原 澄斎(はら ちょうさい、嘉永3年(1850年)- 明治3… 原 澄斎(はら ちょうさい、嘉永3年(1850年)- 明治36年(1903年))は、日本の医師。旧姓大淵。 元長崎医専教授原正の養父。 伯耆日野郡印賀村(現鳥取県日南町)に大淵一馬の子として生まれた。母里藩の藩医であった原順庵の養子に入って医術を学んだ。 明治7年(1874年)、適塾に入った。養父順庵は廃藩後間もなく、鳥取県会見郡彦名村(現米子市彦名町)に移って医業をしたと伝えられ、澄斎も帰郷後彦名村で、その医業を継いだ。原家には明治十年陸軍軍医総監の押印のある医師免許状が残されているので、或は西南戦争に従軍していたのかもしれない。 明治19年(1886年)、会見郡医師組合の設立に努力しており、その地方で医術が優れているので評判であったという。
印東 玄得(いんどう げんとく、1850年(嘉永3年) - … 印東 玄得(いんどう げんとく、1850年(嘉永3年) - 1895年(明治28年)11月25日)は、幕末から明治にかけての医学者。東京大学助教授。 1850年、紀伊新宮生まれ。本姓は坪井で、後に印東氏を継いだ。東京に出て、大学東校に入る。 1876年、東京医学校卒業。准医学士となり、薬物学に長ず。 1879年、東京帝国大学助教を拝命。1881年頃、助教授に任じ、1884年10月に花岡院長の没後を継いで第一医院副院長心得となり、1887年10月に医学士の称号を授与される。阿部泰蔵等と明治生命保険を創立、その保険医となる。1895年11月25日、東京に没す。墓所は台東区の祝言寺。
芦川 貫一郎(あしかわ かんいちろう 1850年代? - 1… 芦川 貫一郎(あしかわ かんいちろう 1850年代? - 1927年)は、日本の地方政治家。稲城村の村長を務めた。 稲城村の村長の中で唯一、肖像画が存在しない。 神奈川県南多摩郡大丸村出身。1889年に稲城村制執行の際、初代収入役に就任する。1897年1月20日に村長になるも、同年10月22日に病気のため辞任。その後も村会議員を務め、1921年に引退した。 1927年に亡くなったとされる[要出典]。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
江島 久米雄(えじま / えしま くめお、1850年(嘉永3… 江島 久米雄(えじま / えしま くめお、1850年(嘉永3年2月)- 1933年(昭和8年)3月18日)は、明治から大正期の政治家。衆議院議員。本名・粂雄。 豊前国宇佐郡南宇佐村(大分県宇佐郡宇佐町を経て現宇佐市南宇佐)で、農業・江島茂兵衛の長男として生まれる。1872年(明治5年)中津の白石照山塾に入り、1876年(明治9年)郡立宇佐中学校を卒業した。 連合町村会議員、所得税調査委員、宇佐郡会議員、同議長代理者などを務めた。1879年(明治12年)に上京したが、1880年(明治13年)大分県会議員に当選したため帰郷し、1894年(明治27年)まで在任。この間、1889年(明治22年)と1893年(明治26年)に県会副議長となり、同常置委員、同参事会員も務めた。
肥田木 基昌(ひだき もとよし、1850年(嘉永3年8月)-… 肥田木 基昌(ひだき もとよし、1850年(嘉永3年8月)- 1906年(明治39年)5月10日)は、明治期の政治家。衆議院議員、宮崎県西諸県郡飯野村長。 日向国諸県郡飯野郷大明司村(宮崎県北諸県郡飯野郷大明司村、西諸県郡飯野郷大明司村、飯野村大字大明司、飯野町、えびの町を経て現えびの市大明司)で生まれた。漢学を修めた。 飯野村長、飯野村会議員、宮崎県会議員を務めた。1894年(明治27年)9月、第4回衆議院議員総選挙(宮崎県第2区、自由党)で当選し、衆議院議員に1期在任した。
三浦 信六(みうら しんろく、1850年(嘉永3年7月)- … 三浦 信六(みうら しんろく、1850年(嘉永3年7月)- 1897年(明治30年)9月19日)は、明治期の政治家。衆議院議員、福島県耶麻郡加納村長。 陸奥国耶麻郡上野村(福島県耶麻郡米岡村、加納村、熱塩加納村を経て現喜多方市熱塩加納町米岡上野)で、肝煎(庄屋)三浦嶺八の息子として生まれる。日新館で学び、その後江戸に出て昌平坂学問所で学んだ。 1881年(明治14年)頃から自由民権運動に加わり、同年5月、会津地方有志大親睦会で座長となり、自由党会津支部の創設に尽力し、1882年(明治15年)2月に同支部常任委員に就任。同年12月、福島県会議員に選出され、三島通庸県令反対派であったが、会津三方道路問題には関与しなかった。
中田 長茂(なかた ながしげ、1850年(嘉永3年7月) -… 中田 長茂(なかた ながしげ、1850年(嘉永3年7月) - 1929年(昭和4年)1月3日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 近江国高島郡勝野村(のち滋賀県高島郡大溝村→大溝町→高島町、現・高島市)生まれ。漢学を学ぶ。高島郡書記、滋賀県属、滋賀県会議員、同参事会員、所得税調査委員、地方森林会議員、地方衛生会委員、近江銀行取締役、滋賀県農工銀行監査役、近江貯蓄銀行頭取となる。 1892年の第2回衆議院議員総選挙において滋賀1区から同盟倶楽部所属で立候補したが落選した。1894年3月の第3回衆議院議員総選挙では立憲革新党所属で立候補して当選する。同年9月の第4回衆議院議員総選挙で落選した。衆議院議員は1期務め、1929年に死去した。
一瀬 代蔵(いちせ だいぞう、1850年〈嘉永3年〉 - 1… 一瀬 代蔵(いちせ だいぞう、1850年〈嘉永3年〉 - 1920年〈大正9年〉)は、日本の政治家。福井県大飯郡青郷村長(第3代)。勲等は勲七等。 青郷村(現・高浜町)関屋生まれ。1884年(明治17年)7月に小和田村ほか8ヶ村の戸長となった。1891年(明治24年)5月1日から1894年(明治27年)2月16日まで青郷村助役を、同月17日から1906年(明治39年)2月22日まで第3代青郷村村長を務めた。在任中は小学校の建設をした。名誉職郡参事会員である。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
三遊亭 圓鶴(さんゆうてい えんかく、1850年 - 190… 三遊亭 圓鶴(さんゆうてい えんかく、1850年 - 1901年9月21日)は、武州所沢(現:埼玉県所沢市)出身の落語家。本名は倉片順六。兄は同じ落語家の三遊一朝。 明治初期に兄と同じ三遊亭圓朝の下に入門して、兄が名乗った三遊亭勢朝を名乗り、1877年ころに圓鶴と改名する。 1901年9月21日盲腸で死去。享年51。亡くなる直前『噺家は自分一代で沢山、子孫は落語家になってはいけない』と遺言と『亡き父の月と変らぬ死出の旅』と言う辞世の句を残した。 なお、一朝は圓鶴よりも長寿であり、圓鶴が死去してから29年後の1930年に亡くなった。一朝は圓朝一門でも最も長寿であった。 長男助次郎は父の遺言に背向き4代目橘家圓蔵門下で落語家になり、鶴蔵を名乗ったが、前座で廃業した。
小川 虎一(おがわ とらいち、1850年(嘉永3年9月) -… 小川 虎一(おがわ とらいち、1850年(嘉永3年9月) - 1916年(大正5年)5月4日)は、日本の政治家、衆議院議員(2期)。 肥前国彼杵郡長浦村(のち長崎県西彼杵郡長浦村、琴浦村、琴浦町を経て現長崎市)生まれ。大村藩校五教館で学ぶ。長浦村戸長、同村長、長崎県会議員となる。 1894年(明治27)12月、家永芳彦の辞職による第4回衆議院議員総選挙補欠選挙で長崎1区から立候補して初当選した。続く1898年(明治31年)3月の第5回総選挙では立憲自由党公認で立候補して再選した。衆議院議員を2期務め、同年8月の第6回総選挙は不出馬。1916年に死去した。
小幡 英之助(おばた えいのすけ、嘉永3年(1850年) -… 小幡 英之助(おばた えいのすけ、嘉永3年(1850年) - 1909年(明治42年)4月26日)は、日本最初の歯科医師。豊前国中津(現・大分県中津市)出身。 中津藩甲州流軍学師範役・小幡孫兵衛の長男で、慶應義塾塾長となった小幡篤次郎の従弟。 藩校・進脩館に学び、15歳で元服して藩大砲方に加わり長州戦争で初陣。1869年(明治2年)20歳で上京、叔父・小幡篤次郎を頼って芝新銭座の慶應義塾に入り、さらに同郷出身の医師・佐野諒元について医学を修め、次いで近藤良薫について横浜で外科を習得。 米国人歯科医師セント・ジョージ・エリオットから西洋式の最新歯科技術と知識を学び、1874年(明治7年)医制の公布の後、第1回目の医術開業試験に「歯科」として受験し合格した。
安倍 慎太郎(あべ しんたろう、1850年(嘉永3年)- 1… 安倍 慎太郎(あべ しんたろう、1850年(嘉永3年)- 1882年(明治15年)10月10日)は、日本の政治家。 1850年、安倍英任の長男として長門国大津郡蔵小田村(現:山口県長門市油谷蔵小田)に生まれ、安倍家中興の祖と評される。安倍家は江戸時代に大庄屋を務め、酒と醤油の醸造を営む大地主であり、地元の名門として知られた豪家である。慎太郎は明治12年(1879年)の第1回山口県議会議員選挙に当選、中央政界入りを狙うも明治15年(1882年)10月10日に32歳で死去した。 安倍慎太郎には直系が育たなかったため、妹のタメが郡内で名門として知られる椋木(むくのき)家から彪助を婿養子に迎える。彪助はタメとの間に一人息子・安倍寛を儲けた。
源 晟(みなもと あきら、1850年(嘉永3年8月) - 1… 源 晟(みなもと あきら、1850年(嘉永3年8月) - 1918年(大正7年)9月29日)は、明治時代の政治家。自由民権運動家。弁護士。日本ハリストス正教会洗礼者(霊名パウェル)。衆議院議員(2期)。旧姓・河原木。幼名は滝蔵。 八戸藩士。祐筆を務めた河原木弥兵衛の九男に生まれる。藩学校で漢学や洋学を修めたのち明治維新前後は八戸藩学二等寮長となり、1871(明治 4)年5月に東京に遊学した。1872年(明治5年)壬申戸籍編成の時、八戸に伝わる義経伝説にちなんで、源晟と姓名を改める。 21歳で代言人となったのち、公娼廃止運動や救貧運動的な考えを持ちギリシャ正教に傾倒する。1876年(明治9年)陸奥国八戸光栄会を設置し関春茂や久保忠勝(のち鮫村長)らと共に沢辺琢磨より八戸初の洗礼を受ける。
古屋 満寿(ふるや ます、1850年〈嘉永3年〉 - 190… 古屋 満寿(ふるや ます、1850年〈嘉永3年〉 - 1907年〈明治40年〉3月19日)は、日本の商人・慈善家。東京都銀座の百貨店である松屋の前身の1つ、鶴屋呉服店を、夫の古屋徳兵衛(1849年〈嘉永2年〉4月10日 - 1911年〈明治44年〉7月30日)と共に創業し、松屋の黎明期を支えた人物の1人である。出生名は牛山 とみ。甲斐国巨摩郡(後の山梨県)下教来石村出身。東北地方が飢饉に見舞われた際、白米を入れた袋を「同情袋」と名付けて多数送るなど、慈善事業を行なった。 下教来石村の村長である牛山半左衛門(牛山慶長)の長女として誕生した。1869年(明治2年)2月、隣村の巨摩郡上教来石村出身の古屋徳兵衛と、質素な祝言を挙げた。
豊田 元良(とよだ もとよし、1850年(嘉永3年) - 1… 豊田 元良(とよだ もとよし、1850年(嘉永3年) - 1915年(大正4年)5月17日)は、日本の政治家。香川県丸亀市初代市長。香川県会議員。旧姓は高畑。名は元良。号は柳南又萍舟。 讃岐・丸亀の高畑家に生まれ、後琴平の豊田家を嗣ぐ。尾池松湾に学んで詩書を得意とした。大いに吏才があり、始め戸長、県会議員となり、次いで仲多度郡長、三豊郡長を歴任し、最後に市制実施第1期の丸亀市長となったが、まもなく辞めて公共事業に尽力した。 世間の人たちは豊田のことを否定的に「大言壮語の卸問屋」、「絶大突飛の空想家」とみなしていた。細心綿密の人ではなかった。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。
長井 松太郎(ながい まつたろう、1850年(嘉永3年7月)… 長井 松太郎(ながい まつたろう、1850年(嘉永3年7月)- 1892年(明治25年)8月10日)は、明治前期の政治家。衆議院議員、広島県会議長。 備後国御調郡、のちの広島県御調郡貢村(糸崎町を経て現三原市)で生れた。漢学、武術を修めた。 東野村里正、木原村里正、御調郡書記、広島県会議員、同常置委員、同副議長、同議長を務めた。日本赤十字社常議員にも在任した。 1890年(明治23年)7月、第1回衆議院議員総選挙(広島県第7区、無所属)では次点で落選したが、1892年(明治25年)2月の第2回総選挙(広島県第7区、 中央交渉会)では当選した。しかし、1期目在任中の同年8月に肺病により死去した。
児玉 仲児(こだま ちゅうじ、嘉永2年11月14日(1849… 児玉 仲児(こだま ちゅうじ、嘉永2年11月14日(1849年12月28日) - 明治42年(1909年)1月24日)は、和歌山県の民権家、官吏、衆議院議員(3期)、大日本水産会名誉会員。 紀伊国那賀郡中山村(粉河村、粉河町を経て現紀の川市)生まれ。同窓に濱口梧陵、陸奥宗光など。 はじめ、森田節斎について漢学を学び、京阪の鴻儒について文学を修める。明治6年(1873年)に慶應義塾に入学し、卒業後に大蔵省記録局(13等)に出仕。のちに辞して自由民権運動に参加。明治9年(1876年)の地租改正について、和歌山県令・神山郡廉に提出した建白書を発端にして、「粉河騒動」の端緒となる。 明治10年(1877年)陸奥宗光の協力により、粉河に風猛学校を設立し、翌年に自由民権の結社・実学社、木国同友会を率いる。
矢板 武(やいた たけし、1849年12月28日(嘉永2年1… 矢板 武(やいた たけし、1849年12月28日(嘉永2年11月14日) - 1922年(大正11年)3月22日)は下野国・栃木県の実業家。那須疏水の開削で知られる。 下野国塩谷郡矢板村(現・栃木県矢板市)の坂巻家に長男として生まれる。出生名は坂巻七五郎(さかまき しちごろう)。後に武兵衛(ぶへえ)と名を改めた。 1866年(慶応2年) に矢板村組頭、明治維新を経て1869年(明治2年) に矢板村名主となる。翌年、黒崎七郎右衛の娘ハマと結婚。この頃、矢板武と改名する。 1872年(明治5年) 宇都宮県五大区六小区副戸長、1873年に栃木県第三大区四小区副戸長、1874年に郵便取扱役、1875年に第三大区三小区区長となる。
河目 正平(かわめ しょうへい、1849年12月26日(嘉永… 河目 正平(かわめ しょうへい、1849年12月26日(嘉永2年11月12日) - 1890年(明治23年)8月6日)は、三河国碧海郡熊村(現在の愛知県刈谷市)出身の教育者。 刈谷市熊野町の安養寺には石碑「河目正平先生之碑」がある。 1849年(嘉永2年)11月12日、河目正平は三河国碧海郡熊村(現在の愛知県刈谷市)に生まれた。幼名は幸太郎であり、後に源吾と称し、やがて正平に改めた。 刈谷藩の藩校である文礼館の教師を務めていた。明治維新期の1870年(明治3年)7月、刈谷藩の命で大垣藩に遊学し、帰郷すると刈谷学校(現・刈谷市立亀城小学校)、熊村学校、高浜学校(現・高浜市立高浜小学校)、野田学校(現・刈谷市立双葉小学校)で教員を務めた。
16代 木村 庄之助(じゅうろくだい きむら しょうのすけ、… 16代 木村 庄之助(じゅうろくだい きむら しょうのすけ、嘉永2年11月12日〈1849年12月26日〉 - 明治45年〈1912年〉1月6日)は、大相撲の立行司。本名は柘→大家→柘新助。出身地は、現在の愛知県豊橋市。 吉田船町(現・豊橋市船町)で煮売屋の長男として生まれる。田舎相撲の強豪だった父親の影響で相撲に興味を持つが、体格に恵まれなかったため行司として研鑽を積むようになる。 安政6年(1859年)秋、吉田で江戸相撲の興行があり、その折に3代目清見潟に預けられ入門。13代庄之助に師事し、元治元年(1864年)4月に木村新介の名で初めて番付に載った。明治4年(1871年)4月に、3代木村龍五郎を襲名。
乃木 希典(のぎ まれすけ、1849年12月25日〈嘉永2年… 乃木 希典(のぎ まれすけ、1849年12月25日〈嘉永2年11月11日〉- 1912年〈大正元年〉9月13日)は、日本の陸軍軍人。日露戦争において旅順攻囲戦を指揮したことで知られる。戦後は明治天皇より第10代学習院長に任じられ、迪宮裕仁親王(昭和天皇)の教育係も務めたが、明治天皇の大喪の礼の当日に妻共々自刃した。人々から「乃木大将」や「乃木将軍」と呼ばれて深く敬愛され、「乃木神社」や「乃木坂」にも名前を残している。最終階級は陸軍大将。栄典は贈正二位勲一等功一級伯爵。 幼名は無人(なきと)で、その後、源三と改め、頼時とも称した。後、文蔵、次いで希典と名を改めた。また、出雲源氏佐々木氏の子孫と称したことから「源希典」との署名もよく用いた。
美澤 進(みさわ すすむ、1849年12月24日(嘉永2年1… 美澤 進(みさわ すすむ、1849年12月24日(嘉永2年11月10日) - 1923年(大正12年)9月16日)は日本の教育者。Y校の愛称で知られる横浜商法学校の初代校長であり、死没するその日まで同職を40年以上勤め続けた。字は業卿。 備中国三沢村(後の岡山県高梁市川上町三沢)の生まれ。遠祖は宇多源氏とされる。父・三村繁八郎、母・於美津の6人兄弟の長男で幼名を徳太郎という。実家は代々庄屋を務めて酒造りを行い、成羽藩藩外の豪士として名字帯刀を許された家柄であったが、家業の酒造りの失敗や父と叔父による鉱山投資の失敗で貧困に喘いでいた。美澤は学問での立身を志し、満12歳の1862年(文久2年)に興譲館へ入学。
宇佐川 一正(うさがわ かずまさ、1849年12月24日〈嘉… 宇佐川 一正(うさがわ かずまさ、1849年12月24日〈嘉永2年11月10日〉- 1927年〈昭和2年〉11月10日)は、明治から昭和初期の日本陸軍の軍人、政治家、華族。最終階級は陸軍中将。貴族院男爵議員。 長州藩士・藤村太郎右衛門の四男として生まれ、宇佐川久平の養子となる。伏水教導隊に入り、下士官試補、権曹長、曹長と昇進し、1874年(明治7年)6月、陸軍戸山学校を卒業し、翌月、歩兵少尉に任官。以後、歩兵第14連隊付となり、1877年(明治10年)2月、西南戦争に出征した。歩兵第24連隊大隊副官、歩兵第1旅団参謀、同副官、近衛歩兵第1旅団副官、第1師団参謀、歩兵第17連隊付、監軍部副官、近衛師団参謀などを歴任し、日清戦争には第1軍参謀として出征し、田村怡与造の後任として同軍参謀副長となった。
織田 惣三郎(おだ そうざぶろう、1849年12月17日(嘉… 織田 惣三郎(おだ そうざぶろう、1849年12月17日(嘉永2年11月3日) - 1957年(昭和32年)3月28日)は、かつて男性長寿日本一であった福井県の男性。 1849年石川県(加賀国)能美郡白峰村に生まれ、88歳までそこで暮らすが、1934年の大水害により福井県勝山市平泉寺町に移住する。 100歳ぐらいまでは草刈りなどをし、106歳時点でも酒を3合程度飲んでいた。父は92歳、母は84歳、兄弟も80~90歳代まで生きた長寿の家系であった。 1956年9月時点では国内最高齢男性とされ、子は5人のうち2人が存命でひ孫まで合わせて19人であった。 1957年3月28日、老衰のため107歳で死去。
桂 弥一(かつら やいち、嘉永2年(1849年)12月10日… 桂 弥一(かつら やいち、嘉永2年(1849年)12月10日 – 昭和14年(1939年)6月19日)は、幕末から明治・昭和初期にかけての長府藩士、維新志士、牧畜事業家。諱は孝俊。初め季澄と名乗る。維新後は牧畜・開墾事業を通じて公共に尽力し、没後に従六位を追贈された。 嘉永2年(1849年)12月10日、長府藩士桂助左衛門久澄の子として長府に生まれる。父は12代桂土左衛門(大江久澄)、母は原田則朗(金弥)の娘で、末子であった。幼少期は8歳で三吉幸之助・土生静馬に書画・読書を学び、11歳より山田易之助・井上源三郎に師事して小笠原流を修めた。12歳のとき、のちの大将乃木希典(当時は乃木無人)とともに菅文達に学び、漢籍の素養を身につけた。
塩田 奥造(鹽田、しおだ おくぞう、1849年11月29日(… 塩田 奥造(鹽田、しおだ おくぞう、1849年11月29日(嘉永2年10月15日) - 1927年(昭和2年)2月6日)は、明治から昭和初期の実業家、政治家。衆議院議員。 下野国都賀郡、のちの栃木県下都賀郡吹上村(現栃木市吹上町)で、郷士、大庄屋・塩田嘉門の長男として生まれる。吹上藩の明倫学校で学んだ。 1871年(明治4年)廃藩置県に際して事務取扱となる。以後、吹上外三十二カ村区長、下都賀郡学区取締などを務めた。1880年(明治13年)11月、横堀三子と共に芳賀郡外の総代として国会開設請願書を提出し、同年12月、栃木県会議員に選出され、1882年(明治15年)7月、常置委員に就任。1884年(明治17年)加波山事件では犯人逃亡幇助の罪で検挙され六箇月入獄した。
越智 彦四郎(おち ひこしろう、嘉永2年10月12日(184… 越智 彦四郎(おち ひこしろう、嘉永2年10月12日(1849年11月26日) - 明治10年(1877年)5月1日)は、幕末の筑前福岡藩士、勤皇家、自由民権運動家。 福岡藩士・井土佐平太の次男として生まれる。藩校修猷館に学ぶ。維新後に分家し越智姓を名乗る。 戊辰戦争では皇軍の福岡藩軍に属し、大砲隊長・根本源五左衛門のもとで東北地方に転戦し功を挙げ、賞典禄を受ける。その後、高場乱の興志塾に学び、ここで同志となる武部小四郎や、後に玄洋社を設立する箱田六輔、進藤喜平太、奈良原至、宮川太一郎、頭山満らと出会う。 1874年2月、江藤新平が挙兵した佐賀の乱に際し、博多に来ていた内務卿大久保利通に面会して調停を申し出たが、かえって大久保と児玉源太郎に鎮撫行動を要請され、政府軍の鎮撫隊の小隊長として箱田、宮川ら450名余を率いて佐賀に入った。
家永 芳彦(いえなが よしひこ、1849年11月24日(嘉永… 家永 芳彦(いえなが よしひこ、1849年11月24日(嘉永2年10月10日) - 1913年(大正2年)8月5日)は、明治から大正時代の政治家、弁護士。自由民権運動家。新聞経営者。衆議院議員(3期)。 佐賀藩士。肥前国佐賀郡西田代町(現佐賀市)生まれ。安政3年(1856年)に藩校弘道館に入り漢学を修める。戊辰戦争に従軍し奥羽で戦傷を受けた。明治維新後、佐賀藩中学校(のち佐賀中学校、現・佐賀県立佐賀西高等学校)寮監を務めたのち明治5年(1872年)上京、江藤新平宅に寄寓し、漢学およびドイツ語を修めた。江藤と共に帰郷後、明治7年(1874年)の佐賀の乱で戦った。その後、兄の家永恭種が同志と共に興した政治結社「松風社」に参加し民権の発揚を訴え、明治8年(1875年)同社の長崎支社の支社長となり、1878年(明治11年)長崎上等裁判所より代言人の免許を得る。
原田 二郎(はらだ じろう、嘉永2年10月10日〈1849年… 原田 二郎(はらだ じろう、嘉永2年10月10日〈1849年11月24日〉 - 昭和5年〈1930年〉5月5日)は、日本の実業家・篤志家。伊勢国松阪(現・三重県松阪市)出身。公益財団法人原田積善会の創設者。歌人としての号は原田嘉朝、詩人としての号は原田均斎。 嘉永2年10月10日(1849年11月24日)、伊勢国松阪城下の同心町(現・三重県松阪市殿町)に生まれた。父は東谷小平次の四男である清一郎、母は田中彦左衛門の長女である時雨子であり、いずれも原田家に養子に入った人物である。幼名は徳松であり、上京する頃までこの名前を用いた。原田家は下級武士の家であるが、徳松は文武両道に秀でており、14歳だった文久2年(1862年)には松阪学問所から褒章を受けている。
浅井 洌(あさい れつ / きよし、嘉永2年10月10日(1… 浅井 洌(あさい れつ / きよし、嘉永2年10月10日(1849年11月24日) - 昭和13年(1938年)2月27日)は幕末期日本の武士(松本藩士)、明治から昭和初期にかけての教育者。若い時代には自由民権運動家としての活動があった。また、現在でも長野県で広く歌われている県歌「信濃の国」の作詞者として知られる。 旧制中学教員などをへて、1886年(明治19年)長野師範学校教諭となる。1899年(明治32年)『信濃教育会雑誌』に「信濃の国」を発表、北村季晴の作曲により県下で広く歌われるようになる。1918年(大正7年)に70歳で退職するまで長野師範教諭を務め、さらに嘱託として1926年(大正15年)6月まで40年間にわたって師範教育に尽くした。
左右田 金作(そうだ きんさく、1849年11月23日(嘉永… 左右田 金作(そうだ きんさく、1849年11月23日(嘉永2年10月9日) - 1915年(大正4年)3月26日)は、幕末から大正時代の政治家、実業家、銀行家。貴族院多額納税者議員。開港した横浜で両替商を始めて成功し、銀行を興した。 越後の豪農を祖とする左右田金兵衛の二男として、上野国緑野郡鬼石村(群馬県緑野郡鬼石町、多野郡鬼石町を経て現藤岡市鬼石)に生まれる。左右田信二郎の義兄。1872年(明治5年)1月、分家する。 高崎の染絹問屋、鬼石の酒造業者などで奉公したのち、1863年(文久3年)13歳の時、横浜に移り、蚕糸商中里商店で働いたが製糸家を目指して帰郷するも種紙の製造に失敗し、再び横浜に出て、空びん回収や露天商で糊口をしのぐうち、衣類の質入れで作った金で1867年に両替商(ドル屋)「松野屋」を開く。
高木 兼寛(たかき かねひろ、嘉永2年9月15日〈1849年… 高木 兼寛(たかき かねひろ、嘉永2年9月15日〈1849年10月30日〉 - 大正9年〈1920年〉4月13日)は、日本の海軍軍人、最終階級は海軍軍医総監(少将相当)。医学博士。男爵。東京慈恵会医科大学の創設者。 生誕の地である宮崎では「ビタミンの父」と紹介している。また、「よこすか海軍カレー」では、脚気対策として海軍の兵食改革を行った際にカレーを取り入れた人物とみなしている。 薩摩藩郷士・高木喜助兼次の長男として日向国諸県郡穆佐郷(現:宮崎県宮崎市高岡町小山田)に生まれた。通称は藤四郎。穆園と号した。 18歳のときから薩摩藩蘭方医の石神良策に師事し、戊辰戦争の際には薩摩藩兵の軍医として従軍した。
12代 上柳 喜右衛門(うえやなぎ / うえやぎ きうえもん… 12代 上柳 喜右衛門(うえやなぎ / うえやぎ きうえもん、1849年10月26日(嘉永2年9月11日)- 1923年(大正12年)9月2日)は、日本の地主・実業家・政治家。衆議院議員、長野県下伊那郡飯田町長。旧名・久嗣、幼名・益太郎。 信濃国伊那郡飯田伝馬町(長野県下伊那郡飯田町を経て現飯田市伝馬町)で、酒造業・10代上柳喜右衛門の二男として生まれる。和漢学、算術を修めた。兄・喜一(久休〈ひさしげ〉、11代喜右衛門)の養子となり、その後、12代喜右衛門を襲名した。 1879年(明治12年)飯田町会議員に選出され(8期在任)、1891年(明治24年)下伊那郡会議員(2期在任)、1899年(明治32年)飯田町長(2期在任)にそれぞれ選出された。
稲垣 示(いながき しめす、嘉永2年8月20日(1849年1… 稲垣 示(いながき しめす、嘉永2年8月20日(1849年10月6日) - 明治35年(1902年)8月9日)は、明治時代の政治家。衆議院議員。幼名は恒太郎。号は虎岳(こがく)。 越中国射水郡棚田村(後に富山県射水郡二口村、大門町を経て現在の射水市)出身。野上文山らに学び、明治維新後は新川県小学校教員講習所・石川県農業講習所に学ぶ。 板垣退助に呼応して自由民権運動に参加して、明治13年(1880年)に愛国社第4回大会に参加、高岡にて政治結社「北立社」を結成する。翌年の自由党結成に参加、明治15年(1882年)1月には北立社を自由党支部である「北立自由党」へ改組して瑞龍寺において結党大会を開いた。
山内 吉郎兵衛(吉郎兵衞、やまうち きちろべえ、1849年1… 山内 吉郎兵衛(吉郎兵衞、やまうち きちろべえ、1849年10月4日〈嘉永2年8月18日〉 - 1927年〈昭和2年〉8月21日)は、日本の弁護士。政治家、衆議院議員(1期)。諱は春正。 備後国恵蘇郡本郷村(のち広島県比婆郡山内西村、現・庄原市)生まれ。国学と仏学を学ぶ。村吏、広島藩御用掛、戸長、学区取締、地租改正郡代議員、小区及び村総代、地租改正郡米価選定委員を経る。また、代言人となる。広島県会議員、同副議長、同議長、地方衛生委員、検疫委員を務めた。 1898年3月の第5回衆議院議員総選挙において広島9区からで自由党公認で立候補したが17票差で落選した。同年8月の第6回衆議院議員総選挙で憲政党から立候補して当選する。
松永 雄樹(まつなが ゆうじゅ、嘉永2年8月18日(1849… 松永 雄樹(まつなが ゆうじゅ、嘉永2年8月18日(1849年10月4日) - 大正15年(1926年)11月3日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将正四位勲二等功四級。高知県平民。 戦国武将松永久秀の末裔。 土佐国高岡郡新居村(現高知県土佐市)で生まれた。松永眞斎の二男。 1874年(明治7年)11月、海軍兵学校(海軍兵学寮、2期)を卒業し、少尉補任官。1890年(明治23年)「海門」艦長となり、以後、海軍省第1局第2課長、軍務局第1課長などを歴任し日清戦争を迎えた。 1895年(明治28年)、「松島」艦長に着任し、さらに「厳島」艦長、「鎮遠」艦長、呉鎮守府司令官、駐英造兵監督長、佐世保鎮守府艦隊司令官、横須賀鎮守府艦政部長、海軍教育本部長を歴任した。
大久保 諶之丞(おおくぼ じんのじょう、1849年10月2日… 大久保 諶之丞(おおくぼ じんのじょう、1849年10月2日(嘉永2年8月16日) - 1891年(明治24年)12月14日)は、明治期日本の政治家。明治初期に四国新道(現在の国道32号、国道33号等の前身)・香川用水・瀬戸大橋を提唱したことで知られる。 尽誠学園の創始者大久保彦三郎は実弟。 1849年10月2日(嘉永2年8月16日)、讃岐国三野郡財田上村戸川(現在の香川県三豊市財田町財田上字戸川)の大地主であった大久保森冶の三男として生まれる。1872年(明治5年)5月財田村吏員、その後郡吏員等を経て、1888年(明治21年)に愛媛県会議員、翌年、香川県が愛媛県から分離したことに伴い香川県会議員となる。
池田 惟貞(いけだ これさだ、1849年9月26日(嘉永2年… 池田 惟貞(いけだ これさだ、1849年9月26日(嘉永2年8月10日) - 1929年(昭和4年)10月1日)は、明治から大正期の養蚕家、政治家。衆議院議員(3期)。旧姓・溝口。 薩摩国出水郡出水郷武本村(鹿児島県出水郡上出水村、出水町を経て現出水市武本)で、薩摩藩郷士・溝口庄兵衛の四男として生れ、1866年(慶応2年)池田家の養嗣子となった。漢学を修めた。蚕糸業に従事する。 戊辰戦争後、大阪に留まっていたが帰藩を命ぜられた。1869年(明治2年)郷立撥奮館の教師となる。出水郡役所書記などを経て、1881年(明治14年)4月、鹿児島県会議員に選出され4期在任し、同副議長、地方森林会議員も務めた。
北条 元利(きたじょう もととし、1849年9月21日(嘉永… 北条 元利(きたじょう もととし、1849年9月21日(嘉永2年8月5日)- 1905年(明治38年)7月26日)は、幕末の米沢藩士、明治期の裁判官・検察官。官選岩手県知事。位階は従四位、勲等は勲三等。旧名・河村徳次。 出羽国置賜郡米沢館山口町(現:山形県米沢市)で米沢藩士・河村徳友の二男として生まれ、万延元年(1860年)北条源四郎と「はる」の養子となる。戊辰戦争では、振勇隊士官として板谷峠防禦陣地の構築に従事した。 明治4年(1871年)上京して築地の明治協會学院に入学しドイツ語を学ぶ。明治政府に出仕し、明治5年4月4日(1872年5月10日)東京府権区長に就任。その後、警視庁で権中警部などを務めた。
石坂 専之助(專之助、いしさか / いしざか せんのすけ、1… 石坂 専之助(專之助、いしさか / いしざか せんのすけ、1849年9月14日(嘉永2年7月28日)- 1915年(大正4年)10月6日)は、明治期の教育者、公吏、政治家。衆議院議員、富山県会議長。旧姓・嵯峨。 越中国新川郡東岩瀬村(石川県新川郡東岩瀬村、富山県上新川郡東岩瀬町を経て現富山市)の伝馬問屋・嵯峨健寿の三男として、金沢十三間町(現金沢市)で生まれた。その後、新川郡栗山村(中新川郡早月加積村栗山、滑川町を経て現滑川市 )の石坂太郎左衛門の養子となる。 1869年(明治2年)大学南校に入学。卒業後、大学少助教、慶應義塾教授、文部省出仕、同人社教授を歴任したが、1877年(明治10年)病のため帰郷した。
田中 数之助(數之助、たなか かずのすけ、1849年9月10… 田中 数之助(數之助、たなか かずのすけ、1849年9月10日(嘉永元年8月13日)- 1924年(大正13年)4月7日)は、明治から大正期の酒造家、実業家、政治家。衆議院議員、京都府南桑田郡亀岡町長。旧姓・原田。 丹波国桑田郡西条村(京都府南桑田郡曽我部村字西条を経て現亀岡市曽我部町西条)で、大地主、農業・原田八六の二男として生まれる。1869年(明治2年4月)桑田郡亀岡北町(現:亀岡市北町)の田中蔵一の養子となり、1872年(明治5年2月)分家して安町(現:亀岡市安町)に一家を構えた。 その後、通称「新酒屋」と称される酒造業を営み、銘酒「天狗」の販売で知られた。1888年(明治21年)南桑田郡酒造組合長に就任し31年間在任。
北原 信綱(きたはら のぶつな、嘉永2年9月(1849年) … 北原 信綱(きたはら のぶつな、嘉永2年9月(1849年) - 明治34年(1901年)11月4日)は、日本の政治家(衆議院議員、長野県会議員)。初名は森太郎、通称は東五郎、諱は信允。 信濃国伊那郡座光寺村(現長野県飯田市)の庄屋北原稲雄の長男に生まれる。父に倣い、平田篤胤の没後門人となる。明治元年(1868年)の戊辰戦争では鎮撫副総督澤為量に従軍して奥羽地方を転戦した。翌年帰郷し、官軍から太刀一振りと金若干を賜り、信濃飯田藩主堀親広から士族に列せられた。同6年(1873年)村戸長、学校学事掛となり、同9年(1876年)名古屋裁判所に出仕し、翌年(1877年)山梨県属となったが、辞職し帰郷した。
大平 安三(おおひら やすぞう、1849年9月または10月(… 大平 安三(おおひら やすぞう、1849年9月または10月(嘉永2年8月)- 1915年)は、日本の地方政治家。東京都八王子市の前身に当たる東京府(1893年3月までは神奈川県)八王子町長を務めた。 1893年に刊行された『三多摩人物評』によると、嘉永2年(1849年)8月に八王子八日町の旧家に生まれ、通称を新造と称した。漢学のほか、井上頼圀に国学を学んだとされる。慶応の時期には農兵の小隊を率いたという。華道や茶道、狂歌に通じ、一時期は家督を嗣子に譲っていたが、1877年に小区の総代に任命された。1884年に町会議員となる。 1891年12月26日、平林定兵衛の後を継いで第2代町長になる。 在任中の1893年4月に、八王子町が所属していた南多摩郡を含む三多摩地域は神奈川県から東京府に移管された。
多勢 亀五郎(たせ かめごろう、1849年8月31日(嘉永2… 多勢 亀五郎(たせ かめごろう、1849年8月31日(嘉永2年7月14日)- 1919年(大正8年)6月9日)は、明治から大正前期の実業家、政治家。貴族院多額納税者議員。蚕糸業功労者。山形県における機械製糸業の先駆者であり、世界的人気を博した生糸ブランド「羽前エキストラ」の生みの親として知られる。 出羽国置賜郡漆山村(山形県東置賜郡漆山村、宮内町を経て現・南陽市漆山)で、資産家である3代目・多勢長兵衛の三男として生まれる。1858年(安政5年)2月に分家した。 明治維新後、日本の主要輸出品であった生糸の品質向上のため、兄の4代目・多勢長兵衛とともに先進技術の導入に奔走する。1872年(明治5年)に設立された官営の富岡製糸場を視察して機械製糸の技術を習得し、1873年(明治6年)には漆山に初の機械製糸工場を建設した。
磯部 亀吉(いそべ かめきち、嘉永2年7月10日(1849年… 磯部 亀吉(いそべ かめきち、嘉永2年7月10日(1849年8月27日) - 明治26年(1893年)11月29日)は、明治時代、滋賀県旧神崎郡(のちの八日市市、現在の東近江市)選出の県会議員。 磯部家は神崎郡上中村(現在の東近江市建部上中町)では裕福な家であった。明治21年11月から明治25年の間、県会議員に選出されている。上中村戸長から明治22年6月に建部村初代村長に就任する。当時の制度では村長は官吏ではなく官からの給与は支払われていなかった。 旧八日市市域選出の県会議員は市の規模と比較して少ないのは否めない。これは、当地域では政治性が希薄であったことによる。そういった中、磯部亀吉は当地域選出の議員としては非常に活躍した議員であった。
白井 久井(しらい ひさい、嘉永2年7月8日(1849年8月… 白井 久井(しらい ひさい、嘉永2年7月8日(1849年8月25日) - 大正元年(1912年)9月10日)は、婦人運動家、庄内婦人会会長。出羽国庄内(現在の山形県鶴岡市)出身。
塩川 幸次郎(しおかわ こうじろう、1849年8月8日〈嘉永… 塩川 幸次郎(しおかわ こうじろう、1849年8月8日〈嘉永2年6月20日〉 - 没年不明)は、日本の銀行家、篤農家、長野県の大地主、長野県多額納税者。佐久銀行監査役。族籍は長野県平民。 長野県北佐久郡三岡村(現・小諸市)出身。長野県平民・塩川幸左衛門の長男。阿部四之助、塩川幸太、塩川賢三、塩川三四郎の叔父である。農業を営み、大地主である。1887年、家督を相続する。佐久銀行監査役である。住所は長野県北佐久郡三岡村(現・小諸市)。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
古屋 善造(ふるや ぜんぞう、1849年8月6日(嘉永2年6… 古屋 善造(ふるや ぜんぞう、1849年8月6日(嘉永2年6月18日) - 1910年(明治43年)1月5日)は、明治時代の政治家、大地主、岐阜県多額納税者。衆議院議員(岐阜県郡部選出、当選1回)。岐阜県恵那郡大井村長、大井町長。族籍は岐阜県平民。 美濃国恵那郡、のちの岐阜県恵那郡大井町(現恵那市)に生まれる。尾張明倫堂に入り、漢学を学ぶ。 農業を営み、学区取締、恵那郡書記、岐阜県会議員、大井村長、大井町長などを務めた。 1903年(明治36年)3月の第8回衆議院議員総選挙では岐阜県郡部から出馬し当選。衆議院議員を1期務めた。中正倶楽部に所属した。
10代 桜井 三郎右衛門(櫻井 三郎右衛門、さくらい さぶろ… 10代 桜井 三郎右衛門(櫻井 三郎右衛門、さくらい さぶろうえもん、1849年7月31日〈嘉永2年6月12日〉 - 1908年〈明治41年〉1月27日)は明治時代の政治家、実業家、島根県の大地主。貴族院多額納税者議員。旧姓は神田。諱は直達。族籍は島根県平民。 出雲国神門郡下古志村(現・島根県出雲市下古志町)出身。神田猪蔵の三男。仁多郡上阿井村(現・奥出雲町上阿井)・桜井源兵衛の養子となる。 家業の製鉄は明治10年代に入ると、洋鉄の流入その他により経営が次第に苦しくなり、秦、絲原、田部の各鉄師と連盟して島根県に対して鉄山炉の経営資金拝借方を願い出たが、聞き入れられなかった。これにくじけず、施設の近代化に努力し地方製鉄業の模範となる改革を行う。
佐藤 正(さとう ただし、嘉永2年6月1日(1849年7月2… 佐藤 正(さとう ただし、嘉永2年6月1日(1849年7月20日) - 大正9年(1920年)4月27日)は、明治時代の陸軍軍人。階級は陸軍少将、位階は従二位功四級。広島県広島市出身。広島県平民。歩兵第18連隊長、第3代広島市長、宮中顧問官等を歴任する。