スマイリー小原(スマイリーおはら、1921年1月2日 - 1… スマイリー小原(スマイリーおはら、1921年1月2日 - 1984年4月30日)は、日本のジャズミュージシャン、指揮者である。小原真澄名義での活動もあった。本名栗原照夫。神奈川県中郡秦野町(現在の秦野市)生まれ、横浜市中区山手育ち。 印刷業組合長などを務めた横浜の有力者栗原佐輔の子として生まれる。佐輔は木曾義仲の忠臣・樋口兼光が先祖という曽屋の旧家栗原林太郎家に1881年12月23日に生まれ、26歳で横浜に出て横浜市中区松影町に於いて印刷業を始めた。 照夫(=スマイリー小原)は少年時代からスポーツ万能で、寿尋常小学校卒業後、旧制本牧中学校に入学し野球部に入部。ポジションはファーストで、苅田久徳コーチの指導のもと、若林忠志や劉瀬章と共にプレイしている。
岡田 純一(おかだ じゅんいち、1921年1月2日 - 19… 岡田 純一(おかだ じゅんいち、1921年1月2日 - 1988年1月20日)は、日本の経済学者。 東京市小石川区(現東京都文京区)生まれ。1944年早稲田大学政治経済学部経済学科卒。1966年「経済学における人間像」で関西学院大学経済学博士。白百合短期大学助教授、聖心女子大学助教授、早稲田大学商学部教授を務め、在職中に67歳で死去した。キリスト教に関心が深かった。
七代目 春風亭 小柳枝(しゅんぷうてい こりゅうし、1921… 七代目 春風亭 小柳枝(しゅんぷうてい こりゅうし、1921年1月2日 - 1962年9月27日)は、落語家。本名∶染谷 晴三郎。出囃子は『喜撰』。生前は日本芸術協会(現:落語芸術協会)、一時TBSの専属だった時期もある。俗に『染谷の小柳枝』。 軽く飄々とした芸風で「甲府い」「野ざらし」などを得意とした。大食漢であったが、それがもとで晩年は糖尿病と結核に悩まされたため、若くして没した。「医者から結核なので栄養をつけなきゃいけないってんですがね。そしたら糖尿がひどくなっちまうンで、あたしゃどうしたらいいんだ。」とこぼしていた。 性格は大変粗忽で物忘れ勘違いが多かったという。 この項目は、落語家に関連した書きかけの項目です。
村田 倉夫(むらた くらお、1921年(大正10年)1月1日… 村田 倉夫(むらた くらお、1921年(大正10年)1月1日 - 2015年(平成27年)3月21日)は、日本の実業家。京成電鉄第7代社長。 東京府豊多摩郡杉並村(現・東京都杉並区)高円寺に生まれる。 東京府立第二中学校(現東京都立立川高等学校)を経て、1940年東京商科大学(現一橋大学)予科へ。 1942年東京商科大学学部を卒業し、日本興業銀行に入行。翌年応召、東部軍経理部から南支方面へ主計将校として派遣される。 1947年に興銀復帰するが、最初の出向として1953年から1956年、旧中島飛行機グループなど5社が出資し、発足した直後の富士重工業へ。 2度目の出向は1964年、大商証券へ取締役として。
渡辺 博之(わたなべ ひろゆき、1921年1月1日 - 19… 渡辺 博之(わたなべ ひろゆき、1921年1月1日 - 1990年10月2日)は、大阪府大阪市阿倍野区出身のプロ野球選手(外野手、内野手)・監督。 旧制桃山中学校卒業後、同志社大学に進学し野球部に所属した。1941年と1942年春秋リーグ戦では関西六大学リーグ初優勝かつ4連覇(戦後まもなくの1946年春秋リーグ戦連覇で6連覇)に貢献するなどエースとして活躍。在学中に南海軍から入団の打診を受けるも拒否し、卒業後に応召を受ける。戦後は会社員として働くが、それから間もなく独立し、御堂筋に洋品雑貨の店を構えていた。これと並行してノンプロチーム「全大阪」に参加し、1946年から1948年まで3年連続で都市対抗に出場。
牧角 三郎(まきずみ さぶろう、1921年(大正10年)1月… 牧角 三郎(まきずみ さぶろう、1921年(大正10年)1月1日 - 2002年(平成14年)3月10日)は、日本の法医学者。医学博士、九州大学名誉教授、元日本法医学会会長。 九州大学医学部法医学教室に長く在籍し、薬毒物の分析法や血痕の簡易検査法の研究で成果を上げた。また、免田事件、島田事件、別府3億円保険金殺人事件などで法医学鑑定を手掛け、鳥取県科学捜査研究会顧問、福岡県科学捜査研究会常任理事、日本法医学会会長などを歴任した。 1921年(大正10年)1月1日、鹿児島県川辺郡知覧町に生まれた。 旧制鹿児島県立川辺中学校、旧制第七高等学校造士館を経て、1945年(昭和20年)9月に九州帝国大学医学部を卒業し、第2外科・温泉治療学研究所を経て、1948年(昭和23年)6月に法医学教室に入局した。
桑原 啓善(くわはら ひろよし、1921年1月1日 - 20… 桑原 啓善(くわはら ひろよし、1921年1月1日 - 2013年7月22日)は、日本の詩人、心霊研究家。ペンネームは山波 言太郎(やまなみ げんたろう)。慶應義塾大学経済学部卒業。 学生時代に心霊研究の迷信を叩くことを試みるが、逆に心霊研究を正しいと考えるようになり、同研究の道に入る。心霊科学研究会を創設した浅野和三郎の後継者である脇長生に師事。1985年、任意団体「シルバー・バーチの会」(後のニューエイジ団体『生命の樹』)を設立し、「ネオ・スピリチュアリズム」を唱導する。 1992年、癒やしの力を持つ発声法として「リラ」を考案。人間の耳には聞こえない自然界の呼吸音が癒やしと生命力の回復になると考え、これを「自然音楽」と呼び、この自然音楽で人を癒やす「自然音楽療法」を1995年に開始。
小林 幸雄(こばやし ゆきお、1921年1月1日 - 201… 小林 幸雄(こばやし ゆきお、1921年1月1日 - 2012年6月11日)は、日本の経営者。北海道テレビ放送社長を務めた。東京都出身。 1944年に慶應義塾大学法学部法律学科を卒業。召集され武山海兵団に入団。短期現役海軍主計科士官(11期)を志願し、同年2月に海軍主計見習尉官となり海軍経理学校に入校。同年9月に経理学校を卒業し、舞鶴経理部に配属。同年12月、海軍主計少尉に任官。小松基地第48魚雷調整班主計長に転じ、1945年9月に主計中尉に進んで予備役に編入された。 1946年1月に朝日新聞社に入社。東京本社週刊朝日編集部員、社会部員、西部本社社会部次長、福岡総局次長、東京本社通信部次長、同社会部次長、静岡支局長などを務めた。
羽坂 勇司(はさか ゆうじ、1921年1月1日 - 2020… 羽坂 勇司(はさか ゆうじ、1921年1月1日 - 2020年1月12日)は、日本の歯科医師、青山学院元理事長。 1921年東京都生まれ。青山学院中等部卒業、1941年に繰り上げで青山学院高等部卒業、陸軍に召集される。復員後は、現在の日本歯科大学で歯学を学び、さらに慶應義塾大学医学部で細菌学を研究し、1961年に医学博士号取得。論文の題は「ムタビール型変異菌(村瀬)の出現機序に関する研究 」。横浜市で開業し、横浜市磯子歯科医師会会長、同監事などを歴任。1977年から青山学院理事、1988年から青山学院校友会副会長などを歴任し、青山学院理事長に就任し、1990年~2005年までその職にあった。2007年旭日中綬章を受章。
小山 弘志(こやま ひろし、1921年1月1日 - 2011… 小山 弘志(こやま ひろし、1921年1月1日 - 2011年2月16日)は、国文学者。東京大学教養学部名誉教授。謡曲を専門とした。 東京生まれ。旧制一高を経て、1943年東京帝国大学国文科卒。戦後、東大教養学部教授を務め、1974-1976年教養学部長。1981年定年退官後は、国文学研究資料館館長を務めた。 2011年2月16日、肺炎のため東京都新宿区の病院で死去。90歳没。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
永井 博(ながい ひろし、1921年1月1日 - 2012年… 永井 博(ながい ひろし、1921年1月1日 - 2012年11月7日)は、日本の哲学者、筑波大学名誉教授、日本学士院会員。 1921年、愛知県で生まれた。東京文理科大学で学び、卒業。1959年、学位論文『数理の存在論的基礎』を東京教育大学に提出して文学博士号を取得。 卒業後は東京教育大学助教授に就いた。1978年より同大学は筑波大学となり、後に教授昇格。1984年に筑波大学を定年退官し、名誉教授となった。その後は東海大学教授として教鞭をとった。1996年、日本学士院会員に選出された。2012年11月7日に死去。 専門は科学哲学、科学史。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
川井 正(かわい まさし、1921年(大正10年)1月1日 … 川井 正(かわい まさし、1921年(大正10年)1月1日 - 1991年(平成3年)4月27日)は、日本の作家。 東京(現在の東京都台東区)に生まれる。1943年(昭和18年)法政大学英文学科を卒業する。 TBSの放送部長、審議室委員などを経て、1976年(昭和51年)にTBSを退社、以後作家活動に入る。 1991年(平成3年)4月27日に死去、70歳。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
牛尾 一弘(うしお かずひろ、1921年(大正10年)1月1… 牛尾 一弘(うしお かずひろ、1921年(大正10年)1月1日 - 2004年(平成16年)9月25日)は、日本の政治家。島根県江津市長(2期)。位階は正五位。 島根県那賀郡江津町(現・江津市)出身。1937年、島根県立江津工業学校(現・島根県立江津工業高等学校)卒。1966年、江津市議会議員に当選し、文教厚生、建設の各委員長、副議長を務める。1990年、江津市長に当選し、市長を2期務める。1998年、市長を退任する。1999年、勲四等旭日小綬章を受章する。2004年に死去。死没日付をもって正五位に叙された。
渡辺 敬蔵(わたなべ けいぞう、1921年 - 没年不明)は… 渡辺 敬蔵(わたなべ けいぞう、1921年 - 没年不明)は、秋田県出身の元プロ野球選手(外野手)。 秋田市立土崎商業学校(現・秋田市立秋田商業高校)では渡辺誠太郎と共に投手として活躍した。渡辺誠太郎とは後にプロ野球においてもチームメイトとなっている。卒業後の1942年に阪神軍に入団した。 シーズン途中に大洋軍(後の大洋ホエールズとは無関係)に移籍したが、同年引退した。
佐藤 俊夫(さとう としお、1921年 - )は、日本の倫理… 佐藤 俊夫(さとう としお、1921年 - )は、日本の倫理学者、東京大学名誉教授。 第一高等学校から1943年東京帝国大学文学部倫理学科卒。1950年東大教養学部講師、助教授、教授、1981年定年退官、名誉教授、信州大学教授。
岡田 富美也(おかだ ふみや、1921年 - )は、日本の外… 岡田 富美也(おかだ ふみや、1921年 - )は、日本の外交官、国際公務員。駐ジョルダン(ヨルダン)特命全権大使、北海道派遣特命全権大使、駐ポルトガル特命全権大使等を歴任した。 千葉県出身。成田中学校、第一高等学校文科甲類を経て、1948年東京帝国大学法学部政治学科卒業、外務省入省。1964年外務大臣官房書記官。1966年外務省国際連合局経済課長。1969年外務省経済局国際貿易課長。1970年外務省経済局外務参事官。 1971年在アメリカ合衆国日本国大使館参事官。1972年在インド日本国大使館参事官。1974年外務大臣官房調査部外務参事官兼経済協力局。同年在オーストラリア日本国大使館公使。1976年在トロント日本国総領事館総領事。
三崎良周(みさき りょうしゅう、1921年-2010年)は、… 三崎良周(みさき りょうしゅう、1921年-2010年)は、天台宗の僧、仏教学者。 埼玉県生まれ。早稲田大学文学部卒。1981年「台密の研究」で早稲田大学より文学博士。早稲田大学文学部助教授、教授。91年定年、名誉教授。1980-91年早稲田大学仏教青年会会長。
大竹 十一(おおたけ じゅういち、1921年 - 2005年… 大竹 十一(おおたけ じゅういち、1921年 - 2005年)は、日本の建築家。 宮城県生まれ。第一早稲田高等学院から、早稲田大学理工学部建築学科に進学。早稲田大学で会津八一に師事。卒業後、佐藤武夫の建築設計事務所(現・佐藤総合計画)を経て、梓建築事務所(現・梓設計)を共同で設立。 その後1952年から早稲田大学へ戻り武基雄の作品に尽力。1954年、吉阪隆正に請われて建築設計事務所の吉阪研究室(のちのU研究室)創設に参加。同研究室の番頭となる。ヴェネツィア・ビエンナーレ・日本館の設計など吉阪作品に携わるかたわら、メンバーを指導。1976年ごろ病を患いしばらく設計活動から遠ざかるがのち復職。1980年の吉阪亡き後もU研究室で設計活動を続けた。
木村 忠雄(きむら ただお、1921年 - 没年不詳)は、島… 木村 忠雄(きむら ただお、1921年 - 没年不詳)は、島根県出身のプロ野球選手。 松江商業から1942年に南海軍へ入団。1943年退団。
河原 敏明(かわはら としあき、1921年 - )は、日本の… 河原 敏明(かわはら としあき、1921年 - )は、日本の皇室ジャーナリスト。元拓殖大学客員教授。 北海道旭川市生まれ。1935年(昭和10年)、東京府東京市(現在の東京都)に移住。明治大学専門部経営学科と東京教育大学文学部史学聴講課程に学ぶ。『婦人倶楽部』(講談社)増刊のグラフ誌『皇族画報』や『華族画報』に親しんだことが皇室に興味を抱くきっかけとなる。 1955年(昭和30年)、伊馬春部とともに執筆した原案をもとに脚本家の金貝省三がストーリーを執筆、長谷川公之が脚本化した『皇太子の花嫁』を、新東宝が小森白を監督に製作、同年4月5日に公開した。1952年(昭和27年)ごろから皇室ジャーナリストを自称するようになり、「皇室秘話」とされるエピソードの類を数多く発表する。
徳永 春夫(とくなが はるお、1921年 - )は、日本の教… 徳永 春夫(とくなが はるお、1921年 - )は、日本の教育者。 熊本県玉名郡石貫村(現・玉名市)に、石貫村村長も務めた徳永右馬七の三男として生まれる。徳永右馬七は旧制第五高等学校で嘱託教員を務めたことがあり、当時同僚だった夏目漱石とも親交を結んでいた。 熊本県立玉名中学校(現・熊本県立玉名高等学校・附属中学校、1938年卒業)、旧制第五高等学校を経て、東京帝国大学文学部を卒業した。卒業後は、海軍兵学校の文部教官となった。 終戦後、母校の玉名高等学校教諭に就いたのち、熊本県立牛深高等学校では教頭・指導主事・主幹、熊本県立大津高等学校・熊本県立八代高等学校(1971年 - 1974年)・熊本県立熊本西高等学校・熊本国府高等学校(1980年 - 1989年)では校長を務めた。
青木 勤(あおき つとむ、1921年(大正10年) - 没年… 青木 勤(あおき つとむ、1921年(大正10年) - 没年不詳)は、日本の野球選手(投手)。群馬県出身。 群馬県藤岡中学校(現:群馬県立藤岡高等学校)から1939年に阪急軍に入団。しかし、一軍出場を果たせないまま同年末に退団。後に応召され、戦死(没年月日、死没場所は不明)。 東京ドーム敷地内にある鎮魂の碑に、彼の名前が刻まれている。
杉山 東洋生(すぎやま とよお、1921年 - 戦死)は、愛… 杉山 東洋生(すぎやま とよお、1921年 - 戦死)は、愛知県出身のプロ野球選手(一塁手)。
沼田 春雄(ぬまた はるお、1921年 - )は、愛媛県出身… 沼田 春雄(ぬまた はるお、1921年 - )は、愛媛県出身のプロ野球選手(捕手)。
大橋 衛(おおはし まもる、1921年 - 没年不明)は、大… 大橋 衛(おおはし まもる、1921年 - 没年不明)は、大分県出身のプロ野球選手。
沖 正弘(おき まさひろ 1921年-1985年)は、ヨガ指… 沖 正弘(おき まさひろ 1921年-1985年)は、ヨガ指導者、思想家。戦後日本におけるヨガの草分け的指導者で、その普及に努め、ヨガブームを牽引した。 1921年、広島生まれ。大阪外国語大学卒業。第二次世界大戦中、参謀本部の特別諜報員としての必要上、東西医療法と各種教宗派の修行法の特別訓練を受け、モンゴル、中国、インド、アラビア各地に赴いた。戦後も探究心から中国や東南アジアに渡って医学と宗教を学ぶ。1951年、ユネスコ平和建設国際奉仕団日本代表としてインド、次いでパキスタンに赴き、医療面、福祉事業面で活動。この時、釈迦、ガンディーを悟りに導いた教えがヨガであることを知り、ヨガ哲学へ熱烈な探究心を向けた。
前田 淑(まえだ よし、1921年 - 2020年)は、日本… 前田 淑(まえだ よし、1921年 - 2020年)は、日本の国文学者。専門は日本近世文学。近世の女性旅日記などの近世女性文学を研究した。福岡女学院短期大学名誉教授。 福岡市生まれ。福岡県女子専門学校文科研究科卒業、法政大学文学部日本文学科卒業。福岡女学院短期大学助教授、教授を務める。1999年「江戸時代女流文芸史 地方を中心に」で九州大学文学博士。
井上卓之(いのうえ たくし、1921年 - 1995年)は、… 井上卓之(いのうえ たくし、1921年 - 1995年)は、日本の造園家、作庭家。井上造園設計事務所を主宰し、日本庭園、公共造園や公園の作品を展開した。 代表作に、西村屋ホテル(招月庭)庭園 、大観荘庭園(静岡県、龍居松之助と)、修学院離宮庭園改修、左京区荒木・鈴木邸庭園、日本料理「鴨川」各店舗の庭園空間(高松武夫と)、花かごの庭(寺田邸)、西田邸、犬飼邸、立石邸、高松邸などがある。このほか紙屋川庭園(アマン京都)、美山町の庭、新千里北町パブリックアートなども手がけた。 作風は、きれいさび。 京都市左京区生まれ。1938年(昭和13年)、京都府立農林学校卒業。東京高等造園学校に進学し1941年(昭和16年)繰り上げ卒業。
岩沢 愿彦(いわさわ よしひこ、1921年 - )は、日本の… 岩沢 愿彦(いわさわ よしひこ、1921年 - )は、日本の歴史学者。東京大学史料編纂所教授を経て、東京大学名誉教授。 國學院大學史学科卒。1948年東京大学史料編纂所勤務、62年助手、70年助教授、73年教授、82年定年退官、名誉教授、日本大学文理学部教授。神奈川県川崎市に居住した。 高柳光壽、桑田忠親、奥野高廣らと共に、昭和初期に活躍した國學院大學系の歴史学者である。特に奥野高廣と共同校注した『信長公記』(角川文庫・1969年)は現在でも広く利用されている。また織田信長、豊臣秀吉期の史料研究を展開し、「山城・近江における豊臣氏の蔵入地について」(『歴史学研究』288号、1964年)、「石田三成の近江佐和山領有」(高柳光寿博士頌寿記念会編『戦乱と人物』吉川弘文館、1968年)、「本能寺の変拾遺-『日々記』所収天正十年夏記について」(『歴史地理』 91巻4号、 1968年)などの重要な論文を発表し、戦国史解明に貢献した。
多久 弘一(たく ひろいち、1921年 - 没年不詳。近著[… 多久 弘一(たく ひろいち、1921年 - 没年不詳。近著[要文献特定詳細情報]によれば故人との由)は、日本の中国文学者。代々木ゼミナール漢文科講師( - 2002年3月)。 佐賀県に生まれる。1939年、戦前の漢文の専門学校の名門であった大東文化学院を卒業後、中国に20年余り在住する。その期間に北京大学に留学、同大学卒業後、旧制奉天第一中学校に勤務する。終戦時、国立瀋陽医学院(旧・満州医科大学)東洋医学研究所、岡西為人博士のもとで留用日僑となる。帰国後、大学・高校勤務を経て、代々木ゼミナール漢文の講師となる。2002年3月、代々木ゼミナール校長を退任。 明治以前は多久地方を治めた多久氏一族の末裔である。
木原 健太郎(きはら けんたろう、1921年 - )は、日本… 木原 健太郎(きはら けんたろう、1921年 - )は、日本の教育社会学者、創価大学名誉教授。 広島市生まれ。1943年東京帝国大学文学部社会学科卒業。日本製鐵東京技術研究所所員。総理大臣官房審議室(世論調査班)嘱託。1950年東京学芸大学助教授。57年名古屋大学教授。76年国立教育研究所第四研究部長。創価大学教育学部教授、国立教育研究所名誉所員。99年瑞宝章叙勲。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
藤井 尚治(ふじい なおはる、1921年 - 1997年)は… 藤井 尚治(ふじい なおはる、1921年 - 1997年)は、日本の医学者。医師。法学博士。 1921年に東京で生まれる。1942年東京大学医学部卒業後、同精神科に入局するものの翌年軍医として応召。1947年に復員。ハンス・セリエ博士のストレス理論に共鳴し、杉靖三郎らとストレス研究に従事する。1955年銀座内科診療所を開設し院長就任。1963年篆刻家河野晶苑と結婚。1971年財団法人東京ストレス研究会理事長となる。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
永井 成男(ながい しげお、1921年 - 2006年)は、… 永井 成男(ながい しげお、1921年 - 2006年)は、日本の哲学者。東洋大学名誉教授。専攻は、科学哲学・分析哲学。 福島県生まれ。1944年東京医学歯学専門学校(現東京医科歯科大学)卒、1949年早稲田大学文学部哲学科卒。1957年同大学院(旧制)修了、千葉大学助教授、東洋大学短期大学教授、1992年定年、名誉教授。日本科学哲学会委員長。
江原 有信(えはら ありのぶ、1921年 - )は、日本の生… 江原 有信(えはら ありのぶ、1921年 - )は、日本の生物学者、筑波大学教授、学位は理学博士。専攻は動物生理学。 大正10年沼津に生まれ、東京に育つ。昭和19年東京文理科大学生物科を卒業。筑波大学教授を経て退官後同大名誉教授、昭和32年マメホヤの心電図の研究で博士号を取得、同43年に心臓生理学研究のため欧米に留学。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
丸山 一彦(まるやま かずひこ、1921年(大正10年) -… 丸山 一彦(まるやま かずひこ、1921年(大正10年) -2004年?)は、国文学者。学位は、文学博士(東京教育大学・論文博士・1977年)(学位論文「一茶研究」)。宇都宮大学名誉教授。 栃木県足利市生まれ。東京文理科大学国文科卒、中学教師ののち秋田大学助教授、宇都宮大学教授、1977年「一茶研究」で東京教育大学より文学博士の学位を取得。1985年定年退官、名誉教授、白鷗大学教授。1992年栃木県文化功労者。専門は近世俳文学。
荒木 芳邦(あらき よしくに、1921年 - 1997年)は… 荒木 芳邦(あらき よしくに、1921年 - 1997年)は、日本の造園家、作庭家。活動拠点は大阪。関西を中心とする日本およびドイツに多くの日本庭園、公共造園や公園作品を残した。 (日本国外の日本庭園) 作品は共通して大胆で直截的な景色作りが行われている。公園等、公共の空間で機能性を有しながら大胆な仕掛けを施すことで知られ、滝をダイナミックな階段状にする、自然風景式園に正円の園地を突如挿入する、外来種を積極的に用いたカラフルでボタニナルな植栽の庭園を構築など、従来の日本庭園作品にはみられない試みを実施。日本造園学会賞の大阪ロイヤルホテルでは、プラスティック製の擬木/擬石での庭づくりを行った。 東京における業務空間のデザインは、本人の持つ力量に対して、意外とおとなしい意匠でまとめている印象があるという[要出典]。
鈴木 秀勇(すずき ひでお、1921年 - 2011年 )は… 鈴木 秀勇(すずき ひでお、1921年 - 2011年 )は、日本の思想史家、教育学者。専門は教育思想史。一橋大学名誉教授、元札幌大学学長。社会思想史研究から教育思想史研究に進み、一橋大学社会学部で教育社会学講座を創設した。 1938年旧制東京商科大学(現一橋大学)予科入学。高島善哉門下。大学卒業後、同大非常勤講師を経て、1951年一橋大学社会学部助教授。1965年一橋大学社会学部教授。1969年から西順蔵の後任として第7代社会学部長を務めた。1970年、学部長を退任し増淵龍夫と代わる。1984年一橋大学定年退職。 社会思想史の研究から始め、教育思想史研究に進み、一橋大学社会学部で教育社会学講座を創設。
江口 良友(えぐち よしとも、1921年(大正10年) - … 江口 良友(えぐち よしとも、1921年(大正10年) - 2010年)は、日本の工学者・農学者・元軍人。農学博士(北海道大学)。専門は、微生物工学。北海道におけるバイオ研究の大家。特定非営利活動法人北海道バイオ産業振興協会顧問。北海道大学名誉教授。静修短期大学元学長。北海道小樽市出身 1944年北海道帝国大学農学部卒。1944年赤紙で召集を受ける。1945年海軍技術中尉。終戦後は、北海道商工経済会主事、北海道農産化学工業研究主幹、武田薬品工業化成品研究所部長を経て、1972年(昭和47年)北海道大学農学部教授に就任(微生物工学を担当)。1985年北海道大学停年退官。同名誉教授。静修短期大学6代学長に就任。
李寿栄(イ・スヨン、이수영、1921年-1972年)は大韓民… 李寿栄(イ・スヨン、이수영、1921年-1972年)は大韓民国の外交官。漢字を日本語読みすると「りじゅえい」のため愛称は「リッジウェイ」であった。 1921年、平安北道鉄山に生まれる。 1943年、早稲田大学英文科卒業。 1946年、梨花女子中学教諭 1947年、ソウル大学校師範学校講師。 1950年、特任陸軍中佐、参謀総長付通訳官。そのため米軍顧問に親友知己が多い。 朝鮮戦争中は板門店高級政治会議予備会談韓国代表主席補。 1953年11月、外務部情報局長。 1954年4月、ジェネーブ会議韓国首席代表補佐官。 1955年2月、外務部邦交局長。 1956年1月、駐フランス公使館一等書記官。ついで参事官、駐イギリス大使館参事官。
岡空 至(おかそら いたる、1921年〈大正10年〉 - 没… 岡空 至(おかそら いたる、1921年〈大正10年〉 - 没年不明)は、日本の実業家、政治家。千代むすび商事社長。千代むすび酒造監査役。千代むすび灘本舗代表取締役。境港市議会副議長。旧姓・下西。 鳥取県西伯郡境町(現・境港市)出身。境郵便局長の父・下西二郎、母・よし子の息子。1943年、早稲田大学専門部商科を卒業する。スポーツ用品・計量器販売業を営む。1974年、境港市議会議員に当選する。 戦後、市内でスキー熱が盛んになり、1949年ごろから景山利夫、赤石挙一、岡空至らの指導によりスキー教室を大山で開き、スキー愛好者を数多く育てた。住所は鳥取県境港市明治町。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。
三田村 裕(みたむら ゆう / ひろし、1921年 - 19… 三田村 裕(みたむら ゆう / ひろし、1921年 - 1980年)は、日本の編集者、翻訳家。本名・三戸森 毅(みともり つよし)。早稲田大学文学部心理学科卒業。 実業之日本社の編集者だったが、福島正実からSFの編集者としてスカウトされ、早川書房に1年間在籍。その後タトル著作権部に入るが、のちに退社して翻訳家になる。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
三浦 久兵衛(みうら きゅうべえ、1921年頃[要出典] -… 三浦 久兵衛(みうら きゅうべえ、1921年頃[要出典] - 2006年)は、日本の漁師。 秋田県出身で、「最後のクニマス漁師」と言われ、田沢湖でクニマスが絶滅した後は、魚卵を分けたとされる地域での探索活動をおこなった。 田沢湖畔で代々漁師を営む家に生まれ、自身も漁師となる。長男によると、捕獲したクニマスについて「網を引き揚げる時の手の感触、キラキラ光る感じが忘れられない」と話していたという。 しかし、1940年に強酸性の川水を中和して発電や農業に利用する目的で、玉川の水が田沢湖に引き込まれ、それから1年以内にクニマスは姿を消した。三浦ら漁師は玉川の水を入れることで魚がいなくなることは予測していたが、「戦争に入って居り、国策遂行に逆らう事は国賊」(三浦自身の手記の表現)という事情で反対することはできなかった。
西本 正(にしもと ただし、1921年〈大正10年〉 - 1… 西本 正(にしもと ただし、1921年〈大正10年〉 - 1997年〈平成9年〉)は、日本の撮影監督である。香港の撮影監督賀蘭山(ホー・ランシャン)として知られる。 1921年(大正10年)、福岡県、現在の筑紫野市に生まれる。幼少時に家族とともに満州国に移住し、長じて満州映画協会に入社、撮影部で働く。 第二次世界大戦後、内地に引き上げ、東宝で撮影助手をつとめる。1948年(昭和23年)には、太泉スタジオ(現在の東映東京撮影所)の第1回作品、マキノ正博(のちのマキノ雅弘)監督の『肉体の門』で、山崎一雄(のちの山崎市雄)カメラマンの助手をつとめた。新東宝で三村明の助手をつとめたのち、1956年(昭和31年)、田口哲監督の『鉄血の魂』で撮影技師として一本立ちした。
藤岡 喜久男(ふじおか きくお、1921年(大正10年) -… 藤岡 喜久男(ふじおか きくお、1921年(大正10年) - 2012年(平成24年)9月10日)は、日本の歴史学者・教育者。北海学園大学名誉教授。 北海道深川市出身。庁立旭川中学校(現・北海道旭川東高等学校)を経て、1942年横浜高等商業学校(現・横浜国立大学経済学部)卒業。庁立深川中学校(現・北海道深川西高等学校)教諭。1949年北海道札幌西高等学校教諭。1952年北海道大学文学部東洋史学科卒業。1954年同大学院文学研究科修了。同文学部助手。同非常勤講師を経て、1958年北海道札幌星園高等学校教諭。1972年北海学園大学法学部の専任講師として就任。1974年同法学部教授。1996年北海学園大学退職。
藤井 政美(ふじい まさみ、1921年ごろ - 2008年(… 藤井 政美(ふじい まさみ、1921年ごろ - 2008年(平成20年)7月7日)は日本の軍人。陸軍士官学校第54期卒業。最終階級は大尉。終戦直前、玉音放送を阻止するために陸軍将校たちが起こした「宮城事件」に参加した。 石川県金沢市出身。金沢第一中学校(46期)より東京陸軍幼年学校を経て予科士官学校を卒業(3期)し、近衛歩兵第1連隊隊附勤務。1940年(昭和15年)、陸士本科卒業と同時に南支に小隊長として派遣され、南寧にて右膊部貫通の銃創を負う。1941年(昭和16年)6月、内地に凱旋。以降初年兵教官、連隊旗手、大隊副官、中隊長を歴任。 1943年(昭和18年)12月に陸軍士官学校区隊長となり、58期生の教育を担当。
加地 健三郎(かち けんさぶろう、1921年 - 没年不明)… 加地 健三郎(かち けんさぶろう、1921年 - 没年不明)は、大阪府出身のプロ野球選手。右投右打で、ポジションは二塁手、三塁手、遊撃手。 京阪商業学校(現:大阪府立芦間高等学校)時代には春1回(1938年)、夏2回(1938年、1939年)甲子園に出場した。京阪商業時代のチームメイトに宮口美吉、深尾文彦(2人とものち南海軍)、乾国雄(のち阪神軍)がいる。 1940年3月15日、ライオン軍と契約し入団。二塁、三塁、遊撃を守ることができるユーティリティープレイヤーとして活躍した。打率は低かったが勝負強い打撃で8打点をマークした。同年末にライオン軍を退団。 それから10年後の1950年に読売ジャイアンツに復帰。
小野寺 洋(おのでら ひろし、1921年 - 戦死)は香川県… 小野寺 洋(おのでら ひろし、1921年 - 戦死)は香川県出身のプロ野球選手(投手)。 志度商(現・香川県立志度高等学校)を経て、1940年にイーグルスに入団。後に南海でプレーした三村正は1年先輩に当たる。翌1941年まで在籍したが、出場したのは1940年6月18日の巨人戦(後楽園球場。中河美芳、長谷川重一の後を継いで3番手で登板。2/3回を投げて1安打5四球2三振、失点3、自責点3で降板)と同年8月7日の阪急戦(満州リーグ戦開催中で、新京の児玉公園球場で行われた。玉腰忠義の後を継いで2番手で7回から登板。2回を投げて3安打2四球、失点1、自責点1の成績だった)の2試合のみだった。 1941年シーズン終了後に退団し、その後は北京の華北綿産でプレーしていたが、のち応召され、戦死した(没年月日、死没場所は不明)。
馬野 周二(うまの しゅうじ、1921年- )は、日本の技術… 馬野 周二(うまの しゅうじ、1921年- )は、日本の技術者、著作家。工学博士、技術士。 専門分野(化学)の論文、報告書の他、国際政治や国際経済についての著書を多数執筆した。 父親は内務省官僚であり、朝鮮総督府の高官であった。 山口県に生まれる。1931年、小学校4年生の時に父親の退官に伴い、朝鮮半島より内地(愛媛県松山)に戻る。旧制松山中学校(現・愛媛県立松山東高等学校)を経て、1946年、慶應義塾大学工学部応用化学科卒業。慶應義塾大学大学院工学研究科在学兼東京大学第一工学部付属試験所嘱託。1949年、通商産業省に技官として入省。1961年、通商産業省(課長)を退任後、創立間もないニューヨーク工科大学教授に就任。
春田 安喜子(はるた あきこ、1921年 - 2006年4月… 春田 安喜子(はるた あきこ、1921年 - 2006年4月6日)は、日本の洋画家。二科会理事。海老原喜之助、吉井淳二に学び、二科会で活躍したほか、地元鹿児島県の女流洋画壇振興に大きく貢献した。 鹿児島県鹿児島市加治屋町出身。実家は鹿児島市の老舗である春田屋呉服店で、父・吉次郎と伯父・宗次郎は鹿児島のアマチュア画家の草分け。1939年、鹿児島県立第二高等女学校卒業。女子美術専門学校高等科西洋画部を首席卒業。1943年から母校の鹿児島二高女および併設されている鹿児島女子師範学校で教える。加治屋町の自宅が戦災で焼け、アトリエがないので城山に登って桜島ばかり写生した後、鹿児島二高女のバラック校舎にこもって絵の具を使って暗くなるまで描いていた。
伴義雄(ばん よしお、 1921年 - 1994年)は、日本… 伴義雄(ばん よしお、 1921年 - 1994年)は、日本の薬学者。アルカロイドの合成者。北海道大学総長。