北小路 健(きたこうじ けん、1913年1月25日 - 19… 北小路 健(きたこうじ けん、1913年1月25日 - 1991年10月22日)は、国文学者、古文書学者。本名は渡部 栄(わたなべ さかえ)。 1913年、福島県会津若松市生まれ。両親ともに教師。父親の転勤に従い渡満し、大連春日小学校、 大連一中を経て1931年に東京高等師範学校文科第二部国漢科(1934年東京文理科大学国文科に転入)に入学。能勢朝次、山岸徳平らに師事して「源氏物語」研究を志す。父の死後、父に世話になったという人から家宝だという古書の『源氏物語』54冊を贈呈され、それが従一位麗子本源氏物語であることを発見し、これを論文にした。 1937年、東京文理科大学国文科を卒業。召集されたものの、病のため除隊となり、満州で中学教師として勤める傍ら研究を続けた。
谷山 兵三(たにやま ひょうぞう、1913年1月25日 - … 谷山 兵三(たにやま ひょうぞう、1913年1月25日 - 1990年7月4日)は、日本の薬学者。長崎大学名誉教授。日本薬学会有功会員。徳島文化女子短期大学元学長。 大阪府吹田市出身。1938年に長崎医科大学附属薬学専門部卒業。大日本製薬、大阪帝国大学、京都帝国大学での研究を経て、1944年に大阪薬学専門学校(現大阪大学)講師に就任しその後、同校教授を経て大阪大学医学部助教授、近畿大学薬学部教授を歴任。1961年に長崎大学教授、1963年に同大学薬学部長に就任し1965年まで務めた。1970年に再び同大学薬学部長に就任し1972年まで務めた。 長崎大学退官後は徳島文化女子短期大学学長、大阪医療技術学園専門学校理事長、大阪生物工学専門学校(現大阪動植物海洋専門学校)名誉学長を歴任。
三田 国夫(みた くにお、1913年1月25日 - 没年不詳… 三田 国夫(みた くにお、1913年1月25日 - 没年不詳)は、日本の俳優である。三田 國夫と表記されることもある。 1913年(大正2年)1月25日、東京府東京市(現在の東京都)に生まれる。出生後まもなく福島県福島市に移住し、幼少期を過ごした。 1932年(昭和7年)、旧制目白中学校(現在の中央大学附属中学校・高等学校)を卒業後、満19歳の時に新劇俳優丸山定夫の門をたたき、新築地劇団に加入する。同年頃に上演された貴司山治の戯作『洋学年代記』などに出演。その後、1935年(昭和10年)に東宝の前身であるJ.O.スタヂオの研究生募集に合格し、三田は6ヶ月の課程を経て、東宝映画の専属俳優となる。以後、1940年(昭和15年)2月28日に公開された矢倉茂雄監督映画『遥かなる弟』や、1943年(昭和18年)3月25日に公開された黒澤明監督映画『姿三四郎』などに出演し、同所の脇役・端役俳優として活動した。
藤吉 次英(ふじよし つぐひで、1913年1月24日 - 1… 藤吉 次英(ふじよし つぐひで、1913年1月24日 - 1985年5月20日)は、日本の経営者。福岡県出身。 旧制姫路高校を経て1935年に東京帝国大学工学部機械工学科を卒業し、同年に東洋レーヨン(のちの東レ)に入社。1962年1に取締役に就任し、常務、専務を経て、1971年に社長に就任し、1980年6月には会長に就任した。 日本経営者団体連合会常任理事、経済団体連合会常任理事も務めた。 1978年4月に藍綬褒章を受章し、1983年11月に勲三等旭日中綬章を受章した。 1985年5月20日心不全のために死去。72歳没。
真保 正子(しんぼ まさこ、1913年1月22日 - 199… 真保 正子(しんぼ まさこ、1913年1月22日 - 1995年12月19日)は、日本の陸上競技選手・陸上競技指導者。元大谷女子大学教授。日本陸上競技連盟終身1種審判員。長野県上田市出身。上田高等女学校(現在の長野県上田染谷丘高等学校)、日本女子体育専門学校(現在の日本女子体育大学)卒業。
細川 潤一(ほそかわ じゅんいち、1913年〈大正2年〉1月… 細川 潤一(ほそかわ じゅんいち、1913年〈大正2年〉1月21日 - 1991年〈平成3年〉2月26日)は、日本の作曲家。本名:浅川 正躬。 福岡県三潴郡城島町(現・久留米市)出身。旧制三潴中学(現・福岡県立三潴高等学校)を卒業後、同郷の先輩である古賀政男に刺激を受け、作曲家を志して上京。独学でギターと作曲を勉強し、1935年(昭和10年)からキングレコード専属作曲家として数々の作品を世に出した。第二次世界大戦中の1944年(昭和19年)9月、召集を受け海軍に入隊。終戦後も作曲家として活動し、三橋美智也の楽曲を多く担当した。1991年(平成3年)2月26日死去。享年78。
若宮 小太郎(わかみや こたろう、1913年〈大正2年〉1月… 若宮 小太郎(わかみや こたろう、1913年〈大正2年〉1月21日 - 1967年〈昭和42年〉8月2日)は、日本の政治評論家。朝日新聞の新聞記者。鳩山一郎首相の内閣総理大臣秘書官。東京帝国大学法学部卒業。東京都出身。長男はジャーナリストの若宮啓文。 東京都出身。東京帝国大学法学部卒業。朝日新聞の新聞記者で、社会党の担当を長くに渡って務め、後に鳩山一郎の内閣総理大臣秘書官に就任した。 1963年(昭和38年)には社会党と民社党の推薦で神奈川県知事選挙に出馬するも内山岩太郎に敗れ落選。またこれまでに日本評論家協会理事・ラジオ関東常務・朝日新聞大阪支社長などを歴任。 1967年(昭和42年)8月2日、死去。
鈴木 正二(すずき しょうじ、1913年1月20日 - 20… 鈴木 正二(すずき しょうじ、1913年1月20日 - 2010年9月21日)は、日本の経営者。第四銀行頭取、会長を務めた。新潟県出身。 1935年に京都帝国大学法学部を卒業し、同年に第四銀行に入行した。1959年11月に取締役に就任し、1962年11月に常務、1970年3月に専務を経て、1972年11月に頭取に就任した。1983年3月に会長に就任し、1988年6月から取締役相談役を務めた。 1978年11月に藍綬褒章を受章し、1983年11月に勲三等瑞宝章を受章した。 2010年9月21日肺炎のために死去。97歳没。
山手 満男(山手 滿男、やまて みつお、1913年(大正2年… 山手 満男(山手 滿男、やまて みつお、1913年(大正2年)1月20日 – 1973年(昭和48年)4月17日)は、昭和期の日本の政治家。位階は正三位。 労働大臣(第25代)、衆議院議員(9期)を歴任。 1913年山口県玖珂郡周東町(現在の岩国市)生まれ。旧制松江高等学校を経て、1937年に京都帝国大学法学部を卒業後、東洋紡績に入社。戦時中はジャワ島ジョクジャカルタの軍委託タバコ工場に派遣されていた。 戦後帰国して同社(東洋紡績)四日市工場に勤務する傍ら東洋紡績労働組合の役員。その後、三重繊維工業の役員→毛織物共同組合役員→四日市織物等各社の役員→伊勢毛織協同組合理事長などを歴任し、1949年の第24回衆議院議員総選挙に民主党公認で三重県第1区 (中選挙区)(旧三重1区)から立候補して初当選(当選同期に池田勇人・佐藤栄作・前尾繁三郎・麻生太賀吉・橋本龍伍・小渕光平・西村英一・橋本登美三郎・福永健司・塚原俊郎・木村俊夫・藤枝泉介・稲葉修・河本敏夫・森山欽司・床次徳二・有田喜一など)。
彌永 恭二郎(いやなが きょうじろう、1913年 <大正2年… 彌永 恭二郎(いやなが きょうじろう、1913年 <大正2年> 1月20日 - 2002年 <平成14年> 1月20日)は、日本の経営者。日本光学工業(現在のニコン)社長、会長を務めた。位階は従四位。 東京出身。銀行家・弥永克己の二男。兄に弥永昌吉、弟に弥永貞三。1934年に東京帝国大学法学部法律学科を卒業し、同年に三菱銀行に入行。1965年5月に取締役に就任し、1967年11月には常務に就任。 1969年5月に日本光学工業副社長に就任し、1973年5月には社長に昇格。1979年6月に会長に就任し、1983年6月から相談役を務めた。 1983年4月に勲三等旭日中綬章を受章。 2002年1月20日心不全のために死去。
塩田 雄次(しおた ゆうじ、1913年(大正2年)1月19日… 塩田 雄次(しおた ゆうじ、1913年(大正2年)1月19日 - 1994年(平成6年)1月8日)は、日本の実業家。羽後銀行頭取、北都銀行初代会長。 塩田団平の次男として、秋田県平鹿郡雄物川町(現:横手市)に生まれる。 秋田県立秋田中学校、慶應義塾大学法学部卒業後、第百銀行(後に三菱銀行に吸収合併、現在の三菱UFJ銀行)に入行。21年あまり在籍し品川支店次長等を歴任する。 1958年には、羽後銀行に転じ、その後頭取に昇格する。頭取在任時には、本店の横手市から秋田市への移転や本店新館の建設、さらにはオンラインシステムの導入、店舗網の整備等、経営の近代化を推進した。1988年には代表取締役会長に退き、1993年に秋田あけぼの銀行との合併で誕生した北都銀行会長に就任した。
大崎 正二(おおさき しょうじ、1913年1月18日 - 2… 大崎 正二(おおさき しょうじ、1913年1月18日 - 2003年)は、日本の著述家、翻訳家。 旧制福岡県嘉穂中学校卒。1935年に東京外国語学校仏語科卒業、大倉商事に入社。1937年から1944年までパリ支店勤務、次いでベルリン支店に移り、敗戦直前にシベリア経由で帰国。戦後、ロンドン支店長、パリ支店長を経て退職。その間、東京外国語大学講師。フランス文学の翻訳を行った。
睦 一信(モク・イルシン、朝鮮語: 목일신、1913年1月1… 睦 一信(モク・イルシン、朝鮮語: 목일신、1913年1月18日 - 1986年10月12日)は、大韓民国の児童文学作家、詩人。 本貫は泗川睦氏。父は独立運動家の睦致淑。『누가 누가 잠자나』、『자전거』の作者。1938年3月、関西大学専門部法律学科を卒業。
岩倉 靖子(いわくら やすこ、1913年(大正2年)1月17… 岩倉 靖子(いわくら やすこ、1913年(大正2年)1月17日 - 1933年(昭和8年)12月21日)は、日本の華族。岩倉公爵家出身。 共産主義に傾倒して検挙・起訴され(赤化華族事件)、保釈中に自殺した。 1913年(大正2年)1月17日、岩倉具張公爵の三女として誕生。元勲岩倉具視は曾祖父にあたる。 翌1914年に具張が金銭スキャンダルで隠居・愛人とともに失踪し兄具栄が襲爵、一家は世間の好奇の目を避けて一時、当時東京郊外であった猿楽町の西郷豊二家(西郷従道の六男、母櫻子の実家)に移り住む。この時期、大叔母にあたる森寛子の影響を受け、一家そろってキリスト教に入信する。靖子も教会に毎週通っていたが、洗礼は受けなかった。
洲之内 徹(すのうち とおる、1913年1月17日 - 19… 洲之内 徹(すのうち とおる、1913年1月17日 - 1987年10月28日)は、日本の美術エッセイスト、小説家、画廊主・画商。美術エッセイ「気まぐれ美術館」の筆者として名高い。愛媛県出身。 松山生まれ。松山中学(現愛媛県立松山東高等学校)を経て、1930年に東京美術学校建築科に入学。在学中にプロレタリア運動に参加、1932年に検挙され、学校は退校処分となって帰郷した。そして松山でも運動をつづけ、1933年、徴兵検査後に検挙・収監されたが、後に「転向」して釈放された。その後1938年に軍の宣撫班員となって中国大陸へ渡り、対共工作と情報収集に携わった。そして終戦を迎え、1946年春に帰国した。 戦後、郷里松山に引き揚げて古本屋を開業。
和田 義三(わだ よしぞう、1913年1月17日 - 199… 和田 義三(わだ よしぞう、1913年1月17日 - 1990年11月8日)は日本の漫画家。東京府出身。 1936年、東京美術学校工芸科図案部卒業。戦前には横山隆一主宰の「漫画集団」に参加、スケッチ入りの紀行文などを執筆していた。1943年には横山、近藤日出造、横井福次郎、那須良輔らとともに田村町に『漫画』同人用の宿舎を借りて暮らした。 第二次大戦終戦後の1945年8月、復刊された『漫画』に作品を寄稿する。1946年鈴木郁三によって創刊された漫画紙『子供マンガ新聞』に初代編集長として1952年まで連載を持ち、「ほらふき千一夜」「勇ましいキック君」などを掲載。1948年には映画『ターザンの黄金』から始まる一連のターザンブームに乗じて『少年ターザン』を子供マンガ新聞社より出版。
河 泰煥(ハ・テファン、朝鮮語: 하태환、1913年1月17… 河 泰煥(ハ・テファン、朝鮮語: 하태환、1913年1月17日または1914年4月24日 - 1991年8月13日)は、大韓民国の教育者、実業家、政治家。第3・4代韓国国会議員。 第8代国会議員の金柄潤(朝鮮語版)は妻の弟である。 日本統治時代の慶尚北道迎日郡(現・浦項市)出身。立命館大学法文学部卒。大学在学中に東亜連盟事件により3年間服役した。その後は浦項女子中学校教員、同志商業中・高等学校設立校長、同志財団理事長、浦項水産大学学長、東海時報社創立社長、慶尚南道教育委員会副議長、浦項市教育委員・教育会会長、自由党浦項市党委員長・中央委員、第3代国会国防部原綿事件調査報告者、第4代国会国防委員長・台風災害対策特別委員会委員長、浦項実業専門学校校長を務めた。
藤井 誠司(ふじい せいじ、1913年1月16日 - 199… 藤井 誠司(ふじい せいじ、1913年1月16日 - 1997年10月4日)は、日本の経営者。不二家社長、会長を務めた。神奈川県横浜市出身。 1930年に日本大学第三中学校を卒業し、同年に不二家に入社。副社長を経て、1948年に社長に就任し、1969年5月には会長に就任。 キャラクターの「ペコちゃん」と「ポコちゃん」を考案した。 1997年10月4日、呼吸不全のために死去。84歳没。
松田 正平(まつだ しょうへい、1913年1月16日 - 2… 松田 正平(まつだ しょうへい、1913年1月16日 - 2004年5月15日)は、日本の洋画家。山口県宇部市出身。 1913年、島根県鹿足郡青原村(現・津和野町)で久保田家の二男として出生するが、8歳のころに山口県宇部市の松田家の養子となる。 神原尋常小学校を経て旧制宇部中学(後の山口県立宇部高等学校)に入学。卒業後は上京して川端画学校に通う。2年の浪人生活を経て1932年に東京美術学校西洋画科に入学し藤島武二教室に学んだ。1学年上に同じ山口出身の香月泰男がいた。 美校卒業してまもない1937年10月に渡欧、パリのアカデミー・コラロッシュでデッサンを学ぶ。1939年に帰国した後、1940年第15回国画会展に出品するも落選、同年宇部市の緑屋百貨店で滞欧作展を開催する。
奥村 正二(おくむら しょうじ、1913年1月15日 - 没… 奥村 正二(おくむら しょうじ、1913年1月15日 - 没年不詳)は、日本の技術史家。 滋賀県生まれ。1937年九州帝国大学工学部卒業。戦後は神田で弁理士を開業するかたわら、技術史に関する著作をなした。半世紀以上、神田に在住。
高橋 磌一(たかはし しんいち、1913年(大正2年)1月1… 高橋 磌一(たかはし しんいち、1913年(大正2年)1月15日 - 1985年(昭和60年)8月6日)は、昭和期の歴史学者(日本中世史・近世史)。歴史教育者協議会委員長などを歴任した。 東京府に生まれ、三多摩壮士の母方の祖父の下で小学生時代から『日本外史』の素読などに親しむ。 暁星中学校を経て昭和5年(1930年)に慶應義塾大学文学部予科、昭和8年(1933年)に文学部国史学科に入学し幸田成文の薫陶を受ける。昭和11年(1936年)に卒業し、大学院に籍を置く傍ら、錦秋高等女学校で文法を担当。昭和16年(1941年)に暁星中学校教諭となり、昭和17年(1942年)に召集。一度解除されるが、昭和20年(1945年)に再度招集を受け、中国に出征した。
立原 元夫(たつはら もとお、1913年1月14日 - 没年… 立原 元夫(たつはら もとお、1913年1月14日 - 没年不明)は、東京市品川区出身のサッカー選手。 法曹の雄と呼ばれた花井卓蔵の五男として生まれた。卓蔵の生家であった立原家に跡継ぎが無く断絶していたため、1928年(昭和3年)4月に立原姓を名乗り、立原家を死跡相続した。 東京高等師範学校附属中学校(現:筑波大学附属高校)在学中よりサッカーを始め、1933年に早稲田大学に入学し、在学中はア式蹴球部に所属した。1934年に開催された第10回極東選手権競技大会の日本代表に選出され、5月13日のオランダ領東インド(現:インドネシア)代表戦で日本代表として初出場した。1935年にはア式蹴球部の主将を務めた。
高田 正二郎(たかだ しょうじろう、1913年1月13日 -… 高田 正二郎(たかだ しょうじろう、1913年1月13日 - 1989年7月4日)は、日本の洋画家、グラフィックデザイナー。 東京都日本橋区の寿司屋の次男として生まれる。 東京都立第三中学校在学中に日本パステル画会に入会、洋画家の矢崎千代治(やざき ちよじ)に師事。1929年卒業。 1930年頃に従兄で彫刻家の吉田久継(よしだ きゅうけい)や東京美術学校教授の島田佳矣(しまだ よしなり)、同助教授の千頭庸哉(ちかみ ようさい)にデザインや鉛筆画を学ぶ。 1931年、東京美術学校図案科入学。和田三造、広川松五郎に師事。 1932年に東京湾汽船、キッコーマンの広告懸賞に入選したのを皮切りに各コンクールで入賞・受賞を重ねる。
磯田 一郎(いそだ いちろう、1913年1月12日 - 19… 磯田 一郎(いそだ いちろう、1913年1月12日 - 1993年12月3日)は、日本の銀行家、元ラグビー日本代表選手。 住友銀行頭取・会長、経団連副会長などを歴任した日本を代表する銀行家で、住銀の高収益体質を確立し都市銀行上位行に発展させるなどの功績を挙げるなど、「住友銀行中興の祖」「住友銀行の天皇」と称された。しかし晩年には住銀と反社会的勢力の関係を近づけさせてしまうなど負の側面が目立ち、最終的にイトマン事件が原因で引責辞任した。 海軍軍人だった父親の赴任先、京都の舞鶴に生まれ、父が退役後、岡山の三井物産船舶部(後の商船三井)に入社したため岡山で育つ。岡山市立内山下小学校から旧制岡山一中(後の岡山県立岡山朝日高等学校)に進むが、父の転勤で旧制第二神戸中学校(のち兵庫県立兵庫高等学校)に転校。
磯崎 千利(いそざき ちとし、1913年(大正2年)1月12… 磯崎 千利(いそざき ちとし、1913年(大正2年)1月12日 - 1993年(平成5年)6月20日)は、大日本帝国海軍の軍人、戦闘機搭乗員。 操練19期。最終階級は大尉。 愛媛県松山市出身。松山中学卒業後、海兵団を経て1932年(昭和7年)10月、操縦練習生となる。同期生に半田亘理。1933年(昭和8年)3月、同課程を修了し、龍驤飛行機隊に配属される。そこでのちに撃墜王となる赤松貞明と知り合い、親交を深める。のち内地に転属し、霞ヶ浦海軍航空隊友部分遣隊附教官。この時の教え子の一人に、岩本徹三(操練34期)がいる。 日中戦争(支那事変)勃発後の1937年(昭和12年)10月、加賀飛行機隊を経て1939年(昭和14年)末より第十二航空隊に配属され桂林攻撃に参加するが、この時よりすでに撃墜王として武名をはせていた赤松や岩本とは異なり、戦線を通じて大きな空戦に恵まれることはなかった。
石塚 経雄(いしづか つねお、1913年1月12日 - 19… 石塚 経雄(いしづか つねお、1913年1月12日 - 1992年11月25日)は、日本の哲学研究者。 徳島県生まれ。1938年東京文理科大学哲学科卒。1975年「実存的人格主義と弁証法的自己否定の倫理 N・ベルジャーエフを巡って」で東京教育大学文学博士。静岡大学教養部助教授、65年教授。71年同附属図書館長、76年定年退官、名誉教授、浜松短期大学教授、学長。
松村 正恒(まつむら まさつね、1913年1月12日 - 1… 松村 正恒(まつむら まさつね、1913年1月12日 - 1993年2月28日)は、愛媛県大洲市出身の日本の建築家である。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
黄 小娥(こう しょうが、1913年1月12日 - 没年不詳… 黄 小娥(こう しょうが、1913年1月12日 - 没年不詳)は、熊本県山鹿市出身の占い師である。1961年に『易入門』を出版し、占いブームを引き起こした。本名は川津 久佳、川津 久於、川津 久子などとされておりはっきりとしていない。 『易入門』の著者紹介では、生まれや育ち、国籍も不明で、親も夫もなく天涯孤独であるとされており、本名や経歴は明かされていなかった。 しかし、同書の人気が高まると週刊誌の暴露記事などで経歴が明らかとされた。熊本県山鹿市の履物屋の娘として生まれたが、幼い頃に母と死に別れ、継母の元で育った。熊本県立山鹿高等女学校卒業後、17歳で熊本市の建築材料店経営者と結婚し一男一女をもうけたが、戦後に離婚しひとり家を出たという。
李 万根(イ・マングン、朝鮮語: 이만근、1913年1月11… 李 万根(イ・マングン、朝鮮語: 이만근、1913年1月11日 - 1959年9月2日)は、日本統治時代の朝鮮、大韓民国、朝鮮民主主義人民共和国の実業家、警察官僚、政治家。制憲韓国国会議員。 忠清北道清原郡出身。清州公立高等普通学校を卒業後、1937年に同志社大学法学部経済学科卒。光復後は米軍政庁警務部官房勤務を経て、行政官補官房庶務課長、監察官、総警補官房長、第1管区警察庁副庁長(1947年8月より)、制憲国会議員、国会内務治安委員会委員、無所属議員からなる国策研究会メンバー、国会治安・民政視察団(慶尚道)メンバーを務めた。1949年9月に民主国民党に入党し、1950年4月に趙炳玉を次期国務総理に推薦したが、朝鮮戦争中の1950年7月2日にソウルで北朝鮮に拉致され、西大門刑務所に収容された。
田中 英光(たなか ひでみつ、1913年(大正2年)1月10… 田中 英光(たなか ひでみつ、1913年(大正2年)1月10日 - 1949年(昭和24年)11月3日)は、日本の小説家。無頼派として知られる。 「出方名 英光(でかたな ひでみつ)」という筆名もある。名前の英光を「えいこう」と音読みされる場合もある。 息子は小説家の田中光二。 高知県出身の歴史家岩崎鏡川(英重)の息子として東京府東京市赤坂区榎坂町(現・東京都港区赤坂)に生まれ、岩崎家から母の実家である田中家に入籍、鎌倉市に育つ。神奈川県立湘南中学(現神奈川県立湘南高等学校)、早稲田大学第二高等学院卒業。 早稲田大学政治経済学部在学中の1932年(昭和7年)、ロサンゼルスオリンピックに漕艇選手としてエイト種目に出場した(予選敗退)。
斉藤 澄子(さいとう すみこ、1913年(大正2年)1月10… 斉藤 澄子(さいとう すみこ、1913年(大正2年)1月10日 - 1942年(昭和17年)8月22日)は、日本の元騎手、元厩務員(京都競馬場)。岩手県岩手郡厨川村(現在の盛岡市)出身。 一度もレースで騎乗することのなかった、日本及び世界初の女性騎手として知られる。 なお、苗字については「斎藤」、名については「すみ」「すみ子」の表記がある。 実家は農家で、幼少の頃から馬に親しんだ生活を送った。10代の前半に父が死亡し母も病気で体調を崩したため、学校をやめて馬喰に弟子入りした。修業中に訪れた黄金山競馬場(旧・盛岡競馬場)で競馬のレースを見たことをきっかけに騎手を志すようになり、1929年に福島競馬場の調教師に弟子入りした。
市川 正二郎(いちかわ しょうじろう、1913年1月9日 -… 市川 正二郎(いちかわ しょうじろう、1913年1月9日 - 2003年)は、日本の俳優、実業家である。本名牧野 正(まきの ただし)、旧芸名市川 小松(いちかわ こまつ)、木村 正二郎(きむら しょうじろう)。
岩生 周一(いわお しゅういち、1913年1月9日 - 19… 岩生 周一(いわお しゅういち、1913年1月9日 - 1999年2月5日)は、日本の地球科学者。専門は、鉱床学・堆積岩岩石学。福岡県久留米市生まれ。 1931年旧制福岡高等学校理科甲類を卒業し、東京帝国大学理学部地質学科に入学。1935年同卒業。1938年地質調査所(現:産業技術総合研究所)の技師に任官。1942年第一次山西学術調査研究団に参加した。1953年東京大学教養学部地学教室の教授となる。1969年同理学部地質学教室教授に転任し、1973年定年・退職、名誉教授となる。その後、1973~1978年千葉大学理学部教授を務めた。また、日本学術振興会など諸機関の委員を歴任し、戦後の日本の復興に非金属資源開発の面から大いに貢献した。
本城 和彦(ほんじょうまさひこ、1913年1月9日 - 20… 本城 和彦(ほんじょうまさひこ、1913年1月9日 - 2002年8月29日)は、日本の建築家・都市計画家で1955年に設立された日本住宅公団の初代建築部設計課長、東京大学都市工学科教授を歴任。また国連地域開発センター(UNCRO)所長をつとめ、発展途上国の開発問題に取り組み国際的に活躍。 公団技術課長時代新たな台所を浜口美穂らと企画し「ダイニング・キッチン」という造語を生み出した人物としてもしられる。 著書に、『都市住宅地の設計』 (計画編、技法編、建築設計講座、理工図書)『建築家の休日―イラン・トルコ・ギリシャ家族旅行』(鹿島研究所出版会)『世界の現代建築』『建築学大系 3. 建築経済』『フランスの優先市街化地域制度による団地建設の現況調査』『社会発展段階に応じた住宅地再開発のあり方 アメリカにおける再開発の研究』(昭和40年度委託研究, 日本住宅公団建築部調査研究課)『住宅の経済学』(編集、日本経済新聞社, 1968)『私と建築・短歌』(編集、1970)など。
斎藤 正二(さいとう しょうじ、1913年〈大正2年〉1月9… 斎藤 正二(さいとう しょうじ、1913年〈大正2年〉1月9日 - 1999年〈平成11年〉7月22日)は、日本の社会学者。俳人。栃木県生まれ。1941年日本大学社会学科卒、同助手、予科講師、1949年日大文理学部助教授、1957年教授、1966年「日本社会学成立史の研究」で日本大学文学博士。1977年人文科学研究所長、1983年定年、名誉教授、1986年勲四等旭日小綬章受勲。宵路の名で俳句も作った。
若林 正武(わかはやし まさたけ、1913年(大正2年)1月… 若林 正武(わかはやし まさたけ、1913年(大正2年)1月8日 - 1984年(昭和59年)8月22日)は、昭和期の農林官僚、政治家。参議院議員(1期)、林野庁長官。 長野県更級郡上山田村(上山田町を経て現千曲市)で生まれる。1937年(昭和12年)東京帝国大学農学部林学科を卒業した。同年、朝鮮総督府に入府。その後、応召した。 1947年(昭和22年)農林省に入省し、同山林局、経済安定本部、林野庁、石川県、帯広営林局、山梨県などで勤務し、林野庁長官に1966年(昭和41年)7月から1967年(昭和42年)9月まで在任して退官した。その他、中央鳥獣審議会委員、中央森林審議会委員、歴史的風土審議会委員などを務めた。
杉本 龍造(すぎもと りゅうぞう、1913年(大正2年)1月… 杉本 龍造(すぎもと りゅうぞう、1913年(大正2年)1月8日 - 1997年(平成9年)2月10日)は、日本の政治家。三重県鈴鹿市長を務めた。位階は正五位。勲等は旭日中綬章。鈴鹿市名誉市民。 河芸郡箕田村(現在の鈴鹿市)出身、家業は代々続いた造り酒屋で屋号は箕田屋と言われていた。夫人も四日市市の造り酒屋から輿入れしている。 1942年6月、河芸郡神戸町議会議員、翌1943年2月に合併により鈴鹿市議会議員に就任。1946年に33歳の若さで鈴鹿市の2代目市長に就任。翌1947年、公職選挙法施行による市長選挙に立候補し、無投票のまま公選市長として就任。 1957年5月三重県市長会会長、1970年6月全国市長会副会長、1971年7月全国市長会相談役を歴任。
淵ノ上 忠義(ふちのかみ ただよし、1913年(大正2年)1… 淵ノ上 忠義(ふちのかみ ただよし、1913年(大正2年)1月5日 - 2001年(平成13年)7月29日)は、日本の台湾総督府官僚、陸軍司政官、陸上自衛官、弁護士。最終階級は陸将。 鹿児島県鹿児島市草牟田町に生まれる。鹿児島県立第二中学校、第八高等学校文科を経て、1935年(昭和10年)3月、東京帝国大学法学部を卒業する。同年10月高等試験行政科合格後、1936年(昭和11年)4月、台湾総督府財務局に奉職する。 ついで1938年(昭和13年)2月、地方理事官に進み、台中州大屯郡守に就任。のち高雄州警務課長、財務局事務官、台北州高等警察課長、台中州教育課長を経て、1942年(昭和17年)11月、陸軍司政官に選任され、第25軍軍政監部附となった。
松島 進(まつしますすむ、1913年1月5日 - 2009年… 松島 進(まつしますすむ、1913年1月5日 - 2009年)は 女性、ファッション写真、およびヌード肖像画で有名であった日本人写真家。 東京の牛込生まれ。1930年、東京高等工芸学校(後の千葉大学工学部画像工学科、現総合工学科デザインコース情報コミュニケーション教育研究領域)に入学し、写真を学ぶ。そこでは、大束元がフェロー学生であった。1933年に卒業後、時事新報社に入社したが、間もなく退社して日活に移り、多摩川撮影所でスチルカメラマンを務める。女性写真の第一人者として活躍した。写真家として雑誌「写真タイムズ」や写真雑誌などに投稿していた。 1948年、「写真家集団」を松木不二夫、尾崎三吉らと創立し、精力的に活動を続けた。
畑 敏雄(はた としお、1913年1月5日 - 2009年1… 畑 敏雄(はた としお、1913年1月5日 - 2009年12月31日)は、日本の化学者。東京工業大学名誉教授。元群馬大学学長。元日本接着協会会長。 大阪府出身。第一高等学校理科乙類を経て、1940年東京工業大学応用化学科卒業。太平洋戦争中は風船爆弾のこんにゃく糊研究に従事。1962年東京工業大学工学博士の学位を取得。1963年東京工業大学教授。1973年停年退官、群馬大学工学部教授。1975年群馬大学学長。元日本接着協会会長。1984年、勲二等旭日重光章を受章。2009年12月31日、東京都練馬区石神井町の自宅で急性心不全のため死去し、一行院で葬儀・告別式が執り行われた。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。
露木 清(つゆき きよし、1913年1月5日 - 1995年… 露木 清(つゆき きよし、1913年1月5日 - 1995年1月29日)は日本の実業家。元伊勢丹代表取締役会長。 静岡県田方郡函南村(現・函南町)出身。旧制東京商科大学(のちの一橋大学)卒業。三菱銀行副頭取を経て、1975年伊勢丹取締役、1976年伊勢丹副社長。1978年、三菱銀行出身者として初めて伊勢丹代表取締役会長に就任。1984年に伊勢丹社長に就任した、三菱銀行の部下で創業家4代目の小菅国安とともに、伊勢丹に近代経営を持ちこみ、「ファッションの伊勢丹」を作り上げた。1981年浦和店開店、1984年新潟伊勢丹開店、1987年には伊勢丹アイカードを導入。 1990年伊勢丹取締役相談役。 1995年1月29日、急性心筋梗塞のため東京都世田谷区の病院で死去。
小野 正文(おの まさふみ、1913年(大正2年)1月4日 … 小野 正文(おの まさふみ、1913年(大正2年)1月4日 - 2007年(平成19年)9月21日)は、日本の教育者、太宰治研究家。筆名は斧稜(おのりょう)。日本近代文学研究者の小野隆祥は兄。 青森県北津軽郡生まれ。青森中学在学中に、先輩の太宰治と知り合う。1938年東京帝国大学法学部卒業。青森県で教職につく。青森県立図書館長、1963 - 69年青森県立弘前南高等学校初代校長、青森中央短期大学教授、1982年同学長。青森中央学院大学客員教授。長年にわたる太宰治研究を評価され、2005年弘前大学から名誉博士号が授与された。多くの学校の校歌を作詞した。
鳥居 正一郎(とりい しょういちろう、1913年1月4日 -… 鳥居 正一郎(とりい しょういちろう、1913年1月4日 - 1992年2月21日)は、日本の経営者。阪急百貨店社長、会長を務めた。東京都出身。 東京都生まれだが、姉の天津乙女が宝塚歌劇団に入団した関係で一家で兵庫県宝塚市へ移住した。旧制浪速高等学校を経て、1936年に京都帝国大学法学部を卒業し、同年に阪神急行電鉄に入社し、1年間は車掌や運転士を務めた。現業部門から離れてからは同社百貨店部で勤務していた。 1947年に分社化に伴い、阪急百貨店に転じた。1962年5月に取締役に就任し、1969年5月に常務、1973年5月に専務、1979年6月に副社長を経て、1981年6月に社長に就任した。前任の野田孝から健康と人柄とを見込まれてのものであった。
澤田 悌(さわだ やすし、1913年1月4日 - 2003… 澤田 悌(さわだ やすし、1913年1月4日 - 2003年4月3日)は、日本の金融官僚。公正取引委員会委員長を務めた。 福島県須賀川市出身。1935年に高等試験行政科に合格し1936年に東京帝国大学法学部政治学科を卒業し、同年に日本銀行に入行。 1966年6月から1969年12月までに理事を務めた。1969年12月に国民金融公庫総裁、1976年4月に公正取引委員会委員長を経て、1977年10月から1981年9月までに日本住宅公団総裁を務めた。 1985年4月に勲一等瑞宝章を受章。 2003年4月3日肺炎のために死去。90歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
川本 茂雄(かわもと しげお、1913年1月3日 - 198… 川本 茂雄(かわもと しげお、1913年1月3日 - 1983年8月1日)は、日本の言語学者、翻訳家。早稲田大学名誉教授。 東京市本郷区生まれ。1937年早稲田大学文学部卒業。早稲田大学文学部教授を務め、1982年定年、名誉教授。フランス語、英語を研究し、諸種の言語学文献を翻訳した。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
林 健太郎(はやし けんたろう、1913年〈大正2年〉1月2… 林 健太郎(はやし けんたろう、1913年〈大正2年〉1月2日 - 2004年〈平成16年〉8月10日)は、昭和期に活動した日本の西洋史家、政治家、評論家。保守派として知られた。専門は西洋史学(近代ドイツ史)。東大教授・文学部長。第20代東大総長、自由国民会議所属参議院議員(1期)を務めた。 1913年(大正2年)、東京府生まれ。父親は海兵32期の林季樹(旧姓・香取)で、ワシントン軍縮条約での減員対象となり、大佐昇進と同時に予備役編入となり、中学の国語漢文の教師となっていた。 旧制一高を経て、東京帝国大学文学部西洋史学科に入学。文学部では今井登志喜に師事した。1935年に卒業。当時は一高時代からマルクス主義に傾倒して唯物史観の立場から歴史を研究していた。
安達 五郎(あだち ごろう、1913年1月1日 - 1999… 安達 五郎(あだち ごろう、1913年1月1日 - 1999年9月13日)は、1930年代に活躍した日本の元スキージャンプ選手。 1913年、北海道余市郡赤井川村出身で牧場を営んでいた安達正平(のちに第17代赤井川村村長)の5男として生まれる。旧制小樽中学(現:北海道小樽潮陵高等学校)- 鉄道省札幌鉄道局(札鉄、現・JR北海道鉄道事業本部)、伊黒正次は旧制小樽中学の同期生である。 オリンピックに2大会連続で出場、19歳で出場した1932年のレークプラシッドでは8位に入賞するも、1936年ガルミッシュ=パルテンキルヒェンでは45位と振るわなかった。1936年のホルメンコーレン大会では3位に入賞している。
山上 次郎(やまがみ じろう、1913年(大正2年)1月1日… 山上 次郎(やまがみ じろう、1913年(大正2年)1月1日 - 2010年(平成22年)3月13日)は、日本の歌人・文筆家。別名「童馬堂人」。 愛媛県出身。愛媛県立三島中学校(旧制中学)を卒業後、農業従事のかたわら短歌を学んだ。1941年太平洋戦争に従軍しビルマにて負傷、1942年に帰還した。従軍時の歌集「弾雨に禊ぐ」が第一歌集となる。敗戦後、農民組合を結成し農民運動に参加した。1951年には愛媛県議会議員に当選し、以後12年間県政に参与した。その間、斎藤茂吉に関する著書を出版するとともに歌集を上梓するなど旺盛な文筆活動を続けた。1967年以降は文学・著述に専念し、正岡子規や斎藤茂吉の研究に没頭した。
荒 正人(あら まさひと、1913年(大正2年)1月1日 -… 荒 正人(あら まさひと、1913年(大正2年)1月1日 - 1979年(昭和54年)6月9日)は、日本の文芸評論家。
大国 彰(おおくに あきら、1913年1月1日 - 1997… 大国 彰(おおくに あきら、1913年1月1日 - 1997年3月)は、日本の行政管理官僚。行政管理庁行政管理局長、行政管理事務次官、行政管理研究センター会長などを務めた。 三重県出身。第三高等学校から東京帝国大学法学部法律学科に入学。1934年 高等試験行政科を合格。1935年3月 東京帝大法学部法律学科卒業。同年 拓務省入省。殖産局属。 東京管区経済調査庁調査部経済調査官などを経て、1948年8月1日 東京管区経済調査庁監査部監察第一課長。1952年8月1日 東京管区監察局総務課長。同年8月12日 行政管理庁監察部監察官。1955年2月1日 行政管理庁監察部庶務課長。 1956年5月19日 行政管理庁長官官房秘書課長。