーパンの収容所に収容され、戦犯として、1948年(昭和23年)4月29日に行われた裁判で死刑を宣告される。
横田 みさを(よこた みさお、1917年2月3日 - 200… 横田 みさを(よこた みさお、1917年2月3日 - 2003年6月13日)は、日本の水泳選手、女優。同志社高等女学校在学中に女子100m背泳ぎの日本記録を更新し、1932年ロサンゼルスオリンピックに15歳で出場した。その後は芸能界に転身し、松竹歌劇団と宝塚歌劇団に入団、さらに映画女優となった。夫は作曲家の竹岡信幸。 京都市出身。同志社高等女学校(現在の同志社女子中学校・高等学校)に学ぶ。横田在学中の同志社高女は、団体優勝を重ねる水泳の強豪校であった。もっとも学校にはプールがなかったため、スイミングクラブである大日本武徳会遊泳部(のちの京都踏水会)に属し、夷川ダム(琵琶湖疏水)で練習を重ねていたという。
海原 治(かいはら おさむ、1917年2月3日 - 2006… 海原 治(かいはら おさむ、1917年2月3日 - 2006年10月21日)は、日本の内務・警察・防衛官僚、軍事評論家。大阪府出身。本籍は徳島県。 第一東京市立中学校・第一高等学校を経て、1939年に東京帝国大学法学部を卒業し、内務省入省。入省同期に後藤田正晴がいた。内務省大臣官房文書課勤務を経て、1940年1月に高知県事務官を発令。太平洋戦争勃発と前後して、1940年2月、陸軍第11師団歩兵第43連隊(徳島)に入営、経理部幹部候補生になり、第11師団経理勤務班隊長の陸軍主計大尉として終戦を迎える。 終戦によって第11師団は兵器を県に引渡し、県が占領軍へと引き渡すことになっていたが、目録を作成して引き渡す第11師団の経理勤務班の隊長でありながら、それを受け取る高知県事務官でもあったので同師団でもっとも早い召集解除となった。
松山 吉三郎(まつやま きちさぶろう、1917年2月2日 -… 松山 吉三郎(まつやま きちさぶろう、1917年2月2日 - 2006年12月20日)は、元騎手(東京競馬倶楽部、日本競馬会、国営競馬)、元調教師(国営競馬、日本中央競馬会(JRA))。JRA調教師顕彰者。 妹はバレエダンサーの松山樹子(松山バレエ団)。父の松山徳蔵は戦前の日本競馬会の元調教師。二男の松山康久はJRAの調教師(ミスターシービーやジェニュインを管理、調教師顕彰者)。 鹿児島県姶良郡隼人町(現・霧島市)出身。実家はもとは庄屋であったが、父・徳蔵が上京し目黒競馬場・尾形藤吉厩舎の厩務員となったため、東京へ移り住んだ。 1929年、東京都目黒区立油面尋常小学校卒業とともに尾形藤吉厩舎の見習騎手となる。
津野田 知重(つのだ ともしげ、1917年〈大正6年〉2月1… 津野田 知重(つのだ ともしげ、1917年〈大正6年〉2月1日 - 1987年〈昭和62年〉7月26日)は、日本の陸軍軍人。東條英機暗殺計画(津野田事件)の首謀者。戦後、日本科学技術振興財団専務理事としてテレビ東京設立に貢献した。最終階級は陸軍少佐。熊本県出身。 日露戦争で第三軍指揮官乃木希典の参謀を務めた津野田是重(陸軍少将、陸士第6期歩兵科首席)の三男として誕生。父親の後を継いで陸軍に入ることを決めた際に母親から反対されたが、父の部下であった山下奉文の後押しもあり、軍人となる。旧制東京府立第六中学校卒業を経て、1937年(昭和12年)12月、陸軍士官学校卒業(第50期、11番/426名)。 1938年(昭和13年)1月、陸軍歩兵少尉。
末岡 圀孝(すえおか くにたか、1917年2月1日 - 19… 末岡 圀孝(すえおか くにたか、1917年2月1日 - 1998年11月)は、広島県出身のサッカー選手。 広島一中時代は、センターフォワード(CF)だった。早稲田大学理工学部に進学してア式蹴球部に所属、高橋英辰らが同期であり、1938年の全日本蹴球選手権大會(第18回天皇杯全日本サッカー選手権大会)で優勝メンバーに名を連ねている。また、1940年4月の全日本蹴球選手権大會(第20回天皇杯全日本サッカー選手権大会)では早大WMWのメンバーとして大会準優勝に貢献した。 また、大学在学中の1939年8月27日には関東州代表戦でサッカー日本代表として初出場。また、同年9月の日満華交歓競技大会および1940年6月の紀元二千六百年奉祝東亜競技大会に出場し、国際Aマッチ1試合を含む合計4試合に出場した。
沢村 栄治(さわむら えいじ、旧字体:澤村 榮治、1917年… 沢村 栄治(さわむら えいじ、旧字体:澤村 榮治、1917年2月1日 - 1944年12月2日)は、三重県出身のプロ野球選手(投手)。
目加田 さくを(めかだ さくお、女性、1917年(大正6年)… 目加田 さくを(めかだ さくお、女性、1917年(大正6年)2月1日 - 2010年(平成22年)12月20日)は、国文学者。平安時代文学が専門。学位は、文学博士(大阪大学・論文博士・1962年)(学位論文「物語作家圏の位相及び教養よりみたる物語の形成」)。福岡女子大学名誉教授。勲三等宝冠章受章。 1917年、福岡県大野城市生まれ。旧姓・瀬利。本名・サクヲ。1941年九州帝国大学法文学部国文科を卒業する。 卒業後は九州帝国大学副手、1945年山口女子専門学校教授、福岡県女子専門学校教授、1950年福岡女子大学助教授、教授を務める。1962年「物語作家圏の位相及び教養よりみたる物語の形成」で大阪大学より文学博士の学位を取得。
三治 重信(さんじ しげのぶ、1917年(大正6年)2月1日… 三治 重信(さんじ しげのぶ、1917年(大正6年)2月1日 - 1994年(平成6年)5月13日)は、日本の労働官僚、政治家。労働事務次官。参議院議員(民社党)。 横浜銀行取締役会長小川是は女婿。 愛知県西尾市出身。信太郎の五男。1939年(昭和14年)高等試験行政科合格。1940年(昭和15年)京都帝国大学農学部農林経済学科卒、内務省に入省。茨城県警部。 戦後労働省に移り、職業安定局長、労政局長、事務次官を歴任して退官。1972年(昭和47年)衆院選に立候補するが落選、1974年(昭和49年)の参院選で当選を果たす。(平成元年)党副委員長に就任。1992年(平成4年)引退。 趣味はゴルフ、テニス、読書。
塩川 忠巳(しおかわ ただみ、1917年〈大正6年〉2月1日… 塩川 忠巳(しおかわ ただみ、1917年〈大正6年〉2月1日 - 2017年〈平成29年〉4月6日)は、昭和から平成初期の政治家。長野県小諸市長。位階は従四位。 長野県北佐久郡南大井村(現小諸市)で、塩川敬次郎、かめじ の長男として生まれた。長野県北佐久農学校(現長野県北佐久農業高等学校)卒業。1940年(昭和15年)北佐久郡農会技手、1946年(昭和21年)南大井村役場書記となり、1948年(昭和23年)同収入役に就任。小諸市発足後、農林課長、会計課長、総務課長、水道部長経て、1969年(昭和44年)市消防長、1972年(昭和47年)市助役、1973年(昭和48年)土地開発公社常務理事併任などを歴任した。
酒井 忠明(さかい ただあきら、1917年〈大正6年〉1月3… 酒井 忠明(さかい ただあきら、1917年〈大正6年〉1月30日 - 2004年〈平成16年〉2月28日)は、酒井左衛門尉家21代当主、写真家、書家、歌人、財団法人致道博物館名誉館長。1998年勲五等双光旭日章。1999年鶴岡市名誉市民。 1917年(大正6年)、旧庄内藩主 酒井家20代当主・酒井忠良の長男として山形県鶴岡市家中新町に生まれる。母は大給近道長女・萬千子。 1935年(昭和10年)に旧制鶴岡中学(現・山形県立鶴岡南高等学校)を卒業後、酒井家図書研究所文会堂で旧庄内藩校致道館伝統に基づく「庄内学」とも称される儒学や東洋古典などを学びながら短歌を始め、歌人で万葉集研究家の国文学者、佐佐木信綱に師事する。
藤野 英一(ふじの えいいち、1917年1月30日 - 19… 藤野 英一(ふじの えいいち、1917年1月30日 - 1994年11月10日)は、日本の裁判官。最高裁判所調査官や福岡家庭裁判所長、東京高等裁判所部総括判事などを歴任した。福岡県出身。 この項目は、法曹に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝)。
堀川 潭(ほりかわ たん、1917年1月29日 - 1979… 堀川 潭(ほりかわ たん、1917年1月29日 - 1979年2月4日)は、日本の小説家。島根県益田市出身。本名・高橋義樹。 日本大学芸術科卒。1944年海軍報道班員としてサイパン島従軍、グアム島で捕虜となり、ハワイ収容所に送られて1946年帰国。伊藤整の弟子となり、「新文化」「文学生活」などに小説を執筆。短編集「運命の卵」ほか。 「高橋潭」とすることもある。文藝春秋の編集者・高橋一清は甥。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
北澤利男(きたざわ としお、1917年1月29日 - 199… 北澤利男(きたざわ としお、1917年1月29日 - 1997年3月3日)は、日本の実業家。キッツ(旧北沢バルブ)の創業者。勲三等珠宝章。長野県諏訪市出身。 東洋バルヴ創業者北澤國男の長男として生まれる。旧制長野工業専門学校卒業。 1951年北澤製作所設立。(1962年北澤バルブ、1975年北沢バルブと社名変更。1992年現社名キッツに変更。) 1974年に私費を投じて、奨学のための育英事業を行う財団公益財団法人、北澤育英会を設立。 1983年北澤美術館、開館。利男が長年にわたって収集した美術コレクションを一般に公開し、地域文化の向上に寄与する為に設立した公益財団法人によって運営されている。 1987年産業界での功績に対し 勲三等瑞宝章を叙勲。
望月 優子(もちづき ゆうこ、本名:鈴木 美枝子、旧姓:里見… 望月 優子(もちづき ゆうこ、本名:鈴木 美枝子、旧姓:里見、1917年1月28日 - 1977年12月1日)は、日本の女優、映画監督、政治家。参議院議員(1期、日本社会党)。位階は正五位。 神奈川県横浜市出身。妹は女優の中村雅子。加藤嘉は義弟(妹の夫)。1930年、東京市立忍岡高等女学校(現東京都立忍岡高等学校)を中退。 望月美恵子の芸名でムーランルージュ新宿座などで初舞台を踏む。 1942年、川端康成の媒酌で鈴木重雄と結婚。戦後は劇団民藝に参加。 1950年に松竹と契約。1958年『米』での演技が評価されてブルーリボン主演女優賞受賞。三益愛子と並んで「母物映画女優」と呼ばれた。 1959年(昭和34年)8月2日、モスクワ国際映画祭に出席のため、ソビエト連邦を訪問。
谷口 正孝(たにぐち まさたか、1917年1月28日 - 1… 谷口 正孝(たにぐち まさたか、1917年1月28日 - 1994年6月25日)は、日本の裁判官。最高裁判所裁判官。法学博士。高等裁判所判事や東京地方裁判所所長を歴任。 鹿児島県および宮崎県出身。鹿児島県の事務官吉田詮則の次男で、母方の谷口家(谷口ワサ)の養子となる。旧制中学・高校は鹿児島市で、旧制鹿児島県立第二鹿児島中学校(現・鹿児島県立甲南高等学校)を経て、1937年3月旧制第七高等学校造士館(現・鹿児島大学)文科卒業。1940年九州帝国大学法文学部法科(現・九州大学法学部)法律専攻卒業。同年4月、司法官試補。1942年名古屋地方裁判所判事となり、一貫して刑事裁判官としての道を歩む。1957年、論文「没収及び追徴の研究、無差別没収を中心として」にて九州大学より法学博士号授与。
澤田 龍吉(別表記:沢田 竜吉、さわだ りゅうきち、1917… 澤田 龍吉(別表記:沢田 竜吉、さわだ りゅうきち、1917年〈大正6年〉1月27日 - 1995年〈平成7年〉12月23日)は、日本の物理学者(大気物理学)。位階は従三位。 学位は、PHD理学博士(東京大学)。九州大学名誉教授。福岡教育大学第8代学長、勲二等旭日重光章 1957年イスタンブール工科大学教授に就任、1959年九州大学理学部教授となる。1972年より学部長を務め、1974年に退任した。1978年4月からは、九州大学理学部附属地震火山観測研究センターのセンター長を務めた(1980年2月まで)。 1980年に九州大学を退官する。同年、福岡教育大学の第8代学長に就任した。 1984年に福岡教育大学の学長を退任し、福岡歯科大学の理事となる。
古屋 龍太郎(ふるや りゅうたろう、1917年1月26日 -… 古屋 龍太郎(ふるや りゅうたろう、1917年1月26日 - 没年不明)は、日本の経営者。松屋社長を務めた。 東京都出身。1940年に慶應義塾大学経済学部を卒業し、1945年12月に松屋に入社。1963年4月に取締役に就任し、1969年4月に常務、1972年4月に専務を経て、1974年4月には社長に就任し、1979年6月までに務めた。 祖父は初代古屋徳兵衛。伯父は二代古屋徳兵衛。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
高宮 行男(たかみや ゆきお、1917年1月26日 - 20… 高宮 行男(たかみや ゆきお、1917年1月26日 - 2009年6月30日)は、日本の実業家、予備校経営者。國學院大學院友会第10代会長。「代々木ゼミナール」の創業者として知られる。北海道出身。 北海道滝川市に生まれる。生家は御嶽山神社で、高宮家は出雲の神官の係累である。 1938年に國學院大學神道学部を卒業し、太平洋戦争中は札幌歩兵第二十五連隊で連隊旗手を務めた。1943年に、東京都内でキャバレー、質屋、パチンコ屋チェーンなどを経営していた増田商事の社長増田亀吉の娘と結婚する。 義父に見込まれて経営に携わり1953年に開設した予備校「不二学院」で会計を担当したが、義父と離反して学院の支配権を掌握する。
御輿 員三(おごし かずぞう、1917年1月25日 - 20… 御輿 員三(おごし かずぞう、1917年1月25日 - 2002年1月30日)は、日本の英文学者。京都大学名誉教授。ジェフリー・チョーサーからジョン・ミルトンまでを研究した。 息子の御輿哲也(1951年 - )も英文学者、神戸市外国語大学教授。 広島県生まれ。1939年京都帝国大学文学部英文学科卒業。文学部副手、広島高等師範学校講師、広島高等学校教授、広島大学助教授、1951年京都大学文学部助教授、1962年教授。評議員、文学部長を務め、1980年定年退官、名誉教授、大谷女子大学教授。
土屋 隆夫(つちや たかお、1917年1月25日 - 201… 土屋 隆夫(つちや たかお、1917年1月25日 - 2011年11月14日)は、日本の小説家、推理作家。 長野県北佐久郡立科町芦田出身。慶長年間から芦田宿に続く旧家の出であり、祖先は江戸時代を通して本陣と問屋をつとめ、隆夫の実家はその下屋敷であった。 中央大学専門部法律学科卒業。卒業後は化粧品会社、映画配給会社宣伝部に勤務した。第二次大戦後、郷里の長野県に戻り、小劇場の支配人を勤めたのち立科町立中学校の教諭となる。 推理小説を執筆する以前には、演劇に傾倒した。真山青果の戯曲を暗誦するまで読み込み、自身も戯曲を執筆した。松竹歌舞伎研究会が主催した新歌舞伎脚本の募集に「彩管武士道」を応募し二席入選を果たしている。
斎藤 隆介(さいとう りゅうすけ、1917年1月25日 - … 斎藤 隆介(さいとう りゅうすけ、1917年1月25日 - 1985年10月30日)は、日本の児童文学作家。本名は隆勝(たかかつ)。 短編童話集『ベロ出しチョンマ』で、1968年に第17回小学館文学賞、『天の赤馬』で、1978年に第18回日本児童文学者協会賞、『ソメコとオニ』で、1987年に第10回絵本にっぽん賞を受賞。 東京都生まれ。山本有三を慕って明治大学専門部文科(文芸科)に入学。在学中ゴーリキーの影響を受ける。卒業後、北海道新聞、秋田魁新報の記者を歴任。新聞記者のかたわら著作活動に入る。 秋田地方の方言、オノマトペをふんだんにちりばめた民話の体裁をとりながら、ほとんどは斎藤の創作童話である。
冨久 正二(とみひさ しょうじ、1917年〈大正6年〉1月2… 冨久 正二(とみひさ しょうじ、1917年〈大正6年〉1月24日 - 2022年〈令和4年〉7月1日)は、日本の元マスターズ陸上競技選手。 1917年、兵庫県津名郡(現在の淡路島洲本市)で生まれ、5歳まで同地で育つ。以後父親の転勤に伴い飾磨郡(現・姫路市)・武庫郡(現・神戸市)、石川県と移住する。石川県在住時に小松商業学校(現・石川県立小松商業高等学校)を卒業。卒業後はいったん大阪市で丁稚となったものの3か月で脱走・帰郷し、小松製作所に就職する。 1938年に徴兵されて広島歩兵第11連隊第7中隊に所属し、日中戦争に従軍したが河南省にいたときに赤痢にかかり、さらに結核にも罹患して日本へ送還される。
加藤 巳一郎(かとう みいちろう、1917年1月23日 - … 加藤 巳一郎(かとう みいちろう、1917年1月23日 - 1995年6月2日)は、日本の実業家。中日新聞社代表取締役社長および会長、中日ドラゴンズ球団オーナー、共同通信社理事会長を歴任。 愛知県名古屋市西区出身。生涯にわたり中華人民共和国へ数十回の訪問を重ね、要人との交流も多数に及んだことで「中国通」として知られていた。 1917年(大正6年)、愛知県西春日井郡庄内村名塚(現在の名古屋市西区名塚町)で加藤憲一の長男として生まれる。祖父の加藤豊成は明治時代に自由民権運動の闘士として活動した人物であり、自由党で盟友関係に在った大島宇吉が新愛知新聞社を創業した時も出資者として名を連ねていた。 旧制愛知一中(現・愛知県立旭丘高等学校)を経て、1938年(昭和13年)に早稲田大学専門部政治経済科を卒業。
近藤 次郎(こんどう じろう、1917年1月23日 - 20… 近藤 次郎(こんどう じろう、1917年1月23日 - 2015年3月29日)は、日本の航空工学者。東京大学名誉教授。滋賀県出身。 航空工学の分野では航空機の超高速化に取り組んだり、環境科学の分野では応用数学を利用し、大気汚染の予測や核拡散問題を解明した。 その他、国土審議会、航空機工業審議会、学術審議会などの各種審議会委員。中央公害対策審議会、中央環境審議会会長などを務めていた。
村山 徑(むらやま けい、1917年(大正6年)1月21日 … 村山 徑(むらやま けい、1917年(大正6年)1月21日 - 1987年(昭和62年)1月23日)は、新潟県柏崎市出身の日本の日本画家。本名は勲。風景画、山岳を主題にした作品が多い。 1917年(大正6年)1月21日、新潟県柏崎市北条荒町に農家の長男として生まれる。 新潟市生まれの尾竹国観に師事。上京し京華中学に進むが、3年時にカリエスに罹患し帰郷。1935年(昭和10年)再上京し川端画学校の日本画科へ進み、のちに太平洋画学校へ。在学中に各種展覧会で入賞を繰り返した。 1943年(昭和18年)、26歳のとき第6回新文展に出品した「子等」が初入選。 戦時中は従軍画家として南方戦線に1945年敗戦まで応召。
伊藤 勲(いとう いさお、1917年1月20日 - 2012… 伊藤 勲(いとう いさお、1917年1月20日 - 2012年11月15日)は、日本の政治学者、上智大学名誉教授。 山形県山形市生まれ。1938年中央大学専門部法律科卒、1939年内閣情報局勤務、1941年中央大学法学部卒、中央気象台勤務、1949年運輸省へ出向。1957年上智大学法学部助教授、1963年教授、1966年「明治政党史の研究」で中大法学博士。1983年上智大学を定年、名誉教授、松阪大学教授。
渡辺 弥栄司(わたなべ やえじ、1917年(大正6年)1月2… 渡辺 弥栄司(わたなべ やえじ、1917年(大正6年)1月20日 - 2011年(平成23年)は、通商産業省官僚、弁護士。退官後、日中経済協会、国際ビジネスコミュニケーション協会(IIBC)、ビューティフルエージング協会(BAA)の設立のほか、通産省に関係する多くの公益法人の理事などを務めたが、財団私物化疑惑が2009年に週刊誌に報じられ、92歳で理事長などの重職から退いた。 新潟県北蒲原郡中条町(現・胎内市)で10人兄弟姉妹の5番目として生まれる(実家は新潟県関川村の豪農・渡辺家の一族)。新発田の中学を卒業後、姫路高等学校 (旧制)へ進学。1939年に東京帝国大学法学部法律学科卒業後、商工省(現・経済産業省)入省。
田中 志津(たなか しづ、1917年〈大正6年〉1月20日 … 田中 志津(たなか しづ、1917年〈大正6年〉1月20日 - 2024年〈令和6年〉11月3日)は、日本の女性作家。日本文藝家協会会員。本名は田中 シヅ。 次男の田中佑季明も同じく作家である。 新潟県北魚沼郡小千谷町に生まれる。1966年(昭和41年)に随筆日記「雑草の息吹」が「今日の佳き日は」としてNHKで放送される。長女の佐知がFM放送で2001年(平成13年)に『佐渡金山を彩った人々』を全編朗読し、2003年(平成15年)には『冬吠え』を全編朗読した。 2005年(平成17年)、佐渡金山に「田中志津文学碑」(佐渡金山顕彰碑)が建立され、2010年(平成22年)には新潟県小千谷市船岡公園に「田中志津生誕之碑」が建立された。
稲村 佐近四郎(いなむら さこんしろう、1917年1月20日… 稲村 佐近四郎(いなむら さこんしろう、1917年1月20日 - 1990年7月29日)は、日本の政治家。元自由民主党衆議院議員(8期)。 石川県羽咋市大町出身。安田商工専門学校卒業。建設会社社長を経て、1963年の第30回衆議院議員総選挙に旧石川2区から立候補し初当選。連続当選8回(当選同期に小渕恵三・橋本龍太郎・小宮山重四郎・田中六助・伊東正義・渡辺美智雄・佐藤孝行・藤尾正行・中川一郎・鯨岡兵輔・西岡武夫・奥野誠亮・三原朝雄など)。自民党内では中間派の大野伴睦→村上勇→水田三喜男派に所属したが消滅後は中曽根康弘派に合流。1977年福田改造内閣の総理府総務長官兼沖縄開発庁長官として初入閣。1983年第2次中曽根内閣で国土庁長官兼北海道開発庁長官として再度入閣を果たす。
深田 金之助(ふかだ きんのすけ、1917年1月19日 - … 深田 金之助(ふかだ きんのすけ、1917年1月19日 - 1986年11月27日)は、日本の映画監督、映画製作者、元撮影技師である。 1917年(大正6年)1月19日、島根県八束郡揖屋村(現在の松江市東出雲町揖屋)に生まれる。松江商工学校(現在の学校法人島根学園)を卒業後、松江高等簿記学校(現在の松江西高等学校)に進学したが、中途退学した。 1935年(昭和10年)、日活に入社し、日活京都撮影所撮影部で撮影助手になる。1941年(昭和16年)、技師に昇進、同年5月11日に公開された『天兵童子 第一話 幼き英雄』(監督組田彰造)で撮影技師としてデビューするとともに、『天兵童子』4部作すべてを手がける。
田中 次郎 (たなか じろう、1917年〈大正6年〉1月19… 田中 次郎 (たなか じろう、1917年〈大正6年〉1月19日 - 2017年〈平成29年〉9月28日[要出典])は、日本の航空機・自動車技術者。 立川飛行機入社後、陸軍に入隊し、陸軍機の各種エンジン評価を担当。1944年(昭和19年)から、軍籍のまま元の勤務先の立川飛行機にて、試作遠距離偵察爆撃機キ74の与圧室装備等の設計仕上げを担当。戦後、米軍にキ74とキ77を引き渡すための修理・整備を行う。 その後、立川飛行機から分離した東京電気自動車(後のたま電気自動車→たま自動車→プリンス自動車工業)にて電気自動車、そしてガソリン自動車の開発に従事する。 日産自動車と合併後、同社役員を経て、日産ディーゼル工業副社長を歴任し、1986年(昭和61年)、同社を顧問で退社。