乗松 雅休(のりまつ まさやす、文久3年7月12日(1863… 乗松 雅休(のりまつ まさやす、文久3年7月12日(1863年8月25日) - 大正10年(1921年)2月12日)は、日本のプロテスタント最初の海外宣教師。 伊予松山藩士の子供として生まれた。旧制松山中学を卒業して20代で上京して神奈川県庁に就職。1887年日本基督公会で、稲垣信牧師から洗礼を受けた。その後、明治学院に入学したとされるが、乗松の在学を証明する証拠はない。神学生時代、乗松は日本基督教会で奉仕していた。 1888年11月、イギリスから来日したプリマス・ブレザレンの宣教師ハーバード・ブランドは教会組織や信条を拒否する活動を開始していた。1889年10月以降、ブランドは聖餐を伴う礼拝を始め、キリスト同信会が誕生する。
小室 三吉(こむろ さんきち、文久3年7月9日(1863年8… 小室 三吉(こむろ さんきち、文久3年7月9日(1863年8月22日) - 大正9年(1920年)10月18日) は、日本の実業家。戦前三井財閥の幹部で、三井合名参事、三井家同族会理事などを務めた。 江戸出身。ロンドン留学後、1883年商法講習所(現一橋大学)卒業。同期に福井菊三郎。1884年に三井物産入社。香港支店長、上海支店長、ロンドン支店長などを経て、1906年理事。1909年取締役、三井合名参事。のち、三井家同族会理事。1913年三井合名監査部幹事長。1916年東京海上保険取締役。1918年大正海上火災保険監査役。1920年に病気で危篤となり叙従六位。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。
丹羽 正道(にわ せいどう、文久3年6月27日〈1863年8… 丹羽 正道(にわ せいどう、文久3年6月27日〈1863年8月11日〉 - 1928年〈昭和3年〉1月5日)は、明治から大正にかけて活動した日本の電気技術者である。日本で5番目に開業した電力会社名古屋電灯で初代技師長を務めたほか嘱託技師として大阪市電の開業に携わった。愛知県名古屋市出身。 文久3年6月27日(新暦:1863年8月11日)、丹羽氏任の長男として名古屋城下・広小路御園の屋敷で生まれた。父・氏任は尾張藩に仕える儒学者(藩儒)。また丹羽家は一色公深を祖とするという。正道は幼少期から聡明であったといい、東京に出て大学予備門で学んだのち工部大学校へ進学。工部大学校では成績優秀のため官費生であった。
五百城 文哉(いおき ぶんさい、1863年8月11日(文久3… 五百城 文哉(いおき ぶんさい、1863年8月11日(文久3年6月27日 ) - 1906年(明治39年)6月6日)は、明治時代の日本の洋画家。本名は熊吉。 1863年8月11日(文久3年6月27日)常陸国水戸藩(現:茨城県水戸市)に生まれる。1878年(明治11年)から翌年まで母校である水戸上市小学校の教壇に立つ。1884年(明治17年)農商務省山林局雇となり、高橋由一の門に入る。1887年(明治20年)東京府工芸品共進会に出品。1890年(明治23年)第3回内国勧業博覧会に出品、褒状を受ける。その後、農商務省を依願退職し、肖像画や風景画を描きながら新潟地方や、茨城、栃木など、各地を遊歴。1892年(明治25年)本名を熊吉から文哉に改める。
清沢 満之(きよざわ まんし、1863年8月10日(文久3年… 清沢 満之(きよざわ まんし、1863年8月10日(文久3年6月26日) - 1903年(明治36年)6月6日)は、日本の明治期に活躍した真宗大谷派(本山・東本願寺)の僧侶、哲学者・宗教家。旧姓は「徳永」。幼名は「満之助」。院号法名は、「信力院釋現誠」。
大沢 岳太郎(おおさわ がくたろう、1863年8月9日(文久… 大沢 岳太郎(おおさわ がくたろう、1863年8月9日(文久3年6月25日) - 1920年12月5日)は、日本の解剖学者。医学博士。理学博士。旧姓は大橋。 尾張国海東郡津島村(現・愛知県津島市)出身。1882年に帝国大学医学科を卒業し、1887年に助手となる。1894年に妻を亡くしたのを機に、1895年に自費でドイツに留学。1897年にドイツ人女性と再婚し、同年に帰国、医学博士の学位を取得。1900年に東京帝国大学の教授となる。両生類や爬虫類などの比較組織学を研究。著作に「解剖学講本」などがある。1916年にサンショウウオの研究論文で理学博士の学位を取得。 1920年12月3日、大学での講義を終え、布佐駅で下車して帰宅する途中で倒れ、通行人により自宅へ運ばれるが昏睡状態となり、12月5日に死去した。
早川 千吉郎(はやかわ せんきちろう、文久3年6月21日(1… 早川 千吉郎(はやかわ せんきちろう、文久3年6月21日(1863年8月5日) - 大正11年(1922年)10月14日)は、明治、大正期の官僚、実業家、政治家。三井財閥の幹部の一人。 石川県金沢市出身。明治20年(1887年)、東京帝国大学法科大学政治学科卒業。明治22年(1889年)、同大学院農政学研究科修了。明治23年(1890年)1月、大蔵省入省。明治32年(1899年)日本銀行監理官。明治33年(1900年)辞職。 明治34年(1901年)、三井銀行専務理事。明治42年(1909年)三井銀行常務取締役。大正7年(1918年)、三井合名会社副理事長。1920年(大正9年)6月2日、貴族院勅選議員に任じられ、死去するまで在任した。
井原 喜代太郎(いはら きよたろう、1863年8月5日(文久… 井原 喜代太郎(いはら きよたろう、1863年8月5日(文久3年6月21日)- 1920年(大正9年)8月6日)は、明治から大正期の実業家、政治家。衆議院議員、佐賀県会議長、佐賀県藤津郡南鹿島村長。俳号・黄渓。 肥前国藤津郡高津原村(佐賀県藤津郡南鹿島村、鹿島町、現鹿島市横田)で、鹿島藩士・井原五兵衛(陶一、為助)の長男(長子)として生まれる。谷口藍田(中秋)から漢学を学び、鹿島変則中学で普通学を修めた。その後上京し、専修学校(現専修大学)で学び、慶應義塾を卒業した。1882年(明治15年)12月、家督を相続した。 1886年(明治19年)鹿島銀行の創立に参画し、佐世保支店長、取締役、頭取を歴任。
山田 孝道(やまだ こうどう、1863年8月1日 - 192… 山田 孝道(やまだ こうどう、1863年8月1日 - 1928年1月7日)は、日本の仏教学者、曹洞宗の僧侶。曹洞宗大学林(現・駒澤大学)教頭。地福寺住職、大龍寺住職、大慈寺住職。道号は哲巌、湖南と号することも。世寿満64才、数66歳。 1863年(文久3年)8月1日、島根縣能義郡廣瀨町(現・島根県安来市)、広瀬藩士山田央(益之)の三男として生れる。幼名は恭三郎。明治11年5月27日、同縣能義郡澤村地福︀寺の住職影山虚巖について得度。明治9年9月から11年8月まで廣瀨町修文館にて漢学を修める。明治11年9月から兵庫県三田村心月院の住職蘆浦黙應に随侍し、明治14年8月、島根県曹洞宗専門支校を卒業、同年冬、島根県山中村(伯耆)の退休寺太田有典の常恒会にて長老を勤める。
菅原 師竹(すがわら しちく、1863年(文久3年)8月 -… 菅原 師竹(すがわら しちく、1863年(文久3年)8月 - 1919年(大正8年)3月24日)は日本の俳人。本名は賢五郎。旧姓:伊藤。 陸奥国登米郡登米(現・宮城県登米市)に生まれる。幼少期に元藩儒の中沢敬哉に経史を学ぶ。菅原家に養子になり、農業をする。旧派俳諧に属したが、1904年に安斎桜磈子と知り、共に日本派の俳句入る。1905年から河東碧梧桐の俳句の指導を受ける。新傾向時代初期に活躍し「師竹・桜磈子時代」を画す。「続春夏秋冬」「日本俳句鈔」などに多く句を収め、安斎桜磈子編「師竹句集」がある。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
南嶋 間作(みなみじま まさく、1863年7月31日(文久3… 南嶋 間作(みなみじま まさく、1863年7月31日(文久3年9月13日)- 1899年(明治32年)2月9日)は、明治期の実業家、政治家。衆議院議員。 越中国射水郡新湊放生津町(石川県射水郡新湊放生津町、富山県射水郡新湊放生津町、新湊町、新湊市を経て現射水市放生津町)で、徳三の長男として生まれた。岡田呉陽に漢学を学んだ。高岡(現高岡市)の商家で奉公し、その後、大阪・渋谷塾で数学を学び、東京・豊国校で簿記学を慶應義塾で政治学・経済学を学んだ。1886年(明治19年)父の病のため帰郷した。 新湊町立卓立小学校長、同廉貞小学校長に就任。1888年(明治21年)四日曽根小学校長、荒屋小学校長を兼務。1889年(明治22年)小学校長を辞職し、上海で海運事情を視察して帰国した。
漆間 民夫(うるま たみお、1863年7月31日(文久3年6… 漆間 民夫(うるま たみお、1863年7月31日(文久3年6月16日)- 1926年(大正15年)7月26日)は、明治から大正期の酒造家、実業家、政治家。衆議院議員。幼名・守太郎。号・履堂、千畝。生地銀行創立者。 越中国新川郡生地村(石川県新川郡生地村、下新川郡生地村、富山県下新川郡生地村、生地町を経て現黒部市生地)で、素封家、酒造業・漆間次郎右衛門の長男として生まれた。1877年(明治10年)岡田呉陽の塾に入門。1883年(明治16年)上京して明治義塾で学び馬場辰猪から薫陶を受けた。 島田孝之、田村惟昌らと自由民権運動に尽力。富山県奨学委員、生地村外4ケ村奨学委員、富山県免囚保護会評議員を務めた。
大塚 専一(おおつか せんいち、1863年7月30日(文久3… 大塚 専一(おおつか せんいち、1863年7月30日(文久3年6月15日) - 1920年(大正9年)7月9日)は、日本の地質学者、登山家。理学博士。日本各地の巡検を通じて地質調査に先鞭をつけ、多くの地質図作成に貢献した。 大垣藩士・大塚岱中の二男。1863年、美濃国(現・岐阜県)に生まれる。1887年、帝国大学理科大学地質学科を卒業。卒業論文では、関東地方の地質調査を取りまとめ、その中で秩父古生層の名付け親となった。卒業後は、農商務省地質調査所に入った。1888年、磐梯山噴火が発生すると和田維四郎とともに現地調査を行った。1892年前後には、岩手県釜石市周辺の鉄鉱床の調査を行い釜石鉱山の発展に寄与した。
森本 荘三郎(もりもと しょうざぶろう、1863年7月28日… 森本 荘三郎(もりもと しょうざぶろう、1863年7月28日(文久3年6月13日) - 1911年(明治44年)7月31日)は、日本の政治家、衆議院議員(2期)。 丹波国多紀郡篠山河原町、のちの兵庫県多紀郡篠山町(篠山市を経て現丹波篠山市河原町)出身。篠山町会議員、兵庫県会議員、同常置委員、同郡部会議長、所得税審査委員、篠山町長となる。また、蚕糸業組合長、共同貯蓄銀行、百三十七銀行各取締役、多紀郡醸造組合長を務め、製紙場、製糸場、篠山電話会、篠山電燈会社を創立、地方産業の発展に尽力した。 1895年の衆議院兵庫3区の補欠選挙で当選。1898年の第5回衆議院議員総選挙は不出馬。1903年の第8回衆議院議員総選挙において兵庫県郡部から立憲政友会公認で立候補して当選した。
坂元 英俊(さかもと ひでとし、1863年7月28日(文久3… 坂元 英俊(さかもと ひでとし、1863年7月28日(文久3年6月13日)- 1956年(昭和31年)2月14日)は、日本の政治家、衆議院議員(4期)。 日向国諸県郡都城郷西岳村(宮崎県北諸県郡庄内村、西岳村、荘内町を経て現都城市)で生まれた。東京で鱸松塘に学び、さらに慶應義塾で学ぶ。農業を営み、庄内村会議員、宮崎県会議員、同常置委員、徴兵参事員、陸軍省雇員、台湾総督府台中県属、宮崎県畜産組合長、中央事務所長、北諸県郡会議員、県産牛馬組合連合組合長となる。 1902年の第7回衆議院議員総選挙において宮崎県から立憲政友会公認で立候補して当選した。以来当選4回。1912年の第11回衆議院議員総選挙には出馬しなかった。
有松 英義(ありまつ ひでよし、1863年7月25日〈文久3… 有松 英義(ありまつ ひでよし、1863年7月25日〈文久3年6月10日〉- 1927年〈昭和2年〉10月24日)は、明治から昭和初期の官僚、政治家。寺内内閣の法制局長官を務めた。通称は梅次郎。字は子華。 備前国御野郡岡山城下に岡山藩士有松正義の長男として生まれる。1881年(明治14年)、岡山師範学校を卒業後、窪屋郡帯江小学校の教員をしながら漢学者西毅一の門下となる。陸奥宗光の著書を読んで上京して洋学を学ぶことを志した。相談を受けた同門の先輩である小松原英太郎は師である西が自由民権運動に没頭するのを憂慮して、1884年(明治17年)有松を獨逸学協会学校専修科に入学させた(小松原は同校の母体である獨逸学協会の会員であった)。
樺 正董(かば せいとう、かば まさしげ、文久3年6月7日(… 樺 正董(かば せいとう、かば まさしげ、文久3年6月7日(1863年7月22日) - 大正14年(1925年)12月27日)は、日本の数学教育家・数学者。数学教育近代化の先駆的役割を果たした。 1960年の安保闘争のとき、死去した東大女子学生樺美智子の曾祖父、社会学者樺俊雄の祖父。 鳥取市定府内町に生まれる。藤六、とめの長男。家庭は織物屋兼紺屋だった。 13歳の時故郷を出て大阪へ行く。これは、勉強するのに都合の良い所を見付けようとしたのであった。。しかし金は無く、ただ着のみ着ままで出たため、大阪に着いたら最早一厘の貯えもなかった。そこで、或る家に奉公することになった。主人の使い歩き、時には子守なども命令された。
白水 淡(しろうず あわし、1863年7月21日〈文久3年6… 白水 淡(しろうず あわし、1863年7月21日〈文久3年6月6日〉- 1932年〈昭和7年〉1月25日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。栄典は従三位勲一等功三級。号は孤峯。 筑前国那珂郡春日村(福岡県筑紫郡春日町大字春日を経て現春日市)で白水喜一の二男として生まれ、1904年(明治37年)1月に分家した。 1871年(明治4年)春日村の浦田塾に入塾。1880年(明治13年)8月、陸軍教導団に入り歩兵科生徒となる。1881年(明治14年)に修業し同年11月、歩兵伍長に任官し熊本鎮台に配属された。1884年(明治17年)陸軍士官学校(旧9期)に入校し、1887年(明治20年)に卒業し同年7月、歩兵少尉に任官し歩兵第7連隊小隊長に就任。
平岡 定太郎(ひらおか さだたろう、文久3年6月4日〈186… 平岡 定太郎(ひらおか さだたろう、文久3年6月4日〈1863年7月19日〉 - 1942年〈昭和17年〉8月26日)は、日本の内務官僚。樺太庁長官(第3代)。福島県知事(第17代)。正三位勲三等。作家三島由紀夫の祖父。農商務官僚平岡梓の父。 文久3年6月4日(1863年7月19日)、播磨国印南郡志方村上富木村字横山(現在の兵庫県加古川市)で、農業を営んでいた父・太吉と、母・つる(寺岡久平の長女)の間に二男として生まれる。 少年の頃は、皇道精神を基調とする鼎(かなえ)塾に学んだ。ここでは忠君愛国の講話が行われた。兄の萬次郎はやがて姫路の洋学塾へ進み、定太郎も同じ地の師範伝習所へ入った。伝習所はすぐ神戸へ移り、神戸師範(御影師範学校、現・神戸大学)と改称、入学年齢は「二十一歳以上」とあったが、明敏な定太郎は16歳で許され3年間の寄宿生活を送った。
西村 礼作(西村 禮作、にしむら れいさく、1863年7月1… 西村 礼作(西村 禮作、にしむら れいさく、1863年7月19日〈文久3年6月4日〉 - 1943年〈昭和18年〉3月8日)は、日本の政治家、衆議院議員(山口県郡部選出、当選3回)。族籍は山口県平民。 長門国阿武郡、のちの山口県阿武郡奈古村(奈古町を経て現阿武町)で、代々農業と生蝋製造を業とする西村家に生まれる。利右衛門の三男。小学校を了え、漢学と英語と数学を学ぶ。 農業を営む。学務委員、山口県勧業諮問会員、奈古村会議員、同村長、阿武郡所得税調査委員、同徴兵参事員、山口県会議員を務める。藤田組の藤田伝三郎の知遇を得て同家理事のほか、藤田銀行、防長銀行、萩銀行の各監査役を務める。 1894年3月の第3回衆議院議員総選挙において山口2区から無所属で立候補して初当選。
白井 光太郎(しらい みつたろう、1863年7月17日(文久… 白井 光太郎(しらい みつたろう、1863年7月17日(文久3年6月2日) - 1932年(昭和7年)5月30日)は、日本の植物学者・菌類学者。日本の植物病理学や本草学史の開拓者。博物学者。 1863年に江戸霊岸島の福井藩中屋敷(現在の東京都中央区新川)に生まれる。元治元年、藩地に移転の為、福井城下毛矢町に移住する。1886年に東京帝国大学理科大学(現在の東京大学理学部)植物学科を卒業。 卒業後すぐに東京農林学校の助教授となり、翌年教授に就任。1890年に帝国大学農科大学(現在の東京大学農学部)に異動して助教授となり、植物学講座を担当した。 1899年から1901年まで、ドイツに留学して植物病理学の研究に取り組んだ。
川村 曄(かわむら あきら、文久3年5月26日(1863年7… 川村 曄(かわむら あきら、文久3年5月26日(1863年7月11日) - 大正12年(1923年)8月13日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)。号は経山。 伊勢国安濃郡津(現在の三重県津市)出身。川村弥右衛門の長男として生まれる。漢学やドイツ学を学んだ。1889年(明治22年)より新聞記者や雑誌記者を務めた。 1909年(明治42年)、衆議院補欠選挙で当選。第11回衆議院議員総選挙でも再選された。 その他、立憲政友会院外団理事を務めた。
石川 甚作(いしかわ じんさく、文久3年5月20日(1863… 石川 甚作(いしかわ じんさく、文久3年5月20日(1863年7月5日) - 大正8年(1919年)1月28日)は、日本の衆議院議員。弁護士。 下野国都賀郡、のちの栃木県下都賀郡赤津村(都賀村、都賀町を経て現在の栃木市)出身。1888年(明治21年)、明治法律学校(現在の明治大学)を卒業。弁護士となり、東京市会議員に選出された。 1912年(明治45年)第11回衆議院議員総選挙に出馬し当選を果たした。 その他、日本点灯株式会社取締役、東京湾汽船株式会社監査役、日本電線株式会社監査役、明正印刷株式会社監査役、渡辺倉庫株式会社監査役、東京消毒洗濯株式会社監査役、二十七銀行監査役、旭日生命保険株式会社監査役、駿豆電気鉄道株式会社監査役などを務めた。
松井 簡治(まつい かんじ、1863年7月3日〈文久3年5月… 松井 簡治(まつい かんじ、1863年7月3日〈文久3年5月18日〉 - 1945年〈昭和20年〉9月26日)は、日本の国語学者(文学博士)。旧姓は宮内。号は刀水、碧湾。東京文理科大学名誉教授。 下総国銚子(現・千葉県銚子市)出身。父は国学者の宮内嘉雄。帝国大学特約生教育学科を修了後、文科大学国文学科選科に在籍。その後学習院教授、東京高等師範学校教授、東京文理科大学教授を歴任。墓所は雑司ヶ谷霊園。 20年近くかけて国語辞典『大日本国語辞典』を著し、刊行後も修訂を続けた。 この項目は、言語学に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ウィキポータル 言語学)。
百瀬 清治(ももせ せいじ、文久3年5月17日(1863年7… 百瀬 清治(ももせ せいじ、文久3年5月17日(1863年7月2日)- 昭和18年(1943年)4月7日)は、日本の政治家。衆議院議員。 信濃国筑摩郡平田村(現長野県松本市)生まれ。武居用拙の猶興塾に学び、東京専修学校を卒業。明治22年(1889年)芳川村会議員、同24年(1891年)東筑摩郡会議員、同26年(1893年)長野県会議員となり、議長も務めた。同42年(1909年)芳川村長となり、大正6年(1917年)第13回衆議院議員総選挙に当選した。 長野県の県道七路線開削事業のうち、松本・上田間の第二線路(現国道143号)の完成や、牛伏川の砂防工事などに功績があった。また扶桑銀行頭取、信濃民報社社長なども務めた。
下平 用彩(しもだいら ようさい、文久3年5月16日(186… 下平 用彩(しもだいら ようさい、文久3年5月16日(1863年7月1日) - 大正13年(1924年)2月23日)は、三重県出身の医師、第四高等学校、金沢医学専門学校、金沢医科大学の教授。 紀伊国紀州藩阪本村(現在の三重県南牟婁郡御浜町)に新宮藩に仕える漢方医の父「秀作」、母「きん」の長男として生まれる。明治9年(1877年)に三重県立医学校(現在の三重県立大学)に入学し、明治22年(1889年)10月に帝国大学医科大学を卒業、同年11月に同大学の助手となり第二医院外科部に勤務。明治23年(1890年)12月23日に医術開業免状を授与され、明治24年(1891年)5月15日に山梨県病院(現在の山梨県立中央病院)の第6代院長となり、明治26年(1893年)11月3日に山梨医会会長に就任、明治30年(1897年)9月に山梨県病院院長を辞し、同年10月11日に第四高等学校医学部教授に任ぜられた。
井手 三郎(いで さぶろう、文久3年5月15日(1863年6… 井手 三郎(いで さぶろう、文久3年5月15日(1863年6月30日) - 昭和6年(1931年)11月16日)は、衆議院議員(中央倶楽部→立憲同志会→憲政会)、ジャーナリスト。 肥後国飽田郡中島村(現在の熊本県熊本市西区)出身。1887年(明治20年)、済々黌を卒業。中国語を学び、漢口や北京を巡った。日清戦争の際には大本営附となり、第一軍民政庁通訳官を務めた。戦後、海軍軍令部嘱託として北京・天津を視察した。 1897年(明治30年)、福州にて「漢字新報」を創刊。翌年、貴族院議長・公爵近衛篤麿が東亜同文会を創設すると、それに参加し、上海支部長に任命された。上海租界では漢字新聞「同文滬報」を発行、1904年(明治37年)7月には邦字新聞「上海日報」の経営を引き継いだ。
西久保 弘道(にしくぼ ひろみち、1863年6月30日〈文久… 西久保 弘道(にしくぼ ひろみち、1863年6月30日〈文久3年5月15日〉- 1930年〈昭和5年〉7月8日)は、日本の内務官僚、政治家、剣道家。 福島県知事(第19代)、北海道庁長官(第13代)、警視総監(第23代)、貴族院議員(勅選)、大日本武徳会武道専門学校校長(第5代)、東京市長(第11代)を歴任した。流派は一刀正伝無刀流。称号は大日本武徳会剣道範士。 三重県警部長従七位の西久保紀林の子、肥前国佐賀郡鍋島村八戸(現:佐賀市)に生まれる。司法省法学校予科を経て、東京帝国大学法科大学卒。 内務省に出仕し官吏として累進した弘道は福島県知事、北海道長官、警視総監を歴任する。その後大礼使参与を務め、その功により勲二等瑞宝章を受章。
宇田川 銀之助(うだがわ ぎんのすけ、旧姓・福室、1863年… 宇田川 銀之助(うだがわ ぎんのすけ、旧姓・福室、1863年6月29日〈文久3年5月14日〉 - 没年不明)は、日本の政治家、資産家、商人(酒醬油商)、会社役員。東京市神田区会議員。共立土地建物取締役。族籍は東京府平民。 東京府豊多摩郡上落合村(現・東京都新宿区上落合)出身。福室藤左衛門の三男。浅草平右衛門町の酒家の宇田川に養子となり、1896年に家督を相続する。 酒醬油商を営む。養父・金蔵は老衰していて家業は甚だ振るわなかったので、身を挺して難局に当たった。 信仰に厚く、平常弘法大師に帰依し、諸国の霊場を巡拝した。住所は東京神田同朋町(現・東京都千代田区外神田)。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。
秋岡 義一(あきおか ぎいち、1863年6月26日〈文久3年… 秋岡 義一(あきおか ぎいち、1863年6月26日〈文久3年5月11日〉- 1925年〈大正14年〉3月31日)は、明治から大正期の日本の地主・農業経営者・実業家・政治家。衆議院議員。妻のタニは、川端康成の母方の叔母。 摂津国東成郡蒲生村(大阪府東成郡鯰江村を経て現大阪市)で、大地主、豪農・秋岡伊兵衛の長男として生まれる。1884年(明治17年)4月、家督を相続し農業を営む。 実業界では、朝鮮綿業監査役、京阪電気鉄道監査役、京阪土地建物監査役、大阪農工銀行頭取、利別農場業務執行社員などを務めた。 1894年(明治27年)3月の第3回衆議院議員総選挙で大阪府第4区から無所属で出馬して初当選。その後、第11回総選挙まで再選され、衆議院議員に通算8期在任した。
堀越 善重郎(ほりこし ぜんじゅうろう、1863年6月18日… 堀越 善重郎(ほりこし ぜんじゅうろう、1863年6月18日(文久3年5月3日) - 1936年(昭和11年)4月24日)は、貿易商。堀越商会主。 下野国足利郡三重村五十部東山の農家に生まれる。1868年、瑞泉院の寺子屋に入り神童と評される。1878年五十部学校入学。 木村半兵衛の目に留まり、東京遊学給費生となり、共立学校(現開成高等学校)を経て、1883年商法講習所(現一橋大学)卒業。 霊巌寺の人相占いの助言を受けアメリカ合衆国へ渡ることを決意し、木村が蒐集した骨董品を売却して捻出した資金を貰い、1884年、横浜港から出帆し、同窓の友人の世話で力士の下で下宿生活を送ったのち、母校矢野二郎校長の紹介状を伝手に相談した高橋新吉在ニューヨーク領事の紹介で、フレッチャーの二番商会に入社した。
増谷 喬(ますたに たかし、文久3年(1863年)6月5日)… 増谷 喬(ますたに たかし、文久3年(1863年)6月5日) - 昭和19年(1944年)4月13日)は日本の政治家。上道村長(5代)、上道村会議員。 二女よしは元鳥取弁護士会会長君野順三の弟で醤油醸造業君野秀三(元若桜町町長)の妻。ソニー育ての親として知られる増谷麟(元東宝常務、PCL創立社長、日本ポリドール社長)は三男。 上道村(現鳥取県境港市上道町)出身。家業は薬問屋、醤油醸造。若いころから村会議員を務め一派を形成していた。大正15年(1925年)5月から昭和4年(1929年)9月まで上道村長を務めた。 短歌や墨絵を趣味とし、囲碁も強くて碁打ち友達がよく来ていた。
頼 俊直(らい としなお、1863年6月2日〈文久3年4月1… 頼 俊直(らい としなお、1863年6月2日〈文久3年4月16日〉 - 1926年〈大正15年〉12月3日)は、日本の政治家(衆議院議員、当選1回)、広島県多額納税者、広島県の大地主、名望家、資産家、実業家。竹原銀行取締役頭取。木ノ江汽船相談役。族籍は広島県平民。 安芸国竹原(現・広島県竹原市)出身。頼廉次郎の長男。和漢学及び英学を修めた。町会議員に挙げられた。農業、製塩業、金穀貸付業を営んだ。1894年、広島県第5区より選ばれて衆議院議員となった。実業同志倶楽部、大手倶楽部に所属。 江戸後期の儒者、勤王家頼山陽の叔父頼春風の曽孫にあたる。家は累世栄え、俊直に至り、その富は益々大になり、「竹原町随一の長者」と称呼された。
坂口 常次郎(さかぐち つねじろう、1863年5月31日〈文… 坂口 常次郎(さかぐち つねじろう、1863年5月31日〈文久3年4月14日〉 - 没年不明)は、日本の政治家、実業家。坂口商店代表社員。族籍は鳥取県平民。 鳥取県西伯郡米子町大字尾高町(現・米子市尾高町)出身。木綿商・坂口平吉郎の三男。坂口喜平の養子となる。 尾高区区長、西伯郡会議員、米子町収入役、米子町会議員、米子製糸取締役、米子製鋼所監査役、西伯酒造組合長、西伯醤油製造同業組合長などをつとめる。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
町田 忠治(まちだ ちゅうじ、文久3年3月30日(1863年… 町田 忠治(まちだ ちゅうじ、文久3年3月30日(1863年5月17日) - 昭和21年(1946年)11月12日)は、明治から昭和期の政治家、実業家、ジャーナリスト。 衆議院議員(当選10回)。立憲民政党・日本進歩党総裁、農林大臣・商工大臣・大蔵大臣(兼任)などを歴任したが最晩年は公職追放された。正三位勲一等。号は幾堂。愛称はノンキナトウサン。 出羽国秋田郡久保田城下の秋田保戸野八丁新田上丁(現秋田県秋田市保戸野八丁)に秋田藩士・町田伝治の四男として誕生。父伝治は3歳の時に亡くなったため、祖父町田平治と母シン子によって育てられた。大正期の『中央公論』編集長・滝田樗陰は甥にあたる。 1875年(明治8年)に叔母町田直の養子となり、家督を継いだ。
梅田 ミト(うめだ ミト、1863年5月14日 (文久3年3… 梅田 ミト(うめだ ミト、1863年5月14日 (文久3年3月27日)- 1975年5月31日)は、長寿日本一及び長寿世界一であった熊本県託麻郡供合村生まれの女性。 1863年、熊本県託麻郡供合村の農家の長女として生まれる。1900年、3回目の結婚を梅田弥次郎と行い、一男一女をもうける。梅田自身には3回の結婚で合計5人の子供がいた。 1973年10月31日、110歳235日だったイギリスのエリザベス・ワトキンスの死去により、長寿世界一となった。 長寿世界一を1年以上に渡って守った後、1975年5月31日に老衰のため死去。112歳17日没。梅田の死去に伴い、河本にわが長寿日本一および世界一の座を引き継いだ。
上村 杢左衛門(うえむら もくざえもん、1863年〈文久3年… 上村 杢左衛門(うえむら もくざえもん、1863年〈文久3年〉5月10日 - 1940年〈昭和15年〉11月16日)は、三河国渥美郡畠村(現在の愛知県田原市福江町)出身の実業家。東三河地方では指折りの事業家であるとされる。渥美半島における様々な企業の創業に関与し、海運業、電気事業、陸運業、金融業などで半島の発展に寄与した。衆議院議員の上村千一郎は孫。 1863年(文久3年)5月10日、三河国渥美郡畠村614番地(現在の愛知県田原市福江町)に生まれた。上村家は畠村の庄屋を務めていた家である。父は上村杢八、母はもとであり、母は知多郡師崎村(現在の南知多町)出身だった。杢左衛門は長男である。1867年(慶応3年)には父の杢八が死去し、4歳にして杢左衛門が上村家を相続した。
永田 仁助(ながた にすけ[要出典] / じんすけ、1863… 永田 仁助(ながた にすけ[要出典] / じんすけ、1863年5月9日(文久3年3月22日)- 1927年(昭和2年)3月10日)は、明治・大正期の実業家、政治家。浪速銀行頭取、貴族院勅選議員。 摂津国西成郡(後の大阪市南区高津町四番丁。現在の大阪市中央区高津)で、米穀商・永田仁左衛門の長男として生まれる。藤沢南岳の泊園書院(現在の関西大学)で漢籍を学んだ。その後、家業を廃し、1889年(明治22年)第1回大阪市会議員選挙で当選。その後、大阪府会議員にも選出された。 その後、大阪の経済発展の必要性を考え、1894年(明治27年)8月、大阪明治銀行の設立に際して取締役に就任。その後、大阪市中銀行の合同の計画を推進し、1898年(明治31年)に浪速銀行が設立されると常務取締役となり、1908年(明治41年)第3代頭取に就任し、1913年(大正2年)まで在任した。
恩田 峰次郎(恩田 峯次郎、おんだ みねじろう、1863年5… 恩田 峰次郎(恩田 峯次郎、おんだ みねじろう、1863年5月7日〈文久3年3月20日〉 - 没年不明)は、日本の政治家、地主、家主。 東京府北豊島郡池袋村・恩田権十郎の二男。1882年、家督を相続する。農業を営む。池袋村会議員となる。公徳会を組織し、会長をつとめる。北豊島郡長崎村第一耕地整理組合評議員である。住所は東京市豊島区池袋2丁目。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
寄藤 好実(よりふじ よしざね、文久3年3月14日(1863… 寄藤 好実(よりふじ よしざね、文久3年3月14日(1863年5月1日) - 昭和3年(1928年)5月21日)は、日本の教育者。幼名は銀吉。号は紫軒。 信濃国松本城下に松本藩士寄藤武八郎義弘の長男として生まれる。明治元年(1868年)藩校崇教館に学ぶ。廃藩による秩禄処分により、同7年(1874年)一家を挙げて安曇郡東穂高村(現長野県安曇野市)に移り、高橋白山の矢原研成学校に学ぶ。生活は困窮したが、苦学の末、同16年(1883年)長野県師範学校を卒業。南安曇郡穂高尋常小学校訓導、東筑摩郡小学督業、同郡堀之内尋常小学校校長を経て、同22年(1889年)松本尋常小学校(後の旧開智学校)校長兼訓導に転任し、同25年(1892年)同高等小学校校長兼訓導に任命された。
肥後 幸盛(ひご ゆきもり、1863年4月25日〈文久3年3… 肥後 幸盛(ひご ゆきもり、1863年4月25日〈文久3年3月8日〉 - 1922年〈大正11年〉10月11日)は、日本の政治家、衆議院議員(1期)。 鹿児島県肝属郡垂水村(現・垂水市)生まれ。1881年、鹿児島県師範学校卒。鹿児島県会議員となる。また、鹿児島県蚕糸組合長、県生糸検査所長、県授産所長、鹿児島県農工銀行監査役、鹿児島郵船、大隅鉄道各(株)社長、鹿児島共同倉庫(資)代表社員を務めた。 1908年の第10回衆議院議員総選挙において鹿児島県郡部から立憲政友会公認で立候補して当選。衆議院議員を1期務め、1912年の第11回衆議院議員総選挙には出馬しなかった。1922年死去。
三田 俊次郎(みた しゅんじろう、1863年4月20日(文久… 三田 俊次郎(みた しゅんじろう、1863年4月20日(文久3年3月3日) - 1942年(昭和17年)9月13日)は、岩手県南岩手郡加賀野村磧町(現盛岡市加賀野)出身の医師、教育者、政治家である。
佐竹 利市(さたけ りいち、1863年4月20日〈文久3年3… 佐竹 利市(さたけ りいち、1863年4月20日〈文久3年3月3日〉 - 1958年〈昭和33年〉9月25日)は、日本の技術者・実業家。広島県東広島市出身。 サタケ創業者。日本で初めて動力式精米機を開発する。また竪型精米機も開発しこれが吟醸酒誕生につながるなど、日本の酒造りに貢献した。 1863年(文久3年)、安芸国賀茂郡寺家村(現・広島県東広島市西条町)で代々農業を営む家系の長男として生まれる。5歳のときに叔父から算数を学び、のち独学で進め、幼少期より神童と謳われた。10歳のとき、父親を亡くす。1875年(明治8年)13歳のとき寺家村長と地区の名士だった木村和平(のちの賀茂鶴酒造)から任され地租改正に伴う測量業務・地積計算に2年間従事した。
入江 武一郎(いりえ ぶいちろう、文久3年2月27日(186… 入江 武一郎(いりえ ぶいちろう、文久3年2月27日(1863年4月14日) - 昭和8年(1933年)7月20日)は、日本の衆議院議員(憲政本党→立憲国民党)。弁護士。 備前国赤坂郡立川村(岡山県赤磐郡東高月村、高陽村、山陽町を経て現赤磐市)に右遠槌次郎(作家右遠俊郎の曽祖父)の二男として生まれ、入江米吉の養子となった。1888年(明治21年)、明治法律学校(現在の明治大学)を卒業し、代言人免許を取得した。岡山法律学校を開き、また1897年(明治30年)には岡山弁護士会長に選ばれた。さらに岡山県会議員、同参事会員、同副議長に選出された。 1903年(明治36年)、第8回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。
長谷川 亀一郎(龜一郎、はせがわ かめいちろう、1863年4… 長谷川 亀一郎(龜一郎、はせがわ かめいちろう、1863年4月14日(文久3年2月27日)- 1927年(昭和2年)3月4日)は、明治から大正期の実業家、政治家。衆議院議員。 尾張国丹羽郡、のちの愛知県丹羽郡穂波村(西成村を経て現一宮市)で、尾張藩士・長谷川甚左衛門の二男として生まれた。鷲津私立学校で漢学を修めた。製糸業、石炭販売業を営む。日清戦争に従軍。 木曽川三川四百七箇村土功会議員、愛知県会議員、丹羽郡会議員、同参事会員、愛知県税賦課額調査委員を務めた。1894年(明治27年)9月、第4回衆議院議員総選挙(愛知県第4区、無所属)で当選し、その後、新自由党に所属し衆議院議員に1期在任した。 その後、愛知県湯屋連合組合組長、愛知県会議員、同市部会議長、名古屋市会議員、名古屋商業会議所特別議員、日本赤十字社終身社員などを務めた。
大野 延太郎(おおの のぶたろう、1863年4月14日〈文久… 大野 延太郎(おおの のぶたろう、1863年4月14日〈文久3年2月27日〉 - 1938年〈昭和13年〉3月22日)、雅号・大野 雲外(おおの うんがい)は、明治時代から昭和時代初期に活動した日本の画工・人類学者・考古学者。東京帝国大学に所属して遺跡から出土した遺物の図版製作や、人類学・考古学に関する学術書籍・雑誌の挿絵製作などをしつつ、調査・研究活動も行った。 旧越前国の福井県坂井郡丸岡町(現・坂井市)出身。1880年(明治13年)に東京の本多錦吉郎の塾に入り図画を学ぶ。 1886年(明治19年)、金港堂編集所に雇聘される。1891年(明治24年)の東京英語学校の図画教授を経て、1892年(明治25年)に東京帝国大学人類学教室の図画嘱託(画工)となる。
小橋 勝之助(こばし かつのすけ、1863年4月12日〈文久… 小橋 勝之助(こばし かつのすけ、1863年4月12日〈文久3年2月25日〉 - 1893年3月12日)は、明治時代の社会事業家。日本で最も古い児童施設の一つである博愛社(現・社会福祉法人博愛社)を創設し、小野田鉄弥、弟・小橋実之助、林歌子らと孤児の養育に尽力した。 1863年(文久3年)、播磨国赤穂郡瓜生(現・兵庫県相生市)に庄屋(地主)の小橋亀次郎の長男として生まれる。 竜野中学に入学し、儒学者の矢野真吾に学ぶ。神戸医学校予科(現・神戸大学医学部)を卒業後に上京し、高瀬真郷の心学や感化事業に影響を受ける。 1887年(明治20年)、東京での修学中に結核にかかり、英国の実践者J.ミューラーとの出会いをきっかけに洗礼を受けて聖公会の信徒となり、チャニング・ウィリアムズ主教(立教大学創設者)から薫陶を受けた。
太田 峰三郎(おおた みねさぶろう、文久3年2月23日(18… 太田 峰三郎(おおた みねさぶろう、文久3年2月23日(1863年4月10日) - 大正3年(1914年)4月6日)は、明治時代の官僚。福岡藩出身。貴族院書記官長などを務めた。位階および勲等は正三位・勲一等。 福岡藩士・太田來作の三男として生まれる。明治21年(1888年)、東京帝国大学法科卒業後、判事試補、法制局参事官補になる。明治22年(1889年)に欧米諸国を視察して、翌年帰国すると新設された貴族院書記官に任じられる。明治31年(1898年)6月に農商務省に転じて農務局長に任じられるが、9月には今度は行政裁判所評定官に転じ、更に同年11月18日に貴族院書記官長を兼ねた。従三位勲一等に叙され、明治44年(1911年)7月1日以降は書紀官長専任となる。
山極 勝三郎(やまぎわ かつさぶろう、1863年4月10日(… 山極 勝三郎(やまぎわ かつさぶろう、1863年4月10日(文久3年2月23日) - 1930年(昭和5年)3月2日)は、日本の病理学者。人工癌研究のパイオニアとして知られる。 信濃国上田城下(現在の長野県上田市)に上田藩士の山本政策(まさつね)の三男として生まれる。後に同郷の医師である山極吉哉の養子となり、ドイツ語を学びつつ医師を目指した。1880年に東京大学予備門、1885年には東京大学医学部(のちの東京帝国大学医学部)に入学し、二位で卒業する。1891年に東京帝大医学部助教授となる。1892年からドイツに留学し、コッホ、フィルヒョウに師事。帰国後の1895年に東京帝大医学部教授に就任。専門は病理解剖学。
津村 紀陵(つむら きりょう、1863年4月9日(文久3年2… 津村 紀陵(つむら きりょう、1863年4月9日(文久3年2月22日) - 1933年(昭和8年)12月16日)は、明治から昭和時代前期の政治家、実業家。貴族院多額納税者議員。前名・光三郎。 素封家・津村重兵衛の長男として紀伊国那賀郡、のちの和歌山県那賀郡山崎村(岩出町を経て現岩出市)で生まれる。1904年(明治37年)3月、家督を相続し紀陵と改名した。 1884年(明治17年)中野黒木村外8カ村戸長に就任。和歌山県会議員を経て、紀南索道、野上軽便鉄道、秋津川水力電気各社長、和歌山倉庫銀行取締役などを歴任した。1918年(大正7年)6月和歌山県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年9月29日から1925年(大正14年)9月28日まで在任した。