池田 峯雄(いけだ みねお、1911年8月30日 - 199… 池田 峯雄(いけだ みねお、1911年8月30日 - 1998年12月3日)は、日本の農民運動家、政治家。衆議院議員(日本共産党公認、1期)を務めた。日本農民組合 (統一派)中央常任委員及び同常総同盟委員長などを歴任。 茨城県筑波郡作岡村安食(現在のつくば市安食)の小地主の家に生まれる。茨城県立下妻中学校(現在の茨城県立下妻第一高等学校)3年の時に、父の経営する会社が倒産し、新治郡土浦町(現在の土浦市)へ移住。同地の茨城県立土浦中学校(現在の茨城県立土浦第一高等学校)を卒業後、結城郡宗道村(現在の下妻市)で代用教員に就く。この間、土浦中学校同級生の小林孝祐を介して文化サークルに参加、加藤四海ら全日本農民組合連合会(全農)関係者と親交を深めた。
進藤 三郎(しんどう さぶろう、1911年(明治44年)8月… 進藤 三郎(しんどう さぶろう、1911年(明治44年)8月28日 - 2000年(平成12年)2月2日)は、日本の海軍軍人。海兵60期。最終階級は海軍少佐。 1911年(明治44年)8月28日、神奈川県横須賀市で、海軍機関大佐であった進藤登三郎の3男として生まれる。父親の転勤に伴い小学校一年から広島県呉市で育った。父が1921年(大正10年)新設された広海軍工廠の総務部長に就任したため、飛行機が身近なものとなる。広島県立第一中学校(現広島国泰寺高校)4年のとき、町でヤクザと喧嘩して相手に怪我を負わせて退校処分となり崇徳中学に編入、1929年(昭和4年)、海軍兵学校60期生として入学した。 ロサンゼルスへの遠洋航海後、「名取」・「日向」・「伊4」・「呂66」の乗組員を経て、1934年(昭和9年)11月に第26期飛行学生となった。
角谷 静夫(かくたに しずお、1911年(明治44年)8月2… 角谷 静夫(かくたに しずお、1911年(明治44年)8月28日 - 2004年(平成16年)8月17日 )は、日本の数学者。イェール大学名誉教授。娘は日系アメリカ人文芸批評家のミチコ・カクタニ(角谷美智子)。関数解析や確率論の研究で著名。 大阪市生まれ。旧制甲南高等学校文科を経て、1934年東北帝国大学理学部数学科卒業。大阪帝国大学助教授、1940年、アメリカのプリンストン高等研究所に留学。太平洋戦争中も同研究所で研究を続けるが、1942年に母親の意志を受けて帰国。1948年、再びプリンストン高等研究所に戻る。1949年イェール大学准教授、1952年同教授。1982年、定年退職。 コネティカット州ニューヘブンにて死去。
祇園寺 信彦(ぎおんじ のぶひこ、1911年8月27日 - … 祇園寺 信彦(ぎおんじ のぶひこ、1911年8月27日 - 1998年11月23日)は日本の西洋史学者。 宮城県大崎市古川(旧・古川市)生まれ。宮城県古川中学校(現:宮城県古川高等学校)卒業、第二高等学校(独法)卒業、東北帝国大学法文学部西洋史学科卒業。1962年「古ローマの社会と政治」で東北大学文学博士。東北大学文学部助教授、教授。1975年定年退官、名誉教授、東京国際大学教授。 専門は西洋古代史で、主としたのは、古代ローマにおける政治権力のあり方とその歴史的変遷、さらにその過程において個人が織り成した役割の問題の解明であった。研究は大類伸、原随園の学問的伝統を継承しつつ、マックス・ヴェーバーの歴史学方法論をよりどころとし、西洋古代史の研究と後進の指導に当たり、古代ローマ史研究において開拓者的な役割を果たした。
海老池 俊治(えびいけ しゅんじ、1911年8月27日 - … 海老池 俊治(えびいけ しゅんじ、1911年8月27日 - 1968年7月3日)は、英文学者、翻訳家。 京都市生まれ。1931年東京帝国大学文学部美学美術史卒、34年同英文科卒。女学校教師などをしながら、英文学で斎藤勇に師事し、また横光利一に師事して創作も目指した。戦後1951年から68年まで一橋大学社会学部教授。
西村 数(にしむら かず、1911年8月24日 - 2006… 西村 数(にしむら かず、1911年8月24日 - 2006年7月1日)は、日本の俳人。「ホトトギス」同人。本名は西村 一意(かずおき)。教育者でもあり、鹿児島県の公立高等学校の教頭や校長等を歴任。 鹿児島県谷山村麓(現・鹿児島市谷山中央)にて、教育者の藤太郎とトミの嫡子として生まれ、少年期は清渓学舎で郷中教育を受ける。1929年(昭和4年)に鹿児島県立第二鹿児島中学校 (旧制)を卒業した後、神宮皇學館で学び卒業。 1929年(昭和4年)に17歳で句作を始め、1932年(昭和7年)に「ホトトギス」九月号で初入選。数年後、関西ホトトギス大会で虚子特選を得て、虚子を生涯師と仰ぐ。1935年(昭和10年)、佐賀県伊万里町で教員となり、当地で森永杉洞に師事。
澤柳 大五郎(沢柳 大五郎、さわやなぎ だいごろう、1911… 澤柳 大五郎(沢柳 大五郎、さわやなぎ だいごろう、1911年8月23日 - 1995年11月3日)は、日本の美術史家。東京教育大学名誉教授。 東京生まれ。父は明治・大正期の教育官僚、教育者の澤柳政太郎。 西洋美術研究を開拓した児島喜久雄(東北帝国大学・東京帝国大学教授)の弟子の一人で後継者。 木下杢太郎(太田正雄)の研究・著作画集の編集を行った。新書などを除き歴史的仮名遣いで著訳書を刊行した。 弟子・同僚らによる『アガルマ 澤柳先生古稀記念美術史論文集』(同編集委員会編、同朋舎出版、1982年)がある。 (古田光、藤田健治、木田献一、屋形禎亮、澤柳大五郎、廣川洋一、中野幸次、秀村欣二、兼岩正夫、清水富雄、裾分一弘、下村寅太郎、西沢龍生、永井博による共編著) (澤柳大五郎、関根正雄、村治能就、浅野順一、中野幸次、秀村欣二、兼岩正夫、清水富雄、渡辺金一、下村寅太郎、西沢龍生、藤田健治、永井博による共編著)
林 文雄(はやし ふみお、1911年8月23日 - 2001… 林 文雄(はやし ふみお、1911年8月23日 - 2001年)は、日本の美術評論家。 愛知県出身。東京帝国大学卒業。戦後、日本美術会に所属、共産主義の立場から美術評論を書き、1946年から1948年にかけて土方定一らとの間でいわゆる「リアリズム論争」を展開した。 デジタル版 日本人名大辞典+Plus『林文雄』 - コトバンク
権 逸(クォン・イル、ごん いつ、朝鮮語: 권일/權逸、19… 権 逸(クォン・イル、ごん いつ、朝鮮語: 권일/權逸、1911年8月22日 - 2001年4月3日)は、在日本大韓民国居留民団(現・在日本大韓民国民団)中央団長。在日本大韓民国居留民団顧問。満州国で裁判官、日本で弁護士、韓国で政治家としても活動していた。第8・9代大韓民国国会議員。日本名は権藤嘉郎で、権赫周(권혁주)の名前も使用した。 独立運動家・映画監督の権赫朝は弟。俳優のイム・ドンジン(朝鮮語版)は姪の夫(弟の赫朝の娘婿)。 - 권일(權逸)[リンク切れ] - 国史編纂委員会
半田 亘理(はんだ わたり、1911年(明治44年)8月22… 半田 亘理(はんだ わたり、1911年(明治44年)8月22日 - 1948年(昭和23年)10月21日)は、大日本帝国海軍の軍人、戦闘機搭乗員。 操練19期。最終階級は中尉。黒岩利雄とならび、単機格闘戦の名手と謳われた撃墜王である。 福岡県久留米市に生まれる。1928年(昭和3年)、海軍を志し佐世保海兵団入団。艦船勤務を経て1932年(昭和7年)10月、第19期操縦練習生となる。同期生に磯崎千利、高橋憲一、田中平、五島一平。1933年(昭和8年)3月、同課程を修了し、戦闘機専修。空母「龍驤」飛行機隊に配属される。 その後、大村に転属。在任中、愛国号献納式典で祝賀飛行に参加した。当時部下だった田中国義はその練習中、編隊スローロール等で苦労していたが、半田機は「定位置を微動だにしない、ついて行くのに汗をかいた」と回想する。
小林 正(こばやし ただし、1911年8月21日 - 197… 小林 正(こばやし ただし、1911年8月21日 - 1975年3月30日)は、日本のフランス文学・比較文学者。東京大学名誉教授。 満州・旅順生まれ。東京帝国大学文学部仏文科卒、1942年東京外国語学校教授、1954年東京大学仏文科助教授。スタンダールが専門で、1962年「『赤と黒』成立過程の研究」で文学博士。 1963年教授、また比較文学講座でも授業を担当し、文学部の西洋近代語近代文学専攻の創設に尽力した。1972年定年退官し名誉教授、同年より成城大学教授。 日本比較文学会理事、東京日仏会館常務理事などを歴任。レジオン・ドヌール勲章を授与された。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
神 直道(じん なおみち、1911年(明治44年)8月20日… 神 直道(じん なおみち、1911年(明治44年)8月20日 - 1998年(平成10年)9月29日)は、日本の陸軍軍人、宗教学者。軍人としての最終階級は陸軍中佐。陸士44期卒で瀬島龍三と同期。
灰田 勝彦(はいだ かつひこ、1911年8月20日 - 19… 灰田 勝彦(はいだ かつひこ、1911年8月20日 - 1982年10月26日)は、日本の歌手、ウクレレ奏者。本名及び幼名:灰田 稔勝(はいだ としかつ)。ハワイアンやヨーデル、流行歌で、第二次世界大戦前後に数々のヒット曲を飛ばして一世を風靡した昭和を代表する流行歌手である。伸びのある裏声が特徴で、日本の流行歌に都会の香りを持ち込んだ。また、映画俳優としても華々しく活躍した。作曲家でスチールギター奏者の灰田晴彦は兄(のちに有紀彦に改名)。 保谷市(現:西東京市)を気に入り、居を構えていた。 灰田稔勝(のちの勝彦)は、明治政府の移民政策によって広島(現:広島市南区)からハワイに移住した医師・灰田勝五郎の三男として、ハワイのホノルルで生まれた。
板谷 隆一(いたや たかいち、1911年〈明治44年〉8月2… 板谷 隆一(いたや たかいち、1911年〈明治44年〉8月20日 - 1991年〈平成3年〉9月1日)は、日本の海軍軍人及び海上自衛官。海兵60期次席。海兵同期に鈴木實、進藤三郎など。第7代海上幕僚長、第5代統合幕僚会議議長。 農業・板谷儀市の二男として佐賀県三養基郡中原村に生まれる。兄は真珠湾攻撃作戦時に空母「赤城」分隊長で、第一次攻撃隊制空隊長を務めた板谷茂(海軍中佐・海兵57期首席)。 旧制三養基中学を経て、海軍兵学校60期を次席で卒業。 海兵次席のエリートながら、日中戦争から太平洋戦争までほとんどの期間を第一線で勤務した。 1937年(昭和12年)8月9日に発生した大山事件(上海海軍特別陸戦隊中隊長の大山勇夫中尉(板谷と海兵同期)が殺害され、第二次上海事変のきっかけの一つとなった)を受け、8月11日に大山中尉の後任として上海海軍特別陸戦隊附 兼 第三艦隊司令部附となる。
乾 孝(いぬい たかし、1911年8月19日 - 1994年… 乾 孝(いぬい たかし、1911年8月19日 - 1994年2月27日)は、日本の心理学者、法政大学名誉教授。専門は発達心理学。 東京で法学者・乾政彦の子として生まれる。1935年法政大学法文学部哲学科心理学専攻卒。城戸幡太郎に師事。助手、助教授をへて1946年教授、1976年定年、名誉教授。1947年民主主義科学者協会(民科)の哲学部会に参加、のちに人間科学部会、さらに心理学部会の結成に参加し、その中心となって活動。一方、1953年東京保育問題研究会の結成に関与した。児童文化問題にも造詣が深く、人形劇の創作や実践も行い、育児などに関して多くの一般書を書いた。 な日本応用心理学会名誉会員・日本社会心理学会名誉会員。
小林 行雄(こばやし ゆきお、1911年(明治44年)8月1… 小林 行雄(こばやし ゆきお、1911年(明治44年)8月18日 - 1989年(平成元年)2月2日)は、日本の考古学者。京都大学名誉教授。学位は、文学博士。日本学士院恩賜賞受賞者。 兵庫県神戸市に生まれる。1932年(昭和7年)、神戸高等工業学校(現:神戸大学工学部)を卒業し、副手に就任。後に依願退職し、近畿地方を中心に発掘調査に携わる。1935年(昭和10年)、京都帝国大学文学部助手。1945年(昭和20年)に海軍に招集され、戦後は1953年(昭和28年)に京都大学文学部講師、1954(昭和29年)年には日本学士院恩賜賞を受賞。1955年1月、『史林』38巻1号に「古墳発生の歴史的意義」を発表。
本田 親喜(ほんだ ちかよし、1911年8月17日 - 19… 本田 親喜(ほんだ ちかよし、1911年8月17日 - 1989年5月22日)は、アメリカ合衆国ハワイ州出身のプロ野球選手・監督。
宮本 梧楼(みやもと ごろう、1911年8月17日 - 20… 宮本 梧楼(みやもと ごろう、1911年8月17日 - 2012年7月20日)は、日本の物理学者(実験物理学)。理学博士。多年にわたり東京大学理学部教授を務め、原子核物理、加速器、核融合の分野で多くの業績をあげるとともに、数多くの人材を育成した。 旧制愛知県熱田中学校、旧制第八高等学校を経て、1936年に東京帝国大学理学部物理学科を卒業し、嵯峨根遼吉教授の指導下で理研のサイクロトロンを用いた原子核物理の実験研究を始めた。その後、東京大学教授に就任、1972年に定年退官した。東京大学退官後も、茨城大学、日本原子力研究所(特別研究員)等で教育と研究にあたった。 宮本は戦後いち早く高エネルギー物理学、なかんずくその必須の手段としての高エネルギー加速器の研究に着手し、1953年には文部省機関研究費を用いて東京大学強収斂電子シンクロトロンの建設を始め、1957年に130MeVの装置を完成した。
平岡 忠次郎(ひらおか ちゅうじろう、1911年(明治44年… 平岡 忠次郎(ひらおか ちゅうじろう、1911年(明治44年)8月17日 - 1989年(平成元年)6月20日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。 埼玉県入間郡元加治村(現:入間市)で、所沢町の織物問屋浜田屋の二男として生まれる。1936年、東京商科大学を卒業した。 その後、平岡洋行主、富士汽船社長、所沢産業社長などを務めた。 戦後すぐに日本社会党に入党。所沢市議会議員に就任。1952年10月、第25回衆議院議員総選挙で埼玉県第二区から出馬して当選。その後、第31回総選挙まで連続7回の当選を果たした。この間、世界連邦日本国会委員会事務局長、世界連邦国会議員世界協会常任理事、日本社会党埼玉県連合会長、同党政策審議会副会長、同財務委員会副委員長、同代議士会副会長、同国際団体部長、同政審会大蔵部長、同税制部長、同中央執行委員、社会文化会館建設副委員長兼事務局長、首都圏開発副委員長などを務めた。
中島 正行(なかじま まさゆき、1911年8月15日 - 1… 中島 正行(なかじま まさゆき、1911年8月15日 - 1952年5月29日)は、日本の柔道家(講道館8段)。 戦前の明治神宮大会柔道競技で優勝したほか、全日本選士権大会にも5度出場して優勝2度・準優勝1度の戦績を有す、戦前を代表する強豪柔道家の1人である。選手として活躍する傍ら神奈川県警察部や横浜市警察にて柔道指導に当たり、多くの後進の警察官育成に尽力した。 福岡県久留米市に父・末治郎の長男として生まれ、少年時代より同市花畑に町道場を開いていた今村の手解きを受けた。1929年6月に17歳で講道館へ入門して翌月に初段を許されると、その半年後に2段、1931年10月には3段に列せられた。 神奈川大学夜間部を経て1932年には神奈川県警察部相川勝六部長の知遇により同部巡査を拝命し、警察官としての職務に精励しながら柔道助教を務める。
田坂 敬三郎(たさか けいざぶろう、1911年〈明治44年〉… 田坂 敬三郎(たさか けいざぶろう、1911年〈明治44年〉8月15日 - 1998年〈平成10年〉4月25日)は、日本の政治家。愛媛県今治市議会議員、今治市長などを歴任した。 1935年(昭和10年)に早稲田大学を卒業。1947年(昭和22年)4月に今治市議会議員に初当選。2期目には今治市議会の副議長を務めた。 1954年(昭和29年)1月に行われた今治市長選挙に立候補し、稲本早苗、山沢和三郎、福島照一を破り初当選。田坂は当時で42歳であり、若き市長の誕生となった。 1958年(昭和33年)1月の今治市長選挙では無投票当選し、再選。1962年(昭和37年)1月の今治市長選挙では3選を目指して立候補したが、羽藤栄市に破れ落選した。
藤森 栄一(ふじもり えいいち、1911年(明治44年)8月… 藤森 栄一(ふじもり えいいち、1911年(明治44年)8月15日 - 1973年12月19日)は、日本の考古学者、諏訪考古学研究所所長、元長野県考古学会会長である。 1911年長野県諏訪郡上諏訪町(現諏訪市)に生まれ、旧制諏訪中学校在学中に考古学に目覚め、両角守一、地理学教師三沢勝衛の指導を受けた。1929年に卒業後、上京、森本六爾の主宰する東京考古学会に入会、本格的に考古学の研究を始めた。森本六爾の死後は、杉原荘介、小林行雄らとともに東京考古学会の運営に携わった。 1936年東京で葦牙書房(あしかびしょぼう)を興し、同社で森本六爾の遺稿集である「日本農耕文化の起源」を出版した。1943年出征、1946年復員の後、郷里諏訪に帰り、古書店「あしかび書房」を経営しながら、諏訪考古学研究所を立ち上げ、諏訪地方の遺跡を中心に発掘調査に当った。
舩橋 求己(ふなはし もとき、1911年(明治44年)8月1… 舩橋 求己(ふなはし もとき、1911年(明治44年)8月14日 - 1984年(昭和59年)2月4日)は、日本の政治家。3期10年にわたり京都市長を務める。全国革新市長会副会長。 岡山県岡山市出身。旧制第二岡山中学校(現;岡山県立岡山操山中学校・高等学校)、1934年京都帝国大学経済学部を卒業後、京都市役所に入庁。研修時代には交通局に所属し、市電の運転も行った。その後は住宅局、民生局、水道局(現:上下水道局)の各局長などを経て、1967年助役に就任。1971年の京都市長選に日本社会党と日本共産党の推薦を得て出馬し、前民社党代議士の永末英一らを破り初当選を果たす。 当選時は、同じく革新系の京都府知事蜷川虎三も「府市協調を歓迎する」と発言したものの、1975年の市長選では社会党の妨害によりこれまでの社共共闘が崩壊。
鈴木 進(すずき すすむ、1911年8月14日 - 2008… 鈴木 進(すずき すすむ、1911年8月14日 - 2008年7月16日)は、日本の美術史家、美術評論家。東京国立博物館文部技官、文化庁文化財調査官、東京都庭園美術館館長、名誉館長。 静岡県生まれ。1929年(昭和4年)、静岡県立静岡中学校を卒業後、東京帝国大学文学部美学美術史学科に進み、同学科で日本美術史の藤懸静也に師事。1936年(昭和11年)、卒業と同時に同学科初代の助手に就任。1940年(昭和15年)、文部省学芸課嘱託、美術問題を調査研究。1944年(昭和19年)から1945年(昭和20年)、兵役。復員後、1946年(昭和21年)、東京帝室博物館調査課に勤務、文部技官として国宝・重要文化財の指定・調査・研究に携わる。
花村 奨(はなむら すすむ、1911年8月12日 - 199… 花村 奨(はなむら すすむ、1911年8月12日 - 1992年10月31日)は、日本の詩人、作家。別名・土岐愛作。 岐阜県大垣市生まれ。東洋大学東洋文学科卒。岐阜県土岐市で小学校教師を務め、詩集を刊行する。1939年「首途」でサンデー毎日大衆文芸選外佳作、直木賞候補。「美しき首途」として映画化される。ほか『雑草夫人』も1940年映画化。宝文館に入社し、『令女界』『若草』を編集。長谷川伸、土師清二に師事し、新鷹会会員。戦後は花村の名で子供読物、歴史小説を書いた。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
髙本 善四郎(たかもと ぜんしろう、1911年8月11日 -… 髙本 善四郎(たかもと ぜんしろう、1911年8月11日 - 2007年12月7日)は、日本の実業家、慈善活動家。ダイトロン創業者。 京都府舞鶴町(現舞鶴市)吉原地区生まれ。吉原尋常小学校、京都府立舞鶴中学校(現京都府立西舞鶴高等学校)卒業後、貿易に携わるため、東京商科大学(現一橋大学)専門部に進学し、1944年に卒業後商社に入る。 太平洋戦争中は中国大陸で従軍し、日本の降伏後大阪で個人事業を起業。東京通信工業の『テープコーダー』を扱い、1952年には大阪市北区に大都商事(現ダイトロン)を設立。 90歳で経営から引退後は、福祉や教育分野での慈善活動のため2001年に滋賀県にダイトロン福祉財団を設立、舞鶴市社会福祉協議会への寄付などを行った。
佐々 栄三郎(戸籍名:榮三郎、ささ えいざぶろう、1911年… 佐々 栄三郎(戸籍名:榮三郎、ささ えいざぶろう、1911年(明治44年)8月10日 - 1990年(平成2年)1月28日)は、昭和期の農民運動家、政治家、郷土史学者。衆議院議員。 香川県出身。1935年(昭和10年)早稲田大学法律科を卒業した。 華北綜合調査研究所所員、香川県購買農業協同組合理事を務めた。また、香川県議会議員、四国地方開発審議会委員、日本社会党香川県本部書記長、同副委員長なども務めた。 1953年(昭和28年)4月、第26回衆議院議員総選挙で香川県第2区から左派社会党公認で出馬したが落選。以後、第29回、第30回総選挙でも落選した。1967年(昭和42年)1月の第31回総選挙で当選し、衆議院議員に1期在任した。
田井 洋子(たい ようこ、1911年8月9日 - 2008年… 田井 洋子(たい ようこ、1911年8月9日 - 2008年3月13日)は、昭和・平成期の脚本家。 東京生まれ。兄は田井真孫。本名・丸茂ふぢ子。東京府立第三高等女学校卒。その後薬剤師を目指して薬学専門学校に進学するも、学内が大学への昇格運動 で揺れて休校状態だったため、進路を変更してタイピストになり、10年間官庁に勤務。 1929年、詩人の河井酔茗に入門し師事。しかし田井本人は詩が書けなかったことから、河井に勧められた岡本綺堂に師事して劇作を始め、綺堂主宰の「舞台」などに作品を発表。河井の元にはその後河井が亡くなる1965年まで通い続け、他に額田六福、岡田八千代にも世話になった。 1948年NHK懸賞放送劇に「魚紋」が1位入選。
熊沢 光子(くまざわ てるこ、1911年8月9日 - 193… 熊沢 光子(くまざわ てるこ、1911年8月9日 - 1935年3月25日)は、戦前日本の社会運動家。大泉兼蔵のハウスキーパー (日本共産党)として日本共産党スパイ査問事件に巻き込まれ、逮捕後獄中自殺した。 愛知県名古屋市の弁護士の家庭に生まれる。愛知県立第一高等女学校在学中に教師村瀬示路のマルクス経済学の講義をきっかけにマルクス主義に目覚める。同校を1931年に卒業し、妹の勝子や仲間とともに部屋を借りてエスペラント語を学ぶ。愛知県庁に勤務。1931年、米よこせ運動や消費組合運動をしていた山本秋により社会運動に参加。1932年に上京し住み込みの女給となりカフェーを転々とし、同年秋の赤色ギャング事件の資金局本部事務員として検挙され、4か月留置の末、転向して釈放され帰郷。
稲井 好広(いない よしひろ、1911年8月8日 - 199… 稲井 好広(いない よしひろ、1911年8月8日 - 1990年4月7日)は、日本の経営者。兵庫県出身。 1938年に京都帝国大学工学部電気科を卒業し、同年に三菱鉱業に入社。1963年5月に取締役に就任し、1965年8月に常務、1971年に専務を経て、1972年6月に副社長に就任し、1973年5月には社長に昇格。1982年6月には会長に就任。 1974年11月に藍綬褒章を受章し、1983年4月に勲一等瑞宝章を受章。 1990年4月7日心不全のために死去。78歳没。
門脇 政夫(かどわき まさお、1911年(明治44年)8月7… 門脇 政夫(かどわき まさお、1911年(明治44年)8月7日 - 2010年(平成22年)2月19日)は、兵庫県出身の政治家。位階は正五位。「敬老の日」の提唱者として知られる。 多可郡野間谷村(後の八千代町を経て現在の多可町)で染色業を営み、1942年5月、30歳で野間谷村会議員に当選。同村収入役を経て、戦後の1947年4月、野間谷村の村長に35歳で当選した。同年9月15日、村主催の敬老会を初めて開催した。55歳以上の住民を公会堂に招いて食事と余興(播州歌舞伎)でもてなした。「長い間社会に貢献してきたお年寄りに敬意を表すとともに、その知識や人生経験を次の世代に伝授してもらう場を設ける」という趣旨であった。
秋山 英夫(あきやま ひでお、1911年8月7日 - 199… 秋山 英夫(あきやま ひでお、1911年8月7日 - 1991年4月6日)は、日本のドイツ文学者。学習院大学名誉教授。 石川県生まれ。本名は朝日英夫。東京帝国大学独文科卒業。金沢大学教授。1967年、「ゲーテの光に照らしてみたニーチェ像」で、東京大学より文学博士の学位を取得。学習院大学教授を1982年まで務め、ニーチェを主として研究するほか、多くのドイツ文学・哲学の翻訳をおこなった。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
山本 秀雄(やまもと ひでお、1911年8月6日 - 199… 山本 秀雄(やまもと ひでお、1911年8月6日 - 1991年11月16日)は、日本の柔道家(講道館9段)。 東京市品川の二本榎に生まれた。父が寺の住職をしていた関係で小学校と中学校時代は北海道の函館で過ごし、函館中学校(後の函館中部高校)を経て早大一高に進学、この頃から柔道で頭角を現し始めた。同時期、小内落を考えだし研究し完成させた。膝を柔らかく保って両足の指先は左右に開かず真っ直ぐ平行に構え、小柄な体格と他人には真似のできないその独特の足運びから小さな大選手として名を馳せた。1933年10月の第7回明治神宮大会柔道競技では準決勝戦で東京高等師範学校の加藤幸蔵5段を小内落で降し、同門対決となった決勝戦では早大専門部の山口利雄5段の払釣込足に辛酸を舐めたものの準優勝という成績を残した。
田淵 久(たぶち ひさし、1911年〈明治44年〉8月6日 … 田淵 久(たぶち ひさし、1911年〈明治44年〉8月6日 - 1995年〈平成7年〉4月4日)は、日本の政治家。岡山県岡山市長。位階は従六位。 1911年(明治44年)岡山県岡山市生まれ。1939年3月、関西大学法学部政治学科卒業。 大学卒業後は満州国へ渡り、満州国協和会に勤務。満州国興安総省興北地区指導科長等を務めた。1945年にシベリア抑留され、1950年帰国。香川県財田町長を経て、1955年5月、岡山市長に就任。岡山市名誉市民制度を制定したほか、姉妹都市提携をアメリカ合衆国カリフォルニア州サンノゼ市と結んだ。 退任後に1959年の参院選に無所属で全国区に出馬するが落選、また1972年の衆院総選挙でも民社党公認で岡山県第1区から出馬するが落選している。
田所 太郎(たどころ たろう、1911年8月6日 - 197… 田所 太郎(たどころ たろう、1911年8月6日 - 1975年6月6日)は日本の編集者、新聞経営者。『図書新聞』の創刊者として、その名を知られる。 1911年、東京都に生まれる。京華商業学校から、銀行勤務を経て、旧制松江高等学校に進む。旧制高校時代、花森安治と出会い、校友会雑誌を編集する。花森とは生涯の親友であった。 東京帝国大学に入学し、同じく東京帝国大学に進んだ花森とともに、当時6万部を発行していた「帝国大学新聞」(東京大学の学生新聞「東京大学新聞」の前身)の編集に携わる。当時の編集部員には、他に田宮虎彦、扇谷正造、岡倉古志郎、杉浦明平などがいた。 東京帝国大学仏文科を卒業後、三省堂宣伝部、文部省社会教育局映画課を経て、昭和16年、日本出版文化協会にはいり、機関紙「日本読書新聞」の編集長として書評新聞のスタイルをつくる。
田宮 虎彦(たみや とらひこ、1911年8月5日 - 198… 田宮 虎彦(たみや とらひこ、1911年8月5日 - 1988年4月9日)は、日本の昭和期の小説家。『足摺岬』や『絵本』など希望の無い時代の孤独な知識人の暗い青春を描いた半自伝的作品や、弱者に対するしみじみとした愛情に支えられた独特のリアリズム小説を発表し、戦後高い評価を受けた。『落城』『霧の中』などの歴史物でも知られる。 東京生まれ、神戸市に育つ。船員である父親の都合で転居を繰り返し、兵庫県立第一神戸中学校から第三高等学校に進学し、1933年に卒業。三高では彼の入学年度から保証教授制度により学生の管理が厳しくなったが「別に不自由な制度とは思わず、実に自由に遊び呆けて、三高生活に突入していった」と自ら明るい学生生活を振り返っている。
糸園 和三郎(いとぞの わさぶろう、1911年8月4日 - … 糸園 和三郎(いとぞの わさぶろう、1911年8月4日 - 2001年6月15日)は、昭和から平成にかけて活躍した日本の洋画家。シンガーソングライターの具島直子は孫。 呉服商の三男として、大分県中津市に生まれる。少年時代に骨髄炎を患うが、1927年、画家を志し上京し、川端画学校、前田写実研究所に学ぶ。その後前田寛治写実研究所に転じ、1930年、春陽会展に初入選。 1931年より独立展に出品。この頃からシュルレアリスムの影響を強く受け始め、1939年に福沢一郎、北脇昇、麻生三郎、寺田政明らとともに、美術文化協会の結成に参加。1943年には麻生、寺田、松本竣介、靉光、鶴岡政男、井上長三郎、大野五郎とともに、新人画会を結成。
藤枝 晃(ふじえだ あきら、1911年〈明治44年〉8月3日… 藤枝 晃(ふじえだ あきら、1911年〈明治44年〉8月3日 - 1998年〈平成10年〉7月23日)は、日本の東洋学者。敦煌学および西域出土の古写本研究の第一人者である。 1911年、大阪府西成郡粉浜村(大阪市住之江区)生まれ。旧制大阪高校を経て、1934年(昭和9年)、京都帝国大学文学部史学科を卒業。 卒業後は同文学部の副手に着任。1937年(昭和12年)、東方文化研究所の図書係、のちに同副研究員となった。太平洋戦争末期には中国・内蒙古の西北研究所に派遣され、現地調査に従事した。 戦後の1948年(昭和23年)、京都大学人文科学研究所助教授となった。1951年(昭和26年)、研究所の森鹿三を班長とする居延漢簡共同研究班に所属し、木簡の研究を行った。
山本 林(やまもと りん、1911年8月3日 - 1995年… 山本 林(やまもと りん、1911年8月3日 - 1995年9月15日)は、日本の経営者。安田倉庫社長を務めた。 愛知県出身。1936年に東京帝国大学法学部を卒業し、同年に富士銀行に入行。1963年5月に取締役に就任し、1965年11月に安田倉庫副社長を経て、1966年7月には社長に就任。1976年1月には相談役に退いた。 1995年9月15日、肺炎のために在任時に死去。84歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
石 一郎(いし いちろう、1911年8月1日 - 2012年… 石 一郎(いし いちろう、1911年8月1日 - 2012年3月21日)は、日本のアメリカ文学者、作家、翻訳家。 茨城県生まれ。1935年東京帝国大学英文科卒。1942年北支に出征。戦後明治大学教授を勤め、1982年定年退職。ヘミングウェイ、スタインベックが専門で、『怒りの葡萄』の翻訳は広く読まれた。 2012年3月21日に老衰で死去。100歳没。 妻は俳人杉田久女の長女で俳人でもある石昌子(2007年1月に没)で、編著書が10数冊ある。 なお河出書房より小説『海のサムライ』を刊行しているが、姓名が似ている作家白石一郎の歴史小説に『海のサムライたち』がある。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
武田 喜三(たけだ きぞう、1911年7月30日 - 198… 武田 喜三(たけだ きぞう、1911年7月30日 - 1987年1月5日)は、日本の経営者、工学博士。大同特殊鋼社長、会長を務めた。 京都府出身。1935年に京都帝国大学工学部冶金学科を卒業し、同年に日本製鐵八幡製鉄所に入社。1961年に取締役に就任し、1963年に常務、1968年3月に専務、1970年3月に新日本製鐵専務を経て、1973年に大同製鋼社長に就任し、1976年9月には大同特殊鋼社長に就任。1982年9月に取締役相談役を経て、1984年9月に相談役に就任。 1965年4月に事業功労賞を受賞し、1975年4月に製鉄功労賞を受賞した。1977年4月に藍綬褒章を受章し、1982年11月に勲二等瑞宝章を受章した。
宮本 馨太郎(みやもと けいたろう、1911年7月30日 -… 宮本 馨太郎(みやもと けいたろう、1911年7月30日 - 1979年4月12日)は、日本の民俗学者。立教大学名誉教授。風俗史家・服飾史家の宮本勢助は実父。 東京市下谷区(現東京都台東区池之端)に宮本勢助の長男として生まれ、生涯をこの地に過ごした。 立教大学に入学し史学科で東洋史を専攻し、白鳥庫吉、同じく白鳥清の両氏の薫陶を受けるが、このことを終生誇りとした。 1935年立教大学文学部史学科卒業。1938年民族学研究所研究員、1942年日本民族学協会調査部主任、のち立教大学文学部教授、名誉教授。財団法人日本常民文化研究所創設理事、国立歴史民俗博物館設立準備委員会委員などを歴任。 1929年アチックミューゼアム同人。
安藤 孝行(あんどう たかつら、1911年7月28日 - 1… 安藤 孝行(あんどう たかつら、1911年7月28日 - 1984年5月26日)は、日本の哲学者、翻訳家。岡山大学名誉教授。 1911年、愛知県西春日井郡豊山村(現:豊山町)生まれ。1929年、旧制・明倫中学校を出て、第八高等学校(文科甲類)に進学。1933年、京都帝国大学文学部哲学科に進んだ。大学では、田辺元らの指導を受ける。1936年に同大学を卒業し、大学院に進んだ。 1941年、第四高等学校教授に着任。太平洋戦争を経て、1949年に金沢大学助教授に就任。1951年、教授に昇格。1953年より立命館大学文学部教授。1958年からは文学部長を務めた。1956年、東京大学にて文学博士号を取得。1967年、岡山大学教授に転じた。
藤本 四八(ふじもと しはち、1911年(明治44年)7月2… 藤本 四八(ふじもと しはち、1911年(明治44年)7月25日 - 2006年8月19日)は、日本の写真家。古美術を撮影した写真作品で知られる。兄は美術雑誌・美術本編集者の藤本韶三。
片岡 清一(かたおか せいいち、1911年(明治44年)7月… 片岡 清一(かたおか せいいち、1911年(明治44年)7月23日 - 1999年(平成11年)2月26日)は、日本の政治家。自由民主党衆議院議員。富山県砺波市出身。 東京帝国大学法学部政治学科卒業後、内務省に入省。東京府属。1966年(昭和41年)9月14日から1969年11月30日まで砺波市長を務めた後、同年の第32回衆議院議員総選挙に松村謙三の後継者として旧富山2区から出馬するも落選。続く1972年の第33回衆議院議員総選挙にて初当選(当選同期に小泉純一郎・加藤紘一・山崎拓・石原慎太郎・三塚博・村岡兼造・保岡興治・瓦力・越智通雄・野田毅・深谷隆司など)。以後連続当選6回。自民党内では中曽根康弘派に属し、1988年12月発足の竹下改造内閣で郵政大臣に任命され、初入閣(当時77歳5か月)。
川野 重任(かわの しげとう、1911年7月22日 - 20… 川野 重任(かわの しげとう、1911年7月22日 - 2010年7月22日)は、日本の農業経済学者。学位は、農学博士(京都大学・論文博士・1962年)(学位論文「土地改革の理論的性格」)。東京大学名誉教授。 鹿児島県南さつま市(旧加世田市域)出身。鹿児島県立川辺中学校 (旧制)を経て、第七高等学校造士館 (旧制)理科を1932年に卒業。1936年に東京帝国大学農学部農業経済卒業後、副手、1939年に助手、1942年に東京大学東洋文化研究所助教授、1951年に同研究所教授、1962年、「土地改革の理論的性格」で京都大学より農学博士の学位を取得。1966年、同研究所長に就任。1970年に所長退任。
坂本 鹿名夫(さかもと かなお、阪本 鹿名夫、1911年(明… 坂本 鹿名夫(さかもと かなお、阪本 鹿名夫、1911年(明治44年)7月21日 - 1987年(昭和62年)5月29日)は、日本の建築家。円形建築にこだわり、その経済性、合理性を主張し、朝日町立朝日小学校(登録有形文化財)など円形校舎、円形病院など全国に100以上の円形建築を手がけた。 東京生まれ。父は阪本釤之助で、鹿児島県知事や名古屋市長を歴任したため、その頭文字を導入して鹿名夫と名付けられた。従兄に永井荷風、異母兄に高見順がいる。 東京工業大学建築学科に進学し、卒業研究でも円形の飛行場を設計している。大学卒業後の1937年(昭和12年)、大倉土木(現・大成建設)に就職。戦時中は海軍に入隊し技術将校を経て、戦後会社に復職するが、1954年(昭和29年)大成建設を退職し、建築綜合計画研究所を設立し社長に就任。
渥美 かをる(あつみ かおる、1911年(明治44年)7月2… 渥美 かをる(あつみ かおる、1911年(明治44年)7月20日 - 1977年(昭和52年)12月10日)は、愛知県出身の国文学者。『平家物語』の研究で知られる。 夫は名古屋市で区長や教育長を務めた渥美善三、娘に実業家・著述家の渥美育子がいる。 以後、愛知県立女子短期大学教授、愛知県立女子大学教授、愛知県立大学教授を歴任
笠原 恒彦(かさはら つねひこ、1911年7月18日 - 1… 笠原 恒彦(かさはら つねひこ、1911年7月18日 - 1989年4月17日)は、日本の元ラグビー選手、俳優。本名同じ。東京市小石川区(現在の東京都文京区)生まれ、北海道育ち。 ラグビー選手として現役時代の主なポジションはフルバック(FB)及びファイブエイス(FE)。 北海中等学校(現 北海高等学校)を経て、明治大学(以下、明大)に進学。明大ではラグビー部で活動し、1930年度シーズンから1935年度シーズンまで、6年連続で明早戦に出場した他、同部在籍時代は全ての公式戦(全45試合)に出場した経験を持つ。トライゲッターであるとともに、キッカーとしても明大の得点源選手として活躍した。 また、1932年のカナダ代表来日試合を手始めに、ラグビー日本代表(以下、代表)としてキャップ6を獲得。
柄沢 十三夫(からさわ とみお、1911年7月18日 - 1… 柄沢 十三夫(からさわ とみお、1911年7月18日 - 1956年10月20日)は、日本の陸軍軍人、軍医。 長野県小県郡(現・上田市)で小学校教員の次男として生まれた。貧しい柄沢家を背負って立つ跡継ぎとして期待され育てられた。旧制上田中学(長野県上田高等学校)を経て、1929年東京医学専門学校(現東京医科大学)に入学。1933年卒業、陸軍少尉。1936年4月、陸軍軍医学校に入学。軍医中将梶塚隆二が主幹を務める軍陣防疫学教室に所属、細菌学を学んだ。1937年7月、日華事変により学生のまま防疫部の一員として天津に渡り、防疫活動に従事した。この半年前に結婚し、天津にいる間に一女をもうけている。 1939年9月、陸軍軍医学校を卒業。