今給黎 誠吾(いまきいれ せいご、1876年(明治9年)5月… 今給黎 誠吾(いまきいれ せいご、1876年(明治9年)5月30日 - 1953年(昭和28年)2月16日)は、明治から昭和時代前期の政治家。衆議院議員(1期)、第3代東南方村長・初代枕崎町長(現枕崎市)。枕崎市名誉市民。 鹿児島県出身。鹿児島県川辺郡鹿籠村西鹿籠(後に西鹿籠村、東南方村、枕崎町、枕崎市)の今給黎久清(児玉久清、初代東南方村長)の長男として生まれる。1878年(明治11年)家督を相続する。長谷場敦(衆議院議員、串木野町長)は実弟。 市立大阪商業学校に学ぶ。農業を営む傍ら、同県川辺郡東南方村長、鹿児島県会議員、同参事会員、枕崎町長を歴任する。1910年(明治43年)第3代東南方村長に就任してから初代枕崎町長を1947年(昭和22年)に退任するまで、連続36年8カ月在任した。
志田 順(しだ とし、1876年5月28日 - 1936年7… 志田 順(しだ とし、1876年5月28日 - 1936年7月19日)は、日本の地球科学者。理学博士(京都帝国大学)。 千葉県佐倉出身。1895年千葉県立千葉中学校卒業。1901年東京帝国大学理科大学物理学科卒業。1909年に第一高等学校教授を経て、京都帝国大学理工科大学に着任。理学博士(京都帝国大学)。京都帝国大学名誉教授。 地震のP波初動が地表面を押し引きする向きの地理的な分布、初動分布が四象限分布することを発見した。また、和達清夫よりも早く、深発地震の存在を指摘した(観測結果から存在を完全に証明したのは和達)。また、月と太陽の引力による地球の弾性変形(地球潮汐)に関する研究でも世界の先端を走り、「志田数」にその名を残した。
相良 歩(さがら あゆみ、1876年(明治9年)5月25日 … 相良 歩(さがら あゆみ、1876年(明治9年)5月25日 – 1955年(昭和30年)11月20日)は、金沢市長。 石川県士族相良豊の長男として生まれる。1899年(明治32年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業し、内務属となる。その後、高等文官試験に合格し、愛媛県参事官、長崎県参事官、群馬県事務官・第一部長兼第三部長、宮城県事務官、和歌山県内務部長、山形県内務部長を歴任した。1917年(大正6年)より樺太庁内務部長を務めた。 1922年(大正11年)、金沢市長に選出され、2期8年在任した。
吉田 平吾(よしだ へいご、1876年(明治9年)5月25日… 吉田 平吾(よしだ へいご、1876年(明治9年)5月25日 - 1942年(昭和17年)11月11日)は、日本の宮内官僚。台湾総督府官僚。 佐賀県出身。1903年(明治36年)、東京帝国大学法科大学を卒業し、高等文官試験に合格した。大蔵省に勤務した後、宮内省に入り、宮内書記官・帝室林野局主事、調度頭を務めた。その後、台湾総督府逓信局長に転じた。 退官後は共同信託株式会社常務取締役、八王子電気株式会社監査役、小谷商店監査役を務めた。
浜田 初次郎(はまだ はつじろう、1876年(明治9年)5月… 浜田 初次郎(はまだ はつじろう、1876年(明治9年)5月25日 - 1953年(昭和28年)4月29日)は、日本の発明家。日本で初めてオフセット輪転機を完成させた。 石川県江沼郡三谷村出身。1900年(明治33年)に上京し、芝浦製作所、中村鉄工所などに勤務し、1910年(明治43年)に自動紙差装置を発明した。1914年(大正3年)に日本最初のオフセット輪転機であるH型オフセット輪転機を完成させた。1917年(大正6年)に東京ギヤー製作所を設立し、自動車などの歯車の制作を開始した。1921年(大正10年)に浜田印刷機製造所(後のハマダ印刷機械)を設立し、オフセット印刷機、新聞輪転機を改良した。
石川 三四郎(いしかわ さんしろう、1876年5月23日 -… 石川 三四郎(いしかわ さんしろう、1876年5月23日 - 1956年11月28日)は、日本の社会運動家・アナキスト・作家。筆名の「旭山」も使用する。 1876年5月23日、埼玉県児玉郡山王堂村に、戸長であった五十嵐九十郎・シゲの三男として生まれる。生家は、利根川沿岸で江戸時代から船着き問屋を営み、名主も務めてきた家であった。父は三四郎が兵役にとられるのを嫌い、「一家の主人」には兵役免除が適用されるため、1880年に同村の石川半三郎の養子とした。 本庄小学校高等科卒業後、茂木虎次郎の勧めで1890年に上京し、茂木とその友人橋本義三らが住む家の玄関番として1年ほど住み込み、初めて社会主義や無政府主義などを知る。
山田 純三郎(やまだ じゅんざぶろう、1876年(明治9年)… 山田 純三郎(やまだ じゅんざぶろう、1876年(明治9年)5月18日 - 1960年(昭和35年)2月18日)は日本の革命運動家、大陸浪人。孫文の革命活動に参加した山田良政の実弟である。 青森県弘前生まれ。伯父・菊池九郎が創立した東奥義塾を卒業後、室蘭炭礦汽船を経て上京、青森リンゴ販売商となる。東亜同文会の清国派遣留学生選考に合格して上海に渡り、その後南京同文書院(後の東亜同文書院)に入学した。この頃、兄に孫文を紹介されている。卒業後は同院教員、日露戦争での通訳従軍を経て南満州鉄道に入社した。 兄の遺志を継いで孫文を支援し続け、第一次世界大戦中の第2次大隈内閣による対華21か条要求など日本政府と袁世凱政権の関係悪化による孫文の対日不信の中にあっても山田は信頼を受けた。
江崎 幸太郎(えさき こうたろう、1876年〈明治9年〉5月… 江崎 幸太郎(えさき こうたろう、1876年〈明治9年〉5月18日 - 1923年〈大正12年〉2月24日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 福岡県下妻郡、のちの八女郡水田村(現筑後市)出身。1895年(明治28年)東京専門学校政治科卒。福岡県会議員、同参事会員、福岡県地方森林会議員となる。 1920年(大正9年)第14回衆議院議員総選挙において福岡14区から立憲政友会公認で立候補して当選する。衆議院議員を1期務め、1923年、在職中に死去した。
杉浦 非水(すぎうら ひすい、1876年〈明治9年〉5月15… 杉浦 非水(すぎうら ひすい、1876年〈明治9年〉5月15日 - 1965年〈昭和40年〉8月18日)は、近代日本のグラフィックデザイナー。本名は杉浦朝武(すぎうら つとむ)。日本のグラフィックデザインの黎明期より活動し、商業美術の先駆けであり現代日本のグラフィックデザインの礎を築いた人物の一人として重要である。 1876年愛媛県松山市で、白石朝忠の長男として生まれる。のち杉浦祐明の養子になる。 当初は日本画家を志し、四条派の画家松浦巖暉に師事。1897年の上京後は川端玉章に師事し、東京美術学校日本画選科に入学。 この東京美術学校在学中に洋画家の黒田清輝より洋画や欧風図案の指導を受け、図案家へ転向する。
山本英輔(やまもと えいすけ、1876年(明治9年)5月15… 山本英輔(やまもと えいすけ、1876年(明治9年)5月15日 - 1962年(昭和37年)7月27日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍大将。鹿児島県出身。山本権兵衛元内閣総理大臣の甥(権兵衛の兄吉蔵の息子)にあたり、「封じ袴の大将」と呼ばれた。
田中 徳次郎(たなか とくじろう、1876年(明治9年)5月… 田中 徳次郎(たなか とくじろう、1876年(明治9年)5月15日 - 1933年(昭和8年)5月15日)は、明治末期から昭和初期にかけて活動した日本の実業家。主として電気事業に関与し、戦前期の大手電力会社東邦電力の専務などを務めた。愛知県出身。長男の田中精一は中部電力第4代社長。甥に洋画家の佐分眞がいる。 1876年(明治9年)5月15日、田中嘉七の次男として生まれる。生家は愛知県海西郡弥富町(現・弥富市)で酒造業を営んでいた。1895年(明治28年)慶應義塾理財科を卒業し、横浜の豪商若尾幾造の商店に入る。その後三井銀行に招かれて同社に転じ、1903年(明治36年)より大阪支店にて勤め、支店長代理を経て大阪支店次長まで昇進した。
古島 宮次郎(こじま みやじろう、1876年5月15日 - … 古島 宮次郎(こじま みやじろう、1876年5月15日 - 1946年1月19日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 東京都出身。1896年、東京築地工手学校卒。渡米し、サクラメントにおいて建築学を研究する。その後帰国し、土木建築請負業に従事する。深川区会議員、東京市会議員、市政調査会長となる。 1930年の第17回衆議院議員総選挙において東京4区から立憲民政党公認で立候補してトップ当選し、衆議院議員を1期務めた。1932年の第18回衆議院議員総選挙で落選した。1946年死去。
森 総之助/森 總之助(もり そうのすけ、1876年5月11… 森 総之助/森 總之助(もり そうのすけ、1876年5月11日-1953年4月23日)は、明治-昭和期の物理学者・教育者。 高知県香美郡野市村(現在の香南市)出身。1892年高知尋常中学校を卒業後、第三高等学校・第二高等学校を経て1899年に東京帝国大学理科大学を卒業する。 卒業後、新潟県立長岡中学校教諭になるが、1901年に第三高等学校教授に迎えられる。 「森総」の愛称を持ち、多くの物理学の著書を著したことから、その著書は”森総の物理学"の異名を得た。また、教育者としても湯川秀樹や朝永振一郎などを物理を教えて彼らに大きな影響を与えたとされる。 1935年、同じ高知県出身でもある前任の校長・溝淵進馬の急逝を受けて第三高等学校校長に就任する。
赤司 鷹一郎(あかし たかいちろう、1876年(明治9年)5… 赤司 鷹一郎(あかし たかいちろう、1876年(明治9年)5月10日 - 1933年(昭和8年)11月7日)は、文部官僚、教育者。錦鶏間祗候。 福島県令・検事の赤司欽一の長男として東京に生まれる。東京府立一中[要出典]、旧制第一高等学校を経て、1897年(明治30年)に東京帝国大学法科大学を卒業し、内務省に勤めた。翌年、文部省に移り参事官に任ぜられた。1902年(明治35年)から2年間、教育制度と行政法の研究のため欧米留学を命じられた。1911年(明治44年)、維新史料編纂会事務局長に就任した。1916年(大正5年)に普通学務局長に昇進し、1922年(大正11年)からは文部次官を務めた。その間、臨時教育行政調査会や教育評議会の委員となった。
本庄 繁(ほんじょう しげる、1876年〈明治9年〉5月10… 本庄 繁(ほんじょう しげる、1876年〈明治9年〉5月10日 - 1945年〈昭和20年〉11月20日)は、日本の陸軍軍人。第10師団長・関東軍司令官・侍従武官長を歴任し階級は陸軍大将正三位勲一等功一級男爵に至る。軍を退いてからは軍事保護院総裁や枢密顧問官を務める。 長男一雄は陸軍主計中佐。彼は父の死後、襲爵の手続きを行わなかった。娘は山口一太郎陸軍大尉に嫁ぐ。本庄は書を心得、剣華と号す。渾名は「たくわん石」。 1876年(明治9年)5月10日、本庄常右衛門と母ひろ子の長男として兵庫県多紀郡城南村真南条中村(現:丹波篠山市)に生まれる。生家は大地主で、本庄氏は多紀郡の有力国人酒井氏に仕えた名家であった。
齋藤 専吉(さいとう せんきち、明治9年4月16日(1876… 齋藤 専吉(さいとう せんきち、明治9年4月16日(1876年5月9日) - 昭和37年(1962年)3月13日)は、日本の教育者、文化人。渥美半島における文化交流に寄与した。 愛知県渥美郡畠村(現・田原市福江町)に間瀬伴蔵、里うの次男として生まれる。1883年(明治16年)、7歳のときに母の実家、畠村の齋藤重左衛門の養子となる。 1899年(明治32年)に清田尋常小学校(現・田原市立清田小学校)の教員となり、1920年(大正9年)には亀山尋常小学校(現・田原市立亀山小学校)校長として1927年(昭和2年)の退職まで務めた。その後は、福江町助役や愛知県民生委員、亀山保育園長を務めた。 専吉は、文化人としても活躍し、俳句、短歌、郷土史、考古学にも興味を持ち、地域の歴史や民族に関する研究を行った。
近松 秋江(ちかまつ しゅうこう、1876年〈明治9年〉5月… 近松 秋江(ちかまつ しゅうこう、1876年〈明治9年〉5月4日 - 1944年〈昭和19年〉4月23日)は、日本の小説家、評論家。岡山県生まれ。本名は徳田丑太郎。17歳のとき、浩司と改名。 露骨な愛欲生活の描写によって、代表的な私小説作家の一人とされる。 1876年(明治9年)、岡山県和気郡藤野村田ヶ原(現和気町藤野)に農家の四男として生まれる。少年時代は『雪中梅』(末広鉄腸)や『経国美談』(矢野龍渓)などの政治小説を好んだ。家は代々農業を営んでおり、1892年(明治25年)、岡山県尋常中学校(後の岡山一中、現在の岡山県立岡山朝日高等学校)に入学するが翌年退学。1894年、父に書置一通を残し上京。
稲田 三之助(いなだ さんのすけ、1876年(明治9年)5月… 稲田 三之助(いなだ さんのすけ、1876年(明治9年)5月2日 - 1952年(昭和27年)2月18日)は、日本の逓信官僚。早稲田大学教授。錦鶏間祗候。勲三等瑞宝章受章。 愛知県名古屋市出身。1900年(明治33年)、東京帝国大学工科大学電気工学科を卒業。通信技手、逓信技師、新潟郵便局工務課長、通信局工務課長などを経て、1925年(大正14年)に逓信省工務局長に就任した。 退官後、1932年(昭和7年)9月27日、錦鶏間祗候を仰せ付けられた。その他、早稲田大学理工学部教授を務めた。
和田 純(わだ じゅん、1876年〈明治9年〉5月2日 - … 和田 純(わだ じゅん、1876年〈明治9年〉5月2日 - 没年不詳)は、日本の判事、内務官僚、朝鮮総督府官僚。弁護士。 東京府東京市に津田仙の子として生まれ、和田謙吉の養子となった。1902年(明治35年)、早稲田大学邦語行政科を卒業。司法官試補、平壌控訴院判事、海州地方法院部長を務めた。その後、高知県警察部長、和歌山県警察部長、愛媛県内務部長、新潟県内務部長、慶尚南道知事を歴任した。 1928年(昭和3年)に退官した後は弁護士を開業し、海軍協会常務理事を務めた。
大角 岑生(おおすみ みねお、1876年〈明治9年〉5月1日… 大角 岑生(おおすみ みねお、1876年〈明治9年〉5月1日 - 1941年〈昭和16年〉2月5日)は、大正から昭和にかけての日本の海軍軍人、政治家、華族。海軍大将。男爵。位階および勲等、軍功は正二位・勲一等・功五級。 愛知県出身で本籍は高知県。自邸は東京市芝区高輪下町にあった。 1876年(明治9年)、愛知県中島郡三宅村(現:稲沢市平和町上三宅上屋敷)で、農業・大角藤平の長男として生まれた。幼名は親一。 1891年(明治24年)3月に中島郡高等小学校を卒業後、愛知一中(現:愛知県立旭丘高等学校)より攻玉社を経て海軍兵学校に入校。 1897年(明治30年)、24期を3位の成績で卒業。同期の次席は山本英輔大将。
井川 洗厓(いがわ せんがい、1876年5月1日‐1961年… 井川 洗厓(いがわ せんがい、1876年5月1日‐1961年10月13日)は明治時代の口絵画家、大正時代の版画家。本名:井川 常三郎。 稲野年恒及び富岡永洗の門人。本名は井川常三郎。1876年5月1日、資産家井川與兵衛の次男として岐阜県岐阜市上大久和町に生まれる。4歳の時に父と死別し母に育てられる。小学校卒業後漢学塾に通う傍ら家業である製紙原料商を手伝ったが、絵画に親しみ土佐派を槇田種麿に学ぶ。大阪に出て稲野年恒に師事した後、名古屋師団に入隊し威海衛守備隊に派遣される。ここでは風俗画を揮毫し侍従武官に献上したこともある。除隊後東京へ出て永洗に就き、師とともに『都新聞』に挿絵を描いているほか、多くの木版口絵を手がけている。
高木 敏雄(たかぎ としお、1876年5月 - 1922年1… 高木 敏雄(たかぎ としお、1876年5月 - 1922年12月18日)は、日本の神話学者・民俗学者・ドイツ文学者。 熊本県生まれ。1900年東京帝国大学文学部独文科卒業、第五高等学校教授、1912年東京高等師範学校教授、愛媛師範学校教授、1922年大阪外国語大学教授。1913-14年柳田国男と共に『郷土研究』を編集。欧米 (特にドイツ) の方法によった神話・伝説研究の体系化を試み、先駆的業績を残した。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
井上 匡四郎(いのうえ ただしろう、1876年〈明治9年〉4… 井上 匡四郎(いのうえ ただしろう、1876年〈明治9年〉4月30日 - 1959年〈昭和34年〉3月18日)は、明治後期から昭和前期の工学者、政治家。工学博士、貴族院子爵議員。 熊本県出身。熊本藩儒学者・岡松甕谷の四男として生まれ、井上毅の養嗣子となる。1895年(明治28年)4月5日、養父の死去に伴い子爵を襲爵。東京府尋常中学、第一高等学校を経て、1899年(明治32年)7月、東京帝国大学工科大学採鉱冶金学科を優等で卒業し銀時計を授与された。さらに大学院に進み、同時に工科大学講師に就任。1900年(明治33年)2月、東京帝大工科大学助教授に進んだ。1901年(明治34年)9月、採鉱冶金学研究のため留学し、ドイツ、アメリカで学んだ。
西川 光二郎(にしかわ こうじろう/みつじろう、1876年(… 西川 光二郎(にしかわ こうじろう/みつじろう、1876年(明治9年)4月29日 - 1940年(昭和15年)10月22日)は、日本の社会主義者。号は白熊。妻の西川文子は婦人運動家。 兵庫県津名郡佐野村(現在の淡路市津名町)の生まれ。札幌農学校に入学し新渡戸稲造の教え子となる。後に上京し東京専門学校(現在の早稲田大学)に転校し、1896年から1899年まで社会学を学ぶ。 その後、1901年(明治34年)に社会民主党の創設者となり、1903年(明治36年)に平民社、1906年(明治39年)に日本平民党(後の日本社会党)の創設にも携わった。また、同時期に足尾銅山事件や東京市内電車値上げ反対運動に関与したため、大杉栄と共に投獄刑を受けるといった不運があった。
喜田村 朔治(きたむら さくじ、1876年(明治9年)4月2… 喜田村 朔治(きたむら さくじ、1876年(明治9年)4月26日 - 1950年(昭和25年)9月23日)は、日本の医師、医学者。医学博士。 南満洲鉄道大連医院元眼科医長兼南満医学堂元教授。喜田村眼科病院元院長。義父は日本電気(NEC)創業者の岩垂邦彦。孫は弁護士(ミネルバ法律事務所所属)の喜田村洋一。族籍は福岡県士族。 福岡県築上郡千束村田淵、世々庄屋の西村敬治(福岡県士族)の次男として生まれる。第五高等学校在学中に、当時豊津中学校(現:福岡県立育徳館中学校・高等学校)教師であった喜田村寛治の養子となった。喜田村家は、小倉藩士の家柄で福岡県京都郡豊津村豊津に住み、養父寛治は工部大学校採鉱冶金科を卒業したが、病気のため郷里の豊津中学校の教師となった。
木原 清(きはら きよし、1876年(明治9年)4月25日 … 木原 清(きはら きよし、1876年(明治9年)4月25日 - 1940年(昭和15年)9月23日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。
寺田 市正(てらだ いちまさ、1876年〈明治9年〉4月25… 寺田 市正(てらだ いちまさ、1876年〈明治9年〉4月25日 - 1958年〈昭和33年〉8月21日)は、日本の衆議院議員(政友本党→立憲民政党→立憲政友会)、拓務政務次官。川内市長。 鹿児島県高城郡水引郷五代村(現在の薩摩川内市五代町)に寺田宗七の長男として生まれた。小学校教師を務めた後、上京して明治法律学校(現在の明治大学)で学び、1900年(明治33年)に卒業した。卒業後の2年間、明治法律学校の舎監を務め、やがて時事新報の記者となった。1915年(大正4年)、時事新報社を退社し、自由通信社の主幹となった。 1924年(大正13年)の第15回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。以後、連続当選回数は7回を数えた。
小川 悌(おがわ よし、1876年(明治9年)4月17日 -… 小川 悌(おがわ よし、1876年(明治9年)4月17日 - 没年不詳)は、日本の裁判官。 千葉県山武郡東金町(現在の東金市)出身。1903年(明治36年)、東京帝国大学法科大学を卒業し、司法官試補となる。名古屋地方裁判所判事、東京区裁判所判事、東京地方裁判所判事、東京地方裁判所予審掛、東京地方裁判所部長、東京控訴院判事、宇都宮地方裁判所所長を歴任した。 1920年(大正9年)、朝鮮総督府裁判所判事となり、高等法院判事、大邱地方法院長、高等法院判事、同部長、京城覆審法院長を歴任し、1934年(昭和9年)に高等法院長に就任した。
井上 秀二(いのうえ ひでじ、1876年(明治9年)4月16… 井上 秀二(いのうえ ひでじ、1876年(明治9年)4月16日 - 1943年(昭和18年)4月4日)は、日本の土木技術者。 井上成美海軍大将の実兄。井上秀二の家族関係については、井上成美#親族を参照。 宮城県仙台に生まれる。宮城県尋常師範学校附属小学校、宮城県尋常中学校、第二高等学校を経て京都帝国大学理工科大学土木工学科に進み、1900年(明治33年)に卒業(京都帝大土木工学科 第1期生)。成績優秀で恩賜の銀時計を受けた。 京都帝大を卒業した直後に母校の助教授を短期間務めた後は、教職・研究職に就かず、内務省などの中央官庁の官吏にもならず、「求められればどこにでも行く」フリーランス的な土木技術者として生涯を送った。
有吉 明(ありよし あきら、1876年〈明治9年〉4月15日… 有吉 明(ありよし あきら、1876年〈明治9年〉4月15日 - 1937年〈昭和12年〉6月25日)は、明治、大正、昭和前期の外交官。国際連盟設立メンバー。上海総領事、スイス公使、ブラジル大使、中華民国公使を経て、大使館昇格に伴い初代駐中華民国大使となる。対中国外交に尽力、軍部の中国侵略に抵抗。 京都府丹後国与謝郡宮津町(現:宮津市)出身。 父は宮津藩藩士・京都留守居役・郡長の有吉三七。 1899年(明治32年)に東京高等商業学校(一橋大学の前身)を卒業し、外務省入省。駐ブラジル大使として日本人のアマゾナス州進出を支援。 国際連盟設立メンバーの1人で、第2回から第4回までの国際連盟総会で日本代表を務めた。
15代 榎本 次郎右衛門(えのもと じろううえもん、1876… 15代 榎本 次郎右衛門(えのもと じろううえもん、1876年(明治9年)4月13日 - 1926年(大正15年)5月11日)は、明治時代後期から大正時代の政治家。衆議院議員(1期)。 先代榎本次郎右衛門の子として千葉県相馬郡布佐村(東葛飾郡布佐町、我孫子町を経て現在の我孫子市)に生まれる。小学校、中学校を経て、東京法学院を卒業し、家業の農業を手伝う。布佐町会議員を経て、同町長を4年務め、東葛飾郡会議員、千葉県会議員などを歴任する。ほか、会社、銀行の重役を務めた。 1915年(大正4年)3月の第12回衆議院議員総選挙では千葉県郡部から憲政会所属で出馬し当選。1期務めた。
高野 辰之(たかの たつゆき、1876年〈明治9年〉4月13… 高野 辰之(たかの たつゆき、1876年〈明治9年〉4月13日 - 1947年〈昭和22年〉1月25日)は、日本の国文学者、作詞家。文学博士(東京帝国大学・論文博士・1925年)(学位論文「日本歌謡史」)。号は斑山(はんざん)。 1876年、長野県水内郡永江村(現・中野市永江)の豪農の家に生まれた。1887年、豊津学校永江支校小学中等科を卒業。1890年3月、下水内高等小学校高等小学科を卒業。 1890年5月、永田尋常小学校授業生(代用教員)となった。しかし3年後の1893年、長野県尋常師範学校に入学。1897年3月には同師範学校を卒業した。1897年4月からは下水内高等小学校訓導となった。1898年6月、国語科の師範学校・尋常中学校・高等女学校教員免許状を取得。
山岡 萬之助(やまおか まんのすけ、明治9年〈1876年〉4… 山岡 萬之助(やまおか まんのすけ、明治9年〈1876年〉4月12日 - 昭和43年〈1968年〉6月22日)は、日本の司法・内務官僚、法学者、哲学者。ライプツィヒ大学法学博士、日本大学法学博士。日本大学第3代総長・初代総裁。貴族院議員。 明治9年(1876年)4月12日、長野県諏訪郡湊村(現在の岡谷市)の農家(中農)小坂鶴吉の二男に生まれる。生後すぐ母方の山岡家に籍だけ入った。湊村尋常高等小学校を卒業後、農業の手伝いや製糸工場で働くかたわら、小学校時代の先生に漢学の教えを受けた。 明治29年(1896年)に上京し、東京簿記専修学校に入学。翌明治30年(1897年)、日本法律学校(後の日本大学)入学。
松本 洪(まつもと こう、明治9年(1876年)4月12日 … 松本 洪(まつもと こう、明治9年(1876年)4月12日 - 昭和40年(1965年)2月25日)は、大分県宇佐郡四日市村(現在の宇佐市四日市 (宇佐市))出身の漢学者。如石と号する。 早稲田中学校、豊山中学校教諭、国士舘専門学校、早稲田大学、大東文化学院(大東文化大学の母胎)、東洋文化研究所、東京藝術大学に教鞭を執る。無窮會理事(終戦後)、東洋文化學會評議員・幹事、東洋文化研究所講師・所長。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
曾我廼家 五九郎(そがのや ごくろう、1876年4月12日 … 曾我廼家 五九郎(そがのや ごくろう、1876年4月12日 - 1940年7月7日)は、日本の喜劇俳優。本名は武智 故平(たけち こへい)。大正時代に浅草の「喜劇王」として知られた。 武智鉄二の父とは従兄弟どうし。またフランキー堺は五九郎の甥にあたる。 1876年(明治9年)4月12日、徳島県麻植郡鴨島町に武智亀之助と母ミヤの長男として生まれる。祖父は武智友弥。弟に民次がいる。 徳島中学校卒業後、自由民権運動に感化され数え年16歳のときに東京に行き、板垣退助邸の玄関番となる。その折り星亨邸の玄関番をしていた横田千之助と懇意になる。 その後壮士として弾圧を受け、大阪の中江兆民の許に身を寄せる。その頃、道頓堀の浪花座で公演をしていた角籐定憲一座に入り「雪中梅」で初舞台を踏む。
浦川 和三郎(うらかわ わさぶろう、1876年4月6日 - … 浦川 和三郎(うらかわ わさぶろう、1876年4月6日 - 1955年11月24日)は、カトリック教会の司教である。洗礼名は「ミカエル」。1942年にカトリック仙台司教区初の邦人司教となった。また、キリシタン史研究家でもあり、多くの著作・訳書を手掛けた。 1876年(明治9年)4月6日に長崎県長崎市坂本町で生まれた。母の浦川モリは、浦上四番崩れによる明治政府のキリシタン弾圧により、鹿児島へ流刑された経験があった。 1906年(明治39年)7月1日に長崎で司祭に叙階された。長崎の大浦天主堂主任司祭を経て 1918年(大正7年)に長崎公教神学校教授専任となり、1928年(昭和3年)には校長に任ぜられた。
栗島 狭衣(くりしま さごろも、1876年4月5日 - 19… 栗島 狭衣(くりしま さごろも、1876年4月5日 - 1945年11月6日)は、日本の俳優、新聞記者、劇作家、脚本家である。本名は栗島 山之助(くりしま さんのすけ)、出生名は川村 山之助(かわむら さんのすけ)である。 1876年(明治9年)4月5日、東京府東京市日本橋区蛎殻町(後の東京都中央区日本橋蛎殻町)に力士の綾瀬川山左衛門(本名 川村藤次郎)の長男「川村山之助」として生まれる。当時の綾瀬川は割烹旅館を営んでいたが、出身地の大阪に帰り、長男の誕生から1年に満たない1877年(明治10年)3月8日に死去した。 1898年(明治31年)、旧制・國學院(後の國學院大學)国文科を卒業、東京朝日新聞社に入社する。
堀江 専一郎(ほりえ せんいちろう、1876年4月5日 - … 堀江 専一郎(ほりえ せんいちろう、1876年4月5日 - 1939年6月25日)は、日本の弁護士。第一東京弁護士会会長(第5代、1933年-1934年)。
前田 兼宝(まえだ けんほう、1876年(明治9年)4月3日… 前田 兼宝(まえだ けんほう、1876年(明治9年)4月3日 - 1937年(昭和12年)5月9日)は、日本の衆議院議員(政友本党→立憲民政党)、内務官僚。 鹿児島県川辺郡加世田村(現在の南さつま市)出身。1906年(明治39年)、東京帝国大学法科大学を卒業。高等文官試験に合格し、警視庁警視、京橋警察署長、本郷警察署長、本富士警察署長を歴任。さらに宮崎県警察部長、宮崎県内務部長を務めた。 1924年(大正13年)、第15回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。 その後、鹿児島銀行取締役、鹿児島県農工銀行監査役を務めた。
斎藤 太兵衛(さいとう たへえ、1876年〈明治9年〉4月1… 斎藤 太兵衛(さいとう たへえ、1876年〈明治9年〉4月1日 - 1961年〈昭和36年〉12月12日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員(3期)。幼名・善次郎。 栃木県、現在の宇都宮市で、斎藤太平の長男として生まれた。1901年、国民英学会で学ぶ。宇都宮市議、同参事会員、同議長、宇都宮商業会議所特別議員、同副会頭となる。宇陽幼稚園長、下野三楽園理事、下野興業銀行頭取、下野中央銀行、下野貯蓄銀行、下野新聞、宇都宮軌道各(株)取締役、宇都宮瓦斯(株)社長、栃木県農工銀行監査役となる。 1917年の第13回衆議院議員総選挙において宇都宮市部から立候補したが落選。1920年の第14回衆議院議員総選挙では栃木1区から憲政会公認で立候補したが48票差で落選。
勝野 重吉(かつの しげよし、1876年〈明治9年〉4月 -… 勝野 重吉(かつの しげよし、1876年〈明治9年〉4月 - 没年不明)は、大正から昭和時代前期の政治家。福岡県直方市長。 福岡県出身。1899年(明治32年)福岡県師範学校(福岡教育大学の母体のひとつ)を卒業する。1915年(大正4年)福岡県糸島郡視学に任じ、ついで同県嘉穂郡視学、福岡県属、同県遠賀郡長、地方事務官などを歴任する。 1927年(昭和2年)推挙され直方町長に就任し、1931年(昭和6年)2月5日、直方市長となり、1941年(昭和16年)まで3期務めた。
小川 三紀(おがわ みのり、1876年(明治9年)3月30日… 小川 三紀(おがわ みのり、1876年(明治9年)3月30日 - 1908年(明治41年)10月31日)は、日本の鳥類学者。日本人で最初に鳥類に専念した動物学者の一人。飯島魁東京帝国大学教授を助けて[要出典]剥製標本や鳥卵標本を集め、日本鳥類学の礎を築く。南西諸島におけるルリカケスの再発見やオオトラツグミの発見などの業績がある。 1876年(明治9年)、静岡藩医小川清齋の四男として誕生。1892年(明治25年)、静岡市立高等小学校卒業。中学校2年生頃より昆虫類の採集を始め、旧制中学4年で処女論文を発表。1896年(明治29年)、静岡県尋常中学校卒業。1901年(明治34年)年、第一高等学校卒業。
國見山 悦吉(くにみやま えつきち、1876年(明治9年)3… 國見山 悦吉(くにみやま えつきち、1876年(明治9年)3月28日 - 1924年(大正13年)9月25日)は、高知県土佐郡(現:高知県高知市)出身で友綱部屋に所属した大相撲力士。本名は松下 悦吉(まつした えいきち)で、一時期は河野 悦吉(こうの えいきち)。最高位は東大関。 1876年3月28日に高知県土佐郡(現:高知県高知市)で生まれる。愛媛県の炭鉱へ出稼ぎに行った際にその巨体と怪力を知った板垣退助から勧誘され、 友綱部屋へ入門、1894年1月場所で「鏡川」の四股名で初土俵を踏む。1899年1月場所で新十両昇進、1900年1月場所で新入幕を果たした。その後も順調に出世していき、1901年5月場所では7勝2敗の好成績で小結昇進、1903年1月場所では関脇で8勝1敗の好成績を残し、1905年1月場所ではついに9戦全勝(当時の幕内力士は千秋楽を休場する慣習があった)の最優秀成績を挙げ、荒岩亀之助と共に大関へ昇進した。
玉水 弘(たまみず ひろし、1876年(明治年9年)3月25… 玉水 弘(たまみず ひろし、1876年(明治年9年)3月25日 - 没年不詳)は、日本の技術者、実業家。関西ペイントの創業者。旧姓・花山。 三重県員弁郡中上村(久米村中上、東員村を経て現東員町中上)の花山家に生まれる。のち兵庫県の玉水庄太郎の養子となる。 第三高等学校を経て、1904年(明治37年)東京帝国大学工科大学応用化学科を卒業。先発メーカーの日本ペイント、東亜ペイントを経て独立。1917年(大正6年)に関西ペイント工業所を創業した。研究施設や工場拡大のための資金調達に窮し、岩井勝次郎を紹介され1918年、岩井商店の援助により関西ペイントを設立する事となる。 援助の代償として経営権を岩井商店に譲渡。
小牧 自然(こまき じねん、1876年(明治9年)3月22日… 小牧 自然(こまき じねん、1876年(明治9年)3月22日 - 1939年(昭和14年)6月7日)は、日本の海軍軍人、政治家。最終階級は海軍少将。 高知県安芸郡土居村(現・安芸市)に生まれる。海南中学校を経て、1897年(明治30年)12月、海軍兵学校(25期)を卒業し、1899年(明治32年)2月、海軍少尉任官。日露戦争には「常磐」分隊長として出征し、さらに「平壌丸」「厳島」の各航海長を歴任した。1909年(明治42年)5月、海軍大学校(甲種6期)を卒業し「吾妻」航海長に就任。 1909年10月、「香取」航海長心得となり、呉鎮守府参謀兼望楼監督官、海軍省軍務局局員兼教育本部員(二部)、「出雲」副長心得を歴任。
押川 春浪(おしかわ しゅんろう、1876年3月21日 - … 押川 春浪(おしかわ しゅんろう、1876年3月21日 - 1914年11月16日)は、日本の作家(冒険小説、SF、武侠小説)、編集者。愛媛県松山市出身、本名は方存(まさあり)。冒険小説のジャンルを定着させ、雑誌『冒険世界』『武侠世界』で主筆を務めて多くの後進の作家、画家育成に尽力した。 松山市生まれ。父は牧師でNHK朝の連続テレビ小説『はね駒』の主人公の恩師・松浪毅のモデルとなった押川方義。弟押川清は日本のプロ野球創始者として知られる。 生後8か月で、新潟で伝道を行っていた父に母とともに呼び寄せられる。1878年(明治11年)、1879年(明治12年)と続いた新潟大火のため、方義は伝道地を仙台に移し、同行。
木下 十四三(きのした としさぶ、1876年(明治9年)3月… 木下 十四三(きのした としさぶ、1876年(明治9年)3月20日 - 1942年(昭和17年)1月31日)は、明治末から昭和前期の農業経営者、政治家。衆議院議員、佐賀県三養基郡北茂安村長。 佐賀県養父郡東尾村(養父郡北茂安村、三養基郡北茂安村大字東尾、北茂安町を経て現みやき町東尾)で、農業・木下七三、ナミの二男として生まれる。1897年(明治30年)東京法学院(英吉利法律学校後身、現中央大学)を卒業した。農業を営む。 北茂安村長、所得税調査委員、三養基郡農会長、佐賀県農会副会長、佐賀県会議員などを務めた。 1920年(大正9年)5月の第14回衆議院議員総選挙に佐賀県第3区から立憲政友会公認で出馬して当選し、政友本党に所属し衆議院議員に1期在任した。
伊波 普猷(いは ふゆう、1876年(明治9年)3月15日 … 伊波 普猷(いは ふゆう、1876年(明治9年)3月15日 - 1947年(昭和22年)8月13日)は、日本の民俗学者・言語学者。沖縄学の父と言われている。沖縄県那覇市出身。 琉球藩那覇西村(現在の那覇市西)に父普済・母マツルの長男として生まれる。1903年(明治36年)、第三高等学校を卒業した後、東京帝国大学で言語学を専攻する。帝大では、橋本進吉、小倉進平、金田一京助らの学友とともに、新村出の講義を聴講した。また、東京帝国大学では上田萬年の講義を聴講していた鳥居龍蔵(同大学助手)と出会い親交を深めた。1904年(明治37年)、沖縄に帰省する伊波は鳥居を沖縄での人類学調査に誘い、鳥居は伊波の実家に数日滞在して調査を行った。
2代平出 喜三郎(ひらで きさぶろう、旧姓・久保、幼名・彦十… 2代平出 喜三郎(ひらで きさぶろう、旧姓・久保、幼名・彦十郎、1876年(明治9年)3月15日 - 1931年(昭和6年)10月13日)は、日本の政治家(衆議院議員)、漁業家、資産家、実業家。東京屑物市場社長。従六位勲四等。族籍は石川県平民。 石川県江沼郡橋立村(現加賀市)で生まれる。石川士族・久保彦助の四男。久保彦助の弟。父の友人・先代平出喜三郎の養子となる。1898年、慶應義塾高等科を卒業し、函館に戻った。1908年、先代の死去により家督を相続し2代喜三郎を襲名。海運業、物産商、代弁業、問屋業、鉱山業を営んだ。北洋漁業の母船式沖取り漁業を推進した。 また、函館区会議員、同市会議員、函館図書館長、函館新聞社主、函館競馬倶楽部会長、函館塩販売所社長、函館銀行取締役、函館商業会議所会頭、東京屑物市場社長、函館林産取締役などを歴任した。
松田 道一(まつだ みちかず、1876年〈明治9年〉3月14… 松田 道一(まつだ みちかず、1876年〈明治9年〉3月14日 - 1946年〈昭和21年〉1月20日)は、日本の外交官。駐イタリア大使、駐オランダ公使。学位は、法学博士。 判事・弁護士の松田道夫の長男として東京府に生まれる。1900年(明治33年)に東京帝国大学法科大学法律科を卒業し、翌年に高等文官試験に合格し、また判事検事登用試験にも合格して検事となった。1902年(明治35年)、外務省参事官に転じ、翻訳官を経て、ベルギー公使館三等書記官を務めた。1913年(大正2年)、外務省政務局第二課長となり、通商局長事務取扱、条約局長、国際連盟帝国事務局長・フランス大使館参事官を歴任した。1925年(大正14年)、駐オランダ公使となり、翌年に駐イタリア大使に転じた。