野田 哲(のだ てつ、本名の読み:のだ さとし、1926年1… 野田 哲(のだ てつ、本名の読み:のだ さとし、1926年1月10日 - 2017年10月21日)は、日本の政治家。参議院議員(3期、日本社会党)。 現在の岡山県笠岡市出身。1942年岡山県立笠岡商業学校卒業。福山市役所に入り、労働組合で活動し、自治労広島県委員長、自治労中央本部組織部長、副委員長などを経て、1974年の第10回参議院議員通常選挙で全国区から日本社会党公認で立候補して当選。3期務める。国会内では決算、地方行政の各委員長を歴任、党内では参議院国会対策委員長などを務めた。1992年の第16回参議院議員通常選挙に出馬せず引退した。 1996年春の叙勲で勲二等旭日重光章受章。 2017年10月21日、肺癌のため広島県福山市の病院で死去、91歳。
中村 裕一(なかむら ひろかず、1926年1月9日 - 20… 中村 裕一(なかむら ひろかず、1926年1月9日 - 2012年6月4日 )は、日本の経営者、工学博士。三菱自動車社長、会長を務めた。 京都府京都市出身。1948年に京都大学工学部を卒業し、同年に三菱重工業に入社した。1970年に三菱自動車工業に転じ、1983年6月に取締役に就任し、常務を経て、1988年6月に副社長に就任し、翌年6月には社長に昇格した。1995年6月から会長を務め、1997年に総会屋への利益給与事件における責任を取る形で辞任し、同年6月からは相談役に転じた。社長在任時には、2代目「パジェロ」、初代「パジェロミニ」などをヒットさせ、国内市場において、多目的レジャー車ブームの立役者となった。
津守 眞(津守 真、つもり まこと、1926年1月9日 - … 津守 眞(津守 真、つもり まこと、1926年1月9日 - 2018年12月10日)は、日本の保育学者。お茶の水女子大学名誉教授。 東京出身。1948年東京帝国大学文学部心理学科卒、ミネソタ大学保育学科卒。お茶の水女子大学教授、1989年定年退官、名誉教授となる。学校法人愛育学園愛育養護学校主事、顧問。2006年ペスタロッチー教育賞受賞。
根本 嘉也(ねもと よしや、1926年1月9日 - 2004… 根本 嘉也(ねもと よしや、1926年1月9日 - 2004年2月15日)は、日本の俳優、声優。劇団近代座設立者。 神奈川県出身。早稲田大学卒業。シェークスピア劇を専門に舞台活動を行っていた。劇団近代座の設立者でもあり、桐の会、土の会、ニューアーツ、馬場企画を経て、アーツビジョンから再び近代座に戻り、代表を務める。2004年2月15日逝去。 死後、近代座の代表は会田由来が受け継いだ。 声種はテノール。年配の太めの声を持つ。 張りのある老人役を演じていた。 特技は乗馬、日本舞踊(名取)。 この項目は、俳優(男優・女優)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:映画/PJ芸能人)。
田村 恒夫(たむら つねお、1926年(大正15年)1月9日… 田村 恒夫(たむら つねお、1926年(大正15年)1月9日 - 2009年(平成21年) 9月18日)は、日本の人形師。徳島県徳島市国府町出身。阿波木偶制作保存会会長。阿波木偶作家協会名誉会長。 徳島県徳島市国府町で生まれる。これまでに小松正利、久米惣七、山口巳鶴に師事。「人形恒」を称する。 1979年(昭和54年)に阿波木偶制作保存会を結成し会長に就任。1988年(昭和63年)、自宅の制作工房をこくふ街角博物館「阿波木偶館」とし、一般公開を行っている。2001年(平成13年)、阿波木偶作家協会副会長に就任し、その後名誉会長に就任する。 2009年(平成21年)9月18日、肺がんのため徳島市内の病院で死去した。
佐田 登志夫(さた としお、1926年1月8日 - 2010… 佐田 登志夫(さた としお、1926年1月8日 - 2010年4月13日)は、日本の生産工学者。1996年「コンピューターモデルによる設計生産の総合化」(共同研究)で日本学士院賞を受賞。東京都出身。 父は内務省復興局勤務中に聖橋の橋梁設計に関わった土木設計者の佐田昌夫。息子は日本機械学会会長佐田豊 専門は生産加工学。機械磨耗、切削加工、研削加工、工作機械、フレキシブル生産システムなど広い分野で独創的な研究を行う。また、その成果は工作機械メーカや自動車メーカに導入され、生産設備の高精度化と自動化に直接結びつき、さらにコンピュータメーカと機械メーカからなる統合化設計生産システムのコンソーシアムを組織するなど、日本のものづくりをリードする。
森 英恵(森 英惠、もり はなえ、1926年〈大正15年〉1… 森 英恵(森 英惠、もり はなえ、1926年〈大正15年〉1月8日 - 2022年〈令和4年〉8月11日)は、日本のファッションデザイナーであり、日本人で唯一のパリのオートクチュールデザイナー。地域経済総合研究所評議員。森英恵ファッション文化財団理事長。位階は従三位。1996年、文化勲章、2002年、レジオンドヌール勲章オフィシエ章を受章。旧姓「藤井」。 1965年にニューヨーク・コレクションで成功をおさめ、日本人デザイナーの海外進出の先駆けとなった。1977年には東洋人として初めてパリ・オートクチュール協会(サンディカ)のメンバーとなる。バルセロナおよびリレハンメルオリンピックの日本選手団の公式ユニフォームのデザインや、歌舞伎、海外のオペラやバレエの舞台衣裳を担当するなど、ファッション界の第一人者として活躍した。
筑後山 一政(ちくごやま かずまさ、1926年1月8日 - … 筑後山 一政(ちくごやま かずまさ、1926年1月8日 - 1978年3月12日)は、福岡県柳川市(旧福岡県山門郡)出身で立浪部屋に所属した元大相撲力士。本名は石橋 一政(いしばし かずまさ)。185cm、106kg。最高位は東十両2枚目。得意技は右四つ、寄り。 福岡県柳川市の中學伝習館(現在の福岡県立伝習館高等学校)から中央大学法学部に進み、卒業直前に召集、大きな体に合う軍服が無かったため、陸軍気象部に配属され終戦を迎えた。卒業後は農林省に入省。 官僚時代に横綱・羽黒山政司一行が巡業で柳川に来た際に勧誘されて立浪部屋に入門することになり、その翌年1948年5月場所に初土俵を踏む。1954年3月場所に十両に昇進。
杉山 彌太郎(杉山 弥太郎、すぎやま やたろう、1926年1… 杉山 彌太郎(杉山 弥太郎、すぎやま やたろう、1926年1月8日 - 1991年)は日本の大蔵官僚。大臣官房地方課長、日本専売公社総務部長、日本専売公社総務理事などを務めた。 静岡県出身。旧制静岡中学校4年から第一高校文科丙類に進学する。1949年 東京大学法学部政治学科卒業。「我が国の復興に働きたい」との現地から大蔵省かジャーナリストを目指していた。1950年1月 国家公務員六級職試験を合格。 同年 大蔵省入省。東京財務部総務課属。1955年6月30日 石狩税務署長。 1965年12月 海外経済協力基金調査部調査第一課長。1967年12月 広島国税局総務部長。1969年8月15日 国際金融局企画課長。
世古 真臣(せこ まおみ、1926年1月8日 - 2005年… 世古 真臣(せこ まおみ、1926年1月8日 - 2005年11月11日)は、日本の経営者、工学博士。旭化成工業社長を務めた。 三重県尾鷲市出身。旧制静岡県立静岡中学校、旧制静岡高等学校[要出典]を経て、1948年、東京大学工学部電気工学科卒業。同年、旭化成工業に入社。研究に携わり、1973年に取締役に就任し、常務、専務を経て、1979年6月に副社長に就任した。1985年6月に社長に昇格し、1989年6月に副会長に就任し、1993年6月からは相談役を務めた。 1974年と1978年に大河内賞、1975年と1979年に日本化学会賞、1980年に電気化学会賞、1981年に高分子学会賞、1990年4月に日本原子力学会特賞を受賞。
栗田 裕夫(くりた ひろお、1926年1月7日 - 2016… 栗田 裕夫(くりた ひろお、1926年1月7日 - 2016年7月19日)は、日本の自衛隊員、実業家。位階は従四位。 陸上自衛隊第11師団長・陸将や、セブン-イレブン・ジャパン社長を務めた。 1943年、旧制上田中学校(現長野県上田高等学校)卒業。1945年、陸軍士官学校卒業。日本の降伏後、陸上自衛隊に入隊。1979年、陸上自衛隊第11師団長。1981年にセブン-イレブン・ジャパン入社。1992年には鈴木敏文の後任としてセブン-イレブン・ジャパン社長に就任した。1995年の阪神・淡路大震災ではヘリコプターを使って弁当を空輸し、「ライフライン」で第12回新語・流行語大賞トップテンに入賞した。1997年、健康上の理由で退任。
須本 憲一(すもと けんいち、1926年1月7日 - 196… 須本 憲一(すもと けんいち、1926年1月7日 - 1968年2月10日)は、徳島県出身のプロ野球選手(内野手)、また徳島県立商業学校野球部元監督。
澤村 治夫(さわむら はるお、1926年 <大正15年> 1… 澤村 治夫(さわむら はるお、1926年 <大正15年> 1月7日 - 2011年 <平成23年> 9月3日)は、日本の経営者。三井東圧化学(現在の三井化学)社長を務めた。位階は正四位。 熊本県出身。1950年に京都大学農学部農芸学科を卒業し、同年に東洋高圧工業(のちの三井東圧化学)に入社。1981年6月に取締役に就任し、1983年6月に副社長を経て、1985年6月には社長に就任。1993年6月に会長に就任し、1997年11月には三井化学相談役に就任。 2002年4月に勲二等旭日重光章を受章。 2011年9月3日に膵臓癌のために死去。85歳没。死没日付をもって正四位に叙された。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。
中村 璋八(なかむら しょうはち、1926年1月7日 - 2… 中村 璋八(なかむら しょうはち、1926年1月7日 - 2015年6月2日)は、日本の中国哲学研究者、駒澤大学名誉教授。 神奈川県愛甲郡愛川町生まれ。1951年東京文理科大学文学科卒。1978年「五行大義の基礎的研究」で駒澤大学文学博士。東京都立町田高等学校教諭、駒澤大学文学部助教授、教授。1996年定年退任、名誉教授。 2015年6月2日、老衰のため死去。89歳没。
門脇 佳吉(かどわき かきち、1926年1月6日 - 201… 門脇 佳吉(かどわき かきち、1926年1月6日 - 2017年7月27日)は、日本の神学者、宗教学者、イエズス会司祭。上智大学名誉教授。別名大基。 北海道旭川市出身。 旧制見付中学校(現在の静岡県立磐田南高等学校) 、1948年東京帝国大学工学部応用化学科卒業。上智大学大学院で文学修士・神学修士。1964年ローマ・グレゴリアン大学にてPh.D.取得。フォーダム大学で心理学を、レーゲンスブルク大学でマイスター・エックハルトを研究。上智大学教授、1996年定年、名誉教授。 大森曹玄老師(花園大学元学長)から嗣法。「道の共同体」師家。禅とキリスト教を比較研究。 2006年11月瑞宝小綬章受章。
窪田 般彌(くぼた はんや、1926年1月6日 - 2003… 窪田 般彌(くぼた はんや、1926年1月6日 - 2003年1月22日)は、日本のフランス文学者・詩人・翻訳家。早稲田大学名誉教授。 早稲田大学フランス文学科卒。早稲田大学教授を務めた。カサノヴァの「回顧録」、伝記ほか、アポリネール、象徴主義詩などの訳書多数。またフランス文学、フランス史他、近代日本の象徴詩人関連についても著作多数。カミュ『異邦人』の翻訳で知られる窪田啓作は兄。
立原 正秋(たちはら まさあき、金胤奎、キム・ユンキュ、김윤… 立原 正秋(たちはら まさあき、金胤奎、キム・ユンキュ、김윤규、1926年1月6日 - 1980年8月12日)は、朝鮮半島出身の日本の小説家・随筆家・詩人・編集者。 1926年(大正15年)1月6日、朝鮮の慶尚北道安東郡で生れた。自著などでは大邱市生れとされていたが、武田勝彦や高井有一の調査によると、安東郡である。早稲田大学専門部国文科中退(入学時は法律学科)。 小林秀雄を導き手として世阿弥の芸術論や謡曲をはじめとする中世の日本文学に深く沈潜し、「中世」をみずからの創作活動の原点とした。 父の死後、母が再婚して渡日したため、叔父(母の弟)の家などに引き取られて育ち、その後、1937年(昭和12年)の11歳のときに内地(日本)に渡り、母たちと同居し横須賀で育った。
菅 貞人(かん さだと、1926年(大正15年)1月5日 -… 菅 貞人(かん さだと、1926年(大正15年)1月5日 - )は、日本の実業家。旧名は韓吉昌。 1926年に満洲で軍人の子として生まれる。1943年に満州国留学生として来日。終戦後に東京・小石川になった満州国留学生会館に住み、苦学して明治大学商学部(夜間)を卒業し、出版社を経営する一方で紙の特別配給を受けて大半の紙を闇で売りさばいて利益を上げた。その利潤を元手に高利貸しも行い、1954年頃から不動産業や自動車修理業を手広く経営し、1955年に北海道製糖を買収して製糖業界にも手を広げた。1959年に旧満州国籍から日本国籍に帰化した。1958年に共和製糖を買収し瞬く間に事業を拡大、1961年にはセブンアップの関西地方での販売権を獲得(のちのチェリオコーポレーション)。
浜野 卓也(はまの たくや、1926年1月5日 - 2003… 浜野 卓也(はまの たくや、1926年1月5日 - 2003年8月10日)は、日本の児童文学作家、評論家、教育者。専攻は近代文学。中学、高校での教師を務めたのち、山口女子大学(現・山口県立大学)教授、日本大学芸術学部講師、立教女学院短期大学講師、日本児童文学学会代表理事を歴任した。日本児童文学者協会理事、日本児童文芸家協会理事、日本文芸家協会会員。 静岡県御殿場市出身。早稲田大学第一文学部国文科を卒業後、都内の中学、高校教師を務め、立教大学大学院を修了(近代文学専攻)。 上野高等学校教頭を最後に高校教師を退職したのち、山口女子大学(現・山口県立大学)教授、日本大学芸術学部講師、立教女学院短期大学講師、日本児童文学学会代表理事などを歴任。
大熊喜代松(おおくま きよまつ、1926年1月5日 - 20… 大熊喜代松(おおくま きよまつ、1926年1月5日 - 2008年10月24日)は、日本の教育学者。 千葉県出身。早稲田大学文学部卒業。千葉市立院内小学校言語治療教室担任、千葉県特殊教育センター言語障害児教育研究部長、市川市立養護学校長、千葉県立桜ヶ丘養護学校長、千葉県立千葉盲学校長。大学非常勤講師、NHK「ことばの治療教室」、「ことばの教育相談」などの講師を務める。植草学園短期大学特任教授、日本言語障害児教育研究会副会長。言語障害児教育の業績に対し、文部大臣賞、1969年吉川英治文化賞、読売教育賞など受賞。
中村 俊一(なかむら しゅんいち、1926年〈大正15年〉1… 中村 俊一(なかむら しゅんいち、1926年〈大正15年〉1月4日 - 1980年〈昭和55年〉11月25日)は、日本の演出家、俳優、劇団「仲間」主宰者。 神奈川県横浜市生まれ。松尾鉱業の2代目社長中村正雄の長男。父方の祖父は松尾鉱業、太洋鉱業、増田屋各社長などをつとめた中村房次郎。母方の祖父は日本の社会主義運動の先駆者で、早稲田大学野球部を創設したことでも知られる安部磯雄で、母・京はその次女である。 1945年に早稲田大学文学部国文科を中退。千田是也の知遇を得て俳優講習所に学び、1945年に俳優座に入団。演出助手や舞台監督を経て、1949年に養成所講師となる。1953年、俳優座養成所の2期生とともに劇団仲間を結成、主宰者となる。
中山 大樹(なかやま おおき、1926年1月4日 - 199… 中山 大樹(なかやま おおき、1926年1月4日 - 1991年11月27日)は、日本の工学者。山梨大学名誉教授。 専門は応用微生物学、発酵学。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
宮内 嘉久(みやうち よしひさ、1926年1月4日 - 20… 宮内 嘉久(みやうち よしひさ、1926年1月4日 - 2009年12月13日)は、日本の建築評論家、建築批評家、建築史家、編集者、建築ジャーナリスト。 東京生まれ。旧制府立高等学校を経て東京大学第二工学部建築学科卒業。 雑誌「新建築」(1957年のいわゆる「新建築問題」で退職)、雑誌「THE JAPAN ARCHITECT」(新建築社、1956年の創刊時の担当)、雑誌「国際建築」(美術出版社、1968年廃刊)、「建築年鑑」(美術出版社、1969年まで)などを編集する。 その他にも、1956年に大谷幸夫らと五期会を設立、1958年に宮内嘉久編集事務所を開設、1969年にAF(建築戦線)を結成する。
三上 隆三(みかみ りゅうぞう、1926年1月4日 - 20… 三上 隆三(みかみ りゅうぞう、1926年1月4日 - 2019年8月18日)は、日本の経済学者。位専攻は理論経済学・貨幣史・金融論。学位は経済学博士。和歌山大学名誉教授。階は従三位。2003年瑞宝中綬章受章。 京都府出身。東京商科大学で鬼頭仁三郎に師事。和歌山大学経済学部教授、京都学園大学教授を歴任。 恩師の鬼頭仁三郎は高垣寅次郎の弟子で、高垣寅次郎の孫弟子となる。 長男は、三井住友フィナンシャルグループ取締役の三上徹。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
穂積 生萩(ほづみ なまはぎ、1926年1月4日 - 没年不… 穂積 生萩(ほづみ なまはぎ、1926年1月4日 - 没年不明)は、日本の女流歌人。本名澤木 数枝。 山林大地主で資産家の澤木再吉の末娘として秋田県男鹿に生まれる。1928年、東京府荏原郡田園調布(東京都大田区田園調布)に移住。1943年、高等女学校を卒えて鈴木亨のもとで古事記を学ぶ。叔父澤木四方吉(慶應義塾大学部文学科教授)が折口信夫の旧友だった影響により、折口に傾倒。1944年4月、戦災を避けて秋田に帰郷。 1948年、折口の媒酌により、酒類評論家で技術士の穂積忠彦(俳優穂積隆信の兄)と結婚。1952年、折口から「生萩」の号を受ける(故郷秋田のナマハゲに由来)。 1975年4月、穂積と離婚。
中島 巌(なかじま いわお、1926年1月4日 - 1995… 中島 巌(なかじま いわお、1926年1月4日 - 1995年3月13日)は、日本のアマチュアゴルファー・ゴルフ指導者・ゴルフ場会社経営者・ゴルフコース設計者。中島常幸・中島和也・中島恵利華の父。群馬県桐生市出身。 アマチュアゴルファーとして活躍していたが、長男・常幸の誕生に際し、息子を一流ゴルファーに育てることを決意。常幸のみならず、三男・和也、長女・恵利華にも厳しい練習を課し、プロゴルファーに仕立て上げた。その指導は徹底しており、常幸は練習に専心するため、通っていた私立樹徳高校を中退させられたほどであった。次男・中島篤志によれば、巌は「巨人の星」の星一徹を地でいく筋金入りのがんこ親父であり、子供を“育てる”というよりも“つくる”という感じであったという。
羽田 澄子(はねだ すみこ、1926年1月3日 - )は、日… 羽田 澄子(はねだ すみこ、1926年1月3日 - )は、日本の映画監督。「世田谷・九条の会」呼びかけ人を務めている。 旧満州大連市生まれ。1942年旅順高等女学校卒業。満州から引き揚げ、自由学園女子部高等科卒業後、1950年に恩師羽仁説子の紹介で、岩波書店と資本関係のない関連会社岩波映画製作所に入社し、岩波写真文庫を編集に携わる。 映画シナリオを任され、映画『歯』のシナリオを描いた際に、助監督も試験的に担当。羽仁進監督の下で助監督を務めた後、1957年に『村の婦人学級』(岩波映画)で監督デビューを果たす。 1977年『薄墨の桜』を初めて4年間かけ自主製作する。岩波ホールで他3本と上映の際、総支配人高野悦子がドキュメンタリー映画商業上映での史上初の入場料を取り、無料の慣例を変える。
平井 龍(ひらい とほる、1926年(大正15年)1月3日 … 平井 龍(ひらい とほる、1926年(大正15年)1月3日 - 2008年(平成20年)2月17日)は、日本の政治家。山口県知事(第37-41代)。従三位勲一等。山口県柳井市出身。
遠藤 保成(えんどう やすしげ、1926年1月3日 - )は… 遠藤 保成(えんどう やすしげ、1926年1月3日 - )は日本の地方公務員。神奈川県下水道公社理事長、テレビ神奈川社長。勲三等瑞宝章。 神奈川県出身。旧制新潟高等学校、京都大学法学部政治学科卒業。1948年 神奈川県庁に入庁。1954年 横須賀県税事務所長。1957年3月 教育庁社会教育課長。1959年7月 企画渉外部企画広報課長。1961年12月 企画渉外部企画課長。1963年6月 神奈川県労働委員会事務局長。1967年6月 企業庁管理局長。1971年6月 企画調査部長。1973年7月 総務部長。1975年6月 企業庁長。1981年6月 下水道公社理事長。1982年6月 テレビ神奈川代表取締役社長(〜1994年)。
島田 克美(しまだ かつみ、1926年1月3日 - )は、日… 島田 克美(しまだ かつみ、1926年1月3日 - )は、日本の経済学者。学位は、博士(商学)(大阪市立大学・1992年)。住友商事理事、京都学園大学教授等を歴任。 石川県生まれ。1947年東京帝国大学法学部卒。1948年人事院、1950年公正取引委員会、1957年経済企画庁、1967年住友商事入社、1974年業務本部調査計画部長、1981年理事、事務本部副本部長、京都学園大学経済学部教授、1989年流通経済大学特任教授、1997年客員教授。1992年「商社商権論」で大阪市立大学より博士(商学)の学位を取得。
栂野 泰二(とがの たいじ、1926年1月3日 ‐ 2002… 栂野 泰二(とがの たいじ、1926年1月3日 ‐ 2002年2月14日) は、日本の政治家。日本社会党衆議院議員(2期)。弁護士。 島根県出身。旧制広島高校を経て1950年東京大学法学部政治学科卒。司法試験合格後、日本生協連合会などの顧問弁護士を務める。1976年の第34回衆議院議員総選挙で郷里の島根県から日本社会党公認で立候補して当選する。1979年の第33回衆議院議員総選挙で落選。1980年の第35回衆議院議員総選挙で復帰。1983年の第36回衆議院議員総選挙で落選し、政界を引退した。2002年死去。
中平 康(なかひら こう、1926年1月3日 - 1978年… 中平 康(なかひら こう、1926年1月3日 - 1978年9月11日)は、日本の映画監督。香港名は楊樹希(ヤン・スーシー)。父は洋画家の高橋虎之助。娘は作家の中平まみ。 増村保造、岡本喜八、市川崑、鈴木清順らと共にモダン派と称された。代表作に『変奏曲』『混血児リカ』『月曜日のユカ』『狂った果実』などがある。 1926年(大正15年)1月3日、東京府滝野川町に生まれる。父は洋画家の高橋虎之助。一人娘だったバイオリニストの母・俊の中平姓を継ぐ。音楽学校を出た祖母もヴァイオリンを教えていたなどして芸術家になることを奨励されるような家庭で育つ。中学時代より映画に熱中し、好きだったルネ・クレール監督作品など同じ作品を10回くらいずつ繰り返し観るなどして研究を重ねる。
小川 光暘(おがわ こうよう、1926年1月3日 - 199… 小川 光暘(おがわ こうよう、1926年1月3日 - 1995年1月12日)は、日本の美術史学者。東西の古代文化・美術、日本の寝具史を研究。 奈良県奈良市に生まれる。父・小川晴暘と弟・小川光三は著名な写真家。 同志社大学文学部文化学科卒業。同志社大学大学院、同志社大文学部教授として日本美術史を担当。1995年1月12日、在職中に脳梗塞のため死去。
醍醐 敏郎(だいご としろう、1926年1月2日 - 202… 醍醐 敏郎(だいご としろう、1926年1月2日 - 2021年10月10日)は、日本の柔道家(講道館十段)。 戦後の柔道界を牽引した1人であり、同時期に活躍した松本安市、吉松義彦、石川隆彦、夏井昇吉らと繰り広げた数々の名勝負は、現在も柔道界の歴史に刻まれる。講道館研修員や警察大学校師範として後進の指導にも当たり、モントリオール五輪やロサンゼルス五輪では男子柔道競技の監督を務めた。2006年には講道館より事実上の最高段位である10段に列せられている。 1925年の年末12月26日、千葉県安房郡船形町(現・館山市)仲宿で米穀や酒類を販売する商店を営む、醍醐武兵衛の4男として出生。醍醐家は江戸時代より代々捕鯨を生業とする家柄で、初代・新兵衛はかつて千葉県の七聖人に数えられる程の腕前であった。
今泉 勝義(いまいずみ かつよし、1926年1月2日 - 2… 今泉 勝義(いまいずみ かつよし、1926年1月2日 - 2009年10月31日 )は、東京都出身のプロ野球選手(遊撃手、外野手)。 旧制日本大学第三中学校在学中に、1940年夏の甲子園に出場し、チームをベスト8に導く活躍を見せた。当時の監督に藤田省三(のち近鉄初代監督)、チームメイトに、坂本茂(のち巨人などでプレー)がいた。 中学卒業後の1944年に巨人に入団。4月29日の阪急戦(甲子園球場)で9番・遊撃手として先発出場した。しかしプロの壁は厚く、この試合を含め2試合にしか出場できず、ヒットを打つこともできなかった。終戦後の1946年に沢村栄治(1943年に現役引退。翌1944年に台湾沖で戦死)の後を引き継ぎ、背番号14を付けた。
澤田 壽朗(さわだ としろう、1926年(大正15年)1月2… 澤田 壽朗(さわだ としろう、1926年(大正15年)1月2日 - 2022年(令和4年)1月28日)は、日本の政治家。富山県滑川市長(4期)。陸将補。 富山県上新川郡西加積村上小泉(現・滑川市上小泉)出身。旧制魚津中学校(現・富山県立魚津高等学校)を経て、1945年陸軍士官学校(第58期)卒。翌年富山県庁に入る。その後、公職追放を経て、富山地方鉄道に勤務し、1951年警察予備隊に入る。1960年アメリカに留学し、米陸軍機甲学校で学ぶ。帰国後第9師団第3部長、第23連隊長、防衛庁陸上幕僚監部教育訓練部総括班長、北部方面査察官、富士学校機甲科部長を歴任する。陸将補に進み、1979年に退官。退官後は帰郷し、富山でOA機器販売会社を創立する。
三好 行雄(みよし ゆきお、1926年〈大正15年〉1月2日… 三好 行雄(みよし ゆきお、1926年〈大正15年〉1月2日 - 1990年〈平成2年〉5月20日)は、日本の国文学者。東京大学名誉教授。近代文学を幅広く研究し、学界の中心的存在と目された。作品論の提唱者とされる。 福岡県飯塚町(現・飯塚市)に生まれる。第五高等学校理科卒業、九州帝国大学理学部入学ののち、新制東京大学文学部国文学科に入学。同大学大学院修了後、1955年(昭和30年)より共立女子大学専任講師、助教授、1959年(昭和34年)立教大学助教授を経て、1962年(昭和37年)東大国文科助教授となる。東大国文科で初めての近代専攻の教員だった。1972年(昭和47年)同教授。1981年(昭和56年)文学部長。
天本 英世(あまもと ひでよ、1926年1月2日 - 200… 天本 英世(あまもと ひでよ、1926年1月2日 - 2003年3月23日)は、日本の俳優。一時期、「あまもと えいせい」の読みを用いていたこともある。福岡県若松市(現:北九州市若松区)出身。本籍は佐賀県鳥栖市。身長180cm、体重65kg。
長江 録弥(ながえ ろくや、1926年1月2日 - 2005… 長江 録弥(ながえ ろくや、1926年1月2日 - 2005年4月6日)は、日本の彫刻家。日本芸術院会員。 愛知県瀬戸市出身。1948年、多摩造形芸術専門学校(現 多摩美術大学)卒業。1964年、第7回日展に「芽」を出品して特選。1965年、第8回日展に「乾漆作品の一」を無鑑査出品して特選。1966年、第9回日展に「憩」を委嘱出品して菊華賞。1980年、日展評議員に就任。1986年、第18回日展に「思考」を出品して文部大臣賞。1991年、第22回日展に出品した「砂丘」で日本芸術院賞受賞。1995年、日本芸術院会員。1996年、日展常務理事。1998年、瀬戸市名誉市民、日本彫刻会理事。1999年、紺綬褒章受章。
岡田 喜秋(おかだ きしゅう、1926年1月2日 - )は、… 岡田 喜秋(おかだ きしゅう、1926年1月2日 - )は、日本の紀行作家。本名は「よしあき」。 東京府出身。旧制芝中学校卒業後、旧制松本高等学校文科乙類、1947年東北大学経済学部卒業。大学時代より紀行文を発表していた。 1947年に日本交通公社へ入社。月刊誌『旅』編集記者を務め、日本各地を取材して数多くの紀行文や記事を執筆した。執筆した記事が河上徹太郎らに認められ、風土・人物観察を取り入れた紀行文を多く残した。1959年から1971年までの12年間は『旅』編集長を務めた。日本交通公社退職後、1983年から1999年まで、横浜商科大学教授を務めた。 2024年10月まで、『交通新聞』の「反射板」というコラム欄に隔月で寄稿していた。
榊原章二(さかきばら しょうじ、1926年(大正15年)1月… 榊原章二(さかきばら しょうじ、1926年(大正15年)1月2日 - 2008年(平成20年)4月28日)は、日本の囲碁棋士。愛知県豊橋市出身、村島誼紀名誉九段門下、日本棋院所属、九段。首相杯争奪高段者トーナメント優勝など。 1936年福田正義に入門、1937年村島誼紀に入門。1944年入段。1946年、青年棋士の研究機関「敲玉会」に参加、大手合後期第二部優勝、三段。1955年五段。1956年大手合第一部優勝、六段。1961年首相杯戦準優勝。1963年首相杯戦優勝。1964年第4期旧名人リーグ入り、首相杯戦準優勝。1965年第21期本因坊リーグ入り。1972年九段。1973年28期、1975年30期本因坊リーグ入り。
大谷 茂盛(おおたに しげもり、1926年1月1日 - 19… 大谷 茂盛(おおたに しげもり、1926年1月1日 - 1990年10月15日)は、日本の化学工学者。元東北大学総長。従三位勲二等旭日重光章。 1926年、長野県南安曇郡真々部村(現・安曇野市)生まれ。1943年に 旧制長野県立松本中学校(現・長野県松本深志高等学校)を卒業。旧制山梨工業専門学校(現・山梨大学工学部)に進んで1945年に卒業した。戦後、東北大学大学院第1期特別研究員として東北大学大学院工学部機械工学科で学び、1949年に卒業した。 1960年、東北大学工学部助教授に着任。1965年、「粒状物質内における水分移動に関する研究」を提出して、工学博士号を取得。また、同年に東北大学工学部化学工学科教授に昇進。
前 登志夫(まえ としお、1926年(大正15年)1月1日 … 前 登志夫(まえ としお、1926年(大正15年)1月1日 - 2008年(平成20年)4月5日)は、日本の歌人。本名、前 登志晃(まえ としあき)。日本芸術院会員。短歌結社「山繭の会」主宰。 奈良県吉野郡下市町広橋で、父理策、母可志の二男として誕生。旧制奈良中学(現・奈良県立奈良高等学校)を経て、同志社大学経済学部に入学するが、1945年(昭和20年)に応召されて中退。戦後まもなく詩作を始め、フランスやドイツの詩を学ぶ一方、柳田國男や折口信夫の民俗学にも傾倒した。1951年(昭和26年)に吉野に戻り、前川佐美雄を訪問。1956年(昭和31年)、詩集『宇宙駅』を刊行した。 その後、短歌に転じ、前川に師事する。
千原 雅生(ちはら まさお、1926年1月1日 - )は、大… 千原 雅生(ちはら まさお、1926年1月1日 - )は、大分県出身の元プロ野球選手。右投右打で、ポジションは三塁手。
松下 康雄(まつした やすお、1926年1月1日 -)は、兵… 松下 康雄(まつした やすお、1926年1月1日 -)は、兵庫県神戸市出身の第27代日本銀行総裁。元大蔵事務次官。
佐藤 進(さとう すすむ、1926年1月1日 - 1998年… 佐藤 進(さとう すすむ、1926年1月1日 - 1998年3月1日)は、日本の経済学者、新潟大学名誉教授。
津田 禾粒(つだ かりゅう、1926年1月1日 - 1995… 津田 禾粒(つだ かりゅう、1926年1月1日 - 1995年12月30日)は、日本の古生物学者、地質学者。元新潟大学学長。 富山県上新川郡大沢野町(現・富山市)に生まれる。1949年に京都大学理学部を卒業。1951年、京都大学大学院を退学。同年3月、新潟大学理学部助手。1968年6月から同大学教授。1973年4月から同大学教養部教授。同年11月から10ヶ月間、ナイジェリアのイバダン大学招聘教授。1985年11月、新潟大学学長茂野六花の急死に伴い事務取扱学長。翌年2月より1992年1月まで、第10代新潟大学学長。 1992年1月に新潟大学を退官。1995年12月30日に食道がんにより、新潟大学医学部付属病院で死去。
佐藤 進(さとう すすむ、1926年1月1日 - 1998年… 佐藤 進(さとう すすむ、1926年1月1日 - 1998年3月1日)は、日本の経済学者。新潟大学名誉教授。専門は、財政学、地方財政論。東京都生まれ。勲二等瑞宝章受章。 東京都行財政調査会専門委員、税制調査会専門委員、特別区政調査会委員、外務公務員採用上級職試験委員、東京都市政調査会藤田賞選考委員などを歴任。 この項目は、経済学者(経済評論家を含む)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ウィキポータル 経済学、ウィキプロジェクト 経済)。
原後 山治(はらご さんじ、1926年(大正15年)1月1日… 原後 山治(はらご さんじ、1926年(大正15年)1月1日 - 2008年(平成20年)8月25日)は、日本の弁護士。 1926年和歌山県生まれ。1951年(昭和26年)東京大学法学部政治学科を卒業。1973年(昭和48年)から日本弁護士連合会理事。1981年(昭和56年)から1987年(昭和62年)まで同連合会の法廷委員会委員長を務めた。 在日韓国人の司法修習生採用をめぐる問題で弁護団長を務め、外国籍の人に門戸を開いた。このほか、法廷傍聴人のメモをめぐり「知る権利」が争われた訴訟、法廷外での弁護士仲裁制度の創設などに尽力した。 2008年8月25日、肺炎のため死去。墓所は多磨霊園。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
日野 資純(ひの すけずみ、1926年(大正15年)1月1日… 日野 資純(ひの すけずみ、1926年(大正15年)1月1日 - 2019年(令和元年)8月22日)は、日本の国語学者・方言学者。伯爵。静岡大学名誉教授。 東京出身。日野家の末裔で、父は伯爵・日野捷郎(ドイツ文学者・実吉捷郎)。1931年に父が隠居したため(間もなく離婚し、日野家を出た)、同年3月17日、5歳で伯爵を襲爵した。 1951年に東京大学文学部国文科卒、同助手となる。1954年に弘前大学講師、1958年に駒澤大学講師、1959年に静岡大学助教授、1972年に教授となり、1989年に定年退官、名誉教授、静岡英和女学院短期大学教授を務め、1996年に退職。