色部 義明(いろべ よしあき、1911年7月18日 - 20… 色部 義明(いろべ よしあき、1911年7月18日 - 2001年8月12日)は、日本の経営者。協和銀行頭取を務めた。東京都出身。 1936年に東京帝国大学経済学部経済学科を卒業し、同年に日本銀行に入行。 1966年5月に協和銀行に転じ、1971年5月に頭取に就任し、1980年9月には会長に就任した。1986年9月に相談役を経て、1998年4月から名誉顧問を務めた。 また頭取在任時に安宅産業破綻処理に立ち向かう事となった。 また、1981年から死去するまで全日本学生囲碁連盟会長をつとめた。1986年7月から1987年12月までに日本棋院理事長を務めた。1986年、日本棋院から大倉賞を受賞する。 2001年8月12日気管支喘息のために東京都三鷹市の病院で死去。
中井 利之祐(なかい りのすけ、1911年〈明治44年〉7月… 中井 利之祐(なかい りのすけ、1911年〈明治44年〉7月17日 - 没年不明)は、日本の実業家。旧姓・中川。 奈良県・中川亀太郎の三男。1929年、郡山中学校を卒業。中井製膠所経営、康徳化学工業勤務を経て1948年に浪華化学工業を設立、社長に就任する。 浪華化学工業、朝日化学産業各社長、野洲化学工業取締役、大阪膠質ゼラチン工業協同組合、飛島会各理事長、日本にかわゼラチン工業組合副理事長、大阪同和事業協議会副会長などをつとめる。 また民生委員である。 趣味は読書。宗教は真宗。住所は大阪市東淀川区飛島町(現・東中島)。
柳井 深造(やない しんぞう、1911年(明治44年)7月1… 柳井 深造(やない しんぞう、1911年(明治44年)7月16日- 没年不詳)は、陸上選手であり研究者でもある。川崎重工業研究室長を務め、流体力学の研究で知られる。岡山県出身。 1911年(明治44年)岡山県に生れる。1925年(大正14年)、旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)へ進学する。1930年(昭和5年)3月、同校を卒業し、旧制第六高等学校理科乙類へ進学する。1933年(昭和8年)同校を卒業し、京都帝国大学工学部へ進学する。 京大では、陸上部に所属し、1934年(昭和9年)柳井が大学2年生のとき、兵庫県にある甲子園南運動場で行われた第21回全日本陸上競技選手権大会の男子110mハードルでは、15.4秒で準優勝している。
中村 幸彦(なかむら ゆきひこ、1911年7月15日 - 1… 中村 幸彦(なかむら ゆきひこ、1911年7月15日 - 1998年5月7日)は、日本の近世文学研究者。博士(京都大学・1962年)(学位論文『戯作論』)。 兵庫県津名郡由良町(現:洲本市由良3丁目)に父・中村安郎、母・しげの次男として生まれる。旧制洲本中学校、1935年、京都帝国大学文学部国文科卒業。1940年、天理図書館司書となり、京都帝国大学大学院を退学。1949年、天理大学教授、1958年、九州大学文学部教授となる。1962年『戯作論』で京都大学の博士号を取得。1971年、九州大学を退職、関西大学教授に就任。 1981年、『此ほとり一夜四歌仙評釈』で第32回読売文学賞受賞。1982年から『中村幸彦著述集』の刊行開始(1989年7月まで)。
新原 勇(しんばら いさむ、1911年7月15日 - 198… 新原 勇(しんばら いさむ、1911年7月15日 - 1987年5月18日)は、日本の柔道家(講道館9段)。 昭和初期に日本国内における最高峰の柔道大会であった全日本選士権大会や明治神宮競技大会等で活躍し、指導者としては朝鮮や台湾でその礎を築いたほか日本国内においては福岡県立嘉穂中学校を全国優勝に導いた実績を有す、戦前を代表する柔道家・柔道指導者の1人である。 現在の福岡県飯塚市幸袋に生まれる。県立嘉穂中学校に入学すると、当時福岡県下における柔道の大家であり同校の師範を務めていた榎本本吉より熱心に手解きを受け、 1929年に2段位で卒業して翌年京都の武道専門学校に入学した。武専で磯貝一、田畑昇太郎両範士に師事し、柔道教士であった福島清三郎、栗原民雄、森下勇らの胸を借りて稽古に励んだ新原は1932年に精錬証を受け、翌33年には講道館5段位、1934年の教士号試合では飯山栄作に競り勝って称号を拝受している。
白井 震四郎(しらい しんしろう、1911年(明治44年)7… 白井 震四郎(しらい しんしろう、1911年(明治44年)7月15日 - 1982年(昭和57年)10月23日)は、日本の実業家。 日本高周波鋼業元取締役会長。神戸製鋼所元常務取締役。日本発条・尼崎製釘所(現・アマテイ)元各取締役。鋼材倶楽部・日本鉄鋼輸出組合(現・日本鉄鋼連盟)各元理事。 福島県会津若松市出身。衆議院議員を務めた白井新太郎の四男として生まれる。 祖父の白井五郎太夫は林安定とともに藩大砲隊頭を務め、鳥羽・伏見の戦いで討死した。なお父・新太郎の先妻は盛岡藩家老のち外交官の南部次郎(東政図)の次女・恵子、後妻は湯長谷藩の藩主家当主内藤政潔の叔母・董子である。また、兄(父・新太郎の養子)の白井龍一郎は加波山鉄道社長などを務めた実業家であり、龍一郎の妻は子爵山内豊健の姉で、幕末の土佐藩主山内容堂の孫にあたる。
重信 常喜(しげのぶ つねき、1911年7月15日 - 20… 重信 常喜(しげのぶ つねき、1911年7月15日 - 2006年4月16日)は、日本のフランス文学者、詩人。 東京生まれ。1935年東京帝国大学文学部仏文科卒、千葉大学講師、助教授、教授、1975年定年退官、名誉教授、日本大学法学部教授、1982年定年。没後、従四位。
金 善太(キム・ソンテ、朝鮮語: 김선태、1911年7月15… 金 善太(キム・ソンテ、朝鮮語: 김선태、1911年7月15日または8月2日または8月8日 - 1978年11月29日または12月29日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の法曹、政治家、大学教員。第3・4・5代韓国国会議員。 本貫は金陵金氏(朝鮮語版)。別名は逸松、日本名は金澤善太。 全羅南道莞島郡郡外面生まれ、本籍地は忠清南道公州郡。1927年に莞島郡外普通学校を卒業、中学2年生の時にこっそりと海南郡で家の牛を売り、そのお金でソウルに上京した。中東中学校、儆新学校、京城法政学校を経て1936年に日本大学専門部法科に編入、1939年3月に卒業した。同年に高等文官試験司法科に合格した後、光復までは全州・清州・清津で地方法院の判事を務めた。
羽田野 伯猷(はたの はくゆう、1911年7月13日 - 1… 羽田野 伯猷(はたの はくゆう、1911年7月13日 - 1985年1月9日)は、日本の仏教史学者。東北大学名誉教授。日本学士院賞受賞。 愛知県三河国出身。1933年第四高等学校卒業。1936年東北帝国大学法文学部卒業、文学士。1939年大日本帝国陸軍歩兵少尉。1941年大日本帝国陸軍中尉。大日本帝国陸軍大尉として満州で従軍したのち、1944年東北帝国大学着任。1951年東北大学助教授。1955年日本学士院賞受賞。1959年から東北大学教授を務め印度学第二講座を担当した。1960年東北大学文学博士。1975年退官。勲三等旭日中綬章。指導学生に磯田熙文東北大学名誉教授など。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
須藤 俊男(すどう としお、1911年(明治44年)7月12… 須藤 俊男(すどう としお、1911年(明治44年)7月12日 - 2000年(平成12年)4月12日)は、日本の鉱物学者・地球科学者。専門は粘土鉱物学。理学博士。位階は正四位。 1911年、新潟県生まれ。東京帝国大学理学部鉱物学科を卒業した。卒業後は、母校の東京帝国大学講師、助教授を経て、1948年より東京教育大学理学部教授となった。1975年に定年退官し、名誉教授となった。2000年死去。死没日付をもって従七位から正四位に進階した。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
田中 睦夫(たなか むつお、1911年(明治44年)7月10… 田中 睦夫(たなか むつお、1911年(明治44年)7月10日 - 1978年(昭和53年)7月22日)は、日本の英文学者。和洋女子大学教授。専門はイギリス小説で、日本におけるサマセット・モーム研究の第一人者だった。 鹿児島県谷山村(現・鹿児島市)上福元出身。1918年(大正7年)谷山男子尋常小学校入学。1924年(大正13年)鹿児島県立第二鹿児島中学校(旧制、現鹿児島県立甲南高等学校)入学、1929年(昭和4年)卒業。1930年(昭和5年)青山学院英語師範科入学。同科卒業。1934年(昭和9年)私立福山中学校(旧制、現鹿児島県立福山高等学校)教諭、1939年(昭和14年)東京府立第七中学校(旧制、現東京都立墨田川高等学校)教諭、1946年(昭和21年)東京都立第三中学校(旧制、現東京都立両国高等学校・附属中学校)教諭。
佐々木 定道(ささき さだみち、1911年7月10日 - 2… 佐々木 定道(ささき さだみち、1911年7月10日 - 2006年3月26日)は、日本の経営者。富士重工業社長を務めた。鳥取県出身。 1937年に京都帝国大学工学部機械工学科を卒業し、同年に日産自動車に入社。 1960年5月に取締役に就任し、常務、専務を経て、1973年11月に副社長に就任。1978年10月に富士重工業社長に就任し、1985年6月に会長を経て、1987年6月から相談役を務めた。 1975年11月に藍綬褒章を受章し、1982年11月に勲二等瑞宝章を受章。 2006年3月26日肺炎のために死去。94歳没。
佐藤 良邦(さとう よしくに、1911年7月10日 - 19… 佐藤 良邦(さとう よしくに、1911年7月10日 - 1991年9月21日)は、日本の実業家。東京12チャンネル(現在のテレビ東京)の社長を務めた。 東京都出身。佐藤信四郎の二男。1936年、早稲田大学文学部を卒業。日本経済新聞社の前身である中外商業新報に入社し、整理部、社会部、工業部各記者、通信、社会各部長、大阪支社編集長、編集局次長、総務部長、工務局長を経て、1959年2月に取締役に就任し、1965年4月には常務大阪本社代表に就任した。1972年3月に退任し、同年4月に東京12チャンネル副本部長、1973年4月に本部長を経て、株式会社に改組したのち同年11月から1975年10月まで社長を務めた。
吉田 五郎(よしだ ごろう、1911年7月9日 - 1994… 吉田 五郎(よしだ ごろう、1911年7月9日 - 1994年3月8日)は、日本の法学者。専門は民法。第8代目八幡大学(現・九州国際大学)学長。 1911年、関東州大連生まれ。兵庫県出身の実父は幼少時に漢学を学んだ後に満州に渡った人物で、豪商として財を成していた。旧制大連一中より旧制山口高等学校に入学。1931年(昭和6年)、京都帝国大学法学部に入学。末川博教授の薫陶を受け民法・労働法を学んだ。1933年に京都帝国大学で滝川事件が起こった際には、時の文部大臣鳩山一郎に面会を強要し上京。強烈な抗議文をつきつけた法学部数名の中に吉田五郎の名があった。この抗議文は当時の新聞にも掲載された。1934年、京都帝国大学法学部を卒業。
由利 聖子(ゆり せいこ、1911年7月8日 - 1943年… 由利 聖子(ゆり せいこ、1911年7月8日 - 1943年2月)は、日本の児童文学作家。本名、鈴木 富美子。 1929年(昭和4年)、東京府立第三高等女学校卒業。第三高女在学中から少女向け雑誌「少女の友」に投稿する。1932年(昭和7年)頃から同誌に短編を発表。また、ミス・マミコのペンネームで「少女画報」誌に作品を発表。 「少女の友」の姉妹誌「新女苑」では丘 文子のペンネームを使用した。 『モダン小公女』……「少女画報」1934年1月~12月連載 新泉社 1935年 戦後版は偕成社1948年 『チビ君物語』……「少女の友」 1934年12月~ 1936年12月連載。単発あり。 実業之日本社 正編1939年 続編1941年 戦後版は東和社1948年 続編は『小さいお母さん』と改称。
藤田 五郎(ふじた ごろう、1911年7月8日 - 1997… 藤田 五郎(ふじた ごろう、1911年7月8日 - 1997年1月31日)は、日本のドイツ語学者、東京外国語大学名誉教授。 東京都生まれ。1931年武蔵高等学校卒業、東京帝国大学法学部入学、1935年同文学部独文科卒業、大学院進学、副手、1936年武蔵高校教授、1938年広島高等学校教授、1942年東京外国語学校教授、東京外国語大学助教授、1956年教授、1973年定年退官、麗澤大学教授、1982年退職。
三谷 栄一(みたに えいいち、1911年7月8日 - 200… 三谷 栄一(みたに えいいち、1911年7月8日 - 2007年8月29日)は、日本の国文学者(中古文学)。学位は、文学博士(國學院大學・論文博士・1961年)。子息は日本文学者の三谷邦明。 1935年、國學院大學国文科卒業、1944年、青森師範学校教授、1949年、弘前大学教授、1950年、山梨県立図書館長、1953年、実践女子大学教授。1961年、「民族文学の成立に関する基盤的研究」で國學院大學より文学博士号取得、1987年、実践女子大を定年退職、名誉教授。2003年、勲三等瑞宝章受章。 平安朝の物語文学を中心として研究。特に狭衣物語についての業績がある。
山本 達雄(やまもと たつお、1911年7月7日 - 199… 山本 達雄(やまもと たつお、1911年7月7日 - 1999年12月6日)は、日本の経営者。札幌テレビ放送社長、会長を務めた。福島県出身。 1930年に関東商業学校を卒業。北海道炭礦汽船での勤務を経て、1965年に取締役に就任。1968年に札幌テレビ放送専務に就任し、1971年5月に副社長を経て、1973年5月に社長に就任。1988年4月に社長の座を伊坂重孝に譲り、自らは会長に就任。 1986年11月に勲三等旭日中綬章を受章 1999年12月6日肺炎のため札幌市の病院で死去。88歳没。
久米 愛(くめ あい、1911年〈明治44年〉7月7日 - … 久米 愛(くめ あい、1911年〈明治44年〉7月7日 - 1976年〈昭和51年〉7月14日)は、日本初の女性弁護士の一人。日本の女性運動において指導的な役割を果した。旧姓・藤原。慶應義塾大学法学部教授の藤原守胤は実兄。 1911年、大阪府にて出生。夕陽丘高等女学校[要出典]、津田英学塾(現・津田塾大学)、明治大学専門部女子部を経て、1936年に明治大学法学部に入学。大学2年の時に結婚し、久米姓となる。 1938年に高等文官試験司法科試験に合格し、中田正子、三淵嘉子と共に日本初の女性弁護士となる。 1946年、明治大学短期大学教授に就任し、1966年まで務める。 1950年、GHQの招待によりアメリカへ視察旅行する。
橋岡 俊平(はしおか しゅんぺい、改姓名・岡本曠三(おかもと… 橋岡 俊平(はしおか しゅんぺい、改姓名・岡本曠三(おかもと こうぞう)、1911年7月7日 - 1978年8月7日)は、日本の元アマチュアボクシング選手。ベルリンオリンピックバンタム級日本代表。法政大学卒業。大阪府大阪市出身。 1936年、全日本選手権にバンタム級で優勝を収めた。 同年、ベルリンオリンピックにバンタム級の日本代表として出場し、1回戦にポイント勝ちを収め、2回戦でポイント負けとなった。 日本アマチュアボクシング連盟副会長、関西、近畿、大阪府各アマチュアボクシング連盟各会長を務めた。 1978年8月7日、急性肺炎と腎不全のため67歳で死去した。 この項目は、ボクシング関係者に関連した書きかけの項目です。
三輪 福松(みわ ふくまつ、1911年7月6日 - 1998… 三輪 福松(みわ ふくまつ、1911年7月6日 - 1998年10月10日)は、日本の西洋美術史学者。 静岡県生まれ。旧制静岡県立榛原中学校、旧制第二高等学校を経て、1938年に東京帝国大学文学部美学美術史学科を卒業。同大学附属図書館、同大学医学部図書室を経て、1949年東京大学助教授となる。1953年からイタリア政府給費留学生としてフィレンツェ大学文学部に学ぶ。1959年多摩美術大学教授、1963年慶應義塾大学講師、1972年東京学芸大学教授、1975年弘前大学教授、1980年群馬県立女子大学教授。1985年から1989年まで清春白樺美術館館長を務めた。
野口 冨士男(のぐち ふじお、1911年7月4日 - 199… 野口 冨士男(のぐち ふじお、1911年7月4日 - 1993年11月22日)は、日本の小説家。戸籍名は平井冨士男。日本文芸家協会理事長。 東京市麹町区生まれ。1913年に両親が離婚。慶應義塾幼稚舎では同級生に岡本太郎、藤山一郎がいた。慶應義塾普通部を経て、慶應義塾大学文学部予科に進むが留年、1930年に文化学院文学部へ転校する。1933年、文化学院卒業。 卒業後は紀伊国屋出版部で『行動』の編集に当たった。1935年、紀伊国屋出版部の倒産にともなって、都新聞社に入社。昭和10年代、『あらくれ』『現代文学』などの同人雑誌に執筆する。1936年から1937年まで河出書房に勤務。1938年、母方の籍に入って平井姓となる。
近衛 敏明(このえ としあき、1911年7月3日 - 没年不… 近衛 敏明(このえ としあき、1911年7月3日 - 没年不明)は、日本の俳優。北海道岩見沢市出身。本名は柿崎 敏一、旧芸名は近江敏明。趣味は音楽鑑賞。 早稲田大学経済学部卒業。 1934年、松竹蒲田撮影所に入り、同年の『会社員閣下』で主演する。誠実な青年役で注目を集めた。また、松竹の看板スターだったが、1935年に松竹を退社した藤井貢が主演していた『若旦那』シリーズに藤井の跡を継いで主演した。1930年代半ばから清水宏監督などのメロドラマで主役を演じたが、次第に脇役に回っていった。本人も「脇役のほうに持ち味があると自他ともに認めた」と語っている。1937年頃に上原謙、夏川大二郎、徳大寺伸と第八芸術(=映画)にちなんだ研究会「8クラブ」を結成し、毎月、演劇や音楽関係の有識者を呼んで、講演会を開いていた。
林 学洙(イム・ハクス、朝鮮語: 임학수、1911年7月3日… 林 学洙(イム・ハクス、朝鮮語: 임학수、1911年7月3日 - 1982年6月21日)は、日本統治時代の朝鮮及び朝鮮民主主義人民共和国の詩人。 号は岳伊(アギ、악이)。本籍は全羅南道順天市金谷洞。本名は林 岳伊(イム・アギ、임악이)。ただし、系図には林 栄沢(イム・ヨンテク、임영택/林榮澤)と記載されており、そのほか別名は林 乃洪(イム・ネホン)である。 全羅南道順天市出身。京城第一高等普通学校(現・京畿高等学校)を経て京城帝国大学英文科卒業。 以後、培花女子高等学校などで教員を務めながら詩作。ホメーロスの『イーリアス』を韓国に初めて紹介するなど、翻訳文学者としても活動した。また、朝鮮文人協会の発起人と幹事を務め、戦線への慰問に参加した。
半田義之(はんだ よしゆき、1911年7月2日 - 1970… 半田義之(はんだ よしゆき、1911年7月2日 - 1970年8月1日)は、日本の小説家である。神奈川県横浜市保土ヶ谷出身。 旧制前橋中学(現群馬県立前橋高等学校)中退後、国鉄の職員として働く傍ら、同人誌に創作を発表する。「文藝首都」の1939年6月号に掲載した「鶏騒動」で第9回芥川龍之介賞を受賞した。受賞後は国鉄を退職し、菊池寛が編集長だった「日本映画」の記者となる。 戦後は日本共産党に入党。国鉄の労働運動に参加し、日本共産党系の『民主文学』などに小説を発表したが、1970年に59歳で自殺した。
位野木 益雄(いのき ますお、1911年 <明治44年> 7… 位野木 益雄(いのき ますお、1911年 <明治44年> 7月2日 - 2000年 <平成12年> 2月15日)は、日本の裁判官、弁護士。 専門は、民事。主に行政事件を担当。元福岡高等裁判所長官。位階は正三位。 香川県三豊郡観音寺町(現 観音寺市観音寺町)出身。旧制香川県立三豊中学校、 旧制松山高等学校を経て、東京帝国大学法学部法律学科卒業。 1935年(昭和10年)東京帝国大学卒業。司法官試補を経て、1936年(昭和11年)判事任官。1937年(昭和12年)京都地方裁判所判事、大阪地方裁判所判事、1942年(昭和15年)東京民事地方裁判所判事を務める。 東京民事地方裁判所判事時に「労音入場税問題」では、入場税を支払えと全国に先駆けて判決したことで知られている。
鳥居 久靖(とりい ひさやす、戸籍名 鶴美、1911年7月1… 鳥居 久靖(とりい ひさやす、戸籍名 鶴美、1911年7月1日 - 1973年7月1日)は、日本の中国語学者・中国文学者。元天理大学教授。 愛知県八名郡石巻村(現豊橋市嵩山町)の農家の二男として生まれる。1927年、県から学資補助を受けながら愛知県岡崎師範学校(現愛知教育大学)本科一部に進学。1932年、豊橋市内の学校に奉職するも、1935年、県に頼んで南満洲鉄道株式会社奉天教育研究所に出向。ここで中国語と出会い、中国語を専攻する。1939年に一時帰国し、結婚。1940年、新京(現長春市)の新京商業学校で教鞭を執る。1942年、帰国して天理外国語学校(現天理大学)教授となる。そのかたわら、立命館大学法学部に在籍し、1944年に卒業した。
鏡川 四郎(かがみかわ しろう、1911年7月1日 - 没年… 鏡川 四郎(かがみかわ しろう、1911年7月1日 - 没年不明)は、高知県香美郡野市町(現香美市)出身で、二子山部屋に所属した元大相撲力士。本名は西山 四郎。最高位は十両12枚目。 同郷の元前頭の土州山役太郎の二子山部屋に入門。1928年10月に初土俵を踏む。1941年1月十両に昇進。十両は3場所つとめたが、いずれも大負けして勝ち越すことができなかった。1945年11月で廃業した。
前川 貞次郎(まえかわ ていじろう、1911年6月28日 -… 前川 貞次郎(まえかわ ていじろう、1911年6月28日 - 2004年3月9日)は、日本の歴史学者(西洋史)。京都大学名誉教授。 1911年、京都府京都市で生まれた。京都帝国大学文学部史学科で学び、1935年に卒業。 1949年、京都大学人文科学研究所助教授に就いた。1952年に文学部西洋史学科助教授に配置換え。1957年、学位論文『フランス革命史研究:史学史的考察』を京都大学に提出して文学博士号を取得。に教授昇格。1975年に京都大学を定年退官し、名誉教授となった。その後は、甲南大学教授、帝塚山大学教授を務めた。2004年に死去。 フランス革命を中心にフランス史を研究した。
吉田 武(よしだ たけし、1911年6月27日 - 1990… 吉田 武(よしだ たけし、1911年6月27日 - 1990年4月13日)は、昭和時代後期日本の歌人。福島県出身。 1911年(明治44年)、福島県田村郡小野新町(現在の小野町)に生まれる。福島県郡山商工学校(現在の福島県立郡山商業高等学校)を卒業し、日立製作所に入社。同社を退職して帰郷した後、町立小野中学校教員となる。 1954年(昭和29年)、朴の花短歌会を結成し会長に就任。1966年(昭和41年)に県が募集していた「福島県県民の歌」の作詞部門で応募作が入選し、翌1967年(昭和42年)2月11日に制定される。1972年(昭和47年)、角川書店『短歌』特選。1975年(昭和50年)、東北アララギ郡山に入会。
猪俣 勝人(いのまた かつひと、1911年6月27日 - 1… 猪俣 勝人(いのまた かつひと、1911年6月27日 - 1979年8月7日)は、日本の脚本家・映画監督、映画評論家。東京府出身。 牛込出身。父が検事という厳格な家庭に育つ(のちに初期テレビドラマ『検事』の脚本も手がけている)。父の転任のたびに、長野、東京、千葉、新潟、福岡と転々とする。少年時代から学業を嫌い、文学書に親しみ、中学3年生の時には新聞『万朝報』の長編小説募集に応募、落選するもそれ以降は雑誌にの懸賞小説に毎年応募をし続けたが、当選することは一度もなかった。 日本大学芸術学部卒業後は、福岡で1年半ほど職に就けないでいたが、『九州日報』の短編小説募集で一等に入り、賞金5円を貰い、1934年に松竹蒲田撮影所にシナリオ・ライターの研究生として入社した。
松平 晃(まつだいら あきら、1911年6月26日 - 19… 松平 晃(まつだいら あきら、1911年6月26日 - 1961年3月8日)は、昭和期の流行歌歌手。本名は福田恒治(ふくだつねはる)。 SPレコード歌謡の揺籃の時代から全盛期にかけて、「佐賀っぽ」という気質を前面に出し、青春のブリリアントな美質と野放図な大胆さでスターダムにのし上がった。芸名の「松平晃」は「松平の殿様のように豊かな生活がしたい」との思いからつけたとの説がある。 一方、歌以外でも機械いじりを得意とし、スポーツカーを乗り回し、自分で録音器を作って公演先からボイスレターを送ったり、テーブルマジックに長けていたりと意外かつ多彩な才能の持ち主でもあった。 同時期にデビューした歌手の楠木繁夫とは親友であり、1956年(昭和31年)に楠木が自殺した際には、涙ながらに「女の階級」を歌い出棺を見送ったという。
柴田 トヨ(しばた トヨ、1911年(明治44年)6月26日… 柴田 トヨ(しばた トヨ、1911年(明治44年)6月26日 - 2013年(平成25年)1月20日)は、日本の詩人。栃木県栃木市出身。 1911年(明治44年)栃木県栃木市生まれ。生家は裕福な米穀商だったが、10代で家が傾いたことから奉公生活を送り、30代で結婚、出産、60代で宇都宮市に居を移した。一人息子の勧めで書きためた詩を2009年(平成21年)10月に自費出版した。その後飛鳥新社が内容を追加、装丁を変更し再出版。詩作を始めたのは92歳だった。 産経新聞の投稿欄「朝の詩」の常連で、新川和江に高く評価される。シャンソン歌手の久保東亜子が詩に曲を付けたことがきっかけでNHKラジオ第1放送「ラジオ深夜便」に出演。
伊藤 英吉(いとう えいきち、1911年(明治44年)6月2… 伊藤 英吉(いとう えいきち、1911年(明治44年)6月25日 - 2011年(平成23年)8月30日)は、日本の実業家。伊藤忠商事元会長。 伊藤竹之助、ときの長男として生まれる。父・竹之助は伊藤忠兵衛 (初代) の長女・ときの婿養子。弟は伊藤順吉。 旧制甲南高等学校を経て、旧制神戸商業大学(現・神戸大学)、ケンブリッジ大学を卒業し、1940年に伊藤忠商事へ入社した。1954年からニューヨークに駐在する。1959年に帰国し、常務、専務、副社長を経て、1968年に会長に就任した。 妻・英子は子爵加納久朗の次女。 2011年8月30日、老衰のため死去。100歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
中垣 國男(なかがき くにお、1911年6月24日 - 19… 中垣 國男(なかがき くにお、1911年6月24日 - 1987年4月2日)は、日本の政治家、実業家。第16代法務大臣。衆議院議員を通算9期務めた。 鹿児島県日置郡市来町(現・いちき串木野市)に木場善太郎の四男として生まれる。同町にあった、鹿児島県第二師範学校附属小学校で学んだのち、1931年3月、鹿児島県立商船水産学校(現・鹿児島県立鹿児島水産高等学校)卒業。東京帝国大学の試験に落ち、行くところを探していたときに水産学校の教諭に勧められ東洋大学文学部哲学科に入学。 当時、東洋大学には成績上位者に対しドイツに2年、インドに3年留学できる制度があった。成績の良かった中垣は留学を勧められるも、1934年秋、強度の神経衰弱に陥ってしまう。
長門 美保(ながと みほ、1911年(明治44年)6月23日… 長門 美保(ながと みほ、1911年(明治44年)6月23日 - 1994年(平成6年)11月11日)は、日本の声楽家(ソプラノ)、歌手、オペラ歌手、翻訳家(訳詞家)、歌劇団主宰者・総監督、オペラ演出家。本名は鈴木 美保。 福岡県若松市(現: 北九州市若松区)出身。3歳の時、家族とともにドイツに渡り、幼時をドイツで過ごす。小学校1年のとき帰国し、日本女子大学附属豊明小学校に半年遅れで編入。日本女子大学校附属高等女学校を経て、東京音楽学校に入学。在学中に東京音楽学校春期演奏会におけるマーラーの交響曲第2番(指揮: クラウス・プリングスハイム)のソリストとなる。1933年(昭和8年)同校を卒業し研究科に進む。
大衡 照夫(おおひら てるお、1911年〈明治44年〉6月2… 大衡 照夫(おおひら てるお、1911年〈明治44年〉6月22日 - 1997年〈平成9年〉11月22日)は、日本の政治家。元宮城県古川市(現・大崎市)長(2期)。位階は正五位。 宮城県志田郡古川町(旧・古川市→大崎市古川)出身。旧制古川中学校(現・宮城県古川高等学校)を経て、1948年、宇都宮高等農林学校(現・宇都宮大学農学部)卒。卒業後は全国購買組合連合会に入り、同連合会東京支所肥料部肥料飼料統制課属、同肥料課長、同肥料飼料統制課長となり、退職、帰郷し、1950年、保護司となる。1951年から古川市議会議員に当選し、7期務め、副議長、議長を歴任し、この間、宮城県社会教育委員を務めた。1976年の古川市長選挙に立候補し、現職の三上馨一を破って初当選した。
河本 敏夫(こうもと としお、1911年〈明治44年〉6月2… 河本 敏夫(こうもと としお、1911年〈明治44年〉6月22日 - 2001年〈平成13年〉5月24日)は、日本の政治家、実業家。 衆議院議員を連続17期務め、沖縄開発庁長官(第15代)、対外経済問題・民間活力導入担当大臣(第2次中曽根第1次改造内閣)、経済企画庁長官(第32・34代)、通商産業大臣(第34・36代)、郵政大臣(第28代)、衆議院議員(17期)、自由民主党政務調査会長などを歴任し、一時は「三角大福」に次ぐ自民党の実力者としても知られた。また、政界入り前は海運大手の1社だった三光汽船社長を務めており、政界入りに当たって辞任した後も事実上のオーナーであった。 正三位勲一等旭日大綬章受章。
鈴木 桂二(すずき けいじ、1911年6月20日 - 200… 鈴木 桂二(すずき けいじ、1911年6月20日 - 2003年2月2日)は、日本の研究者。工学博士(東京大学、1955年)。専門はテレビジョン工学。映画監督の木下惠介はおじの孫にあたる。 1911年、静岡県浜松市生まれ。1932年、浜松高等工業学校(現:静岡大学工学部)電気学科を卒業。同年4月、日本放送協会名古屋放送局に採用され、同局技術部に勤務する。1937年から1967年の停年まで、放送技術研究所に所属した。 1951年、東名阪マイクロTV中継回線建設プロジェクトを指導した。1960年、ローマオリンピックにおいて、初のTV国際中継を実現した。1964年、東京オリンピックに際し、同年打ち上げられたシンコム3号を利用したアメリカ本土へのTV中継を実現し、NHK会長賞、郵政大臣賞、テレビジョン学会丹羽高柳賞功績賞、IEEEツボリキン賞、紫綬褒章を受ける。
高橋 静之助(たかはし せいのすけ、1911年6月19日 -… 高橋 静之助(たかはし せいのすけ、1911年6月19日 - 1991年6月26日 )は、日本の経営者。北越銀行頭取を務めた。 新潟県長岡市出身。1932年に名古屋高等商業学校を卒業し、1933年4月に六十九銀行(のちの北越銀行)に入行。1963年5月に取締役に就任し、1965年11月に常務、1970年11月に専務を経て、1972年11月には頭取に就任。1977年6月から1981年6月までに取締役相談役を務めた。長岡商工会議所会頭、長岡市教育委員長なども歴任。 1978年11月に藍綬褒章を受章し、1983年11月に勲四等瑞宝章を受章。 1991年6月26日、心不全のために死去。80歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
煤孫 伝(すすまご つとう/でん、1911年6月16日 - … 煤孫 伝(すすまご つとう/でん、1911年6月16日 - 没年不明)は、岩手県花巻市出身のプロ野球選手。ポジションは一塁手、外野手。 盛岡商業学校(現・岩手県立盛岡商業高等学校)在学中は、1930年の甲子園東北大会決勝で、東北中学を相手に猛打を振るい語り草となった(試合自体は敗れ、甲子園出場とはならなかった)。卒業後は、日本大学、仙台鉄道局(現・JR東日本東北硬式野球部)でプレーした。 1937年春、大東京軍に入団。岩手県出身者としては初のプロ野球選手となった。1937年5月1日の名古屋戦(洲崎球場)で一塁手の守備(浅原直人の代役)としてデビュー。5月8日の金鯱戦(上井草球場)ではプロ初打席初安打をマークし、6月1日の金鯱戦(甲子園球場)では初ホームランを打つなど、前評判通りの打棒を見せ、1937年春季シーズンはレギュラーとして定着した(規定打席にも到達し26位だった)。
伊藤 正男(いとう まさお、1911年6月15日 - 200… 伊藤 正男(いとう まさお、1911年6月15日 - 2002年4月25日)は、日本の工学者、実業家。 東京都出身。明治専門学校(現九州工業大学)工学部機械工学科卒業。いすゞ自動車取締役社長、取締役会長、理事を歴任。 いすゞの前身である自動車工業株式会社の成立直後に入社、同社のディーゼルエンジン研究開始(1934年)当初から開発に従事し、現役技術者としての経歴を一貫してエンジン技術に傾注した。長きにわたり自動車用ディーゼルエンジンの開発普及に努め、日本における自動車用ディーゼルエンジンの育ての親と呼ばれる。伊藤の主導で開発された予燃焼室式高速ディーゼルエンジンの基本設計は、日本陸軍の標準エンジン・統制型一〇〇式発動機の燃焼室設計に採用され、のち1970年代に直噴式エンジンが市場の主流になるまで、30年以上にわたり日本製の高速ディーゼル機関向け基本レイアウトとして広く利用された。
権田 次良(ごんだ じろう、1911年6月15日 - 197… 権田 次良(ごんだ じろう、1911年6月15日 - 1973年4月21日)は、日本の経営者。大阪商船三井船舶(現在の商船三井)社長を務めた。 愛知県常滑市出身。1935年に東京帝国大学法学部法科を卒業。 三井物産での勤務を経て、1947年に三井船舶に転じ、1960年5月に取締役、1962年10月に常務、1970年5月に副社長を経て、1972年5月に社長に就任 1973年4月21日、胃癌のために死去。61歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
照錦 富治(てるにしき とみじ、1911年6月15日 - 1… 照錦 富治(てるにしき とみじ、1911年6月15日 - 1971年3月9日)は、伊勢ノ海部屋、花籠部屋に所属した元力士。また11、13代放駒、10代花籠。本名は照井 富治(てるい とみじ)。現在の岩手県花巻市出身。164cm、105kg。最高位は西十両4枚目。得意技は右四つ、寄り、下手投げ。 1926年5月場所に初土俵。1932年5月場所に十両昇進。1937年に右腕の関節を痛め、更に右大腿部を脱臼して一時は三段目まで陥落したが、そこから奮起して1940年1月場所に十両に復帰した。その後は入幕を果たせぬまま1943年1月場所に引退。その後は11代放駒を襲名、以後10代花籠、そして放駒を再襲名した。
川田 周雄(かわた かねお、1911年6月13日 - 198… 川田 周雄(かわた かねお、1911年6月13日 - 1984年7月3日)は、日本の英文学者、翻訳家。 東京出身。漢学者で貴族院議員を歴任した川田甕江の孫。熱帯産業社長・川田鷹の四男で、叔父で歌人・住友総本社理事の川田順の養子となる。1937年京都帝国大学文学部英文科卒、京都大学医学専門学校教授、京都大学教養部助教授、教授、1974年定年退官、名誉教授、甲南大学教授。
村川 幸信(むらかわ ゆきのぶ、1911年6月7日 - 没年… 村川 幸信(むらかわ ゆきのぶ、1911年6月7日 - 没年不明)は、香川県出身の元プロ野球選手(捕手、一塁手)。 高松中学(現・香川県立高松高等学校)在学中には、梶原英夫(のち東大野球部でプレー。1943年に戦病死)とバッテリーを組んでいたが、野球に熱中する余り、学業が疎かになり落第。仕方なく高松中を中退し、大谷中学校(京都府)の4年生に編入。ここで、当時一塁手だった青柴憲一(のち東京巨人軍に在籍)と出会い、青柴を投手に転向させ、たちまち名バッテリーとして京都府下では評判になった(甲子園出場は果たせなかった)。 1931年に青柴と共に、前年(1930年)に旧関西六大学野球連盟に加盟したばかりの立命館大学野球部に所属。
森 亮(もり りょう、1911年6月7日 - 1994年3月… 森 亮(もり りょう、1911年6月7日 - 1994年3月19日)は、日本の英文学・比較文学者、詩人、翻訳家。 大阪府生まれ。東京帝国大学英文科卒。旧制松江高等学校教授、お茶の水女子大学教授。 「新体詩抄」や「海潮音」など明治期の訳詩集の研究のほか、小泉八雲の研究でも知られ、『小泉八雲作品集』を翻訳。また『ラフカディオ・ハーン作品集』の編集と解説を担当。 1992年に訳詩集『晩国仙果』で第43回読売文学賞受賞。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
八木 一男(やぎ かずお、1911年6月7日 - 1976年… 八木 一男(やぎ かずお、1911年6月7日 - 1976年9月11日)は、日本の政治家、部落解放運動家。元部落解放同盟中央執行委員。父は元衆議院議員の八木逸郎。 1911年奈良市に生まれる。東京帝国大学経済学部卒業とともに社会運動に参加。戦後、日本社会党に入党。1952年、第25回衆議院議員総選挙に奈良県全県区より立候補し当選。8期つとめた。社会党内の「部落解放特別委員会」設立に尽力し、党の部落解放政策要綱を作成した。 1959年部落解放審議会設置法案を国会に提出し同和対策審議会を設置させた。 1965年8月11日「同和対策審議会」答申が出されたとき、八木一男はとても感激した様子だったという。
馬淵 テフ子(まぶち ちょうこ、1911年(明治44年)6月… 馬淵 テフ子(まぶち ちょうこ、1911年(明治44年)6月5日 - 1985年(昭和60年)2月23日)は、昭和初期の日本の女性パイロット。女学校の体育教師を務めながら、1934年に二等飛行機操縦士資格を取得。同年に満州国への飛行を敢行し、西崎キクと並んで日本女性飛行士として初の海外渡航を実現した一人となった。NHK連続テレビ小説『雲のじゅうたん』のモデルの一人といわれている。 なお、苗字については「馬渕」、名については「てふ子」「蝶子」などの表記ゆれがある。 1911年(明治44年)6月5日、青森県弘前市において、職業軍人の父・馬淵常義と母・ナヨの長女として生まれる。父は東京出身で、弘前はその任地であった。
三谷 昭(みたに あきら、1911年6月5日 - 1978年… 三谷 昭(みたに あきら、1911年6月5日 - 1978年12月24日)は、東京府出身の俳人・編集者。 東京府巣鴨村(現豊島区)生まれ。東京府立第五中学校(現小石川高等学校)卒。1930年に素人社に入社。『俳句月刊』『俳句世界』編集に携わる。1936年赤坂区役所嘱託となり『赤坂区史』を編纂。「京大俳句」「天香」等に参加したが、1940年、新興俳句弾圧事件に連座し検挙された。1941年に実業の友社に入社、『新女苑』『オール生活』編集長を歴任。 戦後は「天狼」「俳句評論」「面」などに同人参加。1946年新俳句人連盟に入会するが翌年退会し現代俳句協会に加入、機関誌『俳句芸術』の編集に携わる。1961年より協会幹事長、のち初代会長を務める。