上田 兵吉(うえだ へいきち、1869年3月22日(明治2年… 上田 兵吉(うえだ へいきち、1869年3月22日(明治2年2月10日) - 1931年(昭和6年)9月6日)は、明治から昭和初期の日本陸軍軍人、政治家、華族。旧姓は杉崎。 歩兵第24旅団長、第17師団参謀長を歴任し、最終階級は陸軍少将従三位勲二等功四級男爵。義父は朝鮮駐剳軍司令官・台湾守備軍司令官を務めた上田有沢陸軍大将。 名東郡加茂村で、杉崎組蔵の三男として生まれる。徳島中学校を卒業し、陸軍幼年学校を経て、1891年(明治24年)7月20日に第2期士官候補生として陸軍士官学校を卒業し、1892年(明治25年)3月21日、歩兵少尉に任官される。同期には菅野尚一大将・森岡守成大将・鈴木孝雄大将らがいる。
小川 尚義(おがわ なおよし、明治2年2月9日(1869年3… 小川 尚義(おがわ なおよし、明治2年2月9日(1869年3月21日) - 昭和22年(1947年)11月20日)は明治から昭和前期の言語学者、台湾語と台湾諸語研究者、辞書編纂者。台北帝国大学名誉教授。 1869年(明治2年)2月9日(新暦では3月21日)、伊予国温泉郡(現在の愛媛県松山市勝山町)に士族・丹下尚逸・ムラの三男として生まれる。1872年(明治5年)5月、松山・御宝町77番地(現在の松山市一番町2丁目3番)の小川武一の養子になる。1883年(明治16年)、松山中学を卒業する。1887年(明治20年)9月、第一高等中学校予科に入学。正岡子規と親しくなる。しかし1889年には脚気のため一時休学、留年。
白井 こう(しらい こう、女性、明治2年2月9日(1869年… 白井 こう(しらい こう、女性、明治2年2月9日(1869年3月21日) - 昭和29年(1954年)7月25日)は、日本の教育者。人間環境大学附属岡崎高等学校の創立者。三河地方における女子教育の先駆者である。旧姓は山本。 田原町長を1901年(明治34年)から15年間務めた山本右太郎は次兄。 三河国田原(現在の愛知県田原市)に田原藩士山本源善の長女として生まれる。1888年(明治21年)1月、近所の田原小学校で教員に欠員が生じたため、校長から兄を通じて「代わりをやってもらえないか」との申し出を受ける。白井は1月から5月まで「渥美郡役所雇教員」の辞令で田原教学校の教壇に18歳で立つことになった。
遠山 房吉(とおやま ふさきち、1869年3月20日(明治2… 遠山 房吉(とおやま ふさきち、1869年3月20日(明治2年2月8日) - 1939年(昭和14年)3月17日)は、日本の篤農家、政治家。衆議院議員。 信濃国諏訪郡、後の中洲村(現長野県諏訪市)で遠山嘉藤治の長男として生まれる。北海道開拓を志し、1897年に河西郡芽室村に移住。 馬鈴薯、粟、麦などの作物を栽培するとともに、水田の開発を推進し、養蚕の導入などを行う。芽室農会評議員、同衛生組合長、北海道蚕糸会評議員、河南土功組合議員、北海道地方種繭審査委員、十勝六郡農会評議員、十勝郡農会副会長、北海道農村産業組合評議員などを務めた。 政界では、芽室村会議員、同学務委員、所得税調査委員、北海道会議員を歴任。
真渓 涙骨(またに るいこつ、1869年3月9日(明治2年1… 真渓 涙骨(またに るいこつ、1869年3月9日(明治2年1月27日) - 1956年(昭和31年)4月14日)は日本の宗教思想家、ジャーナリスト、宗教専門紙『中外日報』創刊者。 福井県敦賀市の浄土真宗本願寺派寺院に長男として生まれる。本名は正遵(しょうじゅん)。京都西本願寺の普通教校に16歳で入学するが間もなく退学し、学徳兼備の名僧として知られた博多万行寺の龍華教校で七里恒順に約3年師事。その後、各地を遍歴しながら文筆修行を積んだ。 1897年(明治30年)10月1日、仏教および宗教界の革新を志し、京都で超宗派の宗教新聞『教学報知』を創刊。1902年(明治35年)、報道範囲を拡大し『中外日報』と改題。
高木 益太郎(たかぎ ますたろう、1869年3月7日〈明治2… 高木 益太郎(たかぎ ますたろう、1869年3月7日〈明治2年1月25日〉 - 1929年〈昭和4年〉12月11日)は、日本の実業家、政治家、資産家、弁護士。 衆議院議員(当選6回)。法律新聞社長。尾西鉄道社長。法政大学総務部長、同大理事。従五位勲三等。族籍は東京府平民。 1869年1月25日、東京に生まれる。高木益喜の長男。幼少の頃、日本橋元浜町の尾張屋質店の丁稚小僧に出される。当時知人某が法律の不知からある高利貸しのためさんざんな目に遭わされたことに憤慨し、「弱者の味方となり、正義公正な権利擁護に尽くそう」と心機一転して法律の勉強を志す。 銀行に勤めるかたわら東京法学校(現・法政大学)に通学し、1887年に卒業する。
大町 桂月(おおまち けいげつ、1869年3月6日(明治2年… 大町 桂月(おおまち けいげつ、1869年3月6日(明治2年1月24日)- 1925年(大正14年)6月10日)は、高知県出身の詩人、歌人、随筆家、評論家。本名:大町芳衛(よしえ)。長男は化学者で慶應義塾大学教授の大町芳文、次男は昆虫学者で三重大学教授の大町文衛。 1869年(明治2年)、土佐郡高知街北門筋(現・高知市永国寺町)に元土佐藩士である通の息子として生まれる。名は芳衛。雅号の桂浜月下漁郎は、よさこい節にも唄われる観月の名所桂浜に因み、桂月はそれを縮めたもの。 1896年(明治29年)、東京帝国大学国文科卒。1899年(明治32年)、島根県で中学教師として奉職するも、1900年(明治33年)、乞われて博文館に入社し、1906年(明治39年)まで在籍。
浅川 浩(あさかわ こう / ひろし、1869年3月6日(明… 浅川 浩(あさかわ こう / ひろし、1869年3月6日(明治2年1月24日) - 1949年(昭和24年)2月10日)は、日本の実業家、政治家。憲政会・立憲民政党所属の衆議院議員。 甲斐国巨摩郡、後の北巨摩郡大泉村(現山梨県北杜市大泉町)で浅川荘衛の長男として生まれる。1883年4月に上京し明治学館で学ぶ。1886年に卒業して帰郷し、農蚕、酒造業を営むが成功せず、1890年、御料局雇となる。 1893年、北海道に移り上川郡旭川村戸長役場筆生に就任。以後、高鷲村戸長、旭川町会議員、同区会議員、旭川市会議員、北海道会議員、北海道教育会地方委員、旭川教育会理事、旭川精米社長、旭川酒造社長、北海畜産社長などを務めた。
伊東 祐賢(いとう すけたか、1869年3月5日〈明治2年1… 伊東 祐賢(いとう すけたか、1869年3月5日〈明治2年1月23日〉- 1945年〈昭和20年〉1月25日)は、明治後期から昭和前期の実業家、政治家。衆議院議員、富山県下新川郡泊町長。幼名・柳太郎。 越中国新川郡沼保村(富山県下新川郡泊町沼保を経て現朝日町沼保)で、温泉業・伊東次郎左衛門祐明の長男として生まれる。祐明の養子・祐寛の相続人となり1891年(明治24年)家督を相続した。岡田信之に師事し漢籍を修めた。富山県尋常中学校(現富山県立富山高等学校)を卒業し、上京して専修学校(現専修大学)で経済学を学んだ。 家業の小川温泉の経営を行う。1912年(明治45年)の大洪水で小川温泉が多大な損害を受けたため、移転も検討されたが泊町での再建が決定され、1913年(大正2年)7月、小川温泉株式会社が設立され社長に就任した。
田淵 貞四郎(たぶち さだしろう、1869年3月4日(明治2… 田淵 貞四郎(たぶち さだしろう、1869年3月4日(明治2年1月22日)- 1922年(大正11年)12月1日)は、明治から大正時代の政治家、実業家。衆議院議員(1期)。 のちの香川県三野郡桑山村(三豊郡桑山村、豊中村、豊中町を経て、現在の三豊市豊中地区)に生まれる。農業を営む傍ら、桑山村会議員、三豊郡会議員、同参事会員、同副議長、香川県会議員、同参事会員、県農会副会長を歴任する。実業家としては讃岐土管取締役、香川県蚕糸同業組合連合会長を務める。 1915年(大正4年)3月の第12回衆議院議員総選挙では香川県郡部から憲政会所属で出馬し当選。1期務めた。
柏原 文太郎(かしわばら ぶんたろう、明治2年1月18日(1… 柏原 文太郎(かしわばら ぶんたろう、明治2年1月18日(1869年2月28日) - 昭和11年(1936年)8月10日)は、日本の教育家、社会事業家。千葉県出身。 日中問題の権威で東亜同文会設立の功労者であるとともに、目白中学の創設からその実質的な校長職務を歴任した。さらに衆議院議員(1912年 - 1920年)として日中関係と私学教育の改善に功績を残した。 1869年1月、柏原七兵衛の子として千葉県成田市寺台の農家に生まれる。1893年、東京専門学校(現在の早稲田大学)英語政治科卒業。 1895年、朝鮮国政府農商務省の招聘により渡韓し駐日朝鮮政府公使館顧問となり帰国。 1896年、東京専門学校の講師となり、支那研究会を組織。
諸井 四郎(もろい しろう、1869年2月25日〈明治2年1… 諸井 四郎(もろい しろう、1869年2月25日〈明治2年1月15日〉 - 1954年〈昭和29年〉)は、武蔵国児玉郡本庄宿(現在の埼玉県本庄市)出身の実業家。西武鉄道の取締役や日本煉瓦製造の会長などを務めた。 中山道で最大の宿場町であった本庄宿(明治22年より児玉郡本庄町)の出身。東諸井家10代目当主である諸井泉衛(1830-1885)は五男二女を授かり、四朗はその四男として生まれた。1900年(明治33年)に東京帝国大学を卒業し、京釜鉄道会社に入社。会計課長となるが、鉄道の国有化にともない退社する(1908年)。東亜製粉会社を組織し社長に就任するも、1925年(大正14年)日本製粉会社と合併してこの会社は消失。
三浦 万太郎(みうら まんたろう、三浦萬太郎、1869年〈明… 三浦 万太郎(みうら まんたろう、三浦萬太郎、1869年〈明治2年〉2月25日 - 1935年〈昭和10年〉7月)は、宝飯郡形原村(現・蒲郡市)出身の眼科医・実業家。妻は東三河地方初の女医である三浦こう。 1869年(明治2年)2月25日に宝飯郡形原村(現・愛知県蒲郡市)に生まれた。旧制宝飯中学校を卒業すると、1890年(明治23年)に医術開業試験に合格し、順天堂医院の佐藤泰然博士や須田博士に師事した。東京ではスワン石鹸会社を設立するなどしている。 やがて故郷の形原村に戻ると村岡こうと結婚し、1892年(明治25年)には形原村に三浦こうとともに愛明堂医院を開業した。三浦こうの義兄である小川平吉が鉄道大臣となると、奥飛騨温泉郷の平湯温泉の開発に尽力したが、平湯温泉への鉄道の敷設は実現しなかった。
佐々木 飛吉(ささき とびきち、明治2年1月15日(1869… 佐々木 飛吉(ささき とびきち、明治2年1月15日(1869年2月25日) - 昭和28年(1953年)5月23日)は、明治から昭和にかけて北海道静内郡静内町に居住したアイヌ。アイヌ協会の創立メンバーで、アイヌ文化伝承者であった。 東静内アザミの沢出身で、同地に住んだアイヌ名はOperikun、オペリクン、オペレクン・テクンアレ、ペイレン。opは海でカジキマグロを獲るのに使うホコであり、それを使うのが上手と言うこと、「ホコ使い上手」を意味するオッㇷ゚エリクンが転訛したものという。 アイヌ語に優れ、パルンクル(雄弁家)であった。静内地方でも著名な首長、長老であり、戦前・戦後を通し多くの著名人が訪れた。
柵瀬 軍之佐(さくらい ぐんのすけ、1869年2月24日(明… 柵瀬 軍之佐(さくらい ぐんのすけ、1869年2月24日(明治2年1月14日) - 1932年8月28日)は、日本の政治家。元立憲民政党衆議院議員(6期)。台湾を中心とした植民地事業で財を成した企業家であり、32社の経営に関わった。 岩手県西磐井郡中里村(現:一関市)出身。1889年英吉利法律学校(現:中央大学)卒。山梨日々新聞主筆、東京毎日新聞編集長などを経て、大倉組台湾支店支配人、合名会社柵瀬商会を設立した。1910年の第10回衆議院議員総選挙で初当選。以来6回当選。加藤高明内閣と第1次若槻内閣で商工政務次官を務めた。
青木 良雄(あおき よしお、1869年2月24日〈明治2年1… 青木 良雄(あおき よしお、1869年2月24日〈明治2年1月14日〉 - 没年不詳)は、日本の逓信・内務官僚。官選奈良県知事、山口県下関市長。族籍は山口県平民。正五位、勲四等。 周防国大島郡東安下庄 (現・山口県大島郡周防大島町)で青木東輔の二男として生まれる。 1895年7月、帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業。逓信省に入省し郵便為替貯金書記兼逓信属となり通信局に配属された。 逓信事務官、郵便為替貯金管理所為替課長、通信事務官、逓信大臣秘書官兼逓信事務官、新潟郵便電信局長などを歴任。1899年6月、内務省に転じ宮城県参事官に就任。以後、群馬県書記官、同県事務官・第一部長、三重県事務官・第一部長、大阪府事務官・第一部長兼第三部長、同府内務部長などを歴任。
蔵園 三四郎(くらその さんしろう、旧姓・瀬戸川、1869年… 蔵園 三四郎(くらその さんしろう、旧姓・瀬戸川、1869年2月24日〈明治2年1月14日〉 - 1939年〈昭和14年〉4月6日)は、日本の政治家、弁護士、会社役員。衆議院議員(鹿児島県第一区選出、当選6回)。族籍は鹿児島県平民。鉄道政務次官、鉄道会議議員、南洋拓殖設立委員、薩摩製糸取締役などを務めた。 薩摩国日置郡田布施村(のち鹿児島県日置郡金峰町、現在の南さつま市)出身。鹿児島県平民・瀬戸川利右衛門の長男で、1876年、先代次郎の養子となった。元より富裕ではない家庭であったため、少年時代より人生の苦を味わわされた。14歳の時小学校の先生となり其の報酬として地所三段五畝歩を贈られた。 17歳の時の1886年、大阪に出て、大阪開成中学館、三一学校で学んだ。
岡田 三郎助(おかだ さぶろうすけ、旧姓:石尾、1869年2… 岡田 三郎助(おかだ さぶろうすけ、旧姓:石尾、1869年2月22日 〈明治2年1月12日〉 - 1939年9月23日)は、明治から昭和にかけて活躍した日本の洋画家、版画家である。女性像を得意とし、日本的な感覚の洋画に秀作を残し、現存する作品のほぼ半分を風景画が占める。第1回文化勲章を受章。東京美術学校(現:東京藝術大学)教授。現在の佐賀県佐賀市八幡小路生まれ。族籍は東京府平民。 1869年、肥前佐賀藩の石尾家に生まれる。士族・石尾孝基の三男。幼名は芳三郎。1887年、岡田政蔵の養子になり、家督を相続する。二松学舍、成立学舎、東洋英和学校等に学ぶ。 父とともに幼くして上京し、麹町の鍋島侯邸内で暮らした。
堀沢 周安(ほりさわ ちかやす、1869年2月18日 - 1… 堀沢 周安(ほりさわ ちかやす、1869年2月18日 - 1941年4月14日)は日本の作詞家、教育者。名前は「しゅうあん」と音読される場合もある。号は鹿峡(ろくきょう)。 明治2年1月8日(西暦1869年2月18日)、尾張国丹羽郡善師野村(現在の愛知県犬山市)に生まれる。犬山城下稲置村の丹羽葉栗第一番高等小学校を卒業した後、尋常小学校の教員手伝いを経て1891年(明治24年)に上京、東京国語伝習所(大成高等学校の前身校)で上田萬年に師事して国文学を学んだ。 卒業後は長野県や北海道、香川県、愛媛県で旧制中学校や高等女学校の教員を務め、特に香川・愛媛の両県で校歌や市町村歌を多数作詞した。旧制三豊中学校(現在の香川県立観音寺第一高等学校)の校長職に在った1921年(大正10年)、大阪市が3代目市庁舎落成を記念して公募した「大阪市歌」で応募作が一等入選する。
青柳 信五郎(あおやぎ しんごろう、1869年2月17日(明… 青柳 信五郎(あおやぎ しんごろう、1869年2月17日(明治2年1月7日)- 1914年(大正3年)11月22日)は、明治期の地主、政治家。衆議院議員。 越後国三島郡河根川村(新潟県三島郡王寺川村大字河根川を経て現長岡市河根川町)で、大地主・農業、青柳逸庵の五男として生まれる。漢学を修めた。1884年(明治17年)に英学を修め大学予備門に進んだが、家庭の事情で勉学を断念し1890年(明治23年)に帰郷した。 大寺川村会議員、三島郡会議員、新潟県会議員などを務めた。自由主義を標榜し、立憲政友会が組織されると入党して新潟県支部幹事に就任し、党勢の拡大に尽力した。1903年(明治36年)3月、第8回衆議院議員総選挙に新潟県郡部から政友会所属で出馬して初当選。
土田 万助(萬助、つちだ まんすけ、1869年2月16日(明… 土田 万助(萬助、つちだ まんすけ、1869年2月16日(明治2年1月6日)- 1942年(昭和17年)6月15日)は、明治から昭和時代の大地主、篤農家、林業家、政治家、銀行家。貴族院多額納税者議員。 出羽国平鹿郡、のちの秋田県平鹿郡館合村(大雄村を経て現横手市)で土田吉治の長男として生まれ、土田彦七の養子となる。秋田中学校(現秋田県立秋田高等学校)を経て秋田師範学校に進学したが中退して帰郷した。1905年(明治38年)養父の隠居により家督を相続した。 1900年(明治33年)館合村農会を設立し、科学農法を導入し米の品質改良に尽力。1905年(明治38年)に計画された区画整理事業を推進し、1917年(大正6年)までに450ヘクタールが完成した。
菅原 通敬(すがわら みちよし、1869年2月16日(明治2… 菅原 通敬(すがわら みちよし、1869年2月16日(明治2年1月6日)– 1946年(昭和21年)12月18日)は、日本の大蔵官僚・政治家。大蔵次官、貴族院議員、枢密顧問官、錦鶏間祗候。 仙台藩士・郡長、菅原通実の長男として生まれる。仙台中学、第一高等学校を経て、1895年7月、帝国大学法科大学政治学科を卒業。大蔵省に入省し大蔵属となり、主税局に配属された。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。 1895年11月、横浜税関倉庫課長に就任。以後、沖縄県収税長、司税官・熊本税務管理局、税務監督官・主税局内国税課、函館税務管理局長、丸亀税務管理局長、神戸税務管理局長、神戸税務監督局長、大蔵書記官・主税局内国税課長、主税局長などを歴任。
塩井 雨江(しおい うこう、1869年2月13日(明治2年1… 塩井 雨江(しおい うこう、1869年2月13日(明治2年1月3日) - 1913年(大正2年)2月1日)は、日本の詩人、国文学者、翻訳家。本名・正男。 兵庫県豊岡市出身。豊岡藩士の子。1886年(明治19年)7月、第一高等中学校に入学。1892年(明治25年)7月、第一高等中学校文科を卒業。同月、東京帝国大学に入学。 1895年(明治28年)7月、東京帝国大学文科大学国文科卒。落合直文に師事。同年『帝国文学』の創刊とともに編集委員となり、擬古文で名を知られた。詩人として新体詩の普及に貢献する一方で、国文学者としても活躍。 1895年(明治28年)9月、立教学校(現・立教大学)の教授に就任し、国文国語を講じた。
堀江 正三郎(ほりえ しょうざぶろう、1869年2月12日(… 堀江 正三郎(ほりえ しょうざぶろう、1869年2月12日(明治2年1月2日) - 1934年(昭和9年)10月9日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 東京都出身。1889年、東京高等工業学校卒。京橋区議、東京府議、同市部会議員、同議長となる。千代田護謨、東京製靴、東京商船各(株)専務取締役、原安商会、秋葉商店、茨城鉄道、大谷石材鉄道、栗山電燈、稲敷電気各(株)取締役社長などを務める。 1932年の第18回衆議院議員総選挙において茨城3区(当時)から立憲政友会公認で立候補して当選した。在職中の1934年10月に死去した。
大池 鎌次郎(おおいけ かまじろう、1869年2月7日(明治… 大池 鎌次郎(おおいけ かまじろう、1869年2月7日(明治元年12月26日)- 1959年(昭和34年)5月1日)は、明治から昭和期の実業家・政治家。衆議院議員、愛知県会議長。 尾張国丹羽郡古知野村(愛知県丹羽郡古知野町を経て現江南市古知野町)で、代々酒造業を営む大池家当主・大池與平の息子として生まれる。 愛知県生糸製造同業組合組長、興益銀行取締役、愛知製絹社長、丹羽郡酒造家組合盛昌組組長、古知野銀行取締役などを務めた。1916年(大正5年)10月、名古屋株式取引所一般取引員となり力商店を開設した。 1893年(明治26年)以降、古知野町会議員、学務委員、学校組合議員、勧業諮問会員、丹羽郡会議員、同参事会員、同徴兵参事員、道路組合会議員などを務めた。
高嶺 朝教(たかみね ちょうきょう、1869年2月6日(尚泰… 高嶺 朝教(たかみね ちょうきょう、1869年2月6日(尚泰21年12月25日) - 1939年(昭和14年)1月12日)は、沖縄県出身の実業家、政治家。同県選出初の衆議院議員の一人。向氏高嶺家十一世。唐名は向承徳。 首里山川村(現那覇市首里山川町)で、高嶺家十世・高嶺朝長(唐名は向善継)の長男として生まれる。1882年に第1回県費留学生として上京し、学習院、慶應義塾で学ぶ。 1893年9月、尚順、太田朝敷らと協力して『琉球新報』を創刊。1900年、尚家の出資を元に沖縄銀行の設立に参画して頭取に就任。1909年、第1回沖縄県会議員選挙に出馬して当選し、初代県会議長に就任。同年6月28日から1912年5月20日まで務めた。
三宅 花圃(みやけ かほ、1869年2月4日(明治元年12月… 三宅 花圃(みやけ かほ、1869年2月4日(明治元年12月23日) - 1943年(昭和18年)7月18日)は、明治時代の小説家、歌人。著書『藪の鶯』は、明治以降に女性によって書かれた初の小説。 姓は田辺、本名は竜子。花圃と号す。本所番場町に住む旧幕臣で元老院議員の父・田辺太一、母・己巳子(きみこ)の長女に生まれる。戸籍では10月5日生まれ。竜子は8歳で麹町小学校に入学したが、その後、跡見花蹊の跡見女学校に学び、ついで桜井女学校、明治女学校と次々と学校を変ったのち、最後に、森有礼の理想によって女子の最高学府として設立された一つ橋の東京高等女学校(現・お茶の水女子大学)専修科に入学、1889年(明治22年)に卒業した。
各務 鎌吉(かがみ けんきち、1869年2月3日(明治元年1… 各務 鎌吉(かがみ けんきち、1869年2月3日(明治元年12月22日) - 1939年(昭和14年)5月27日)は、明治から昭和にかけての日本の実業家。三菱財閥系の東京海上火災保険などの社長・会長をはじめ、三菱財閥の要職を務めて三井財閥の池田成彬とともに内外より重んじられ貴族院議員を務めた。その業績は、「損害保険業界の父」といわれ、国際的にも世界保険殿堂に日本人として初めて選出。大正8年(1919年)ICC(国際商業会議所)の設立メンバー(アトランティック通商会議日本国代表)。 美濃国方県郡安食村(現在の岐阜県岐阜市)の農家の次男として生まれた。父省三は西南戦争勃発の1877年に駅逓寮(のちの郵便局)の下級官吏として勤務した関係で上京したが、鎌吉が中学生のころに辞めて京橋で葉茶屋を始めた。
大塚 保治(おおつか やすじ、明治元年12月20日〈1869… 大塚 保治(おおつか やすじ、明治元年12月20日〈1869年2月1日〉 - 1931年〈昭和6年〉3月2日)は、日本の美学者、東京帝国大学教授(文学博士)。日本における学術的な美学の創設者とされる。夏目漱石との交友でも知られる。旧姓・小屋。 明治元年(1869年)上野国勢多郡木瀬村大字笂井(現・群馬県前橋市笂井町)に、小屋宇平治(卯平治/宇兵衛)の次男として生まれる。兄・右兵衛は木瀬村長を務めた。笂井小学校を経て、1884年(明治17年)旧制前橋中学校(現・群馬県立前橋高等学校)を卒業。旧制第一高等学校を経て、1891年(明治24年)に帝国大学文科大学(現・東京大学文学部)哲学科を卒業。大学院で美学を専攻する。
杉野 耕三郎(すぎの こうざぶろう、明治元年12月19日(1… 杉野 耕三郎(すぎの こうざぶろう、明治元年12月19日(1869年1月31日) - 没年不詳)は、日本の逓信官僚。大連市長。 岐阜県養老郡高田町(現在の養老町)出身。1905年(明治38年)、東京帝国大学法科大学仏法科を卒業し、同年に高等文官試験に合格した。通信事務官、関東都督府在旅順軍郵便監査、郵便為替貯金管理所証券課長、北京郵便局長、神戸逓信管理局総務部長、神戸郵便局長、神戸税関事務官、長野郵便局長、名古屋郵便局長、逓信局書記官、臨時電信電話建設局事務官、熊本逓信局監理課長などを歴任し、1920年(大正9年)に関東庁逓信局長となった。 1924年(大正13年)に退官した後は大連市長を務め、1928年(昭和3年)に退任。
白神 源次郎(しらがみ げんじろう/しらが げんじろう、明治… 白神 源次郎(しらがみ げんじろう/しらが げんじろう、明治元年12月19日(1869年1月31日) - 明治27年(1894年)7月29日)は、日清戦争で戦死した日本陸軍兵士。備中国浅口郡水江村(現在の岡山県倉敷市)出身。 貧しい農家に生まれ、高瀬舟の人足などをして暮らしていた。1894年(明治27年)、広島の歩兵第21連隊に入営してラッパ手となった。兵役中、源次郎の力強い喇叭は評判が高く、21連隊の喇叭手と言えば白神の名がでるくらいであったが満期除隊した。日清戦争で予備役召集され、第五師団の一等卒として出征。7月29日、成歓の戦いにおいて武田秀山中佐率いる右翼隊第21連隊第9中隊に属し、戦闘中、水濠にはまり溺死した。
湯浅 一郎(ゆあさ いちろう、明治元年12月18日〈1869… 湯浅 一郎(ゆあさ いちろう、明治元年12月18日〈1869年1月30日〉 - 昭和6年〈1931年〉2月23日)は、明治・大正・昭和戦前期の日本の洋画家。政治家・湯浅治郎の長男。湯浅八郎は弟。上野国(現・群馬県安中市)出身。 明治元年12月18日(1869年1月30日)、安中で醤油味噌の醸造販売を行う「有田屋」の長男として生まれる。 同郷の新島襄が開校した同志社英学校(現・同志社大学)を明治20年(1887年)に卒業した後、山本芳翠の生巧館画塾で学び、山本芳翠が画塾の経営から身を引くと、それを譲り受けた黒田清輝の天真道場に学んだ。明治29年(1896年)東京美術学校(現・東京藝術大学)に西洋画科が設置されると黒田清輝の推薦を受け3年生に編入し明治31年(1898年)7月卒業。
高瀬 武次郎(たかせ たけじろう、明治元年12月16日〈18… 高瀬 武次郎(たかせ たけじろう、明治元年12月16日〈1869年1月28日〉 - 1950年〈昭和25年〉2月9日)は明治から昭和にかけての陽明学者。号は惺軒。従三位勲三等文学博士京都帝国大学名誉教授。 漢詩は鈴木豹軒、和歌は山本行範に学んだ。 明治元年12月16日(1869年1月28日)、讃岐国山田郡西十川村仲下所(香川県高松市十川西町107番地1)佐々木弥惣八(八十八、小五郎)の四男に生まれた。鰹宇神社で森口四郎に儒学を学ぶ。 京都府立第一中学校(京都府立洛北高等学校・附属中学校)、第四高等学校(金沢市)または第五高等学校(熊本市)を経て、明治31年(1898年)7月東京帝国大学文科大学漢学科を卒業し、同大学院に進学、明治38年(1905年)11月論文「先秦諸子哲学」により文学博士号を取得、明治39年(1906年)1月東京帝国大学講師、同時に哲学館、日蓮宗大学、佛教大学、早稲田大学、曹洞宗大学、明治大学講師も務めた。
佐々木 文一(ささき ぶんいち、明治元年12月15日〈186… 佐々木 文一(ささき ぶんいち、明治元年12月15日〈1869年1月27日〉 - 昭和5年〈1930年〉1月16日)は、衆議院議員(立憲政友会)、弁護士。 美濃国可児郡伏見村(岐阜県御嵩町から可児市)出身。1893年(明治26年)、日本法律学校(現在の日本大学)を卒業。弁護士試験に合格し、1894年(明治27年)から開業した。 1908年(明治41年)、第10回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。その後、4回の当選回数を数えた。 その他、神中鉄道株式会社・東北起業株式会社取締役や日本大学理事を務めた。
佐藤 沢(さとう さわ / たく、明治元年12月13日(18… 佐藤 沢(さとう さわ / たく、明治元年12月13日(1869年1月25日) - 昭和23年(1948年)7月25日)は、日本の医師。福島市長。 宮城県亘理郡亘理町出身。1891年(明治24年)、第二高等中学校医学部卒業。1896年(明治29年)、福島市に病院を開設し、1927年(昭和2年)に東京に移転した。1901年(明治34年)、福島町会議員となり、福島市会議員、同副議長、同議長を歴任した。 1929年(昭和4年)に福島市長に選出され、1945年(昭和20年)まで16年間務めた。その後、公職追放となり、追放中の1948年(昭和23年)死去。
白川 義則(しらかわ よしのり、1869年1月24日(明治元… 白川 義則(しらかわ よしのり、1869年1月24日(明治元年12月12日) - 1932年(昭和7年)5月26日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大将、栄典は勲一等功二級男爵。
岡倉 秋水(おかくら しゅうすい、明治元年12月11日(18… 岡倉 秋水(おかくら しゅうすい、明治元年12月11日(1869年1月23日) - 昭和25年(1950年)12月30日)は明治時代の日本画家。 越前国福井老松下町に生まれる。本名は覚平。岡倉天心は叔父にあたる。幼少の頃に上京、明治11年(1878年)4月に東京外国語学校仏蘭西学部に入学しフランス語を学んでいる。明治13年(1880年)に退学して画家を志し狩野芳崖に師事して絵の修業を始め、明治16年(1883年)5月からアーネスト・フェノロサについて美学を学ぶ。岡不崩、狩野忠信とともに鑑画会に少壮画家として参加、明治18年(1885年)の第1回鑑画会大会にはフェノロサの示唆を受け「文殊」、「羅漢」、「鷲」を出品すると「鷲」が四等褒状を受け、明治19年(1886年)4月の第2回鑑画会大会には「山水」を出品している。
中村 尚武(なかむら なおたけ、1869年1月22日(明治元… 中村 尚武(なかむら なおたけ、1869年1月22日(明治元年12月10日)- 1937年(昭和12年)5月11日)は、明治から昭和前期の酒造家、実業家、政治家。衆議院議員、千葉県山武郡鳴浜村長。 上総国山辺郡白幡村(千葉県山武郡鳴浜村、成東町を経て現山武市白幡)で、酒造業・石田藤蔵の長男として生まれた。1890年(明治23年)東京専門学校(現早稲田大学)法律科を卒業した。 1893年(明治26年)まで岡山地方裁判所書記を務めた。帰郷して酒造業、農業を営む。九十九里鉄道社長なども務めた。 1907年(明治40年)9月、千葉県会議員に選出され1911年(明治44年)9月まで1期在任し、同副議長も務めた。
市川 莚十郎(いちかわ えんじゅうろう、旧暦 明治元年12月… 市川 莚十郎(いちかわ えんじゅうろう、旧暦 明治元年12月10日 / グレゴリオ暦 1869年1月22日 - 1943年3月2日)は、日本の歌舞伎役者、俳優である。本名は生田 宮吉(いくた みやきち)。幼名及び旧芸名は市川 左伊次(いちかわ さいじ、市川 左い次とも)、市川 榮升(いちかわ えいしょう)。映画草創期に主演俳優として活躍した一人であり、5代目澤村四郎五郎との名コンビとして知られる。 1869年1月22日(旧暦 明治元年12月10日)、武蔵国(後の東京府東京市浅草馬道3丁目、現在の東京都台東区)に生まれる、とされている。1923年(大正12年)に発行された『現代俳優名鑑』(揚幕社)には、生年月日は「明治三年十二月十日」(グレゴリオ暦 1871年1月30日)、生地は東京市浅草区馬道町1丁目(現在の台東区浅草1丁目)である旨が記されている。
津田 毅一(つだ きいち、明治元年12月6日(1869年1月… 津田 毅一(つだ きいち、明治元年12月6日(1869年1月18日) - 昭和12年(1937年)10月5日)は、衆議院議員(新政会)、弁護士。 上総国山辺郡片貝村(現在の千葉県山武郡九十九里町)出身。東京専門学校(現在の早稲田大学)法律科を卒業し、1893年(明治26年)に判事検事登用試験に合格した。司法官試補を経て、1896年(明治29年)より、鹿児島区裁判所、姫路区裁判所、神戸区裁判所の判事を歴任した。 1899年(明治32年)、台湾総督府法院検察官に就任。1905年(明治38年)、台湾総督府で検察官制度廃止の議論が起きると、反対の議論を展開した。これが児玉源太郎台湾総督や後藤新平民政長官に認められ、桃園庁長に登用された。
田辺 又右衛門(たなべ またえもん、1869年1月15日 -… 田辺 又右衛門(たなべ またえもん、1869年1月15日 - 1946年1月20日)は日本の柔術家(不遷流4世・宗家)、柔道家(大日本武徳会範士)。社団法人兵庫県柔道整復師会初代会長。 1886年・翌87年の警視庁武術大会での大勝を機に日の出の勢いとなった新興の講道館柔道が各地に根付く柔術各派を圧倒し、在京の各派の多くが講道館の軍門に下る中、それでも一部の流派が講道館に挑み続けてその急先鋒と云われたのが不遷流出身の田辺であった。得意の寝技を以って講道館四天王の山下義韶や大豪・戸張滝三郎を破るなどし、富田常次郎、横山作次郎、西郷四郎など並居る講道館の重鎮たちが田辺との試合を避けてきた史実から、“講道館が最も恐れた男”として伝説的な存在となっている。
賀古 残夢(かこ ざんむ、1869年1月13日 - 1938… 賀古 残夢(かこ ざんむ、1869年1月13日 - 1938年3月21日)は、日本の映画監督、演出家、小説家。本名は賀古 保五郎(かこ やすごろう)。 日本映画界最古参の監督の一人。新派の座付作家を経て創設されたばかりの松竹蒲田撮影所に入社。新派調の悲劇映画を多く撮ったが、その一方で映画研究にも余念がなく、松竹映画の基礎固めに寄与した。門下生に牛原虚彦、池田義信らがいる。妻は女優の中川芳江、義妹に小松みどりがいる。 1869年1月13日(明治元年12月1日)、石川県金沢市に生まれる。ニコライ神学校卒。 若くして島崎藤村、馬場孤蝶らと雑誌『文学界』に参加し、新体詩や小説などを発表する。残夢はその時以来のペンネームである。
西原 吉治郎(にしはら きちじろう、1869年1月8日(明治… 西原 吉治郎(にしはら きちじろう、1869年1月8日(明治元年11月26日) - 1935年(昭和10年)12月27日)は、長門厚狭郡厚南村(現・山口県宇部市)出身の建築家。1897年(明治30年)から1917年(大正6年)までは福岡県営繕係や愛知県営繕係に奉職し、1918年(大正7年)に名古屋市初の個人建築事務所を開設して活動した。 父は西原英治郎、母はノエ。1869年1月8日(明治元年11月26日)、長門厚狭郡厚南村大字東須恵(現・山口県宇部市)に西原家の長男として生まれた。厚狭郡須恵小学校(現・宇部市立厚南小学校)を卒業し、吉敷郡山口町の山口黒城塾で学んだ後、大阪商業学校(現・大阪市立天王寺商業高等学校)に入学した。
寺野 精一(てらの せいいち、明治元年11月26日(1869… 寺野 精一(てらの せいいち、明治元年11月26日(1869年1月8日) - 大正12年(1923年)1月8日)は、日本の造船学者。 東京府出身。1890年(明治23年)、東京帝国大学工科大学を卒業。同大学院で商船構造学を研究。1892年(明治25年)より同助教授となり、1897年(明治30年)より造船学研究のためイギリスに留学した。1899年(明治32年)、帰国とともに教授に就任。1901年(明治34年)、工学博士の学位を得た。1918年から1920年まで工科大学長、次いで工学部長を、その後は航空研究所長を務めた。三菱造船所で建造した、主機に輸入タービンを搭載した義勇艦隊さくら丸、日本における貨客船のクラスにおいて初めて1万トンを超えた客船天洋丸・地洋丸の船体設計・建造に関与した.斯波忠三郎,大森房吉らと行った船体振動(機関回転数と振動数の関係に関わる)実験は世界的にも開拓的な業績と評価されている.1914年には日本鉄鋼協会の創立に発起人として参画し,1915年の創立後は理事/評議員として貢献した.造船共會(現在の日本船舶海洋工学会)理事を務め,1905年から新潟鉄工所の造船業務指導にあたった。
新納 忠之介(にいろ ちゅうのすけ、明治元年11月25日〈1… 新納 忠之介(にいろ ちゅうのすけ、明治元年11月25日〈1869年1月7日〉 - 1954年〈昭和29年〉4月13日)は、日本の彫刻家。号を古拙。2,631体の仏像等の多くの文化財を修理した。修理前後の写真や書面など詳細な記録を残しており現在の文化財修理の基礎を築いた。 岡倉天心は新納が仏像修復のパイオニアとしての方向性を決定づけた張本人であると言える。生涯にわたって岡倉を師と仰いで恋慕し続けてきた事は、新納に近しい人々の談で知られる所である。そうした運命の鍵となったのが明治34年(1901)から漸次開始された奈良の仏像修理事業である。奈良の修理に先んじて明治30年(1897)、東京美術学校が委託された奥州平泉・中尊寺金色堂の修理事業に新納は参加する。
高野 房太郎(たかの ふさたろう、1869年1月6日(明治元… 高野 房太郎(たかの ふさたろう、1869年1月6日(明治元年11月24日)-1904年3月12日)は明治期日本の労働組合運動の先駆者。長崎県長崎市出身。日本の社会科学者の一人。社会統計学者の高野岩三郎は弟。 長崎銀屋町で生まれる。幼名は久太郎で、父は仕立業を営んでいた。1877年に家族とともに東京に移り、父は現在の千代田区東神田付近の自宅兼店舗で旅館兼廻漕業の「長崎屋」を新たに始める。1879年8月に若くして父が死去し、長男の高野は形式上戸主となった。さらに、1881年2月に火災で「長崎屋」は焼失した。「長崎屋」は近辺に移転する形で営業を再開したが、この年に公立江東小学校の高等小学校(現・墨田区立両国小学校)を卒業した高野は、横浜に住む伯父の汽船問屋兼旅館に住み込みで働き、夜は横浜商法学校(現・横浜市立横浜商業高等学校)に通学した。
川村 精之(かわむら せいし、1869年1月2日(明治元年1… 川村 精之(かわむら せいし、1869年1月2日(明治元年11月20日) - 1927年(昭和2年)5月1日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 岩手県出身。1887年、岩手県尋常師範学校卒。小学校訓導、同校長、稗貫郡亀ヶ森村(のち大迫町→花巻市)長、稗貫郡会議員、岩手県会議員、稗貫郡産馬畜産組合長となる。 1917年の第13回衆議院議員総選挙において岩手県郡部から憲政会公認で立候補して当選する。1920年の第14回衆議院議員総選挙では岩手5区から立候補したが落選した。1927年死去。
樺山 資英(かばやま すけひで、明治元年11月19日(186… 樺山 資英(かばやま すけひで、明治元年11月19日(1869年1月1日) - 昭和16年(1941年)3月19日)は、日本の官僚、政治家。貴族院議員。 明治元年(1868年)薩摩国、後の鹿児島市西田町生まれ。樺山資雄の次男として生まれる。明治15年(1882年)4月に旧制東京府中学校(府立一中、現東京都立日比谷高等学校)へ入学し、明治17年(1884年)4月に旧制栃木県第一中学校(現栃木県立宇都宮高等学校)へ転校、明治19年(1886年)7月に栃木県中学校(栃木県第一中学校から改称)高等中学科卒業。
水田 南陽(みずた なんよう、1869年1月(明治2年) -… 水田 南陽(みずた なんよう、1869年1月(明治2年) - 1958年1月3日(昭和33年))は、日本の翻訳家、小説家、編集者、新聞記者、実業家。日本へシャーロック・ホームズを紹介した先駆者。別名は、南陽 外史(なんよう がいし)。本名は、水田 栄雄(みずた ひでお)。 1869年1月、淡路国薦江(兵庫県)生まれ。大阪・川口の英和学舎(立教大学の前身の一つ)を経て、1890年、立教大学卒業。 ミッション・スクール(現立教大学)在学中の1889年、東京能弁学会に加入し、機関誌『能弁』にシェイクスピア劇の翻訳を掲載。東京能弁学会の幹事である大岡育造に認められ、『能弁』の編集に参加した。 1890年頃、大岡育造が経営していた中央新聞に入社し、同紙にエミール・ガボリオの『オルシヴァルの犯罪』を『大探偵』と題して訳出したのを始め、『夢中の玉』『珊瑚の徽章』などを次々発表した。
加藤 幹雄(かとう みきお、明治2年(1869年) - 大正… 加藤 幹雄(かとう みきお、明治2年(1869年) - 大正5年(1916年))は、日本の弁護士。 明治2年、庄内藩に生まれる。旧制山形中学校、共立中学校、司法省正則法学校、第一高等中学校を経て、帝国大学法科大学に入学し、首席で卒業後、同大学院で国際法を研究し、弁護士となる。仙台で活躍した後、山形に戻り、鶴岡で生涯を送った。