大山 康晴(おおやま やすはる、1923年〈大正12年〉3月… 大山 康晴(おおやま やすはる、1923年〈大正12年〉3月13日 - 1992年〈平成4年〉7月26日)は、将棋棋士。十五世名人。棋士番号26。木見金治郎九段門下。 主な記録としては、公式タイトル獲得80期(歴代2位)、一般棋戦優勝44回(歴代2位)、通算1433勝(歴代2位)等がある。永世名人・永世十段・永世王位・永世棋聖・永世王将の5つの永世称号を保持。 順位戦A級に在籍しながら、1976年(昭和51年)12月から1989年(平成元年)5月まで日本将棋連盟会長を務めた。弟子には有吉道夫、中田功、行方尚史などがいる。1990年(平成2年)には将棋界から初めて文化功労者に選ばれた。正四位勲二等瑞宝章。
岡田 陽(おかだ あきら、1923年3月11日 - 2009… 岡田 陽(おかだ あきら、1923年3月11日 - 2009年11月26日)は、日本の児童演劇研究者。玉川大学名誉教授。学校劇、演劇教育の専門家。 鳥取県出身。岡田資陸軍中将(戦後、B級戦犯として処刑された)の長男として生まれる。玉川工業専門学校(現玉川大学)卒。玉川学園創立者小原國芳の次女純子(石井漠に師事し、戦後玉川学園で舞踊・リトミック教育者として活動。岡田資を描いた大岡昇平原作・小泉堯史監督の映画『明日への遺言』では子息とその婚約者として登場)と結婚。玉川学園中学部長・高等部長を経て玉川大学教授、文学部次長、名誉教授。在職中は玉川大学文学部芸術学科を創設。演劇専攻、児童専修課程などを創設。
梅田 修(うめだ おさむ、1923年3月11日 - )は、経… 梅田 修(うめだ おさむ、1923年3月11日 - )は、経営学者、経営コンサルタント。 日本経営開発研究所を設立、梅田経営研究所、梅田生産財マーケティング研究所所長。経営戦略、生産財マーケティング、生産管理を研究。 1942年米沢高等工業学校機械工学科卒。技術士(生産管理部門)。住友重機、日本飛行機をへて、日本生産性本部経営コンサルタント指導養成講座に入る。本部指導経営主任コンサルタントをつとめた。
内藤 登(ないとう のぼる、1923年(大正12年)3月10… 内藤 登(ないとう のぼる、1923年(大正12年)3月10日 - 2008年(平成20年)9月8日)は、日本の政治家。山梨県韮崎市長(4期)。位階は従四位。 山梨県出身。1943年亜細亜大学経済学部卒。卒業後は陸軍に入る。1951年北巨摩郡円野村会議員に当選。円野村は合併で韮崎市となり、韮崎市議会議員となる。同市の副議長、議長を務めた。1967年山梨県議会議員に当選。3期務め、副議長、議長を務める。1978年韮崎市長に当選。市長は1994年まで4期務めた。2008年死去。死没日付をもって従四位に叙された。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
松原 純一(まつばら じゅんいち、1923年3月10日 - … 松原 純一(まつばら じゅんいち、1923年3月10日 - 1966年6月22日)は、日本の編集者・近代文学研究者。元相模女子大学教授。角川書店創業当時の中心人物。 創業当初の角川書店の中心人物として活躍し、角川源義を助けた。のち相模女子大教授に就任。森鷗外に関心をもち、自ら推進した「表現」誌上に「舞姫」論及び小倉時代の鷗外について論考を発表、また森しげ女の小説についても言及している。
大類 純(おおるい じゅん、1923年3月10日-1989年… 大類 純(おおるい じゅん、1923年3月10日-1989年3月18日)はインド学者。国士舘大学教授を歴任。 中国青島生まれ。1950年旧制東京大学帝国文学部印度哲学梵文学科卒、同大助手、東洋大学講師、助教授、1967年国士舘大学助教授、73年教授、その後文学部長、評議員。
郡司 利男(ぐんし としお、1923年 <大正12年> 3月… 郡司 利男(ぐんし としお、1923年 <大正12年> 3月10日 - 1999年 <平成11年> 10月4日)は、日本の英語学者、言語学者、言語文化研究者、翻訳家。明治学院大学教授、同・言語文化研究所所長、筑波大学教授、同・附属図書館長、獨協大学教授、鹿児島女子大学(現・志學館大学)教授、同・学長等を歴任した。筑波大学および獨協大学の名誉教授。位階は正五位。 本名の利男のほか、筆名として郡司 外史(ぐんし がいし)、俳号として酔眼(すいがん)を用いた。 1923年3月10日、鹿児島県囎唹郡志布志町(現・志布志市)に生まれる。 郵便局通信事務員を経て、1943年、中央大学第二予科(英法)に入学するが翌1944年除籍。
井波 唯志(いなみ ただし、1923年3月10日 - 201… 井波 唯志(いなみ ただし、1923年3月10日 - 2011年1月25日)は、日本の漆芸家。加賀蒔絵の系譜に学びつつ、日展を主たる発表の場として活動し、作品「晴礁」により日本芸術院賞を受賞した。 石川県金沢市に生まれ、代々加賀蒔絵を営む家に育った。伝統的な漆芸技法を基盤としながら、日展を中心に漆屏風や漆芸額などを発表し、抽象性を帯びた現代的な作風で評価を受けた。 1923年、金沢市に生まれる。本名は忠。父は二代目喜六斎で、井波はその長男であった。1944年、東京美術学校附属文部省工芸技術講習所を卒業した。在学中には漆芸を山崎覚太郎に、陶芸を加藤土師萌と富本憲吉に学んだとされる。 卒業後は父から加賀蒔絵の技術を学んだが、活動の中心は日本工芸会ではなく、日展および日本現代工芸美術展に置かれた。
栃木野 竹三郎(とちぎの たけさぶろう、1923年3月10日… 栃木野 竹三郎(とちぎの たけさぶろう、1923年3月10日 - 没年不明)は、出羽海部屋に所属した元力士。本名は岩井 竹三郎(いわい たけさぶろう)。現在の栃木県鹿沼市出身。175cm、84kg。最高位は東十両7枚目。得意技は突っ張り、左四つ。 1940年5月場所に初土俵。1947年11月場所に十両昇進し、連続して3場所務めたが勝ち越すことはできず、1949年1月場所に25歳で廃業した。激しい突っ張りで攻め立てる闘志に満ちた取り口が身上であったが、左四つでも相撲が取れた。
原條 あき子(はらじょう あきこ、1923年3月9日 - 2… 原條 あき子(はらじょう あきこ、1923年3月9日 - 2003年)は、日本の詩人。マチネ・ポエティクに属し、押韻定型詩を試みた。芥川賞作家池澤夏樹の母。声優の池澤春菜と起業家、投資家の池澤摩耶は孫。画家のSaya(摩耶の娘)は曽孫。 本名は山下澄。兵庫県神戸市に生まれる。兵庫県立第一高等女学校(現在の兵庫県立神戸高等学校)を卒業後上京、日本女子大学に学ぶ。第2外国語として学んでいたフランス語の力をつけるためにアテネ・フランセに通い、福永武彦と知り合う。福永の誘いによって、マチネ・ポエティクの集まりに参加し、原條あき子の筆名を使用するようになる。1944年、女子大卒業直後に福永と結婚、1945年に長子夏樹をもうける。
中村 恒也(なかむら つねや、1923年(大正12年)3月8… 中村 恒也(なかむら つねや、1923年(大正12年)3月8日 - 2018年(平成30年)12月25日)は、日本の技術者、実業家。セイコーエプソン代表取締役社長を務めた。 山形県酒田市出身。山形県立酒田中学校(現・山形県立酒田東高等学校)を経て、1944年日本大学理工学部機械工学科卒業、第二精工舎(現・セイコーインスツル)入社。1945年に、別会社である株式会社第二精工舎諏訪工場(第二精工舎諏訪工場→諏訪精工舎→セイコーエプソン〈現〉)に転籍した。1956年機械式腕時計「マーベル」を独自に設計し商品化。1959年自動巻腕時計「ジャイロマーベル」を開発。 1963年に諏訪精工舎取締役に就き、1964年東京オリンピックで使用するクォーツ時計の開発プロジェクトリーダーを務めた。
桧 瑛司(ひのき えいじ、1923年3月7日 - 1996年… 桧 瑛司(ひのき えいじ、1923年3月7日 - 1996年1月10日)は、徳島県鳴門市出身の舞踊家。早稲田大学文学部卒業。 1948年(昭和23年)に桧瑛司創作舞踊研究所創設。現代舞踊協会四国支部長。民俗芸能集団・阿波三郎座主宰。徳島民謡協会会長、徳島県文化財保護審議委員、民俗芸能学会会員などを歴任。文部大臣賞地域文化功労賞や徳島県文化賞などの賞を受賞。 この項目は、舞台芸術に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(Portal:舞台芸術)。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
石田 名香雄(いしだ なかお、1923年〈大正12年〉3月6… 石田 名香雄(いしだ なかお、1923年〈大正12年〉3月6日 - 2009年〈平成21年〉12月4日)は、日本の医学者、ウイルス学者。元東北大学学長。仙台市名誉市民。二男は分子生物学者の石田直理雄。 新潟県上越市生まれ。旧制仙台一中、旧制二高、東北帝国大学医学部卒業。ウイルスベクターとして知られるセンダイウイルス、また、制癌抗生物質ネオカルチノスタチンを発見した。野口英世記念医学賞、日本学士院賞などを受賞。お酒が好きなことで知られており、利酒が趣味だった。学生に抜群の人気があった。 ミシガン大学ウイルス研究所留学
岡部 伊都子(おかべ いつこ、1923年3月6日 - 200… 岡部 伊都子(おかべ いつこ、1923年3月6日 - 2008年4月29日)は、日本の随筆家。 大阪府大阪市出身。1936年、相愛高等女学校を結核のため中退。婚約者が沖縄戦で戦死しており、この時の体験から、自分を「加害の女」と呼び、「女は被害者ではない。送り出した自分も戦争に加担した」と語っていた。戦後すぐ結婚したが、7年後に離婚[要出典]。同人誌『文学室』に参加[要出典]、谷沢永一は岡部の才能を最初に認めたのは自分であると書いている(『回想開高健』[要ページ番号])。 1954年から朝日放送「四百字の言葉」の原稿を担当し、これをまとめた『おむすびの味』(1956年)で認められる。美術・伝統・自然・歴史・戦争・沖縄・差別・環境問題など、様々なジャンルの著書・連載を多数残した。
真弓 常忠(まゆみ つねただ、1923年3月6日 - 201… 真弓 常忠(まゆみ つねただ、1923年3月6日 - 2019年4月3日)は、日本の神職・神道学者・歴史学者。皇學館大学名誉教授。住吉大社名誉宮司。 大阪市生まれ。神宮皇學館大學卒業後、1975年まで住吉大社禰宜、1993年まで皇學館大学教授。退任後は八坂神社宮司を経て、住吉大社宮司に就いた。2012年より同名誉宮司。2019年4月3日に死去。96歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
後藤 康男(ごとう やすお、1923年3月6日 - 2002… 後藤 康男(ごとう やすお、1923年3月6日 - 2002年11月27日)は、日本の実業家で、安田火災海上保険(現・損害保険ジャパン)元会長。 愛媛県松山市出身。1949年安田火災海上保険株式会社に入社。働きながら法政大学に通った。1951年法政大学経済学部卒業。 福岡支店長、社長室長などを経て1983年から取締役社長に。社長時代に、ゴッホの名画「ひまわり」を購入したことは有名。1992年から経団連自然保護基金運営協議会会長となった。環境派の経済人としてさまざまな活動を行ったことでも評価が高い。1988年藍綬褒章を受章。 「ひまわり」について、購入者(漠然と後藤康男を指すと思われる)が「死んだら棺おけに一緒に入れて焼いてくれ」という旨の発言をしたとの都市伝説があるが、そのような発言があったのはゴッホ作「医師ガシェの肖像」を購入した当時大昭和製紙名誉会長の齊藤了英であり、高額購入されたゴッホ作ということで勘違いされているものと思われる。
藤平 春男(ふじひら はるお、1923年3月6日 - 199… 藤平 春男(ふじひら はるお、1923年3月6日 - 1995年7月19日)は、日本の国文学者。早稲田大学名誉教授。 東京府生まれ。1944年早稲田大学文学部卒業、早稲田大学第二文学部教授を務め、1976-1978年学部長、1992年定年退任、名誉教授。和歌、特に新古今和歌集が専門。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
永井 弥太郎(ながい やたろう、1923年3月5日 - 20… 永井 弥太郎(ながい やたろう、1923年3月5日 - 2007年3月21日)は、日本の経営者。三菱レイヨン社長を務めた。 兵庫県出身。1944年に京都帝国大学経済学部を卒業し、1946年11月に三菱化成工業に入社。1965年5月に三菱レイヨンに移り、1973年11月に取締役に就任し、常務、専務を経て、1987年6月に副社長に就任し、1988年6月に社長に昇格。1993年6月に会長に就任し、1998年4月に相談役を退く。 2007年3月21日に心不全のために死去。84歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
島田 一男(しまだ かずお、1923年3月5日 - 1995… 島田 一男(しまだ かずお、1923年3月5日 - 1995年10月5日)は、日本の社会心理学者・評論家。 岩手県生まれ。東京文理科大学心理学科卒、研究科修了。1962年「社会的態度に関する組織的研究」で文学博士の学位を取得。聖心女子大学文学部助教授を経て、教授。1993年定年退任、名誉教授、川村学園女子大学教授、文学部長を務める。日本心理学会理事・日本社会心理学会会長を歴任し、マスコミでも幅広く活躍した。日本社会心理学会名誉会員。
永井 道雄(ながい みちお、1923年 <大正12年> 3月… 永井 道雄(ながい みちお、1923年 <大正12年> 3月4日 - 2000年 <平成12年> 3月17日)は、日本の教育社会学者。文部大臣(第95代)。位階は正三位。 戦前に立憲民政党幹事長や拓務大臣、逓信大臣、鉄道大臣を務めた永井柳太郎の次男。 東京に生まれる。東京高等師範学校附属小学校(現:筑波大学附属小学校)卒業。当時の同級生には哲学者の鶴見俊輔、中央公論社社長の嶋中鵬二、作家の中井英夫らがいる。東京高等師範学校附属中学校(現:筑波大学附属中学校・高等学校)、旧制武蔵高校を経て、京都帝国大学文学部を卒業。京都大学人文科学研究所助手、米国へ留学し、1952年オハイオ州立大学で教育社会学のPh.D.を取得。
大埜 正雄(おおの まさお、1923年3月2日 - 2001… 大埜 正雄(おおの まさお、1923年3月2日 - 2001年2月11日)は、神奈川県出身のサッカー選手、サッカー指導者。ポジションはFW、HB。 神奈川県立湘南中学時代の1939年に全国中等学校蹴球選手権大会(全国高等学校サッカー選手権大会の前身)でベスト4に進出。1940年に湘南中学を卒業し、旧制水戸高等学校に進学。東京帝国大学経済学部へ進学しア式蹴球部に所属。東大LB(現役、OBで構成される混成チーム)の一員として有馬洪らと共に1949年の全日本選手権の優勝に貢献した。 大学卒業後は日産化学工業に入社した(勤務先でサッカー部活動を行ったかは不明)。 1955年に松永碩、岩淵功らと共に東京クラブに加入。
森政 逸郎(もりまさ いつろう、1923年(大正12年)3月… 森政 逸郎(もりまさ いつろう、1923年(大正12年)3月2日 - 1992年(平成4年)6月8日)は、実業家である。元日清製粉(現:日清製粉グループ)取締役。広島県出身。 1923年(大正11年)、広島県に生れる。旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高校)へ進学し、同期には、日本原子力研究所副理事長となる天野昇、新見市長となる福田正彦、丸善石油副参与・北海道の丸善石油関連社長となる古米初男、大学教授となる田井庄之助がいた。1940年(昭和15年)3月に同校卒業した。 その後、同年に旧制松山高等学校文科乙類へ進学する。1943年(昭和18年)に同校を卒業を経て、京都帝国大学法学部へ進学。1946年(昭和21年)3月に京都帝国大学法学部を卒業する。
井上 吉夫(いのうえ きちお、1923年〈大正12年〉3月1… 井上 吉夫(いのうえ きちお、1923年〈大正12年〉3月1日 - 2003年〈平成15年〉10月24日)は、日本の政治家。位階は正三位、勲等は勲一等。参議院議員(5期)、国務大臣(北海道開発庁長官、沖縄開発庁長官、国土庁長官)、鹿児島県議会議員(3期)、自由民主党参議院議員会長等を歴任。 鹿児島県出水郡出水町(現在の出水市)出身。地主だが自作もおこなう豪農の家に生まれる。祖父の吉太郎は村会議員だった。旧制鹿児島県立出水中学校(現:鹿児島県立出水高等学校)を経て、1942年に旧制熊本高等工業学校(現:熊本大学工学部)採鉱冶金科を卒業。卒業と同時に日本鉱業に就職し、四国の白滝鉱山にて勤務するが、1年後に召集される。
原田 泰夫(はらだ やすお、1923年3月1日 - 2004… 原田 泰夫(はらだ やすお、1923年3月1日 - 2004年7月11日)は、将棋棋士。棋士番号35。新潟県西蒲原郡(後の分水町、現在の燕市)出身。分水町名誉町民。加藤治郎名誉九段門下。 10歳のころ、13世名人(関根金次郎)の立派な指導対局姿に心を打たれ、棋士を志す。原田の父は棋士になることに反対していたが、結局は高等小学校を卒業した原田とともに上京して棋士になる手助けをしている。はじめに縁のあった溝呂木光治(当時七段)を訪ねたが、溝呂木は当時三段で足踏みしていた弟子の間宮純一の名前を出して「自分は弟子運が悪い」「私のところじゃ四段になれない」と入門を断り、加藤治郎(当時五段)を紹介した。このため加藤に弟子入りすることになった。
遠山 徳男(とおやま とくお、1923年3月 - 1981年… 遠山 徳男(とおやま とくお、1923年3月 - 1981年8月)は日本の農家、作詞家。 第二次世界大戦後の復興期に作られた宮城県の2代目県民歌「輝く郷土」の作詞者。名前の表記を「徳雄」とする資料も見られる。 1923年(大正12年)3月、宮城県桃生郡桃生村永井表(現在の石巻市桃生町永井)で農家の長男として生まれる。桃生尋常小学校(現在の石巻市立桃生小学校)在学中より成績優秀で、雑誌に短歌を投稿して何度か掲載されたことがある。 1944年(昭和19年)9月に応召、配属先の仙台東部第22連隊で終戦を迎え、復員する。1946年(昭和21年)、宮城県が河北新報社と合同で1938年(昭和13年)制定の「宮城県民歌」に代わる2代目の県民歌を懸賞募集した際に応募作が一等入選で採用され、村を挙げた祝賀行事が盛大に行われた。
桜田 勝義(さくらだ かつよし、1923年(大正12年)3月… 桜田 勝義(さくらだ かつよし、1923年(大正12年)3月 - 1974年(昭和49年))は、日本の法学者。宮城県生まれ。1949年東北帝国大学法学部卒、1951年東北大学経済学部卒業、1965年法学博士(東北大学)(学位論文「少数意見制の研究」)。1954年山形大学講師、助教授、1966年新潟大学教授。
河本 一郎(かわもと いちろう、1923年〈大正12年〉2月… 河本 一郎(かわもと いちろう、1923年〈大正12年〉2月27日 - 2017年〈平成29年〉4月18日)は、日本の法学者。専門は商法・証券取引法。学位は法学博士(神戸大学・論文博士・1975年)。神戸大学名誉教授、神戸学院大学名誉教授。日本学士院会員。弁護士(大阪弁護士会所属)。勲等は勲二等。 神戸大学法学部教授、神戸大学法学部学部長、神戸学院大学法学部教授などを歴任した。大隅健一郎門下。弟子に川口恭弘、森田章など。 商法などを専攻する大阪府出身の法学者である。1958年に『民商法雑誌』誌上で論文「手形法における悪意の抗弁」を発表した。そこで発表された理論は、後に商法の手形・小切手法の分野において、「河本フォーミュラ」と称されるようになった。
谷田 昌平(たにだ しょうへい、1923年2月26日 - 2… 谷田 昌平(たにだ しょうへい、1923年2月26日 - 2007年8月19日)は、日本の編集者、文芸評論家。堀辰雄の研究で知られる。妻は詩人の牟礼慶子。 徳島県生まれ。兵庫県神戸市出身。大阪府立池田師範学校、東京高等師範学校を経て、京都大学文学部卒。在学中から堀辰雄研究を行い、大阪府立桜塚高等学校教諭時代に遠藤周作と知り合った縁から、「三田文学」に「堀辰雄年表」が掲載される。1954年に新潮社に入社。出版部時代、『武者小路実篤全集』を皮切りに、室生犀星『杏っ子』、幸田文『流れる』、安部公房『砂の女』、遠藤周作『沈黙』など、編集者として数々の話題作を手掛けた。1976年『新潮』編集長。町田に転居した遠藤に誘われて「町田会」にも参加し、多くの文豪たちと交友を持った。
秋山 さと子(あきやま さとこ、本名:秋山達子(読み方同じ)… 秋山 さと子(あきやま さとこ、本名:秋山達子(読み方同じ)、1923年2月26日 - 1992年1月5日)は、ユング派の心理学者。お茶の水女子大学講師、駒澤大学講師、東洋大学講師。東京ユング研究会主宰。 東京都出身。1923年、曹洞宗の寺院に生まれる。1940年、文化学院を卒業。19歳の時結婚。28歳で離婚。その後ジャズ歌手やディスクジョッキー、デザイナーとして活動する。35歳の時に駒澤大学仏教学部に入学、更に大学院へ進学。1964年に渡欧して、ユング心理学研究所に4年間在籍。その経験は、「チュリッヒ夢日記」として出版され、当時のユング派の夢分析の実体験を知ることができる。
今川 彦二(いまがわ ひこじ、1923年2月26日 - 20… 今川 彦二(いまがわ ひこじ、1923年2月26日 - 2009年9月6日)は、日本の経営者。住友セメント(現在の住友大阪セメント)社長、会長を務めた。 徳島県出身。1948年に東京大学経済学部商業学科を卒業し、同年に住友鉱業(現在の住友金属鉱山)に入社した。1973年4月に住友セメントに転じ、1975年5月に取締役に就任し、1978年6月に常務を経て、1982年6月に社長に就任し、1990年6月には会長に就任した。1994年10月に取締役相談役に就任し、1996年6月に相談役を経て、2000年6月には名誉顧問に就任。 1989年4月に藍綬褒章を受章した。 2009年9月6日、腎不全のために死去。
吉田 禎吾(よしだ ていご、1923年2月26日 - 201… 吉田 禎吾(よしだ ていご、1923年2月26日 - 2018年5月29日)は、日本の人類学者。東京大学名誉教授。1999年勲三等瑞宝章受章。 1923年、東京で生まれた。東京帝国大学文学部心理学科で学び、1947年に卒業。 卒業後は、東京学芸大に奉職後、1949年ガリオア留学生としてオレゴン大に学ぶ。1953年九州大学教育学部助教授に就任。1969年、東京大学教養学部教授となった。1983年に東京大学を定年退官し、1987年に東京大学名誉教授となった。1985年、学位論文『神秘性の構造:宗教人類学再考』を慶応義塾大学に提出して文学博士号を取得。東京大学を退任後も、聖心女子大学教授、慶應義塾大学客員教授、桜美林大学教授として教鞭をとると同時に、研究を続けた。
金井 紀年(かない のりとし、1923年(大正12年)2月2… 金井 紀年(かない のりとし、1923年(大正12年)2月25日 - 2017年(平成29年)4月22日)とは、日本の実業家。共同貿易元社長。アメリカ合衆国における寿司ブームの仕掛人とされる。日本食海外普及功労者表彰・農林水産大臣賞受賞。また在外日本人選挙権訴訟原告団長を務め、日本国籍の在外投票実現に尽力した。 東京府豊多摩郡落合村 (現東京都新宿区下落合) で文部省官僚の父と、教員の母の下に3男として生まれる。10歳から柔道を始める。講道館柔道4段。 東京府立第九中学校(現東京都立北園高等学校)を経て、1941年東京商科大学(現一橋大学)予科入学。予科在学中の1943年に学徒出陣し、栃木県宇都宮市の大日本帝国陸軍東部第40砲兵連隊に入営。
那谷敏郎(なた としろう、1923年2月25日- )は、日本… 那谷敏郎(なた としろう、1923年2月25日- )は、日本の紀行作家、文化史家。 石川県金沢市生まれ。東亜同文書院大学卒業。朝日新聞出版局編集委員、名古屋商科大学、光陵女子短期大学講師。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
小川 徹(おがわ とおる、1923年2月25日-1991年2… 小川 徹(おがわ とおる、1923年2月25日-1991年2月10日)は、日本の映画・文芸評論家。 東京生まれ。学徒出陣を経験。1946年東北帝国大学法文学部経済科卒。1946年から時事通信社に勤務、同人誌「世代」に参加。1961年「映画評論」編集部に移り、のち「映画芸術」編集長。『新日本文学』にもしばしば寄稿した。映画芸術新社社長。日活ロマンポルノ裁判特別弁護人、日活ビデオ、黒い雪裁判検定で証人として出廷、いずれも勝訴となった。
梶原 武雄(かじわら たけお、1923年(大正12年)2月2… 梶原 武雄(かじわら たけお、1923年(大正12年)2月25日 - 2009年(平成21年)11月28日) は、囲碁の棋士。新潟県佐渡市出身、日本棋院所属、九段、関山利一九段門下。優れた大局観と石の形にこだわる求道的な姿勢、及び若手棋士への薫陶で囲碁界に大きな影響を与え、また多くの新定石も生み出した。抉るような厳しい棋風は「ドリル攻め」「ヤスリ攻め」「部分感覚天下一品」と呼ばれ恐れられた。武田みさを五段は姉。 新潟県佐渡郡畑野村(現:佐渡市畑野)に、商家の七人兄弟の長男として生まれる。父は碁好きで、姉みさをが父の中学の同級生で棋正社の藤原七司に習っていた影響で碁を覚えた。父の仕事の関係で一家で上京。
小田 稔(おだ みのる、1923年2月24日 - 2001年… 小田 稔(おだ みのる、1923年2月24日 - 2001年3月1日)は、日本の天文学者・宇宙物理学者。理学博士(大阪大学・論文博士・1956年)。東京大学名誉教授。 北海道札幌市出身。大阪帝国大学理学部物理学科菊池正士研究室出身だが、菊池の弟子・渡瀬譲に師事したので、小田は菊池の孫弟子といえる。はじめ実験物理学を専攻したが、その後電波天文学に転向し、さらに宇宙線物理学およびX線天文学を専門とするに至った。旺盛な好奇心と夢のような発想の持ち主で、研究者仲間から「星の王子さま」の愛称で呼ばれた。 1923年(大正12年)、北海道に生まれる。1934年、台北帝国大学教授に就任した父に従って台湾に移住。
石濱 恒夫(いしはま つねお、1923年〈大正12年〉2月2… 石濱 恒夫(いしはま つねお、1923年〈大正12年〉2月24日 - 2004年〈平成16年〉1月9日、80歳没)は、日本の文学者。石浜 恒夫とも表記。 大阪府大阪市出身。父は歴史学者(東洋史学)の石濱純太郎。従兄に小説家の藤沢桓夫がいる。2人の娘のうち長女は女優の京春上、次女はエッセイスト、挿絵画家の石浜紅子。 大阪高等学校 (旧制)を経て、東京帝国大学文学部美術史学科在学中から父の友人であった織田作之助などの影響を受けて文学を志し、大学卒業後に川端康成に弟子入りし、鎌倉の川端の私邸に住み込み師事した。1968年(昭和43年)に川端がノーベル文学賞を受賞した際には、ストックホルムでの授賞式に同行している。
森 康夫(もり やすお、1923年〈大正12年〉2月24日 … 森 康夫(もり やすお、1923年〈大正12年〉2月24日 - 2012年〈平成24年〉3月20日)は、日本の工学者(機械工学系)。航空工学・流体工学・電磁流体力学・熱工学・伝熱工学・エネルギー工学など、実績は多岐にわたる。1960年代から1980年代にかけて、東京工業大学の熱工学研究全般を先導し、世界の伝熱研究にも多大な貢献をした。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
小柳 輝一(こやなぎ てるいち、1923年2月24日 - 1… 小柳 輝一(こやなぎ てるいち、1923年2月24日 - 1996年8月1日)は、食物社会史家。ジャーナリスト。 愛知県名古屋市出身。法政大学専門部法律学科卒。 中日新聞、時事新報の記者をへて、食物社会史を研究し、著作をなした。
山下 英明(やました えいめい、1923年(大正12年)2月… 山下 英明(やました えいめい、1923年(大正12年)2月23日 - )は、日本の通産官僚。通商産業事務次官、三井物産副会長などを務めた。東京府東京市出身。 東京府豊島師範学校附属小学校(現・学芸大附属小金井小)、府立高等学校(のち 旧・東京都立大及び東京都立大附属高)を経て、1943年(昭和18年) 東京帝国大学法学部政治学科卒業。同年9月、商工省入省。改組なった軍需省総動員局属。入省同期に、新田庚一(経企事務次官)、三宅幸夫(特許庁長官)、矢島嗣郎(重工業局長、三愛石油開発顧問)、荘清(中小企業庁長官)、楠岡豪(繊維雑貨局長)、井土武久(特許庁長官)、池田誠一(情報政策黎明期の電子政策課長、京大経卒)など。
苣木 浅彦(すがき あさひこ、1923年2月23日 - 20… 苣木 浅彦(すがき あさひこ、1923年2月23日 - 2010年4月22日)は、日本の地球科学者。専門は、鉱床学。理学博士(東北大学・1955年)。東北大学名誉教授、山口大学名誉教授。佐賀県生まれ。 旧制宇部高等工業学校(現・山口大学工学部)採鉱科を経て、1945年東北帝国大学理学部岩石鉱物鉱床教室を卒業、翌年東北帝国大学助手となる。1953年同助教授。1955年、東北大学より理学博士の学位を取得、学位論文は「本邦産硫化鉱石の組織に関する熱的研究」。 1957年から山口大学工学部教授となる。1966年から1969年まで、米国ペンシルベニア州立大学・カナダ地質調査所に文部省在外研究員として滞在。
前田 長吉(まえだ ちょうきち、1923年2月23日 - 1… 前田 長吉(まえだ ちょうきち、1923年2月23日 - 1946年2月28日)は、日本競馬会(現在の日本中央競馬会(JRA)の前々身)の元騎手である。現在親戚は青森県八戸市,東京都荒川区などにいる。 東京の尾形景造(後の尾形藤吉)厩舎の所属であった(当時は各競馬場に厩舎があり、その競馬場で調教していた)。青森県三戸郡是川村(現在の八戸市)出身。東京優駿競走(現在の東京優駿(日本ダービー))を最年少で優勝している(20歳3か月)。 農家の8人兄弟の四男(7番目の子)として生まれた。幼いころから才能に秀でて何をやらせてもできたといい、カイバ桶に入れた熱湯に板をつけてしならせスキー板を作ったり1937年の14歳の時にはその年の11月に(当時の)八戸市で開かれた八戸市養鶏組合主催の大会で軍鶏の養育部門で3等賞を受けたりしている。
米原 正義(よねはら まさよし、1923年2月22日 - 2… 米原 正義(よねはら まさよし、1923年2月22日 - 2011年11月3日 )は、日本の日本史学者。國學院大學名誉教授。中世史専攻。 1923年、島根県で生まれた。國學院大學で学び、桑田忠親らに師事。同大学大学院博士課程を修了。卒業後は母校の國學院大學教授となった。1978年、学位論文『戦国武士と文藝の研究』を國學院大學に提出して文学博士の学位を取得。1995年、國學院大學を定年退任し、名誉教授となった。 専門は日本中世史で、尼子氏、大内氏などを研究テーマとした。NHK大河ドラマ『毛利元就』では時代考証を担当した。のち、茶人や茶の湯の研究も行っている。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。
稲村 隆正(いなむら たかまさ、1923年2月22日 - 1… 稲村 隆正(いなむら たかまさ、1923年2月22日 - 1989年8月8日)は日本の写真家。 1923年(大正12年)東京に生まれた。 早稲田大学政治経済学部卒業。在学中に、慶應義塾大学にいた三木淳から名取洋之助のローライによる写真術の素晴らしさを吹き込まれ、コンタックスやライカよりローライに憧れていたという。 第二次世界大戦終戦後の1947年、名取洋之助が指導的立場にあったサンニュースフォトスに入社した。 収入が少なく自分のカメラが買えず、スピードグラフィック、コンタックス、ローライなど会社のカメラで仕事をしていたが、名取洋之助に自分のカメラを持つことの大切さを説かれてローライフレックススタンダードを購入した。
木暮 力三(こぐれ りきぞう、1923年2月21日 - 没年… 木暮 力三(こぐれ りきぞう、1923年2月21日 - 没年不詳)は、群馬県桐生市出身のプロ野球選手。左投左打。西鉄などでプレーした木暮英路は実弟。 桐生中学(現群馬県立桐生高等学校)では、1939年の夏の甲子園に一塁手として出場。1942年に読売ジャイアンツに入団。強打者として期待され、1943年には応召した川上哲治に代わって一塁手のレギュラーとなり、巨人の第9代4番打者も務めた。 戦後の1946年に、かつて巨人監督だった藤本定義が監督に就任したパシフィックに入団。外野手のレギュラーとなり、打率.246を打ってリーグ33位に入った。しかし、同年限りでパシフィックを退団して、1947年は全桐生に参加し、都市対抗野球にも出場している。
宮澤 清治(宮沢 清治、みやざわ せいじ、1923年2月21… 宮澤 清治(宮沢 清治、みやざわ せいじ、1923年2月21日 - 2011年7月18日)は、日本の気象解説者。 長野県長野市出身。旧制長野中学(長野県長野高等学校)を経て、1942年気象技術官養成所(現在の気象大学校)本科卒業。長野地方気象台、新潟地方気象台を経て福岡管区気象台予報課長。1968年運輸大臣表彰(豪雪機構の解明)。1969年「豪雪に関する中気候学的研究」で東京教育大学理学博士。1972年気象庁天気相談所長。1980年広島地方気象台長。1982年神戸海洋気象台長。1983年気象庁を退官。1983年から2010年6月まで、NHKテレビ・ラジオの「気象情報」の解説を担当した。1993年日本気象学会評議員。
中村 妙子(なかむら たえこ、1923年2月21日 - )は… 中村 妙子(なかむら たえこ、1923年2月21日 - )は、東京府出身の日本の翻訳家。
中川 正輔(なかがわ まさすけ、1923年2月21日 - 1… 中川 正輔(なかがわ まさすけ、1923年2月21日 - 1993年1月21日 )は、日本の経営者。 福岡県北九州市出身。1948年に九州大学法文学部を卒業し、同年に九州配電(のちの九州電力)に入社。鹿児島支店長、理事を経て、1977年6月に取締役に就任し、常務を経て、1983年6月に副社長に就任。1988年6月に九州旅客鉄道会長に就任し、福岡県公安委員会委員長も務めた。 1988年4月に藍綬褒章を受章。
冨山 實(とみやま みのる、大正12年(1923年)2月20… 冨山 實(とみやま みのる、大正12年(1923年)2月20日 - )は、日本の税理士。 青山学院大学文学部教授・冨山太佳夫は長男。 鳥取県西伯郡日吉津村出身。百姓の長男である。 昭和15年(1940年)鳥取県立米子商蚕学校卒業。同年広島国税局松江税務署勤務。 昭和42年(1967年)広島国税局直税部資産税課課長補佐を最後に退職。同年税理士登録、三社の監査役に就任。 昭和45年(1970年)米子市坂口合名会社支配人、昭和54年(1979年)同常務理事、昭和59年(1984年)同常任監査役。 実業家坂口平兵衛 (2代)との関係について、冨山實によれば
早坂 泰次郎(はやさか たいじろう、1923年2月20日 -… 早坂 泰次郎(はやさか たいじろう、1923年2月20日 - 2001年10月8日)は、日本の心理学者。立教大学名誉教授。専攻は実存心理学、人間関係の心理学、看護学。 宮城県仙台市生まれ。幼いころから台北で過ごし、台北帝国大学を経て、1949年東北大学文学部卒。東北大学講師、立教大学助教授、社会学部教授。1989年定年退任、名誉教授。 2001年10月8日、出血性脳梗塞のため死去。