大城 のぼる(おおしろ のぼる、1905年10月25日 - … 大城 のぼる(おおしろ のぼる、1905年10月25日 - 1998年5月26日)は、日本の昭和・平成期の漫画家、イラストレーター。本名:栗本 六郎(くりもと ろくろう)。代表作である『火星探険』は日本におけるSF漫画の先駆として、大きな影響を与えた。 東京府東京市芝区(現在の東京都港区)白金出身。職業を転々としたが、講談社『少年倶楽部』への投稿をきっかけに1931年(昭和6年)『学年別童話漫画』(元文社)で漫画家デビュー。1933年(昭和8年)から、中村書店より『愉快な探険隊』、『チン太二等兵』、『愉快な鉄工所』など多くの作品を発表。1940年(昭和15年)発表の『火星探険』(旭太郎〈小熊秀雄のペンネーム〉原作)は手塚治虫、小松左京、松本零士、筒井康隆らに影響を与えたSF漫画の先駆的作品とされる。
小野田 快雄(おのだ よしお、1905年〈明治38年〉10月… 小野田 快雄(おのだ よしお、1905年〈明治38年〉10月23日 - 没年不明)は、昭和時代前期の台湾総督府官僚、陸軍司政官。 岡山県御津郡今村中仙道(現・岡山市北区中仙道)に生まれる。第六高等学校を卒業。1928年(昭和3年)10月、高等試験行政科に合格し、1930年(昭和5年)3月に東京帝国大学法学部を卒業する。 同年5月、台湾総督府内務局地方課勤務を発令され、翌月渡台する。1934年(昭和9年)9月、地方理事官に進み、台北州羅東郡守に就任し、1936年(昭和11年)10月、高雄州警務部警務課長に転じた。ついで同州内務部勧業課長、府事務官官房外務部課長、台南州産業部長、同州警察部長を経て、1942年(昭和17年)10月、軍政部附として南方に転出。
中冨 正義(なかとみ まさよし、1905年10月23日 - … 中冨 正義(なかとみ まさよし、1905年10月23日 - 2011年11月23日)は、日本の実業家。久光製薬の社長、会長を務めた。 佐賀県鳥栖市出身。中冨三郎(久光三郎)の子で、明治薬学専門学校(現・明治薬科大学)を卒業。1929年、家業である久光兄弟合名会社に入社。1951年、株式会社化と同時に父の跡を継ぎ社長に就任。 1965年に社名を現在の「久光製薬」に改称。社長として消炎鎮痛剤サロンパスを開発、販売を開始し、同社の看板商品に押し上げた。1981年から1997年まで会長を務めた。 2011年11月23日、心不全のため死去。満106歳没。 社業以外でも、ホノルルマラソンを77歳から91歳まで連続15回完走するなど、その健脚で知られた。
内田 智雄(うちだ ともお、1905年10月21日 - 19… 内田 智雄(うちだ ともお、1905年10月21日 - 1989年10月3日)は、日本の中国思想史学者。 1905年、愛知県岡崎市生まれ。同志社大学文学部を卒業。卒業後は同志社大学講師となった。1957年に学位論文『中国農村の分家制度』を同志社大学に提出して法学博士号を取得。その後、助教授、教授に昇進。1976年に同志社大学を定年退任し、名誉教授となった。 専門は中国の制度史・法制史。
陳 耕元(ちん こうげん、1905年10月20日 - 195… 陳 耕元(ちん こうげん、1905年10月20日 - 1958年11月27日)、日本名上松 耕一(あげまつ こういち)は、台湾原住民のプユマ族出身で、嘉義農林学校(現国立嘉義大学)の野球チーム選手として甲子園に出場した人物。後に台東農校(現国立台東専科学校)校長。 陳耕元は1921年(大正10年)卑南公学校(現在の南王小学校)に進学。1925年(大正14年)台東公学校(現台東大学付属実験小学)高等科在籍時に野球部へ勧誘される。嘉義農林学校進学時も野球部へ入り、1931年の第17回全国中等学校優勝野球大会に史上最年長(27歳)で参加。凖優勝となった。 1932年に日本へ留学し、横浜専門学校(現神奈川大学)に進学。
柳 珍山(ユ・ジンサン、朝: 유진산、1905年10月18日… 柳 珍山(ユ・ジンサン、朝: 유진산、1905年10月18日 - 1974年4月28日)は、朝鮮の独立運動家であり第一共和国~第四共和国前半にかけて活躍した韓国の政治家である。本貫は文化柳氏(朝鮮語版)。珍山という名は、彼の故郷である忠清南道錦山郡珍山面(朝鮮語版)玉渓里から取られた字で、本名は柳永弼(ユ・ヨンピル、유영필)。号は玉溪(オッケ、옥계)。 息子の柳漢烈も政治家で国会議員を歴任した(民主韓国党→民主自由党→ハンナラ党)。また、元国会議員の成楽絃は姪の夫である。 解放直後における青年運動をきっかけに政界入りし、第一共和国から第四共和国時代における保守野党(民主国民党、民主党、民政党、民衆党、新民党)において要職を歴任した。
大村 英之助(おおむら えいのすけ、1905年10月13日 … 大村 英之助(おおむら えいのすけ、1905年10月13日 - 1986年3月23日)は、日本の映画プロデューサー、実業家。 1935年、芸術映画社社長となり、文部大臣賞を受けた石本統吉監督の記録映画『雪國』、瀬尾光世監督・撮影の長編アニメーション映画『桃太郎の海鷲』のプロデューサーとしても知られる。戦後も1961年、持永只仁、松本酉三とともに、人形アニメの会社「MOMプロダクション」(後にビデオ東京プロダクションに再編)を設立。第7回モスクワ国際映画祭児童映画部門銀賞、1972年度教育映画祭最高賞を受賞した人形アニメーション『てんまのとらやん』の企画を担当した。 一方、東京帝国大学経済学部在学中に日本共産党に入党し、地下活動に入り、何度も検挙され、戦後は一時、日本共産党の文化部長を務める。
関 英男(せき ひでお、1905年(明治38年)10月13日… 関 英男(せき ひでお、1905年(明治38年)10月13日 - 2001年(平成13年)12月16日)は日本の電気工学者。 山形県出身。1932年(昭和7年)東京工業大学電気工学科卒業。逓信省小山送信所勤務、高電力短波送信機の運用保守に従事。1934年(昭和9年) 逓信省福岡受信所勤務、雑音の研究を行う。 1955年(昭和30年) 退官、岩崎通信機技師長に就任。シンクロスコープの開発に尽力。工学博士。東京工業大学・ハワイ大学・電気通信大学・千葉工業大学・東海大学の教授を歴任。電子情報通信学会名誉会員、IEEEフェロー。紫綬褒章、勲三等瑞宝章受章。電波工学の世界的権威として知られ、当時の最先端技術を牽引した。
寺井 政数(てらい まさかず、1905年(明治38年)10月… 寺井 政数(てらい まさかず、1905年(明治38年)10月12日 - 1983年(昭和58年)10月10日)とは、能楽囃子方、笛方森田流能楽師(職分)。 愛知県名古屋市に生まれ、父の寺井三四郎、森田操に師事。12歳で初舞台。1927年(昭和2年)東京音楽学校選科卒業。1954年(昭和29年)第一回渡欧能楽団の一員としてヴェニス音楽祭に参加。1957年(昭和32年)日本能楽会(重要無形文化財保持者に総合認定された者の団体)が結成され、同年から日本能楽会会員。能楽協会理事・日本能楽会監事などを歴任し、能楽養成会の講師としても活躍した。1975年(昭和50年)勲四等瑞宝章。1983年(昭和58年)没、法名は「誠温院法壽日政居士」。
塩野谷 九十九(しおのや つくも、1905年10月12日 -… 塩野谷 九十九(しおのや つくも、1905年10月12日 - 1983年6月4日)は、日本の経済学者。名古屋大学名誉教授。 ケインズ経済学研究の権威で、ケインズの著書『雇用・利子および貨幣の一般理論』の初代翻訳者(1941年)。 愛知県出身。1926年名古屋高等商業学校(現名古屋大学経済学部)卒業、1930年東京商科大学(現一橋大学)卒業(高垣寅次郎門下)。1931年横浜市立横浜商業専門学校(現横浜市立大学)教授。1934年叙正七位。 1943年名古屋高等商業学校教授。1948年名古屋大学法経学部経済原論講座担任教授。1956年金融制度調査会臨時委員。1958年名古屋大学経済学部長。1959年公認会計士審査会試験委員。
武村 忠雄(たけむら ただお、1905年10月10日 - 1… 武村 忠雄(たけむら ただお、1905年10月10日 - 1987年12月14日)は、日本の経済学者。専門は景気予測や経済分析、マルクス理論。慶應義塾大学教授。旧姓氏名は奥田忠雄。 1905年に東京麹町に生まれる。1928年に慶應義塾大学経済学部を卒業、同大学助手となる。加田哲二のゼミナールに所属し、オーストリア派マルクス主義者マックス・アドラー (マルクス主義者)(英語版)をテーマに卒業論文を執筆した。 1929年から陸軍で10ヶ月の兵役を行い、1931年から予備役陸軍主計少尉に就任、予科講師を兼ねた。1933年から1935年までミュンヘン大学に留学し、アドルフ・ヴェーバー (経済学者)(英語版)とルートヴィヒ・フォン・ミーゼスのゼミナールで学び、オスカー・モルゲンシュテルンから個人指導を受ける。
田中 千禾夫(たなか ちかお、1905年〈明治38年〉10月… 田中 千禾夫(たなか ちかお、1905年〈明治38年〉10月10日 - 1995年〈平成7年〉11月29日)は、日本の劇作家、演出家、フランス文学者。日本芸術院会員。 長崎県長崎市生れ。旧制長崎県立長崎中学校を経て、1930年、慶應義塾大学文学部フランス文学科卒業。 在学中から獅子文六・岸田國士の「新劇研究所」に入る。卒論はフランスの劇作家、ポール・ジェラルディ。 1932年、岸田主宰の第1次『劇作』創刊に参加、実質的な編集長の任を務めた。1933年、処女戯曲『おふくろ』発表、築地座で上演されて注目される。1934年、やはり劇作家の田中澄江と結婚、神奈川県藤沢町鵠沼に新居を構える。同1934年から演出も始める。
岡本 薫(おかもと かおる、1905年10月9日 - 198… 岡本 薫(おかもと かおる、1905年10月9日 - 1987年1月9日)は、日本の作家、教育者。 大分県臼杵生まれ。松山高等学校卒、1929年東京帝国大学文学部独文科卒。1932年横浜市役所社会課勤務。1938年浦賀造船所勤務。39-41年陸軍中尉として応召。敗戦により浦賀造船を退社、文筆家となる。1964年光明学園理事。75年理事長。19歳のころから山崎弁栄の「光明主義」に帰依していた。
錢高 輝之(銭高、ぜにたか てるゆき、1905年 <明治38… 錢高 輝之(銭高、ぜにたか てるゆき、1905年 <明治38年> 10月9日 - 1984年 <昭和59年> 11月22日 )は、日本の経営者。錢高組社長を務めた。位階は従四位。 岡山県出身。1927年第六高等学校 (旧制)文科甲類卒業。1930年に東京帝国大学経済学部を卒業し、1934年に錢高組に入社。1936年に取締役に就任し、1942年に専務を経て、1945年に社長に就任。1980年から会長を務めた。経済団体連合会理事なども歴任した。1960年に藍綬褒章を受章し、1973年1月に勲三等旭日中綬章を受章。 1984年11月22日急性肺炎で死去。79歳没。死没日付をもって従四位に叙された。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
高橋 泰蔵(たかはし たいぞう、旧字:髙橋泰藏。1905年1… 高橋 泰蔵(たかはし たいぞう、旧字:髙橋泰藏。1905年10月9日 - 1989年5月22日)は、日本の経済学者。一橋大学名誉教授。元日本学士院会員。 静岡県出身。1929年東京商科大学(現一橋大学)学部卒。同期に深見義一一橋大名誉教授がいる。東京商大教授、戦後一橋大教授。1960-61年一橋大学附属図書館長。1961-64年学長。1981-1989日本学士院会員。近代経済学専攻。貨幣論、金融論。 佐藤定幸(一橋大学名誉教授)、石川滋(一橋大学名誉教授)は、高橋ゼミナールの出身。
天津 乙女(あまつ おとめ、1905年(明治38年)10月9… 天津 乙女(あまつ おとめ、1905年(明治38年)10月9日 - 1980年(昭和55年)5月30日)は、宝塚歌劇団団員(元月組主演クラス・月組組長)。のちに同劇団理事をつとめた。本名鳥居 栄子。愛称エイコさん。 後輩の春日野八千代や神代錦とならんで「宝塚の至宝」と呼ばれた。 1905年(明治38年)、東京に生まれる。 1918年(大正7年)に宝塚少女歌劇団(現在の宝塚歌劇団)初の東京公演が行われた際の生徒募集に応じて入団し、初瀬音羽子や久方靜子らと共に東京出身者として初の団員(生徒)となった。芸名は小倉百人一首収録の僧正遍昭の歌 から命名された。歌劇「パリゼット」をはじめ、「棒しばり」「奴道成寺」など数多くの舞踊の作品に出演し、日本舞踊の名手として女六代目の異名をとった。
田村 秋子(たむら あきこ、1905年10月8日 - 198… 田村 秋子(たむら あきこ、1905年10月8日 - 1983年2月3日)は、日本の新劇女優。 小説家・劇作家の田村西男の長女として東京市下谷区に生まれる。神田高等女学校卒業。1924年築地小劇場に入り、1925年3月、俳優友田恭助と結婚。結婚後の本名は伴田秋子。1927年「愛欲」などに出演する。1932年友田ともに築地座を結成、1936年解散。 1937年9月6日、夫とともに「文学座」の結成に参加。だが友田はすぐに日中戦争に召集され10月6日に戦没した。文学座は、11月31日、秋子を主役とした旗揚興行を予定していたが、秋子が「遺骨が戻ってくるまでは出演をしない」と拒否して公演は延期となった。 戦後1949年、文学座に名誉座員として迎えられ、自作「姫岩」で舞台復帰し1950年『ヘッダ・ガブラー』に主演、自伝『一人の女優の歩んだ道』(1962)がある。
伊瀬 芳吉(いせ よしきち、1905年 <明治38年> 10… 伊瀬 芳吉(いせ よしきち、1905年 <明治38年> 10月8日 - 2000年 <平成12年> 12月22日)は、日本の実業家。元ダイハツ工業社長。位階は従四位。 香川県三豊郡観音寺町(現 観音寺市伊吹町)出身。旧制香川県立三豊中学校、大阪高等工業学校機械科(現 大阪大学工学部)卒業。 三豊中学在学中は、伊吹島を出て下宿先から通った。家が貧しかったので学費を稼ぐために、下宿先の手伝いをしながら勉学に励んだ。数学と理科が得意だったこともあり、先生の薦めもあって大阪高等工業学校に進学する。 1926年(昭和元年)大阪高等工業学校卒業後、日本生命保険に就職。入社後、間もなく応召され入隊。その1年後に除隊となり、22歳の時、發動機製造に入社。
西村 直己(にしむら なおみ、1905年10月8日 - 19… 西村 直己(にしむら なおみ、1905年10月8日 - 1980年7月28日)は、戦後昭和期の政治家。衆議院議員。
岡田 甫(おかだ はじめ、1905年〈明治38年〉10月8日… 岡田 甫(おかだ はじめ、1905年〈明治38年〉10月8日 - 1979年〈昭和54年〉12月4日)は、川柳・雑俳研究家。 東京府日本橋に生まれる。本名は千葉治。号は三面子。[要検証 – ノート]1928年に早稲田大学高等師範部国語漢文科卒。長崎のミッションスクール東山学院教師となる。1934年に文筆活動を始め、芝書店、三笠書房、大観堂書店、青磁社などで編集長を歴任する。1950年に戸塚にオランダ書房を開き、近世庶民文化研究所を開設。1951年に雑誌『近世庶民文化』を創刊。1967年より鎌倉市に住む。 川柳・雑俳の評釈に活躍するほか近世軟文学の紹介も行った。柳田良一の名も用いた。
高田 弥市(たかだ やいち、1905年(明治38年)10月8… 高田 弥市(たかだ やいち、1905年(明治38年)10月8日 - 1970年(昭和45年)1月15日)は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員。旧姓・千田。 岩手県和賀郡鬼柳村(現北上市)で、千田徳松の三男として生まれ、高田貞次郎の養子となる。鬼柳小学校を卒業後、大工として働いた。 1930年(昭和5年)高弥組(現:株式会社タカヤ)を創業し、東北を代表する建設会社に成長させ、組長、高弥建設社長を務めた。岩手県労務報国会黒沢尻支部長、東北土木建築統制会監事、学務協会岩手支部副支部長、日本建築工業会評議員、岩手県建設業協会長、黒沢尻商工会議所会頭などを務めた。 1947年(昭和22年)4月、第23回衆議院議員総選挙で岩手県第2区から出馬して当選。
布尾 良策(ぬのお りょうさく)、明治38年(1905年)1… 布尾 良策(ぬのお りょうさく)、明治38年(1905年)10月8日 – 平成4年(1992年)10月1日は、昭和から平成初期にかけての洋画家。本名は東海良作。のちに布尾姓。富山県展審査員、氷見市美術協会会長、蒼潮会代表を歴任。 明治38年(1905年)富山県氷見郡窪村窪(現・氷見市窪)に生まれる。1921年、富山師範学校(現・富山大学教育学部)に入学、小学校教員養成過程に学ぶ。在学中の夏期休暇の課題の風景画を描いたところ、安岡信義に激賞される。1926年婚姻し布尾姓を名乗る。1929年川辺外治に師事。1934年、文検を受験し「師範学校中学校高等女学校教員(西洋画・用器画)」に合格、1935年、旧制富山中学にて開催された版画講習会に参加(講師に木版画の小野忠重、銅版画の武藤完一)。
橋本 作市(はしもと さくいち、1905年〈明治38年〉10… 橋本 作市(はしもと さくいち、1905年〈明治38年〉10月7日 - 1973年〈昭和48年〉5月27日)は、昭和時代の政治家。北海道留萌市長(2期)。 北海道出身。1929年(昭和4年)北海道帝国大学水産専門部卒業。留萌町に奉職し、資源課長などを歴任した。 その後、留萌町助役を経て、1947年4月、留萌町議会議員となり、翌月には副議長となる。同年10月留萌市発足により、留萌市議会議員、同副議長に就任した。1951年の留萌市長選挙に立候補したが、現職の原田太八に敗れ落選した。 1954年2月に前市長の原田太八が任期途中で辞職したことに伴う翌3月の市長選挙には橋本作市、小澤久吉、城川徹郎の3人が立候補し、橋本は初当選を果たす。
荒木 巍(あらき たかし、1905年10月6日 - 1950… 荒木 巍(あらき たかし、1905年10月6日 - 1950年6月4日)は、日本の作家。本名・下村是隆(ぜりゅう)。他の筆名に下村 恭介。 東京府東京市浅草区浅草永住町(現在の東京都台東区元浅草)生まれ。東京帝国大学支那文学科卒業。 1933年「その一つのもの」が『改造』の懸賞に当選。同年高見順らと『日暦』を創刊、1936年武田麟太郎主宰の『人民文庫』の創刊に参加した。
赤沢 与仁(赤澤 與仁、あかざわ よじん、1905年(明治3… 赤沢 与仁(赤澤 與仁、あかざわ よじん、1905年(明治38年)10月6日 – 1960年(昭和35年)2月13日)は、昭和期の農政家、実業家、政治家。位階は正五位。参議院議員。 徳島県板野郡大津村吉永(現鳴門市大津町吉永)で、赤沢時太郎、サキの長男として生まれる。1930年(昭和5年)九州帝国大学法文学部法科を卒業した。 1933年(昭和8年)産業組合中央会徳島県支会主事補に就任。その後、徳島県農業会長、全国農業会理事、大津農業協同組合長、徳島県農業協同組合連合会理事、同会長、全国農業協同組合連合会理事、徳島県信用農業協同組合連合会長、農林中央金庫評議員、全国農業共済組合連合会理事、徳島民報社監査役、日本ガイドショップ社長、石岡電機顧問などを務めた。
薗田 誠一(そのだ せいいち、1905年〈明治38年〉10月… 薗田 誠一(そのだ せいいち、1905年〈明治38年〉10月5日 - 1986年〈昭和61年〉8月3日)は、日本の声楽家(テノール)、オペラ歌手、音楽教育者、音楽評論家、音楽学者、合唱指揮者。お茶の水女子大学名誉教授。 千葉県出身。1930年(昭和5年)東京音楽学校(現: 東京藝術大学音楽学部)卒業。マルガレーテ・ネトケ=レーヴェ、ヘルマン・ヴーハープフェニッヒに師事。 卒業後、戦前からリサイタル、コンサートで活動し、特にドイツ歌曲を得意とした。 戦後まもなく演奏活動に復帰。門下生の柴田睦陸が結成し、二期会の母体となった東京藝術大学歌劇研究部 ベルリオーズ『ファウストの劫罰』の主役ファウストを務めている。
久保田 豊(くぼた ゆたか、1905年10月4日 ‐ 196… 久保田 豊(くぼた ゆたか、1905年10月4日 ‐ 1965年10月24日)は、日本の政治家。衆議院議員(5期)。韮山村長(2期)。
石井 一郎(いしい いちろう、1905年10月4日 - 19… 石井 一郎(いしい いちろう、1905年10月4日 - 1980年6月18日)は、日本の経営者。日産化学工業社長を務めた。 熊本県玉名市出身。1929年に東京帝国大学経済学部経済学科を卒業し、同年に日本興業銀行に入行。1950年4月に取締役に就任し、1951年5月に常務、1961年11月に副頭取を経て、1964年11月には日産化学工業社長に就任。1971年6月に会長を経て、1972年12月には取締役相談役に退いた。 1973年4月に藍綬褒章を受章。 1980年6月18日、心筋梗塞のために死去。。74歳没。
今泉省三(いまいずみ せいぞう、1905年10月4日 - 1… 今泉省三(いまいずみ せいぞう、1905年10月4日 - 1978年12月14日)は、日本の歴史家。 新潟県長岡市生まれ。1929年、明治大学政治経済科専門部卒業。長岡市役所に勤務し、厚生課長、秘書課長等を務める傍ら、長岡地方の郷土史研究を行い、『長岡の歴史』の執筆や資料集『越佐叢書』の編纂を行う。1955年には長岡市立互尊文庫館長となり、1965年退職。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
平林 たい子(ひらばやし たいこ、1905年〈明治38年〉1… 平林 たい子(ひらばやし たいこ、1905年〈明治38年〉10月3日 - 1972年〈昭和47年〉2月17日)は、日本の小説家。本名タイ。 職を転々としながら、同棲、離別、検挙、生活破綻、中国大陸や朝鮮での放浪などを経て、その体験から『嘲る』『施療室にて』を発表。プロレタリア作家として出発した。戦後は反共姿勢を強め、晩年は難病に苦しんだが、社会や人生の不条理を逞しい筆致で描いた作品で知られた。没後日本芸術院賞・恩賜賞を受け、平林たい子文学賞が設定された。 現在の長野県諏訪市(旧諏訪郡中洲村)出身。平林家はもともと土地の名家であったが、祖父の事業失敗で貧しい農家に落ちていた。 1915年(大正4年)1月、父と弟と朝鮮へ出稼ぎに行く。
俵 静夫(たわら しずお、1905年10月3日 - 1992… 俵 静夫(たわら しずお、1905年10月3日 - 1992年1月8日)は、日本の法学者。神戸大学名誉教授。 静岡県静岡市生まれ。京都府立第二中学校、第三高等学校、1929年、京都帝国大学法学部卒、神戸商業大学助手、神戸経済大学助教授、神戸大学法学部教授。1968年、「地方自治法」で神戸大法学博士。1969年、定年退官、名誉教授。神戸学院大学教授、1987年、退職。 地方自治が専門。1975年勲二等瑞宝章受章。
温水 三郎(ぬくみ さぶろう、1905年(明治38年)10月… 温水 三郎(ぬくみ さぶろう、1905年(明治38年)10月3日 - 1976年(昭和51年)10月22日)は、昭和期の農業協同組合指導者、政治家。参議院議員(3期)。位階は正四位、勲等は勲二等。 宮崎県西諸県郡小林村(現小林市)で、宮崎県会議長を務めた温水実孝の息子として生まれた。その後、旧制鹿児島県立第二鹿児島中学校を経て1931年(昭和6年)法政大学法科卒業し、農業に従事した。 1942年(昭和17年)小林町会議員に選出。1946年(昭和21年)小林町農業会会長に就任。1948年(昭和23年)宮崎県農業会会長となり。1954年(昭和29年)宮崎県農業協同組合中央会会長。1963年(昭和38年)宮崎県の農協中央会、信用農協連、経済農協連、共済農協連の各会長就任。
姜 善明(カン・ソンミョン、朝鮮語: 강선명、1905年10… 姜 善明(カン・ソンミョン、朝鮮語: 강선명、1905年10月3日 - 1980年1月12日)は、大韓民国の金融関係者、政治家、実業家。制憲韓国国会議員。 全羅南道木浦出身。兵庫県立神戸高等商業学校(現・兵庫県立大学)卒。朝鮮金融組合連合会理事・参事、金堤郡万頃金融組合理事、扶安郡茁浦金融組合理事、漢城銀行調査役、木浦商工会議所会長、大韓造船公社(現・韓進重工業)副社長などを務めた。初代総選挙において当選した李南圭が初代全羅南道知事に指名されたため、1949年1月13日に実施された補欠選挙において木浦府選挙区より無所属で出馬して当選し、国会議員となった。 1980年1月12日に持病によりソウル市道峰区の自宅で死去。
円地 文子(えんち ふみこ、1905年(明治38年)10月2… 円地 文子(えんち ふみこ、1905年(明治38年)10月2日 - 1986年(昭和61年)11月14日)は、日本の小説家。本名:圓地 富美(えんち ふみ)。上田萬年の二女。戯曲から小説に転じ、『ひもじい月日』で文壇に地位を確立。江戸末期の頽廃的な耽美文芸の影響を受け、抑圧された女の業や執念を描いて古典的妖艶美に到達。戦後の女流文壇の第一人者として高く評価された。『源氏物語』の現代語訳でも知られる。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。 1905年10月2日、東京府東京市浅草区向柳原2-3(現・台東区浅草橋)に、父上田萬年(38歳)、母鶴子(29歳)の二女として生まれる。本名富美。家族は他に、父方の祖母いね(66歳)、兄寿(8歳)、姉千代(4歳)がおり、さらに女中、書生、兄の乳母、抱え車夫の夫婦などがいた。
福村 利明(ふくむら としあき、1905年(明治38年)10… 福村 利明(ふくむら としあき、1905年(明治38年)10月2日 - 1944年(昭和19年)5月15日)は、日本の海軍軍人。海兵54期卒。戦死による二階級特進で、最終階級は海軍少将。 熊本県出身。1905年(明治38年)10月2日、福村卯吉の二男として生まれる。中学済々黌の出身で、林正義は同級生であった。のち林とともに王師会の結成に加わる。1926年(大正15年)3月、海軍兵学校(54期)卒業。1927年(昭和2年)10月、海軍少尉に任官。1929年(昭和4年)11月、海軍中尉に昇進し第一遣外艦隊司令部付となる。 1930年(昭和5年)4月、霧島乗組となり、出雲乗組、第5駆逐隊付、波風乗組、第3艦隊司令部付、常磐乗組、安宅乗組を歴任。
宇都宮 清吉(うつのみや きよよし、1905年10月2日 -… 宇都宮 清吉(うつのみや きよよし、1905年10月2日 - 1998年)は、日本の東洋史学者。名古屋大学名誉教授。 愛知県出身。1931年京都帝国大学文学部東洋史学科卒。台北帝国大学予科教授、京都帝国大学助教授を経て1948年名古屋大学文学部教授に転じる。名古屋大学では谷川道雄と共に教授にあたっており、学界を牽引した。1969年定年退官、名誉教授、橘女子大学教授。中国中世史の研究会を主宰した。
李 升基(リ・スンギ、朝鮮語: 리승기、1905年10月1日… 李 升基(リ・スンギ、朝鮮語: 리승기、1905年10月1日 - 1996年2月8日)は、北朝鮮の化学者、政治家。ビニロンの発明者の一人。 日本統治時代の朝鮮の全羅南道潭陽郡生まれ。中央普通学校を経て松山高等学校理科甲類を1928年3月に卒業した。その後、京都帝国大学工学部に進学して1931年3月に卒業し、その後、京都帝国大学化学研究所では助教授を務めた。1939年には桜田一郎、川上博(大日本紡績)らと共にビニロンを合成し、世界で2番目の合成繊維を作成した。しかし戦時中の日本の軍事政策に協力しなかったために治安維持法により拘束され、終戦を迎えるまでとらわれの身となった。なお同時期の京大化研では同じ朝鮮人化学者の李泰圭も助教授・教授として在籍している。
馬淵 威雄(まぶち たけお、1905年〈明治38年〉10月1… 馬淵 威雄(まぶち たけお、1905年〈明治38年〉10月1日 - 1988年〈昭和63年〉9月20日)は、昭和期の実業家。死去時の役職は東宝相談役、フジテレビ取締役。京都府出身。 水戸高等学校を経て1930年に京都大学法学部を卒業。戦時中は軍需省管理官、戦後は中央労働委員会で第一部長兼第二部長を務める。労働争議に悩んでいた東宝社長田辺加多丸(小林一三の実弟)の懇請により、1947年12月26日に東宝取締役(労務担当)に就任、新社長の渡辺銕蔵と共に人員整理に取り組み、翌1948年の第三次東宝争議を乗り切って、経営権や人事権を会社側の専権事項とした。 馬淵はそののち、1948年10月8日に代表取締役副社長に就任したが、1949年4月12日に常務取締役に降格するや、渡辺銕蔵と再建策をめぐって対立、1949年9月26日に辞任した。
深沢 義守(ふかざわ よしもり、1905年10月1日 - 1… 深沢 義守(ふかざわ よしもり、1905年10月1日 - 1966年12月14日)は、日本の政治家、農民運動家。衆議院議員(日本共産党公認)を1期務めた。 山梨県南巨摩郡身延村(現・身延町)大野生まれ。日本大学在学中より山梨県内各地で農民運動に関わり、昭和初期以降、日本共産党の強い影響下にあった全国農民組合全国会議派県連書記長を務める事となる。 1930年には奥野田村(現・甲州市)の小作争議で主導的な役割を果たした他、翌年5月1日に行われた県初のメーデーでは中巨摩郡東部・東八代郡西部2地区の指導者として活躍。また、1930年3月1日発足の甲府消費組合では組合長も務めた。この間、治安維持法違反により検挙される事10数度を重ね、1933年に発生した山梨共産党事件に連座し投獄、2年間にわたる服役の後、郷里を離れた。
高谷 高一(たかたに こういち、1905年10月 - 196… 高谷 高一(たかたに こういち、1905年10月 - 1966年3月)は、日本の都市計画家。三重県副知事などを歴任した。 福井県に生まれる。旧制第四高等学校を経て、1932年東京帝国大学工学部土木工学科を卒業。東京市役所土木部下水課に奉職するが、その後は都市計画地方委員会技師になる。1933年、神奈川地方委員会。1937年、都市計画東京地方委員会。1940年、興亜院。1943年、都市計画兵庫地方委員会。1944年、防空総本部。1945年、戦災復興院計画局土木課。その後建設院計画局建設課長。1950年、経済安定本部兼務。1951年、建設省都市局都市建設課長。1952年、同省復興課長事務代理。1955年、三重県観光開発株式会社副社長。
依田 新(よだ あらた、1905年9月30日 - 1987年… 依田 新(よだ あらた、1905年9月30日 - 1987年5月11日)は、日本の心理学者。 東京市麻布生まれ。学習院教授依田豊の長男。第八高等学校卒業。1929年、東京帝国大学心理学科卒業。 東京文理科大学助手。1937年、東京高等師範学校講師。1938年、教授。1936年から児童学研究会に参加し、さらに教育科学研究会教育科学研究部会に参加。戦時下弾圧を受ける。1948年、東京文理科大学教授。1949年、校名変更で東京教育大学教授。 1951年、名古屋大学教授(1958年まで東京教育大学教授併任)。1954年まで名古屋大学教育学部学部長。 1956年、東京大学教育学部教授(1959年まで名古屋大学併任)。
大竹 太郎(おおたけ たろう、1905年(明治38年)9月2… 大竹 太郎(おおたけ たろう、1905年(明治38年)9月29日 - 1987年(昭和62年)12月16日)は、日本の政治家。衆議院議員(4期、自由民主党)。弁護士。 新潟県中頸城郡頸城村(現・上越市頸城区)出身。1930年(昭和5年)東京帝国大学独法科卒。弁護士となり、陸軍主計大尉、頸城運送倉庫社長を経て、新潟県議となる。1963年(昭和38年)の第30回衆議院議員総選挙で旧新潟4区から自由民主党公認で立候補して初当選する。第3次佐藤内閣法務政務次官、衆議院法務委員長を歴任する。1976年(昭和51年)の第34回衆議院議員総選挙で落選し、政界を引退した。1983年(昭和58年)春の叙勲で勲二等瑞宝章受章(勲五等からの昇叙)。
帆足 計(ほあし けい、1905年9月27日 - 1989年… 帆足 計(ほあし けい、1905年9月27日 - 1989年2月3日)は、日本の商工官僚、政治家。衆議院議員(7期)。参議院議員(1期)。 大分県日田市で生まれる。旧制第六高等学校、二度落第。1931年東京帝国大学経済学部卒。在学中は新人会で学生運動に身を投じた。 朝日新聞社出身のソ連スパイ尾崎秀実、風見章、勝間田清一、穂積七郎らと共に近衛文麿の最高政治幕僚組織「昭和研究会」に所属した。商工省の革新官僚であり、第二次世界大戦中に重要産業統制協議会事務局長就任、統制経済を推進し、大日本帝国の国民経済を自由主義的市場経済から全体主義的計画経済へ移行させる経済新体制の確立を画策した。 昭和研究会には帆足ら革新官僚と尾崎ら転向左翼ら所謂「国体の衣を着けたる共産主義者」(近衛上奏文)が結集しており、彼らはマルクス主義に依拠して戦争を利用する上からの国内革新政策の理論的裏付けを行い、国家総動員法の発動を推進し、近衛新体制生みの親として大政翼賛会創設の推進力となった。
千葉 七郎(ちば しちろう、1905年(明治38年)9月27… 千葉 七郎(ちば しちろう、1905年(明治38年)9月27日 - 1987年(昭和62年)12月9日)は、昭和期の農民運動家、政治家。衆議院議員。 岩手県東磐井郡千厩町(現一関市)出身。1920年(大正9年)千厩町立千厩尋常高等小学校高等科を卒業した。卒業後は地元で職業を転々とした後、上京し、大日本麦酒株式会社に就職。政治運動に関わるようになる。 その後、帰郷し、千厩町役場書記を務めた。1927年(昭和2年)労働農民党に入党し、農民運動に加わる。1932年(昭和7年)衆議院総選挙に関わったことを理由に町職員を免職される。免職後は東京日日新聞と河北新報の嘱託記者となる。1933年(昭和8年)千厩町会議員に選出され3期在任した。
岩村 忍(いわむら しのぶ、1905年9月26日 - 198… 岩村 忍(いわむら しのぶ、1905年9月26日 - 1988年6月1日)は、日本の東洋史学者。専攻は内陸ユーラシア史・東西交渉史。戦後日本におけるシルクロード学の開拓者として知られる。 1905年、北海道小樽市で生まれた。旧制小樽中学(現:北海道小樽潮陵高等学校)卒業後渡米し、オタワ大学社会学部で学んだ。1929年に卒業。 1931年、新聞連合社(のち同盟通信社を経て、現:共同通信社)に就職。一方でトロント大学大学院経済史専攻に進み、1932年に修了。満州事変後のリットン調査団に随行して中国各地を回り、国際連盟のジュネーヴ本部などに勤務した。戦時期には東方社の理事に就任したほか、1942年から1945年にかけて文部省民族研究所研究員として在外研究にあたった。
高林 敏巳(たかばやし としみ、1905年9月26日 - 1… 高林 敏巳(たかばやし としみ、1905年9月26日 - 1993年7月26日 )は、日本の経営者。三井金属鉱業社長を務めた。静岡県浜松市出身。 旧制静岡県立榛原中学校、旧制第八高等学校を経て、1928年に東京帝国大学工学部鉱山学科を卒業し、同年に三井鉱山に入社。1951年に三井金属鉱業に転じ、1952年に取締役に就任し、1956年に常務を経て、1958年11月に副社長に就任し、1964年5月には社長に昇格した。1970年4月に会長に就任し、1974年5月までに務めた。経済団体連合会、日本経営者団体連盟各常任理事も務めた。 1965年10月に藍綬褒章を受章し、1976年11月に勲一等瑞宝章を受章した。
松枝 茂夫(まつえだ しげお、1905年9月25日 - 19… 松枝 茂夫(まつえだ しげお、1905年9月25日 - 1995年9月23日)は、日本の中国文学者。東京都立大学 (1949-2011)名誉教授。 1905年、佐賀県西松浦郡有田町に生まれた。幼時から母方の姓である松枝を名乗った。東京帝国大学支那文学科で学び、竹内好、武田泰淳、増田渉、周作人らと親交を結んだ。1930年、東京帝国大学を卒業。 1939年、九州帝国大学専任講師に採用された。1941年、助教授に昇進。1940年から岩波文庫で『紅楼夢』の刊行を始めるが、3冊を刊行したところで戦争のため中止となった。 戦後の1947年、東京大学文学部助教授となったが、翌1948年の妻の病没に衝撃を受けて退職し、九州へ戻った。
小糸 のぶ(こいと のぶ、1905年9月24日 - 1995… 小糸 のぶ(こいと のぶ、1905年9月24日 - 1995年12月13日)は、日本の小説家。 静岡県富士郡吉原町(旧・吉原市)(現・富士市)生まれ。静岡女子師範学校卒。小学校教員を経て、1941年(昭和16年)内閣情報局の国民映画脚本募集に「母子草」が一席入選し、映画化される(田坂具隆監督)。戦後1949年(昭和24年)に「おもかげ」で直木賞候補。恋愛通俗小説を書いた。
稲嶺 一郎(いなみね いちろう、1905年9月23日 - 1… 稲嶺 一郎(いなみね いちろう、1905年9月23日 - 1989年6月19日)は、日本の政治家・実業家・軍人。沖縄県国頭郡本部村出身。元沖縄県知事稲嶺惠一の父。
足羽 則之(あしば のりゆき、1905年〈明治38年〉9月2… 足羽 則之(あしば のりゆき、1905年〈明治38年〉9月22日 - 1966年〈昭和41年〉2月2日)は、日本の鉄道官僚、運輸官僚、実業家。小田急百貨店副社長。 鳥取県鳥取市西町の鳥取士族で、衆議院議員(鳥取市選出)、鳥取市会議長、鳥取県会議員などをつとめた木下義之の三男。足羽家に入る。1926年に第三高等学校文科乙類卒業。1928年に高等試験行政科合格。1929年に東京帝国大学法学部法律学科卒業。 鉄道省に入り鉄道事務官兼企画院・外務省各書記官、運輸大臣官房人事課長を経て1946年に新潟鉄道局長となり1949年に運輸省鉄道監督局長に転じ、1952年4月に退官、私鉄経営者協会専務理事事務局長に就任、関東鉄道協会常任理事事務局長の後1956年5月に小田急取締役に挙げられ、1959年2月に常務に推される。