伊夫伎 資弼(いぶき としすけ、1851年3月12日〈嘉永4… 伊夫伎 資弼(いぶき としすけ、1851年3月12日〈嘉永4年2月10日〉 - 1911年〈明治44年〉2月14日)は、明治時代の政治家、篤農家。衆議院議員(2期)。旧名は出雲。 近江国坂田郡伊吹村(滋賀県坂田郡伊吹町を経て、現米原市)で、伊吹神社社家・伊夫伎専右衛門の長男として生まれる。1871年(明治4年)10月に今の名前に改名する。国学を学んだのち神官となる。また、所得税調査委員、破産管財人、郡農会副会頭、県農会副会頭、県農工銀行取締役を務めた。 1889年(明治22年)6月に伊吹村会議員、同村長となった。1890年(明治23年)3月には、滋賀県会議員に阪田郡選挙区から立候補して当選した。
真鍋 斌(まなべ あきら/さかり、1851年3月7日(嘉永4… 真鍋 斌(まなべ あきら/さかり、1851年3月7日(嘉永4年2月5日)- 1918年12月14日)は、日本の陸軍軍人、政治家。最終階級は陸軍中将。貴族院議員、男爵。幼名・熊槌。 長門国阿武郡萩城下(現山口県萩市)で長州藩中士・真鍋安信の長男として生まれる。明倫館で学び、1866年、干城隊に入隊。1870年、大坂兵部省屯所に入営し、1871年、陸軍青年学舎を卒業。陸軍教導団出仕を経て、1872年、陸軍少尉任官。以後、陸軍兵学寮付、陸軍省第1局第3課などを経て、1877年4月から10月まで西南戦争に出征した。 陸軍省第1局第3課長心得、総務局武学課長、同局第3課長心得、同課長、歩兵第3連隊長、第1軍事課長、第4師団参謀長、第1軍事課長、総務局人事課長などを歴任し、1897年7月、陸軍少将に進級。
原田 良太郎(はらだ りょうたろう、1851年3月5日〈嘉永… 原田 良太郎(はらだ りょうたろう、1851年3月5日〈嘉永4年2月3日〉- 1903年〈明治36年〉3月24日)は、幕末の徳山藩士、明治期の大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。位階は正四位、勲等は勲二等、軍功は功四級。幼名・正良、1878年6月、良太郎に改名。 周防国都濃郡、後の山口県都濃郡久保村(現下松市)で原田亀之丞の二男として生まれた。明治元年(1868年)徳山藩兵として鳥羽・伏見の戦いに従軍した。長州藩諸隊脱走兵反乱に出動した。 大阪兵学校で学び、1872年(明治5年)陸軍省に出仕。1874年(明治7年)陸軍騎兵少尉に任官した。西南戦争に出征。1887年(明治20年)3月、輜重兵少佐に昇進し輜重兵第1大隊長に就任。
有馬 新一(ありま しんいち、1851年2月26日〈嘉永4年… 有馬 新一(ありま しんいち、1851年2月26日〈嘉永4年1月26日〉- 1909年〈明治42年〉12月6日)は、日本の海軍軍人、華族。最終階級は海軍中将。男爵。幼名は新之丞。 薩摩藩士、簗瀬新八の二男として生まれ、有馬純晴の養嗣子となる。戊辰戦争に従軍し、1869年(明治2年)、賞典禄6石を受ける。 1874年(明治7年)11月、海軍兵学校(海軍兵学寮、2期)を首席で卒業し、少尉補任官。1884年(明治17年)12月、「筑波艦」砲術長となり、以後、「天龍艦」副長、「摂津艦」副長、「扶桑艦」副長、「天城」艦長、「武蔵」艦長、「天龍」艦長心得兼海兵教官、海軍参謀部第2課長、佐世保鎮守府海兵団長を歴任。
岩崎 弥之助(いわさき やのすけ、1851年2月8日(嘉永4… 岩崎 弥之助(いわさき やのすけ、1851年2月8日(嘉永4年1月8日) - 1908年(明治41年)3月25日)は、日本の実業家で、三菱財閥の2代目総帥。男爵。三菱の創業者・岩崎弥太郎の弟にあたる。 岩崎弥次郎・美和夫妻の三男として土佐国安芸郡井ノ口村(現在の高知県安芸市)に生まれた。 1867年(慶応3年)、満16歳のときに土佐藩校の致道館に入学。この時、岩崎家は郷士の地位を失って地下浪人に没落しており、武士の教育を受けられる身分ではなかったが、兄の弥太郎が吉田東洋の知遇を受けて下級役人に出世していたため、入学することができた。 1869年(明治2年)には大阪に出て、重野安繹の私塾成達書院に入門し、この時に英語を学んだ。
岡崎 生三(おかざき せいぞう、1851年2月3日〈嘉永4年… 岡崎 生三(おかざき せいぞう、1851年2月3日〈嘉永4年1月3日〉- 1910年〈明治43年〉7月27日)は、日本の陸軍軍人、華族。最終階級は陸軍中将。男爵。 土佐藩士・岡崎俊蔵の長男として土佐国幡多郡中村(現:四万十市)に生まれる。戊辰戦争出征後の1871年(明治4年)、御親兵として上京し陸軍軍曹、権曹長と昇進し、1872年(明治5年)、陸軍中尉に進む。東京鎮台付などを歴任し、1877年(明治10年)3月から10月まで西南戦争に出征。歩兵第1連隊大隊長、歩兵第6連隊大隊長、大阪鎮台参謀、近衛歩兵第4連隊大隊長などを経て、1889年(明治22年)11月、東宮武官に就任する。 後備歩兵第1連隊長、留守第4師団参謀長などを経て、1895年(明治28年)11月、威海衛占領軍参謀長に就任し1898年(明治31年)5月まで駐留した。
牛場 卓蔵(うしば たくぞう、1851年1月29日(嘉永3年… 牛場 卓蔵(うしば たくぞう、1851年1月29日(嘉永3年12月28日) - 1922年(大正11年)3月5日)は、明治期から大正期のジャーナリスト、官僚、実業家、政治家。慶應義塾出身、衆議院議員、山陽鉄道取締役会長などを務めた。 伊勢国安濃郡渋見村(後の安東村、現三重県津市)の井草家に生まれる。伊勢国一志郡(後の七栗村、現三重県津市)の牛場圭次郎の養子となる。慶應義塾に学び、島田三郎らと共に陸奥宗光の家に寄食する。 『郵便報知新聞』記者、兵庫県庁の勧業課長を経て、内務省に出仕。1881年(明治14年)、明治十四年の政変で罷免され下野。1882年(明治15年)、新聞『時事新報』の創刊に参画し記事を執筆。
寺田 祐之(てらだ すけゆき、1851年1月27日(嘉永3年… 寺田 祐之(てらだ すけゆき、1851年1月27日(嘉永3年12月26日) - 1917年(大正6年)3月14日)は、日本の内務官僚。鳥取・岡山・宮城・広島の各県知事を歴任した。特に広島県知事在任中、県物産陳列館(現在の原爆ドーム)の設立に関わったことで知られる。 信濃国水内郡飯山に後の旧飯山藩士(長野県士族)寺田覚の長男として生まれ、慶応3年、寺田勘兵衛の養子となり家督を相続。1871年、飯山県文学助教兼学監となり、司法省十二等出仕警視属四等警視に転じた。その後、警察は内務省に移り、兵庫・山梨・香川・広島の各県警部長、新潟県内務部長などを経て1901年(明治34年)4月2日、鳥取県知事に就任。
遠藤 敬止(えんどう けいし、1851年1月24日(嘉永3年… 遠藤 敬止(えんどう けいし、1851年1月24日(嘉永3年12月23日) - 明治37年(1904年)6月15日)は、幕末期の武士(会津藩士)、明治期の大蔵官僚、七十七銀行第二代・四代頭取、仙台商工会議所初代会頭。 嘉永4年(1851年)、会津藩士・遠藤清直の長男として江戸に生まれる。幕府の開成所に学んだ後、戊辰戦争、鳥羽・伏見の戦いの際には会津軍として歴戦し、鶴ヶ城の籠城戦に加わりのち敗れて江戸にて謹慎生活を送る。独学で英学を修め、慶應義塾に入って経済学を学ぶ。大蔵省に銀行事務講習所が創設されると、講師として出仕。渋沢栄一に見出されて第一国立銀行勤務後、第七十七国立銀行頭取となり、仙台商業会議所会頭ほか、会津銀行設立や学校の創立など多くの事業を支援。
初代 二田 是儀(ふただ これのり、1851年1月20日(嘉… 初代 二田 是儀(ふただ これのり、1851年1月20日(嘉永3年12月19日)- 1910年(明治43年)1月23日)は、明治期の開拓者、農業経営者、政治家。衆議院議員。旧姓・門間、初名・謹治。 出羽国秋田郡飯塚村(秋田県南秋田郡飯田川村、飯田川町、昭和町、飯田川町〔第二次〕を経て現潟上市飯田川飯塚)で、開拓者・門間祐蔵(のち二田是雄)の長男として生まれた。1867年(慶応3年)父と共に秋田郡天王村浜中(向船越村、典農村、南秋田郡天王村、天王町二田を経て現:潟上市天王二田)に移り開拓に従事。二田に改姓し開拓の地を二田村と名付けた。1874年(明治7年)に家督を相続。その後下向して、林靏梁(鶴梁)、副島種臣、根本通明らに師事し漢籍を修めた。
安楽 兼道(あんらく かねみち、1851年1月13日〈嘉永3… 安楽 兼道(あんらく かねみち、1851年1月13日〈嘉永3年12月12日〉- 1932年〈昭和7年〉4月12日)は、日本の内務官僚、政治家。県知事、貴族院議員、警視総監、実業家、錦鶏間祗候。 薩摩藩士・新納一角の二男として薩摩国給黎郡喜入郷中名村麓(現在の鹿児島市喜入中名町)に生まれ、安楽兼通の養子となる。1871年(明治4年)4月、御親兵徴士として上京。1873年(明治6年)10月に除隊し帰郷したが、1874年(明治7年)11月に再上京した。 1875年(明治8年)3月、警視庁警部補に任官。以後、石川県三等警部兼金沢警察署長、石川県警察本署長、警視庁品川警察署長、高知県警察部長、熊本県警察部長、熊本県書記官などを歴任。
高橋 九郎(たかはし くろう、1851年1月4日(嘉永3年1… 高橋 九郎(たかはし くろう、1851年1月4日(嘉永3年12月17日) - 1922年(大正11年)9月21日)は、日本の政治家、衆議院議員(2期)。 越後国三島郡宮川外新田(のち新潟県三島郡浦村→来迎寺村→越路町→長岡市)出身。漢籍を学ぶ。新潟県第十六区副長、学務委員、道半村(のち浦村)、宮川外新田戸長、のち宮川外新田外十二ヶ村戸長、三島郡所得税調査委員となる。また、第六十九国立銀行取締役、両毛鉄道(株)監査役、同取締役、関原銀行、沼垂銀行、北越倉庫各(株)取締役、与板銀行監査役を務めた。 1894年3月の第3回衆議院議員総選挙において新潟5区から自由党公認で立候補して当選する。同年9月の第4回衆議院議員総選挙は不出馬。
大矢 透(おおや とおる、1851年1月4日(嘉永3年12月… 大矢 透(おおや とおる、1851年1月4日(嘉永3年12月3日) - 1928年(昭和3年)3月16日)は、日本の国語学者。仮名の歴史的変遷や上代日本語の音韻を解明したことで有名。また、『隋唐音図』において、反切に基づく漢字の音読み(漢音部分)を網羅的に比定した。 越後国蒲原郡根岸村(現新潟県新潟市)出身。幼名は又七郎。号は蔦廼舎(つたのや)水斎。戊辰戦争時には新発田藩の兵として従軍した。1875年、新潟師範学校卒業。山梨県師範学校、茨城県師範学校、茨城第二中学校で教職を務めた後、1886年より文部省勤務。1899年から1901年には台湾総督府民政部の職員となった。1909年文部省国語調査委員会委員。
本多 錦吉郎(ほんだ きんきちろう、嘉永3年12月2日(18… 本多 錦吉郎(ほんだ きんきちろう、嘉永3年12月2日(1851年1月3日) - 大正10年(1921年)5月26日)は、明治初期からの洋画家。画家としては寡作であったが、多くの著書を書き、画塾で後進を育てた。趣味で始めた造園もプロ級だった。号は契山。
奥山 義章(おくやま ぎしょう/よしあき、嘉永3年11月29… 奥山 義章(おくやま ぎしょう/よしあき、嘉永3年11月29日〈1851年1月1日〉 - 明治45年〈1912年〉7月5日)は、日本の軍人、歩兵大佐。大日本帝国の第4軍の歩兵大佐として活躍した後、郷里の教育にも力を尽くした。別称は義章(ぎしょう)。位階は正五位。 嘉永3年(1851年)に、愛媛県の吉田町に生まれる。 明治5年(1872年)に、東京に出て陸軍教導団に入る。その後の明治12年(1879年)に、選ばれて陸軍戸山学校に入学。明治25年(1892年)には、陸軍少佐に任ぜられる。明治27年(1894年)に、日清戦争に出征し、満洲国で戦う。その後、功績から、明治36年(1903年)大阪の司令官に補せられ、大佐に任命されたが、後に後備役に編入させられた。
宮崎 駿児(みやざき しゅんじ、1851年(嘉永3年) - … 宮崎 駿児(みやざき しゅんじ、1851年(嘉永3年) - 没年不明)は、幕末の幕臣、大陸浪人。
多治見 十郎(たじみ じゅうろう、1851年 - 没年不詳)… 多治見 十郎(たじみ じゅうろう、1851年 - 没年不詳)は、日本の教育者、英学者、聖職者。聖教社教授、聖教社及び聖教社分校女子校の設立届出人、日本聖公会の伝道師。 岐阜県の士族の家に生まれる。文久元年から慶應3年まで7年間、松苗寛一郎に従い、漢学を修める。 1873年(明治6年)から1875年(明治8年)まで、鳴門塾において、英学及び洋算を修める。鳴門塾は通称であり。1872年(明治5年)に鳴門義民が芝露月町に創設した英学と洋算の塾であり、名称は単に英学所と呼ばれていた。 1875年(明治8年)から1878年(明治11年)まで、米国聖公会のチャニング・ウィリアムズに従い、立教学校(立教大学の前身の一つ)で英学及び洋算を修める。
田中 尚(たなか ひさし、嘉永4年(1851年) - 大正6… 田中 尚(たなか ひさし、嘉永4年(1851年) - 大正6年(1917年))は、日本の教育者。 因幡国邑美郡吉方村(現在の鳥取県鳥取市吉方温泉)に田中四郎左衛門の長男として生まれた。 明治7年(1874年)東京師範学校(現在の筑波大学)卒業後、明治9年(1876年)県公立師範学校(現在の鳥取大学地域学部)校長に就任。明治14年(1881年)退職。3年後再び鳥取師範学校に勤務し明治40年(1907年)退職。県教育界のために尽くした。 明治45年(1912年)3月、国幣中社宇倍神社宮司になった。
伊東茂右衛門(いとう もえもん、嘉永4年(1851、1852… 伊東茂右衛門(いとう もえもん、嘉永4年(1851、1852年) - 没年不明)は、日本の著述家。号は竹山。経済学の著書が多い。 嘉永4年(1851,1852年)、豊後国速見郡立石(現・別府市)に生まれる。豊前国中津市の学校で学を修め、明治10年(1877年)に上京して福澤諭吉の書生となる。福沢は伊東の将来に期待し、あえて親しくはしなかった。 慶應義塾卒業後、諸芸に通じ、漢籍、洋書を読み、数理も得意とし、詩、和歌、絵画、俳諧などもできたが、経済学に最も長けた。生活では綿の着物を着て倹約し、数万円(当時の金額)の富を築いたという。 福沢諭吉が創刊した新聞『時事新報』の編集長で、広告の主任だった。 経済学関連の著書以外に、漢文による見聞録、詩集、和歌がある。
芦塚 省三(あしづか しょうぞう / せいぞう、1851年(… 芦塚 省三(あしづか しょうぞう / せいぞう、1851年(嘉永4年9月) - 1903年(明治36年)9月11日)は、日本の政治家、衆議院議員(1期)。 肥前国高来郡諫早村(のち長崎県北高来郡諫早町、現・諫早市)生まれ。漢籍、英語、政治、経済、法律学を学ぶ。養蚕紡績業を営む。1874年の佐賀の乱で長崎警備諫早募兵三番隊副司令として従軍、学区取締、中学校教員、長崎商業学校(現・長崎市立長崎商業高等学校)助教諭、中学校教諭、小学校長、北高来郡教育会副会長、諫早村会議員、同村長、長崎県会議員、農談会理事となる。 1894年9月の第4回衆議院議員総選挙において長崎2区から立憲革新党所属で立候補して当選した。
是恒 真楫(これつね まかじ、1851年(嘉永4年8月) -… 是恒 真楫(これつね まかじ、1851年(嘉永4年8月) - 1892年(明治25年)3月13日)は、明治時代の政治家。衆議院議員(2期)。 豊前国宇佐郡畑田村(大分県宇佐郡駅館村、駅川村、駅川町を経て現宇佐市)で生まれた。白石照山に師事し漢籍を修める。京都の春日潜庵に学び、ロシア語を研究した後に帰郷。1875年(明治8年)宇佐郡に民会を設立し民権の発揚に努める。1879年(明治12年)大分県会議員に推されたがこれを断り、西国東郡長に就任する。1881年(明治14年)大蔵省に出仕し主税官となり1890年(明治23年)3月まで務めた。ほか、日本運輸会社長を務めた。 1890年(明治23年)7月の第1回衆議院議員総選挙では大分県第6区から出馬し当選。
中島 又五郎(なかじま またごろう、1851年(嘉永4年12… 中島 又五郎(なかじま またごろう、1851年(嘉永4年12月)- 没年不詳)は、明治期の弁護士、政治家。衆議院議員(1期)、東京市会議長、東京弁護士会長。 越前国南条郡武生(福井県南条郡武生町、武生市を経て現越前市)で、福井藩越前府中領主本多家家臣・中島無二の二男として生まれる。1871年(明治4年)関義臣に随行して上京し、法律を修めた。 1877年(明治10年)3月、代言人試験に合格し、1878年(明治11年)8月、京橋区で法律事務所を開設した。1882年(明治15年)自由党に入党し、1883年(明治16年)福島事件で検挙された平島松尾の弁護人を務めた。また、東京代言人組合副会長、東京弁護士会長にも在任した。
高木 貞正(たかぎ さだまさ、1851年(嘉永4年10月) … 高木 貞正(たかぎ さだまさ、1851年(嘉永4年10月) - 1920年(大正9年)3月29日)は、明治から大正時代の政治家。銀行家。衆議院議員。 美濃国上石津郡、のちの岐阜県上石津郡多良村(養老郡多良村、上石津村、上石津町を経て現大垣市)出身。 学区取締を経て、1879年(明治12年)多芸・上石津郡長に就任する。ほか、濃飛農工銀行、大垣貯蓄銀行、大垣共立銀行各監査役を歴任した。 1894年(明治27年)3月の第3回衆議院議員総選挙では岐阜県第3区から出馬し当選。衆議院議員を1期務めた。
永田 定右衛門(ながた さだうえもん、1851年(嘉永4年1… 永田 定右衛門(ながた さだうえもん、1851年(嘉永4年11月)- 1914年(大正3年)8月6日)は、明治時代の政治家。自由民権運動家。衆議院議員(1期)。幼名・湯浅善太郎。 越前国今立郡鯖江下深江町(福井県今立郡鯖江町を経て現鯖江市)の湯浅家に生まれ、丹生郡下氏家村(福井県丹生郡岡山村、豊村を経て、現鯖江市下氏家町)の永田家の養子となり定右衛門を襲名した。自由民権運動に傾倒し杉田定一らと関わり、北陸自由新聞の発刊や南越倶楽部の副会頭を務めるなど活動した。1882年(明治15年)には福井県会議員に当選し、議長および副議長を歴任した。 1890年(明治23年)7月の第1回衆議院議員総選挙では福井県第3区から出馬し当選。
門馬 尚経(もんま たかつね、1851年(嘉永4年4月) -… 門馬 尚経(もんま たかつね、1851年(嘉永4年4月) - 1915年(大正4年)7月23日)は、明治から大正時代の政治家。実業家。自由民権運動家。衆議院議員。 陸奥国宇多郡玉野村(現相馬市)に生まれる。 1878年(明治11年)福島県第21区戸長兼学区取締在職中に公同社を創立し民権運動に関わる。翌年、県学務課に転任し、文部属普通学務局勤務を経て、1881年(明治14年)官職を辞した。 1888年(明治21年)東京専門学校卒業。在学中の1886年(明治19年)10月、福島県会議員補欠選挙に当選した。 学校卒業後直ちに両潤社員(国後硫黄礦事務長)となり、ついで佐賀県私立中学鎔造館教師兼幹事、同評議員を務めた。
神野 良(かんの りょう、1851年(嘉永4年3月)- 19… 神野 良(かんの りょう、1851年(嘉永4年3月)- 1910年(明治43年)7月15日)は、明治時代の政治家。衆議院議員(1期)。 能登国鹿島郡、のちの石川県鹿島郡徳田村(現七尾市)に生まれる。地租改正総代を経て、1876年(明治9年)啓明学校(のち中学師範学校)に入り、同副塾長に抜擢される。鹿島郡山林改租総代、農事通信委員を経て、中山長吉らと共に七尾町(現七尾市)にて勧業博覧会を開催した。1879年(明治12年)居村外12箇村戸長に就任し、ついで石川県会議員、村会議員、連合会議員を経て、石川県に出仕し1881年(明治14年)まで務めたのち再び県議に当選した。1882年(明治15年)3月、県会副議長に挙げられ、常置委員、郡内連合町村会議員、学区会議員を兼ねた。
4代 松木 彦右衛門(まつき ひこえもん、1851年(嘉永4… 4代 松木 彦右衛門(まつき ひこえもん、1851年(嘉永4年11月) - 1921年(大正10年)1月9日)は、明治から大正時代の政治家、銀行家、実業家。貴族院多額納税者議員。 弘前城下松森町(弘前松森町を経て現弘前市松森町)で酒造業・松木家に生まれる。1867年(慶応3年)以降、弘前藩御用達となり、ついで松前商社頭取となった。1894年(明治27年)弘前両益銀行を創立し頭取に就任。1898年(明治31年)弘前銀行取締役を経て、のち第4代頭取となる。 そののち弘前電燈発起人筆頭を経て、1899年(明治32年)10月、青森県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年11月21日から務め、任期途中の1902年(明治35年)6月13日に辞職して、宮本甚兵衛にその職を譲った。
矢田貝 平重(やたがい へいじゅう、1851年 - 1904… 矢田貝 平重(やたがい へいじゅう、1851年 - 1904年〈明治37年〉9月20日)は、日本の醸造家、銀行家、素封家、鳥取県の大地主。矢田貝家2代目。中国貯蓄銀行取締役。 伯耆国会見郡上細見村(のち鳥取県会見郡大幡村大字上細見、西伯郡岸本町大字上細見、現・西伯郡伯耆町大字上細見)出身。屋号を「久良屋」と称し、酒類醸造業を営む。家はもと微々として振るわなかったが、先代が苦心経営を重ねて業務に励精したため富裕となる。平重は父の志を継ぎ、専心酒類の精醸に努める。大地主となり、郡内屈指の富豪家と目される。 矢田貝家は、古くはたたら吹きに関係していたと言われる。近世初期に出雲地方より伯耆国日野郡へ移住し、帰農したと伝えられる。
高木 郁助(たかぎ いくすけ、1851年(嘉永4年6月) -… 高木 郁助(たかぎ いくすけ、1851年(嘉永4年6月) - 1909年(明治42年)1月1日)は、明治時代の政治家。銀行家。大地主。衆議院議員。 美濃国大野郡、のちの岐阜県本巣郡弾正村(真正村、真正町を経て現本巣市)出身。 岐阜県会議員を務めたほか、濃飛農工銀行を創立し取締役を歴任した。矢野才治郎とともに大野郡における二大勢力家であった。 1892年(明治25年)2月の第2回衆議院議員総選挙では岐阜県第4区から出馬し当選。衆議院議員を1期務めた。
坂田 昌熾(さかた まさあき / まさたる、1851年(嘉永… 坂田 昌熾(さかた まさあき / まさたる、1851年(嘉永4年1月)- 1908年(明治41年)3月30日)は、幕末の長州藩奇兵隊士、明治期の海軍軍人・政治家。衆議院議員。最終階級は海軍少佐。通称・次郎。号・琴所。 周防国熊毛郡伊保庄南村(山口県熊毛郡伊保庄南村、阿月村を経て現柳井市阿月)で、長州藩寄組で阿月領主浦氏の家臣の家に生まれた。赤禰武人、岡村熊七らに学んだ。奇兵隊に所属し四境戦争に従軍した。 明治維新後、大阪、東京で英語を学んだ。1874年(明治7年)1月、海軍に出仕し海軍少尉補に任官。神風連の乱・萩の乱の鎮定、西南戦争に従軍した。 以後、水路部測量班長、軍事部勤務、参謀本部海軍部第1局員、艦隊対戦演習取調委員、大演習審判官陪従、兵器部次長、横須賀軍港司令官副官、軍法会議判士長、迅鯨艦副長、鳳翔艦長、海軍造兵廠火薬科長などを歴任。
菅沼 政経(すがぬま まさのり、1851年(嘉永4年2月) … 菅沼 政経(すがぬま まさのり、1851年(嘉永4年2月) - 1912年(大正元年)9月17日)は、明治時代の政治家。官吏。銀行家。和歌山県会議長。幼名は松之凾。 菅沼半兵衛の子として和歌山城下(現和歌山市)に生まれる。維新後の1871年(明治4年)に上京し、1875年(明治8年)慶應義塾を卒業する。 1877年(明治10年)三浦権五郎、長屋喜弥太らと協力し、旧藩主の徳川茂承より10万円の拠出を受け徳義社を設立し、のち社長を務めた。ほか同年、南海新報を発行した。 1878年(明治11年)県御用掛を経て、1879年(明治12年)2月に初代那賀郡長に就任。翌年10月まで在職した。1881年(明治14年)4月、和歌山県会議員選挙に補欠当選し、1882年(明治15年)再選、同年6月から県会議長を務め、1885年(明治18年)8月に退任した。
大久保 鉄作(おおくぼ てっさく、嘉永3年11月28日(18… 大久保 鉄作(おおくぼ てっさく、嘉永3年11月28日(1850年12月31日) – 大正10年(1921年)7月5日)は、日本の新聞記者、政治家。 秋田市長(第5代)、衆議院議員(立憲政友会)、秋田県会議長、秋田県会議員などを務めた。 久保田藩士大久保盛実の長男として中谷地町(現秋田市)に生まれる。藩校明徳館で漢学を学んだ後、東京に出て1875年(明治8年)より朝野新聞の記者となった。帰郷後の1881年(明治14年)に秋田日報を創刊し、1883年(明治16年)に秋田改進党を結成した。同年、秋田県会議員に選ばれ、後に議長に就任した。後藤象二郎が大同団結運動を唱えると、これに呼応して東北九州連合の必要性を説いて、精力的に活動した。
木村 利武(きむら としたけ、嘉永3年11月28日(1850… 木村 利武(きむら としたけ、嘉永3年11月28日(1850年12月31日) - 1914年(大正3年)10月2日)は、明治時代の政治家、実業家。愛媛県松山市長。 松山城下柳井町で藩士・木村利長の長男として生まれる。1871年(明治4年)松山県庁掌、1874年(明治7年)愛媛県雇・戸長、1878年(明治11年)風早郡書記、1880年(明治13年)同郡長心得、1886年(明治19年)風早・和気・温泉・久米郡長心得を歴任。1890年(明治23年)1月に松山五十二銀行取締役に転じたが、同年2月6日、推挙され松山市長に就任した。 1896年(明治29年)2月まで市長を務めたのち、実業界に入り、松山商業銀行頭取、同行取締役、松山商業会議所会長などを歴任した。
田代 進四郎(たしろ しんしろう、嘉永3年11月23日(18… 田代 進四郎(たしろ しんしろう、嘉永3年11月23日(1850年12月26日) - 大正15年(1926年)3月13日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)、弁護士。 肥前国小城郡小城町(現在の佐賀県小城市)出身。茨城県学務課勤務や出版事業経営を経て、宮城県仙台市に弁護士事務所を開業した。仙台弁護士会長、宮城県教育会副会長、仙台英語学校校長などを務めた。また仙台市会議員、同議長、宮城県会議員、同議長に選ばれた。 1912年(明治40年)、第11回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。 その他、広瀬電力株式会社取締役を務めた。
町田 菊次郎(まちだ きくじろう、嘉永3年11月23日(18… 町田 菊次郎(まちだ きくじろう、嘉永3年11月23日(1850年12月26日) - 1917年(大正6年)4月2日)は、群馬県の養蚕家。高山長五郎の後を継いで高山社第2代社長となり、私立甲種高山社蚕業学校を設立した。 嘉永3年(1850年)11月23日上野国緑野郡本郷村の養蚕農家町田藤太郎の子として生まれた。幼名は藤太郎。明治5年(1872年)3月9日家督を継ぎ、1874年(明治7年)3月本郷村副戸長となった。 矢場村で堤防工事を監督した際、休憩時間に吉田半十郎宅で高山長五郎の清温育の講義を聞いて興味を持ち、1875年(明治8年)入門し、1876年(明治9年)蚕児飼育法授業員として地域を巡回した。
相馬 永胤(そうま ながたね、1850年12月25日(嘉永3… 相馬 永胤(そうま ながたね、1850年12月25日(嘉永3年11月22日) - 1924年(大正13年)1月26日)は日本の政治家、法学者、経済学者、代言人、横浜正金銀行頭取、専修学校創立者の一人・校長、専修大学創立者・初代学長。
高取 伊好(たかとり これよし、1850年12月15日(嘉永… 高取 伊好(たかとり これよし、1850年12月15日(嘉永3年11月12日) - 1927年(昭和2年)1月7日)は、明治時代に活躍した佐賀藩出身の実業家、炭鉱技術者である。漢詩も嗜み西渓と号した。正六位。 法律家で元老院議員を務めた鶴田皓は実兄。Z旗のTakaこと高取ヒデアキとNobuこと高取伸和は曾孫。佐藤栞里の遠い親戚でもある。 1850年、佐賀藩多久領の武士、鶴田斌の三男として生まれる。その後、9歳の時には姉の嫁ぎ先である高取家の養子となりその家督を継いだ。 また、多久家の世継ぎである多久乾一郎の御学友に選ばれており、多久藩の郷校東原庠舎や佐賀藩校弘道館などで共に漢学と国学を学んでいる。
大須賀 庸之助(おおすが ようのすけ、嘉永3年11月4日(1… 大須賀 庸之助(おおすが ようのすけ、嘉永3年11月4日(1850年12月7日)-明治39年(1906年)4月17日)は、明治期の政治家。下総国香取郡磯山(現在の千葉県香取市(旧佐原市))出身。 豪農の出身で26歳の時に地元・磯山の戸長を務めて地租改正の実施に尽くした。その後千葉県の県会議員を務め、明治14年(1881年)に香取郡の郡長に就任して利根川の治水対策や佐原出身の伊能忠敬の贈位実現に尽力した。その頃、庸之助をはじめとする香取郡の人々は利根川の洪水防止策を求めていたが、利根川の恩恵を受けられずに水不足に苦しむ房総半島の人々はこれに強く反発して、地域間の対立を生じていた。そこで明治17年(1884年)、千葉県側の治水対策に不満を抱く茨城県と房総半島選出の県議達が連携して利根川以北の千葉県域を茨城県に譲る替わりに利根川の治水工事に茨城県が費用を負担するとした県境変更運動を開始したのである。
葦原 金次郎(あしわら きんじろう、嘉永3年11月3日(18… 葦原 金次郎(あしわら きんじろう、嘉永3年11月3日(1850年12月6日) - 1937年(昭和12年)2月2日)は、明治後半から昭和にかけての日本の皇位僭称者。葦原将軍、葦原天皇、葦原帝とも呼ばれる。また「葦」の字を「蘆(芦)」として蘆原金次郎、蘆原将軍とされる場合もある。訓みは旧仮名遣いでは「あしはら」と表記されるが、発音は「あしわら」である。 生まれは越中国高岡(現在の富山県高岡市)とする文献と、加賀国金沢(現在の石川県金沢市)とする文献がある。 埼玉県深谷で櫛職人として働いていたが、20歳の時に東京に出て発病したと言われる。24歳の時に結婚したが、懲役に処せられたことから妻に逃げられ離婚。
和田 方正(わだ ほうせい、1850年12月(嘉永3年11月… 和田 方正(わだ ほうせい、1850年12月(嘉永3年11月)- 1895年(明治28年)5月2日)は、明治期の地主、農業経営者、政治家。衆議院議員。 下野国塩谷郡、のちの栃木県塩谷郡岡村(片岡村大字岡村、矢板町を経て現矢板市)で、戸長を務める家に生まれた。農業を営む。 三大区三小区副戸長に就任。1872年(明治5年)29カ村戸長となる。以後、地主総代、区長、学区取締を務めた。1882年(明治15年)2月、栃木県会議員に選出され、立憲改進党に所属して、1890年(明治23年)まで8年間在任した。この間、塩谷郡学務課長を務めた。 1894年(明治27年)9月、第4回衆議院議員総選挙(栃木県第4区)で当選したが、議員在任中の1895年5月、日本赤十字社病院で肺疾患のため死去した。
堅田 少輔(かただ しょうすけ、嘉永3年10月26日(185… 堅田 少輔(かただ しょうすけ、嘉永3年10月26日(1850年11月29日)- 大正8年(1919年)11月29日)は、幕末の長州藩士、明治から大正初期の教育者、政治家。長州藩家老、衆議院議員、山口県都濃郡湯野村長。旧姓・高洲。諱・信義、親正。通称・健助、大和、少輔。 長門国阿武郡萩平安古(山口県阿武郡萩町を経て現萩市平安古)で、長州藩寄組士・高洲平七元忠の五男として生まれた。嘉永4年(1851年)同藩寄組士筆頭・堅田安房謹恪の婿養子となり家督を相続した。 慶応元年(1865年)5月、八幡隊総管に就任。慶応2年(1866年)6月)、第二次長州征討で芸州口から豊前小倉に転戦した。慶応3年(1867年)、鋭武隊総管となる。
湯浅 治郎(ゆあさ じろう、嘉永3年10月21日〈1850年… 湯浅 治郎(ゆあさ じろう、嘉永3年10月21日〈1850年11月24日〉 - 1932年〈昭和7年〉6月7日)は、日本の明治から昭和戦前期にかけての政治家(衆議院議員、群馬県会議員)・実業家・社会運動家。雅号は雲外。同郷の新島襄から洗礼を受け、中村栄助、大澤善助とともに経営面で初期同志社を支えた。 弟は詩人の湯浅吉郎(半月)、妻は徳富蘇峰・蘆花の姉・初子、子に画家の湯浅一郎や同志社総長・国際基督教大学学長の湯浅八郎など。海老名弾正、山室軍平、深井英五らと親交があった。 嘉永3年10月21日(1850年11月24日)、上野国碓氷郡安中宿(現在の群馬県安中市)にて味噌醤油醸造業者・有田屋を経営する湯浅治郎吉・茂世の長男として生まれる。
佐藤 乾信(さとう けんしん、嘉永3年(1850年)11月2… 佐藤 乾信(さとう けんしん、嘉永3年(1850年)11月21日 - 明治43年(1910年))は、日本の政治家。潮止村会議員。 葛飾郡二郷半領戸ヶ崎村(三郷市)の加藤家に生まれ、埼玉郡八條領川崎村の佐藤家の婿となる。明治8年(1872年)頃伊勢野村戸長、同9年頃川崎村戸長、同13年頃南川崎村惣代、同17年頃伊勢野村連合戸長を務めた。水利に尽力し、葛西用水路第一部普通水利組合の議員を務めた。明治15年(1882年)戸ヶ崎渡しの所に戸ヶ崎村の加藤謙光と共同出資で収銭橋を架け、両人の性を取り藤橋と名付けた。 また同18年と同25年からの2期、県会議員を務めた。明治10年代(1877年 - )から活発な政治活動を行い、明治14年(1881年)7月に法律研究・演説結社である嚶鳴社の影響を受け、高橋荘右衛門らと草加嚶鳴社を結成した。
永野 静雄(ながの しずお、1850年11月18日(嘉永3年… 永野 静雄(ながの しずお、1850年11月18日(嘉永3年10月15日)- 1927年(昭和2年)4月1日)は、幕末の鹿島藩士、明治から昭和初期の官吏・実業家・政治家。衆議院議員。旧姓・愛野。 肥前国藤津郡、のちの佐賀県藤津郡南鹿島村(鹿島町を経て現鹿島市)で、鹿島藩士の愛野家に生まれる。鹿島藩校弘文館で学んだ。慶応2年(1866年)鹿島藩に副島種臣が逃れた際に原忠順の命を受け永田佐次郎と共に副島の警護に当たった。1877年(明治10年)東京の同人社を卒業した。 勧農局雇となり、その後、内務省取調局御用掛を務めた。1879年(明治12年)旧藩主鍋島直彬が沖縄県令として赴任した際に従い、沖縄県属となる。
波多野 敬直(はたの よしなお、1850年11月13日〈嘉永… 波多野 敬直(はたの よしなお、1850年11月13日〈嘉永3年10月10日〉- 1922年〈大正11年〉8月29日)は、明治・大正時代の官僚・政治家。司法大臣・宮内大臣などを歴任した。位階・勲等・爵位は、正二位勲一等子爵。 1850年(嘉永3年)10月、肥前国小城郡牛津(現:佐賀県小城市)に小城藩士横尾(波多野)信倚の長男として生まれた。小城藩校興譲館、熊本の木下塾、大学南校でドイツ語などに学び、1873年(明治6年)、江藤新平が司法卿を務めた司法省に出仕。十二等判事に任じられた。 1881年(明治14年)、広島始審裁判所長に就任。その後、司法省参事官、京都地方裁判所長、大審院判事、司法書記官、函館控訴院長、東京控訴院検事長、司法次官、司法総務長官などを歴任した。
永田 佐次郎(ながた さじろう、1850年11月10日(嘉永… 永田 佐次郎(ながた さじろう、1850年11月10日(嘉永3年10月7日)- 1928年(昭和3年)1月7日)は、幕末の鹿島藩士、明治から昭和初期の公吏、実業家、政治家。衆議院議員。 肥前国藤津郡高津原村(佐賀県藤津郡南鹿島村大字高津原、鹿島町を経て現鹿島市横田)で、鹿島藩士・永田佐一の長男として生まれる。鹿島藩校弘文館で学んだ。慶応2年(1866年)鹿島藩に副島種臣が逃れた際に原忠順の命を受け永野静雄と共に副島の警護に当たった。藩では学校寮監、仏式練兵教師、予備隊長を務め、慶応4年(1868年)戊辰戦争で鹿島藩の北陸道出陣に従軍した。 1870年5月(明治3年4月)藩命で大阪兵学寮(のち陸軍士官学校)に入学したが、同年11月、父の病により退学した。
高島 北海(たかしま ほっかい、嘉永3年9月26日(1850… 高島 北海(たかしま ほっかい、嘉永3年9月26日(1850年10月31日) - 昭和6年(1931年)1月10日)は、明治~大正期の日本画家。本名は、得三(とくぞう)。なお三女に映画女優の高島愛子がいる。 父親の手ほどきもあり、幼少の頃から絵を描くことが好きであったが後、徳山(現・山口県周南市)出身の大庭学僊(おおば がくせん)に本格的に学ぶ。明治新政府の技官としての半生の上に、植物学の深い造詣を基礎とし、南画に写生の技法を加えた清新な山岳風景画を描いた。 1990年代以降には、近代アカデミズム成立以前の先駆的な地形学者、地質学者、地理学者としての再評価が進んでいる。 長州阿武郡(現・山口県萩市)出身、萩藩の藩医の子(幼名:和三郎)として生まれ、学んだ明倫館では、9歳(当時)で下郷していた後の陸軍大将・乃木希典との交友もあった。
三浦 徹(みうら とおる、嘉永3年9月17日(1850年10… 三浦 徹(みうら とおる、嘉永3年9月17日(1850年10月22日) - 大正14年(1925年)9月30日)は、明治時代に活動した日本の牧師である。日本基督教会の牧師として活動した。 音楽家納所弁次郎の義兄、文部大臣を務めた政治家永井道雄の祖父、民主党の政治家鮫島宗明の曽祖父である。 1850年(嘉永)に沼津藩士三浦千尋の息子として生まれる。江戸に住み、フランス兵法を学ぶが、のちに英学を学ぶようになり、米国長老教会宣教師のクリストファー・カロザースに接触するようになる。 その後に、スコットランド一致長老教会の宣教師ロバート・デイヴィッドスンの日本語教師になる。デイヴィッドスンと同居して僅か10日後に、デイヴィッドスンより洗礼を受ける。
井上 勤(いのうえ つとむ、1850年10月20日(嘉永3年… 井上 勤(いのうえ つとむ、1850年10月20日(嘉永3年9月15日) - 1928年(昭和3年)10月22日)は、日本の翻訳家。徳島県徳島市出身。父は医師の井上不鳴。甥に英文学者・堀正人。親戚に評論家の内田魯庵。明治10年代の翻訳全盛期に科学冒険小説の翻訳を多数手がけた。 徳島藩医・井上不鳴の長男・永吉として徳島城下前川の中洲で生まれた。兄弟は8人で(うち3人は早世)、3人の姉と弟が一人いた。7歳で江戸でオランダ人のヤン・ドンケル・クルティウスに英語を学んだ。その後、芳川顕正に同道して鹿児島に行ったが、1年ほどで徳島に戻り、小学校教師となる。1871年に教師を辞めて神戸の海岸四番館の通訳となり、ドイツ領事館に転じて、領事・ドクトル・フォケの通訳となった。
21代 田部 長右衛門(たべ/たなべ ちょうえもん、1850… 21代 田部 長右衛門(たべ/たなべ ちょうえもん、1850年10月16日〈嘉永3年9月11日〉 - 1942年〈昭和17年〉2月14日)は、明治から大正期の政治家、実業家、林業家。貴族院多額納税者議員。名は長秋。田部本家第21代当主。 出雲国能義郡母里村(伯太村、伯太町を経て現・島根県安来市)で宇山清左衛門の弟として生まれる。1874年(明治7年)1月、飯石郡吉田村(現・島根県雲南市吉田町吉田)でたたら製鉄業を営む20代田部長右衛門周重の養嗣子となる。1885年(明治18年)4月、家督を相続し、21代『田部長右衛門』を襲名する。 1879年(明治12年)、出雲国鉄師頭取に就任するが、洋鉄の流入により、1923年(大正12年)に和鉄経営を廃業した。