王 相殷(ワン・サンウン、朝鮮語: 왕상은、1920年3月3… 王 相殷(ワン・サンウン、朝鮮語: 왕상은、1920年3月31日 - 2019年10月16日)は、韓国の実業家、政治家。韓国の海運業と釜山の地域発展には多大な貢献をしたほか、第11・12代国会議員を歴任した。 本貫は開城王氏。号は草渓(チョゲ、초계)。仏教徒。 日本統治時代の黄海道黄州郡黄州面に生まれ、釜山出身。釜山第8小学校、釜山公立中学を経て、1941年に同志社大学商科大学卒。 1951年に協成海運を設立し、同社代表取締役を経て、国際商業会議所委員、釜山商工会議所副会長を務めた。特に1960年代に韓国初の船員派遣業への参入、釜山と下関を繋ぐ釜関フェリーの導入、国籍取得条件付裸傭船の運航などを主導し、韓国の海運業の発展に多大な貢献をした。
芥川 比呂志(あくたがわ ひろし、1920年3月30日 - … 芥川 比呂志(あくたがわ ひろし、1920年3月30日 - 1981年10月28日)は、日本の俳優、演出家。 東京府東京市滝野川区(現・東京都北区)田端出身。作家・芥川龍之介の長男。母は海軍少佐の塚本善五郎の娘・文。妻は、龍之介の次姉・ヒサの長女で、従姉にあたる芥川瑠璃子。 3人兄弟で、長弟・多加志は第二次世界大戦中、22歳でビルマにて戦死、末弟・也寸志は作曲家。名の由来は龍之介の親友・菊池寛(表記同じで筆名ではカン、本名ではヒロシと読む)の名の読みを万葉仮名に当てたもの。ちなみに、多加志は小穴隆一の「隆」から、也寸志は恒藤恭の「恭」から取られている。 1926年、東京高等師範学校附属小学校(現・筑波大学附属小学校)に入学。
安藤 信和(あんどう のぶかず、1920年〈大正9年〉3月3… 安藤 信和(あんどう のぶかず、1920年〈大正9年〉3月30日 - 2014年〈平成26年〉12月29日)は、昭和・平成期のアメリカンフットボール功労者。旧磐城平藩主安藤家16代当主。 1920年(大正9年)3月30日、子爵安藤信昭(旧磐城平藩主安藤家15代当主)の次男(第3子)として、東京都に生まれる。母は、閑院宮載仁親王と同妃智恵子の第1女子・恭子女王(ゆきこじょおう)である。 東京府立第六中学校(現:東京都立新宿高等学校)を経て、1937年(昭和12年)に立教大学予科へ入学。入学後すぐアメリカンフットボール部に入り、ラインとして活躍した。1942年(昭和17年)に立教大学を卒業。 1952年(昭和27年)、関東大学連盟理事に就任。
伊東 甚吉(いとう じんきち、1920年3月30日 - 没年… 伊東 甚吉(いとう じんきち、1920年3月30日 - 没年不明)は、プロ野球選手(二塁手)。
杉原 四郎(すぎはら しろう、1920年(大正9年)3月30… 杉原 四郎(すぎはら しろう、1920年(大正9年)3月30日 - 2009年(平成21年)7月24日)は、日本の経済学者・思想史家。専攻は経済学史・社会思想史・経済思想史。甲南大学・関西大学名誉教授。 京都市で生まれる。1929年第三高等学校を卒業し、京都帝国大学経済学部に進学。柴田敬のゼミナールで学んだ。1941年に学士試験に合格し、翌年卒業。 1942年から京都帝国大学経済学部助手を務めた。1950年に退官し、関西大学経済学部教授に転じた。在任中は同学部長も務めた。1956年、学位論文『ミルとマルクス:現代経済思想の二大源流に関する比較研究』を関西大学に提出して経済学博士号を取得。1970年に関西大学を退職し、名誉教授となった。
井野 隆一(いの りゅういち、1920年3月30日 - 20… 井野 隆一(いの りゅういち、1920年3月30日 - 2001年7月1日)は、日本の農業経済学者、マルクス主義者、日本共産党員。 東京府豊多摩郡生まれ。父は井野碩哉。1942年東京帝国大学経済学部卒、農林省に入り応召。1946年日本農業研究所勤務、日本共産党に入る。1958年東京経済大学専任講師、1961年助教授、1965年教授。1973年退職、日本農業研究所に戻る。農民運動全国連合会顧問。野呂栄太郎賞を二度受賞した。墓所は多磨霊園。
霜田 美樹雄(しもだ みきお、1920年3月30日 - 20… 霜田 美樹雄(しもだ みきお、1920年3月30日 - 2016年2月5日)は、日本の政治学者。早稲田大学名誉教授。 東京生まれ。1947年早稲田大学政治経済学部卒。名城大学助教授、早稲田大学政経学部教授。1989年退職、名誉教授、聖学院大学政治経済学部教授。1980年『キリスト教は如何にしてローマに広まったか』でマルコ・ポーロ賞受賞。1995年、勲三等瑞宝章受章。墓所は多磨霊園。
川手 良萬(かわて よしかず、1920年3月29日 - 1… 川手 良萬(かわて よしかず、1920年3月29日 - 1986年10月18日)は、日本の実業家。山梨県建設業協会会長、山梨県サッカー協会会長。日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟するヴァンフォーレ甲府の前身である甲府サッカークラブの創始者でもある。 山梨県北巨摩郡若神子村(現在の北杜市須玉町)生まれ。父の川手良雄は小学校長や無尽会社の支店長などを歴任した。長兄の川手良親は山梨県土木部長や須玉町長を務めた。良雄の従姉の夫は、昭和初期に衆議院議員を務めた川手甫雄 。 旧制甲府中学校(現在の山梨県立甲府第一高等学校、以下「甲府一高」と記述)に進学しサッカー部に所属していた。山梨高等工業学校(現在の山梨大学工学部)を卒業後、山梨県土木課に勤務した。
伊藤 三郎(いとう さぶろう、1920年(大正9年)3月29… 伊藤 三郎(いとう さぶろう、1920年(大正9年)3月29日 – 1997年(平成9年)10月16日)は、日本の政治家。神奈川県川崎市長(第7・8・9・10・11代)、全国革新市長会会長等を歴任した。位階は正四位。 千葉県成田市生まれ。1940年早稲田高等工学校(現早稲田大学)を卒業後、逓信省航空局に入省。第二次世界大戦での兵役を経て、敗戦後の1951年に川崎市役所に就職。技術吏員を振り出しに、職員組合委員長、労働組合連合会委員長、自治労神奈川県本部委員長等を経て、1971年の川崎市長選挙に日本社会党・日本共産党の推薦を受けて出馬し、7期目の当選を目指していた保守系の現職・金刺不二太郎を破り、初当選を果たす。
筑紫 申真(つくし のぶざね、1920年(大正9年)3月28… 筑紫 申真(つくし のぶざね、1920年(大正9年)3月28日 - 1973年(昭和48年)1月9日)は、在野の神話学者、歴史学者、民俗学者。 1920年(大正9年)、広島県に生まれる。広島県三原市の沼田神社社家で沼田国造家を称する筑紫家に連なる家系であったため、筑紫家の養子となる。実父は侍従武官も務めた陸軍中将坪島文雄。國學院大學を卒業し、第59代沼田国造として沼田神社の神職を務めながら、郷里の中学校の教師ともなる。戦中は応召し、戦後は広島県内の中学・高校教師を歴任。1952年6月に転任した三重県立亀山高等学校を振り出しに、三重県立鳥羽高等学校・三重県立志摩高等学校・三重県立上野高等学校・鳥羽・三重県立四日市高等学校・三重県立明野高等学校の各高校へと転任した。
都竹 通年雄(つづく つねお、1920年3月28日 - 19… 都竹 通年雄(つづく つねお、1920年3月28日 - 1984年8月2日)は、日本の日本語学者。専門は方言学。岐阜県益田郡萩原町(現:下呂市)生まれ。 法政大学卒業。1974年旧東京都立大学大学院修士課程修了。武蔵大学講師を経て、 1980年富山大学教授に就任。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。 この項目は、言語学に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ウィキポータル 言語学)。
菊池 三男(きくち みつお、1920年(大正9年)3月26日… 菊池 三男(きくち みつお、1920年(大正9年)3月26日 - 2017年(平成29年)11月4日)は、昭和から平成時代の土木工学者、内務官僚、建設省技監。 1945年(昭和20年)東京帝国大学工学部第二工学部土木工学科を卒業し、1947年(昭和22年)内務省に入省。建設省道路局、有料道路課長、国道第一課長、関東地方建設局長、道路局長を経て、1974年(昭和49年)建設省技監となる。1976年(昭和51年)退官。 退官後は、首都高速道路公団副理事長・理事長、日本高速通信代表取締役社長、立体道路推進機構理事長、土木学会副会長・会長など要職を歴任した。2017年(平成29年)11月4日、神奈川県藤沢市鵠沼藤が谷の自宅にて老衰のため死去した。
鈴木 正長(すずき まさなが、1920年 <大正9年> 3月… 鈴木 正長(すずき まさなが、1920年 <大正9年> 3月26日 - 1988年 <昭和63年> 3月5日)は、日本の経営者。日本水産社長、会長を務めた。神奈川県出身。位階は従四位。勲二等瑞宝章。 1946年に東京帝国大学法学部法律学科を卒業し、同年に日本水産に入社。 1966年に取締役に就任し、1970年5月に常務を経て、1973年5月に副社長に就任し、同年11月には社長に昇格。1975年12月から1978年6月までに会長を務め、1981年には小田原信用金庫理事長に就任。 1978年4月に藍綬褒章を受章。。 1988年3月5日胃癌のために死去。67歳没。死没日付をもって従四位に叙され、勲二等瑞宝章を追贈された。
野々川 美寿子(ののがわ みつこ、みづこ、1920年〈大正9… 野々川 美寿子(ののがわ みつこ、みづこ、1920年〈大正9年〉3月26日 - 1987年〈昭和62年〉7月)は、日本の実業家。日本メナード化粧品創業者。 愛知県東春日井郡篠岡村大字大草において、稲垣美寿子として生まれる。1942年(昭和17年)、野々川大介と結婚。名古屋市中村区上米野町に文具および事務用品を商う店を構えた。 1959年(昭和34年)には「メナード」と称する総合化粧品会社を設立。メナードは訪問販売による化粧品販売であり、当初は理解されず苦労した。 女性の美との関連で多くの美術品を収集。社会還元のために美術館設立に奮闘したが、実現を見ることなくこの世を去った。
近藤 啓太郎(こんどう けいたろう、1920年(大正9年)3… 近藤 啓太郎(こんどう けいたろう、1920年(大正9年)3月25日 - 2002年(平成14年)2月1日)は、日本の作家。 三重県四日市市生まれ。第一東京市立中学校(現東京都立九段高等学校)を経て、東京美術学校日本画科卒業。戦後、千葉県鴨川で1年ほど漁業に従事する。その後鴨川中学校の図工科教師となり、教職のかたわら創作を行う。1952年、「遭難」を『早稲田文学』に発表してデビュー、1956年、「海人舟」で芥川賞受賞。第三の新人の一人に数えられ、阿川弘之、吉行淳之介、安岡章太郎らとは終生親しくつきあった。 愛犬家で中学生の頃からの日本犬保存会の会員であり、鴨川で家を建てた後は「八色犬舎」という犬舎号を登録して柴犬や紀州犬の繁殖を行い井上靖、遠藤周作ら作家仲間に柴犬の仔犬を譲ったり、安岡章太郎に紀州犬の仔犬を世話したりした。
川上 哲治(かわかみ てつはる(現役時代は「てつじ」)、19… 川上 哲治(かわかみ てつはる(現役時代は「てつじ」)、1920年3月23日 - 2013年10月28日)は、熊本県球磨郡大村(現・人吉市)出身のプロ野球選手・監督、野球解説者。
猿橋 勝子(さるはし かつこ、1920年3月22日 - 20… 猿橋 勝子(さるはし かつこ、1920年3月22日 - 2007年9月29日)は、日本の地球科学者である。専門は地球化学。海洋放射能の研究などで評価された。東邦大学理事・客員教授を歴任。東京生まれ。 東京府立第六高等女学校(現・東京都立三田高等学校)を経て、帝国女子理学専門学校(現・東邦大学理学部)を卒業。中央気象台研究部(現・気象庁気象研究所)で三宅泰雄の指導を受けた。1954年のビキニ事件におけるいわゆる「死の灰」による大気・海洋汚染の研究以後、三宅と大気及び海洋の放射能汚染の調査研究を行い評価された。その研究成果は1963年の部分的核実験禁止条約成立に繋がった。 1957年、東京大学理学博士「天然水中の炭酸物質の行動について」。
黒田 能行(くろだ よしゆき、1920年3月22日 - 20… 黒田 能行(くろだ よしゆき、1920年3月22日 - 2014年5月10日)は、元衆議院決算委員会(現・決算行政監視委員会)調査室長、元衆議院国家公務員労働組合委員長。1947年、第001回国会予算委員会で書記として任命されて以来、戦後日本の財政経済の調査に尽力した。また、高橋正雄(経済学者)のもとで政治思想を学び、社会運動家としても活動した。位階は従四位。 1920年、大日本帝国陸軍の陸軍中将・フィリピン方面軍司令官であった黒田重徳の長男として福岡県に生まれる。母方の祖父は南部式拳銃を開発した南部麒次郎。幼少期に東京府に移り、成蹊小学校に入学。父親は不在が多く、母親・春子の女手ひとつで育てられる。
岸田 純之助(きしだ じゅんのすけ、1920年3月22日 -… 岸田 純之助(きしだ じゅんのすけ、1920年3月22日 - 2012年9月25日)は、日本の科学ジャーナリスト。 鳥取県出身。東京帝国大学第一工学部卒業。大日本帝国海軍で航空機設計に従事。1946年朝日新聞社に入社。『科学朝日』編集部員、論説委員を経て、1977年論説主幹。1985年日本総合研究所 (財団法人) 会長。1994年日本科学技術ジャーナリスト会議会長。日本原子力文化振興財団監事、日本総合研究所名誉会長。 2012年9月25日、肺炎のために死去。92歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
神尾 秀雄(かみお ひでお、1920年3月21日 - 200… 神尾 秀雄(かみお ひでお、1920年3月21日 - 2008年10月28日)は、日本の実業家。トヨタ自動車元副社長。千代田火災海上保険(現あいおいニッセイ同和損害保険)元会長。トヨタ中興の祖である豊田英二最高顧問の懐刀と言われた。2013年時トヨタ広報部長の神尾隆は甥。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
小巻 敏雄(こまき としお、1920年3月21日 - 199… 小巻 敏雄(こまき としお、1920年3月21日 - 1990年6月16日)は日本の教育者、政治家。元参議院議員(日本共産党公認)。 京都府与謝郡加悦町(現・与謝野町)生まれ。1944年、早稲田大学文学部卒業。その後、1947年に、京都府立宮津中学校(現・京都府立宮津高等学校)で、1951年に大阪府立生野高等学校でそれぞれ勤務する。生野高等学校時代に、大阪府立高校教職員組合の執行委員長に就任。委員長には1973年まで在職した。1974年の第10回参議院議員通常選挙で全国区から出馬し初当選を果たす。当選1回。党内では文教委員などを歴任した。1980年の第12回参院選に立候補したが落選した。 1990年6月16日、心筋梗塞のため奈良県奈良市の県立奈良病院で死去。
永山 光幹(ながやま こうかん、本名:茂、1920年3月21… 永山 光幹(ながやま こうかん、本名:茂、1920年3月21日 - 2010年3月22日)は、日本の刀剣研師。人間国宝(重要無形文化財保持者)。 神奈川県中郡相川村(現・厚木市)出身。1934年(昭和9年)、刀剣研磨、鑑定家の大家である本阿彌光遜に入門。1941年(昭和16年)に招集され、歩兵第49連隊に入営、中国へ出征する。現地でも軍刀研磨に従事。1946年(昭和21年)に復員し、本阿彌に再入門。 1955年(昭和30年)に本阿彌家免許皆伝。財団法人日本美術刀剣保存協会主催研磨技術等発表会において無鑑査、同審査員。翌年、神奈川県平塚市で研磨業を開業。1961年(昭和36年)6月、日本美術刀剣保存協会貴重刀剣審査員、同研磨技術等講習会講師。
樋笠 一夫(ひがさ かずお、1920年3月20日 - 200… 樋笠 一夫(ひがさ かずお、1920年3月20日 - 2007年6月17日)は、香川県坂出市出身の元プロ野球選手(外野手)・コーチ。
寺西 春雄(てらにし はるお、1920年3月20日-2003… 寺西 春雄(てらにし はるお、1920年3月20日-2003年6月22日)は、日本の音楽評論家である。 兵庫県出身。1944年、慶應義塾大学経済学部卒。野村光一らの指導を受け、1944年『音楽評論』に寄稿。戦後「子供のための音楽教室」設立に参加、のち桐朋学園大学教授。日本フィルハーモニー交響楽団事務局長。日ソ音楽家協会会長。
北 廉太郎(きた れんたろう、1920年(大正9年)3月20… 北 廉太郎(きた れんたろう、1920年(大正9年)3月20日 - 1940年(昭和15年)9月15日)は昭和期の歌手。 現在の山形県鶴岡市出身。 1936年(昭和11年)タイヘイレコードから紀多寛として「男の涙」でデビュー。ポリドールレコード移籍と共に瀧廉太郎をもじった北廉太郎に改名。 「潮来夜船」の大ヒットで知られ、他にも「青春の丘」、「出船の唄」、「追憶の馬車」、「シナの町」、「ヴォルガ旅愁」などヒット曲多数。アイドル歌手として人気を得たが、1940年(昭和15年)、白血病で急逝。享年20。 後に2代目北廉太郎の名前でポリドールよりデビューした小川耕平がいる。 ビクターから「雨の夜船」でデビューした後、ポリドールに移籍。
豊島 一(とよしま はじめ、1920年〈大正9年〉3月20日… 豊島 一(とよしま はじめ、1920年〈大正9年〉3月20日 - 1944年〈昭和19年〉8月5日)は、日本の海軍軍人、戦闘機搭乗員。最終階級は三等飛行兵曹。第57期普通科信号術練習生、丙飛7期卒業。 第二次世界大戦でのオーストラリアにおける日本兵捕虜第一号であり 、カウラ事件(日本兵脱走事件)の中心的人物でもある。 香川県三豊郡勝間村(三豊市高瀬町)出身。農家、豊島元兵衛とコマツの三男として生まれる。勝間尋常小学校(現三豊市立勝間小学校)、高等科、青年訓練所を経て戦闘機搭乗員を志し1938年(昭和13年)、佐世保海兵団に入団。普通科信号術練習生、長良乗組、陸戦隊、千歳・加賀乗組を経て、第五十六期操縦練習生に合格。
奥田 鑛一郎(おくだ こういちろう、1920年(大正9年)3… 奥田 鑛一郎(おくだ こういちろう、1920年(大正9年)3月19日 - 1995年(平成7年)3月17日)は、日本の会社経営者(三宅坂経営よろず相談所主宰、梁山泊・三宅坂倶楽部会長)、著述業、元陸軍軍人および陸上自衛官。陸士53期卒(歩兵)。最終階級は陸軍少佐、二等陸佐。旧名:奥田重武。 福島県会津若松市出身。奥田重栄少将の四男。ペンネームの「鑛一郎」は祖父の名で、家憲により1978年ごろ襲名した。 父の予備役編入に伴い京都市で育ち、京都府立第六中学より東京幼年学校を経て陸士53期卒。原隊は歩兵第9連隊。当時の第16師団長は石原莞爾であった。連隊旗手を拝命後、下志津陸軍飛行学校にて特別偵察学生としての訓練を受け、1941年6月、参謀本部課員として南方での空中偵察に従事。
達ノ里 寿弥(だてのさと としや、1920年3月19日 - … 達ノ里 寿弥(だてのさと としや、1920年3月19日 - 没年不明)は、北海道夕張市出身の元大相撲力士。振分部屋→玉ノ井部屋→振分部屋所属。本名は工藤 寿弥(くどう としや)。最高位は西十両5枚目。得意技は投げ、捻り。 振分部屋に入門し、1936年1月場所に初土俵を踏む。1941年1月場所に十両に昇進。再十両の1943年5月場所に応召される。1946年11月場所に復帰するが、その後は十両の地位にあるも勝ち越すことなく1947年11月場所に27歳で廃業した。非常に柔軟な体格で足腰も良く、軽量だが投げや捻りを駆使した激しい取り口が持ち味のの相撲巧者であった。
保田 隆芳(やすだ たかよし、1920年3月18日 - 20… 保田 隆芳(やすだ たかよし、1920年3月18日 - 2009年7月1日)は、日本の騎手(東京競馬倶楽部、日本競馬会、国営競馬、日本中央競馬会(JRA))、調教師(日本中央競馬会)。 1936年に騎手デビュー。10代の頃から名門・尾形藤吉厩舎の主戦騎手として頭角を現し、数々の大競走を制する。1958年、アメリカ遠征を機に、従来の日本では見られなかったアメリカ式のモンキー乗りを習得し、日本における騎手の騎乗フォームに大きな変革をもたらしたことから、モンキー乗りの先駆者とされている。1959~1961年、中央競馬全国リーディングジョッキー(年間最多勝利騎手)。1963年、中央競馬史上初の通算1000勝を達成。
小坂 雄太郎(こさか ゆうたろう、1920年3月18日 - … 小坂 雄太郎(こさか ゆうたろう、1920年3月18日 - 1990年8月21日)は、日本の経営者。信越化学工業創業者小坂順造の甥で、信越化学工業社長を務めた。勲二等瑞宝章受章。 長野県上水内郡柳原村(現長野市)出身。地元の地方財閥の信越化学工業創業家小坂一族に生まれる。旧制長野中学・旧制松本高校を経て、1943年に京都帝国大学工学部機械工学科を卒業。海軍技術大尉を経て、1945年に信越化学工業に入社。 取締役、常務を経て、1975年8月に専務に就任し、1983年8月に社長に昇格。 1990年8月21日、肝不全のために死去。70歳没。同日勲二等瑞宝章受章。従兄に小坂善太郎、小坂徳三郎、従弟に小坂健介(信濃毎日新聞社社長)、岳父に舞出長五郎がいる。
内村 剛介(うちむら ごうすけ、1920年3月18日 - 2… 内村 剛介(うちむら ごうすけ、1920年3月18日 - 2009年1月30日)は、日本のロシア文学者、評論家。文芸誌『(第2次)同時代』同人。本名、内藤操。 栃木県那須郡境村大字大木須(烏山町を経て現・那須烏山市大木須)で零落した百姓の次男として生まれる。中学進学を断念させられて自らの意志で、1934年高等小学校卒業と同時に満州に渡る。満鉄育成学校に入学したのち、転校先の旧制大連第二中学校を経て、1940年ハルピン学院に入学してロシア語を学び、1943年同校を繰上卒業。同年、結婚するも束の間のうちに関東軍総司令部へ徴用される。 敗戦後の混乱の中でソ連のゲー・ペー・ウーにスパイ容疑で逮捕された後、イルクーツクやモスクワの監獄(ラーゲリ)につながれて11年余りの長きにわたって独房生活を送った。
土居 健郎(どい たけお、1920年3月17日 - 2009… 土居 健郎(どい たけお、1920年3月17日 - 2009年7月5日)は、日本の精神科医・精神分析家・評論家。東京大学名誉教授。学位は医学博士(東京大学・1960年)。 日本人の心理特性として「甘え」の概念を精神分析に導入し、その精神構造を解明した『「甘え」の構造』(1971年)は、日本人論に新局面をもたらした。他の著書に『表と裏』(1985年)、『時のしるし』(1990年)など。 1920年、東京生まれ。府立高等学校 (旧制)を経て、東京帝国大学医学部に入学。1942年に卒業し、陸軍軍医となった。 戦後、アメリカ・メニンガー精神医学校、サンフランシスコ精神分析協会に研修留学。自身、キリスト教カトリック教会の信徒であった。
宇治 家彦(うじ いえひこ、1920年〈大正9年〉3月17日… 宇治 家彦(うじ いえひこ、1920年〈大正9年〉3月17日 - 2008年〈平成20年〉10月24日)は、日本の華族、皇族、海軍軍人(皇族軍人)。階級は海軍技術大尉。多嘉王第2王子。皇族時代の名と身位は家彦王。1942年(昭和17年)に臣籍降下し、宇治伯爵家当主となる。 1920年(大正9年)3月17日午後5時35分、久邇宮家の多嘉王と同妃静子の第2男子として誕生。御七夜の3月23日に「家彦」と命名された。兄の宮賀彦王は早世しており、実質的な長男として育つ。1937年(昭和12年)に父と死別。父の多嘉王は久邇宮家本家とは独立していたものの、宮号は賜っていなかったため、家彦王は宮家の当主の地位を継承していない。
下条 進一郎(しもじょう しんいちろう、旧字体:下條、192… 下条 進一郎(しもじょう しんいちろう、旧字体:下條、1920年〈大正9年〉3月16日 - 2013年〈平成25年〉4月14日)は、日本の大蔵官僚、政治家。参議院議員。厚生大臣、参議院議院運営委員長、同国際平和協力等に関する特別委員長などを歴任した。位階は従三位。貴族的な風貌から「まろ」の通称で呼ばれていた。 長野県松本市出身。下条康麿の長男。私立暁星小學校、武蔵高等学校、1944年 東京帝国大学法学部政治学科を卒業する。同年大蔵省に入省するが、太平洋戦争の激化に伴い短期現役海軍主計科士官(11期)を志願し、1944年2月に海軍主計見習尉官となり海軍経理学校に入校。同年9月に経理学校を卒業し、同年12月、海軍主計少尉に任官。
東郷 晴子(とうごう はるこ、1920年〈大正9年〉3月15… 東郷 晴子(とうごう はるこ、1920年〈大正9年〉3月15日 - 2011年〈平成23年〉3月3日)は、日本の女優。元宝塚歌劇団雪組組長。東京都出身。本名は森治子。 桜蔭高等女学校(現:桜蔭中学校・高等学校)卒業。宝塚歌劇団時代の愛称はハコちゃん。 1937年、宝塚音楽歌劇学校(現・宝塚音楽学校)に入る。宝塚入団時の成績は93人中2位。同期生に越路吹雪、乙羽信子、月丘夢路、大路三千緒らがいた。1955年、宝塚歌劇団を退団。 その後は、映画、舞台、テレビドラマに出演した。 2011年3月3日、呼吸不全のため横浜市の病院で死去。90歳没。 社団法人映像コンテンツ権利処理機構においては不明権利者とされている。
玉腰 忠義(たまごし ただよし、1920年3月15日 - 1… 玉腰 忠義(たまごし ただよし、1920年3月15日 - 1957年1月16日)は、愛知県出身のプロ野球選手。ポジションは外野手。
岸田 綱太郎(きしだ つなたろう、1920年3月15日 - … 岸田 綱太郎(きしだ つなたろう、1920年3月15日 - 2006年9月13日)は、医学博士。位階は正五位。ラブレ乳酸菌(英語版)の発見、インターフェロンの研究などで知られる。 ウイルスなどの侵入から体を守るタンパク質・インターフェロンの研究を1960年代から始め、1972年に日本で初めてヒトインターフェロンを人工的に生成し、肝炎や白血病の患者らに投与した。原爆投下2カ月後の広島に京都府立医大調査団の一員として赴いた経験から、反核医師の会京都代表を務め、核兵器反対や平和を訴える講演活動なども続けていた。 東京都出身。京都府立医科大学名誉教授。鮎川哲也賞受賞作家の岸田るり子は長女。同志社大学文学部、京都府立医科大学卒。
西郷 竹彦(さいごう たけひこ、1920年3月15日 - 2… 西郷 竹彦(さいごう たけひこ、1920年3月15日 - 2017年6月12日)は、日本の文芸学者、児童文学研究者、ロシア文学翻訳家。 鹿児島市生まれ。幼くして両親に死なれ孤児として育つ。上京後、土方などをして苦学、東京帝国大学理学部応用物理学科に学ぶ。 第四航空師団に召集され朝鮮平壌航空隊に配属。敗戦時、ソ連の捕虜となり、のちモスクワ東洋大学日本学部講師として日本文化・文学を教え、1949年帰国。 ロシア児童文学の翻訳を多数行い、のち文学教育を中心として多数の翻訳、創作、論考、著書を著した。文芸教育研究協議会(文芸研)の理論的支柱であった。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
岡田 重精(おかだ しげきよ、1920年3月15日 - 20… 岡田 重精(おかだ しげきよ、1920年3月15日 - 2013年8月11日)は、日本の宗教学者。学校法人皇學館大学理事長、皇學館大学名誉教授。文学博士(東北大学)。 高知県出身。1943年に神宮皇學館大學専門部を卒業し、兵役に服した後、1946年に東北帝国大学法文学部に入学、1949年に同大学を卒業。 ただちに同大学助手となり、1951年に退官。続いて大学院特別研究生。その後、1954年に東北大学文学部東北文化研究室研究員・宮城県工業高等学校教諭、1966年に皇學館女子短期大学助教授、1971年に皇學館短期大学教授、1975年に皇學館大学教授、神道研究所長・学生部長・文学部長等併任。北京大学・ハワイ大学ほか海外招聘講義。
甲斐 文融(かい ぶんゆう、号 : 古璋、大正9年(1920… 甲斐 文融(かい ぶんゆう、号 : 古璋、大正9年(1920年)3月15日 - 1997年12月26日)は、日本の画家、曹洞宗の僧侶(大分県中津市崇禅寺の13世住職)。白日会会員で油彩、日本画、彫刻をよくした。 大正9年、大分県宇佐市清水の清水寺に生まれる。地方画家であった祖父、叔父の絵画を見、また兄の作画する姿に接し、幼少時より絵画に憧憬を抱く。その後、兄から自分の果たせなかった夢を託され、東京美術学校(現東京芸術大学)図画師範科に進学し、小林萬吾、南薫造、伊原宇三郎、石橋犀水、川﨑小虎、矢澤弦月、関野聖雲に学び、1941年に卒業した。 1948年の創元展に「渓流」が初入選。1951年には「石彿」により受賞。
豊田 穣(とよだ じょう、1920年〈大正9年〉3月14日 … 豊田 穣(とよだ じょう、1920年〈大正9年〉3月14日 - 1994年〈平成6年〉1月30日)は、日本の小説家、作家、海軍軍人。海兵68期。最終階級は海軍中尉。本名は豊田 稔(とよだ みのる)。 満州の四平街に生まれる。その後、郷里の岐阜県本巣郡穂積町(現・瑞穂市)へ戻り、1937年(昭和12年)3月、岐阜県立本巣中学校(現・岐阜県立本巣松陽高等学校)を卒業。 1937年(昭和12年)4月、海軍兵学校に入校。1940年(昭和15年)8月、卒業(68期)。同期に鴛淵孝、伴勝久、広尾彰、松永市郎、酒巻和男がいる。 1941年(昭和16年)4月、第36期飛行学生になる。12月8日、真珠湾攻撃が行われ、特潜で出撃した10名のうち、酒巻和男が捕虜となる。
吉田 茂夫(よしだ しげお、1920年3月13日 - 200… 吉田 茂夫(よしだ しげお、1920年3月13日 - 2009年2月23日)は、日本の経営者。京都府福知山市出身。 1943年に東京帝国大学法学部政治学科を卒業し、同年に阪神急行電鉄(のちの阪急電鉄)に入社。1961年1月に阪急国際交通社(のちの阪急交通社)に転じ、1969年5月に取締役に就任し、1975年5月に常務、1980年5月に専務を経て、1985年6月に社長に就任。1991年6月に会長に就任し、1994年6月から1年間相談役を務めた 2009年2月23日に死去。88歳没。
原 久夫(はら ひさお、1920年(大正9年)3月12日 -… 原 久夫(はら ひさお、1920年(大正9年)3月12日 - 2008年(平成20年)8月14日)は、日本の政治家。長野県伊那市長。 長野県上伊那郡西箕輪村(現伊那市)出身。旧制伊那中学(長野県伊那北高等学校)卒業後、応召。朝鮮半島から南方戦線に転じ、フィリピンで収容所生活を送った後、復員。昭和22年(1947年)西箕輪村役場に入り、伊那市発足後、農林課長、総務課長を経て、同45年(1970年)収入役、同53年(1978年)助役となり、同61年(1986年)伊那市長選挙に当選した。平成元年(1989年)勲四等瑞宝章受章。
高橋 勇夫(たかはし いさお、1920年3月11日 - 19… 高橋 勇夫(たかはし いさお、1920年3月11日 - 1998年)は、日蓮宗の僧、仏教学者。 大阪市西成区生まれ。大阪府立住吉中学校(現大阪府立住吉高等学校)卒業、東洋大学文学部仏教学科卒業。兵役をへて、1948年大谷学園教諭。1964年から1977年東大谷高等学校副校長、大谷女子短期大学教授などを務めた。日蓮本宗正福寺住職。個人誌『菩提樹』主宰。
中川 幸次(なかがわ ゆきつぐ、1920年3月11日 - 2… 中川 幸次(なかがわ ゆきつぐ、1920年3月11日 - 2015年12月28日)は、日本のエコノミスト。元野村総合研究所社長。中曽根康弘元総理大臣のブレーンとして知られた。 山口県出身。高松高等商業学校を経て、1943年9月旧制東京商科大学(のちの一橋大学)本科を卒業し、日本銀行入行。大学では山田雄三ゼミナールに所属。短期現役海軍主計科士官(10期)を志願し、1943年9月、海軍経理学校に入学し、1944年(昭和19年)3月に卒業して海軍主計中尉に任官。1945年(昭和20年)3月、海軍主計大尉に昇進して終戦を迎えた。 戦後、日本銀行に復帰し、調査局次長、総務部長を経て、1973年営業局長、1975年理事を歴任。
大橋 鎭子(おおはし しずこ、1920年〈大正9年〉3月10… 大橋 鎭子(おおはし しずこ、1920年〈大正9年〉3月10日 - 2013年〈平成25年〉3月23日)は、日本の女性編集者・エッセイスト。暮しの手帖社社主・元社長で同社の雑誌『暮しの手帖』を創刊した。妹の大橋芳子も同社創業メンバーの一人で、エッセイスト。 父の大橋武雄は岐阜県大垣市出身。武雄は父親を結核で早くに亡くし、10歳の時に東京・深川の材木商をしていた親戚の大橋谷吉の養子となり、府立一中を経て北海道帝国大学農学部卒業後1919年4月中越製布(現・日本製麻)に就職。母、宮原久子は京都生まれ小樽育ちで、父の宮原満吉は新潟で油田を掘り当て財を築いた実業家だった。久子は女子美術学校を卒業後、北海道時代に知り合った武雄と1919年5月に結婚。
住野 敏郎(すみの としお、1920年3月10日 - 200… 住野 敏郎(すみの としお、1920年3月10日 - 2001年3月9日)は、日本の実業家。オートバックスの創業者。大阪府大阪市天王寺区出身。 1938年に大阪城東商業高校を卒業し、同年に日本自動車に入社した。1948年に大阪市に富士商会を設立し、1958年にオートバックスセブンの前身である大豊産業を設立した。1974年に社員の反対を押し切って、大東市に日本で初めてカー用品専門店1号店をオープンした。 1978年に大豊産業をオートバックスセブンに変更し、店舗数は急速に拡大し、1989年には株式上場を果たした。1975年にフランチャイズ店の展開にも着手し、1990年には台湾にも出店し、海外にも積極的に展開した。
佐藤 敬治(さとう けいじ、1920年(大正9年)3月10日… 佐藤 敬治(さとう けいじ、1920年(大正9年)3月10日 - 2009年(平成21年)9月16日)は、昭和から平成期の政治家、教員。衆議院議員(6期)、大館市長。 秋田県大館市出身。1944年(昭和19年)東京帝国大学文学部社会学科を卒業。秋田県立大曲高等学校教諭を経て、1951年(昭和26年)大館市長に初当選。以降4期務めた。 1972年(昭和47年)日本社会党公認で第33回衆議院議員総選挙において旧秋田1区で初当選。6期務めた。1993年(平成5年)に政界から引退した。 2009年9月16日、死去。89歳没。死没日付をもって正八位から正四位に叙され、旭日重光章を追贈された。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。
影井 梅夫(かげい うめお、1920年3月9日 - 2003… 影井 梅夫(かげい うめお、1920年3月9日 - 2003年7月4日)は、日本の外交官。法務省入国管理局長、外務省国際連合局長、駐イタリア特命全権大使、NTT特別参与などを歴任した。 鳥取県気高郡湖山村出身。武蔵高等学校尋常科、同校高等科文科甲組を経て、1941年高等試験外交科合格。同年東京帝国大学法学部政治学科卒業、外務省入省。短期現役海軍主計科士官(8期)を志願し、1942年1月、海軍主計中尉に任官し海軍経理学校に入校。同年5月に卒業。1943年11月、海軍主計大尉に昇進し終戦を迎えた。 終戦連絡中央事務局連絡官を経て、1947年外交官補、叙二級。在マニラ日本政府在外事務所一等書記官、日本国とフィリピン共和国との間の賠償協定及び経済開発借款協定につき交渉し且つ署名する全権委員随員を経て、1956年在フィリピン日本国大使館一等書記官。
三根谷 徹(みねや とおる、1920年3月7日 - 2000… 三根谷 徹(みねや とおる、1920年3月7日 - 2000年9月5日)は、日本の言語学者。