金子 篤司(かねこ あつし、1922年- 2002年)は、日… 金子 篤司(かねこ あつし、1922年- 2002年)は、日本の彫刻家。 1922年(大正11年)、山口県下関市に生まれる。神奈川一中(現県立希望ヶ丘高校)卒業後、日本刀鍛錬伝習所に入門。修業途中で兵役に召集されたが、兄弟子の人間国宝宮入行平とは、終生の交流を持ち続けた。 1949年、東京芸術大学美術学部木彫科入学。平櫛田中に師事。1953年同卒業。主に日展、日彫展などで活躍した。日展初入選以後、15回入選。日展会友。日彫展会員。1965年女子美術大学講師(以後18年間)。 1982年横浜美術協会会長。横浜美術協会理事・相談役。2002年、神奈川県相模原市にて心不全のため死去。(「ART MIND 2006秋季号」P.1」 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。
三尾 彰藍(みお しょうらん、1922年 - 2011年)は… 三尾 彰藍(みお しょうらん、1922年 - 2011年)は、埼玉県北足立郡浦和町(現・さいたま市浦和区)出身の日本画家。本名、三尾雄治。浦和画家のひとり。 浦和画家、三尾呉石の二男。1歳の時に関東大震災に被災し、父と共に埼玉県浦和町(のち浦和市)に転居、生涯浦和に居住。東京美術学校卒業。山口蓬春、髙山辰雄に師事した。院展で活躍し、風景画や静物画を得意とした。1979年までは本名(三尾雄治)で発表していた。2013年3月には埼玉県立近代美術館で回顧展が行われた。県展運営委員。
荒木 繁(あらき しげる、1922年 - )は、日本の国文学… 荒木 繁(あらき しげる、1922年 - )は、日本の国文学者。和光大学名誉教授。 茨城県生まれ。1947年東北帝国大学法文学部国文科卒。同大学副手。東京都立西高等学校教諭在職中の1952年、「血のメーデー」事件で逮捕され、長く裁判で戦う(都立高校は休職扱いで給与は据え置かれたままだったという)。その後、和光大学人文学部教授。93年定年退任、名誉教授。語り物文芸、国語教育を専門とする。
富田 昭平(とみた しょうへい、1922年 - )は日本の実… 富田 昭平(とみた しょうへい、1922年 - )は日本の実業家。日本ケンタッキー・フライド・チキン設立の日本側責任者を務め、同社社長・会長、ジェフグルメカード初代社長、日本フードサービス協会会長等を歴任した。 1943年9月旧制東京商科大学付属商学専門部(のちの一橋大学)を繰り上げ卒業。1944年旧日本軍に入隊し、中国で従軍。 1946年5月に復員するも、職がなく、1946年9月に、父の友人であった神田啓三郎が主宰する大成水産に入社。その後事業が失敗。神田社長の世話で三陸油脂入社。専務を務めていた二村謙三(のちに三菱商事副社長)との知遇を得て、油脂の仕事の指導を受ける。 明光商事、不二商事、三菱商事を経て、日本ケンタッキー・フライド・チキン設立の三菱商事側の責任者を務め、1970年の会社設立時に常務取締役に就任。
林 善茂(はやし よししげ、1922年 - 2013年)は日… 林 善茂(はやし よししげ、1922年 - 2013年)は日本の経済学者、北海道大学名誉教授。専門は、農業経済学・アイヌ民族文化研究。北海道小樽市生まれ。 1938年に北海道帝国大学予科農類に入学し、1943年に北海道帝国大学農学部農業経済学科を卒業した。卒業後、農学部で研究生や助手となり、1948年8月に助教授に就任している。 1953年、新設された北海道大学経済学部に転じた。1962年に北海道大学で農学博士号を取得した。翌年、教授に昇格した。 1972年、北海道大学の評議員に選出される。1976年に北海道大学経済学部長に就任した。部長在職中の1977年に講義で「北海道経済史は辺境における開発の歴史として見ていくことであり、主体は日本人であってアイヌではない」「アイヌの歴史は切り捨てる」、また和人男性が蝦夷地に来た頃に彼らと結婚したアイヌ女性を「占領軍時代のパンパンと同じ」などの発言をおこなったことが学生やアイヌの反発を招き、糾弾として教室に封鎖される事態となった(機動隊により救出)。
春原 千秋(はるはら ちあき、1922年-2017年)は、日… 春原 千秋(はるはら ちあき、1922年-2017年)は、日本の精神科医、病跡学者。 横浜市生まれ。1947年北海道帝国大学医学部卒。1947年東京帝国大学医学部精神医学教室に入局。1956年「狂犬病予防注射による脳炎の精神神経障害について」で東京大学医学博士。同大助手、順天堂大学講師、1959年中央鉄道病院精神神経科主任医長。82年退職、高円寺クリニック医師。1992年将棋世界誌上での「将棋を愛した文豪たち」の連載で将棋ペンクラブ大賞特別賞受賞。将棋ペンクラブ監査役。
三木 慶介(みき けいすけ、1922年 - 2016年)は、… 三木 慶介(みき けいすけ、1922年 - 2016年)は、日本の山岳写真家。 写真雑誌の月例応募からスタートし、またたく間に「三木時代」なる言葉まで生み、山岳写真界に一時代を築いた。 1954年からアサヒカメラの月例に応募しはじめ、1956年にアサヒカメラ優秀作家賞、1959年にイタリアで開催された、世界国際山岳写真ビエンナーレ展で、「滑降」が日本人として初めて最優秀賞を受賞した。 1964年にも「友を気遣う」が、世界国際山岳写真ビエンナーレで2度目の最優秀賞を受賞した。 全日本山岳写真協会の理事長を務め会長に就任。東京野歩路会代表を経て顧問に就任、後進の指導にあたった。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
関根鎮彦(せきね しずひこ、1922年- )は、日本の地理学… 関根鎮彦(せきね しずひこ、1922年- )は、日本の地理学者。 東京市深川生まれ。兵役ののち、1949年早稲田大学文学部人文地理専攻卒。同助手をへて、各大学非常勤講師を務めた。
富安 俊助(とみやす しゅんすけ、1922年 - 1945年… 富安 俊助(とみやす しゅんすけ、1922年 - 1945年)は、大日本帝国海軍軍人。太平洋戦争末期に神風特別攻撃隊の一員として特攻した将校(中尉)である。 映画「永遠の0」のモデルとなっており、 空母エンタープライズを一撃で戦闘不能に追い込んだ。 長崎県で生まれ、幼少期を東京府で過ごした。1942年に早稲田大学政治経済学部を卒業後、南満洲鉄道に就職するも、戦争の激化を前に志願し、1943年に飛行予備士官として大日本帝國海軍に入隊。筑波海軍航空隊にて短期間の訓練を受けた後、鹿屋基地に配属され、特攻隊・第6筑波隊の一員となった。 富安は、周囲の証言によれば「陽気で人なつっこく、音楽やスポーツを愛する」人物であったという。
長谷川 昇(はせがわ のぼる、1922年 -2002年 )は… 長谷川 昇(はせがわ のぼる、1922年 -2002年 )は、日本の歴史学者。専門は自由民権運動。横浜市生まれ、早稲田大学文学部卒業。東海学園女子短期大学教授を経て、名誉教授。専攻は日本近代史。 松岡正剛は『博徒と自由民権』を「名古屋事件を詳細に再現した一書。目を洗われた。」と評している。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
板倉 文雄(いたくら ふみお、1922年〈大正11年〉- 1… 板倉 文雄(いたくら ふみお、1922年〈大正11年〉- 1989年〈平成元年〉)は、日本の作詞家。茨城県稲敷郡岡田村(現在の牛久市)出身。 茨城県稲敷郡岡田村(現在の牛久市)大字東大和田町(現在の東大和田町)出身。 昭和25年、26年、27年ごろに板倉が書いた「泪の夜汽車・泣くな片妻」を作曲平川浪竜(後に岸壁の母を作曲した)が手掛け、大ヒットを記録した。昭和57年には牛久市立下根中学校の開校に伴い、校歌の作詞を手掛けた。 門下に小樽のひとよを作詞した池田充男やうしくかっぱ祭りの河童ばやしを作詞した中島清治などがいる。作詞家として活躍した石本美由起(2009年逝去)は、若き日に同じく作詞家である板倉文雄を「胸中ひそかに生涯のライバルとしていた」という。
栗原 克実(くりはら かつみ、1922年 - 2003年)は… 栗原 克実(くりはら かつみ、1922年 - 2003年)は、日本の水墨画家。千葉県生まれ。 内閣総理大臣賞、国際文化交流功労特別賞などを受賞。国画水墨院名誉顧問。水墨画の世界的巨匠である。 「水墨画は東洋美術の主流であったが、明治の文明開化以降、欧米化に波のまれ影が薄くなっていた。私は洋画家を志したが、伝統芸術に関心を寄せ、水墨画家へと転身することとなった。東洋と西洋の思想、絵画理論を融和させ、西洋の影響を受けながらもなお、東洋的気質を貫く、水墨画の世界を創造確立することこそ、今日的課題だと考える。」 栗原克実の次男、栗原志保見も絵画活動を行い、フランス・パリのサロン・ドートンヌ展や公的国際現代アートフェアなどに選抜されるなど、活躍を重ねている。
伊藤 啓介(いとう けいすけ、1922年(大正11年)- 没… 伊藤 啓介(いとう けいすけ、1922年(大正11年)- 没年不詳)は、日本の外交官、軍属、スパイ。 タイのシンゴラ領事館に外交官として赴任、現地で諜報活動を行う。太平洋戦争においてF機関に参加。インド国民軍の編成や戦後のインド独立に影響を与えた藤原岩市を補佐した。戦後、日本バングラデシュ協会事務局長。2008年時点で在命。 山形県酒田市生まれ。1938年、東亜経済調査局付属研究所こと大川塾の一期生として入学。1940年、同研究所卒業後、助手として採用。1941年8月、タイのシンゴラ領事館に赴任。開戦に備えるためスパイとなり、タイの田舎を回り兵要地理の視察を行う。伊藤の調査対象は飛行場の立地、滑走路の長さ、井戸の位置や道路の状況、シャム湾の気候、風の方角であった。
福持通(ふくもちとおる、1922年 - 2014年)は日本の… 福持通(ふくもちとおる、1922年 - 2014年)は日本の実業家。元都ホテル(現ウェスティン都ホテル京都)社長。伊勢本街道保存会相談役。三重県名張市出身。祖父・善之丞は立憲憲政会員、名賀郡会議員。
吉原 正(よしわら ただし、1922年 - 2014年)は、… 吉原 正(よしわら ただし、1922年 - 2014年)は、日本の建築家。中村順平のボザール教育を受け、同級の松本陽一と親交をもつ。鹿島建設時代に、天野太郎や樋口清と親交をもち、天野がフランク・ロイド・ライトのもとから帰国した後、共に設計活動を行う。天野がパーキンソン病で死去するまで設計活動を支え続けた。
永井 正(ながい ただし、1922年 - 2002年)は日本… 永井 正(ながい ただし、1922年 - 2002年)は日本の実業家。元三井ホーム社長。
町田 旭(まちだ あきら、1922年 - 1995年10月1… 町田 旭(まちだ あきら、1922年 - 1995年10月15日)は、昭和時代後期に活動した日本の作曲家。茨城県出身。 茨城県西茨城郡岩間町(現在の笠間市)出身。旧制水戸中学校では野球部に所属していた。卒業後は水戸保線事務所(現在のJR東日本水戸支社)に入り、主として線路の保守点検業務に従事する。 国鉄平保線区工事助役を務めていた時期に茨城県が一般公募した県民歌の作曲部門で応募作が入選し、平井康三郎の編曲で「茨城県民の歌」として制定される。当時のインタビューではクラシックのレコード収集が趣味だが作曲を専門的に習ったことは無く、20年余り独学を重ねて試しに作った曲を応募したら入選したと述べている。
牛玖 健治(うしく けんじ、1922年 - 2012年)は、… 牛玖 健治(うしく けんじ、1922年 - 2012年)は、日本の版画家、洋画家。千葉県出身。 1922年(大正11年)、千葉県に生まれる。旧制佐倉中学校(現在の千葉県立佐倉高等学校)を経て、東京美術学校(現在の東京芸術大学)を卒業。東京版画国際展をはじめ、毎日国際展、毎日現代展、朝日秀作美術展、JAA国際展などで活躍する。河童絵の牛玖博は実弟。
藤崎 武男(ふじさき たけお、1922年(大正11年) - … 藤崎 武男(ふじさき たけお、1922年(大正11年) - )は、日本の作家、ルポライター。元・旧日本陸軍大尉。旧姓・太田。 千葉県に生まれる。1939年(昭和14年)3月、旧制千葉県立佐倉中学校(現在の千葉県立佐倉高等学校)卒業、1941年(昭和16年)7月、陸軍士官学校(55期)を卒業し、見習士官として華北に派遣される。 1944年(昭和19年)には、第37師団・歩兵第227連隊の第1中隊長として大陸打通作戦に参戦し、中国大陸から仏印・英領マレーを転戦してマレーで終戦を迎えた。第二次世界大戦終戦時、陸軍大尉。著書の『歴戦1万5000キロ―大陸縦断一号作戦従軍記』は、大陸打通作戦開始から、終戦後日本に帰還するまでの記録である。
中村 太郎(なかむら たろう、1922年〈大正11年〉 - … 中村 太郎(なかむら たろう、1922年〈大正11年〉 - 1969年〈昭和44年〉8月18日)は、日本の剣道家(範士七段)、警察官。 父は剣道道場「大義塾」塾長で、戦前にアメリカに渡り剣道を教えていた中村藤吉。神奈川県の実業家で現・大義塾塾長の中村藤雄は弟。 神奈川県警察に奉職し、全日本剣道選手権大会優勝2回・準優勝2回、全国警察官剣道大会優勝、全日本東西対抗剣道大会出場など全国大会で活躍した。栄典は従七位、警察功績章。 大義塾の弟子に林家木久扇、柳家小団治がいる。また、世代は異なるが神奈川県警察の後輩に宮崎正裕がいる。
山桝 忠恕(やまます ただひろ、1922年 - 1984年1… 山桝 忠恕(やまます ただひろ、1922年 - 1984年11月13日)は、日本の会計学者。学位は、経済学博士(慶應義塾大学・1960年)(学位論文「監査制度の展開」)。慶應義塾大学教授を歴任。 愛知県名古屋市生まれ。愛知県立明倫中学校(現愛知県立明和高等学校)を経て、1942年に彦根高等商業学校(現滋賀大学経済学部)卒業。1945年神戸経済大学(現神戸大学)卒業。平井泰太郎門下。神戸大学講師、松山商科大学助教授、神戸商科大学助教授等を経て、1960年に慶應義塾大学教授。同年「監査制度の展開」で慶應義塾大学より経済学博士の学位を取得。三邊金蔵、小高泰雄を財務会計論において後継した研究者の一人とされる。
黒木 正憲(くろき まさのり、1922年 - 2008年5月… 黒木 正憲(くろき まさのり、1922年 - 2008年5月4日)は東京出版創業者。 宮崎県西都市出身。広島高等師範学校を経て東京大学法学部卒業。予備校で数学講師をしていたが、母校である妻中学の数学授業の内容に危機感を覚えたことがきっかけで、都市圏以外に在住する学生が受験関連の情報にアクセスしやすくなることを目的に出版界に入った。1957年、東京出版を創業し、受験雑誌「大学への数学」を創刊。日本数学オリンピックにも携わった。 2008年5月4日、肺炎のため死去。 弟は工業デザイナーの黒木靖夫。「大学への数学」の表紙デザインを担当した。 20世紀日本の実業家
山崎 諭(やまざき さとる、1922年 - 2000年4月1… 山崎 諭(やまざき さとる、1922年 - 2000年4月19日)は、日本のアマチュア野球選手、アマチュア野球指導者。
池端 忠夫(いけはた ただお、1922年 - )は愛知県知多… 池端 忠夫(いけはた ただお、1922年 - )は愛知県知多市出身の元プロ野球選手。
神田 武夫(かんだ たけお、1922年 - 1943年7月2… 神田 武夫(かんだ たけお、1922年 - 1943年7月27日)は、京都府出身のプロ野球選手(投手)。
牧野 明(まきの あきら、1922年(大正11年)頃 - 2… 牧野 明(まきの あきら、1922年(大正11年)頃 - 2007年(平成19年)5月)は、大日本帝国海軍の衛生兵。太平洋戦争中にフィリピンで生体解剖へ関与していたと、初めて証言した人物である。
森永 晴彦(もりなが はるひこ、1922年 - )は、日本の… 森永 晴彦(もりなが はるひこ、1922年 - )は、日本の原子核物理学者である。
江本 三千年(えもと みちとし、1922年 - 1987年7… 江本 三千年(えもと みちとし、1922年 - 1987年7月30日)は、日本のアナウンサー。 青山学院専門部(現在の青山学院大学)在学中に、陸上競技の選手として活躍。同校にとって初めての箱根駅伝であった1943年の第22回大会(「靖国神社・箱根神社間往復関東学徒鍛錬継走大会」として開催)では、5区の走者に起用されると、1時間47分53秒というタイム(出場11校中区間8位)を記録した。 1951年に新日本放送(NJB。1958年より毎日放送=MBS)へ第1期生として入社したが、1953年に日本テレビ(NTV)へ第1期生として移籍。移籍後は、主にスポーツ中継の実況を担当した。1955年には、東宝の配給で公開された野球映画『不滅の熱球』へ、同僚アナウンサーの茂木太郎・大平和夫・越智正典とともに出演した。
吉原 三郎(よしはら さぶろう、1922年 - 1970年1… 吉原 三郎(よしはら さぶろう、1922年 - 1970年12月23日)は、茨城県の昭和期の政治家。1955年から1970年まで4期岩井町長を務めた。吉原英一岩井市長の父。丹羽派。あまりにも独裁的な町政を強いていたため国会でもとりあげられ問題になった。大手企業誘致に絡み顧問料名目で長年金銭を受け取っていた。岩井町消防団長という立場を利用し反対派議員の乾燥茶葉に散水させ、また、出動を遅らせ全焼させる。 死後、町から名誉町民の称号が贈られ、1988年には銅像が建立された。
中村 信子(なかむら のぶこ、1922年 - 2022年5月… 中村 信子(なかむら のぶこ、1922年 - 2022年5月10日)は、ベトナムのラジオ放送局の元アナウンサー。1975年4月30日、ベトナム戦争を共産主義勢力の勝利で終結させたサイゴン陥落を世界に伝えた。 長崎県佐世保市生まれ。太平洋戦争終結直後の1945年10月、九州大学農学部に留学中だったベトナム人農学博士、ルオン・ディン・クア(ベトナム語版)と出会い結婚した。第1次インドシナ戦争中の1952年に北ベトナムへ移住した。1963年からハノイのラジオ局「ベトナムの声」で日本語放送のアナウンサーを務め、1975年4月30日には北ベトナム軍と南ベトナム解放民族戦線の進軍に伴い「サイゴン市は完全に解放されました」とサイゴン陥落を伝えた。
鹿毛 誠一(かげ せいいち、1922年 - 1998年9月1… 鹿毛 誠一(かげ せいいち、1922年 - 1998年9月15日)は、日本の倫理学者。獨協大学名誉教授。 福岡県生まれ。1942年旧制佐賀高等学校 (旧制)理科甲類卒業。1947年京都帝国大学文学部哲学科卒業、1962年同旧制大学院修了。1951年大阪市立東第二高等學校敎諭、1965年獨協大学教養部助教授、1968年教授、1993年定年退職、名誉教授。
木下 良(きのした りょう、1922年(大正11年) - 2… 木下 良(きのした りょう、1922年(大正11年) - 2015年(平成27年)1月26日 )は、日本の地理学者。 長崎県生れ。1953年京都大学文学部史学科地理学専攻卒業。同志社女子中学校・高校教諭、1973年ころ神奈川大学教授、富山大学教授、1983年ころ國學院大学教授。古代交通研究会名誉会長。
三木 毅(みき たけし、1922年〈大正11年〉 - 202… 三木 毅(みき たけし、1922年〈大正11年〉 - 2023年〈令和5年〉12月2日)は、日本の経済学者。経済学博士(北海道大学)・医学博士(札幌医科大学)。専門は医療経済学・中国経済論・環境衛生論。札幌医科大学名誉教授・元旭川大学及び旭川大学女子短期大学部学長。北海道厚田村出身。 『北海道人物・人材リスト 2004 な-わ』(日外アソシエーツ編集・発行、2003年) この項目は、経済学者(経済評論家を含む)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ウィキポータル 経済学、ウィキプロジェクト 経済)。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
堂本 阿岐羅(どうもと あきら、1922年〈大正11年〉 -… 堂本 阿岐羅(どうもと あきら、1922年〈大正11年〉 - 2008年〈平成20年〉12月12日)は、京都市出身の日本画家。本名は堂本 亮。 日本画家堂本印象の次兄、堂本漆軒の子。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
佐上 武弘(さがみ たけひろ、1922年 - 2018年1月… 佐上 武弘(さがみ たけひろ、1922年 - 2018年1月9日)は、日本の大蔵官僚、財務官。 佐上信一(1882年 - 1943年)の次男。翁久次郎(厚生省)の義兄。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
誉田 慶恩(ほんだ きょうおん、1922年 - 1988年1… 誉田 慶恩(ほんだ きょうおん、1922年 - 1988年1月22日)は、日本史学者。 山形県出身。1948年東京帝国大学文学部国史学科卒。山形大学教授。山形県立博物館長。子に誉田慶信。
張 坰淳(チャン・ギョンスン、朝鮮語: 장경순、1922年ま… 張 坰淳(チャン・ギョンスン、朝鮮語: 장경순、1922年または1923年3月23日 - 2022年7月18日)は、大韓民国の政治家、陸軍軍人、柔道家(2004年9月より名誉十段)、実業家。第6・7・8・9・10代韓国国会議員、第6・7・8代国会副議長、元農林部長官。 本貫は仁同張氏。号は霞原 (ハウォン、하원)。 日本統治時代の朝鮮で全羅北道の金堤に生まれた。東洋大学専門部拓殖科卒業。全北中高等学校で体育教師を務めた後、陸軍士官学校(7期特別班)、陸軍大学を卒業した。その後、陸軍情報学校校長、陸軍本部教育処長、陸軍士官学校参謀長、国家再建最高会議最高委員、農林部長官、国家再建最高会議運営分科委員長を務めた。
中原 光信(なかはら みつのぶ、1922年(大正11年) -… 中原 光信(なかはら みつのぶ、1922年(大正11年) - 2003年(平成15年)7月12日)は、日本の陸軍軍人。階級は陸軍少尉、情報担当将校。終戦時は陸軍独立混成第34旅団所属。クァンガイ陸軍中学教官としてベトナム独立戦争に参加した。ベトナム名はグエン・ミン・ゴック(ベトナム語:Nguyễn Minh Ngọc / 阮明玉)。 愛媛県出身。法政大学に入学後、剣道部主将を務めた。1944年に法大を繰り上げ卒業で陸軍に入隊し、熊本陸軍予備士官学校を経て、日本軍が進駐していたフランス領インドシナ(仏印)のフエに着任する。1945年7月からベトミンと連絡を取り始める。日本敗戦の直後には井川省少佐の「緊急事態が生じたということで、武器庫に施錠せずに至急撤収せよという旅団司令部命令を伝えろ」との指示を受けて保安部隊を司令部に呼び戻し、フエの旧皇宮にあった武器保管所(明号作戦で仏印軍から押収した武器が収蔵されていた)を無人化することでベトミンに武器を提供した。
遠入 昇(えんにゅう のぼる、1922年 - 2020年7月… 遠入 昇(えんにゅう のぼる、1922年 - 2020年7月8日)は、日本の実業家。東レ株式会社元広報宣伝部長、鐘紡株式会社元代表取締役副社長。東レ時代にミニスカートブームを仕掛けるなど日本のファッション史に残る数々の業績を上げた人物として知られる。 1922年、大分県生まれ。1939年、立教大学経済学部入学。1944年、学徒動員仮卒業。1946年3月、立教大学経済学部卒業。同年4月、東洋レーヨン株式会社(現・東レ株式会社)入社。 1960年、東京販売部長補佐兼宣伝課長、1964年、広報宣伝部長、1970年、繊維事業本部主幹、1975年、兼商品企画担当を歴任。 1981年、鐘紡株式会社入社、1982年、常務取締役、1984年、専務取締役、1988年、代表取締役副社長、1990年、常任顧問を歴任。
仲村 俊子(なかむら としこ、1922年 - 2022年11… 仲村 俊子(なかむら としこ、1922年 - 2022年11月18日)は、日本の社会運動家。 大正11年(1922年)、沖縄県うるま市勝連生まれ。昭和13年(1938年)、私立家政高等女学校を修了。昭和27年(1952年)に教師となり、沖縄教職員会で祖国復帰運動に取り組むが、運動の左傾化を感じ、昭和44年(1969年)に同会を脱退。昭和46年、「沖縄返還協定批准貫徹県民集会」開催に携わり、陳情団の一員として上京、早期批准を要望した。昭和55年(1980年)、前島小学校を最後に退職。昭和58年(1983年)、防衛協会の初代婦人部長を務めた。晩年も集会、講演会やメディア等に登場している。令和4年11月18日永眠。
北原 薫明(きたはら しげとし、1922年 - 2011年4… 北原 薫明(きたはら しげとし、1922年 - 2011年4月23日)は、日本の元警察官。 長野県駒ヶ根市生まれ。 赤穂農商校(現 長野県赤穂高等学校)を卒業後に中国大陸に渡り、陸軍少尉にて終戦を迎えるがシベリアに抑留。 あさま山荘事件当時の長野県警において、警備情報(作戦広報の警察用語)及び公安捜査を担当する警備第2課長を務めており、現地警備本部に幕僚として詰めた。 連合赤軍側からの銃撃を防禦するため、塹壕を掘り土嚢を積んだ軍隊での経験を活かして土嚢を構築したとされるが、佐々淳行の著書においては、実際にこのアイデアを発案したのは、樋口俊長・関東管区警察局公安部長とされる。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。