若木 勝蔵(勝藏、わかき かつぞう、1897年〈明治30年〉… 若木 勝蔵(勝藏、わかき かつぞう、1897年〈明治30年〉1月10日 - 1969年〈昭和44年〉11月9日)は、大正・昭和期の教育者、労働運動家、政治家。参議院議員(2期)。 北海道岩内郡、のちの岩内町で生まれる。1916年(大正5年)札幌師範学校本科一部を卒業した。 虻田第一小学校、札幌北九条小学校、札幌師範学校訓導、小樽市潮見台小学校長、札幌市中央創成小学校長、同市西創成小学校長を歴任。この間、教材の改良などを行い、児童の自発的な活動を重視した教育を実践した。 1945年(昭和20年)12月、札幌市教職員組合委員長に就任。1946年(昭和21年)北海道教員組合(現北海道教職員組合)初代委員長となる。
市川 忍(いちかわ しのぶ、1897年1月9日 - 1973… 市川 忍(いちかわ しのぶ、1897年1月9日 - 1973年11月2日)は、日本の実業家。丸紅の初代社長。 1897年1月9日、茨城県北相馬郡布川町(現:利根町布川)に生まれる。 1919年に神戸高等商業学校(現:兵庫県立大学)を卒業し、伊藤忠商事に入社。同系列の大同貿易を経て、丸紅商店に移り、貿易部長、上海支店長を歴任。 1941年9月、丸紅と伊藤忠商事と岸本商店の合併によって設立された「三興」の専務となり、1944年9月に三興と呉羽紡績と伊藤忠商事の貿易部門として分離していた大同貿易が合併され、「大建産業」が設立された後も専務を担当した。 1949年、GHQによる過度経済力集中排除(財閥解体)の中で、丸紅初代社長に就任。
池内 調造(いけうち ちょうぞう、1897年1月9日-198… 池内 調造(いけうち ちょうぞう、1897年1月9日-1988年2月16日)は、日本の実業家。KBS京都代表取締役、京都新聞社取締役、日本民間放送連盟の営業・予算・財務・総務の各委員及び理事を20年近くにわたり担務し民放界の発展に大きく寄与。
山内 継喜(やまうち つぐよし、1897年(明治30年)1月… 山内 継喜(やまうち つぐよし、1897年(明治30年)1月8日 - 1973年(昭和48年)12月26日)は、日本の内務・警察官僚、政治家。官選山形県知事、陸軍司政長官、初代勝山市長。 福井県大野郡荒土村(現:勝山市荒土町境)で、山内喜一郎の長男として生まれる。第四高等学校を卒業。1920年10月、高等試験行政科試験に合格。1921年、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。内務省に入省し青森県属となる。 1923年、警視庁警視となる。以後、板橋警察署長、大塚警察署長、本富士警察署長、警視庁監察官、台湾総督府事務官、青森県書記官・警察部長、岐阜県書記官・警察部長、山口県書記官・警察部長、宮城県書記官・警察部長、京都府書記官・警察部長、愛知県書記官・総務部長などを歴任。
熊谷 友一郎(くまがい ともいちろう、1897年(明治30年… 熊谷 友一郎(くまがい ともいちろう、1897年(明治30年)1月7日 - 1966年(昭和41年))は、大正から昭和時代の政治家。長野県伊那市長。 長野県上伊那郡伊那町(現・伊那市)に生まれる。松本中学校(現長野県松本深志高等学校)を卒業後、西春近小学校教員を2年間務め、渡米し1916年(大正5年)コロンビア大学を卒業した。 帰国後は火災保険代理店を営み、荒井区長、伊那町消防組頭、同町農地委員、同町会議員を経て、1949年(昭和24年)伊那町長に就任。上伊那郡町村会長、長野県町村長会副会長を兼任した。1954年(昭和29年)の町村合併の折には、伊那市実現に向け尽力し、市制施行と共に同年4月30日に初代伊那市長に就任し、1958年(昭和33年)4月まで1期務めた。
石坂 禄郎(いしざか ろくろう、1897年1月7日 - 19… 石坂 禄郎(いしざか ろくろう、1897年1月7日 - 1989年2月19日)は日本の実業家、銀行家。 元経団連会長石坂泰三の弟。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
中村 雨紅(なかむら うこう、1897年1月7日〈戸籍上は2… 中村 雨紅(なかむら うこう、1897年1月7日〈戸籍上は2月6日〉- 1972年5月8日)は、日本の大正期の詩人・童謡作家である。 本名は、髙井 宮吉(たかい みやきち、出版物など一般的には「高井 宮吉」と表記される)。東京府南多摩郡恩方村(現在の東京都八王子市上恩方町)出身。代表作は、故郷恩方の風景を歌った『夕焼小焼』。1919年に作詞し、1923年に草川信が曲をつけた。 宮尾神社(現在の東京都八王子市上恩方町2089、八王子市「夕やけ小やけふれあいの里」に隣接)の宮司・髙井丹吾(たかい たんご)とその妻・シキの間の三男として生まれる。宮尾神社の社務所で生まれたことから「宮吉」と命名された。
渡辺 三郎(わたなべ さぶろう、1897年(明治30年)1月… 渡辺 三郎(わたなべ さぶろう、1897年(明治30年)1月6日 - 1969年(昭和44年)1月1日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。旧姓・末国。 広島県出身。教員・末国又一の三男として生まれ、渡辺金作の養子となる。山口中学校(現山口県立山口高等学校)を経て、1918年(大正7年)5月、陸軍士官学校(30期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第70連隊付となる。1926年(大正15年)12月、陸軍大学校(38期)を卒業した。 1927年(昭和2年)8月、歩兵第76連隊中隊長に就任し、参謀本部付勤務、参謀本部員、イギリス駐在、歩兵第41連隊大隊長、陸軍運輸部員、陸大教官などを経て、1939年(昭和14年)8月、歩兵大佐に昇進。
場生松 長夫(ばしょうまつ たけお、1897年1月6日 - … 場生松 長夫(ばしょうまつ たけお、1897年1月6日 - 1948年12月15日)は、日本陸軍軍医(耳鼻咽喉科)。白子陸軍病院(現埼玉病院)、南方第5陸軍病院編成当初の病院長。終戦時は軍医大佐、第16軍軍医部長。妻は仙波太郎四女文子。 佐賀県出身。1918年10月12日~1922年3月22日、東京帝国大学医学部 陸軍衛生部依託学生。1922年6月30日、歩兵第71連隊付。1922年8月1日~1923年2月15日、陸軍軍医学校 乙種士官学生。1925年4月1日~1927年4月1日、免本職、東京帝国大学大学院 陸軍衛生部士官学生。1927年4月1日、歩兵第3連隊付。1928年8月10日、陸軍軍医学校教官。
宮崎 丈二(みやざき じょうじ、1897年1月6日 - 19… 宮崎 丈二(みやざき じょうじ、1897年1月6日 - 1970年3月25日)は、日本の詩人、画家。 千葉県銚子市生まれ。専修大学中退。号・冬花亭。「白樺」の影響を受けて文学に関心を抱く。武者小路実篤の「新しき村」運動に参加する。1920年(大正9年)2月千家元麿、中川一政らと雑誌『詩』を創刊し「冬が来た」「機関車」などを発表。1924年(大正13年)『爽かな空』を刊行。1927年(昭和2年)より雑誌『河』を主宰。他の詩集に『独坐』がある。画家としては1919年(大正8年)草土社展に入選し、同人となる。世俗的名声を求めず、詩壇や画壇にも頓着しなかった。晩年は銚子市清水町で暮らした。
小出 正吾(こいで しょうご、1897年1月5日 - 199… 小出 正吾(こいで しょうご、1897年1月5日 - 1990年10月8日)は、日本の児童文学作家。 1897年、静岡県三島出身。祖父の小出市兵衛は元質屋で、J・H・バラによって洗礼を受けた。中学時代に受洗しキリスト教信者となる。1918年早稲田大学商学部を卒業すると、南洋商会に勤め南洋へおもむくが、1922年退職して帰郷、三島教会の独立に尽くした。1928年、再び上京し明治学院で教え、明治学院教授(1935年、社会事業科)。 戦後、三島市教育委員長を務める。キリスト教ヒューマニズムの立場で創作を行う。1957年、三島市長選挙に革新統一候補として出馬し落選。1966年から1972年日本児童文学者協会会長[疑問点 – ノート]。
三木 清(みき きよし、1897年(明治30年)1月5日 -… 三木 清(みき きよし、1897年(明治30年)1月5日 - 1945年(昭和20年)9月26日)は、(西田左派を含めた上での)京都学派の哲学者、評論家。法政大学法文学部教授。京大哲学科卒。西田幾多郎・ハイデガーに師事。留学中にパスカルを研究、帰国後『パスカルに於ける人間の研究』(1926年)を刊行。戦時中に治安維持法違反で保釈逃走中の知人を支援したことで逮捕拘禁され獄死したが、著書『人生論ノート』はロングセラーになった。 兵庫県揖保郡平井村小神(後の龍野市、現・たつの市揖西町)にて父親、三木英吉、母親しんの長男として1897年(明治30年)1月5日に誕生する。生家は農業を家業としており清の祖父の代に米穀商を営んでいたため、村の「米屋」として知られており資産家の部類に入る家柄であった。
神吉 正一(かんき しょういち、1897年(明治30年)1月… 神吉 正一(かんき しょういち、1897年(明治30年)1月5日 - 1964年(昭和39年)8月17日)は、日本の外交官。満州国総務庁次長。蒙古聯合自治政府最高顧問。
片岡 良一(かたおか よしかず、1897年1月5日 - 19… 片岡 良一(かたおか よしかず、1897年1月5日 - 1957年3月25日)は、日本の日本文学者。日本の近代文学をアカデミズムで論じた初期の人物である。法政大学教授・北京師範大学教授を歴任。 神奈川県藤沢町生まれ。1925年、東京帝国大学文学部国文学科を卒業し、旧制姫路高等学校の教員となる。1926年刊行の『井原西鶴』で注目され、1929年『現代文学諸相の概観』で近代文学を論じて自我史観を示し、近代文学研究の基礎を据えたとされる。1930年、旧制府立高等学校の教員となる。府立高校時代の教え子に小田切秀雄がいる。小田切に自宅を会合の場として提供したとして辞職。1934年法政大学教授、1941年北京師範大学教授、1946年に再び法政大学教授となる。
川田 源一(かわた げんいち、1897年1月5日 - 197… 川田 源一(かわた げんいち、1897年1月5日 - 1972年9月1日)は、日本の実業家。日刊スポーツ新聞社創業者。徳島県出身。 川田萬太郎・サダ夫妻の次男として徳島県那賀郡羽ノ浦村(現在の阿南市羽ノ浦町)に生まれる。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
平岡 良蔵(良藏、ひらおか りょうぞう、1897年(明治30… 平岡 良蔵(良藏、ひらおか りょうぞう、1897年(明治30年)1月5日 - 1963年(昭和38年)5月20日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員、埼玉県入間郡飯能町長。 埼玉県入間郡元加治村(現:入間市)で、平岡専吉の二男として生まれる。1928年、兄・仙太郎と共に刺繍レース製造を始める。 その後、埼玉県商工経済会理事、同繊維団体協議会長、日本レース工業組合理事、所沢織物商工協同組合理事、東京繊維商品取引所理事、飯能商工会議所会頭、御嶽登山鉄道取締役、平岡工業所取締役、飯能繊維工業社長、飯能商事社長、埼玉県繊維品価格査定委員会委員長などを務めた。 政界では、埼玉県会議員、同議長、飯能町長を務める。
門脇 季光(かどわき すえみつ、1897年(明治30年)1月… 門脇 季光(かどわき すえみつ、1897年(明治30年)1月4日 - 1985年(昭和60年)6月18日)は、日本の外交官、実業家。1955年(昭和30年)3月1日から1957年(昭和32年)1月23日まで外務事務次官。外務省退官後、ホテルニューオータニに入社し社長等を務めた。 島根県八束町(大根島、現在の松江市)出身。門脇虎市の四男として生まれる。旧制島根県立松江中学校、旧制三高を経て、1923年(大正12年)東京帝国大学法学部政治学科を卒業する。翌1924年(大正13年)外務省に入省した。青島領事、駐イラン公使などを経て、1955年(昭和30年)3月1日から1957年(昭和32年)1月23日まで外務事務次官を務めた。
正木 博(まさき ひろし、1897年(明治30年)1月4日 … 正木 博(まさき ひろし、1897年(明治30年)1月4日 - 1973年(昭和48年)4月29日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。旧姓・上野。 福岡県出身。熊本陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1918年(大正7年)5月、陸軍士官学校(30期)を卒業。同年12月、騎兵少尉に任官し騎兵第19連隊付となる。1922年(大正11年)3月、陸軍砲工学校高等科を卒業。帝国大学理工学部陸軍派遣学生として京都帝国大学工学部電気工学科に入学し、1925年(大正14年)3月に卒業した。 1925年5月、兵科を航空兵科に転科し航空兵中尉に任官。同年9月、陸軍航空技術研究所付となり、陸軍航空本部員を務め、1927年(昭和2年)3月、航空兵大尉に昇進。
阿部 孝次郎(あべ こうじろう、1897年1月3日 - 19… 阿部 孝次郎(あべ こうじろう、1897年1月3日 - 1990年10月18日)は、日本の実業家。東洋紡績社長・会長。阿部房次郎の長男。滋賀県出身。 滋賀県出身。知られた美術蒐集家でもあった阿部房次郎とゑみの長男として生まれる。大正10年(1921年)、京都帝国大学工学部機械工学科卒業。 同年父・房次郎が社長を務める東洋紡績に入社。昭和17年(1942年)取締役、昭和21年(1946年)常務を経て、昭和22年(1947年)社長に就任。昭和34年(1959年)会長、昭和41年(1966年)相談役、のち名誉顧問となる。 この間、日本紡績協会委員長、関西経済連合会第6代会長、日本繊維機械学会副会長・会長なども務めた。
朝響 信親(あさひびき のぶちか、1897年1月3日 - 1… 朝響 信親(あさひびき のぶちか、1897年1月3日 - 1960年2月22日)は、愛媛県西宇和郡三瓶町(現西予市)出身で高砂部屋に所属した大相撲力士。本名は宮本 延近。身長173cm、体重90kg。最高位は東前頭2枚目(1927年5月場所)。引退後は年寄佐ノ山として後進の指導につとめた。 同郷の大関朝汐の佐ノ山部屋に入門し、1914年1月場所に初土俵を踏んだ。稽古熱心で順調に昇進し、1918年5月に、朝見藤と名乗って十両に昇進、1922年1月には朝見富士と改めて新入幕を果たした。その間、師匠が亡くなったので本家の高砂部屋に移籍した。また、入幕後に朝響と改名している。 1926年5月場所、1927年1月場所と連続して8勝3敗と好成績を収めたのがピークであった。
野溝 七生子(のみぞ なおこ、1897年〈明治30年〉1月2… 野溝 七生子(のみぞ なおこ、1897年〈明治30年〉1月2日 - 1987年〈昭和62年〉2月12日)は、日本の小説家・比較文学者。兵庫県姫路市出身。 父の野溝甚四郎は陸軍軍人で、父の赴任先である姫路にて1897年に生まれ、鳥取・金沢・丸亀・大分などで育つ。 香川県立丸亀高等女学校、大分県立大分高等女学校を経て同志社女学校英文科専門部予科に入学。在学中、辻潤・宮島資夫と知合う。彼らは野溝をゲアハルト・ハウプトマンの『沈鐘』(泉鏡花『夜叉ヶ池』の元ネタと言われる)のラウテンデラインに因んで「ラウ」と呼んだ。卒業後、東洋大学専門学部文化学科で西洋哲学を学ぶ。
桐ノ花 光之助(きりのはな みつのすけ、明治30年(1897… 桐ノ花 光之助(きりのはな みつのすけ、明治30年(1897年)1月2日 - 平成5年(1993年)8月24日)は、大正時代の大相撲力士。春日山部屋→立浪部屋所属。本名は冨永 惣治。最高位は西十両2枚目。 千葉県天羽郡湊町(現・富津市)出身。高等小学校卒業後、14歳の時家出同然で上京。畳屋で働いた後、春日山部屋へ入門し、緑嶌友之助の内弟子となる。明治45年(1912年)5月場所「湊浪」の四股名で初土俵を踏む。大正3年(1914年)1月、序ノ口に上がり、初めて番付に載った。翌大正4年(1915年)5月に師匠緑嶌が引退し、立浪部屋として正式に独立したのに伴い移籍した。大正7年(1918年)1月、三段目で「桐ノ花」に改名。
三島 通陽(みしま みちはる、1897年(明治30年)1月1… 三島 通陽(みしま みちはる、1897年(明治30年)1月1日 - 1965年(昭和40年)4月20日)は、日本の政治家・小説家・劇作家・演劇評論家。位階・勲等・爵位は正三位勲二等子爵。二荒芳徳とともにボーイスカウト運動を日本に広めた人物として知られる。東京府麻布区生まれ、学習院中退。ペンネームに三島 章道(みしま しょうどう)。 祖父は三島通庸。父は第8代日本銀行総裁を務めた三島弥太郎、母は四条隆謌侯爵の三女・加根子。妹・壽子の夫は阪谷希一、妹・梅子の夫は土方与志。妻は松岡均平の長女・純。叔父に三島弥彦がいる。 幼少期から文学に親しむ。一方で、祖母・和歌子から薩摩の郷中の掟を教わる[要出典]。
四代升本 喜兵衛(ますもと きへえ、1897年1月1日 - … 四代升本 喜兵衛(ますもと きへえ、1897年1月1日 - 1980年11月28日)は、日本の法学者・弁護士・裁判官・実業家。商法学者。法学博士(中央大学)。元中央大学理事長・総長・学長。兵庫県養父郡八鹿町出身
四代升本 喜兵衛(ますもと きへえ、1897年1月1日 - … 四代升本 喜兵衛(ますもと きへえ、1897年1月1日 - 1980年11月28日)は、日本の法学者・弁護士・裁判官・実業家。商法学者。法学博士(中央大学)。中央大学理事長・総長・学長。兵庫県養父郡八鹿町(現:養父市)出身。升本喜兵衛3代目の娘婿。 1915年旧制海城中学校卒業。1919年中央大学法学部卒業。司法官試補。東京地方裁判所判事。1924年東京地方裁判所退官。弁護士登録。商法研究のためにドイツ、イギリスに留学( - 1927年)。1928年中央大学法学部教授に就く。1941年中央大学評議員。1947年中央大学理事( - 1951年)。1951年中央大学法学部長( - 1957年)。1960年中央大学理事( - 1974年)。
二木 謙吾(ふたつぎ けんご、1897年〈明治30年〉1月1… 二木 謙吾(ふたつぎ けんご、1897年〈明治30年〉1月1日 - 1983年〈昭和58年〉12月22日)は、日本の政治家、教育者、実業家。初代学校法人宇部学園理事長、宇部興産顧問、山口県議会議長、参議院議員(3期)、大蔵政務次官、自由民主党両院議員総会長。 1897年(明治30年)、宇部村(現宇部市)に生まれる。福岡県で炭鉱業に参画するが経営的には失敗し帰郷、山口師範学校本科第一部を卒業し教員に転身する。教育者としての頭角を現した二木は、公立学校長など要職を務めるうちに宇部市の教育界で信頼を得、1942年(昭和17年)12月に蔵原経智から宇部女子商業学校の学校運営を受託、同校の理事長兼校長に就任し学校経営に参入する。
五鬼上 堅磐(ごきじょう かきわ、1897年1月1日 - 1… 五鬼上 堅磐(ごきじょう かきわ、1897年1月1日 - 1971年3月7日)は、日本の裁判官。最高裁判所判事、学校法人中央大学理事長。三重県熊野市出身。 1922年(大正11年)中央大学法科2年を終えた後で同年9月に弁護士試験に合格し、法律家生活をスタートした。 弁護士を続け、1946年(昭和21年)5月に大審院検事となり、同年6月に司法大臣官房秘書課長、1947年(昭和22年)12月に最高裁判所事務総局事務次長を歴任。 1950年(昭和25年)6月に最高裁判所事務総長となり、約8年間、司法行政の総元締めとして、裁判所部内や最高裁機構改革問題(1957年に最高裁機構改革法案が国会に提出されるも廃案)などに取り組んだ。
荒尾 静一(あらお せいいち、1897年1月 - 没年不詳)… 荒尾 静一(あらお せいいち、1897年1月 - 没年不詳)は、日本の元俳優、舞踏家、振付師、元オペラ歌手である。荒尾 靜一と表記されることもある。本名及び旧芸名は吉冨 一郎(よしとみ いちろう)。マキノ・プロダクションの主要人物の一人であり、東京少女歌劇団の花形としても知られる。 1897年(明治30年)1月、鹿児島県に生まれる、とされている。『日本歌劇俳優写真名鑑』(歌舞雑誌社)には、生年は「明治三十年五月十三日」(1897年5月13日)である旨が記されている。また、2000年(平成12年)4月1日に発行された『日本映画興亡史 マキノ一家』(ワイズ出版)には、生年・出生地は不詳としている。 旧制・海城中学校(現在の海城高等学校)在学中から音楽研究所で声楽を学び、1912年(明治45年)、同中学校卒業後は早稲田大学に進学する傍ら高田舞踊団に入団、西本朝春らと同じ小学校出身の高田雅夫、石井漠らに師事して舞踊を学ぶ。
野村 昊(のむら ひろし、1897年 - 1984年)は、日… 野村 昊(のむら ひろし、1897年 - 1984年)は、日本の撮影技師である。松竹キネマ(現在の松竹)を代表する映画カメラマンである。 1897年(明治30年)に愛知県名古屋市に生まれる。愛知一中(現・愛知県立旭丘高等学校)卒業後、麹町の東條會舘写真館に就職し、3年間写真術を学ぶ。日活向島撮影所で少し助手をやった後、満23歳を迎える1920年(大正9年)、水谷文二郎とともに同年設立された松竹キネマに入社、松竹蒲田撮影所に入社する。 同年、松竹映画第一作『島の女』で、ヘンリー・小谷監督のただ一人の撮影助手を務める。小谷に一番気に入られたのが野村で、3年間の写真館勤務の経験が役に立ち、現像の知識では野村の方が小谷より上だったのではという説もある。
池田谷 久吉(いけだや ひさきち、1897年(明治30年) … 池田谷 久吉(いけだや ひさきち、1897年(明治30年) - 1956年(昭和31年))は日本の建築家、郷土史家。 大阪、泉州を中心に社寺建築など伝統的な建築作品を多く手掛けた建築家である。また大阪府庁在職中から法隆寺五重塔の調査など古建築の研究調査を行い、退職後も発掘調査や文化財指定に携わるなど、歴史研究においても功績を残した。大阪府泉佐野市出身。 現在の泉佐野市に生まれる。1913年(大正2年)大阪市立大阪工業学校本科建築科入学。 卒業後、いくつかの会社を経て大阪府庁入庁。1922年(大正11年)大阪府建築監督官補となる。 1926年 (大正15年) 大阪府庁退職、池田谷建築事務所設立。1929年 (昭和4年) 大阪府史跡名勝天然記念物調査委員就任。
松田 享爾(まつだ きょうじ、1897年(明治30年)- 1… 松田 享爾(まつだ きょうじ、1897年(明治30年)- 1927年(昭和2年)3月)は日本の内務官僚でありキリスト教伝道者。内村鑑三に影響を受け、その配下である黒崎幸吉に師事した。岡山県真庭市出身。 1897年(明治30年)岡山県真庭郡美川村(現:真庭市)に生まれる。兄に松田壽比古がいる。地元に近い旧制高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)へ入学する。同期に、明治大学学長を務めた小出廉二、東京帝国大学教授で経済学の宇野学派を率いた宇野弘蔵、第一次日本共産党の西雅雄、関西大学法学部教授になる高木益郎がいた。彼らはお互いに、影響を与えあった。特に、社会評論誌『第三帝国』を定期購読し、校内で宇野と熱心に政治論を戦わせた。
福井 健夫(ふくい たけお、1897年 - 1986年)は郷… 福井 健夫(ふくい たけお、1897年 - 1986年)は郷土史家。
雷 震(らい しん、1897年 - 1979年)は、中華民国… 雷 震(らい しん、1897年 - 1979年)は、中華民国の政治家・言論人。戦後台湾における白色テロの犠牲者。字は儆寰。 青年期に日本に留学し、1917年に中華革命党に参加。1926年、京都帝国大学法学部を卒業した後、大学院に進学し憲法を専攻した。同年中国に戻った後、1927年に母校である浙江省立第三中学(現在の湖州中学)校長に就任し、後に国民党政府法制局編審に任命され王世杰の部下となる。1932年には中国国民党南京党代表大会主席団主席、1934年7月には教育部総務司司長を歴任。日中戦争間は蔣介石の信任を得て国民参政会副秘書長などに任命される。1946年1月、政治協商会議(中国語版)秘書長に就任し、各党派の意見の調整に当たる。
山 六郎(やま ろくろう、1897年 - 1982年)は、日… 山 六郎(やま ろくろう、1897年 - 1982年)は、日本のイラストレーター、装丁家である。 1897年(明治30年)、高知県内、現在の安芸市に生まれる。 旧制・京都高等工芸学校(現京都工芸繊維大学)を卒業後、中山太陽堂(現クラブコスメチックス)に入社した。 1922年(大正11年)に同社が併設した出版社・プラトン社に出向し、同年4月、中山太陽堂顧問の小山内薫編集のもと、山が装丁をし、タイトルロゴを制作し、扉絵等を描いた雑誌『女性』が創刊された。翌1923年(大正12年)、山の装丁に注目した山名文夫が入社、また編集者として、直木三十二(のちの直木三十五)、川口松太郎も入社し、同年12月には雑誌『苦楽』が、1926年(大正15年)1月には雑誌『演劇・映画』が創刊され、同誌および直木の手がけた単行本のヴィジュアル・ワークも手がけた。
佐々木 雄堂(ささき ゆうどう、明治30年(1897年) –… 佐々木 雄堂(ささき ゆうどう、明治30年(1897年) – 昭和39年(1964年))は、大正から昭和期の曹洞宗の僧侶。平安山龍泰寺(佐賀県佐賀市)の住持職(方丈)。郷土史家、教育家、思想家。 佐賀県佐賀市赤松町にある平安山龍泰寺の住職をつとめる佐々木家の長男として生まれる。佐々木家は代々、佐賀県神埼市の吉祥山泰蔵院住持職を世襲する寺家であり、佐賀県曹洞宗の名刹・龍泰寺の住職に晋山したものである。生母は佐賀藩士石井探玄(新蔵)の娘チカ。母方の家系は、佐賀藩祖鍋島直茂の正室陽泰院の甥石井茂成の子孫の家であった。 長じて、駒澤大学仏教学部に学び、卒業後、父の跡を継いで龍泰寺に仕え、住持職に就任。神埼市の泰蔵院の住持職をも兼務した。
斎藤 春彦(さいとう はるひこ、1897年(明治30年) -… 斎藤 春彦(さいとう はるひこ、1897年(明治30年) - 1972年(昭和47年))は、宮内省に奉職した日本の造園家。 長野県生まれ。1920年(大正9年)千葉高等園芸学校(現千葉大学園芸学部)卒業。同年宮内省内匠寮工務課庭園係に入る。1947年(昭和32年)に始まった新宮殿造営調査に関わる。新宮殿造営の宮内庁試案をまとめ、御住居吹上御所の新造園を手がける。1953年(昭和38年)に造営官補佐を経て退官。
石川 純一郎(いしかわ じゅんいちろう、1897年〈明治30… 石川 純一郎(いしかわ じゅんいちろう、1897年〈明治30年〉 - 1987年〈昭和62年〉)は、日本の建築家。1930年代から1940年代にかけて竹中工務店の看板建築家として活躍し、モダニスト建築家として朝日新聞社の社屋を多数手がけた。 東京帝国大学を卒業し、同期の蒲原重雄、吉田宏彦、土浦亀城、岸田日出刀らと建築家グループ「ラトウ」(ラトー建築会とも表記)を結成。1927年(昭和2年)、竹中工務店に入社。1930年(昭和5年)、竹中工務店設計部の命により鷲尾九郎とともにシベリア鉄道で欧州各地に向かい、鷲尾は劇場と病院、石川はオフィスビルをテーマに建築動向を視察した。1946年(昭和21)より同社設計部長に就任。
上浪 朗(うえなみ あきら、1897年-1975年)は、日本… 上浪 朗(うえなみ あきら、1897年-1975年)は、日本の建築家。逓信省営繕課で幾多の逓信建築にたずさわる。 1897年(明治30年)大阪生まれ。1922年(大正11年)東京大学工学部建築学科を卒業し、同年逓信省経理局営繕課に就職し、逓信省の建築家になる。同年経理局営繕課技師に任命。 1927年(昭和2年)、営繕磔謝欄殿計6班主査。この間、下記作品を設計の他、尼崎郵便局電話分室新築、堺郵便局電話分室新築、京都中央電話局祇園電話分局新築、福山郵便局電話分室、宮崎郵便局電話事務室新築、銚子無線電信所新築工事を担当 1946年(昭和21年)、航空局技師を兼任。 1957年(昭和32年)、逓信省退官。
乙部 泉三郎(おとべ せんざぶろう、1897年 - 1977… 乙部 泉三郎(おとべ せんざぶろう、1897年 - 1977年)は、東京府出身の図書館員。第2代県立長野図書館長(1932年-1949年)。 旧制京華中学を経て、東京帝国大学文学部教育学科卒業。1922年(大正11年)に南満州鉄道奉天図書館司書となり、1923年(大正12年)に南満州鉄道撫順図書館長となった。1929年(昭和4年)に県立長野図書館が開館すると司書となり、1932年(昭和7年)に第2代館長となった。農山村地域への青年団の設置を奨励し、簡易図書館の建設を推進した。太平洋戦争の戦況が悪化すると、帝国図書館の蔵書の疎開先として県立長野図書館を提供した。1949年(昭和24年)に館長を退任し、叶澤清介に後を任せた。
近藤 謙三郎(こんどう けんざぶろう、1897年 - 197… 近藤 謙三郎(こんどう けんざぶろう、1897年 - 1975年)は、日本の都市計画家。道路技術者。高知県生まれ。 高知県安芸町(現・安芸市)で生まれる。1921年、東京帝国大学工学部土木工学科卒業。東京市道路局に入り、銀座通りの改修工事に従事し、その舗装に日本初の木煉瓦を使う。 その後帝都復興院勤務を経て、内務省都市計画東京地方委員会技師となる。西新宿、新宿西口の専売公社淀橋工場跡地移転後の都市計画において、超過収用型の都市計画事業を成功させる。 1933年、満州国民政部の初代都市計画課長(民政部都邑科長)に転ずる。 1939年、満州国政府直轄の大東港建設局に副局長として転じ、鴨緑江河口港の大東港と人口100万の工業都市安東の建設責任者となる。
山家 亨(やまが とおる、1897年(明治30年)- 195… 山家 亨(やまが とおる、1897年(明治30年)- 1950年(昭和25年)1月)は、日本陸軍の軍人、大佐。宣撫工作「山家機関」の責任者。中国名、王嘉亨(ワンチアホン)。川島芳子の初恋の相手としても知られる。 1897年(明治30年)、静岡市生まれ。1916年、静岡県立静岡中学校卒業、静岡中学時代は野球部(現在の静岡高校野球部)に所属した。1921年(大正10年)、陸軍士官学校(33期)卒業後、陸軍士官学校の委託生として東京外国語学校に入学、中国語、蒙古語、ロシア語を学んだ。松本第五十連隊機関銃隊付少尉(一説に中尉)のころ、満蒙ロビーの川島浪速への接近がきっかけで川島芳子と知り合って恋仲となり、中国語の手ほどきを受けた。
雪野 元吉(ゆきの もときち、1897年(明治30年)- 1… 雪野 元吉(ゆきの もときち、1897年(明治30年)- 1945年(昭和20年))は、日本の建築家。 名古屋市で生まれ、横浜市で育つ。1922年(大正11年)、東京美術学校(現東京芸術大学)建築科を卒業。同年宮内省内匠寮に入る。 1926年(大正15年)には陸軍砲兵少尉に任じられる。 1928年(昭和3年)、宮内省の命により欧米18ヶ国へ出張。1931年(昭和6年)より臨時帝室博物館造営課勤務となり、帝室博物館(現・東京国立博物館)の実施設計にあたった。1938年(昭和13年)、同博物館の完成とともに退官。川崎重工業に入り、船内装飾にたずさわる。 その後独立し、満州国の新京市忠霊塔などを設計。
千々岩 助太郎(ちぢいわ すけたろう、1897年 - 199… 千々岩 助太郎(ちぢいわ すけたろう、1897年 - 1991年)は、日本の建築家。建築学者。戦前台湾にわたり、台湾先住民の住居を研究・再現するなどの功績を遺した。台湾時代の教え子に郭茂林らがいる。 佐賀県出身。名古屋高等工業学校建築科を卒業後広島、名古屋、宮崎などの旧制中等工業学校で教鞭をとった。1925年に台湾にわたり、台北州立台北工業学校(現在の国立台北科技大学)建築学科の教員になった。1930年に台湾建築会に入会し、会長の井手薫とともに台湾建築会誌の編集を担当した。1940年2月から1940年5月までは台北州立台北工業学校の第六代校長を務めた。その後1944年から1947年までは台南工業専門学校(現在の台湾国立成功大学)建築学科長として教えていた。
亀井 幸次郎(かめい こうじろう、1897年 - 1974年… 亀井 幸次郎(かめい こうじろう、1897年 - 1974年)は、日本の都市防災研究者。都市計画、都市政策と住宅地、火災予防など防災の研究を進めた人物。日本大学教授を歴任。工学博士。東京生まれ。 日本大学旧工学部建築学科卒業後、内務省に入省。都市計画地方委員会技師第1期生。同期は内山新之助、榧木寛之、武居高四郎、藤田宗光、石川栄耀ら。その後帝都復興院、住宅営団を経て、日本損害保険協会に勤務。1948年から1968年まで、日本大学で後進の育成と研究にいそしむ。 主著に、建築災害としての大火性状に関する一連の研究 1958 学位論文、災害の構造学 都市・建築の防災工学 理工図書 (B5 ) 1969年、集團的住宅地の計晝、住宅営団編、1943年などのほか、住宅営団の海外住宅研究として、住宅地の新体制原理と計画や住宅地の設計など、トーマス・アダムスの著作を翻訳。
繁野 繁造(しげの しげぞう、1897年(明治30年)- 没… 繁野 繁造(しげの しげぞう、1897年(明治30年)- 没年未詳)は、日本の建築家。三重県出身。 日本大学高等工学校(日本大学理工学部の前身)を1923年(大正12年)に卒業後、神奈川県庁に入り神奈川県営繕管財課の技術者を務めた。
根岸 情治(ねぎし じょうじ、1897年 - 1971年)は… 根岸 情治(ねぎし じょうじ、1897年 - 1971年)は、日本の内務官僚、都市計画家。著述業。東京都出身。都市工学者・石川栄耀の事務方として長年多くの都市計画に携わり、根岸自身は区画整理実務家と称した。 青森県尻内で滋賀県出身の鉄道技師の子として生まれたが、実父の同僚だった根岸鉄三郎に養子に出され、東京に転居。石川栄耀は養父の甥に当たり、東京目白では隣家同士。目白中学から明治大学予科に進み、卒業後日本橋三越に就職。病気療養を経て、石川の斡旋で内務省都市計画愛知地方委員会から名古屋市内各地の土地区画整理組合で事務担当。27歳で退職し、雑誌編集や記者、劇団主宰などに携わったがうまくいかず、再び石川らの紹介で名古屋で土地区画整理事業に携わる。
林 将英(はやし まさひで、1897年(明治30年) - 1… 林 将英(はやし まさひで、1897年(明治30年) - 1961年(昭和36年))は、日本の政治家。長野県岡谷市長。 長野県諏訪郡平野村(現岡谷市)生まれ。長野県立諏訪中学校(現長野県諏訪清陵高等学校)卒業[要出典]。1915年(大正4年)から家業の製糸業に従事。1917年(大正6年)一年志願兵として歩兵第50連隊に入隊し、1930年(昭和5年)陸軍中尉に進んだ。経営困難に陥った山一林組製糸の経営再建に乗り出し軌道に乗せた。このほか、共栄製糸など諏訪地方の複数の中小製糸会社の社長を歴任。 1927年(昭和2年)3月、平野村助役となり1933年(昭和8年)3月まで在任。同年4月、平野村会議員となり1936年(昭和11年)3月まで務めた。
伊藤 四郎(いとう しろう、1897年(明治30年) - 1… 伊藤 四郎(いとう しろう、1897年(明治30年) - 1976年(昭和51年))は、昭和時代の洋画家。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
青嶋 次郎(あおしま じろう、1897年(明治30年) - … 青嶋 次郎(あおしま じろう、1897年(明治30年) - 1949年(昭和24年))は、日本の飛行家・実業家。青島文化教材社の創業者。 静岡県静岡市葵区両替町生まれ。 静岡尋常高等小学校(現・静岡市立葵小学校)卒業後、近くの建具店に奉公に出るが、1915年(大正4年)に家出同然で上京。 その後、伊藤音次郎を頼り、1917年に(大正6年)に工員として伊藤飛行機研究所に入る。1919年(大正8 年)には飛行機の操縦訓練を受けるようになり、1921年(大正10年)に、勤め先で知り合った女性と結婚。1923年(大正12年)に三等飛行機操縦士免状を交付され、退社。 翌1924年(大正13年)、安東練兵場の隣地に青島文化教材社の前身となる青島飛行機研究所を設立し、資金を集めてニューポール83型機「静岡号」で郷土訪問飛行を果たした。
上杉修(うえすぎ おさむ、1897年(明治30年) - 19… 上杉修(うえすぎ おさむ、1897年(明治30年) - 1979年(昭和54年))は、八戸市の郷土史家。 八戸町上組町生まれ。1922年(大正11年)から1932年(昭和7年)まで小中野町にタクシー会社を経営し、1933年(昭和8年)に番町に公衆浴場を営む。 郷土史家としても八戸藩日記など数多くの郷土資料を収集した。 1946年(昭和21年)に、八戸南部家の子孫から八戸藩日記などの資料を購入し、野田健次郎と八戸藩の研究に取り組んだ。その結果、1950年(昭和25年)に安藤昌益の家族構成などが判明した。 1967年(昭和42年)に、自宅が火災に見舞われたため、自身が所有していた八戸藩の資料が一部焼失した。