二反長 音蔵(にたんちょう おとぞう、1875年(明治8年)… 二反長 音蔵(にたんちょう おとぞう、1875年(明治8年)7月1日 - 1951年(昭和26年)8月7日)は、日本の農民・農業技術者。阿片の材料となるケシの日本国内栽培に尽力した。「日本の阿片王」と称された。 大阪府三島郡福井村(現在の茨木市)の出身。旧姓は川端。 20歳頃よりアヘン材料となるケシの栽培に興味を示し、台湾総督府要人の後藤新平のバックアップを得ることに成功、福井村でケシ栽培をはじめる。以後ケシの栽培技術と品種の改良に努め、モルヒネ含有量が従来品種の数倍多い三島種を開発した。 昭和戦前期に日本は満州・朝鮮・内蒙古などの植民地・占領地でケシを栽培してアヘンを製造し、これが軍部の収入源となっていた。
山口 左一(やまぐち さいち、1875年(明治8年)6月26… 山口 左一(やまぐち さいち、1875年(明治8年)6月26日 - 1936年(昭和11年)9月8日)は、大正から昭和時代前期の政治家、実業家。衆議院議員。神奈川県中郡高部屋村長。 山口左七郎の長男として、神奈川県、のちの中郡高部屋村(伊勢原町を経て現伊勢原市)に生まれる。1912年(明治45年)2月に家督を相続する。 同志社卒業。農業を営む傍ら、高部屋村収入役、同村長、同村会議員、所得税調査委員、中郡農会副会長、県農会議員、帝国農会議員を歴任した。 実業界では産業組合中央会県支会副会長、伊勢原銀行頭取、伊勢原電気、横浜興業信託、相武電力、神奈川県農工銀行各取締役、相模銀行、農工信託各監査役を務めた。
武井 真澂(たけい しんちょう、1875年(明治8年)6月2… 武井 真澂(たけい しんちょう、1875年(明治8年)6月24日 - 1957年(昭和32年)6月3日)は、日本の山岳画家。本名は真澄。 長野県諏訪郡豊田村十川(現・諏訪市)に生まれる。1896年に東京美術学校本科を卒業。1900年(明治33年)から1914年(大正3年)まで旧制長野県立松本中学校で図画を教えた。退職後は東京に住みながら、長野県内を主体に山梨県・富山県・静岡県などの山に登り、山岳画を描いた。
中原 芳煙(なかはら ほうえん、1875年(明治8年)6月2… 中原 芳煙(なかはら ほうえん、1875年(明治8年)6月24日 - 1915年(大正4年)6月20日)は明治・大正時代の日本画家。 島根県邑智郡都賀行村大字潮村(現・美郷町)に、農業と鉄山経営をしていた旧家の当主・源吉郎の次男として生まれた。本名は佐次郎、画号を芳煙という。 幼い頃から絵を好み、那賀郡町村組合立石見学校(現・島根県立浜田高等学校)を卒業後、1896年(明治29年)9月、画家を志して東京美術学校(現・東京藝術大学)に進学、川端玉章に師事した。 日本画本科2学年の時に美術学校生徒成績品展覧会で「秋野鹿図」が一等褒状を受賞した。 師の玉章は芳煙の画風を推賞して惜しまなかったといわれる。
松下 禎二(まつした ていじ、1875年(明治8年)6月21… 松下 禎二(まつした ていじ、1875年(明治8年)6月21日 - 1932年(昭和7年)6月23日)は、日本の衆議院議員(庚申倶楽部)、医学者。 鹿児島県高城郡西方村(現在の薩摩川内市西方町)出身。1890年(明治23年)、第五高等中学校医学部に入学し、1894年(明治27年)に卒業した。 1897年(明治30年)よりドイツに留学し、フライブルク大学・ギーセン大学・ハレ大学・ブレスラウ大学で植物学・動物学・物理学・鉱物学・内科学・病理学・衛生学・細菌学・耳鼻咽喉科学・哲学・心理学・論理学などを学んだ。 1902年(明治35年)に帰国し、翌年3月17日に医学博士の学位を得た。同年、京都帝国大学医科大学教授となり、衛生学講座を担当した。
阿部 宗孝(あべ むねたか、1875年(明治8年)6月20日… 阿部 宗孝(あべ むねたか、1875年(明治8年)6月20日 - 1944年(昭和19年)3月31日)は、日本の教育者。山口県豊浦郡( 現・下関市)の出身である。東京府立六中(都立新宿高校)初代校長、府立高等学校2代目校長。 1875年(明治8年)6月20日、山口県豊浦郡豊田中村(現:下関市豊田町)に、豊浦藩藩士・阿部宗忠の二男として出生。初め伝(つたえ)、1911年(明治44年)に宗孝と改名し、陸柱と号した。兄が早逝したため嫡子となった。 1902年(明治35年)に東京帝国大学文科大学国史科を卒業後、神奈川県立第二中学校(現:神奈川県立小田原高等学校)へ教諭として赴任した。赴任当初は絣木綿の着物に袴をつけていたことからまるで書生のようであったという。
末松 偕一郎(すえまつ かいいちろう、1875年6月18日 … 末松 偕一郎(すえまつ かいいちろう、1875年6月18日 - 1947年6月26日)は、日本の内務官僚、政治家、教育者。官選県知事、衆議院議員、別府市長。 小倉藩医・末松玄洞の三男として生まれる。1898年、第五高等学校大学予科第一部(法科)を卒業。1902年7月、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。1901年11月、文官高等試験に合格。内務属となり内務省地方局勤務となる。 1903年12月、静岡県参事官に就任し、同県事務官・第二部長、福岡県事務官・第三部長、同第二部長、内務書記官、清国政府聘用(自治局顧問)、山梨県事務官・警察部長、法制局参事官などを歴任。 1915年3月、徳島県知事に就任。
隅田 豊吉(豐吉、すだ とよきち、1875年(明治8年)6月… 隅田 豊吉(豐吉、すだ とよきち、1875年(明治8年)6月15日 – 1942年(昭和17年)6月18日)は、明治末から昭和前期の農業経営者、政治家、実業家。衆議院議員、和歌山県那賀郡池田村長。 和歌山県那賀郡、のちの池田村(打田町を経て現紀の川市)で隅田小三郎の長男として生まれた。和歌山県立和歌山中学校(現和歌山県立桐蔭中学校・高等学校)を卒業。農業を営んだ。 1907年(明治40年)5月、池田村会議員に選出され、同年9月、那賀郡会議員当選し、同議長に就任して1期・4年在任。1911年(明治44年)9月、和歌山県会議員に当選し、1915年(大正4年)9月に再選された。1916年(大正5年)2月、池田村長に就任し約8ヵ月在任した。
日高 胖(ひだか ゆたか、1875年6月15日 - 1952… 日高 胖(ひだか ゆたか、1875年6月15日 - 1952年12月20日)は、日本の建築家。 旧住友財閥において多くの建築物の設計を手がけた。アール・ヌーヴォー様式の神本理髪店の設計や、住友ビルディングの建設の総指揮をとったことなどで知られる。
原 夫次郎(はら ふじろう、明治8年(1875年)6月14日… 原 夫次郎(はら ふじろう、明治8年(1875年)6月14日 - 昭和28年(1953年)11月26日)は、日本の政治家、弁護士。島根県知事(1期)、衆議院議員。位階は従四位。勲二等旭日重光章。 島根県楯縫郡、のちの簸川郡檜山村(平田町、平田市を経て現出雲市)出身。和仏法律学校(現・法政大学)仏語法科卒。 明治29年(1896年) 文官高等試験司法科に合格し、以後、判事や検事などを歴任。明治32年(1899年) 弁護士試験に合格。 明治40年(1907年) フランスへ留学(パリ大学、グルノーブル大学)。仏国法学博士を授与される。 帰国後、法政大学講師や司法大臣秘書官を務める。大正元年(1912年) 首相秘書官となり原敬や清浦奎吾らを支える。
根来 源之(ねごろ もとゆき、1875年(明治8年)6月14… 根来 源之(ねごろ もとゆき、1875年(明治8年)6月14日 - 1939年(昭和14年)4月18日)は、日系アメリカ人[要出典]の労働運動者である。 和歌山県池田村(後の打田町、現在の紀の川市)に生まれる。福沢塾(慶応義塾大学)出身の本多和一郎の門人となり彼が建てた共修学舎で学び、卒業後法学を学ぶために渡米した。カリフォルニア大学に入学し、苦労を重ねながらも法学博士を取得しハワイのホノルルにて法律事務所を開設する。 その後は、日本人のハワイ移民による労働の改善のために1905年に革新同志会を創設し、ホノルル日本国総領事の更迭に貢献した。1908年には人種差別問題による賃金改善の目的で同地で活動る耕地労働者のために、翌1909年までにハワイ移民約7000人の大規模なストライキを起こし首謀者として指導し、後に逮捕され投獄された。
織田 秀実(おだ ひでざね、1875年(明治8年)6月11日… 織田 秀実(おだ ひでざね、1875年(明治8年)6月11日 - 1907年(明治40年)4月1日)は、明治時代の華族。尚長流織田家14代当主。 大和柳本藩13代藩主織田信及の次男。夫人は久邇宮朝彦親王の九女純子。子は織田信一(長男)、織田長利(次男)ら4男1女。官位は従四位。爵位は子爵。 1889年(明治22年)10月11日、家督を相続して子爵に叙される。1899年(明治32年)7月、学習院高等学科を卒業する。1901年(明治34年)11月、久邇宮朝彦親王の九女純子と結婚する。1903年(明治36年)、東京帝国大学法科大学を卒業する。1907年(明治40年)4月1日死去、享年33。 秀実の死後、信一が継ぐも夭折したため、弟の長利は1904年生で子爵を継承し、1909年に相続、長男に長功(1930年生)を儲けたのち1961年に死去、しかし長功の一人娘の彰子(1966年生)は2008年に死去し長功自身も2016年に死去したため、男系および尚長流織田家は断絶した。
小田内 通敏(おだうち みちとし、1875年6月6日 - 1… 小田内 通敏(おだうち みちとし、1875年6月6日 - 1954年12月4日)は、日本の地理学者、教育者。 秋田県秋田市出身。1899年に高等師範学校の地理歴史科専修科を卒業し、早稲田中学校の教員となった。1914年に早稲田大学の講師に招かれ地理学を講義し、1925年には慶應義塾大学に招かれ地理学を講義した。戦後は国立音楽大学の教授となっている。 郷土会に参加し、1926年に人文地理学会を創設した。1930年には文部省の教育制度調査を嘱託され、尾高豊作らとともに郷土教育連盟を創設した。
河原 操子(かわはら みさおこ、1875年6月6日 - 19… 河原 操子(かわはら みさおこ、1875年6月6日 - 1945年3月7日)は、日本の女子教育者。婚氏は一宮。日本人女性として初めて中国の女子教育に携った先駆者と評される一方、日露戦争時の対露特別任務隊を支援したことからスパイとも評される。 筑摩県筑摩郡松本北深志町(現・長野県松本市)に旧松本藩士・河原忠の長女として生まれる。長野県師範学校女子部を卒業後、2年間附属小学校の教員として勤める。1895年東京女子高等師範学校に入学するも、翌年肋膜炎により中退する。1899年、長野高等女学校(現 長野西高等学校)に奉職する。1990年長野に来た下田歌子を訪ねたのをきっかけに、下田の推薦で、横浜で中国人が経営していた在日清国人教育機関「大同学校」の教師となる。
小松原 隆二(こまつばら たかじ、1875年(明治8年)6月… 小松原 隆二(こまつばら たかじ、1875年(明治8年)6月2日 - 1944年(昭和19年)12月17日)は、日本の教育者、文部官僚。 岡山県出身。1900年(明治33年)、東京帝国大学文科大学英文学科を卒業。1902年(明治35年)、第七高等学校造士館教授に就任し、1908年(明治41年)に第八高等学校教授に転じた。1922年(大正11年)、文部省督学官となり、翌年には姫路高等学校校長に就任した。その後、第八高等学校校長となり、1940年(昭和15年)1月に退官した。退官後は第八高等学校名誉教授の称号を受けた。 また同年3月から翌年にかけて、富山高等学校校長事務取扱を務めた。
五来 欣造(ごらい きんぞう、1875年(明治8年)6月 -… 五来 欣造(ごらい きんぞう、1875年(明治8年)6月 - 1944年(昭和19年)8月1日)は、日本の政治学者、文学者、読売新聞主筆、明治大学教授、早稲田大学教授、皇化連盟代表。茨城県出身。五来素川(ごらい そせん)や斬馬剣禅(ざんば けんぜん)の筆名での作品を残す。青年時代に植村正久の教えをうけた敬虔なクリスチャンであった。
入沢 重麿(いりさわ しげまろ、1875年(明治8年)6月 … 入沢 重麿(いりさわ しげまろ、1875年(明治8年)6月 - 没年不詳)は、関東州官僚・朝鮮総督府官僚。青島民政署長。 旧徳山藩藩士入沢義温の長男。1901年(明治34年)、東京帝国大学法科大学英法科を卒業し、台湾総督府属となった。1903年(明治36年)高等文官試験に合格し、1905年(明治38年)に関東州民政署事務官となった。旅順民政署長事務取扱、関東都督府参事官・事務官、同秘書官を歴任。1912年(大正元年)、朝鮮総督府書記官に転じ、京畿道第一部長などを務めた。さらに青島守備軍に転じ、民政部総務部長、青島民政署長を務めた。 退官後は、朝鮮鉄道株式会社副社長に就任した。
神野 三郎(かみの さぶろう、1875年(明治8年)5月28… 神野 三郎(かみの さぶろう、1875年(明治8年)5月28日 - 1961年(昭和36年)4月30日)は、愛知県西春日井郡清洲村(現・清須市)出身の実業家。養父である初代神野金之助の下で神野新田の開拓責任者となり、また1943年(昭和18年)に設立された中部瓦斯の初代社長を務めた。豊橋市名誉市民。出生名は竹田 三郎(たけだ さぶろう)。 改称については明らかとなる資料は見つかって無く諸説あるが、書籍の神野三郎伝に神野三郎の昭和34・35年頃の談話として、改称について次のような記述がある。 「最初は、確かに、ジンノだった。新田もジンノ新田だったが、大正の始め頃本家が、カミノと改めたので、わしのほうも、自然と、カミノになったのだ。
草間 八十雄(くさま やそお、1875年(明治8年)5月26… 草間 八十雄(くさま やそお、1875年(明治8年)5月26日 - 1946年(昭和21年)1月28日)は、明治から昭和前期の公吏、新聞記者、作家。東京市幼年少年保護所長を歴任。 筑摩県筑摩郡(現・長野県松本市)に生まれる。松方デフレで家業の米穀商が傾き一家で上京。1898年に和仏法律学校を卒業。翌年から警視庁勤務、1903年に退職し、中央新聞・東京日日新聞・日本新聞・大正通信等の記者、内務省嘱託を経て、1922年(大正11年)に東京市社会局嘱託、1928年(昭和3年)に東京市主事、東京市社会局保護課、1933年(昭和8年)に東京市幼少年保護所長に就任する。終戦直後の1946年(昭和21年)に世田谷区の被災者用バラックで死去した。
水野 広徳(みずの ひろのり、旧字体: 水野 廣德、明治8年… 水野 広徳(みずの ひろのり、旧字体: 水野 廣德、明治8年(1875年)5月24日 - 昭和20年(1945年)10月18日)は、日本海軍の軍人・軍事評論家。最終階級は海軍大佐。父は旧松山藩能方の水野光之で末子。
松戸 覚之助(まつど かくのすけ、1875年5月24日 - … 松戸 覚之助(まつど かくのすけ、1875年5月24日 - 1934年6月21日)は、明治から昭和にかけての梨農家。千葉県葛飾郡大橋村(後に八柱村、現在の松戸市)の人。「二十世紀」の発見者。 11歳の時に父親が新たに梨の栽培を始めた事から梨に興味を持つ。高等小学校2年(13歳)の時、分家の石井佐平の家を訪れた際にゴミ捨て場に芽を出している梨の苗木があるのを発見した。覚之助は石井より苗木を譲り受けて自宅に植えた。試行錯誤の末、23歳となった1898年に結実した。 覚之助は人を招いて試食したところ、多汁で甘く、肉質も柔らかであるとの評価を受けた。話を聞いた大隈重信も試食に与かったところ、高い評価を与えた。
堀内 啓治(ほりうち けいじ、1875年(明治8年)5月23… 堀内 啓治(ほりうち けいじ、1875年(明治8年)5月23日 - 1945年(昭和20年)10月24日)は、明治後期から昭和前期の政治家、実業家。衆議院議員、山梨県南都留郡福地村長。 山梨県都留郡福地村新屋(南都留郡福地村、富士上吉田町を経て現富士吉田市新屋)で、堀内克明の三男として生まれる。東京英語学校、慶應義塾で学んだ。1891年(明治24年)6月、兄昌治から家督を相続し、農業、醤油醸造業を営む。 1906年(明治39年)福地村会議員に選出され、同村長、所得税調査委員、地方森林会議員、福地村耕地整理組合長、日本赤十字社特別社員などを務めた。1907年(明治40年)10月、山梨県会議員に選出され、同参事会員となり、1911年(明治44年)10月、県会議員に再選され2期在任した。
真境名 安興(まじきな あんこう、1875年5月20日〈同治… 真境名 安興(まじきな あんこう、1875年5月20日〈同治14年4月15日〉 - 1933年〈昭和8年〉12月28日)は、ジャーナリスト、歴史学者、沖縄学の研究者。伊波普猷、東恩納寛惇とともに、戦前の沖縄学における「御三家」と呼ばれる。著書に「沖縄一千年史」、「琉歌大観」など。 五大姓の一つ、毛氏池城殿内(元祖・新城親方安基)の支流・毛氏真境名家(系祖・玉城里之子親雲上安暉)の分家13世。父・真境名安布、母・毛氏真牛の次男として首里桃原村(現・桃原町)に生まれる。唐名は毛居易、童名は樽金(タルガネ)。長兄・安宏が真境名本家の養子となったため、安興が父・安布の家督を継いだ。 首里小学校を経て、沖縄県師範学校附属小学校に学び、1891年(明治24年)に沖縄県尋常中学校(のちの県立一中、現・沖縄県立首里高等学校)へ進学した。
小山 完吾(こやま かんご、1875年〈明治8年〉5月18日… 小山 完吾(こやま かんご、1875年〈明治8年〉5月18日 - 1955年〈昭和30年〉7月23日)は、明治・大正時代に活動した日本のジャーナリスト、大正・昭和時代の実業家である。時事新報社の記者を経て実業界に入り、明治生命保険取締役や時事新報社社長を務めた。記者時代に衆議院議員(当選1回)、晩年に貴族院勅選議員も務めた。長野県出身。 1875年(明治8年)5月18日、長野県佐久郡小諸町(現・小諸市)に小山謙吾の五男として生まれる。実家の小山家は小諸の与良に居を構え酒造業を営む旧家であり、父・謙吾は長野県会議員も務めた人物である。兄に酒造業を継いだ謹之助、千代田生命保険に勤めた禎三がいる。上京して福澤諭吉が開いた慶應義塾に学び、1904年(明治37年)大学部法律科を卒業。
高嶋 菊次郎(たかしま きくじろう、1875年(明治8年)5… 高嶋 菊次郎(たかしま きくじろう、1875年(明治8年)5月17日 - 1969年(昭和44年)1月29日)は、明治、大正、昭和期の日本の実業家。 福岡県生まれ。1900年(明治33年)に東京高等商業学校(現在の一橋大学)を卒業。大阪商船に入社。後に三井物産に転じ、藤原銀次郎の知遇を得て、1912年(明治45年)に王子製紙に入社。 苫小牧工場長を経て、1914年(大正3年)に王子製紙取締役に就任。常務、専務、副社長を経て、藤原銀次郎の後任として1938年(昭和13年)12月に取締役社長に就任した。その後1942年12月まで王子製紙の社長を務めている。同社のほか、傍系会社の日本パルプ工業の取締役社長を1939年(昭和14年)5月から1943年(昭和18年)1月まで務めた。
田中 徳兵衛(四代目 德兵衞、たなか とくべえ、1875年(… 田中 徳兵衛(四代目 德兵衞、たなか とくべえ、1875年(明治8年)5月15日 - 1947年(昭和22年)7月30日)は、日本の実業家、政治家。貴族院多額納税者議員、埼玉県北足立郡南平柳村長。幼名・徳蔵。勲四等旭日章。味噌醸造業。 埼玉県足立郡十二月田村(のち北足立郡南平柳村、現・川口市)で、味噌醸造業、素封家・三代目田中徳兵衛の長男として生まれる。1894年(明治27年)家督を相続し四代目徳兵衛を襲名した。 埼玉味噌醸造組合長、帝国実業協会幹事、東京共立銀行監査役、東京紡績監査役などを務めた。 南平柳村会議員を務めた後、1922年(大正11年)から1929年(昭和4年)まで同村長を務めた。
樋口 龍峡(ひぐち りゅうきょう、1875年5月14日 - … 樋口 龍峡(ひぐち りゅうきょう、1875年5月14日 - 1929年6月6日)は、評論家、社会学者、政治家。 本名は樋口秀雄、別号は暁雪。1909年に文芸革新会を興し、自然主義批判の文芸評論家として活躍した一方で、1915年には衆議院議員に当選し、政治家としても活動した。
下村 宏(しもむら ひろし、1875年〈明治8年〉5月11日… 下村 宏(しもむら ひろし、1875年〈明治8年〉5月11日 - 1957年〈昭和32年〉12月9日)は、明治・大正・昭和の法学博士、逓信官僚・台湾総督府官僚、実業家、朝日新聞社副社長、貴族院議員。拓殖大学第6代学長、NHK会長。歌人で号は海南(かいなん)。下村房次郎の子。 玉音放送の際の内閣情報局総裁であり、ポツダム宣言受諾の実現に尽力した。「人種改良を国策に」と優生思想を強く推したことでも知られている。 和歌山県出身。父・房次郎(1856年5月7日 - 1913年2月21日)は「和歌山日日新聞」を創刊した後に逓信省に入り、退官後は実業家として活動する傍ら東京商業学校の創設に関わった。 和歌山中学、第一高等学校から東京帝国大学を卒業し、1898年(明治31年)に逓信省へ入省。
広部 周助(廣部 周助、ひろべ しゅうすけ、1875年(明治… 広部 周助(廣部 周助、ひろべ しゅうすけ、1875年(明治8年)5月11日 - 1907年(明治40年)8月1日)は、日本の経済学者。京都帝国大学法科大学助教授。 千葉県君津郡富岡村上根岸の人。千葉中学、第一高等学校を経て、1900年、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。農商務省に入り、工場法案の調査を嘱託される。かたわら専修学校などの講師をしていたが、1902年、京都帝国大学法科大学助教授となる。1905年、政治経済学研究のため独・米・英の三国に留学を命ぜられる。ミュンヘン大学に入る。統計調査に従事する。 1907年8月1日、病を得てミュンヘンで亡くなる。葬儀が9月17日洛東智積院で行われ、井上学長と学生清瀬とが弔詞を読む。
横田 成年(よこた せいねん、1875年(明治8年)5月10… 横田 成年(よこた せいねん、1875年(明治8年)5月10日 - 1953年(昭和28年)1月11日)は日本の造船・航空工学者。東京帝国大学名誉教授。 京都府京都市で、横田成憲の長男として生まれた。1898年(明治31年)に東京帝国大学工学部造船学科卒業後、ただちに同大学助教授に就任する。1910年(明治43年)に教授に就任し、1918年(大正7年)に同大航空研究所の初代所長に就任、同年に工学部航空学科が創設され主任教授となる。1934年(昭和9年)に日本航空学会が創設され、初代会長に就任し、1936年(昭和11年)に同大名誉教授となる。 日本の航空工学の草分け的存在であり、1936年(昭和11年)に退官するまで38年間、同大学にあって弾性力学、流体力学、弾道学など広い分野にわたる諸問題に、数学的技法を駆使し、多くの研究成果をあげた。
木本 主一郎(きもと しゅいちろう、1875年(明治8年)5… 木本 主一郎(きもと しゅいちろう、1875年(明治8年)5月10日 – 1939年(昭和14年)9月18日)は、明治から昭和前期の地主、実業家、政治家。衆議院議員、和歌山県海草郡木ノ本村長。幼名・八郎。 和歌山県海部郡木ノ本村(海草郡木ノ本村を経て現和歌山市木ノ本)で、地主、酒造業・木本太兵衛の長男として生まれた。1895年(明治28年)東京専門学校(現早稲田大学)政治科を卒業。1904年(明治37年)家督を相続し主一郎と改名。家業を営んだ。 1905年(明治38年)8月、木ノ本村長に就任し、1912年(明治45年)4月まで在任。1907年(明治40年)10月、海草郡会議員となり1期在任。1911年(明治44年)9月、和歌山県会議員に当選し、以後、1927年(昭和2年)まで連続して再選され、1928年(昭和3年)2月、衆議院議員に当選のため県会議員を辞職した。
藤村 作(ふじむら つくる、1875年(明治8年)5月6日 … 藤村 作(ふじむら つくる、1875年(明治8年)5月6日 - 1953年(昭和28年)12月1日)は、国文学者、東京帝国大学名誉教授。東洋大学第9代学長。 1875年、福岡県柳川で藤村順吉の次男として生まれた。橘蔭学館(のちの福岡県立伝習館高等学校)、第五高等学校を経て、東京帝国大学文科大学国文学科に進学。1901年に卒業。 卒業後は、第七高等学校造士館教授に就いた。1903年より広島高等師範学校教授を務め、1910年に東京帝国大学国文科助教授となった。1922年に教授昇格。1934年からは東洋大学学長を兼任。1936年に東京大学を定年退職。1940年からは、汪兆銘政権下の北京大学で教鞭を執った。
阪上 貞信(さかがみ さだのぶ、1875年5月6日 - 19… 阪上 貞信(さかがみ さだのぶ、1875年5月6日 - 1932年5月14日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 山口県出身。1897年、明治法律学校及び東京法学院卒。朝鮮江景、群山各日本人居留民団長、群山土地組合長、同土地組合連合組合評議員、同商業会議所特別議員、鮮南勧業(株)社長、京南鉄道(株)専務取締役となる。 1917年の第13回衆議院議員総選挙において山口県郡部から立憲政友会公認で立候補したが落選。1920年の第14回衆議院議員総選挙において山口3区から立候補して当選する。衆議院議員を1期務めた。1924年の第15回衆議院議員総選挙に立候補しなかった。1932年死去。
日下部 四郎太(くさかべ しろうた、1875年5月5日 - … 日下部 四郎太(くさかべ しろうた、1875年5月5日 - 1924年7月3日)は、日本の地球物理学者。理学博士(1906年)。東北帝国大学教授。岩石や地震波の研究者。『物理学汎論』などを表し、岩石の弾性の研究により第2回帝国学士院賞を受賞し、近代地震学の基礎を開いた。アインシュタインとも親交を持ち、彼を長岡半太郎らと共に東北帝国大学に招いた。 日下部定治の3男として山形県東村山郡金井村(現・山形市)に生まれる。幼い頃は社交性がない神経質な子供であり、村の寺に小僧として3年間預けられたこともあった。小学生の頃から数学などが非常に得意であった。旧制山形尋常中学、旧制二高へ進み、1900年、東京帝国大学物理学科を卒業。
中内 蝶二(なかうち ちょうじ、1875年5月5日 - 19… 中内 蝶二(なかうち ちょうじ、1875年5月5日 - 1937年2月19日)は、日本の小説家、劇作家、ジャーナリスト、作詞家である。本名は中内 義一(なかうち ぎいち)。 1875年(明治8年)5月5日、高知県に「中内義一」として生まれる。 旧制・東京帝国大学(現在の東京大学)を卒業し、博文館に入社し、その後、『萬朝報』の記者となった。戯曲『大尉の娘』は、1923年(大正12年)、井上正夫、初代水谷八重子が演じ、評価を得た。同作は、八重子の当たり役となり、「八重子十種」の演目のひとつとなった。 新派のための戯曲のほか、小説を執筆し、長唄の作詞も手がけている。 1937年(昭和12年)2月19日に死去した。
関屋 貞三郎(せきや ていざぶろう、1875年〈明治8年〉5… 関屋 貞三郎(せきや ていざぶろう、1875年〈明治8年〉5月4日 - 1950年〈昭和25年〉6月10日)は、日本の官僚・政治家。 宮内次官(第11代)、静岡県知事(第17代)、貴族院議員、日本銀行監事、朝鮮総督府学務局長(初代)、枢密顧問官を歴任した。位階勲等は正二位勲一等瑞宝章。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
吉川 霊華(きっかわ れいか、明治8年(1875年)5月4日… 吉川 霊華(きっかわ れいか、明治8年(1875年)5月4日 - 昭和4年(1929年)3月25日)は、明治大正時代の日本画家。本名準(ひとし)、通称三郎。 大和絵を基本にしつつ広く東洋の古典芸術に学び、線描、特に流れるような美しい細線を生かした清雅な絵画表現で、「描く」から「塗る」へ重心が移っていく近代日本画壇に独自の存在感を示した。 東京府湯島に佐藤一斎晩年の門人で、昌平坂学問所の助教や、御書院番兼御納戸を勤めた儒者・吉川辰夫(忠苞、号・澹斎)の三男として生まれる。家は吉川元春の末流で、七代前に江戸幕府に召されて御家人になったとされ、霊華の祖父・大江忠尚は勘定組頭まで出世して旗本になっている。
佐藤 国司(さとう こくし、1875年〈明治8年〉5月2日 … 佐藤 国司(さとう こくし、1875年〈明治8年〉5月2日 - 1946年〈昭和21年〉7月1日 )は、大正から昭和時代前期の政治家、新聞経営者。北海道釧路市長。 千葉県匝瑳郡共興村(現・匝瑳市)出身。佐藤鉄之助の長男。明治法律学校を経て、1904年(明治37年)東京法学院を卒業する。1909年(明治42年)釧路実業新聞を創刊し、白石義郎らと共に釧路実業調査会を設立する。1910年(明治43年)釧路町会議員当選を皮切りに、水産組合議員、漁業組合議員、北海道会議員、北海道参事会員を経て、1922年(大正11年)から釧路市会議員に2期当選する。 1928年(昭和3年)推挙され釧路市長に就任し、同市会議員を経て、1936年(昭和11年)同市長に再選した。
冨田 斅純(とみた こうじゅん、1875年5月2日 - 19… 冨田 斅純(とみた こうじゅん、1875年5月2日 - 1955年7月22日)は、明治〜昭和期の日本の僧侶。真言宗豊山派管長および教育者。 「斅」が特殊文字であることから、ウェブ上では「富田学純」という代用表記も見られる。 長野県水内郡水内村(現・長野市信州新町)に生まれる。1897年、哲学館(現・東洋大学)卒業。1882年、長野県更府村長勝寺の冨田容純の従弟となる。1902年、哲学館の卒論を「新義真言宗史綱」として出版。1911年、真言宗豊山派宗務長、同派集議などを経て、1932年、同派管長となり、大僧正。 1914年より東京中野宝仙寺住職。一方1920年豊山大学長となり、1926年同大と大正大学合同で、大正大学教授となった。
武谷 廣(たけや ひろし、1875年5月 - 1941年1月… 武谷 廣(たけや ひろし、1875年5月 - 1941年1月30日)は、日本の医学者。九州帝国大学名誉教授。専門は内科学。 田中茂右衛門の四男として福岡県に生まれる。陸軍軍医監を務めた武谷水城の養嫡子となり、後にその長女長榮と結婚する。武谷水城の父(養父)は、福岡藩主黒田長溥の侍医であり、九州大学の源流とされる藩医学校賛生館の創立に尽くした武谷祐之、祖父は長崎でシーボルトに西洋医学を学んだ福岡藩御目見医武谷元立である。 1894年福岡県立尋常中学修猷館、1898年第一高等学校医科を経て、1903年東京帝国大学医科大学を卒業。1906年内科学専攻のため文部省より3年間ドイツ留学を命ぜられ、帰国後1910年医学博士の学位を受ける。
橋本 増治郎(はしもと ますじろう、1875年(明治8年)4… 橋本 増治郎(はしもと ますじろう、1875年(明治8年)4月28日 - 1944年(昭和19年)1月18日)は、愛知県額田郡柱村(現・岡崎市柱)出身の技術者・実業家。 日産自動車、ダットサン、いすゞ自動車の前身である快進社の創立者。 1875年(明治8年)4月28日、愛知県額田郡柱村19番(現・岡崎市柱6丁目)に生まれた。父は橋本斧吉、母はくらであり、増治郎は次男だった。生家は「大橋本」と呼ばれる旧家であり、兄の橋本松次郎は岡崎村会議員や岡崎村長を務めている。 羽根小学校、額田郡高等小学校(現・岡崎市立梅園小学校)を卒業すると、1891年(明治24年)に東京工業学校(現・東京工業大学)に入学し、1895年(明治28年)に工芸部機械科を卒業した。
上村 松園(うえむら しょうえん、1875年〈明治8年〉4月… 上村 松園(うえむら しょうえん、1875年〈明治8年〉4月23日 - 1949年〈昭和24年〉8月27日)は、日本画家。気品あふれる美人画を得意とした。1948年に女性として初めての文化勲章を受章。息子に日本画家の上村松篁。孫に上村淳之。 京都に生まれ育ち、本名は上村 津禰(うえむら つね)、常子(つねこ)と名乗っていたこともある。 1875年(明治8年)、京都府京都市下京区四条通御幸町の葉茶屋「ちきり屋」の次女として生まれる。父は上村太兵衛、母は仲子。松園の祖父・上村貞八は大塩平八郎の甥と言われる。父・太兵衛は松園が生まれる2ヶ月前に他界したが、仲子は再婚することなく女手一つで娘2人を育て上げた。
小林 久平(こばやし きゅうへい、1875年4月23日 - … 小林 久平(こばやし きゅうへい、1875年4月23日 - 1954年2月7日)は、明治-昭和期の日本の化学者。 新潟県に生まれる。東京帝国大学卒。同大学の講師、宝田石油技師を経て、1918年に早稲田大学教授となる。石油精製に使われる酸性白土の発見および研究で知られる。「酸性白土」の命名も小林が行っている。1935年工業化学会有功賞、1953年日本化学会功績賞受賞。 化学機械協会(現: 公益社団法人化学工学会)の初代会長(1936年-1938年)を務めた。
高木 貞治(たかぎ ていじ、1875年〈明治8年〉4月21日… 高木 貞治(たかぎ ていじ、1875年〈明治8年〉4月21日 - 1960年〈昭和35年〉2月28日)は、日本の数学者。学位は、理学博士。東京帝国大学名誉教授。第1回フィールズ賞選考委員。文化勲章受章者、文化功労者。 岐阜県大野郡数屋村(現:本巣市)に生まれる。岐阜尋常中学校(現:岐阜県立岐阜高等学校)を経て第三高等中学校(現:京都大学)へ進学し、1894年(明治27年)に卒業。 帝国大学理科大学(現在の東京大学理学部)数学科へ進み、卒業後にドイツへ3年間留学。ヒルベルトに師事し、多大な影響を受ける。 代数的整数論の研究では類体論の確立に貢献し、特に高木の存在定理の証明で知られる。 ヒルベルトの23の問題のうち、第9問題と第12問題(に関連した世界的な難問)を肯定的に解決した。
川西 和露(かわにし わろ、1875年(明治8年)4月20日… 川西 和露(かわにし わろ、1875年(明治8年)4月20日 - 1945年(昭和20年)4月1日)は日本の俳人、俳書収集家。本名は徳三郎。 兵庫県神戸市に生まれる。兵庫県立神戸商業高等学校卒業後、鉄材商を営む。俳句は河東碧梧桐に師事。俳誌「阿蘭陀渡」を創刊。句集に「和露句集」がある。碧梧桐主宰の俳誌『海紅』に創刊号から参画した。
佐々木 月樵(ささき げっしょう、旧姓山田、1875年(明治… 佐々木 月樵(ささき げっしょう、旧姓山田、1875年(明治8年)4月13日 - 1926年(大正15年)3月6日)は、日本の仏教学者・教育者。大谷大学教授、第3代大谷大学学長。大谷大学の組織と研究方針を確立させた人物として知られる。清沢満之門下。著作に『親鸞聖人伝』、『支那浄土教史』などがある。 1875年(明治8年)、愛知県碧海郡古井村(現・愛知県安城市)にある真宗大谷派の願力寺に生まれた。乳は山田才相、母はつやまであり、次男だった。 幼少時、大分県日田郡日田町の咸宜園(大谷派長福寺の学寮を起源とする)に学び、1888年(明治21年)、東本願寺が設置した三河育英教校に入学。その後、1893年(明治26年)、実質的に東本願寺の運営だった京都府立尋常中学校に編入し、翌年には東本願寺設置の京都第一中学寮に入学した。
柏木 亀蔵(かしわぎ かめぞう、1875年4月13日 - 1… 柏木 亀蔵(かしわぎ かめぞう、1875年4月13日 - 1955年6月19日)は、日本の大正から昭和時代前期にかけて活動した歌人、作詞家。鳥取県出身。 1875年(明治8年)、鳥取市藪片原町に生まれる。1896年(明治29年)に鳥取県尋常師範学校を卒業後、県内各地の小学校訓導を経て東京高等師範学校国文科へ入学し、1903年(明治36年)に卒業する。 旧制都城中学校で教諭を1年間務めた後、1904年(明治37年)に岐阜高等女学校へ転任。和歌や長詩を嗜み、1908年(明治41年)に文部省が懸賞募集した新体詩で第一部二等に入賞する。1915年(大正4年)11月に執り行われた大正天皇の御大典記念事業として京都市が歌詞を募集した「京都市歌」で応募作が二等に入賞したが、一等は「該当作なし」となったため柏木の応募作が採用となり、1951年(昭和26年)に現行の市歌へ代替わりするまで歌い継がれた。
藤沢 周次(ふじさわ しゅうじ、1875年4月10日 - 1… 藤沢 周次(ふじさわ しゅうじ、1875年4月10日 - 1945年11月29日)は明治・大正期日本の英文学者、劇作家。学習院名誉教授。号は古雪(こせつ)。 1875年(明治8年)、新潟県士族(元佐渡奉行所幕臣)・藤沢親之の次男として東京府に生まれる。幼名は菊丸(きくまる)。東京帝国大学文学部英文科に入学し、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)から英語を学んだ。在学中、英作文の優秀者に与えられる賞を受賞しているが、その理由は英文の正確さ以上に「内容が優れている」と評されてのものであった。同期には森清(子爵、森有礼長男)、内ヶ崎作三郎(衆議院議員)、小日向定次郎(英文学者)、栗原基(同)、小島武雄(旧制第五高校教諭)らがいる。
傍士 定治(ほうじ さだはる、1875年(明治8年)4月8日… 傍士 定治(ほうじ さだはる、1875年(明治8年)4月8日 - 1924年(大正13年)8月30日)は、明治から大正時代の政治家、実業家。衆議院議員。 傍士次、勘の長男として、高知県香美郡片地村(土佐山田町を経て、現在の香美市)に生まれる。東京帝国大学法科大学に学ぶ。1904年(明治37年)高知県会議員に当選。のち大阪市秘書課長、同東区長を歴任する。1921年(大正10年)夏、欧米を視察後、財界にも進出し、鶏林鉱業、日本ゼラチン各取締役、東大阪土地建物、日本ゼラチン、ライト商会各監査役などを歴任した。 1924年(大正13年)5月の第15回衆議院議員総選挙では高知県第3区から立憲政友会所属で出馬し当選するが、任期中に大阪市で死去した。
岩田 宙造(いわた ちゅうぞう、1875年(明治8年)4月7… 岩田 宙造(いわた ちゅうぞう、1875年(明治8年)4月7日 - 1966年(昭和41年)2月22日)は、明治から昭和期の弁護士、政治家(貴族院議員)。正三位、勲一等瑞宝章。法学博士。 1875年、山口県熊毛郡立野村(現・光市)に樋山彦七の二男として生まれ、松前藩の有力商人であった岩田金蔵の養子となる。樋山家は江戸時代、代々庄屋をつとめた家柄だった。1898年(明治31年)東京帝国大学法科大学法律学科(英法)卒。同期に、湯浅倉平などがいる。 1901年(明治34年)に東京日日新聞社入社。1902年(明治35年)弁護士開業、東京築地に岩田宙造法律事務所(現在の岩田合同法律事務所)を開設。後に、宮内省、日本銀行、日本郵船、東京海上火災、三菱銀行、日本勧業銀行の各顧問弁護士に就任。