阿木 翁助(あぎ おうすけ、1912年7月14日 - 200… 阿木 翁助(あぎ おうすけ、1912年7月14日 - 2002年9月11日)は、日本の劇作家、脚本家。本名:安達鉄翁。息子は東宝プロデューサー。孫は笠井信輔(元フジテレビアナウンサー)。 脚本作品としては、1957年のNHKのラジオドラマ「花くれないに」、1964年のNET系のテレビドラマ「徳川家康」などが知られる。 長野県諏訪郡下諏訪町出身。旧制長野県立諏訪中学(現長野県諏訪清陵高等学校)卒業。1930年、小説家を志し上京。 1932年東京プロレタリア演劇研究所を卒業、築地小劇場演劇研究所の研究生となり、1934年にはムーラン・ルージュ新宿座文芸部、新派文芸部に入って劇作家としての道を歩み始め、「女中あい史」の脚本で名を挙げる。
楫西 貞雄(かじにし さだお、1912年〈明治45年〉7月1… 楫西 貞雄(かじにし さだお、1912年〈明治45年〉7月14日 - 1996年頃)は、日本の造園系都市計画家。 本人の文章によると、東京帝国大学農学部において、菊竹倉二と同じ研究室に所属していたという。 建設省計画局都市計画課や施設課長、大阪府土木部計画課技師、千葉市建設局等を歴任した。1958年当時は「協和コンサルタンツ顧問」であった。その後、社団法人日本緑化センター常務理事を務める[要出典]。 1978年に第5回日本公園緑地協会北村賞を受賞。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
小西 四郎(こにし しろう、1912年7月14日 - 199… 小西 四郎(こにし しろう、1912年7月14日 - 1996年2月5日)は、日本の歴史学者、東京大学名誉教授。幕末史が専門。 兵庫県生まれ。東京帝国大学国史学科卒。文部省維新史料編修官を経て東京大学史料編纂所教授、1973年定年退官。NHK大河ドラマ『翔ぶが如く』の監修を務めた。 1996年、急性骨髄性白血病のため死去。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
湊 素堂(みなと そどう、1912年(明治45年)7月14日… 湊 素堂(みなと そどう、1912年(明治45年)7月14日 - 2006年(平成18年)7月24日)は、昭和から平成にかけて代表する臨済宗の禅僧。俗姓は湊。道号は葆州、法諱は素堂 (そどう)。室号は用いず。徳島県徳島市津田町出身。臨済宗建長寺派管長(1964年-1980年)、臨済宗建仁寺派管長(1989年-1999年)。湊 葆州(みなと ほしゅう) とも言う。世寿95。 1912年 (明治45年) 7月14日、徳島県徳島市津田に湊勝治郎・たねの四男として生まれ、恵人(よしひと)と名付けられた。 1926年(大正15年) 4月、徳島県立徳島中学校(現・徳島県立城南高等学校)に入学。1932年(昭和7年) 4月、旧制高知高等学校に入学。
橋本 武(はしもと たけし、1912年7月11日 - 201… 橋本 武(はしもと たけし、1912年7月11日 - 2013年9月11日)は、日本の国語教師、国文学者、元灘校(灘中学校・高等学校)教頭。京都府宮津市出身。中学の3年間をかけて中勘助の『銀の匙』を1冊読み上げる国語授業「『銀の匙』授業」で知られる。
森 国久(もり くにひさ、正字体:森國久、1912年(明治4… 森 国久(もり くにひさ、正字体:森國久、1912年(明治45年)7月10日 - 1961年(昭和36年)6月26日)は、日本の政治家。熊本県天草地方で首長を務め、全国の離島の振興に力を注ぎ、天草五橋の実現に尽力した。 熊本県龍ヶ岳町長、熊本県町村会副会長、天草郡町村会長、天草振興協議会長、天草架橋期成会副会長、天草観光協会長、全国離島振興協議会副会長、内閣離島振興対策審議会委員(すべて死亡時)。 出生から学校卒業まで 1912(明治45年)7月10日、熊本県天草郡樋島村(現・熊本県上天草市龍ヶ岳町樋島)に生まれる。地元の小学校を卒業後、1925年(大正14年)4月、熊本県立天草中学校(現・熊本県立天草高等学校)に入学。
岡 映(おか あきら、1912年7月10日 - 2006年4… 岡 映(おか あきら、1912年7月10日 - 2006年4月13日)は岡山県出身の部落解放運動家、歴史家。 岡山県英田郡江見町(現・美作市)の被差別部落に生まれ、京都で友禅職人として働く。1932年、日本共産党に入党。 1935年、全国水平社第13回全国大会に参加。 戦後は、農民運動・重税反対闘争に積極的に取り組んだ。 岡山県美作地方を中心に岡山県農民同盟の活動や岡山県人民解放同盟青年協議会副会長、部落解放全国委員会岡山県連合会常任委員、および同書記長を歴任。 1955年、部落解放同盟岡山県連書記長に就任。同中四国ブロック協議会議長を経て、1966年、同県連委員長に就任。 1970年2月19日、第5回部落解放同盟岡山県委員会開催。
小寺 武四郎(こでら たけしろう、1912年7月9日 - 2… 小寺 武四郎(こでら たけしろう、1912年7月9日 - 2004年7月23日)は、日本の経済学者。第10代学校法人関西学院院長、元関西学院大学学長および経済学部教授。専門は金融論、国際金融論。日本金融学会第5代会長。 大日本紡績(後のユニチカ)社長・小寺源吾の四男。実弟はユニチカ社長を務めた小寺新六郎。元関西学院高等商業学部教授・小寺敬一は叔父。
高野 百介(たかの ももすけ、1912年7月9日 - 戦死)… 高野 百介(たかの ももすけ、1912年7月9日 - 戦死)は、長野県出身のプロ野球選手(外野手)。
小川 信雄(おがわ のぶお、1912年(明治45年)7月9日… 小川 信雄(おがわ のぶお、1912年(明治45年)7月9日 - 2002年(平成14年)9月6日)は、日本のエンジニア・実業家。日亜化学工業創業者、元社長、元会長。同社を世界有数の蛍光灯用・ブラウン管テレビ用蛍光体メーカーに育て上げ、中村修二の青色発光ダイオード開発も決定、支援した。阿南市名誉市民。子供は男女各2人の4人。現・日亜化学工業会長の小川英治は長女の婿養子。 1912年(明治45年)7月9日、徳島県那賀郡長生村(現・阿南市長生町)において、久積鶴吉・ソノ夫妻の末子として誕生。高等小学校卒業後の1927年(昭和2年)、県立富岡中学校(現・富岡西高校)に入学。同級生に後藤田正晴が居て、柔道部で小川と後藤田は互いを認める間柄となった。
福田 昌子(ふくだ まさこ、1912年7月8日 - 1975… 福田 昌子(ふくだ まさこ、1912年7月8日 - 1975年12月30日)は、日本の政治家、学校法人純真女子学園(現・学校法人純真学園)の創立者。衆議院議員。医学博士。 鹿児島県鹿児島市生まれ、福岡県出身(籍は築上郡吉富町)。福岡県立福岡高等女学校(現・福岡県立福岡中央高等学校)を経て、1934年(昭和9年)に東京女子医学専門学校(現・東京女子医科大学)を卒業。九州帝国大学医学部に学び、九大医学部附属医院、済生会病院に勤務しながら、1940年(昭和15年)、ヒスタミンの研究により史上最年少(満26歳)で医学博士号を取得した。また、大阪府衛生課、東京都公衆衛生課などに勤めた。 戦後の1947年(昭和22年)に、第23回衆議院議員総選挙に社会党から福岡県第1区で立候補して当選した。
高木 養根(たかぎ やすもと、1912年7月7日 - 199… 高木 養根(たかぎ やすもと、1912年7月7日 - 1999年1月9日)は、日本の実業家。元日本航空社長。広島県福山市生まれ、岐阜県高山市育ち。 府立四中、一高を経て、1933年京都帝国大学文学部に入学。同年の文部省による滝川幸辰法学部教授の処分(滝川事件)に反対、古谷綱正・花田清輝(のちの文芸評論家)らとともに大学自治を擁護する文学部の運動の中心として活動したが、学内で配ったビラの文面が治安維持法違反に問われ2ヵ月で大学中退を余儀なくされた。1年間の拘置生活の後1935年、東京帝国大学法学部に再入学した。 1940年に大学を卒業し大日本航空に入社したが終戦により解散。1951年、航空活動の再開を見越して設立された日本航空に入社した。
松野 友(まつの とも、女性、1912年(明治45年)7月7… 松野 友(まつの とも、女性、1912年(明治45年)7月7日 - 1997年(平成9年)7月21日)は、日本の政治家。元岐阜県本巣郡穂積町(現:瑞穂市)町長。 夫は松野幸泰(元岐阜県議会議員、岐阜県知事、自由民主党衆議院議員、国土庁長官・北海道開発庁長官)。子に元瑞穂市長の松野幸信と元岐阜県議会議員松野幸昭、孫に自民党衆議院議員の棚橋泰文がいる。 1912年(明治45年)7月7日、岐阜県安八郡浅草村(現在の大垣市)で生まれた。1930年(昭和5年)に岐阜県女子師範学校本科第二部を卒業し、数年間小学校教員を務めた。1932年(昭和7年)5月に松野幸泰と結婚した。 夫の幸泰は岐阜県本巣郡穂積村の村会議員となり、太平洋戦争下では翼賛壮年団長を務めた。
福田 利光(ふくだ としみつ、1912年7月6日 - 200… 福田 利光(ふくだ としみつ、1912年7月6日 - 2001年11月29日 )は、日本の経営者。西日本新聞社社長を務めた。 福岡県三井郡北野町(現在の久留米市)出身。1934年に早稲田大学専門部政治経済学科を卒業し、1937年に福岡日日新聞社(のちの西日本新聞社)に入社。1963年に取締役に就任し、1969年に常務、1970年に専務を経て、同年10月には社長に就任した。1985年6月に会長に就任し、1991年6月に代表取締役相談役を経て、1993年6月に相談役に就任。 テレビ西日本会長、テレビ熊本・サガテレビ・テレビ長崎の取締役なども歴任。 1987年4月に勲一等瑞宝章を受章。 2001年11月29日に急性心不全のために死去。
岸 武雄(きし たけお、1912年7月6日 - 2002年1… 岸 武雄(きし たけお、1912年7月6日 - 2002年1月21日)は、日本の児童文学作家、教育者。 岐阜県出身。1932年岐阜師範学校卒業。小・中学校教諭を経て岐阜教育大学教授、1986年定年。 58歳から創作を始め、中部地方の歴史的事件をもとに底辺に生きる人びとを描き、1971年「千本松原」で野間児童文芸推奨作品賞。1979年「花ぶさとうげ」で小学館文学賞受賞。「千本松原」は1992年に「せんぼんまつばら 川と生きる少年たち」としてアニメ映画化された。 80歳を過ぎても旺盛な執筆活動を行い、2002年1月21日に死去。享年89。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
木村 謙二(きむら けんじ、1912年7月5日 - 没年不明… 木村 謙二(きむら けんじ、1912年7月5日 - 没年不明)は、日本の心理学者・教育者。稚内北星学園、北星学園女子短期大学の学長を務めた。専門は特殊児童心理学で、日本における障害児教育の先駆者の一人。 北海道夕張市出身。1935年、北海道札幌師範学校を卒業して深川尋常高等小学校の教員となる。しかしキリスト教徒のため天皇礼拝を拒んだ事などが原因で1937年に辞職し、同年に上京して東京市内の尋常小学校の代用教員などを務めながら1943年に法政大学法文学部を卒業した。 法政大学商業学校教員などを経て、1951年に北海道大学教育学部の助教授となる。1954年からは、北星学園が開設した一年制の幼児教育専修学校で教育心理学の講義を担当している。
佐藤 忠良(さとう ちゅうりょう、1912年7月4日 - 2… 佐藤 忠良(さとう ちゅうりょう、1912年7月4日 - 2011年3月30日)は、日本の彫刻家。新制作協会彫刻部創立会員。 生き生きとした女性像などをブロンズや木彫で表現した。本の装幀の仕事もこなし、福音館書店版の絵本『おおきなかぶ』の挿絵なども手がけた。出身地にある宮城県美術館には、「佐藤忠良記念館」が併設、日本で最も多い約600点の彫刻作品を収蔵。その他、滋賀県の佐川美術館の佐藤忠良記念館、札幌芸術の森「佐藤忠良記念子どもアトリエ」、国立近代美術館、国立国際美術館など、日本全国各地に佐藤忠良の作品が収蔵・展示されている。 女優の佐藤オリエは娘。作品のモデルを務めた彫刻家の笹戸千津子は弟子。
中村 三郎(なかむら さぶろう、1912年7月3日 - 没年… 中村 三郎(なかむら さぶろう、1912年7月3日 - 没年不明[戦死])は、長野県出身のプロ野球選手。ポジションは投手、内野手。 諏訪蚕糸学校(現・長野県岡谷工業高等学校)在学中に、甲子園に2回出場(春1回〔1930年〕、夏1回〔1930年〕)。1930年春の大会では、優秀選手賞を受賞。そして、最後の出場となった1930年夏の大会では準優勝投手に輝いた。長野県きってのNo.1投手との誉れ高く、その後明治大学やノンプロの諏訪紡績でも活躍した。 1937年に大東京へ入団。プロ野球入団後は内野手に転向し、「三振か長打か」の荒削りなバッティングで人気を博した。同年春季シーズンで喫した46三振は、リーグ最多三振記録(1939年に佐藤武夫〈東京セネタース〉が56三振をマークするまではプロ野球記録でもあった)。
玉置 一徳(玉置 一德、たまき いっとく、1912年7月3日… 玉置 一徳(玉置 一德、たまき いっとく、1912年7月3日 - 1978年11月26日)は、日本の政治家。衆議院議員(5期)。京都府相楽郡加茂町出身。息子は、民主党元衆議院議員の玉置一弥。 桃山中学校、第四高等学校を経て、1936年に京都帝国大学法学部卒業。浅野セメントに入社するも兵役で中国各地を渡る。1943年除隊となり、朝鮮の鉱山会社勤務時に終戦を迎える。 戦後、農業を経て日本社会党結成に参加。相楽郡選出の京都府議を経て1960年の第29回衆議院議員総選挙で民主社会党公認で旧京都2区に立候補し初当選。以後通算当選5回。国対畑を歩み、党国会対策副委員長、国対委員長を歴任した。 議員在職中の1978年11月26日、胸部大動脈瘤破裂により死去した。
藤谷 俊雄(ふじたに としお、1912年7月2日 - 199… 藤谷 俊雄(ふじたに としお、1912年7月2日 - 1995年2月11日)は、日本の歴史学者、部落問題研究家である。 京都府京都市出身。生家は真宗大谷派の即現寺。京都府立第二中学校卒業後、1934年に高知高等学校文科甲類、1937年京都帝国大学文学部史学科卒業。1938年、治安維持法違反で検挙。その後、生家の住職、また京都市史編纂に参加。 戦後、日本史研究会創設に参加。また1966年には部落問題研究所理事長兼所長に就任し、文化厚生会館問題によって奈良本辰也・林屋辰三郎・原田伴彦らが去った後の研究所再建に尽力。
白 石(ペク・ソク、백석、1912年7月1日 - 1996年… 白 石(ペク・ソク、백석、1912年7月1日 - 1996年1月7日)は、北朝鮮の詩人。平安北道定州の出身。 本貫は水原白氏。本名は白夔行。1929年に日本へ留学。青山学院英文科を卒業したのち咸興で英語教師となった。ペンネームの「石」という一字は、敬愛していた石川啄木から取っている。なお白石の出生年は啄木の没年でもあり、同時代的な交流はない。 白石の詩の世界は、当時のモダニズムの影響をうけながらも、郷土的な叙情の世界を方言で表す特徴を持っている。1938年の作『私とナターシャと白いロバ』ではモダニズムのイメージを用い、『エビガラスズメが来る夕方』『カズラン峠』などでは一般の読者もわからない方言を用いるなど、民俗的な世界を表している。
小林 幸三郎(こばやし こうざぶろう、1912年〈明治45年… 小林 幸三郎(こばやし こうざぶろう、1912年〈明治45年〉7月1日 - 2014年〈平成26年〉7月29日)は、日本の経営者。RKB毎日放送社長を務めた。群馬県出身。 1912年、現在の群馬県前橋市小坂子町に生まれる。芳賀小学校を経て群馬師範学校を卒業。満洲に渡り撫順・吉林小で教員として勤務。1940年に北京大学を卒業し、1938年に東京日日新聞社(のちの毎日新聞社)に入社。1943年に召集され海軍二等兵としてインパール作戦にも参加するが生還を果たす。 1946年帰国し毎日新聞社に復職。政治報道に従事し、安部晋太郎・竹内黎一・小林正巳は当時の部下にあたる。神戸支局長、政治部長、大阪本社編集局長を歴任。
戸谷 敏之(とや としゆき、1912年(明治45年)7月 -… 戸谷 敏之(とや としゆき、1912年(明治45年)7月 - 1945年(昭和20年)9月)は、日本の経済学者、歴史学者。日本常民文化研究所員。専門は農業経済史。
細野 武男(ほその たけお、1912年6月28日 - 199… 細野 武男(ほその たけお、1912年6月28日 - 1994年9月19日)は、日本の法学者。専門は法社会学。学校法人立命館総長・立命館大学学長、京都橘女子大学学長など歴任。 岐阜県揖斐郡揖斐町(現・揖斐川町)出身。旧制松本高文科甲類在学中から農民運動・教育運動に参加。治安維持法違反での検挙歴(1933年、二・四事件)がある。1934年、東京帝国大学文学部社会学科に入学し、理論社会学を専攻。卒業論文テーマは「ジンメルの貨幣哲学」であった。 大学卒業後、東洋経済新報社に入社するが石橋湛山と衝突し退社。その後、財団法人日本貿易振興協会日本貿易研究所に入所し米国経済史の研究に注力。しかし同研究所もまもなく閉鎖され、1947年兵庫県立労働研究所に移籍。
西山 松之助(にしやま まつのすけ、1912年6月28日 -… 西山 松之助(にしやま まつのすけ、1912年6月28日 - 2012年1月8日)は、日本の歴史学者。東京教育大学名誉教授。弟子に歴史学者の竹内誠がいる。 1912年、兵庫県赤穂市有年村で生まれた。1932年に姫路師範学校を卒業し、東京高等師範学校に進んだ。1937年に高等師範学校を卒業し、東京文理科大学史学科に入学。国史学を専攻し、1940年に卒業。在学中の1935年から臨済禅の修業をし、1937年、「蔵雲」の道号を授けた。 卒業後は母校・東京高等師範学校の助手となり、1944年に同助教授、1949年に教授に昇格。1949年5月に新制東京教育大学の発足とともに東京高等師範学校は包摂されることとなったため、1950年より東京教育大学助教授となった。
斎藤 兼之助(さいとう かねのすけ、1912年(明治45年)… 斎藤 兼之助(さいとう かねのすけ、1912年(明治45年)6月28日 - 1986年(昭和61年)1月25日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中尉。 海兵団(4等兵)から士官に昇進した。 1912年(明治45年)6月28日、栃木県那須郡金田村小滝(現在の大田原市)で生まれる。尋常小学校を卒業後、地元の東野鉄道に勤務した。 1930年(昭和5年)6月に、横須賀鎮守府(横鎮)にある横須賀海兵団へ入団。新兵教育を終えて同年12月に重巡洋艦「加古」に3等機関兵として配属される。1931年(昭和6年)10月、戦艦「比叡」に転属。 1932年4月に、横須賀の海軍工機学校に入校し、9月に卒業すると軽巡洋艦「多摩」に乗り組む。
馬場 金太郎(ばば きんたろう、1912年〈明治45年〉6月… 馬場 金太郎(ばば きんたろう、1912年〈明治45年〉6月28日 - 1993年〈平成5年〉1月6日)は、日本の医学博士、昆虫学者。新潟県で黒川病院、村上精神病院を設立し医療に貢献、また昆虫の研究に多大な業績を残した。 1912年(明治45年)、千葉県安房郡富浦町(現南房総市)に生まれる。旧姓は酒井。小学生の頃に、医院をひらいていた馬場家の養子として、新潟県北蒲原郡黒川村に移る。1930年(昭和5年)に新発田中学を卒業、1935年(昭和10年)に新潟高等学校を卒業する。1939年(昭和14年)に新潟医科大学を卒業後、同大学の解剖学教室の助手に任ぜられるが、10月に召集を受ける。軍医として中国に駐在していたが1946年(昭和21年)6月に復員し、1947年(昭和22年)5月に『南支広東「デルタ」に於ける「アノフェレス」蚊の「マラリア」流行病学的研究』で医学博士の学位を取得する。
佐古 利正(さこ としまさ、明治45年〈1912年〉6月26… 佐古 利正(さこ としまさ、明治45年〈1912年〉6月26日 - 平成10年〈1998年〉9月22日)は、日本の神職、教育者。宇津神社宮司。 明治45年(1912年)6月26日、佐古吉浦・しづ夫妻の五男として、山口県都濃郡鹿野町(現周南市)に誕生した。 昭和5年(1930年)、旧制山口県立岩国中学校を卒業すると、姉幸嬰の強い影響を受けて、同年4月1日に神宮皇學館本科第二部に入学した。同期には呉市出身の白石舜逸がいた。在学中の昭和7年(1932年)5月、神宮皇學館大講堂に於いてジョセフ・ウォーレン・ティーツ・メーソンの「神道の創造性について」という講演会が開かれこれに出席すると強い衝撃を受け、メーソンの『神ながらの道』を日夜読み耽ったという。
高山 辰雄(たかやま たつお、1912年(明治45年)6月2… 高山 辰雄(たかやま たつお、1912年(明治45年)6月26日 - 2007年(平成19年)9月14日)は、日本画家。文化勲章受章者。脚本家の高山由紀子は長女。
髙山 辰雄(たかやま たつお、1912年〈明治45年〉6月2… 髙山 辰雄(たかやま たつお、1912年〈明治45年〉6月26日 - 2007年〈平成19年〉9月14日)は、日本画家。文化勲章受章者。 大分市に生まれる。1931年(昭和6年)、東京美術学校(現・東京藝術大学)日本画科に入学、1936年(昭和11年)に卒業している。在学中から松岡映丘の画塾に入り、師事した。美校の卒業制作「砂丘」は、砂の上に座るセーラー服姿の若い女性を俯瞰的に描いた洋画風の作品で、後の高山の作風を思わせるものはほとんどない。 高山は戦後まもない1946年(昭和21年)ころ、ゴーギャンの伝記を読んで感銘を受け、その後の作風にはゴーギャンの影響がみられるようになる。1946年、第2回日展に裸婦ふたりを描いた「浴室」を出品し、特選となる。
森田 子龍(もりた しりゅう、1912年〈明治45年〉6月2… 森田 子龍(もりた しりゅう、1912年〈明治45年〉6月24日 - 1998年〈平成10年〉12月1日)は、日本の書家。兵庫県豊岡市出身。本名は「森田 清」。蒼龍社主宰・墨美社主宰。豊岡中卒。上田桑鳩に師事。1952年に「墨人会」を創立し、抽象画としての墨象の地位を確立する。主な作品に『龍知龍』などがある。
谷水 信夫(たにみず のぶお、1912年6月24日 - 19… 谷水 信夫(たにみず のぶお、1912年6月24日 - 1971年11月8日)は、日本の実業家、競走馬生産者、馬主。 関西でゴルフ場を運営するタニミズ企画株式会社の創業者。サラブレッド競走馬のオーナーブリーダー(生産馬主)としても著名であり、北海道にカントリー牧場を創業してタニノムーティエなど数々の活躍馬を輩出した。 1912年、和歌山県に生まれる。後に大阪府へ移って町工場規模の鉄工所を営んだが、太平洋戦争中に大阪大空襲で工場を焼かれ、一時廃業を余儀なくされた。終戦後は京都府に移り、駄馬による運送業を営んで資力の立て直しを図った。後に新たな鉄工所「マルナカ製作所」を興し、当時人気のあったポン菓子の製造機を量産、関西で8割のシェアを獲得した。
江口 俊男(えぐち としお、1912年〈明治45年〉6月23… 江口 俊男(えぐち としお、1912年〈明治45年〉6月23日 - 2001年〈平成13年〉5月15日)は、日本の内務・警察官僚。海軍司政官、警察庁長官。 佐賀県出身。佐賀高等学校を卒業。1934年10月、文官高等試験行政科試験に合格。1935年、東京帝国大学法学部を卒業。内務省に入省し土木局兼地方局属となる。 以後、広島県学務部社会課長、同経済部商工課長、広島県警察部警防課長、内務省地方局行政課勤務などを歴任。1943年、海軍司政官に任じられ南方に赴任。1946年に復員して鹿児島県警察部長に就任。 1948年、国家地方警察長崎県本部警察長に就任。以後、国家地方警察福岡県本部警察長、福岡県国家地方警察隊長、静岡県警察本部長、愛知県警察本部長、警察庁警備局長、同警務局長、警察庁次長を歴任。
茂手木 元蔵(もてぎ もとぞう、1912年6月21日 - 1… 茂手木 元蔵(もてぎ もとぞう、1912年6月21日 - 1998年6月25日)は、日本の古代哲学研究者。 山梨県甲府市出身。1938年東京帝国大学文学部哲学科卒。東洋高等学校講師、横浜大学[疑問点 – ノート]助教授、校名変更で横浜市立大学教授となり、1978年定年退官、名誉教授、大正大学教授を務めた。アリストテレスやルキウス・セネカを専門とする。
水野 忠夫(みずの ただお、1912年(明治45年)6月21… 水野 忠夫(みずの ただお、1912年(明治45年)6月21日 - 1976年(昭和51年)3月6日)は、日本の実業家。三井製糖社長や、初代精糖工業会会長を務めた。 岐阜県出身。1937年東京商科大学(現一橋大学)卒業。台湾製糖入社後、1949年第一物産入社。砂糖部長などを務め、1965年国際連合砂糖会議日本政府代表顧問。1970年三井製糖専務。1972年三井製糖社長。1974年全日本精糖工業会会長。同年全日本精糖工業会と日本精糖工業会が合併した精糖工業会の会長に就任。1976年に死去し、正五位勲三等旭日中綬章を追贈された。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
塩崎 源一郎(しおざき げんいちろう、1912年(明治45年… 塩崎 源一郎(しおざき げんいちろう、1912年(明治45年)6月21日 - 2000年(平成12年)5月25日)は、日本の紙芝居師である。 長野県須坂市に生まれ、17歳で上京し、ブリキ問屋に奉公するが後に紙芝居師としての活動を始める。1939年(昭和14年)に大阪市西成区に転居して紙芝居を始める。1947年(昭和22年)に紙芝居を制作・配給する三邑(さんゆう)会を設立する。後に全国に配給する絵元へと発展する。絵元とは、紙芝居を企画し、画家(原画)や作家(文章)に依頼して紙芝居として完成させ全国の紙芝居師に貸し出す仕事です。 1950年代には日本全国で紙芝居を披露し、多くの人々にその観賞に楽しむことに尽力する。
布施 津三(ふせ しんぞう、1912年6月20日 - 200… 布施 津三(ふせ しんぞう、1912年6月20日 - 2004年12月8日)は、日本の経営者。北越製紙社長、会長を務めた。 新潟県出身。1933年に長岡高等工業学校機械工学科を卒業し、同年に北越製紙に入社。1963年12月に取締役に就任し、1971年12月に常務、1973年12月に専務を経て、1977年7月に社長に就任。1983年7月に会長に就任し、1984年5月には越智泰二郎社長の体調不良により、再び社長に就任。1987年7月に会長を経て、1989年6月には相談役に退いた。 1941年9月に勲五等瑞宝章を受章し、1975年10月に藍綬褒章を受章し、1982年11月に勲三等瑞宝章を受章。 2004年12月8日急性呼吸不全のために死去。
野坂 一郎(のざか いちろう、明治45年(1912年)6月2… 野坂 一郎(のざか いちろう、明治45年(1912年)6月20日 - 没年不明)は、日本の無線技師、実業家、作家。元ラジオ山陰(現山陰放送)常務。 鳥取県米子市長・野坂康夫の伯父。洋食のレストランおよびレコード、楽器店を営んだ野坂康久(“十字屋”経営主)の長男。 鳥取県西伯郡米子町(現米子市)出身。康久の長男。 昭和7年(1932年)無線電信講習所本科卒業。大阪商船外国航路通信士。上海華中電気通信股份有限公司日立造船各勤務を経て、昭和29年(1954年)3月ラジオ山陰(現山陰放送)に弟陞三と勤める。 その間昭和13年(1938年)サンデー毎日大衆文芸第一席に当選。週刊朝日小説に三席入賞以後作品約十五発表。
和田 信賢(わだ のぶかた、1912年〈明治45年〉6月19… 和田 信賢(わだ のぶかた、1912年〈明治45年〉6月19日 - 1952年〈昭和27年〉8月14日)は、戦前から戦後にかけて活動したNHKのアナウンサー。妻は後輩アナウンサーの大島(旧姓)実枝子(1918年(大正7年)- 2016年(平成28年)、1939年入局)。 東京府に生まれ、東京府立第五中学校、第二早稲田高等学院を経て早稲田大学に進学するも中退した。1934年に日本放送協会(当時は社団法人)へ第1期アナウンサーとして入局した。 和田が一躍有名になった場面は、1939年の大相撲1月場所の実況中継である。和田はこの場所の実況中継を初日から4日目まで担当したが、4日目(1月15日・日曜日)に70連勝を目指していた双葉山定次が、結びの一番で安藝ノ海節男に外掛けで敗れ、連勝が69で止まった。
秀村 欣二(ひでむら きんじ、1912年6月19日 - 19… 秀村 欣二(ひでむら きんじ、1912年6月19日 - 1997年4月8日)は、日本の西洋史学者(古代ローマ史)。東京大学教養学部名誉教授。 1912年、福岡県福岡市で生まれた。旧制福岡中学(現・福岡県立福岡高校)、旧制福岡高等学校を経て、東京帝国大学文学部西洋史学科に進学。1936年に同大学を卒業。 東京大学教養学部教授。1973年に東京大学を定年退官し、名誉教授となった。その後は青山学院大学文学部教授として教鞭を執り、1984年に退職した。
池田 生二(いけだ せいじ、1912年〈明治45年〉6月17… 池田 生二(いけだ せいじ、1912年〈明治45年〉6月17日 - 1998年〈平成10年〉)は、日本の俳優。本名:池田清二。別名:池田生三。長男は脚本家の池田太郎。長野県諏訪郡上諏訪町(現諏訪市)出身。 4人兄弟の末っ子として生まれる。 旧制諏訪中学校卒業。日本大学経済学部卒業後、日本プロレタリア演劇同盟の演劇研究所の第1期研究生となり、東京左翼劇場を経て新築地劇団で活動。 1940年には思想統制により新築地劇団、新協劇団関係者らの一斉検挙が行われ、池田も検挙された。 戦時中は、丸山定夫らの苦楽座(後の移動演劇『桜隊』)に参加。広島への劇団疎開に参加したが、妻の実家の戦災見舞いのために静岡県沼津市に向い、広島原爆投下当日には広島にいなかった。
勝本 信之助(かつもと しんのすけ、1912年6月17日 -… 勝本 信之助(かつもと しんのすけ、1912年6月17日 - 1987年12月2日)は、日本の経営者。東京都出身。 1937年に東京帝国大学経済学部を卒業し、ゴム統制会、ブリヂストンでの勤務を経て、1954年に日本合成ゴム(現在のJSR)に入社。1962年5月に取締役に就任し、常務、専務を経て、1971年5月に副社長に就任し、1975年5月には社長に昇格。1982年6月には会長に就任。 1987年4月に勲二等瑞宝章を受章。 1987年12月2日肺炎のために死去。75歳没。
丸山 誠治(まるやま せいじ、1912年6月15日 - 19… 丸山 誠治(まるやま せいじ、1912年6月15日 - 1989年11月22日)は日本の映画監督。男性映画を得意とする一方、司葉子のデビュー作を撮った監督としても知られる。代表作に『男ありて』『太平洋奇跡の作戦 キスカ』『日本海大海戦』など。
大島 一芳(おおしま かずよし、1912年6月14日 - 1… 大島 一芳(おおしま かずよし、1912年6月14日 - 1983年1月16日)は昭和時代日本のジャーナリスト、新聞経営者。元中日新聞社代表取締役。愛知県出身。 出生名は大島 克巳(おおしま かつみ)で、1952年(昭和27年)3月24日付で「一芳」へ改名した。 1912年(明治45年)、愛知県東春日井郡守山町(現在の名古屋市守山区)で大島寿太郎の長男として出生。祖父の大島竹三郎は小幡大島本家第12代当主で、分家の東大島家第2代当主となった後に新愛知新聞社を創業した大島宇吉は一芳の大叔父に当たる。 1936年(昭和11年)に慶應義塾大学経済学部を卒業して大叔父の宇吉が経営する新愛知新聞社へ入社、戦時中は上海支局駐在。
朴 哲雄(パク・チョルン、朝鮮語: 박철웅、1912年6月1… 朴 哲雄(パク・チョルン、朝鮮語: 박철웅、1912年6月14日 - 1999年1月8日)は、日本統治時代の朝鮮の独立運動家、大韓民国の教育者、公務員、政治家、実業家。朝鮮大学校の共同設立者で第1・4・7代総長、第2・4・5代韓国国会議員(第5代は参議員)。 本貫は密陽朴氏、族譜名は玟洙。漢字表記は朴喆雄とも。父は朝鮮末期の農民戦争に参加した農民軍の朴学俊。実業家の朴誠燮、コラムニストの朴誠賢(朝鮮語版)ら4男3女がいる。 全南高興出身。全州新興学校在学中光州学生運動に参加して全州刑務所に29日間収監された。1941年明治大学政経学部政治科卒。1943年日本高等科法制経済教員免許取得。全羅南道運輸課長、光州夜間大学院設立者、朝鮮大学園設立者・総長、朝鮮大学附属中学院・中学校設立者・校長・理事長、初代・第4・7代朝鮮大学校総長(1948年5月26日~1960年5月26日、1963年11月6日~1980年8月6日、1986年12月2日~1987年12月25日)、光州新報社長、無所属および自由党所属の民議員、無所属の参議員、国際連合韓国協会全南支部長・韓国首席代表、誠実工高技術学校設立者、木浦工業技術校設立者、木浦護国工高校設立者、全羅南道8郡農工技術校設立者、高麗セメント会長を務めた。
小林 大祐(こばやし たいゆう、1912年6月13日 - 1… 小林 大祐(こばやし たいゆう、1912年6月13日 - 1994年8月21日)は、日本の経営者。富士通社長、会長を務めた。 兵庫県多可郡加美町(現多可町)出身。1935年に京都帝国大学工学部電気工学科を卒業し、同年に富士電機製造に入社。同年に富士通信機製造に転じ、1964年に取締役に就任し、常務、専務、副社長を経て、1976年3月に社長に就任。1981年6月に会長に就任し、1986年5月に取締役相談役を経て、1987年6月から相談役を務めた。 1965年に毎日工業技術賞を受賞し、1971年に紫綬褒章を受章し、1978年に藍綬褒章を受章し、1986年4月に勲一等瑞宝章を受章。 1994年8月21日、気管支肺炎のために死去。
高橋 安人(たかはし やすんど、1912年(明治45年)6月… 高橋 安人(たかはし やすんど、1912年(明治45年)6月12日 - 1996年(平成8年)10月29日)は、日本の機械工学者。工学博士(東京帝国大学)、カリフォルニア大学バークレー校名誉教授、豊橋技術科学大学名誉教授。当初は伝熱工学を専攻していたが、太平洋戦争後は日本の制御工学の草分けとして活躍した。世界の先端技術を日本に広めるとともに、日米の懸け橋としても功績がある。 名古屋帝国大学助教授、東京大学生産技術研究所教授、カリフォルニア大学バークレー校教授、豊橋技術科学大学教授を歴任。1978年にRufus Oldenburger Medal(英語版)、1994年に計測自動制御学会最初の功績賞を受賞。
森岡 健二(もりおか けんじ、1912年〈大正元年〉6月11… 森岡 健二(もりおか けんじ、1912年〈大正元年〉6月11日 - 2008年〈平成20年〉3月27日)は、日本の国語学者、上智大学名誉教授。 宮城県栗原郡生まれ。教員だった父の転勤で山形県、佐賀県に移り、佐賀高等学校を経て、1940年東京帝国大学国語国文学科卒。大学院に進むが、兵役のため1945年に退学。満洲勤務を経て1946年に広島高等学校教授、1949年に国立国語研究所所員、1953年に東京女子大学助教授、1958年に同教授。1970年に上智大学教授、1988年に定年退職、名誉教授。学外では、国語審議会委員をたびたび務めた。 兄は岡山大学教授・森岡常夫。 近代語の成立に関して、英華辞典や英和辞典における訳語を方法の変遷から調査し、それを中村正直や西周などの翻訳や聖書和訳と対照することで、それぞれの果たした役割を明らかにした。
林 百郎(はやし ひゃくろう、1912年6月10日 - 19… 林 百郎(はやし ひゃくろう、1912年6月10日 - 1992年6月1日)は、日本の政治家、弁護士。日本共産党衆議院議員。日本共産党議員所属初の「永年在職議員表彰」
オノサト・トシノブ(本名:小野里 利信、1912年〈明治45… オノサト・トシノブ(本名:小野里 利信、1912年〈明治45年〉6月8日 - 1986年〈昭和61年〉11月30日)は、日本の抽象画家、芸術家。 長野県下伊那郡飯田町(現・飯田市)生まれ。10歳から群馬県桐生市で育つ。 津田青楓の津田洋画塾出身。戦後はヴェネツィア・ビエンナーレやその他欧米の美術展に積極的に出品・参画した。グッケンハイム美術館や、日本各地の美術館に作品が収蔵されている。モザイク状の幾何学的抽象様式が知られ、版画、シルクスクリーン作品も多い。 1912年(明治45年) - 長野県下伊那郡飯田町(現・飯田市)に、長野県立飯田中学校の教師、小野里万蔵の長男として生まれる。 1919年(大正8年) - 父万蔵が北甘楽郡立実科高等女学校に転勤になり、一家は群馬県富岡町へ移住。