竹尾 彦九郎(たけお ひこくろう、天保10年8月10日〈18… 竹尾 彦九郎(たけお ひこくろう、天保10年8月10日〈1839年9月17日〉 - 1907年〈明治40年〉7月20日)は、江戸時代末から明治時代の政治家、篤農家、水利家。愛知県会議員を務め、牟呂用水の開発で知られる。 天保10年(1839年)、三河国八名郡賀茂村(現・愛知県豊橋市)に、竹尾新五左衛門茂幹の三男として生まれる。早くに両親を亡くしたため、叔父・竹尾茂樹に預けられたが、万延元年(1860年)に生家に戻った。明治維新後は戸長や八女郡書記を務めた。1882年(明治15年)愛知県会議員となる。 1884年(明治17年)7月賀茂報徳社を設立。隣接する萩平村の鈴木平五郎とともに牛馬耕の普及に努めた。
西森 源兵衛(にしもり げんべえ、旧姓・岡島、幼名・浅次郎、… 西森 源兵衛(にしもり げんべえ、旧姓・岡島、幼名・浅次郎、1839年9月〈天保10年8月〉 - 1917年〈大正6年〉)は、日本の商人(皮革商)、実業家、政治家。西浜倉庫社長。大阪府西成郡西浜町長。大阪府会議員。大阪市会議員。 淡路国(のち兵庫県津名郡志筑町、現淡路市)生まれ。幼時に西森家に入り養嗣子となる。養父没後家督を相続し襲名する。以来熱心に業務に従事する。 大阪府西成郡栄町戸長、西浜町会議員及び町長となり1897年に同町が大阪市に編入されると、以来区会、市会、府会に議員としてその席に列する。 日清戦争に際し、金100円を献じ木盃を賜る。遠州流生け花を嗜む。日本赤十字社終身社員、衆議院議員南区選挙有権者である。
沢原 為綱(澤原 爲綱、さわはら ためもと、1839年8月2… 沢原 為綱(澤原 爲綱、さわはら ためもと、1839年8月27日〈天保10年7月19日〉 - 1923年〈大正12年〉4月8日)は、日本の公共事業家、政治家、広島県多額納税者。貴族院多額納税者議員。崇徳銀行頭取。広島県農工銀行取締役。族籍は広島県平民。 安芸国安芸郡荘山田村(現・広島県呉市)の人である。農業を営む。広島県農工銀行の創立に関与する。1878年(明治11年)、安芸郡長に任ぜられる。ほか、同郡所得税調査委員などを務めた。 1890年(明治23年)、広島県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年9月29日から1897年(明治30年)9月28日まで在任した。貴族院在任中、大阪築港、小樽築港、広島市の上水道敷設などに尽力した。
福島 敬典(ふくしま たかのり/よしのり、天保10年7月22… 福島 敬典(ふくしま たかのり/よしのり、天保10年7月22日(1839年8月20日) - 明治29年(1896年)12月3日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。通称は弥太六。越前国敦賀藩出身。 天保10年(1839年)、越前国敦賀藩士・福島忠右衛門の第十一子として生まれる。 戊辰戦争では新政府軍の摂津艦に乗り組み、越後および箱館方面の戦いに転戦して軍功を挙げた。明治元年(1868年)1月には藩船「富有丸」により石炭を積載して敦賀へ回航し、同年10月に軍務局の命を受けて摂津艦に乗船、翌2年正月の函館戦争に参加した。同年8月には大阪丸艦長、11月には蝦夷地の流賊追討に従事し戦功を立てた。 明治維新後は海軍大尉となり、明治4年(1871年)11月20日に海軍少佐心得を命じられる。
佐々木 東洋(ささき とうよう、天保10年6月22日(183… 佐々木 東洋(ささき とうよう、天保10年6月22日(1839年8月1日) - 大正9年(1918年)10月9日)は、洋方医、内科医。 江戸本所生まれ。 佐倉順天堂で佐藤泰然、長崎でオランダ人医師ポンペに医学を学ぶ。 1861年に帰郷後、本所などで開業、その後は東京府病院副院長、博愛舎医師、大学東校病院長などを歴任。1877年西南戦争の際、大阪陸軍病院で軍医として診療。1878年、政府が脚気病院を設立、洋方医として診療に当たり、西洋医学が漢方医学に優ることを証明した。脚気病院閉鎖後、1882年神田駿河台に杏雲堂醫院を創立。1885年、石黒忠悳、長与専斎らと乙酉会を組織、医学制度について審議。1886年東京府医師会及び神田区医師会会長、内務省中央衛生会委員就任。
安西 徳兵衛(あんざい とくべえ、天保10年6月14日(18… 安西 徳兵衛(あんざい とくべえ、天保10年6月14日(1839年7月24日) - 大正2年(1913年)9月2日)は、日本の実業家、政治家。幕末から生糸貿易で財を成し、小野組でも活躍。横浜市会議員なども務めた。 1839年7月24日、安西彦惣の三男として、陸奥国二本松(現福島県二本松市)に生まれる。明治2年(1869年)3月に分家。明治3年(1870年)から横浜で生糸貿易業を行い成功。また、郷里福島の生糸生産改良をもくろみ、小野組と協力して二本松製紙工場を設立。後、小野組の整糸会社に入社。1885年に会社が解散すると、東京の弁天通りに生糸売込商店を開き、国内有数の生糸商となり、生糸輸出に貢献。
藤田 吉亨(ふじた よしはる / よしゆき、1839年7月1… 藤田 吉亨(ふじた よしはる / よしゆき、1839年7月18日(天保10年6月8日)- 1923年(大正12年)9月27日)は、幕末の大田原藩士、明治期の公吏・政治家。衆議院議員、栃木県那須郡大田原町長。旧姓・伊藤。幼名・銀之助。 下野国那須郡大田原城下(栃木県那須那大田原宿、大田原町を経て現大田原市)で、大田原藩士・伊藤買山(長貫)の末男(第五子)として生れ、同藩士・藤田六郎(吉一)の養子となる。大田原藩校で学んだ。同藩留守居添役、使番兼兼徒士頭、物頭兼寺社奉行を歴任。戊辰戦争で旧幕府方と戦闘を行う。その後、参政、少参事を務めた。 1871年(明治4年2月)神祇官に出仕し宣教使に就任。以後、宇都宮県学区取締、同県第五大区二小区戸長兼学校掛、栃木県第三大区一小区戸長を務めて帰郷。
根岸 武香(ねぎし たけか、天保10年5月15日(1839年… 根岸 武香(ねぎし たけか、天保10年5月15日(1839年6月25日) - 明治35年(1902年)12月3日)は、武蔵国大里郡冑山村(現在の熊谷市)出身の政治家、郷土史家。 幼名「新吉」、後に「伴七」と改めた。父は根岸友山。孫 根岸憲助の妻は横川重次妹。娘の岳父は雨宮敬次郎。 剣道を千葉周作、和漢学を寺門静軒、安藤野雁に学ぶ。明治12年(1879年)に埼玉県会開設と共に同議員に選出されて副議長となり、翌明治13年(1880年)から14年(1881年)まで第2代議長、明治23年(1890年)から25年(1892年)まで第10代議長を務め、明治27年(1894年)10月10日には補欠選挙で貴族院多額納税者議員に選出され、1897年(明治30年)9月28日まで在任した。
広瀬 久光(ひろせ ひさみつ、天保10年5月13日(1839… 広瀬 久光(ひろせ ひさみつ、天保10年5月13日(1839年6月23日) - 明治43年(1910年)8月11日)は山梨県の名望家、戸長、県会議員。 地域の戸長、区長などを歴任、また東山梨郡書記に任用されるなど、地方自治や農政の進展に貢献した。明治13年(1880年)から二期4年間、県会議員に在任活躍し、特に青梅街道の開発に最も力を注いでいた。また、自家の屋敷は「於曽屋敷」として昭和38年(1963年)9月9日に山梨県指定の史跡に指定されている。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
山口 尚芳(やまぐち ますか / なおよし / ひさよし、天… 山口 尚芳(やまぐち ますか / なおよし / ひさよし、天保10年5月11日〈1839年6月21日〉 - 1894年〈明治27年〉6月12日)は、日本の士族(佐賀藩士)、官僚、政治家。父は山口尚澄。通称は範蔵(はんぞう)、範造、範三、繁蔵。 「尚芳」の読みは「なおよし」とされることが一般だった。しかし、当時の官僚たちの履歴資料が『勅奏任官履歴原書』(国立公文書館所属)として1995年に刊行され、そこに載っていた読みが「ますか」であった。同資料は掲載された人々自身の閲読を経ていることから信頼性は高く、「ますか」の読みが併記されることが増えている。 幼少のころから佐賀藩武雄領主・鍋島茂義に将来性を見込まれ、佐賀藩主・鍋島直正(閑叟)の命令により、他の藩士子弟らとともに長崎に遊学し、オランダ語や英語を学んだ。
坂田 警軒(さかた けいけん、天保10年5月5日(1839年… 坂田 警軒(さかた けいけん、天保10年5月5日(1839年6月15日) - 明治32年(1899年)8月15日)は、明治期の漢学者、衆議院議員。名は丈、字は夫卿、初名は丈助、のち丈平。警軒または九邨と号した。 備中国川上郡九名村(現・岡山県井原市)に生まれる。阪谷朗廬の甥。嘉永6年(1853年)に藩校・興譲館で学び、都講まで進む。万延から肥後国に遊学し、木下犀潭に入門。井上毅・竹添進一郎と共に木門の三才と称されるようになった。慶応元年(1865年)に江戸に出て安井息軒に師事し、慶応3年(1867年)に帰郷して岡山藩家老池田氏の賓師から、明治元年(1868年)に阪谷朗廬の後をうけて第2代興譲館館長に就任。
松本 鼎(まつもと かなえ、1839年5月27日(天保10年… 松本 鼎(まつもと かなえ、1839年5月27日(天保10年4月15日) - 1907年(明治40年)10月20日)は、幕末の長州藩士、明治期の内務官僚・政治家。和歌山県知事、衆議院議員、貴族院議員、元老院議官、男爵。通称・鼎造。 周防国、現在の山口県防府市三田尻出身。生家は農家で仏門に入る。松下村塾に入り吉田松陰に学んだ。還俗し長州藩士となり、禁門の変に従軍し、敗戦後、御楯隊に加わった。第二次長州征伐、戊辰戦争に従軍。明治元年12月(1869年1 - 2月)、箱館府監事に就任。 明治4年2月28日(1871年4月17日)、大阪府大属となり、権典事、典事、権参事、小書記官、大書記官と昇進した。1878年8月、熊本県大書記官に転じ、さらに和歌山県大書記官を務めた。
小野 義眞(おの ぎしん / よしざね、1839年5月20日… 小野 義眞(おの ぎしん / よしざね、1839年5月20日〈天保10年4月8日〉 - 1905年〈明治38年〉5月9日)は、明治時代の実業家。通称は強一郎。従五位。岩村通俊、岩村高俊、林有造は従兄弟にあたる。 旧暦天保10年4月8日(1839年5月20日)、土佐藩宿毛(現高知県宿毛市)の大庄屋の家に生まれた。 慶応2年(1866年)宿毛領仕置役小頭として、大坂と宿毛の間を帆船「宿毛丸」で往来するようになった。慶応3年12月(1868年1月)には、高野山挙兵に参加した陸援隊士大江卓から金を調達して高野山へ送付するよう依頼されたという。 明治3年(1870年)、後藤象二郎が設立した商社蓬萊社の組合員となる。
中原 鄧州(なかはら とうしゅう、1839年5月15日〈天保… 中原 鄧州(なかはら とうしゅう、1839年5月15日〈天保10年4月3日〉 - 1925年〈大正14年〉2月12日)は、明治時代から大正時代にかけて活動した臨済宗の僧侶で、諱は全忠(ぜんちゅう)、別号として白崖窟(はっけいくつ)を持つが、広く南天棒(なんてんぼう)の異名で知られる。竹篦(警策)として常に南天の棒を携え、全国の禅道場を巡っては修行者を容赦なく殴打した明治時代屈指の豪僧として知られる。在家者への教導にも力を注ぎ、山岡鉄舟、乃木希典、児玉源太郎などが彼の影響を受けた。 天保10年4月3日、肥前国東松浦郡十人町(現在の佐賀県唐津市十人町)にて、唐津藩士塩田壽兵衛惟和と、同藩牧山氏の二女多喜子との子として生まれる。
松村 文次郎(まつむら ぶんじろう、1839年4月15日(天… 松村 文次郎(まつむら ぶんじろう、1839年4月15日(天保10年3月2日) - 1913年(大正2年)9月23日)は、明治時代の政治家、実業家。自由民権運動家。衆議院議員(2期)。 越後国刈羽郡柏崎村(現新潟県柏崎市)の町年寄の家に生まれた。原修斎に学び漢学を修めた。町年寄を務め、その後、柏崎県に出仕し学区取締に就任。1879年(明治12年)新潟県会議員に当選し、初代議長となった。ほか自由民権を唱え、北辰自由党に加わった。実業家としては柏崎活版印刷社長などを歴任した。1889年(明治22年)鈴木昌司、西潟為蔵、山際七司らと越佐同盟会を結成し評議員に就任。1890年(明治23年)6月に県会議員を辞職し、同年7月の第1回衆議院議員総選挙では新潟県第6区から出馬し当選。
司馬 凌海(しば りょうかい、天保10年2月28日(1839… 司馬 凌海(しば りょうかい、天保10年2月28日(1839年4月11日) - 明治12年(1879年)3月11日)は、医学者・言語学者。愛知医学校校長。佐渡島新町(現:新潟県佐渡市真野新町)生まれ。日本初の独和辞典を刊行した。 諱は盈之(みつゆき)、凌海は通称。他に、号に「揖軒」「無影樹下」「船楼」があった。本名は「司馬津」。 幼名、島倉伊之助(なお「島倉亥之助」の表記もある。弟に島倉家を譲り、司馬と改姓した。 語学の天才と言われ、独・英・蘭・仏・露・中の6か国語に通じていた。松本良順、ヨハネス・ポンペ・ファン・メーデルフォールトに師事していたことから、特に医学用語の日本語訳を多く作っている。
渡 正元(わたり まさもと、1839年3月8日(天保10年1… 渡 正元(わたり まさもと、1839年3月8日(天保10年1月23日 ) - 1924年(大正13年)1月29日)は、日本の官僚、政治家。元老院議官、貴族院勅選議員、正三位・勲二等、錦鶏間祗候。旧姓・田中[3]、諱・正範、旧名・六之助、六之介[4]。安芸国(現広島県)出身。
朝田 又七(あさだ またしち、1839年2月11日〈天保9年… 朝田 又七(あさだ またしち、1839年2月11日〈天保9年12月28日〉 - 1914年〈大正3年〉1月4日)は日本の実業家、政治家。貴族院多額納税者議員。旧姓・勘解由、旧名・甚吉。横浜市会議長。 三河国渥美郡、のちの愛知県渥美郡七根村(現豊橋市)で、漁農・勘解由甚四郎、りと子夫妻の二男として生まれる。吉田船町(現:豊橋市)の高橋小十郎回漕店に丁稚として奉公し、22歳で独立して下地町に肥料商を開業した。しかし資金繰りが滞り文化元年(1804年)に廃業した。その後、遠江国新居宿(現静岡県湖西市新居町新居)に移り肥料商・尾崎嘉右衛門家で働いた。文久元年(1861年)、肥料買付を主人に勧めて行ったところ多額の損失を蒙り、責任を感じて店を辞し横浜に移った。
武田 準平(たけだ じゅんぺい、1839年1月9日(天保9年… 武田 準平(たけだ じゅんぺい、1839年1月9日(天保9年11月24日) - 1882年(明治15年)1月2日)は、明治期の日本の医師、愛知県議会初代議長、自由民権運動家。民権結社、進取社副社長。明治生命保険(現・明治安田生命保険)創立者の阿部泰蔵は実弟。 1838年(天保9年)三河国八名郡下吉田村(現・愛知県新城市)の医者・豊田鉉剛の次男として生まれたが、18歳の時に、宝飯郡森村(現・豊川市)の武田家の養子となる。 江戸に出て、蘭方医の伊東玄朴が開いた象先堂に入門して医学を学び、1859年(安政6年)に宝飯郡森村に帰り開業する。その後、1869年(明治2年)修道館の教官となり、青少年の教育にも携わった。
大島 貞敏(おおしま さだとし、1839年1月8日(天保9年… 大島 貞敏(おおしま さだとし、1839年1月8日(天保9年11月23日) - 1918年(大正7年)4月15日)は、但馬国養父郡の旗本・大藪領主小出英道の家臣。明治時代の司法官僚。東京地方裁判所長、長崎控訴院検事長、大阪控訴院検事長。関西法律学校(のちの関西大学)の創立者の1人で名誉校員。 江戸、のちの東京市神田区錦町(現東京都千代田区神田錦町)に生まれる。但馬国養父郡の旗本・大薮領小出英道(播磨守)の家臣であった父・大島貞薫に従い、小出家の江戸屋敷に勤番し、幕末の混乱期には江戸と大薮領の間を往来した。大村益次郎の江戸在中時代の門下生。 1870年(明治3年)弾正少巡察となり、1871年(明治4年)司法少大解部から司法権少判事となる。
高砂 浦五郎(たかさご うらごろう、天保9年11月20日(1… 高砂 浦五郎(たかさご うらごろう、天保9年11月20日(1839年1月5日) - 明治33年(1900年)4月8日)は、上総国山辺郡(現在の千葉県東金市)出身で明治期の大相撲力士・年寄。最高位は前頭筆頭。身長170cm、体重100kg。本名は山崎 (後に一時今井姓)伊之助(後に浦五郎)。現在まで続く高砂部屋の開祖である。 農家の三男で土地相撲で活躍し、20代半ばで妻子ある身ながら江戸へ出て、3代阿武松庄吉の門下に入った。東海大之助の初名で1863年(文久3年)8月場所に初土俵を踏み、1865年(元治2年)に序ノ口についた。1867年(慶応3年)に三段目に昇進、ここで姫路藩のお抱え力士になり「高見山大五郎」の四股名を名乗るようになった。
岡本 監輔(おかもと かんすけ、1839年 - 1904年)… 岡本 監輔(おかもと かんすけ、1839年 - 1904年)は、徳島県出身の漢学者であり教育者、箱館府権判事。邦人として初めて樺太最北端に到達し一周探検を成し遂げた。蝦夷地防衛の重要性を提言し、そのための拓殖実現に向け尽力。また窮北日誌ほか多くの本を著し、韋庵(いあん)と號した。 阿波国美馬郡三谷村(後の徳島県美馬市穴吹町三島三谷)で農業の傍ら医業に携わる家に生まれる。父は周平、母は須藤氏。幼名は文平で字を子博とし、幼い頃より読書を好んだ。1853年(嘉永6年)15歳の時父に連れられ徳島へ行くと、藩の儒学者・岩本贅庵の門下に入り同門の有井進斎と親しく交わる。讃岐国高松藩の藤川三渓の塾で食客となっていた1855年(安政2年)に薩哈隣(サガレン、樺太)の話を聞き、深く感じる所あって後の遠征の発端となる。
田辺 久蔵(田邊 久藏、たなべ きゅうぞう、1839年(天保… 田辺 久蔵(田邊 久藏、たなべ きゅうぞう、1839年(天保10年9月)- 1909年(明治42年)9月19日)は、幕末の村役人、明治期の政治家、実業家。衆議院議員。号・晴雲。 越後国蒲原郡大野地村(新潟県蒲原郡大野地村、北蒲原郡大野地村、堀越村大野地、水原町を経て現阿賀野市大野地)で、庄屋を務める田辺家に生まれた。大野地村庄屋を務めた。 明治維新後、新潟県地券下掛、第二大区小二区戸長、副大区長、地租改正実地検査顧問などを務めた。 政治活動に熱心で立憲改進党に所属し、1888年(明治21年)新潟県会議員に選出され、同常置委員、同副議長を務めた。1894年(明治27年)9月、第4回衆議院議員総選挙(新潟県第2区、立憲改進党)で当選し、その後、進歩党に所属し衆議院議員に1期在任した。
森 清之助(もり せいのすけ、1839年(天保10年) - … 森 清之助(もり せいのすけ、1839年(天保10年) - 1911年(明治44年)12月10日)は、日本の地方政治家。稲城村(現・東京都稲城市)の初代村長である。 当時稲城の森家当主だった森素直の養子になる。1880年代に森家当主になり、東長沼村の村長になる。1889年(明治22年)の市町村制発足に際して、複数の村の合併により稲城村が誕生し、初代村長に就任する。1890年(明治23年)にいったん村長を退き、議員に戻った。1901年(明治34年)に再び村長に就任し、1903年(明治36年)に再び退いた。その後間もなく議員を引退し、1911年(明治44年)12月10日に死去。72歳没。[要出典] この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
楠本 章三郎(くすもと しょうざぶろう、1839年(天保10… 楠本 章三郎(くすもと しょうざぶろう、1839年(天保10年) - 1906年(明治39年)12月30日)は、日本の剣術家(神道無念流)。楠本正隆実弟。 楠本章三郎は大村藩士である父楠本直右衛門と母フジの次男として天保10年(1839年)に生まれ。、実兄の正隆と共に文武の業を修めた。藩命で江戸に遊学。剣術は神道無念流練兵館に14歳で入門する。 練兵館では、若年であった章三郎はたいへん可愛がられた。齋藤篤信齋館長をはじめ、齋藤新太郎、章三郎より6歳年上の齋藤歓之助、そしてすでに塾長であった同郷の荘勇雄から大いに錬られていく。章三郎は、篤信齋館長から稲妻(突技)、軽強の霞返による変化躰数多種を伝授。
岩崎 長武(いわさき ながたけ、1839年(天保9年12月)… 岩崎 長武(いわさき ながたけ、1839年(天保9年12月)- 1898年(明治31年)12月27日)は、幕末の土佐藩士。明治期の内務官僚、自由民権運動家。高知県権令。位階は正六位。 土佐国土佐郡高知金子橋(現高知県高知市)で土佐藩槍術指南役・岩崎長幸の二男として生まれる。 1872年、浜松県権参事、同参事を務めた。明治5年11月27日(1872年12月27日)、高知県権令に転任。立志社の民権運動に寛容で、1875年6月の第1回地方官会議で、民会の公選制を主張した。立志社系の人物を県庁に登用したことなどで、保守派の反発を受け1876年8月に権令を罷免された。 その後、民権運動家として活躍した。植木枝盛らと共に土佐国州会結成に尽力し、副議長に就任している。
箕輪 鼎(みのわ かなえ、天保10年1月(1839年) - … 箕輪 鼎(みのわ かなえ、天保10年1月(1839年) - 明治27年(1894年)1月2日)は、日本の政治家、実業家。衆議院議員。幼名は睦助、通称は勘三郎。 信濃国佐久郡三塚村(現長野県佐久市)に生まれる。生家は代々酒造業を営み、田野口藩の御用達を務めた。長じて寺子屋師匠となり、村の庄屋となる。龍岡城築城の際には普請奉行に任命された。明治維新後は村の戸長、南佐久郡書記などを歴任し、明治14年(1881年)には長野県会議員となる。同19年(1886年)下高井郡長となり、同23年(1890年)第1回衆議院議員総選挙に当選した。コレラ防疫や、水害罹災者の救助などに活躍した。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。
小田切 辰之助(おたぎり たつのすけ、天保10年(1839年… 小田切 辰之助(おたぎり たつのすけ、天保10年(1839年) - 明治37年(1904年))は、幕末から明治時代の日本の製糸家。幼名は録三郎。祖父は武兵衛、父は沖兵衛。 須坂の「西糀屋」あるいは「大糀屋」と呼ばれる小田切家の宗家に生まれる。須坂の小田切氏は滋野氏一族海野氏の出で、幕末まで油屋・糸師・呉服商を営み、須坂藩の御用達を勤めた家。辰之助は安政6年(1859年)の横浜開港より生糸、蚕種の貿易に携わる。慶応年間には「蚕種組合」を設立し、自ら検査役となり、のち明治5年(1872年)川東組の蚕種大総代となる。 のち海外の生糸需要の増加を受け遠藤万作、青木甚九郎らと富岡製糸場を視察し、明治7年(1874年)には水車仕掛けの器械製糸を、さらに翌年には弟の武兵衛と協力し、水車動力による器械製糸を創設した。
小野 隆助(おの りゅうすけ、天保10年4月(1839年) … 小野 隆助(おの りゅうすけ、天保10年4月(1839年) - 1923年(大正12年)9月4日)は、日本の幕末から明治にかけての武士・政治家。筑前共愛公衆会会長。旧姓から三木隆助とも。 筑前国御笠郡、のちの福岡県筑紫郡太宰府町(現太宰府市)で、安楽寺天満宮(神仏分離令前の太宰府天満宮の旧名称)の社家のひとつである小野加賀家に生まれる。父親は小野氏伸、伯父は幕末の勤皇家真木保臣であるところから、和漢、尊王思想を修める。三条実美をはじめとする公卿五名が小野加賀家の邸に隣接する延寿王院に3年余滞在し、その間、小野加賀家も三条実美等の警護の士の宿舎となる。この延寿王院には公卿5名が滞在したことを示す碑があり、門前には西郷隆盛、坂本龍馬が訪れたと記す案内看板がある。
青木善平(あおき ぜんぺい、天保10年〈1839年〉 - 明… 青木善平(あおき ぜんぺい、天保10年〈1839年〉 - 明治4年1月6日〈1871年2月24日〉)は、江戸時代末期(幕末)の福岡藩士。英学者。教育者。 福岡藩士藤井宅之進の子として筑前国博多に生まれ、福岡藩の蘭学者安部龍平の養子となる。幼名は菊次郎。 安政2年(1855年)養父龍平の跡目を継ぎ、龍平を名乗り、福岡藩合薬製作所手伝となる。万延元年(1860年)安部家が断絶し、青木善平と改名。 文久2年(1862年)松下直美らと長崎遊学を果たし、さらに慶応3年(1867年)藩の留学生として、同じ福岡藩の平賀義質、本間岩吉、井上良一、船越慶次、松下直美らとともに、アメリカ船コロラド号で渡米し、ハーバード大学に学んだ。
芹沢 政温(せりざわ せいおん、天保10年〈1839年〉 -… 芹沢 政温(せりざわ せいおん、天保10年〈1839年〉 - 1906年〈明治39年〉8月28日)は、置賜県参事、裁判官、大審院判事。 米沢藩に生まれる。藩主上杉斉憲御近習、刑法局、藩庁大属、権小参事などを経て、1871年(明治4年)11月に権参事、1872年(明治5年)11月に参事となる。1873年(明治6年)5月、参事を免官され、1875年(明治8年)、判事に任官されると、1877年(明治10年)、名古屋裁判所判事、1882年(明治15年)、秋田始審裁判所判事長・同所長、1887年(明治20年)、第一期東京重罪裁判長、1888年(明治21年)、東京控訴院評定官、1889年(明治22年)、福井重罪裁判長を歴任し、のちに大審院判事となった。
窪田 畔夫(くぼた くろお、1838年12月5日(天保9年1… 窪田 畔夫(くぼた くろお、1838年12月5日(天保9年10月19日) - 1921年(大正10年)4月30日)は、長野県の政治家。本名は窪田重国、号は松門であった。 信濃国筑摩郡和田町村(天領、現在の松本市和田)に生まれ、青年期から寺子屋を開いて教育に従事した 1872年に開智学校の前身となった筑摩県学の開設を進め、また、市川量造らとともに、松本を拠点とした『信飛新聞』の創刊に参加した。以降、同紙や、1876年に改題した『松本新聞』の紙面で、自由民権運動の論陣を張った。 1879年には、北安曇郡の初代郡長となり、在任中の1883年には渡辺敏らとともに白馬岳に初登頂した。 1888年に長野県会議員、1892年には帝国議会衆議院議員となった。
3代 伊澤 平藏(いさわ / いざわ へいぞう、1838年(… 3代 伊澤 平藏(いさわ / いざわ へいぞう、1838年(天保9年)12月 - 1911年(明治44年)3月19日)は、日本の実業家、政治家。貴族院多額納税者議員。旧姓・板橋。幼名・哲右衛門。衆議院議員、貴族院議員伊澤平左衛門の父。 陸奥国宮城郡笠神村(現・宮城県多賀城市)に生まれる。仙台に出て、醸造業伊澤平藏(2代目)の元で働き、平藏の娘を娶り婿養子となる。1889年(明治22年)仙台市が施行されると市会議員となる。同参事会員、宮城県会議員、仙台市長代理などを歴任する。この間、仙台商業会議所の議員を発足時(1891年)から務め、同副会頭(1899年)、同会頭(1904年)に就任した。 1906年(明治39年)に宮城県多額納税者として貴族院議員補欠選挙で互選され、同年9月29日から1908年(明治41年)7月2日まで務めた。
坪田 仁兵衛(仁兵衞、つぼた にへえ、1838年11月22日… 坪田 仁兵衛(仁兵衞、つぼた にへえ、1838年11月22日(天保9年10月1日)- 1896年(明治29年)7月10日)は、明治期の農業経営者、政治家。衆議院議員(1期)。幼名・慎之丞。 越前国坂井郡大牧村(福井県坂井郡大石村、春江町を経て現坂井市春江町大牧)で、大地主、大庄屋・先代坪田仁兵衛の二男として生まれた。農業を営み、坂井郡会議員、石川県会議員、福井県会議員、同常置委員となる。 1894年の第4回衆議院議員総選挙において福井県第2区から自由党所属で当選。衆議院議員を1期務め、在職中の1896年に死去。
長與 專齋(新字体:長与 専斎、ながよ せんさい、天保9年8… 長與 專齋(新字体:長与 専斎、ながよ せんさい、天保9年8月28日〈1838年10月16日〉 - 明治35年〈1902年〉9月8日)は、日本の官僚、医師。本姓は藤原氏、号は松香、諱は秉継。 肥前国大村藩(現在の長崎県大村市)に代々仕える漢方医・長与中庵の子として生まれる。 大村藩の藩校である五教館(長崎県立大村高等学校の前身)で学んだ後、安政元年(1854年)、大坂にて緒方洪庵の適塾に入門し、やがて塾頭となる(福澤諭吉の後任)。のち大村藩の侍医となった。 文久元年(1861年)、長崎に赴き、医学伝習所にて、オランダ人医師ポンペのもとで西洋医学を修める。その後、ポンペの後任マンスフェルトに師事し、医学教育近代化の必要性を諭される。
上野 彦馬(うえの ひこま、1838年10月15日〈天保9年… 上野 彦馬(うえの ひこま、1838年10月15日〈天保9年8月27日〉 - 1904年〈明治37年〉5月22日)は、幕末期から明治時代にかけて活動した日本の写真家(写真師)。日本における最初期の写真家で、日本最初の戦場カメラマン(従軍カメラマン)としても知られる。号は季渓。家紋は桔梗の二引。 天保9年(1838年)、長崎銀屋町で蘭学者・上野俊之丞(1790 - 1851)の次男として生まれる。広瀬淡窓の私塾、咸宜園で2年間学び、咸宜園を離れた後の安政5年(1858年)にはオランダ軍医ポンペ・ファン・メールデルフォールトを教官とする医学伝習所の中に新設された舎密試験所に入り、舎密学(化学)を学んだ。
岩城 隆常(いわき たかつね、1838年10月10日(天保9… 岩城 隆常(いわき たかつね、1838年10月10日(天保9年8月22日)- 1893年(明治26年)10月18日)は、明治期の農業経営者、政治家。衆議院議員。 越中国新川郡大村(石川県新川郡大村、富山県上新川郡大広田村を経て現富山市海岸通)で、加賀藩十村役・重右衛門の息子として生まれた。 1873年(明治6年)新川県第7大区長、1876年(明治9年)石川県第2大区副区長に就任。その後、上新川郡首席書記、大村外16カ村戸長、大村外7カ村戸長を務めた。1890年(明治23年)3月、富山県会議員に選出され、1892年(明治25年)2月まで在任した。 1892年2月、第2回衆議院議員総選挙(富山県第2区、独立倶楽部)で当選し、衆議院議員に1期在任した。
田中 芳男(たなか よしお、天保9年8月9日(1838年9月… 田中 芳男(たなか よしお、天保9年8月9日(1838年9月27日) - 大正5年(1916年)6月22日)は、幕末から明治期の博物学者、動物学者、植物学者、農学者、園芸学者、物産学者。錦鶏間祗候、男爵。 「日本の博物館の父」として知られる。博物学や分類学における翻訳語の成立に関わった。市川清流によって考案された「博物館」という和製漢語を、町田久成とともに普及させた。東京国立博物館や上野動物園の設立に携わった。パリ万博やウィーン万博での日本の出展に貢献した。殖産興業や啓蒙活動に努めた。元老院議官、貴族院議員、大日本山林会会長、日本園芸会副会長を歴任した。 1838年(天保9年)8月9日、信濃国伊那郡飯田城下の中荒町(現在の長野県飯田市中央通り)に旗本千村氏の典医を務める医師田中隆三(号:如水)の三男として生まれた。
高瀬 藤次郎(髙瀨、たかせ とうじろう、1838年8月28日… 高瀬 藤次郎(髙瀨、たかせ とうじろう、1838年8月28日(天保9年7月9日) - 1913年(大正2年)1月6日)は、明治時代の政治家、実業家。新聞経営者。衆議院議員(2期)。 播磨国加東郡、のちの兵庫県加東郡永富村(上福田村、社町を経て現加東市)の大庄屋の家に生まれる。1872年(明治5年)永富村戸長に就任し、学区取締などを経て、1879年(明治12年)兵庫県会議員に当選。1887年(明治20年)まで務めた。この間、1884年(明治17年)同志と共に五州社を設立し、神戸又新日報を発刊。のち神戸相生町に神戸日報社を設立し愛国新聞を発刊した。ほか、加東郡社村長を務め、神戸法律学校や山陽鉄道の設立にも関与した。
宮島 誠一郎(みやじま せいいちろう、天保9年7月6日〈18… 宮島 誠一郎(みやじま せいいちろう、天保9年7月6日〈1838年8月25日〉 - 1911年〈明治44年〉3月15日)は、江戸時代末期(幕末)から明治時代にかけて活躍した官僚・政治家。元米沢藩士。位階および勲等は従四位・勲四等。 幼名は熊蔵。諱は吉久。号は栗香、養浩堂など。幕末に締結された奥羽越列藩同盟交渉時に中心的な役割を果たしたほか、明治維新後は自由民権運動に先駆けていち早く憲法制定・議会開設の建白を行い、また後にアジア主義団体「興亜会」設立に関わった。その膨大な日記・記録類は現在でも貴重な史料となっている。子に書家・中国語研究で知られる宮島大八(詠士)がいる。「米沢海軍」の立役者である小森沢長政は弟。
4代 桜木 嘉右衛門(櫻木、さくらぎ かえもん、1838年8… 4代 桜木 嘉右衛門(櫻木、さくらぎ かえもん、1838年8月20日〈天保9年7月1日〉 - 1914年〈大正3年〉1月8日)は、幕末から明治時代の醸造家、政治家、実業家。貴族院多額納税者議員。名は正義。前名は馬之助。族籍は高知県平民。 3代目桜木嘉右衛門正利、鹿の二男として高知城下種崎町(現・高知市はりまや町)に生まれ、のち前名を改めて襲名する。藩政下、町内総組頭を務め、廃藩後は町内取締役となる。本業は酒造業で「葉柳」の醸造元。 1877年(明治10年)第七国立銀行が設立すると同取締役に就任。1881年(明治14年)帆走船運漕営業会社天佑社を設立し、相談役を経て社長に就任。1886年(明治19年)土佐郡酒造家連合会を設立し同会長に就任。
宮地 兵次郎(みやち ひょうじろう、1838年〈天保9年〉8… 宮地 兵次郎(みやち ひょうじろう、1838年〈天保9年〉8月15日 - 1910年〈明治43年〉9月21日)は、岐阜県出身の地域活動家。中山道(中街道)の開削に尽力し、日吉村の戸長を務めた。 1838年8月15日、岐阜県土岐郡日吉村半原(現在の瑞浪市日吉町半原)に生まれる。 半原宮地氏は安藤氏・遠藤氏・山内氏と共に土岐氏に属し、天文13年(1544年)日吉神社を創建した。 (先祖代々の記録)(10.兵次郎寛朋が宮地兵次郎) 先祖・宮地重勝頌徳碑(背面)には下記の文が彫ってある。写真の左の碑:宮地重勝隠居士。右の碑:宮地重勝頌徳碑。 宮地氏ハ代々土岐氏ノ臣ニシテ天文十一年頼芸亡ブルヤ鶴ケ城代宮地九郎左衛門藤原重勝半原自邸ニ隠遁シ農ニ帰スコレ即チ祖ナリ昭和二十八年十月再建之(天文11年=1542年)(昭和28年=1953年)土岐頼芸は土岐頼兼、正中の変と関係する。
金田 平五郎(かねだ へいごろう、1838年8月13日(天保… 金田 平五郎(かねだ へいごろう、1838年8月13日(天保9年6月24日) - 1921年(大正10年)7月20日)は、日本の政治家、衆議院議員(1期)。 能登国羽咋郡中沼村(のち石川県羽咋郡南大海村→高松町→かほく市)出身。漢学を学ぶ。農業を営み、1860年には中沼村、次いで夏栗村、更に二ツ屋村の肝煎となる。1873年、石川県第4区小1区戸長、1889年、南大海村会議員、所得税調査委員、1891年、連合村会議員、同年、羽咋郡会議員、1897年、石川県会議員となる。 1898年8月の第6回衆議院議員総選挙において石川3区から憲政党公認で立候補して当選した。1902年の第7回衆議院議員総選挙は不出馬。
佐沢 太郎(さざわ / ささわ たろう、1838年8月8日(… 佐沢 太郎(さざわ / ささわ たろう、1838年8月8日(天保9年6月19日) - 1896年(明治29年)5月26日)は明治時代の日本の洋学者、文部官僚。旧名元太郎、諱は高仰。 天保9年6月19日(1838年8月8日)、備後国品治郡新市村に三木嘉久平の五子として生まれる。福山藩儒江木鰐水の門に学んだのち、安政2年(1855年)に品治郡江良村の医師佐沢泰介の養継子となり、蘭方医となるため藩校誠之館の洋学教官寺地舟里、次いで長州藩の青木周弼に師事。さらに文久元年(1861年)、大阪の緒方洪庵に入門し、翌年秋には幕命により江戸に赴く師に同伴。幕府の西洋医学研究教育機関・医学所に入った。文久3年(1863年)、福山藩から洋学修行を命じられ、幕府の洋学研究教育機関・洋書調所(同年中に開成所と改称)でも修学。
真中 忠直(眞中、まなか ただなお、1838年7月30日(天… 真中 忠直(眞中、まなか ただなお、1838年7月30日(天保9年6月10日)- 1906年(明治39年)4月27日)は、日本の逓信官僚、実業家、政治家。衆議院議員。旧姓・増田、幼名・隼太。 武蔵国葛飾郡惣新田村(のち埼玉県北葛飾郡吉田村、現幸手市)で、増田彦右衛門の二男として生まれる。その後、埼玉郡川口村(現加須市)真野家の養子となる。江戸に出て蘭学、漢学を学んだ。 明治3年3月12日(1870年4月12日)民部省に出仕し駅逓少令史に任官。以後、駅逓大令史、駅逓権少佑、駅逓少佑を歴任。明治4年7月27日(1871年9月11日)民部省が廃止され大蔵省へ異動。駅逓司四等出仕、駅逓権中属、駅逓権大属、駅逓大属を歴任。
上島 正(かみじま ただし、天保9年5月15日(1838年7… 上島 正(かみじま ただし、天保9年5月15日(1838年7月6日) - 1919年(大正8年))は明治時代の札幌開拓者。信濃国諏訪藩出身。江戸に出て商家に奉公し、行商人、測量師を経て北海道に渡り、札幌で初めて水田稲作に成功、東皐園で花菖蒲等の栽培を行った。 天保9年(1838年)5月15日信濃国諏訪郡南真志野村(長野県諏訪市湖南南真志野)に諏訪藩普請奉行上島幸右衛門の子として生まれた。幼名は源吉で、家督相続後、正と改めた。9歳から17歳まで生之堂鏡湖に書画を学び、画家を志したが、画家は妻帯できないと父に言われ、断念した。 安政2年(1855年)父の命で江戸に出て、森備中守屋敷富木衛門七方に奉公したが、半年後、武家社会を見限り、町家に奉公した。
山縣 有朋(やまがた ありとも、新字体:山県 有朋、1838… 山縣 有朋(やまがた ありとも、新字体:山県 有朋、1838年6月14日〈天保9年閏4月22日〉- 1922年〈大正11年〉2月1日)は、日本の政治家・軍人。最終階級・称号は元帥陸軍大将。位階・勲等・功級・爵位は従一位大勲位功一級公爵。 内務卿(第9代)、内務大臣(初代)、内閣総理大臣(第3・9代)、司法大臣(第7代)、枢密院議長(第5・9・11代)、陸軍第一軍司令官、貴族院議員、陸軍参謀総長(第5代)を歴任した。 幼名辰之助、通称は小助、1864年以降は狂介・小輔・狂助・狂輔。変名として萩原鹿之助の名も用いた。1871年以降に有朋の諱を称した。号は1871年まで素狂、以降は無隣庵主、含雪。 長州藩の蔵元付仲間だった下級武士の家に生まれ、学問と槍の稽古に励んだ。
堀 真五郎(ほり しんごろう、天保9年閏4月11日〈1838… 堀 真五郎(ほり しんごろう、天保9年閏4月11日〈1838年6月3日〉 - 1913年〈大正2年〉10月25日)は、幕末の長州藩の志士で、明治時代の大審院判事、貴族院勅選議員。諱は義彦。変名は有田又四郎。姓は藤原とも。号は水石・風民・白鷺夫・斜石。 天保9年(1838年)4月11日、長門国阿武郡萩町において、妙玖寺の臣・堀文左衛門松園の子として生まれる。年少の頃から軍談を好んで、功名心旺盛だったため、脱藩して各国の志士達、特に久坂玄瑞・高杉晋作らと交友を深めて尊皇攘夷活動に加わった。文久2年(1862年)11月に高杉晋作らの英国公使館焼き討ち事件にも参加し、文久3年(1863年)に八幡隊が結成されると初代総管に就任した。
中川 万之丞(なかがわ まんのじょう、1838年5月19日 … 中川 万之丞(なかがわ まんのじょう、1838年5月19日 - 1912年5月25日)は、占い師。喜多方市塩川町出身。 農家の長男に生まれ、本名は惣三郎(武田惣角の3男時宗の幼名と同じ)、千葉県成田山新勝寺で修行、真言密教、湯殿山修験、九字護身法、呪法、易学、宿曜道、民間療法、天文暦法(独自の星座図)などに通じていた。幕末の会津藩士が出入りし、藩から名人呼称の万之丞の名前、銘刀の道辰・手柄山の短刀、元藩主松平容保の祝歌掛軸を与えられた。信者に治療と占いを無料で行い、勝手に置いた贈答品は欲しい人に与え、独特の霊符も与えた。。初体面の客を顔を見ただけで、何の用向きかを察する霊視能力があった。子どもはいなかった。
渡辺 昇(わたなべ のぼり 、天保9年4月8日〈1838年5… 渡辺 昇(わたなべ のぼり 、天保9年4月8日〈1838年5月1日〉 - 大正2年〈1913年〉11月10日)は、日本の官僚・政治家、また剣術家。元は諱を武常と名乗った。号は東民、其鳳。位階勲等は正三位勲一等。兄とともにほぼ同時期に華族に列したが、兄が男爵どまりであったのに対し子爵に叙された。剣道の称号は範士。 肥前国大村に生まれる。江戸の神道無念流剣術道場・練兵館に入門し、桂小五郎の後を受けて塾頭を務める。尊王攘夷、倒幕運動の志士として活動し、坂本龍馬の依頼で薩長同盟を周旋した。明治政府では、大阪府知事、元老院議官、会計検査院長、貴族院議員を歴任した。また、大日本武徳会商議員を務め近代剣道の発展に尽力し、最初の剣道範士号を授与された。