大竹 十一(おおたけ じゅういち、1921年 - 2005年… 大竹 十一(おおたけ じゅういち、1921年 - 2005年)は、日本の建築家。 宮城県生まれ。第一早稲田高等学院から、早稲田大学理工学部建築学科に進学。早稲田大学で会津八一に師事。卒業後、佐藤武夫の建築設計事務所(現・佐藤総合計画)を経て、梓建築事務所(現・梓設計)を共同で設立。 その後1952年から早稲田大学へ戻り武基雄の作品に尽力。1954年、吉阪隆正に請われて建築設計事務所の吉阪研究室(のちのU研究室)創設に参加。同研究室の番頭となる。ヴェネツィア・ビエンナーレ・日本館の設計など吉阪作品に携わるかたわら、メンバーを指導。1976年ごろ病を患いしばらく設計活動から遠ざかるがのち復職。1980年の吉阪亡き後もU研究室で設計活動を続けた。
木村 忠雄(きむら ただお、1921年 - 没年不詳)は、島… 木村 忠雄(きむら ただお、1921年 - 没年不詳)は、島根県出身のプロ野球選手。 松江商業から1942年に南海軍へ入団。1943年退団。
河原 敏明(かわはら としあき、1921年 - )は、日本の… 河原 敏明(かわはら としあき、1921年 - )は、日本の皇室ジャーナリスト。元拓殖大学客員教授。 北海道旭川市生まれ。1935年(昭和10年)、東京府東京市(現在の東京都)に移住。明治大学専門部経営学科と東京教育大学文学部史学聴講課程に学ぶ。『婦人倶楽部』(講談社)増刊のグラフ誌『皇族画報』や『華族画報』に親しんだことが皇室に興味を抱くきっかけとなる。 1955年(昭和30年)、伊馬春部とともに執筆した原案をもとに脚本家の金貝省三がストーリーを執筆、長谷川公之が脚本化した『皇太子の花嫁』を、新東宝が小森白を監督に製作、同年4月5日に公開した。1952年(昭和27年)ごろから皇室ジャーナリストを自称するようになり、「皇室秘話」とされるエピソードの類を数多く発表する。
徳永 春夫(とくなが はるお、1921年 - )は、日本の教… 徳永 春夫(とくなが はるお、1921年 - )は、日本の教育者。 熊本県玉名郡石貫村(現・玉名市)に、石貫村村長も務めた徳永右馬七の三男として生まれる。徳永右馬七は旧制第五高等学校で嘱託教員を務めたことがあり、当時同僚だった夏目漱石とも親交を結んでいた。 熊本県立玉名中学校(現・熊本県立玉名高等学校・附属中学校、1938年卒業)、旧制第五高等学校を経て、東京帝国大学文学部を卒業した。卒業後は、海軍兵学校の文部教官となった。 終戦後、母校の玉名高等学校教諭に就いたのち、熊本県立牛深高等学校では教頭・指導主事・主幹、熊本県立大津高等学校・熊本県立八代高等学校(1971年 - 1974年)・熊本県立熊本西高等学校・熊本国府高等学校(1980年 - 1989年)では校長を務めた。
青木 勤(あおき つとむ、1921年(大正10年) - 没年… 青木 勤(あおき つとむ、1921年(大正10年) - 没年不詳)は、日本の野球選手(投手)。群馬県出身。 群馬県藤岡中学校(現:群馬県立藤岡高等学校)から1939年に阪急軍に入団。しかし、一軍出場を果たせないまま同年末に退団。後に応召され、戦死(没年月日、死没場所は不明)。 東京ドーム敷地内にある鎮魂の碑に、彼の名前が刻まれている。
杉山 東洋生(すぎやま とよお、1921年 - 戦死)は、愛… 杉山 東洋生(すぎやま とよお、1921年 - 戦死)は、愛知県出身のプロ野球選手(一塁手)。
沼田 春雄(ぬまた はるお、1921年 - )は、愛媛県出身… 沼田 春雄(ぬまた はるお、1921年 - )は、愛媛県出身のプロ野球選手(捕手)。
大橋 衛(おおはし まもる、1921年 - 没年不明)は、大… 大橋 衛(おおはし まもる、1921年 - 没年不明)は、大分県出身のプロ野球選手。
沖 正弘(おき まさひろ 1921年-1985年)は、ヨガ指… 沖 正弘(おき まさひろ 1921年-1985年)は、ヨガ指導者、思想家。戦後日本におけるヨガの草分け的指導者で、その普及に努め、ヨガブームを牽引した。 1921年、広島生まれ。大阪外国語大学卒業。第二次世界大戦中、参謀本部の特別諜報員としての必要上、東西医療法と各種教宗派の修行法の特別訓練を受け、モンゴル、中国、インド、アラビア各地に赴いた。戦後も探究心から中国や東南アジアに渡って医学と宗教を学ぶ。1951年、ユネスコ平和建設国際奉仕団日本代表としてインド、次いでパキスタンに赴き、医療面、福祉事業面で活動。この時、釈迦、ガンディーを悟りに導いた教えがヨガであることを知り、ヨガ哲学へ熱烈な探究心を向けた。
前田 淑(まえだ よし、1921年 - 2020年)は、日本… 前田 淑(まえだ よし、1921年 - 2020年)は、日本の国文学者。専門は日本近世文学。近世の女性旅日記などの近世女性文学を研究した。福岡女学院短期大学名誉教授。 福岡市生まれ。福岡県女子専門学校文科研究科卒業、法政大学文学部日本文学科卒業。福岡女学院短期大学助教授、教授を務める。1999年「江戸時代女流文芸史 地方を中心に」で九州大学文学博士。
井上卓之(いのうえ たくし、1921年 - 1995年)は、… 井上卓之(いのうえ たくし、1921年 - 1995年)は、日本の造園家、作庭家。井上造園設計事務所を主宰し、日本庭園、公共造園や公園の作品を展開した。 代表作に、西村屋ホテル(招月庭)庭園 、大観荘庭園(静岡県、龍居松之助と)、修学院離宮庭園改修、左京区荒木・鈴木邸庭園、日本料理「鴨川」各店舗の庭園空間(高松武夫と)、花かごの庭(寺田邸)、西田邸、犬飼邸、立石邸、高松邸などがある。このほか紙屋川庭園(アマン京都)、美山町の庭、新千里北町パブリックアートなども手がけた。 作風は、きれいさび。 京都市左京区生まれ。1938年(昭和13年)、京都府立農林学校卒業。東京高等造園学校に進学し1941年(昭和16年)繰り上げ卒業。
岩沢 愿彦(いわさわ よしひこ、1921年 - )は、日本の… 岩沢 愿彦(いわさわ よしひこ、1921年 - )は、日本の歴史学者。東京大学史料編纂所教授を経て、東京大学名誉教授。 國學院大學史学科卒。1948年東京大学史料編纂所勤務、62年助手、70年助教授、73年教授、82年定年退官、名誉教授、日本大学文理学部教授。神奈川県川崎市に居住した。 高柳光壽、桑田忠親、奥野高廣らと共に、昭和初期に活躍した國學院大學系の歴史学者である。特に奥野高廣と共同校注した『信長公記』(角川文庫・1969年)は現在でも広く利用されている。また織田信長、豊臣秀吉期の史料研究を展開し、「山城・近江における豊臣氏の蔵入地について」(『歴史学研究』288号、1964年)、「石田三成の近江佐和山領有」(高柳光寿博士頌寿記念会編『戦乱と人物』吉川弘文館、1968年)、「本能寺の変拾遺-『日々記』所収天正十年夏記について」(『歴史地理』 91巻4号、 1968年)などの重要な論文を発表し、戦国史解明に貢献した。
多久 弘一(たく ひろいち、1921年 - 没年不詳。近著[… 多久 弘一(たく ひろいち、1921年 - 没年不詳。近著[要文献特定詳細情報]によれば故人との由)は、日本の中国文学者。代々木ゼミナール漢文科講師( - 2002年3月)。 佐賀県に生まれる。1939年、戦前の漢文の専門学校の名門であった大東文化学院を卒業後、中国に20年余り在住する。その期間に北京大学に留学、同大学卒業後、旧制奉天第一中学校に勤務する。終戦時、国立瀋陽医学院(旧・満州医科大学)東洋医学研究所、岡西為人博士のもとで留用日僑となる。帰国後、大学・高校勤務を経て、代々木ゼミナール漢文の講師となる。2002年3月、代々木ゼミナール校長を退任。 明治以前は多久地方を治めた多久氏一族の末裔である。
木原 健太郎(きはら けんたろう、1921年 - )は、日本… 木原 健太郎(きはら けんたろう、1921年 - )は、日本の教育社会学者、創価大学名誉教授。 広島市生まれ。1943年東京帝国大学文学部社会学科卒業。日本製鐵東京技術研究所所員。総理大臣官房審議室(世論調査班)嘱託。1950年東京学芸大学助教授。57年名古屋大学教授。76年国立教育研究所第四研究部長。創価大学教育学部教授、国立教育研究所名誉所員。99年瑞宝章叙勲。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
藤井 尚治(ふじい なおはる、1921年 - 1997年)は… 藤井 尚治(ふじい なおはる、1921年 - 1997年)は、日本の医学者。医師。法学博士。 1921年に東京で生まれる。1942年東京大学医学部卒業後、同精神科に入局するものの翌年軍医として応召。1947年に復員。ハンス・セリエ博士のストレス理論に共鳴し、杉靖三郎らとストレス研究に従事する。1955年銀座内科診療所を開設し院長就任。1963年篆刻家河野晶苑と結婚。1971年財団法人東京ストレス研究会理事長となる。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
永井 成男(ながい しげお、1921年 - 2006年)は、… 永井 成男(ながい しげお、1921年 - 2006年)は、日本の哲学者。東洋大学名誉教授。専攻は、科学哲学・分析哲学。 福島県生まれ。1944年東京医学歯学専門学校(現東京医科歯科大学)卒、1949年早稲田大学文学部哲学科卒。1957年同大学院(旧制)修了、千葉大学助教授、東洋大学短期大学教授、1992年定年、名誉教授。日本科学哲学会委員長。
江原 有信(えはら ありのぶ、1921年 - )は、日本の生… 江原 有信(えはら ありのぶ、1921年 - )は、日本の生物学者、筑波大学教授、学位は理学博士。専攻は動物生理学。 大正10年沼津に生まれ、東京に育つ。昭和19年東京文理科大学生物科を卒業。筑波大学教授を経て退官後同大名誉教授、昭和32年マメホヤの心電図の研究で博士号を取得、同43年に心臓生理学研究のため欧米に留学。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
丸山 一彦(まるやま かずひこ、1921年(大正10年) -… 丸山 一彦(まるやま かずひこ、1921年(大正10年) -2004年?)は、国文学者。学位は、文学博士(東京教育大学・論文博士・1977年)(学位論文「一茶研究」)。宇都宮大学名誉教授。 栃木県足利市生まれ。東京文理科大学国文科卒、中学教師ののち秋田大学助教授、宇都宮大学教授、1977年「一茶研究」で東京教育大学より文学博士の学位を取得。1985年定年退官、名誉教授、白鷗大学教授。1992年栃木県文化功労者。専門は近世俳文学。
荒木 芳邦(あらき よしくに、1921年 - 1997年)は… 荒木 芳邦(あらき よしくに、1921年 - 1997年)は、日本の造園家、作庭家。活動拠点は大阪。関西を中心とする日本およびドイツに多くの日本庭園、公共造園や公園作品を残した。 (日本国外の日本庭園) 作品は共通して大胆で直截的な景色作りが行われている。公園等、公共の空間で機能性を有しながら大胆な仕掛けを施すことで知られ、滝をダイナミックな階段状にする、自然風景式園に正円の園地を突如挿入する、外来種を積極的に用いたカラフルでボタニナルな植栽の庭園を構築など、従来の日本庭園作品にはみられない試みを実施。日本造園学会賞の大阪ロイヤルホテルでは、プラスティック製の擬木/擬石での庭づくりを行った。 東京における業務空間のデザインは、本人の持つ力量に対して、意外とおとなしい意匠でまとめている印象があるという[要出典]。
鈴木 秀勇(すずき ひでお、1921年 - 2011年 )は… 鈴木 秀勇(すずき ひでお、1921年 - 2011年 )は、日本の思想史家、教育学者。専門は教育思想史。一橋大学名誉教授、元札幌大学学長。社会思想史研究から教育思想史研究に進み、一橋大学社会学部で教育社会学講座を創設した。 1938年旧制東京商科大学(現一橋大学)予科入学。高島善哉門下。大学卒業後、同大非常勤講師を経て、1951年一橋大学社会学部助教授。1965年一橋大学社会学部教授。1969年から西順蔵の後任として第7代社会学部長を務めた。1970年、学部長を退任し増淵龍夫と代わる。1984年一橋大学定年退職。 社会思想史の研究から始め、教育思想史研究に進み、一橋大学社会学部で教育社会学講座を創設。
江口 良友(えぐち よしとも、1921年(大正10年) - … 江口 良友(えぐち よしとも、1921年(大正10年) - 2010年)は、日本の工学者・農学者・元軍人。農学博士(北海道大学)。専門は、微生物工学。北海道におけるバイオ研究の大家。特定非営利活動法人北海道バイオ産業振興協会顧問。北海道大学名誉教授。静修短期大学元学長。北海道小樽市出身 1944年北海道帝国大学農学部卒。1944年赤紙で召集を受ける。1945年海軍技術中尉。終戦後は、北海道商工経済会主事、北海道農産化学工業研究主幹、武田薬品工業化成品研究所部長を経て、1972年(昭和47年)北海道大学農学部教授に就任(微生物工学を担当)。1985年北海道大学停年退官。同名誉教授。静修短期大学6代学長に就任。
李寿栄(イ・スヨン、이수영、1921年-1972年)は大韓民… 李寿栄(イ・スヨン、이수영、1921年-1972年)は大韓民国の外交官。漢字を日本語読みすると「りじゅえい」のため愛称は「リッジウェイ」であった。 1921年、平安北道鉄山に生まれる。 1943年、早稲田大学英文科卒業。 1946年、梨花女子中学教諭 1947年、ソウル大学校師範学校講師。 1950年、特任陸軍中佐、参謀総長付通訳官。そのため米軍顧問に親友知己が多い。 朝鮮戦争中は板門店高級政治会議予備会談韓国代表主席補。 1953年11月、外務部情報局長。 1954年4月、ジェネーブ会議韓国首席代表補佐官。 1955年2月、外務部邦交局長。 1956年1月、駐フランス公使館一等書記官。ついで参事官、駐イギリス大使館参事官。
岡空 至(おかそら いたる、1921年〈大正10年〉 - 没… 岡空 至(おかそら いたる、1921年〈大正10年〉 - 没年不明)は、日本の実業家、政治家。千代むすび商事社長。千代むすび酒造監査役。千代むすび灘本舗代表取締役。境港市議会副議長。旧姓・下西。 鳥取県西伯郡境町(現・境港市)出身。境郵便局長の父・下西二郎、母・よし子の息子。1943年、早稲田大学専門部商科を卒業する。スポーツ用品・計量器販売業を営む。1974年、境港市議会議員に当選する。 戦後、市内でスキー熱が盛んになり、1949年ごろから景山利夫、赤石挙一、岡空至らの指導によりスキー教室を大山で開き、スキー愛好者を数多く育てた。住所は鳥取県境港市明治町。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。
三田村 裕(みたむら ゆう / ひろし、1921年 - 19… 三田村 裕(みたむら ゆう / ひろし、1921年 - 1980年)は、日本の編集者、翻訳家。本名・三戸森 毅(みともり つよし)。早稲田大学文学部心理学科卒業。 実業之日本社の編集者だったが、福島正実からSFの編集者としてスカウトされ、早川書房に1年間在籍。その後タトル著作権部に入るが、のちに退社して翻訳家になる。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
三浦 久兵衛(みうら きゅうべえ、1921年頃[要出典] -… 三浦 久兵衛(みうら きゅうべえ、1921年頃[要出典] - 2006年)は、日本の漁師。 秋田県出身で、「最後のクニマス漁師」と言われ、田沢湖でクニマスが絶滅した後は、魚卵を分けたとされる地域での探索活動をおこなった。 田沢湖畔で代々漁師を営む家に生まれ、自身も漁師となる。長男によると、捕獲したクニマスについて「網を引き揚げる時の手の感触、キラキラ光る感じが忘れられない」と話していたという。 しかし、1940年に強酸性の川水を中和して発電や農業に利用する目的で、玉川の水が田沢湖に引き込まれ、それから1年以内にクニマスは姿を消した。三浦ら漁師は玉川の水を入れることで魚がいなくなることは予測していたが、「戦争に入って居り、国策遂行に逆らう事は国賊」(三浦自身の手記の表現)という事情で反対することはできなかった。
西本 正(にしもと ただし、1921年〈大正10年〉 - 1… 西本 正(にしもと ただし、1921年〈大正10年〉 - 1997年〈平成9年〉)は、日本の撮影監督である。香港の撮影監督賀蘭山(ホー・ランシャン)として知られる。 1921年(大正10年)、福岡県、現在の筑紫野市に生まれる。幼少時に家族とともに満州国に移住し、長じて満州映画協会に入社、撮影部で働く。 第二次世界大戦後、内地に引き上げ、東宝で撮影助手をつとめる。1948年(昭和23年)には、太泉スタジオ(現在の東映東京撮影所)の第1回作品、マキノ正博(のちのマキノ雅弘)監督の『肉体の門』で、山崎一雄(のちの山崎市雄)カメラマンの助手をつとめた。新東宝で三村明の助手をつとめたのち、1956年(昭和31年)、田口哲監督の『鉄血の魂』で撮影技師として一本立ちした。
藤岡 喜久男(ふじおか きくお、1921年(大正10年) -… 藤岡 喜久男(ふじおか きくお、1921年(大正10年) - 2012年(平成24年)9月10日)は、日本の歴史学者・教育者。北海学園大学名誉教授。 北海道深川市出身。庁立旭川中学校(現・北海道旭川東高等学校)を経て、1942年横浜高等商業学校(現・横浜国立大学経済学部)卒業。庁立深川中学校(現・北海道深川西高等学校)教諭。1949年北海道札幌西高等学校教諭。1952年北海道大学文学部東洋史学科卒業。1954年同大学院文学研究科修了。同文学部助手。同非常勤講師を経て、1958年北海道札幌星園高等学校教諭。1972年北海学園大学法学部の専任講師として就任。1974年同法学部教授。1996年北海学園大学退職。
藤井 政美(ふじい まさみ、1921年ごろ - 2008年(… 藤井 政美(ふじい まさみ、1921年ごろ - 2008年(平成20年)7月7日)は日本の軍人。陸軍士官学校第54期卒業。最終階級は大尉。終戦直前、玉音放送を阻止するために陸軍将校たちが起こした「宮城事件」に参加した。 石川県金沢市出身。金沢第一中学校(46期)より東京陸軍幼年学校を経て予科士官学校を卒業(3期)し、近衛歩兵第1連隊隊附勤務。1940年(昭和15年)、陸士本科卒業と同時に南支に小隊長として派遣され、南寧にて右膊部貫通の銃創を負う。1941年(昭和16年)6月、内地に凱旋。以降初年兵教官、連隊旗手、大隊副官、中隊長を歴任。 1943年(昭和18年)12月に陸軍士官学校区隊長となり、58期生の教育を担当。
加地 健三郎(かち けんさぶろう、1921年 - 没年不明)… 加地 健三郎(かち けんさぶろう、1921年 - 没年不明)は、大阪府出身のプロ野球選手。右投右打で、ポジションは二塁手、三塁手、遊撃手。 京阪商業学校(現:大阪府立芦間高等学校)時代には春1回(1938年)、夏2回(1938年、1939年)甲子園に出場した。京阪商業時代のチームメイトに宮口美吉、深尾文彦(2人とものち南海軍)、乾国雄(のち阪神軍)がいる。 1940年3月15日、ライオン軍と契約し入団。二塁、三塁、遊撃を守ることができるユーティリティープレイヤーとして活躍した。打率は低かったが勝負強い打撃で8打点をマークした。同年末にライオン軍を退団。 それから10年後の1950年に読売ジャイアンツに復帰。
小野寺 洋(おのでら ひろし、1921年 - 戦死)は香川県… 小野寺 洋(おのでら ひろし、1921年 - 戦死)は香川県出身のプロ野球選手(投手)。 志度商(現・香川県立志度高等学校)を経て、1940年にイーグルスに入団。後に南海でプレーした三村正は1年先輩に当たる。翌1941年まで在籍したが、出場したのは1940年6月18日の巨人戦(後楽園球場。中河美芳、長谷川重一の後を継いで3番手で登板。2/3回を投げて1安打5四球2三振、失点3、自責点3で降板)と同年8月7日の阪急戦(満州リーグ戦開催中で、新京の児玉公園球場で行われた。玉腰忠義の後を継いで2番手で7回から登板。2回を投げて3安打2四球、失点1、自責点1の成績だった)の2試合のみだった。 1941年シーズン終了後に退団し、その後は北京の華北綿産でプレーしていたが、のち応召され、戦死した(没年月日、死没場所は不明)。
馬野 周二(うまの しゅうじ、1921年- )は、日本の技術… 馬野 周二(うまの しゅうじ、1921年- )は、日本の技術者、著作家。工学博士、技術士。 専門分野(化学)の論文、報告書の他、国際政治や国際経済についての著書を多数執筆した。 父親は内務省官僚であり、朝鮮総督府の高官であった。 山口県に生まれる。1931年、小学校4年生の時に父親の退官に伴い、朝鮮半島より内地(愛媛県松山)に戻る。旧制松山中学校(現・愛媛県立松山東高等学校)を経て、1946年、慶應義塾大学工学部応用化学科卒業。慶應義塾大学大学院工学研究科在学兼東京大学第一工学部付属試験所嘱託。1949年、通商産業省に技官として入省。1961年、通商産業省(課長)を退任後、創立間もないニューヨーク工科大学教授に就任。
春田 安喜子(はるた あきこ、1921年 - 2006年4月… 春田 安喜子(はるた あきこ、1921年 - 2006年4月6日)は、日本の洋画家。二科会理事。海老原喜之助、吉井淳二に学び、二科会で活躍したほか、地元鹿児島県の女流洋画壇振興に大きく貢献した。 鹿児島県鹿児島市加治屋町出身。実家は鹿児島市の老舗である春田屋呉服店で、父・吉次郎と伯父・宗次郎は鹿児島のアマチュア画家の草分け。1939年、鹿児島県立第二高等女学校卒業。女子美術専門学校高等科西洋画部を首席卒業。1943年から母校の鹿児島二高女および併設されている鹿児島女子師範学校で教える。加治屋町の自宅が戦災で焼け、アトリエがないので城山に登って桜島ばかり写生した後、鹿児島二高女のバラック校舎にこもって絵の具を使って暗くなるまで描いていた。
伴義雄(ばん よしお、 1921年 - 1994年)は、日本… 伴義雄(ばん よしお、 1921年 - 1994年)は、日本の薬学者。アルカロイドの合成者。北海道大学総長。
三橋 保(みつはし たもつ、1921年 - 2015年)は、… 三橋 保(みつはし たもつ、1921年 - 2015年)は、日本の実業家。東京テアトル社長を就任。 1941年(昭和16年)、旧制関東学院専門学校高等商業部を卒業。1946年東京テアトル設立と同時に入社。1964年(昭和39年)に取締役就任。常務を経て1977年(昭和52年)専務取締役就任。1982年(昭和57年)東京テアトル代表取締役社長就任。就任時61歳であった。しかし、健康上の理由で1983年に同じ関東学院卒の脇田勇氏に代表取締役社長の座を譲り代表権のない会長に就任した。2015年(平成27年)6月18日没、墓所は鎌倉市山ノ内にある時宗光照寺。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
山村 謙一(やまむら けんいち、1921年 - 2007年8… 山村 謙一(やまむら けんいち、1921年 - 2007年8月22日)は、東京都出身の映画評論家である。 この項目は、映画関係者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:映画/PJ映画)。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
李 漢稷(イ・ハンジク、朝鮮語: 이한직、1921年 -19… 李 漢稷(イ・ハンジク、朝鮮語: 이한직、1921年 -1976年7月14日)は、日本統治時代の朝鮮と大韓民国の詩人。本貫は全義李氏。号は木南(モンナム、목남)。 京城に生まれた。慶應大学法科卒業。1939年前後に『文章』誌の推薦で文壇に登場した。作品には『風葬』『北極圈』などがあり、光復後の作品では『崩壊』などがある。朝鮮戦争時代は大韓民国空軍に所属し、蒼空俱楽部の一員として活躍した。1960年に文公部の官僚としてまた日本に渡り、日本で僑居した。日本に東京都練馬区の自宅で膵臓癌により55歳で死去した。 寡作のため、生前には詩集を出版しなかった。死後に『李漢稷詩集』が上梓された。
宅嶋 徳光(たくしま のりみつ、1921年 - 1945年4… 宅嶋 徳光(たくしま のりみつ、1921年 - 1945年4月9日)は、大日本帝国海軍の軍人、作詞家。海軍中尉。松島航空隊機長。 福岡市博多区生まれ。奈良屋小学校を経て旧制福岡高等学校に進み、慶應義塾大学法学部政治科を卒業後、鉄道省に奉職。 1943年9月に海軍航空隊へ志願し、海軍飛行科予備学生(第13期)に合格。三重海軍航空隊に入隊。1944年5月に海軍少尉に任官。 筆が立つことで知られ、やがて鹿児島出水海軍航空隊に移動し、飛行訓練の合間に記された手記(「くちなしの花」)は、戦後に多くのメディアで取り上げられ、出版もされている。手記の一部を引用し、美空ひばりが補作詞した「白い勲章」は、船村徹の作曲によって美空ひばりのシングルレコードとして発表されている。
櫻井 正信(さくらい まさのぶ、1921年 - 2012年1… 櫻井 正信(さくらい まさのぶ、1921年 - 2012年10月17日)は、日本の地理学者、駒澤大学名誉教授。世田谷区名誉区民。 東京都生まれ。1942年、駒澤大学専門部歴史地理科卒業。さらに旧制学部の人文学科を修了してから家業につく。終戦後、卒業生有志らを集め、1950年秋に「世田谷区誌研究会」を設立(初代会長は大場信続。編集は桜井正信)。雑誌『世田谷』を発行するなど、郷土地理学ならびに歴史地理学の研究を行う。1952年4月、駒澤大学講師に着任。1964年2月、助教授。1968年4月、教授に就任。郷土地理学や歴史地理学、地誌学概説などを担当した。 2000年4月19日 世田谷区名誉区民に選定される(「せたがやの民話」編纂)。
福富 雪底(ふくとみ せってい、1921年(大正10年)- … 福富 雪底(ふくとみ せってい、1921年(大正10年)- 2005年(平成17年)10月4日)は、昭和・平成期の日本の臨済宗の僧。臨済宗大徳寺520世、大徳寺派第14代管長等を歴任した。庵号は「似庵」、「似無愁庵」。 大正10年、新潟県生まれ。東京都台東区上野・広徳寺の福富以清の下で得度。 大正大学在学中の1943年(昭和18年)に学徒動員を経験する。1944年(昭和19年)、大学卒業後、仙台陸軍予備士官学校に入学し陸軍少尉となる。 1945年(昭和20年)、台湾で終戦を迎える。復員後、福岡県久留米市の妙心寺派梅林僧堂に掛塔し、東海玄照を師とする。 1961年(昭和36年)、広徳寺30代住職となる。
小沢 俊郎(おざわ としろう、1921年 - 1982年3月… 小沢 俊郎(おざわ としろう、1921年 - 1982年3月14日)は、日本の日本近代文学研究者。 埼玉県生まれ。東京帝国大学文学部国文科を卒業後、東京都立高校の教諭をへて、1972年京都教育大学助教授に転じ、1976年教授に昇任。 宮沢賢治の研究において多くの著作を残し、『校本 宮澤賢治全集』(筑摩書房、1973 - 1977年)の編纂委員も務めている。研究内容は多岐にわたるが、賢治が盛岡高等農林学校時代の親友だった保阪嘉内に宛てた70通を超える書簡を、1968年に(嘉内の子息との共著として)公表したことは、伝記研究上特筆される業績である。
永田 丕(ながた はじめ、1921年 -2012年9月3日 … 永田 丕(ながた はじめ、1921年 -2012年9月3日 )は日本の医師、医学者、医学博士。北信総合病院第4代院長(昭和41年4月 - 昭和61年3月)。現在は同院の名誉院長。 府立高等学校を経て、東京大学医学部を卒業する。長野県厚生農業協同組合連合会北信総合病院に外科医として赴任し、農村医療に従事した。1966年から1986年まで院長を務めた。退職後にパリ・ソルボンヌ大学(フランス文明講座)へ留学し、併せて国際音楽療法センターで音楽療法の研修を受けた。帰国後に北信総合病院精神科等で音楽療法を実践し、独自の理念にもとづいた「声による能動的精神音楽技法」などによる音楽療法の普及に貢献した。 また、府立高等学校在学時に学生歌「青春という」の作曲をしている。
宮本 米二(みやもと よねじ、1921年 - 1990年4月… 宮本 米二(みやもと よねじ、1921年 - 1990年4月5日)は日本の物理学者、理学博士。東京教育大学教授。筑波大学名誉教授。 1921年アメリカサンフランシスコにて生まれる。名前の「米」は米国の字から由来する。1945年9月東京帝国大学物理学科卒業。この年の卒業生の多くは後に様々な大学で重要な研究・成果を残している。山口嘉夫、村井康久、巽友正、楠川絢一、早川幸男、近角聰信、木庭二郎、会津晃、碓井恒丸、中嶋貞雄。 1945年9月の卒業に向けた卒研で、木庭二郎、早川幸男、福田博らと共に東京文理大にて朝永振一郎の指導を受け、後にいわゆる「朝永グループ」に合流する。当時(1943年頃)朝永により量子論と相対論を融合した「超多時間理論」が提出され、さらにその延長となる「繰り込み理論」が発見された(1947年)。
浅沼 良次(あさぬま りょうじ、1921年 - 2002年7… 浅沼 良次(あさぬま りょうじ、1921年 - 2002年7月1日)は日本の郷土史家である。八丈島の歴史・民俗を専門とする。
森園 忠(もりぞの ちゅう、1921年 - 1983年2月1… 森園 忠(もりぞの ちゅう、1921年 - 1983年2月19日)は、日本の映画監督。本名は小鷹 忠(こだか ただし)。中国大連市出身。 明治大学文学部を卒業と同時に大映に入社。その後、松竹→民芸映画社を経てフリーとなる。社会派の作品で知られた。 1983年2月19日午前10時25分に脳内出血で代々木病院で死去(享年61歳)。
金田 弘(かなだ ひろし、1921年(大正10年) - 20… 金田 弘(かなだ ひろし、1921年(大正10年) - 2013年(平成25年)8月17日)は、日本の詩人。 兵庫県龍野市(現:たつの市)出身。早稲田大学文学部卒業。東洋美術史を学び、会津八一に師事。西脇順三郎、高橋新吉らと親交を結んだ。姫路文学館の設立に参与。 1987年、第23回姫路文化賞受賞。2009年、『虎擲龍拏』にて第20回富田砕花賞受賞。 2013年8月17日、肺炎のため死去。92歳没。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
永田 正臣(ながた まさおみ、1921年 - 1985年11… 永田 正臣(ながた まさおみ、1921年 - 1985年11月15日)は、日本の経済学者。 早稲田大学政治経済学部卒、1968年「明治期経済団体の研究 日本資本主義の確立と商業会議所」で商学博士。駒澤大学経済学部教授。経済学部学部長。
内田 正男(うちだ まさお、1921年 - 2020年)は、… 内田 正男(うちだ まさお、1921年 - 2020年)は、日本の暦学者。 神奈川県小田原市に生まれる。1943年、専検合格。1944年、東京天文台に入る。1967年、東京大学講師となり引続き東京天文台に勤務し、1982年に定年退官。日本の暦学史とこよみの研究で優れた功績を残した。2020年12月13日死去、99歳没。
久保 正雄(くぼ まさお、1921年 - 1984年11月7… 久保 正雄(くぼ まさお、1921年 - 1984年11月7日)は、日本の実業家。政商。東日貿易創業者で、自民党政権や伊藤忠商事に太いパイプを持ち、インドネシアの戦後賠償ビジネスで巨万の富を得た人物。 1921年(大正10年)、東京深川生まれ。戦後に韓国からの海苔、アメリカ、インド、ギリシャなどからの食料品雑貨の輸入業に手を染め、高級乗用車が不足した時代に、GHQの軍人や来日牧師らの名義でアメリカの高級車を輸入し、東芝など日本の大企業などに転売して荒稼ぎした。この時期に町井久之と知り合ったとされる。1955年、東京銀座に資本金5千万円で東日貿易を設立した。株主には大野伴睦や河野一郎、児玉誉士夫らが名を連ね、東日貿易は、自民党の裏の政治資金ルートの一つになった。