中野 文照(なかの ふみてる、1915年1月13日 - 19… 中野 文照(なかの ふみてる、1915年1月13日 - 1989年12月30日)は、岐阜県瑞浪市出身の男子テニス選手。法政大学卒業。1930年代後半から1950年代初頭にかけて、日本男子テニス界を代表する選手として活動した。時代的には、1934年に投身自殺した佐藤次郎のすぐ後に位置している。彼と同年代のライバル選手には、慶應義塾大学の山岸二郎や同じ法政大学の松本武雄などがいた。 1937年全米選手権、1938年全仏選手権で4回戦に進出。この結果は錦織圭が並ぶまで日本人男子シングルス最後の各大会4回戦以上進出記録だった(全米は71年ぶり、全仏は75年ぶりに進出)。 中野は1935年の全日本学生テニス選手権(通称インカレ)で初めてベスト4に入り、この年から「全日本テニスランキング」のトップ10位以内に入った。
山口 武秀(やまぐち たけひで、1915年1月13日 - 1… 山口 武秀(やまぐち たけひで、1915年1月13日 - 1992年8月23日)は、昭和期の農民運動家、政治家。 茨城県鹿島郡鉾田町(現在の鉾田市)出身。旧家地主兼廻船問屋に生まれる。 茨城県立鉾田中学校(現在の茨城県立鉾田第一高等学校)で学ぶが、東京の女子大学に進学した姉の影響で資本主義の矛盾を知り、1931年に中退して農民運動に身を投じた。全国農民組合の若手活動家として活躍。18歳にして千葉県の農村争議に介入して名を上げる。 1933年日本共産党に入党。幾度かの検挙を経て転向し社会大衆党に入党。1937年に全農茨城県連書記長となる。日中戦争中に前線への慰問袋に農村の窮状を訴える手紙を挿入するよう指導し、同年検挙される。
淵上 毛錢 (ふちがみ もうせん、1915年〈大正4年〉1月… 淵上 毛錢 (ふちがみ もうせん、1915年〈大正4年〉1月13日 - 1950年〈昭和25年〉3月9日)は日本の詩人。 熊本県葦北郡水俣町(現・水俣市)に生まれる。本名・喬(たかし)。東京の青山学院中学部へ進学する。東京では、詩人山之口貘の知遇を得、のちのちまで交流は続いた。脊椎カリエスを病んで青山学院を中退・帰郷。以後、寝たきりの生活を余儀なくされる。病床で詩作を始め、「九州文学」などに作品を発表。また戦後の1946年、水俣青年文化会議を組織するなど、郷里の文化活動の発展に貢献した。1950年、35歳で死去。 代表作に「柱時計」「寝姿」など。ユーモラス、また一面スケールの大きい詩風と評される。
岡 芳包(おか よしかね、1915年〈大正4年〉1月12日 … 岡 芳包(おか よしかね、1915年〈大正4年〉1月12日 - 1991年〈平成3年〉9月1日)は、日本の医学者。生理学者。 大阪府大阪市出身。大阪府立市岡中学校、浪速高等学校、大阪帝国大学医学部卒業。 1943年に大阪帝国大学(現大阪大学)講師、1945年に同大学助教授に就任。1945年7月、大阪大学医学博士。論文の題は「生体肝組織における酸化還元電位的場に関する研究」。 その後、1948年7月に新設の徳島医科大学(現徳島大学)初代教授に就任。1951年に新制大学の発足に伴い徳島大学教授となり、1967年に同大学医学部長に就任。 1975年より日本学術会議10・11期会員に選出、国際学術交流委員会会員・生理科学研究連絡委員会等を歴任。
玉井 祐吉(たまい ゆうきち、1915年(大正4年)1月11… 玉井 祐吉(たまい ゆうきち、1915年(大正4年)1月11日 - 2002年(平成14年)2月24日)は、昭和期の農民運動家、実業家、政治家。衆議院議員。 新潟県出身。1941年(昭和16年)東京帝国大学法学部法律学科(独法)を卒業した。 日本曹達社員、日本鋼管(現JFEスチール、JFEエンジニアリング)社員を経て東山炭礦所長に就任。その後、農民運動、労働運動に加わり日本農民組合青年部、同新潟県連執行委員長、日本社会党新潟支部青年部長を務めた。 1947年(昭和22年)4月の第23回衆議院議員総選挙で新潟県第2区に日本社会党公認で出馬して初当選。1949年(昭和24年)1月の第24回総選挙で労働者農民党公認で出馬して再選されたが、選挙区内の中蒲原郡七谷村での選挙が無効となり、1950年(昭和25年)10月に再選挙が行われ改めて当選が確定し、衆議院議員に連続2期在任した。
大橋 史典(おおはし ふみのり、1915年〈大正4年〉1月1… 大橋 史典(おおはし ふみのり、1915年〈大正4年〉1月10日 - 1989年〈平成元年〉9月20日)は、日本の俳優、特殊技術専門の造形家、スーツアクター、特技監督、映画監督であり、日本特撮株式会社(日本特撮K.K.)の元代表取締役。本名は大橋 幸利(おおはし ゆきとし)。旧芸名は大橋 行利(読み同じ)など。 1915年(大正4年)1月10日、愛媛県に生まれる。東京美術学校(現在の東京藝術大学)彫刻科を卒業。 1935年(昭和10年)、松竹蒲田撮影所の演出課に入り、映画俳優、小津安二郎、島津保次郎の助監督としてキャリアをスタートさせ、キャメラマンも経験した。その後、末期の市川右太衛門プロダクションに関わる。
高木 晴子(たかぎ はるこ、1915年1月9日 - 2000… 高木 晴子(たかぎ はるこ、1915年1月9日 - 2000年10月22日)は、神奈川県出身の俳人。高浜虚子の五女で、高浜年尾、星野立子らの妹。 鎌倉生まれ。1932年フェリス女学院卒業。同年、虚子に京都の句会に連れて行かれ、初めて句会に出る。これ以降、虚子に師事する。1934年、日本銀行勤務の高木良一(餅花)と結婚、大森山王に居住。1944年、太平洋戦争中は虚子一家と長野県小諸に疎開した。1945年、秋田市に移住。初めて自分の句会「柿の花」を持つ。1947年「風荒き夜風に雁の帰るかな」「みちのくの帰雁に夜風悲しとも」の句が『ホトトギス』巻頭を飾る。1948年9月、夫が青森へ転勤、浦町字橋本日本銀行舎宅に居住。
佐々木 良作(ささき りょうさく、1915年(大正4年)1月… 佐々木 良作(ささき りょうさく、1915年(大正4年)1月8日 - 2000年(平成12年)3月9日)は、日本の政治家。位階は正三位。雅号は良素。 民社党委員長(第4代)、衆議院議員(12期)、参議院議員(1期)を歴任。 元鹿島建設副社長鹿島新吉は岳父に当たり元中央大学総長の升本喜兵衛は実兄、甥に初代養父市長の佐々木憲二がいる。 兵庫県養父郡伊佐村浅間(八鹿町を経て現養父市八鹿町浅間)生まれ。旧制豊岡中学、旧制松本高校文科乙類を経て、1939年(昭和14年)京都帝国大学法学部を卒業。創立間もない日本発送電に入社し、1946年に日本電気産業労働組合協議会(翌年電産労組として単一化される)が結成されると、初代書記長兼副闘争委員長となる。
大島 正光(おおしま まさみつ、1915年〈大正4年〉1月7… 大島 正光(おおしま まさみつ、1915年〈大正4年〉1月7日 - 2010年〈平成10年〉5月1日)は、日本の医学者、海軍軍医、航空自衛官。東京大学名誉教授。初代航空医学実験隊隊長。医用電子工学、人間工学、宇宙医学、航空医学などを研究。群馬県出身。 ノーベル化学賞受賞者の野依良治と土佐藩山内家第19代当主の山内豊功は娘婿。 群馬県前橋市出身。旧制太田中学校を四年修了し、旧制第一高等学校に入学。 1938年(昭和13年)に東京帝国大学医学部を卒業後、海軍軍医となる。 戦後は労働科学研究所(現・大原記念労働科学研究所)を経て、1958年(昭和33年)11月、航空医学実験隊長。1951年(昭和26年)に「精神疲労に関する研究」によって医学博士号を取得。
鷲巢 繁男(わしす しげお、1915年1月7日 - 1982… 鷲巢 繁男(わしす しげお、1915年1月7日 - 1982年7月27日)は、日本の詩人。宗教評論家。ギリシア正教徒。洗礼名ダニール。漢詩文では不羣(ふぐん)と号した。 サン=ジョン・ペルスに影響された長大な叙事詩的スタイルの作品が特徴である。少年時代からボードレール『悪の華』に原書で親しむなどしたが、戦時中に新興俳句運動に出会い、富澤赤黄男に師事して俳人として出発した。北海道石狩に戦後開拓に入るが、やがて離農、札幌で印刷会社に校閲者として就職した。その頃に現代詩に転じ、和田徹三の形而上詩誌「湾」同人として活動した。 定年退職とともに埼玉県に移住。前年に出版した『定本鷲巣繁男詩集』で歴程賞受賞。
永井 準(ながい じゅん、1915年(大正4年)1月5日 -… 永井 準(ながい じゅん、1915年(大正4年)1月5日 - 没年不詳)は、日本の実業家。米子今井書店元社長である。社団法人全国教科書供給協会 元理事副会長。 父は元鳥取県議会副議長永井貞録。境港市長を務めた安田貞栄の実兄。 1915年、永井貞録の三男として鳥取県境港市にて生まれた。鳥取県立米子中学校(現・県立米子東高等学校)、旧制山口高等学校を経て、1941年に東京帝国大学法学部卒業。同年、兵役に就く(陸軍主計中尉)。 1947年に鳥取県教科図書販売社長、1952年に富士書店社、1954年に全国教科書供給協会理事副会長、1971年に鳥取県書店組合理事長、日書連理事を歴任し、同年鳥取県印刷工業組合理事・副理事長に就任した。
木村 彰一(きむら しょういち、1915年1月5日 - 19… 木村 彰一(きむら しょういち、1915年1月5日 - 1986年1月18日)は、日本のロシア文学者、翻訳家。東京大学名誉教授。専門はロシア文学、スラブ文学。 1915年、ドイツ文学研究者・木村謹治の長男として、現在の秋田県五城目町にあたる南秋田郡大川村で生まれた。成蹊高等学校を経て、1934年、東京帝国大学文学部言語学科に入学し、西洋古典語を専攻。1937年に同学言語学科を卒業し、副手として大学に残る傍ら、同年4月に旧制日本医科大学予科講師となり、翌1938年、同予科教授に就任してラテン語を教えた。その間、東京外国語学校(現・東京外国語大学)専攻科(夜学)2年に入学し、八杉貞利にロシア語を学んだ。
中垣内 勝久(なかがいち かつひさ、1915年1月5日 - … 中垣内 勝久(なかがいち かつひさ、1915年1月5日 - 1991年7月2日)は、三重県出身のサッカー選手、サッカー指導者。 東京文理科大学附置東京高等師範学校体育科の在学中より蹴球部に所属。在学中の1935年6月に開催された全日本蹴球選手権大會(第15回天皇杯全日本サッカー選手権大会)に松永行らと出場して準優勝の成績を残した。 1939年に卒業して京都府庁で勤務。また、同時期に東京文理科大学教育学部に進学して、1945年に卒業している。なお、1940年6月に開催された紀元二千六百年奉祝東亜競技大会のサッカー日本代表に選出されたが、出場機会は無かった。なお、1951年12月に開催された親善試合のヘルシンボリIF戦で日本代表として出場を果たした。
石井 輝司(いしい てるじ、1915年1月5日 - 1996… 石井 輝司(いしい てるじ、1915年1月5日 - 1996年4月22日)は、日本の実業家。大正製薬2代目社長、明治薬科学園第5代理事長。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
堀田 正久(ほった まさひさ、1915年〈大正4年〉1月4日… 堀田 正久(ほった まさひさ、1915年〈大正4年〉1月4日 - 2003年〈平成15年〉1月13日)は、日本の政治家。3代目の千葉県佐倉市長で、4期16年にわたり務める。旧佐倉藩主堀田氏当主。実業家の小佐野賢治は義弟にあたる。位階は正五位。 堀田正恒伯爵の嫡男として東京府東京市本郷区弥生町に於いて生まれる。文京区立誠之小学校、東京府立第五中学校、東京高等学校を卒業。東京帝国大学法学部政治学科に入学し、1940年(昭和15年)卒業。短期現役海軍主計科士官(4期)を志願し、1940年5月、海軍経理学校に入学して海軍主計中尉に任官。同年9月に卒業。病のため長期療養となる。1942年(昭和17年)3月、主計大尉に進む。
桑野 通子(くわの みちこ、1915年1月4日 - 1946… 桑野 通子(くわの みちこ、1915年1月4日 - 1946年4月1日)は、昭和初期の女優。本名は桑野 通(くわの みち)。スラリとした抜群のプロポーションとモダンな美しさで人気を博し、高峰三枝子や三宅邦子・高杉早苗らと共に戦前の若手銀幕スターとして一翼を担った。愛称はミッチー。娘は元女優の桑野みゆき。
山田 勝次(やまだ かつじ、1915年1月4日 - 1989… 山田 勝次(やまだ かつじ、1915年1月4日 - 1989年7月18日)は、日本の実業家。東陶機器(現TOTO)社長や、同社取締役会長を務めた。正四位勲二等瑞宝章。 1936年長崎高等商業学校(現長崎大学)卒業、東洋陶器入社。1959年取締役昇格。1961年常務取締役。1973年専務取締役。1975年取締役副社長。1979年から取締役社長を務め、営業、開発、製造の連携を進めるなどした。1985年取締役会長。1986年勲二等瑞宝章受章。1989年相談役、正四位。性格は温厚。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
磯田 進(いそだ すすむ、1915年1月3日 - 2002年… 磯田 進(いそだ すすむ、1915年1月3日 - 2002年11月4日)は、日本の法学者。専門は労働法、法社会学。東京大学社会科学研究所教授、日本大学法学部教授を務めた。戦後日本の労働法学の形成に大きく寄与し、労働法理論と農村・村落の法社会学的研究で知られる。 京都府亀岡市に生まれ、群馬県で育つ。東京帝国大学法学部を卒業後、1939年に同学部助手となった。その後、法務庁事務官を経て、1949年に東京大学社会科学研究所助教授、1957年に教授へ昇任した。1975年に東京大学を定年退官し、東京大学名誉教授となった。同年から日本大学法学部教授として教育・研究を続け、労働法および法社会学分野の後進の育成に尽力した。
むの たけじ(本名:武野 武治、1915年1月2日 - 20… むの たけじ(本名:武野 武治、1915年1月2日 - 2016年8月21日)は、日本のジャーナリスト。太平洋戦争従軍記者としての経験・反省から、戦後に反戦・平和を訴え続けた。 新聞『たいまつ』を創刊。農村・農業の進路、出稼ぎ問題、農民運動の在り方、地方文化やサークル活動について追求し、「自分の言葉に自分の全体重をかける」記事を書き続けた。 秋田県仙北郡六郷町(現:美郷町)の小作農民の家に生まれる。県立横手中学校(現:秋田県立横手高等学校)で教師を務めていた石坂洋次郎 に、国語・作文・修身を教わった。1932年に東京外国語学校(現:東京外国語大学)西語部文科(文学)に入学。親の仕送りで学生生活を続けることが難しくなったので、1学年を終わったところで外務省の書記生になろうとしたが「満18歳では若すぎる」との理由で願書は却下された。
松本 一(まつもと はじめ、1915年(大正4年)1月2日 … 松本 一(まつもと はじめ、1915年(大正4年)1月2日 - 1998年(平成10年)1月16日)は、日本の政治家。第27・28代岡山市長。岡山県岡山市出身。 岡山市に生まれる。1933年岡山県第二中学校(現在の岡山県立岡山操山中学校・高等学校)卒業。1944年勲六等瑞宝章を受章。1947年上道郡幡多村助役。1951年同村長。1954年幡多村は岡山市に編入。翌1955年岡山市議会議員に当選。以後、市議を6期務め、副議長、議長に就任。1975年第40代全国市議会議長会会長、就実学園理事長に就任する。1977年紺綬褒章を受章。 1983年5月市長選にて初当選し、第27代岡山市長に就任。日本下水道協会会長 岡山市体育協会会長を務める。
吉田 雅夫(よしだ まさお、1915年1月2日 - 2003… 吉田 雅夫(よしだ まさお、1915年1月2日 - 2003年11月17日)は、日本のフルート奏者。北海道出身。本名︰吉田 正雄。NHK交響楽団首席奏者、東京藝術大学教授、日本フルート協会会長を務めた。演奏者、教育者として日本フルート界の発展に尽力し、多大な功績を残した。 幼少より音楽に強い興味を示し、15歳ではじめにピッコロを、間もなくフルートを始めた。中学校(旧制)卒業にあたって音楽学校へ進むことを親に反対され、慶應義塾大学法学部法律学科(フランス法)に入学。在学中はマンドリンクラブとワグネル・ソサイエティ・オーケストラに在籍した。大学で同姓同名の人物が3人おり、別人宛の月謝の督促状が届いたことに腹を立てて、以後「雅夫」を名乗るようになった。
下田 謙治(しもだ けんじ、1915年1月2日 - 1985… 下田 謙治(しもだ けんじ、1915年1月2日 - 1985年1月17日)は、日本の経営者。 東京都出身。1937年に東京帝国大学法学部法律学科を卒業し、同年に日本銀行に入行。金沢支店長、計理局長、国庫局長を歴任。1965年5月に退職し、積水化学工業専務に就任した。1969年5月に副社長に就任し、1971年5月には社長に昇格した。1973年5月に取締役相談役に就任し、1979年6月から相談役を務めた。 1985年1月17日結腸がんのために死去。70歳没。
高山 捷一(たかやま しょういち、1915年1月2日 - 2… 高山 捷一(たかやま しょういち、1915年1月2日 - 2017年3月5日)は、日本の海軍軍人、航空自衛官、航空工学者。最終階級は海軍技術少佐、航空自衛隊空将。戦前は零戦の審査補佐、銀河の設計・試作、紫電改の開発審査など、戦後は防衛庁技術幹部、技術開発官として国産初の量産型ジェット機T-1の開発やF-104Jの選定・ライセンス生産などを手掛けた。叙正四位。 1915年1月2日、高山益三の息子として名古屋で生まれる。父の転勤のため、1917年に大阪に転居。1927年に北野中学校に入学。父の失業により、鴻池家の奨学金を受けて卒業。私塾「清和塾」の塾生になり、奨学金を受けて第三高等学校、東京帝国大学に入学した。
千葉昇 隆利(ちばのぼり たかとし、1915年1月2日 - … 千葉昇 隆利(ちばのぼり たかとし、1915年1月2日 - 没年不詳)は、千葉県野田市出身で春日野部屋に所属した元大相撲力士。本名は長妻 高治。最高位は十両6枚目。 春日野部屋に入門し、1929年1月「野田ノ里」の四股名で初土俵を踏む。1936年5月十両昇進、この間四股名を「千葉昇」に改めた。十両は連続6場所務めた。幕下に落ちた1942年1月に廃業した。
芳賀 秀次郎(はが ひでじろう、1915年(大正4年)1月1… 芳賀 秀次郎(はが ひでじろう、1915年(大正4年)1月1日 - 1993年(平成5年)5月9日)は、日本の教育者、詩人、歌人。 山形県白鷹町横田尻に生まれる。 1935年山形師範学校(現:山形大学地域教育文化学部)卒業後、山大教育学部附属小学校、山形南高、上山高での勤務を経て、長井高校長を務める。退職後、日大山形高校に移り教鞭を執った。旧制山形二中・山南には23年にわたり在籍し、児童文学作家である鈴木実は文芸部で指導を受けた。 アララギ派の歌人として出発し、1943年に情報局・朝日新聞主催の懸賞作詞「大日本の歌」が一位入賞。戦後は、戦中の反省から短歌を捨て詩作におもむく。1952年に洋酒壽屋(現:サントリー)主催で公募された新国民歌では応募した「われら愛す」が一位で入選する。
北村 治禧(きたむら はるよし、1915年1月1日 - 20… 北村 治禧(きたむら はるよし、1915年1月1日 - 2001年8月21日)は、日本の彫刻家、日本芸術院会員。長崎県出身。父は北村西望、妻路子(大正12年生まれ)は柿原万蔵(秩父鉄道社長)の二女。 父西望は曠原社を率いると、1922年(大正11年)、西ケ原に彫刻研究所を開いた。1953年(昭和28年)に父が当時の滝野川区から東京都武蔵野市にアトリエと住まいを移すと、北村治禧がひとりで創作を続け、1983年(昭和58年)に建て替えた。東京都北区は治禧の没後、2002年にアトリエを受贈し、寄託された作品とともに「(仮称)彫刻アトリエ館」として定期的に公開している。 主な執筆者、編者の順。
福知海 勝美(ふくちうみ かつみ、1915年1月1日 - 没… 福知海 勝美(ふくちうみ かつみ、1915年1月1日 - 没年不明)は、昭和時代の元大相撲力士。若藤部屋所属。本名は水上 勝美。最高位は十両9枚目。 福岡県宗像郡福間町(現福津市)出身。若藤部屋に入門し、1932年2月「西郷」の四股名で初土俵を踏む。1936年5月十両昇進、この間四股名を「福知海」に改めた。十両で5勝6敗と負け越し、幕下に落ちた。1937年5月に廃業した。
名越 時正(なごや ときまさ、1915年(大正4年)1月 -… 名越 時正(なごや ときまさ、1915年(大正4年)1月 - 2005年(平成17年)10月11日)は、日本の近世思想研究者。専門は水戸学(徳川光圀の唱えた日本学)。彰考館総裁の名越克敏(南渓)の子孫である名越時孝(漠然)の孫であり、父は名越時中(陸軍少将)。 東京帝国大学で平泉澄に学び、その高弟として知られている。水戸市文化財審議会委員・茨城県文化財審議会委員。水戸史学会会長。日本学協会の設立準備委員会の理事。
不破 整(ふわ せい、1915年 - 1982年11月)は、… 不破 整(ふわ せい、1915年 - 1982年11月)は、東京府出身のサッカー選手。ポジションはGK。 東京府立第五中学校(現:東京都立小石川中等教育学校)を卒業して、第一早稲田高等学院へ、その後早稲田大学に入学。ア式蹴球部に在籍した。 不破が21歳の1936年4月にベルリンオリンピックの日本代表に選出されたが、同じ早稲田大学から代表に選出された佐野理平がスタメンを占めたため、出場機会は無かった。 また、早稲田大学在学中の1938年に全日本蹴球選手権大會(第18回天皇杯全日本サッカー選手権大会)で優勝、1939年には同大會(第19回天皇杯全日本サッカー選手権大会)で準優勝に貢献した。 1940年に早稲田大学理工学部採鉱冶金学科を卒業、同年日本製鋼所に入社するが、1941年春に太平洋戦争のために召集され満州に配属された。
木村 幸吉(きむら こうきち 1915年 - 1945年)は… 木村 幸吉(きむら こうきち 1915年 - 1945年)は、日本の元アマチュア野球選手。愛知県出身。 愛知一中(現・愛知県立旭丘高等学校)から1935年に早稲田大学に進み、野球をプレーした。ポジションは左翼手だったと伝わる。 早大卒業後応召され、1945年(正確な死没月日は不明)にフィリピンで戦死した。享年30。 東京ドーム内の野球殿堂博物館にある戦没野球人モニュメントに、彼の名が刻まれている。
成沢 翠映(なりさわ すいえい、本名:喜三郎、1915年(大… 成沢 翠映(なりさわ すいえい、本名:喜三郎、1915年(大正4年) - 1998年(平成10年))は、日本の画家。
三井 惣一(みつい そういち、1915年(大正4年) - 1… 三井 惣一(みつい そういち、1915年(大正4年) - 1953年(昭和28年))は、日本の画家。
尾亀 清四郎(おがめ せいしろう、1915年 - 2015年… 尾亀 清四郎(おがめ せいしろう、1915年 - 2015年)は、日本の建築設備士。大阪工業大学大樹会初代会長。三晃空調元会長・相談役。日本建築協会・日本建築設備士協会元理事。建築設備技術者協会近畿支部長。大阪府建築士会名誉顧問・元副会長。 空気調和・衛生工学会近畿支部元副支部長。 1936年関西高等工学校(現:大阪工業大学)工学部建築学科卒業。戦時下で外地中隊指揮班での任務を経て、内地に引き揚げた後の1946年三晃空調に入社。1947年同社取締役。1960年専務取締役。1964年同社代表取締役社長。1979年同社取締役会長。この間、1974年大阪工業大学建築士同窓会「大樹会」初代会長を務めた。
小坂 淳夫(こさか きよお、1915年 - 2005年)は、… 小坂 淳夫(こさか きよお、1915年 - 2005年)は、日本の内科医。岡山大学学長や、岡山県立大学学長、大学入試センター所長を務めた。従三位勲二等旭日重光章。 岡山県赤磐郡鳥取上村(現赤磐市)山口生まれ。1940年岡山医科大学(現岡山大学)卒業。1949年医学博士。1957年岡山大学医学部教授(内科学)。1965年岡山県医師会理事。1973年医学部長。同年岡山県三木記念賞受賞。74年日本糖尿病学会中国・四国支部長。75年岡山大学学長。82年大学入試センター所長。83年山陽新聞社賞受賞。87年勲二等旭日重光章受章。88年岡山県文化賞受賞。同年赤坂町名誉町民。93年初代岡山県立大学学長。05年従三位。
磯野 政次(いその せいじ、1915年 - 没年不明)は、和… 磯野 政次(いその せいじ、1915年 - 没年不明)は、和歌山県出身のプロ野球選手。 海南中学校から関西大学を経て、1938年に東京セネタースへ入団。同年の秋に退団。 この項目は、野球選手に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ野球選手/P野球)。
熊倉 正弥(くまくら まさや、1915年-1995年)は、日… 熊倉 正弥(くまくら まさや、1915年-1995年)は、日本の記者、作家。神田仁人(ほうじん)とも 。 熊倉弥五郎の次男で、姉に島津フミヨがいる。慶應大学出身。1939年に朝日新聞社へ入社し、論説委員などを務める。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
松宮 康夫(まつみや やすお、1915年 - 1995年)は… 松宮 康夫(まつみや やすお、1915年 - 1995年)は、日本の実業家。東京貿易株式会社創業者、東京貿易社長。 1940年(昭和15年)慶応義塾大学経済学部卒業。 兵役を終えて帰国した後、1947年東京貿易商会(1957年東京貿易に社名変更)を設立。その他日本貿易会、日本鉄鋼輸出組合、日中経済協会、ソ連東欧貿易会、国際貿易促進協会各理事、経済団体連合会評議員、東京商工会議所貿易部会常任委員、経済同友会幹事、日豪経済委員会、日ソ経済委員会各委員、日本・カタール友好協会副会長を務め、1995年取締役会長に就任した。 第1回経済界大賞 敢闘賞受賞 1973年 藍綬褒章受章 東京貿易グループ社史 35年のあゆみ
長濱 善夫(ながはま よしお、1915年(大正4年) - 1… 長濱 善夫(ながはま よしお、1915年(大正4年) - 1961年(昭和36年)6月)は日本の医学者、眼科医。医学博士。千葉医科大学(千葉大学)卒業。千葉大学医学部講師、国立横浜療養所内科医長を歴任した。日本東洋医学会の創設にも携わる。 1915年、神奈川県生まれ。1940年千葉医科大学卒業後、同大の眼科教室に所属し、伊藤弥恵治の薫陶を受け、主として東洋医学研究室において研究に従事する。 1947年(昭和22年)藤平健らとともに千葉医科大学の公認課外講座として「東洋医学自由講座」を設置、1950年(昭和25年)日本東洋医学会の創設にあたっては学会準備委員会委員として尽力した。 1949年春に、千葉医科大学で視神経萎縮という悪性の眼病を患った鍼響に敏感な患者と遭遇したことがきっかけで鍼響の研究を行うようになった。
相沢 久(あいざわ ひさし、1915年 - )は、日本の政治… 相沢 久(あいざわ ひさし、1915年 - )は、日本の政治学者。宮城県生まれ。東京帝国大学法学部卒。福島大学助教授、1964年から1965年、1970年から1971年にかけての2度、西ドイツ・ケルン大学に学ぶ。アテネオ・デ・マニラ大学 (Ateneo de Manila University) 客員教授、上智大学法学部教授、法学部長。文化庁宗教法人審議会委員。 1962年 東北大学 法学博士 「政教分離・信教の自由の研究」
稲田 孝(いなだ たかし、1915年 - 2005年)は、日… 稲田 孝(いなだ たかし、1915年 - 2005年)は、日本の中国文学者。 1940年東京帝国大学文学部支那文学科卒。東京学芸大学助教授、教授、1978年定年退官、名誉教授、杏林大学教授、日本大学文理学部教授。
横塚 光雄(よこづか みつお、1915年 - 1977年)は… 横塚 光雄(よこづか みつお、1915年 - 1977年)は、フランス文学者、小説家。 東京帝国大学仏文科卒、1939年佐倉で入営、華北へ赴く。1943年除隊、1944年再召集、1945年伍長で復員。1953年横浜大学[疑問点 – ノート]助教授、横浜市立大学教授。在職中に死去。アンドレ・マルローの研究、フランス文学の翻訳を行い、軍隊経験を描いた小説が没後刊行された。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
吉田 耕三(よしだ こうぞう、1915年 - 2013年)は… 吉田 耕三(よしだ こうぞう、1915年 - 2013年)は、日本の美術評論家。 神奈川県横浜市出身。日本画家の速水御舟の甥。御舟から日本画を学び、御舟の日本画の鑑定人を務める。現代陶芸の旗手といわれた加守田章二の才能を認める。陶芸の公募展・日本陶芸展創設を企画する。 東京美術学校(現・東京藝術大学)日本画科卒業。復員後、世界的な陶磁学者で陶芸家・小山富士夫の助手となり、その後、東京帝室博物館(現・東京国立博物館)陶磁器主任で、陶磁器の批評と収集の天才といわれる北原大輔、人間国宝・荒川豊蔵、百五銀行頭取で陶芸作家・川喜田半泥子から焼き物に関する学問と技術を学ぶ。北大路魯山人の弟子でもある。 東京国立近代美術館の創立時から勤務して日本画と工芸を担当し、総括主任研究官などを歴任。
矢板 玄(やいた くろし、1915年 - 1998年)は、昭… 矢板 玄(やいた くろし、1915年 - 1998年)は、昭和期の実業家。亜細亜産業株式会社社長。 1915年(大正4年)、栃木県矢板市にて、矢板玄蕃(げんば)の長子として生まる。玄蕃の跡を継ぎ、矢板家の十五代当主となる。なお玄蕃の祖父は矢板市の名士矢板武である。 横浜高等工業学校(現在の横浜国立大学理工学部)の電気化学科を卒業後、昭和電工に入社した。その後まもなく中国大陸に渡り、大日本帝国陸軍の命を受け、矢板機関を組織し活躍した。1940年(昭和15年)、勲六等瑞宝章を受勲する。 第二次世界大戦後は亜細亜産業株式会社を起業し、社長となる。亜細亜産業が解散した後は、1957年(昭和32年)に東山工業株式会社の取締役となる。
森下 貞義(もりした さだよし、1915年〈大正4年〉 - … 森下 貞義(もりした さだよし、1915年〈大正4年〉 - 2001年〈平成13年〉3月)は、日本の紙芝居師。東京府荒川出身。父は紙芝居師の森下貞三、弟も同じく紙芝居師の森下正雄。 17歳のとき、ごく自然に父と同じ紙芝居師の仕事に就いた。当時は日本全国の紙芝居師の数は5万人ともいわれる、紙芝居の全盛期であった。 戦中は仕事を中断したものの、1948年(昭和23年)に復帰。この頃が紙芝居の第2のピークであり、東京だけでも3000人以上の紙芝居師がいた。1953年(昭和28年)、東京都紙芝居コンクールで特選に選ばれた。前年の同コンクールで弟の正雄も特選に選ばれていたことで、紙芝居一家として有名になった。
小金丸 幾久(こがねまる いくひさ、大正4年(1915年) … 小金丸 幾久(こがねまる いくひさ、大正4年(1915年) - 平成15年(2003年)3月6日)は、長崎県壱岐郡武生水村(現・壱岐市)出身の彫刻家、太平洋美術学校教授、東京大学建築学科講師。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
香川 美人(かがわ よしと、1915年(大正4年)― 200… 香川 美人(かがわ よしと、1915年(大正4年)― 2008年(平成20年))は、愛媛県大三島出身の歌人。実兄の香川末光,甥の香川哲三も歌人。1930年(昭和5年)、「満州短歌」(後の「短歌中原」)に入会し八木沼丈夫に師事した。終戦後、郷里の愛媛県大三島に引き揚げ、1948年(昭和23年)に香川末光・藤原弘男らと「うづしほ短歌会」を結成した。1954年(昭和29年)に「歩道短歌会」に入会し佐藤佐太郎に師事した。「満州短歌」及び「短歌中原」時代の作品を纏めた歌集『碧落』、「歩道」入会後の作品を収めた歌集『風濤』、歌集『海光』がある。写生に立脚した精緻な対象描写と日常生活を柔軟な感性で捉えた歌風に特色がある。
初代 猿若 清方(しょだい さるわか きよかた、1915年(… 初代 猿若 清方(しょだい さるわか きよかた、1915年(大正4年)- 2003年(平成15年))は、日本舞踊家、振付師、俳優、脚本家。江戸時代以来途絶えていた舞踊である猿若流を復興した。本名、堀越実。 大正4年、東京・亀戸生まれ。新内の太夫だった父の影響で4歳から坂東三寿次に師事し日本舞踊を習う。11歳より初代花柳輔三郎の内弟子となり、花柳輔五郎を名乗った。1941年(昭和16年)に当時の花柳流家元である二代目花柳壽輔の許しを得て花柳流を辞し、猿若舞雀(さるわか ぶじゃく、舞雀は初代傳九郎の俳名)を名乗り、江戸時代以来途絶えていた猿若流を復興させ七世家元となった。1947年(昭和22年)に清方と改名。
安藤 之制(あんどう ゆきのり、1915年 - 没年月日不明… 安藤 之制(あんどう ゆきのり、1915年 - 没年月日不明)は、愛知県出身の元プロ野球選手(内野手)。
若松 紀志子(わかまつ きしこ、1915年 - 2012年4… 若松 紀志子(わかまつ きしこ、1915年 - 2012年4月23日)は、日本のピアニスト。2010年現在95歳を迎えた時点でも、ピアノ指導に従事。教え子の数は1000人を超える。指揮者小林研一郎を見出した。アザミ会・アートスペースエリコーナ主宰。夫は画家の若松光一郎。
磯野 友彦(いその ともひこ、1915年 - 1986年11… 磯野 友彦(いその ともひこ、1915年 - 1986年11月9日)は、日本の哲学者。 東京出身。成蹊小学校、東京市立第一中学校、正則中学校、早稲田大学文学部哲学科卒、同文学部助教授、教授、85年定年、名誉教授。1966年『哲学逍遥 懐疑主義と動物的信』(ジョージ・サンタヤーナ)で日本翻訳文化賞受賞。