伊藤 修(いとう おさむ、1852年2月21日(嘉永5年2月… 伊藤 修(いとう おさむ、1852年2月21日(嘉永5年2月2日) – 1925年(大正14年)6月17日)は、日本の政治家。高知市長。 土佐国高知城下で伊与木正猪の四男に生まれる。その後、浦戸町(高知城下)の伊藤怡然の養子となる。土佐郡朝倉村12ヶ村戸長になるが、1889年(明治22年)町村制の施行により、廃職となる。同年、高知市の発足により、高知市会議員となる。1891年(明治24年)高知市参事員、1893年(明治26年)土佐郡会議員となる。1895年(明治28年)高知市議に復帰、翌年副議長となる。1897年(明治30年)2月高知市会議長となるが、3月に高知市助役に就任。高知市長一圓正興の元で務めた。
高田 慎蔵(たかた しんぞう、嘉永5年2月2日〈1852年2… 高田 慎蔵(たかた しんぞう、嘉永5年2月2日〈1852年2月21日〉 - 大正10年〈1921年〉12月26日)は、明治大正期の機械貿易商。勲三等。墓は谷中霊園。 高田商会創業者。旧幕府佐渡奉行の下級官吏、支配地役人組頭で広間役だった天野孫太郎の子として佐渡国相川(現新潟県佐渡市)に生まれる。4歳で父の同僚高田六郎の養子となる。14歳にして慶応元年(1865年)佐渡奉行所に出仕見習いから、公事方書役となる。戊辰戦争(1868年)時には新政府に対抗する中山信安の迅雷隊に名を連ねたが、明治維新後、新政府の相川鉱山下調役となり、英国公使のパークスやお雇い外国人エラスムス・ガウワーらの佐渡金山視察に遭遇し、英語の必要性を感じる。
柳瀬 春次郎(やなせ はるじろう、1852年2月20日(嘉永… 柳瀬 春次郎(やなせ はるじろう、1852年2月20日(嘉永5年2月1日)- 1910年(明治43年)5月28日)は、明治期の実業家、政治家。衆議院議員。 伊予国越智郡今治村風早(愛媛県越智郡今治村、今治町を経て現今治市)で生れた。京都同志社で学んだ。 帝国議会前に愛媛県政界が活発になるとこれに加わり、当初は改進派として活動したが、長屋忠明の勧めで大同派に転じた。1894年(明治27年)3月、第3回衆議院議員総選挙(愛媛県第2区、自由党)で当選し、衆議院議員に1期在任。同年9月の第4回総選挙では村上芳太郎に敗れて落選し、政界を引退した。 その後、実業界で活躍し、伊予本木取締役、伊予晒粉監査役、伊予興業合資会社業務担当社員などを務め、柳瀬商行を設立して社長に就任した。
古谷 安民(ふるたに やすたみ、1852年2月11日(嘉永5… 古谷 安民(ふるたに やすたみ、1852年2月11日(嘉永5年1月22日) - 1918年(大正7年)11月22日)は、大日本帝国陸軍の軍人。最終階級は陸軍少将。栄典は正五位功三級勲三等。 長門国美祢郡岩永村(現山口県美祢市)士族出身。 西南戦争では第4旅団第1大隊第4中隊に属する。歩兵第30連隊長を経て、日露戦争では第三軍兵站監をつとめる。武学生養成所(※山口県愛山会武学講習所)所長。 1918年没。戒名は奨武院殿安道濟民大居士。
大藪 房次郎(おおやぶ ふさじろう、1852年2月9日(嘉永… 大藪 房次郎(おおやぶ ふさじろう、1852年2月9日(嘉永5年1月20日)- 1927年(昭和2年)5月2日)は、明治から昭和初期の実業家、政治家。衆議院議員。 筑後国御井郡久留米城下苧扱川町(現福岡県久留米市本町)で、富豪・大藪萬蔵の長男として生まれる。1900年(明治33年)8月に分家した。 第六十一国立銀行取締役、久留米紡績会社社長、筑後水力電気顧問、大川鉄道顧問などを務め、市営瓦斯事業の開始などに尽力し、貧困層への義捐などを行った。 政界では、1889年(明治22年)4月の市制施行の際に久留米市会議員に選出されたが数ヶ月で辞職。その後、市参事会員に就任。1889年(明治22年)4月から1914年(大正3年)まで久留米市会議員に選出され、その他、所得税調査委員会会長、宅地価修正委員会会長などを務めた。
劔山 谷右エ門(つるぎざん たにえもん、1852年2月9日(… 劔山 谷右エ門(つるぎざん たにえもん、1852年2月9日(嘉永5年1月20日) - 1910年(明治43年)11月21日)は、阿波国麻植郡鴨島村(現・徳島県吉野川市)出身の大相撲力士。本名は吉原 熊十郎。最高位は大関。所属部屋は猪名川部屋(大阪)→梅ヶ谷のち雷部屋(東京)。身長177cm、体重120kg。 1870年(明治3年)、大坂相撲で鶴ヶ濱という力士であった父の縁での猪名川の門に入り響矢 熊吉で初土俵。1875年(明治8年)6月入幕(西前頭12)。翌1876年(明治9年)大坂相撲で脱走事件が起き、脱走組は「開化組」を名乗った。響矢も開化組に加わり大関を務めた。1878年(明治11年)9月帰参。
小倉 久(おぐら ひさし、嘉永5年1月15日〈1852年2月… 小倉 久(おぐら ひさし、嘉永5年1月15日〈1852年2月4日〉- 1906年〈明治39年〉11月4日)は、日本の幕末から明治期の武士(沼田藩士)、官僚(官選和歌山・徳島・富山・大分・岐阜県知事、検事)、弁護士、関西法律学校初代校長。 江戸見坂の沼田藩邸で小倉久彝(ひさつね)の長男として生まれた。明治3年(1870年)、大学南校貢進生となり、明治5年(1872年)に司法省明法寮に転入。1876年(明治9年)、岸本辰雄・宮城浩蔵とともにフランスへ留学し、法学者エミール・アコラス(フランス語版)に師事した。1878年(明治11年)に帰国した後、司法省御用掛兼太政官御用掛として民法典編纂に携わり、また司法省法学校速成科の講師となる。
阿部 浩(あべ ひろし、嘉永5年1月3日(1852年1月23… 阿部 浩(あべ ひろし、嘉永5年1月3日(1852年1月23日) - 大正11年(1922年)10月7日)は、日本の内務官僚、政治家。群馬県知事、千葉県知事(2期)、富山県知事、新潟県知事、東京府知事(2期)を歴任。衆議院議員(2期)、貴族院議員、日本赤十字社特別社員を務めた。位階および勲等は正三位・勲一等。陸奥国岩手郡盛岡出身。邸は荏原郡大井町元芝にあった。 南部藩士阿部雄平の子として生まれる。4つ年下の原敬とはいわゆる幼馴染の間柄であり、後に原に郵便報知新聞入社を勧めたのも阿部であったとされている。戊辰戦争後に上京して慶應義塾(後の慶應義塾大学)に学び、苦学の末に卒業して1874年に岡山県職員として採用され、後に工部省職員、鉄道事務官を経て内務省に移籍して社寺局長にまで昇った。
坂元 規貞(さかもと のりさだ、1852年1月22日(嘉永5… 坂元 規貞(さかもと のりさだ、1852年1月22日(嘉永5年1月2日)- 1924年(大正13年)1月10日)は、明治から大正期の官吏、実業家、政治家。衆議院議員。 肥前国佐賀郡新郷村(佐賀県佐賀郡北川副村新郷を経て現佐賀市)で、佐賀藩士・坂元敬之進の長男として生まれる。藩校弘道館で学んだ。その後、木原隆忠の木原塾に入り塾長を務めた。 1876年(明治9年)長崎県15等出仕となり、1887年(明治20年)文部属に転じ、その後退官した。 1892年(明治25年)2月、第2回衆議院議員総選挙で佐賀県第1区から中央交渉会所属で出馬して当選し、衆議院議員に1期在任した。 その後、実業界に転じ、1912年(明治45年)佐賀米穀取引所理事に就任した。
日下 義雄(くさか よしお、嘉永4年12月25日(1852年… 日下 義雄(くさか よしお、嘉永4年12月25日(1852年1月16日) - 大正12年(1923年)3月18日)は、明治から大正時代の政治家、実業家。位階および勲等は正四位・勲二等。 現在の会津若松市で会津藩の侍医・石田龍玄(常雄)の長男として生まれる。父は農家の出身だが、幼年より医学を学び公家の側醫格となり士分に登用され七人扶持を賜った。龍玄は特に内科の名医として名声があり、貧しきものには無銭にて薬を処方した。母は中村為七郎の娘のちえ子。幼名は五郎。初名は石田伍助。弟に白虎隊二番士中組の1人で飯盛山で自刃した石田和助がいる。妻は水野忠精の娘。 藩校・日新館で学び、鳥羽・伏見の戦いに従軍。会津戦争では、大鳥圭介らと行動をし、落城前に会津を脱出し、箱館戦争に加わった。
高木 英次郎(たかぎ えいじろう、1852年1月8日(嘉永4… 高木 英次郎(たかぎ えいじろう、1852年1月8日(嘉永4年12月28日) - 1904年(明治37年)6月2日)は、幕末の佐賀藩士、明治期の海軍軍人。佐賀市水ヶ江出身。最終階級は海軍少将(死後昇進)。栄典は従四位勲三等功四級。 1852年、佐賀藩士高木彌左衛門の第2子として生まれる。藩校弘道館に学んだのち、1865年(慶応元年)佐賀藩の海軍兵学校「船手稽古所」(三重津海軍所の当時における呼称)に入校。戊辰戦争には佐賀藩艦甲子丸の乗員として出征した。1871年(明治4年)燈台寮技術見習を拝命。1874年(明治7年)海軍少尉に任官した。さらに1876年(明治9年)には鳳翔乗員として西南戦争に出征。
中川 元(なかがわ はじめ、1852年1月7日(嘉永4年12… 中川 元(なかがわ はじめ、1852年1月7日(嘉永4年12月16日) - 1913年9月28日)は明治時代の日本の教育者、文部官僚。第四高等中学校(金沢大学の前身の一つ)、第五高等学校(熊本大学の前身の一つ)、第二高等学校(東北大学の前身の一つ)、仙台高等工業学校(東北大学工学部の前身の一つ)の校長を歴任した。旧名・孫一郎、号は槐陰。 信濃国飯田城下に信濃飯田藩士中川逸山の長男として生まれる。1871年藩の貢進生に選ばれ大学南校に進み、フランス語を学ぶ。文部省より出向の同校職員九鬼隆一と知遇を得る。1874年文部省に出仕し、外国語学校教授に任じらた。1878年1月にフランスに留学を命じられる。
佐藤 志津(さとう しづ、1852年1月7日(嘉永4年12月… 佐藤 志津(さとう しづ、1852年1月7日(嘉永4年12月16日) - 1919年(大正8年)3月17日)は、私立女子美術学校(現女子美術大学)第2代校長。 志津は1851年(嘉永4年)、常陸国行方郡麻生(現茨城県行方市)の医師山口舜海の長女として誕生した。1853年(嘉永6年)父舜海が佐倉藩御典医で病院兼蘭医学塾「佐倉順天堂」堂主佐藤泰然の養子となり佐藤尚中と名を改めると、志津を含め一家全員も佐藤家に入った。志津は義叔父(養祖父泰然の子)董(ただす、後に林家の養子になる)と1歳違いであったことから、董と共に漢籍を佐倉藩儒者岡本道庵に、国学を浜野末束に学んだ。 1859年(安政6年)、母方の叔母の嫁ぎ先である水戸の商家(酒造)藤枝富右衛門の家に預けられ、水戸藩武術指南役より穴沢流薙刀を習い、点茶・琴・手芸・礼儀作法を修めた。
青木 保(あおき たもつ、1852年1月3日(嘉永4年12月… 青木 保(あおき たもつ、1852年1月3日(嘉永4年12月12日)- 1908年(明治41年)3月27日)は明治時代の日本の文部官僚、教育者。旧足守藩士。 嘉永4年12月12日(1852年1月3日)、青木元永の長子として備中国足守に生まれる。幼名は英之進。藩校・追琢舎を経て犬飼松窓、山田方谷らに漢学を学んだのち、明治3年(1870年)12月に足守藩選出の貢進生として大学南校に入学。貢進生制度が廃止され、校名が南校、第一大学区第一番中学と移り変わる中、英語専攻の学級に在籍して学業を続け、明治6年(1873年)4月に同校が専門学校である開成学校(ほどなく東京開成学校と改称)に改組されると法学科の予科に編入されている。
6代 米谷 半平(こめたに はんべい、1852年1月3日(嘉… 6代 米谷 半平(こめたに はんべい、1852年1月3日(嘉永4年12月12日) - 1927年(昭和2年)5月27日)は、明治から大正時代の政治家。実業家。銀行家。貴族院多額納税者議員。 加賀国、のちの石川県能美郡安宅町(現小松市)出身。先代米谷半平の三男として生まれ、亡兄半平の跡を継ぎ襲名した。 米谷銀行を経営したほか、石川県農工銀行、北陸興業各取締役などを歴任した。また、公共事業に尽くし第五回関西府県連合共進会特別委員や日本赤十字社特別委員に挙げられ有功章を送られたほか、帝国義勇艦隊建設費を寄附し、愛国婦人会に尽力し賞状を授かった。このほか、日露戦争の功により勲四等旭日小綬章を受章した。 1899年(明治32年)石川県多額納税者として補欠選挙で貴族院議員に互選され、同年7月11日から1904年(明治37年)9月28日まで務めた。
遠山 景三(とおやま かげぞう、1852年(嘉永5年) - … 遠山 景三(とおやま かげぞう、1852年(嘉永5年) - 1922年(大正11年))は、日本の政治家。青森県八戸町長。 八戸城下に生まれる。藩学校に学んだ後に、東京の小川町にあった東京法学校(現在の法政大学)に学び、八戸に帰郷した。 1893年(明治26年)から1907年(明治40年)まで八戸町長を務める。1911年(明治44年)には青森県会副議長、1919年(大正8年)に青森県会議長となる。八戸町長の座を北村益に譲った後も強い影響力を持っていた。 八戸町長時代は時鐘を偶数時に鳴らし、町民に時を知らせていたといわれる。 県会議長時代には県会議員の人員改正、工業試験費などの予算を可決している。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。
河村 藤四郎(かわむら とうしろう、1852年(嘉永5年) … 河村 藤四郎(かわむら とうしろう、1852年(嘉永5年) - 1929年(昭和3年)4月)は、佐賀県出身の政治家・実業家。藩末期から明治にかけて唐津の教育、政治、経済界で幅広く活躍した。長兄は初代唐津村長の河村如壽(河村家四代目当主)。唐津市初代の市長河村嘉一郎は藤四郎の長男。 唐津藩士で奉行職(普請小奉行)を勤めた河村如茂(河村家三代目当主)の三男として生まれる。 少年時代、陽明学派の一色耕造が開いた町田の一色塾に学び、後に多久の儒家草場佩川(はいせん)の長男草場船山(せんざん)の門に入った。その学業の優秀さが認められた藤四郎は、若年にもかかわらず、藩から食料を給された。次いで、長崎師範学校に学んだ藤四郎は上京し、1880年(明治14年)、岸本辰雄や西園寺公望らによって創立された明治法律学校(現在の明治大学)に入学、第1回生となった。
皆川 四郎(みながわ しろう、1852年 - 1911年)は… 皆川 四郎(みながわ しろう、1852年 - 1911年)は日本の実業家。旧姓は岩崎。幼名は馬之助。 信濃国伊那郡中村(現長野県飯田市)に生まれ、飯田城下の皆川家の養子となる。維新後に上京し、安井息軒に師事した後、代言人となったが実業界に転身する。 代言人時代は、明治12年に植木鋼二郎と京橋区銀座四丁目十五番地に法律事務所を開き、その翌年明治13年、司法省附属代言人 星亨の組合加入に対し、楠木鋼二郎、田村成義などと反対運動を展開した。また、明治11年、幕末の豪商伊藤八兵衛の八女信子と結婚する。信子の姉は渋沢栄一の妻兼子で、この結婚により渋沢ファミリーの団体竜門社の一員となった。 その後明治15年4月 長野県警部兼典獄(警部長に次ぎ監獄係としては最高責任者)として長野県警に入り、6月に警部長となる。
川村 矯一郎(かわむら きょういちろう、嘉永5年(1852年… 川村 矯一郎(かわむら きょういちろう、嘉永5年(1852年) - 明治24年(1890年)1月)は、明治時代の篤志家、自由民権運動家。静岡監獄副典獄(副刑務所長)。政治犯として入獄していた際に金原明善と出会い、後に明善とともに出所者の保護事業に参画し、近代日本における更生保護の発展に寄与した人物として知られる。 1852年(嘉永5年)、中津藩の下級武士の子として生まれる。国学者・水戸学者である渡辺重石丸が主催する私塾・道生館にて、後に国学者となる増田宋太郎らとともに学び、尊王攘夷思想を持つようになる。増田とは終生の盟友であり、明治維新後も自由民権運動に共に携わることとなる。 自由民権運動では増田とともに1874年(明治7年)に政治結社『共憂社』を創設し、1875年(明治8年)には大阪の愛国社会議にも出席していた。
清水 粲蔵(しみず さんぞう、1852年(嘉永5年2月) -… 清水 粲蔵(しみず さんぞう、1852年(嘉永5年2月) - 1895年(明治28年)11月29日)は、明治時代の政治家。教育者。衆議院議員(1期)。 清水金六の子として美濃大垣藩領安八郡上開発村(岐阜県安八郡和合村を経て現大垣市)に生まれ、のち清水又市の養嗣子となる。京都に遊学したのち、吉田秀穀に漢学を学び、大垣藩儒の員野村煥の門に入った。1876年(明治9年)岐阜師範学校を卒業し、同校助教授となる。岐阜伊奈波学校に転じたのち教職を辞し、1880年(明治13年)岐阜県属となった。1882年(明治15年)岐阜県会議員に当選し、同常置委員などを歴任した。 1890年(明治23年)7月の第1回衆議院議員総選挙では岐阜県第2区から出馬し当選。
吉村 英徴(よしむら えいちょう、1852年(嘉永5年7月)… 吉村 英徴(よしむら えいちょう、1852年(嘉永5年7月)– 1916年(大正5年)1月30日)は、明治から大正初期の医師、政治家。衆議院議員。旧姓・菅沼、号・鉄幹。 紀伊国有田郡、のちの和歌山県有田郡湯浅町で菅沼家の第二子として生まれ、17歳で吉村家を相続した。和歌山県漢学授読を務め、ドイツ語学を修めた。 1880年(明治13年)京都療病院医学校(現京都府立医科大学)を卒業し、同病院医局詰、同看頭を務めた。1881年(明治14年)濱口梧陵の勧めで有田郡広村(広町を経て現広川町)で有田郡私立那耆病院を開業し院長に就任した。その他、有田郡医、地方衛生会委員、有田郡産婆及び看護婦養成所教授、有田郡医師会長などを務めた。
鮫島 晋(さめじま しん、1852年(嘉永5年) - 191… 鮫島 晋(さめじま しん、1852年(嘉永5年) - 1917年(大正6年)12月9日)は、明治、大正時代の理学士。東京物理学講習所(現在の東京理科大学)の設立者の一人。 酒好きで純朴、誠実で不器用な人柄で教師の仕事に熱心であったとされる。 1899年(明治32年)から6年間、小諸義塾の教師仲間に島崎藤村がおり、藤村の『千曲川のスケッチ』、『千曲川旅情の詩』、『貧しい理学士』などに鮫島が描かれた。 他の物理学校設立発起人が、日本の物理学草創期を飾る学者・教育者としてそれぞれ功成り名遂げたのと対照的に、田舎教師として生き貧窮のうちに死去した。晩年には物理学校関係者と連絡を絶っており、その死は他の発起人に知らされることもなく、したがって東京理大の校史においても発起人21名のうち彼の経歴だけが長い間不明になっていた。
大石 廉(おおいし すなお、1852年(嘉永5年9月)- 1… 大石 廉(おおいし すなお、1852年(嘉永5年9月)- 1910年(明治43年)7月26日)は、明治期の農業経営者、政治家。衆議院議員、岡山県磐梨郡可真村長。 備前国磐梨郡弥上村(岡山県磐梨郡可真村、赤磐郡可真村、熊山町を経て現赤磐市弥上)で、誠太の二男として生れた。漢学、仏式兵学を修めた。岡山藩第3兵団予備隊機械弾薬掛、同藩第3大隊2番小隊半隊長心得、同第3大隊長を務めた。その後、里正に就任。 1877年(明治10年)第3区務所戸長に就任。以後、磐梨郡書記、同郡第7部戸長を務めた。1889年(明治22年)初代可真村長に就任し1895年(明治28年)まで在任した。1892年(明治25年)岡山県会議員に当選。
樺山 資美(かばやま すけよし、1852年(嘉永5年3月) … 樺山 資美(かばやま すけよし、1852年(嘉永5年3月) - 1897年(明治30年)2月16日)は、明治時代の政治家。衆議院議員(1期)。 薩摩国鹿児島郡鹿児島城下(現鹿児島県鹿児島市)出身。私学校に学ぶ。西南戦争に従軍した。のち河野主一郎らとともに政治結社三州社を創立し、同社長となり政治教育や殖産に尽くした。 1890年(明治23年)4月、鹿児島県会議員に選出された。1890年(明治23年)7月の第1回衆議院議員総選挙では鹿児島県第1区から出馬し当選。弥生倶楽部に所属し衆議院議員を1期務めた。1892年(明治25年)2月、第2回衆議院議員総選挙(鹿児島県第1区、自由党)では、官憲からの選挙干渉を受けて次点で落選した
高岡 忠郷(たかおか たださと、1852年(嘉永4年12月)… 高岡 忠郷(たかおか たださと、1852年(嘉永4年12月) - 1922年(大正11年)3月26日)は、明治時代の政治家、実業家。衆議院議員(3期)。 越後国蒲原郡別所村(新潟県中蒲原郡十全村、村松町を経て、現五泉市別所)に生まれる。大肝煎の兄・永三の跡を継いだ。 石油採掘および精製業に従事し、1897年(明治30年)5月、新津礦油を創立し社長に就任した。ほか、沼垂銀行取締役を務めた。 早くから自由民権運動に加わり、地方自治においては、十全村会議員、十全村長、新潟県会議員、同議長を歴任した。一時期、友人大竹貫一の意見を受けて中蒲原郡のため中立派に属した以外は、自由党系に所属して活動した。 1890年(明治23年)7月の第1回衆議院議員総選挙では新潟県第3区から出馬し当選。
本間 直(ほんま ちょく、1852年(嘉永5年11月) - … 本間 直(ほんま ちょく、1852年(嘉永5年11月) - 1919年(大正8年)12月12日)は、明治時代の政治家、実業家、銀行家。衆議院議員(3期)。 佐渡国雑太郡、のちの新潟県雑太郡国中村(佐渡郡国中村、新穂村および畑野村(畑野町)を経て現佐渡市)に生まれる。幼くして浮屠氏の門に入り清水寺の住職圓明に従い仏典を修める。のち大和国式上郡初瀬村(式上郡初瀬町、磯城郡初瀬町、現奈良県桜井市初瀬)にある真言宗豊山派総本山の長谷寺に托し修学する。教導となり、本官権訓導、権少講義を経て、1881年(明治14年)還俗し、的場弥三郎と共に初瀬に紡績工場を興した。その後、初瀬村長、初瀬町会議員、同町長を歴任した。
鈴木 麟三(すずき りんぞう、1852年(嘉永5年7月) -… 鈴木 麟三(すずき りんぞう、1852年(嘉永5年7月) - 1904年(明治37年)6月27日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 三河国八名郡能登瀬村(現・愛知県新城市)に生まれる。和学と漢学を学び、その後上京し医科予備門に入り、医学を学ぶが、父の死により帰郷する。その後は能登瀬村戸長、八名郡会議員、愛知県会議員などを歴任する。県議時代は別所街道の整備に尽力した。ほかに当時出された愛知県の東西分県案に対し、県内の西高東低の状況を嘆き、尾張と三河の一体性を理由に反対して撤回させた。1890年の第1回衆議院議員総選挙において愛知県第11区(当時)から立候補するが、151票で落選する(3位)。
佐藤 忠望(さとう ただもち/ちゅうぼう、1852年(嘉永5… 佐藤 忠望(さとう ただもち/ちゅうぼう、1852年(嘉永5年2月)- 1904年(明治37年)5月11日)は、明治時代の政治家。衆議院議員(2期)。 のちの福島県伊達郡小国村(霊山町を経て現伊達市)出身。漢学を修めたのち小学校訓導、小国村会議員を歴任する。1883年(明治16年)2月、福島県会議員に当選。県令三島通庸の施政に反対の立場を示し、対立した。1886年(明治19年)3月、蚕糸業組合取引所が設立されると同頭取に就任し、中央本部常議員にも挙げられた。1887年(明治20年)2月、同中央部会議員となり、同年第二高等中学校設置委員会が発足すると同委員に当選した。また同年、猪狩真琴、三浦信六とともに岩磐組合を設立し、のち無限責任小国購買組合(日本初の信用組合)を立ち上げ同組合長となった。
松尾 又雄(まつお またお、1852年(嘉永5年11月)- … 松尾 又雄(まつお またお、1852年(嘉永5年11月)- 1901年(明治34年)8月9日)は、明治期の銀行家、政治家。衆議院議員。 肥後国玉名郡、のちの熊本県玉名郡伊倉村(伊倉町を経て現玉名市)で、豪族、熊本藩士の家に生まれた。 熊本県警部となる。熊本県会議員に選出された。1895年(明治28年)玉名銀行が設立され頭取に就任。また、肥後農工銀行取締役も務めた。 1898年(明治31年)8月、第6回衆議院議員総選挙(熊本県第2区、無所属)で当選し、衆議院議員に1期在任した。議員在任中の1901年8月に死去した。
坂部 広織(さかべ ひろおり、1852年(嘉永5年8月) -… 坂部 広織(さかべ ひろおり、1852年(嘉永5年8月) - 1917年(大正6年)7月16日)は、日本の政治家。徳島市長。 徳島藩の中老である坂部功崇の息子として名東郡助任町(現在の徳島市助任本町)で生まれる。 後に名東勝浦郡役所書記を経て徳島市助役となり、初代徳島市長である井上高格の右腕として、徳島市創設当時の市政に妥配を振るった。 1890年(明治23年)に2代目となる徳島市長に就任、1896年(明治29年)まで6年間務めた。 1917年(大正6年)7月16日、66歳で没する。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
小山 保政(こやま やすまさ、1852年(嘉永5年) - 1… 小山 保政(こやま やすまさ、1852年(嘉永5年) - 1899年(明治32年)8月23日)は、明治期の鉄道技術者。 1852年(嘉永5年) - 近江国伊香郡小山村(現在の滋賀県長浜市)で出生、幼名五郎。東京市芝区三田綱町(現・東京都港区三田)に居住する。鉄道技師として領有後の台湾で、既設の台北~新竹間の鉄道路線の調査や縦貫鉄道建設のため現場の調査を行う。明治32年8月台南~打狗の路線調査中、乗車していた人力軽便鉄道の顛覆事故により負傷し台湾総督府台南医院にて死亡する。同じく台湾総督府鉄道の技師である小山三郎は子息。 この項目は、台湾に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:台湾 / P:アジア)。
柴原 政太郎(しばはら まさたろう、1852年(嘉永5年1月… 柴原 政太郎(しばはら まさたろう、1852年(嘉永5年1月)- 1940年(昭和15年)4月25日)は、明治から昭和時代前期の政治家、実業家。製塩家。衆議院議員(1期)。 志賀源作の三男として備前岡山藩領和気郡(のちの岡山県和気郡片上町、備前町を経て現備前市)に生まれ、1870年(明治3年)9月、赤穂郡塩屋村(兵庫県赤穂郡赤穂町を経て現赤穂市)の柴原政右衛門の死跡を相続する。漢学を修める。製塩業を営む。1871年(明治4年)赤穂郡の塩田取締となり、1874年(明治7年)戸長に就任する。郡内7箇村戸長に挙げられるが、1883年(明治16年)5月に脳充血により職を辞した。ほか、赤穂鉄道社長、同相談役を歴任した。
立川 興(たちかわ さかん、1852年(嘉永5年10月)- … 立川 興(たちかわ さかん、1852年(嘉永5年10月)- 1906年(明治39年)11月25日)は、明治時代の政治家、銀行家、醸造家。衆議院議員(2期)。 水戸藩の郷士・立川直行の子として常陸国久慈郡太田村(茨城県久慈郡太田町を経て現常陸太田市)に生まれる。父直行は辰介と称していたが次郎左衛門と改名し、金嶺と号した。天保3年正月3日、久慈郡和久村の和田長四郎の長男として生まれ、叔父で常陸太田の豪商の立川邦章の養子となった。藩主徳川斉昭が江戸駒込邸に幽閉されると、同志と共に江戸に向かい斉昭の名誉回復に務め、その後も幕末の志士として奮闘し資金援助を行った。文久3年に里正となり、維新後は戸長を務め、太田銀行を創立し頭取となり、第百四国立銀行の取締役などを務めた。
加藤 淳造(かとう じゅんぞう、1852年(嘉永5年3月) … 加藤 淳造(かとう じゅんぞう、1852年(嘉永5年3月) - 1914年(大正3年)10月10日)は、日本の医師。政治家、衆議院議員(1期)。 安房国平郡(のち千葉県安房郡平群村→富山町、現・南房総市)生まれ。海軍軍医寮で学ぶ。千葉県立千葉病院医学校医員となる。千葉県会議員、安房外三郡医師会長を務めた。 1892年の第2回衆議院議員総選挙において千葉8区から弥生倶楽部所属で立候補して当選する。衆議院議員を1期務め、1894年3月の第3回衆議院議員総選挙は不出馬。1914年に死去した。
佐々木 善右衛門(ささき ぜんうえもん/ ぜんえもん、185… 佐々木 善右衛門(ささき ぜんうえもん/ ぜんえもん、1852年(嘉永5年1月) - 1917年(大正6年)8月16日)は、明治時代の政治家、実業家。衆議院議員(2期)。幼名は猪太郎。 出雲国能義郡荒島村(現島根県安来市)に生まれる。生家は代々商業を営んだ。和漢学を修めた。1881年(明治14年)島根県会議員に当選し、ついで常置委員となり、副議長を兼任した。1884年(明治17年)任期満了ののち、再度県会議員に再選される。ほか、地方衛生会委員を務めた。 1890年(明治23年)7月の第1回衆議院議員総選挙では島根県第2区から出馬し当選。つづく第2回総選挙でも当選した。 1890年、松江日報社の設立に参画し総代となる。
山辺 丈夫(やまのべ たけお、1851年12月30日〈嘉永4… 山辺 丈夫(やまのべ たけお、1851年12月30日〈嘉永4年12月8日〉 - 1920年〈大正9年〉5月14日)は、日本の武士(津和野藩士)、明治期の紡績技師・実業家。従五位。 東洋紡(東証プライム)の創業者である。 嘉永4年(1851年)、石見国津和野城下の森町堀内にて津和野藩重臣・清水格亮(大目付、側用人を歴任し、明治維新後は権大参事を務めた)の二男として生まれる。幼名は虎槌または善蔵で、後に丈夫と改めた。4歳の時に同藩士の山辺正義の養子となる。 津和野潘の藩校であった養老館に学んだ後、1870年(明治3年)に藩の奨学制度によって文学修行の命を受け上京。当初は同藩出身の福羽美静の培達塾で学んでいたが、元来洋学を志していたため、西周の育英舎や中村敬宇の英学同人舎に移り英語や洋学を学んだ。
9代 吉野 周太郎(よしの しゅうたろう、1851年12月2… 9代 吉野 周太郎(よしの しゅうたろう、1851年12月24日(嘉永4年12月2日)- 1911年(明治44年)8月2日)は、明治期の実業家、政治家。貴族院多額納税者議員。幼名・九八郎。 陸奥国信夫郡八島田村(福島県信夫郡野田村、吾妻町を経て現:福島市八島田。当時は越後新発田藩の領地。)に於いて名主吉野安兵衛の四男として生まれる。兄・周太郎の死後に9代周太郎を襲名し、1898年(明治31年)4月に家督を相続した。 1897年(明治30年)以降、第百七国立銀行取締役、同頭取などを務めた。1904年(明治37年)9月29日、貴族院多額納税者議員に任じられ、 1911年8月、在任中に死去した。
瀧川 辨三(たきがわ べんぞう、嘉永4年11月21日(185… 瀧川 辨三(たきがわ べんぞう、嘉永4年11月21日(1851年12月13日) - 大正14年(1925年)1月12日)は、日本の実業家、政治家。 1884年、神戸で興したマッチ製造会社(精燧社)が成功、精燧社は数々の会社を吸収して東洋燐寸株式会社と改名し、辨三は「日本のマッチ王」と呼ばれるようになる。神戸のガス・水道・電気・築港などの公共事業にも参画した。神戸商工会議所会頭、貴族院多額納税者議員(1915年1月21日 - 1918年9月28日)などを歴任し1925年没。享年75。 嘉永4年(1851年)11月21日長府藩士瀧川清の二男として生まれた(戸籍では兵庫県平民)。幼名は百十郎、通称は武熊。
尾形 兵太郎(おがた ひょうたろう、嘉永4年11月14日(1… 尾形 兵太郎(おがた ひょうたろう、嘉永4年11月14日(1851年12月6日)- 昭和9年(1934年)1月4日)は、衆議院議員(憲政本党)、弁護士。 岡山藩士尾形徳蔵の長男として岡山城下上内田町(現在の岡山市北区)に生まれる。岡山藩藩学で漢学を学んだ後、1865年(元治2年)に岡山兵学館に入り、洋式兵学を学んだ。1870年(明治3年)、兵学三等教授に就任するが、翌年の廃藩置県で藩兵が廃止されるとともに、兵学館も閉鎖となった。1876年(明治9年)、代言人制度の発足とともに代言人の免許を取得し、岡山で開業した。翌年、神戸に移り、さらに1881年(明治14年)に大阪に移った。 憲政本党に入党し、機関紙『関西週報』の発行にあたった。
能川 登(のがわ のぼる、1851年12月5日(嘉永4年11… 能川 登(のがわ のぼる、1851年12月5日(嘉永4年11月13日)- 1910年(明治43年)4月7日)は、明治期の実業家、政治家。衆議院議員。幼名・辰太郎。号・西京農夫。 加賀国石川郡本吉町(金沢県石川郡美川町、石川県石川郡美川町を経て現白山市美川本吉町)で、船主・能川太平治の長男として生まれる。金沢の叔父・畑春斎宅に寄寓し漢学を修めた。13歳で帰郷し、郷校開道館・素読教師、加賀藩銃卒取締、駅逓取締を務めた。1879年(明治12年)家督を相続。 1874年(明治7年)大阪に出て法学を研究し、1877年(明治8年)京都に移り、草場船山に師事し漢学を修めた。1878年(明治9年)9月、京都米商会所の創立委員として上京し、政府に出願をしたが許可を得られなかったため、内務卿大久保利通に面会して允許の内諭を得て帰京した。
奥宮 正治(おくみや まさはる、嘉永4年11月12日(185… 奥宮 正治(おくみや まさはる、嘉永4年11月12日(1851年12月4日) - 1927年(昭和2年)7月20日)は、明治時代の司法官僚。大審院検事。宮城控訴院検事長。幼名は猪左馬。 奥宮慥斎の長男として土佐高知藩領土佐郡布師田村(現高知市布師田)に生まれる。1873年(明治6年)司法省に出仕する。1881年(明治14年)検事に進み、1890年(明治23年)広島地方裁判所検事正となり、神戸地方裁判所検事正、横浜地方裁判所検事正を歴任し、1896年(明治29年)司法書記官に任じた。1899年(明治32年)大審院検事となり、のち宮城控訴院検事長に就任した。
栗野 慎一郎(くりの しんいちろう、嘉永4年11月7日(18… 栗野 慎一郎(くりの しんいちろう、嘉永4年11月7日(1851年11月29日) - 昭和12年(1937年)11月15日)は、明治・大正期の日本の外交官。初代駐フランス特命全権大使。
二代目 中村 翫右衛門(なかむら かんえもん、嘉永4年10月… 二代目 中村 翫右衛門(なかむら かんえもん、嘉永4年10月14日〈1851年11月7日〉 - 1919年〈大正8年〉4月27日)は歌舞伎俳優。本名、三井 梅之助。初名、初代中村梅之助、梅雀から1913年中村翫右衛門と改名。4代目市川門之助、4代目中村芝翫の門弟。三代目中村翫右衛門は次男金次郎。屋号、駒村屋。 故郷は本庄で、長兄の中村芝三郎、次兄の梅三郎とともに深谷で地方歌舞伎の劇団「児桜座」を組み、旅回りなどをしていた。明治初期に20代で一座を離れて上京し、浅草の小芝居小屋「柳盛座」の役者となり、中村梅雀を名乗る。人気役者として柳盛座座長を務め、39歳のときに、東京市下谷区竹町で小間物の行商していた三井鋳三郎の娘婿となった。
井田 武雄(いだ たけお、嘉永4年10月8日(1851年11… 井田 武雄(いだ たけお、嘉永4年10月8日(1851年11月1日) - 昭和8年(1933年)5月22日)は、日本の医師、実業家、政治運動家。号は陸舟。鳥取県西伯郡中浜村(現在の境港市)出身。四谷病院、後楽堂医院長。東京府平民。 井田義枝の次男として生まれた。 慶応元年(1865年)長崎に出て長崎養生所(現・長崎大学医学部)に学び、蘭方医学を修めた。 明治7年(1874年)長崎養生所を出た。明治10年(1877年)の西南戦争に警視庁医員として従軍し功をたてる。明治11年(1878年)海軍軍医に転じ、軍艦「鳳翔号」軍医として朝鮮に派遣され、朝鮮人の診療に活躍した。 帰国後海軍を辞し、養神病院長となり、明教生命保険の設立計画をした。
根本 正(ねもと しょう、1851年10月25日(嘉永4年1… 根本 正(ねもと しょう、1851年10月25日(嘉永4年10月1日) - 1933年(昭和8年)1月5日)は、幕末の水戸藩士、明治・大正時代の衆議院議員。帝国教育会東京府会員、殖民協会幹事などを歴任し、1898年(明治31年)第5回総選挙以降、連続当選10回。未成年者喫煙禁止法・未成年者飲酒禁止法を提唱し、国民教育授業料全廃の建議、水郡線鉄道建設に関する建議等と共に成立させた。 常陸国那珂郡東木倉村(現・茨城県那珂市)の村役人の家に生まれ、祖父・半次衛門に読み書きを習い、1860年(万延元年)には神職・佐川伊予之介の塾に入って漢籍を学ぶ。1863年(文久3年)、親族の彰考館総裁・豊田天功の門人となって水戸学を学び、翌1864年(元治元年)の天功死後にはその息子・小太郎に仕えた。
木村 格之輔(きむら かくのすけ、嘉永4年9月23日(185… 木村 格之輔(きむら かくのすけ、嘉永4年9月23日(1851年10月17日) - 大正5年(1916年)7月18日)は、日本の衆議院議員(立憲改進党→憲政党→憲政本党→立憲国民党)、弁護士。 常陸国河内郡手代木村(現在の茨城県つくば市)に中島幸右衛門の二男として生まれ、木村久治の養子となった。漢学・法律学を学び、1881年(明治14年)、代言人試験に合格し、新治郡土浦町(現在の土浦市)に事務所を開いた。また破産管財人も務めた。 1892年(明治25年)からは県議を務め、1894年(明治27年)、新治郡から第4回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第10回衆議院議員総選挙まで7期連続当選を果たした。
椎名 秀胤(しいな ひでたね、1851年10月13日(嘉永4… 椎名 秀胤(しいな ひでたね、1851年10月13日(嘉永4年9月19日) - 1912年(明治44年)4月4日)は、日本の文筆家・漢文学者・実業家。筆名・雅号は南浦。海運業などで活躍した明治の実業家の一人。『南浦遺集』という書名はこの雅号に由来する。 子孫には、実業家で元日本鉱業株式会社の役員・椎名芳胤、音楽家・文筆家の菊村紀彦、元奥州大学(現・富士大学)教授で近代日本の図書館学等に貢献した椎名六郎らがいる。日本鉱業は新日鉱ホールディングスへと受け継がれ、日立製作所や日産自動車を生んだ第二次世界大戦前の新興財閥、日産コンツェルンの源流となった企業の一つであった。 讃岐高松(現在の香川県高松市)にある石清尾八幡宮の宮司・岡田秀高の次男として生まれる。
鹿野 勇之進(かの ゆうのしん、1851年10月8日(嘉永4… 鹿野 勇之進(かの ゆうのしん、1851年10月8日(嘉永4年9月14日) - 1914年(大正3年)4月7日)は、日本の海軍軍人、政治家、華族。海軍中将正四位勲二等功三級男爵。貴族院議員。 信濃国松代藩士鹿野外守泰敬の子。明治4年(1871年)9月、海軍兵学寮(5期)に入学。1879年(明治12年)9月、海軍少尉任官。1885年(明治18年)9月、「筑波」分隊長となり、海軍兵学校教授兼生徒分隊長、「扶桑」分隊長、海軍大学校副官、海軍参謀部第1課員などを経て、1890年(明治23年)10月、海軍少佐に昇進。 1891年(明治24年)4月、「松島」回航事務取扱委員、同副長、練習船「干珠」艦長、横須賀水雷隊攻撃部司令などを歴任し、日清戦争では「西京丸」艦長として出征した。
小泉 吉太郎(こいずみ きちたろう、1851年10月1日〈嘉… 小泉 吉太郎(こいずみ きちたろう、1851年10月1日〈嘉永4年9月7日〉 - 1895年〈明治28年〉6月22日)は、日本の政治家。初代秋田市長。 久保田藩士小泉七郎右衛門の長男に生まれる。戊辰戦争に参加し、由利方面の戦闘で負傷する。1872年(明治5年)、上京し有馬私学校で学ぶ。1874年(明治7年)夏に一度秋田に戻るが、秋に再び上京し、北州舎で学ぶ。1876年(明治9年)、父の死により秋田に戻り、秋田県庁に務める。1884年(明治17年)、士族授産団体秋田社を創立し、社長となる。1889年(明治22年)4月、市制施行により秋田市が発足、市会議員選挙を経て、5月13日に市長に選出され、27日に正式に就任した。
東尾 平太郎(ひがしお へいたろう、1851年10月1日(嘉… 東尾 平太郎(ひがしお へいたろう、1851年10月1日(嘉永4年9月7日)- 1919年(大正8年)10月8日)は、明治時代の政治家、実業家。衆議院議員(7期)。 和泉伯太藩領志紀郡林村(大阪府志紀郡沢田村、南河内郡道明寺村、道明寺町、藤井寺道明寺町、美陵町を経て現藤井寺市)の豪農の家に生まれる。漢学を修める。1881年(明治14年)3月、大阪府会議員に当選。同常置委員、同郡部会委員を歴任する。ほか、大阪府農学校(のちの大阪獣医畜産専門学校、浪速大学を経て現大阪府立大学)長、大阪府農会会頭、パリ大博覧会評議員、高野鉄道社長などを務めた。 1890年(明治23年)7月の第1回衆議院議員総選挙では大阪府第7区から出馬し当選。