遠山 一行(とおやま かずゆき、1922年(大正11年)7月… 遠山 一行(とおやま かずゆき、1922年(大正11年)7月4日 - 2014年(平成26年)12月10日)は、日本の音楽評論家・実業家。日興證券会長を務めた遠山元一の長男。 遠山元一の長男として東京市麻布区笄町(現在の港区西麻布)に生まれ育つ。クリスチャンの家庭であり、一行自身もプロテスタントの信仰で育った。 1929年(昭和4年)、成城学園小学校に入学。同級に加藤一郎がいた。1933年(昭和8年)、澤柳政太郎没後の学園経営をめぐるトラブル、いわゆる成城事件(成城騒動)により小学6年時に自主退学し、第2学期から麻布区立南山小学校に転校。1935年(昭和10年)、府立高等学校尋常科に入学。第1学年2学期からピアノを朴啓成(後の属啓成)に師事。
吉瀬 維哉(よしせ しげや、1922年7月4日 - 2003… 吉瀬 維哉(よしせ しげや、1922年7月4日 - 2003年12月22日)は、日本の大蔵官僚。大蔵事務次官、日本開発銀行総裁。 神奈川県横浜市生まれ。横浜第一中学校時代、「開校以来の秀才」と言われていた。第一高等学校を経て、1944年、東京帝国大学法学部を卒業。武山海兵団に入団後、短期現役海軍主計科士官(11期)を志願し、同年2月に海軍主計見習尉官となり海軍経理学校に入校。同年9月に経理学校を卒業し、第31海軍航空廠付となる。同年12月、海軍主計少尉に任官。1945年4月、東京監督官事務所横浜支部に転じ、造船関係を担当。同年9月に主計中尉に進んで予備役に編入された。 1946年に大蔵省へ入省し大臣官房文書課に配属。
藤原 彰(ふじわら あきら、1922年7月2日 - 2003… 藤原 彰(ふじわら あきら、1922年7月2日 - 2003年2月26日)は、日本の歴史学者。日本近代史専攻。一橋大学名誉教授。1980年日本学術会議会員。元歴史学研究会委員長。
金 寿煥(キム・スファン、きん じゅかん、朝鮮語:김수환、1… 金 寿煥(キム・スファン、きん じゅかん、朝鮮語:김수환、1922年7月2日 - 2009年2月16日)は、洗礼名をステファノといい、大韓民国初の枢機卿である。本貫は光山金氏。 金寿煥は、1922年7月2日に日本統治時代の朝鮮の大邱で8番目の子供として生まれた。 聖ユスティノ神学校を経て1941年から日本の上智大学で哲学を学んだが、1944年1月に学徒出陣して日本軍の任務に就いた。父島で士官候補生訓練を受けたが、差別に抗議した結果幹部候補生資格を剥奪され、一等兵として終戦を迎える。なお、小笠原事件を目撃しており、戦後グアム法廷で証言した。 1947年から1951年まで韓国天主教大学で哲学の勉強を続け、1957年から1964年までドイツのミュンスター大学で神学及び社会学を学んだ。
小林 靖雄(こばやし やすお、1922年7月1日 - 200… 小林 靖雄(こばやし やすお、1922年7月1日 - 2003年10月6日)は、日本の経営学者。学位は、経営学博士(神戸大学・論文博士・1962年)(学位論文「原価管理に関する研究」)。東京工業大学名誉教授。第3期日本中小企業学会会長。勲三等旭日中綬章受章。 東京出身。東京商科大学(現一橋大学)卒。1962年「原価管理に関する研究」で経営学博士(神戸大学)の学位を取得。1947年東京工業大学経営工学科助手(磯部喜一研究室)、1953年助教授、1962年教授、1976年工学部長、1983年定年退官、名誉教授、放送大学副学長、西東京科学大学(帝京科学大学)教授、1995-2000年同学長。2003年帝京大学医学部附属病院で死去。
清岡 卓行(きよおか たかゆき、1922年(大正11年)6月… 清岡 卓行(きよおか たかゆき、1922年(大正11年)6月29日 - 2006年(平成18年)6月3日)は、日本の詩人、小説家、評論家、法政大学名誉教授。位階は従四位。 関東州の大連生れ。東京大学文学部仏文科で渡辺一夫に師事した。また、長らく、法政大学教授として新入生などにフランス語の基礎を、さらに、萩原朔太郎作品などをテキストに、人文特別講義を担当し、学部や専攻にかかわらず多くの学生を指導した。1996年に日本芸術院会員。 妻は作家の岩阪恵子(いわさか けいこ、本名 清岡惠子)。前妻の息子清岡智比古は、フランス語学者で明治大学理工学部教授。創作活動も行っている。 ロシア・日本の租借地であった大連で、生まれてから敗戦による本土引き揚げまでの20数年間(内地での一高、東大在学時を途中に挟む)を過ごす。
平山 美代子(ひらやま みよこ、1922年6月29日 - 2… 平山 美代子(ひらやま みよこ、1922年6月29日 - 2005年以降消息不明)は、日本の女性歌手・童謡歌手。本名は磐瀬ゆき。 現在の東京都千代田区三番町出身。1933年に明仁親王(上皇明仁)が誕生した際に「皇太子さまお生まれなつた」を歌い一躍スター歌手となった。 1922年、三越の美術部に勤務する岩瀬純の四女として東京府東京市麹町区三番町に生まれる。六人兄弟(二男四女)の末っ子であったが、長兄は幼少期の爆発事故により右眼を失明し、長姉もこの事故により右手の親指と人差し指にに大けがを負っている。また、次兄は1925年頃に自家中毒で夭逝している。 小学三年生のとき、学校教師に誘われ東京子供音楽会に入会する。
永野 茂門(ながの しげと、1922年〈大正11年〉6月28… 永野 茂門(ながの しげと、1922年〈大正11年〉6月28日 - 2010年〈平成22年〉1月4日)は、日本の陸軍軍人、陸上自衛官、政治家。陸上幕僚長、参議院議員(2期)、法務大臣などを歴任した。法務大臣は在任11日で辞任した。 大分県出身。大分中学校(現:大分県立大分上野丘高等学校)、広島陸軍幼年学校、陸軍士官学校予科を経て、1941年7月に陸軍士官学校を卒業(第55期)し陸軍将校となる。終戦時は電信第13連隊中隊長、陸軍大尉。 戦後、公職追放を経て、陸上自衛隊に入隊し通信科出身ながら陸上幕僚長となるも、1980年に宮永スパイ事件の責を取る形で時の防衛庁長官・久保田円次とともに辞任した。 1986年、第14回参議院議員通常選挙に自由民主党公認で比例区から出馬し、名簿順位は25名中21位だったが、自民党の大勝により当選した(22位までが当選)。
中川 成夫(なかがわ しげお、1922年6月28日 – 20… 中川 成夫(なかがわ しげお、1922年6月28日 – 2000年9月16日)は日本の考古学者、博物館学者。近世考古学の提唱者として、以後の研究に道を開くとともに、博物館学の第一人者として長年にわたって研究に携わり、学芸員の養成にも尽力した。 大阪府生まれ。1942年に台北帝国大学予科文科に入学し、1944年に修了。同年10月1日に同大学文政学部史学科南洋史学専攻に進学する。1946年台北帝国大学廃止により、東京帝国大学文学部史学科に転入学し、1949年に卒業。同年、東京大学助手に採用される。1955年に東京大学を退職し、1957年立教大学専任講師、1960年同大学助教授、1967年教授となり、文学部で考古学の授業を受け持つとともに、学芸員課程で博物館学も担当する。
神 彰(じん あきら、1922年6月27日‐1998年5月2… 神 彰(じん あきら、1922年6月27日‐1998年5月28日)は、北海道出身の興行師、事業家、国際芸能プロモーター。
鶴見 俊輔(つるみ しゅんすけ、1922年〈大正11年〉6月… 鶴見 俊輔(つるみ しゅんすけ、1922年〈大正11年〉6月25日 - 2015年〈平成27年〉7月20日)は、日本の哲学者・評論家・政治運動家・大衆文化研究者。アメリカのプラグマティズムの日本への紹介者のひとりで、都留重人、丸山眞男らとともに戦後の進歩的文化人を代表する1人とされる。 米国ハーバード大学で哲学を学んだのち、リベラルな立場の批評で論壇を牽引。思想史から大衆文化まで幅広い分野を扱う。著書は『戦時期日本の精神史』(1982年)、『アメリカ哲学』(2008年)など多数。 1922年6月25日、東京府東京市麻布区(現在の東京都港区)で、父・祐輔と母・愛子(後藤新平の娘)の間に、4人きょうだいの2番目(長男)として生まれる。
吉沢 正五(よしざわ しょうご、1922年 <大正11年> … 吉沢 正五(よしざわ しょうご、1922年 <大正11年> 6月24日 - 1994年 <平成6年> 11月18日)は日本の政治家。白根市(現・新潟市)長(6期)。土地家屋調査士。位階は従五位。 新潟県出身。1942年東京農業大学農業土木技術員養成所卒。翌年兵役に就いた。戦後は新潟県中蒲原郡庄瀬村(のち白根市、現・新潟市)農地委員会、長岡市農林課、新潟県農業会議などに勤務する。1961年白根市長に当選。市長在職中は上下水道や都市ガスの整備、保育や教育施設の充実、農村総合整備モデル事業や大圃馬整備事業を推進した。市長を1985年までの6期24年務めた。1994年死去。死没日付をもって従五位に叙された。
阿部 文男(あべ ふみお、1922年6月23日 - 2006… 阿部 文男(あべ ふみお、1922年6月23日 - 2006年12月6日)は、日本の政治家。 衆議院議員(7期)、北海道開発庁長官(第53代)、沖縄開発庁長官(第22代)、宏池会事務総長などを歴任した。 山形県東根市出身。北海道帝国大学附属農林専門部を卒業した。 函館市議会議員などを務めた。1963年の北海道議会議員選挙に立候補し、函館市選挙区から当選した。以来、連続2期当選を果たした。北海道議会では、商工労働委員会や予算特別委員会において、それぞれ副委員長を務めた。第32回衆議院議員総選挙立候補のため、2期目の1969年12月6日に辞職した。 北海道議会議員辞職後、1969年の衆議院議員総選挙に立候補し、旧北海道第3区にから当選を果たした(当選同期に小沢一郎・羽田孜・梶山静六・奥田敬和・渡部恒三・綿貫民輔・塩崎潤・森喜朗・村田敬次郎・松永光・江藤隆美・中山正暉・浜田幸一など)。
新津 義雄(にいつ よしお、旧姓:数間、1922年〈大正11… 新津 義雄(にいつ よしお、旧姓:数間、1922年〈大正11年〉6月22日 - 2011年〈平成23年〉12月27日)は、日本の実業家。丸新グループ創立者・初代代表、テレビ新潟放送網第2代社長・最高顧問、新津記念館初代館長・理事長。 新潟県新潟市(現 新潟市中央区)に生まれ、新潟市旭町通1番町(現 新潟市中央区旭町通1番町)の新津石油創業者・新津恒吉の養子になった。 新潟師範学校附属小学校を経て、1940年(昭和15年)3月に新潟中学校を卒業、1942年(昭和17年)9月に新潟高等学校を半年繰り上げ卒業、1946年(昭和21年)9月に東北帝国大学法文学部法科を卒業。 1946年(昭和21年)10月に石油販売会社・丸新産業を創立し副社長に就任、1949年(昭和24年)5月に丸新石油を創立し社長に就任、同月に昭和石油監査役に就任、1972年(昭和47年)9月に新津石油を創立し社長に就任、1984年(昭和59年)5月に全国石油協会副会長に就任、1988年(昭和63年)6月にテレビ新潟放送網第2代社長に就任、1992年(平成4年)8月に父の新津恒吉が建てた迎賓館を新津記念館として開館し初代館長に就任。
鈴木 清三(すずき せいぞう、1922年6月20日 - 20… 鈴木 清三(すずき せいぞう、1922年6月20日 - 2008年1月12日)は、日本のオーボエ奏者。 北海道札幌市出身。父親は清元高輪派の名匠:清元清美太夫。 1942年、東京音楽学校(現・東京藝術大学)在学中に、満州国建国10周年奉祝使節団として東京音楽学校によって組織されたオーケストラに参加し、首都・新京その他で演奏に加わった。1944年、東京音楽学校を学徒出陣で繰上げ卒業。海軍航空隊で終戦を迎えた。卒業演奏はグロヴレーズの「サラバンドとアレグロ」(1943年末の報国演奏会)で、ピアノ伴奏を中田一次が務めた。 復員後、研究科に復学、修了後は東京フィルハーモニー交響楽団、NHKサロン・アンサンブル、日本フィルハーモニー交響楽団(創立メンバー)を経て、1972年に新日本フィルハーモニー交響楽団の結成に参画し、首席奏者、運営委員長、楽団長、名誉首席奏者を歴任、1992年のリサイタルまで長く演奏活動を続けた。
内田 正泰(うちだ まさやす、1922年6月20日 - 20… 内田 正泰(うちだ まさやす、1922年6月20日 - 2019年9月12日)は、日本の貼り絵画家。神奈川県横須賀市出身。 洋紙の特性を最大限に活かし、100色以上もの色彩を駆使して、日本の四季折々の風景や郷愁を誘う情景を作り出す。スケッチをせず、心に刻み込まれた風景を直接キャンバスに表現するスタイルで貼り絵を作成した。 作品は永谷園の「あさげ」のパッケージや、「青雲(日本香堂)」のCM、そして坂本冬美『ふるさとの空へ』(2018年)や、南佳孝&杉山清貴『愛を歌おう』(2020年)のアルバムジャケットなどに採用されている。南は「たまたま見つけた夏の田舎の風景画の、はり絵とは思えない繊細さに心を奪われた」と作品から受けた印象を述べている。
紅野 敏郎(こうの としろう、1922年6月19日 - 20… 紅野 敏郎(こうの としろう、1922年6月19日 - 2010年10月1日)は、日本の日本文学研究者。専門は日本近代文学、特に白樺派の作家。早稲田大学名誉教授。息子は日本大学教授で日本文学研究者の紅野謙介。 兵庫県西宮市生まれ。中学卒業後は家業の醸造業に従事するが、1943年招集されてスマトラ島に出征する。敗戦後、1年あまりの捕虜生活を送る。1947年大東文化学院国語国漢科に入学、1949年早稲田大学第一文学部国文学科に編入学。1952年、同大学卒業。1953年から1960年まで京華学園教諭を務め、1960年早稲田大学教育学部専任講師。1962年同助教授、1967年同教授。1992年定年退職、名誉教授。
市井 三郎(いちい さぶろう、1922年(大正11年)6月1… 市井 三郎(いちい さぶろう、1922年(大正11年)6月18日 - 1989年(平成元年)6月28日)は、日本の哲学者(分析哲学・社会思想)。位階は従五位。勲四等旭日小綬章。 1927年、大阪府生まれ。都島工業学校、大阪高等学校 を経て大阪大学理学部を卒業後、マンチェスター大学を経てロンドン大学大学院哲学科修了。1954年(昭和29年)に愛知教育大学助教授を経て、1961年(昭和36年)以後は成蹊大学教授。1988年(昭和63年)成蹊大学名誉教授。 戦後、鶴見俊輔らが主催する思想の科学研究会に加わり、雑誌『思想の科学』を編集し、執筆を連載する。1970年代に鶴見和子・山田慶児・桜井徳太郎らと「思想の冒険」グループに参加した。
松井 康浩(まつい やすひろ、1922年6月18日ー2008… 松井 康浩(まつい やすひろ、1922年6月18日ー2008年6月5日)は、日本の弁護士。東京弁護士会所属。 広島県出身。早稲田大学法学部卒。日中戦争に経理部士官として従軍し日本軍の実態を目撃したことと、弟から広島原爆の被害の実態を聞かされたことが法律家としての原点となる。1951年弁護士を開業し、青年法律家協会など革新系法曹団体の結成に参加。1955年から原爆被害者の国家賠償訴訟を担当、63年原爆投下の違法性を明らかにする東京地裁の判決をひきだした。原水爆禁止日本協議会代表理事。1973年・1974年度の日本弁護士連合会事務総長。事務所の所属弁護士の出身者に廣谷陸男がいる。
沢田 政治(さわだ まさじ、1922年6月18日 - 198… 沢田 政治(さわだ まさじ、1922年6月18日 - 1985年10月15日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)、参議院議員(2期)。 現在の秋田県鹿角市出身。東京帝国大学卒業後、三菱金属に入社。全日本金属鉱山労働組合副委員長、同事務局長、総評幹事などを歴任する。 1963年の第30回衆議院議員総選挙で秋田1区から日本社会党公認で立候補して当選。1967年の第31回衆議院議員総選挙で落選した。同年、松野孝一(自由民主党)の死去による参議院議員補欠選挙で秋田地方区から立候補して初当選。2期務めた。この間、参議院建設委員長や参議院国会対策副委員長などを務めた。1977年の第11回参議院議員通常選挙では自民党公認の野呂田芳成に敗れて落選。
林 英作(はやし えいさく、1922年〈大正11年〉6月16… 林 英作(はやし えいさく、1922年〈大正11年〉6月16日 - 2003年〈平成15年〉6月24日)は、日本の薬学者(有機化学)。勲等は勲三等。学位は薬学博士(東京大学・1951年)。静岡薬科大学名誉教授、社団法人日本薬学会有功会員。 東京帝国大学医学部助手、東京大学医学部助手、静岡薬科大学薬学部教授、静岡薬科大学附属図書館館長などを歴任した。 東京府出身の有機化学を専攻する薬学者である。含窒素芳香族複素環式化合物の研究に従事し、特に芳香族ジアジン類の研究で知られている。東京帝国大学、東京大学、静岡薬科大学、といった教育・研究機関で教鞭を執った。 1922年(大正11年)6月16日、東京府にて生まれた。
岩田 孝八(いわた こうはち、1922年(大正11年)6月1… 岩田 孝八(いわた こうはち、1922年(大正11年)6月16日 - 2012年(平成24年)7月3日)は、日本の実業家である。長崎屋の創業者として知られた。 神奈川県茅ヶ崎市に生まれる。 藤沢商業学校(現在の藤沢翔陵高等学校)卒業。2年間の浪人生活を経て、日本国際航空工業(のちの日産車体)に入社。その後、軍隊生活を経験してから家業のふとん屋に就いた。 戦後間もなく氷水屋『オアシス』を開業。彼は連日自転車に乗って、アイスキャンディを売った。この稼ぎをもとにして、1948年(昭和23年)に平塚市で長崎屋布団店として開業する。1950年(昭和25年)には衣料品専門店に転業。その年の11月、原町田に支店の第1号が誕生した。
竹前 重吉(たけまえ じゅうきち、1922年6月15日 - … 竹前 重吉(たけまえ じゅうきち、1922年6月15日 - 2011年9月11日)は、日本の映画監督である。名の読みは「しげきち」説あり。日本映画監督協会会員。 1922年(大正11年)6月15日、山梨県甲府市に生まれる。 1940年(昭和15年)、旧制・甲府中学校(現在の山梨県立甲府第一高等学校)を卒業、第二次世界大戦の召集を受け出征、戦後1946年(昭和21年)に南方戦線から復員する。1947年(昭和22年)、俳優の長谷川一夫が主宰する新演伎座の文芸部に入社し、映画監督の衣笠貞之助や冬島泰三に師事する。 1953年(昭和28年)、宝塚映画製作所(現在の宝塚映像)助監督課に移籍、冬島のほか、豊田四郎、丸根賛太郎、佐伯幸三らの助監督を務め、1959年(昭和29年)、同社が製作した劇場用映画『やりくりアパート』で監督に昇進、社員から契約監督となる。
渡邊 進(わたなべ すすむ、1922年〈大正11年〉6月15… 渡邊 進(わたなべ すすむ、1922年〈大正11年〉6月15日 - 2003年〈平成15年〉12月22日)は、日本の医師・医学者・教育者・元地方公務員・医学博士(北海道大学)。北海道女子大学名誉学長・北海道女子短期大学名誉教授である。北海道出身で「渡辺進」とも表記される。 ただし、北海道女子短期大学記念誌では、「渡邉進」と表記されている。 1946年(昭和21年)、名古屋帝国大学医学部公衆衛生科を卒業する。同医学部助手を務める。翌年の1947年(昭和22年)に医師免許を取得する。 1948年(昭和23年)、札幌市役所教育部技師として入所する。 1949年(昭和24年)、札幌市保健所に入所する。1956年(昭和31年)、同所長となる。
伊藤 秀雄(いとう ひでお、1922年〈大正11年〉6月10… 伊藤 秀雄(いとう ひでお、1922年〈大正11年〉6月10日 - 2002年〈平成14年〉)は、日本の柔道家(講道館9段)、法務教官。旧姓大久保。 1922年、富山県富山市の富豪農家であった大久保家に生まれる。旧制神通中学校(現・県立富山中部高校)に入学すると、柔道か剣道が必須科目となっており、付き添いで来ていた父親が柔道の選択を即決したのが斯の道との出会いになった。身長173cm・体重72kgという大柄な体格に加え、2年生の時に寒稽古の納会試合で14人抜き達成したのが同校の柔道教師であった三鍋義三6段の目に付き、勧誘されて本格的に柔道を始めた。記録上の講道館入門は1938年10月4日付で、翌10月5日には初段を拝受。
鬼頭 恭一(きとう きょういち、1922年(大正11年) 6… 鬼頭 恭一(きとう きょういち、1922年(大正11年) 6月10日 - 1945年(昭和20年) 7月29日)は日本の作曲家。東京音楽学校本科在学中に学徒出陣、終戦17日前に霞ヶ浦航空隊で飛行訓練中に事故死した。戦後70年にあたる2015年、戦死した遺骨が故郷の愛する人の元に帰る情景を描いた歌曲「雨」が初演された。 大正11年(1922年)6月10日、名古屋中心地で酒問屋を営む父・儀一、母・成子の四人兄妹の長男として生まれる。実家近くにあったキリスト教系の幼稚園で賛美歌を耳にした事が、恭一の音楽の原点であった。幼少期の恭一について2歳年下の弟・哲夫は次のように証言している。 兄は幼い頃から「珍しいもの、新しいもの」を好み、やりたいことや欲しいものはとことん追求しなければ気が済まない「やんちゃくちゃ」(当時の名古屋弁) な腕白小僧で、しょっちゅう両親を困らせていました。
森 進一(もり しんいち、1922年6月10日 - 2005… 森 進一(もり しんいち、1922年6月10日 - 2005年10月11日)は、日本の古代ギリシア哲学研究者、小説家、関西医科大学名誉教授。 京都府京都市出身。京都帝国大学文学部で古代ギリシア哲学を専攻し、田中美知太郎の指導を受け、京大大学院古代哲学専攻博士課程中退。京都大学非常勤講師を経て、64年関西医科大学教養部助教授、65年教授、91年定年、名誉教授。 また森泰三の名で文学作品も発表、1963年「砧」で芥川賞候補、1972年「冬へ」、1976年「結婚」で3度候補にあがった。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
亀山 龍樹(かめやまたつき、1922年6月10日 - 198… 亀山 龍樹(かめやまたつき、1922年6月10日 - 1980年3月23日)は、日本の翻訳家、作家。 佐賀県生まれ。東京帝国大学文学部インド哲学科卒業。第二次世界大戦に学徒兵として出征。 戦後は白木茂の下訳をし、小谷剛の同人誌『作家』に拠って小説を書いていた。 日本児童文芸家協会理事、少年文芸作家クラブ会長を務める。表記には亀山竜樹もある。息子に、写真家の亀山哲郎がいる。 翻訳家としては英文和訳を専門とした。英語以外の作品は、恐らく他人の翻訳をリライトしたものだが、これは児童文学の世界ではよくあることである。 最初に刊行された訳書はエラリー・クイーン『金色のわしの秘密』である。以後も英米のジュブナイルの翻訳、一般向けのSF・ミステリ・冒険小説を児童向けに抄訳することを主たる仕事とした。
長谷川 不二雄(はせがわ ふじお、1922年6月10日 - … 長谷川 不二雄(はせがわ ふじお、1922年6月10日 - 2016年1月22日)は、日本の経営者。日本製粉社長、会長を務めた。 北海道出身。1944年に早稲田大学法学部を卒業し、1946年6月に日本製粉入社。 1978年6月に取締役に就任し、1982年6月に常務、1984年6月に専務を経て、1989年6月には社長に就任。1993年6月に会長に就任し、1997年6月に相談役を経て、2000年6月には特別顧問に就任。 1998年11月に勲三等旭日中綬章を受章。 2016年1月22日老衰のために死去。93歳没。
小松 定夫 (こまつ さだお、1922年6月9日 - 199… 小松 定夫 (こまつ さだお、1922年6月9日 - 1995年10月30日)は、日本の土木工学者。 工学博士。土木学会名誉会員。大阪大学名誉教授。 専門は薄肉構造理論、弾塑性構造解析理論、空力弾性学など。なかでも薄肉曲線桁理論は都市高架道路橋の建設に影響を与えた。同理論は阪神高速道路の3径間連続鋼床版曲線箱桁橋(土木学会選奨土木遺産)、通称中之島S字橋の設計にも適用された。 大阪市に生まれる。大阪市立都島工業学校機械科、旅順工科大学予科を経て1946年9月、京都帝国大学工学部応用物理学科(旧航空)を卒業した。 民間会社、大阪府技師などを経て、1953年3月大阪市立大学工学部助手に就任する。同大学を講師、助教授と進み、1961年12月京都大学より工博の学位を授与される。
降旗 武彦(ふりはた たけひこ、1922年6月9日-2002… 降旗 武彦(ふりはた たけひこ、1922年6月9日-2002年8月8日)は、日本の経営学者。 長野県南安曇郡三郷村(現安曇野市)出身。旧制弘前高等学校卒、京都帝国大学に入るが兵役で入隊し、1945年 軽巡洋艦 矢矧に乗り込み大和を護衛して出撃するが撃沈されて負傷する。1947年京都帝国大学経済学部卒、同大学院をへて、1971年「経営管理過程論の新展開 Management Theory Jungleへの一試論」で経済学博士。1951年京都大学経済学部講師、1957年助教授、1970年教授。1986年定年退官し、名誉教授となり、朝日大学教授、1989年大阪国際大学教授を務め、95年退職。70年「経営管理過程論の新展開」で日経・経済図書文化賞受賞。
前田 真三(まえだ しんぞう、1922年6月3日 - 199… 前田 真三(まえだ しんぞう、1922年6月3日 - 1998年11月21日)は、日本の写真家。上高地、奥三河、富良野(北海道美瑛町・上富良野町)などにおいて風景写真や山岳写真を多数撮影し、「色彩の魔術師」と呼ばれた。 長男は写真家の前田晃で、父親が設立した写真事務所「丹渓」を継いでいる。 前田真三が写真活動のために1967年(昭和42年)に設立した会社の社名「丹渓」は、前田真三と南アルプスにある「丹渓山荘」(長野県伊那市)との親交から付けられたとされる。この社名から、前田真三の作風を「丹渓調」と呼ぶことがある。「風景写真は出合いの瞬間が大切」を持論としている。風景を撮影する際に、とかく一カ所に留まって天候や光線の状態が良くなる時を待ちながらシャッターチャンスをうかがうという消極的な姿勢になりがちなことに対し、前田真三の場合は、風景に出合った瞬間に手際よく写してゆくという、積極的に風景を求めてゆく姿勢で取り組んでいる。
小高 敏郎(おだか としお、1922年6月3日 - 1966… 小高 敏郎(おだか としお、1922年6月3日 - 1966年10月27日)は、日本の国文学者。 横浜市生まれ。第一高等学校を経て、1943年に東京帝国大学国文科入学。学徒出陣で伊豆大島で陸軍少尉。1948年、東京大学国文科卒。養徳社勤務を経て、1952年、学習院教授。1956年に東京大学国語国文学会賞受賞(久松賞)を受賞。1956年、共立女子大学短期大学部助教授。1960年、学習院大学助教授。1964年、教授。貞門俳諧を専門とした。44歳で死去。
高木督夫(たかぎ ただお、1922年6月3日 - 2012年… 高木督夫(たかぎ ただお、1922年6月3日 - 2012年12月8日)は、日本の経営学者。法政大学名誉教授。労働問題が専門。 大阪市出身。1946年東京帝国大学経済学部卒。労働科学研究所研究員、理事、法政大学工学部助教授、教授を務め、1993年定年となり名誉教授、立命館大学教授を務めた。労働者教育協会理事。
桶本 正夫(おけもと まさお、1922年6月2日 - 200… 桶本 正夫(おけもと まさお、1922年6月2日 - 2008年12月19日)は、日本の経営者。神奈川新聞社社長、会長を務めた。 福岡県出身。1949年に東京大学法学部政治学科を卒業し、同年に朝日新聞社に入社した。1981年1月には神奈川新聞社社長に就任した。1992年6月に会長に就任し、1993年12月から相談役を務めた。 2008年12月19日、肺炎のために死去。86歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
森下 彰子(もりした あやこ、1922年6月1日 - 194… 森下 彰子(もりした あやこ、1922年6月1日 - 1945年8月6日)は日本の女優。
白石 道義(しろいし みちよし、1922年6月1日 - 20… 白石 道義(しろいし みちよし、1922年6月1日 - 2013年10月5日)は、日本の経営者。東京都出身。 1944年に中央大学法学部を卒業し、1946年に日産火災海上保険に入社。1972年6月に取締役に就任し、1976年7月に常務、1978年7月に専務を経て、同年11月には社長に就任。1981年7月に会長を経て、1984年7月に相談役に就任。 1983年11月に藍綬褒章を受章。 2013年10月5日心不全のために死去。91歳没。
清水 夏樹(しみず なつき、1922年(大正11年)6月1日… 清水 夏樹(しみず なつき、1922年(大正11年)6月1日 - 2007年(平成19年))は、日本の実業家。入間川ゴム社長・会長。 1922年(大正11年)6月1日、東京都に生まれた。北木島石材社長の片岡孫四郎の四男である。入間川ゴムの創業者であり社長の清水逸平の養子となった。 1949年(昭和22年)に東京大学経済学部経済学科を卒業し、日興証券に入社して債券部に勤務した。1951年(昭和26年)7月、家業の入間川ゴム副社長に就任した。1953年(昭和28年)8月30日、長男の清水秀樹が生まれた。妻は逸平の長女である玲子。1961年(昭和36年)には海外のゴム事情の視察を行った。 1963年(昭和38年)11月、養父の逸平は入間川ゴム会長に就任し、夏樹が入間川ゴム社長に就任した。
石川 次夫(いしかわ つぎお、1922年(大正11年)6月1… 石川 次夫(いしかわ つぎお、1922年(大正11年)6月1日 - 2011年(平成23年)2月21日)は、昭和から平成時代の政治家。宮城県名取市長。 名取市出身。東北帝国大学卒業。 1955年(昭和30年)名取町収入役、1958年(昭和33年)名取市収入役、1971年(昭和46年)助役を経て、1980年(昭和55年)名取市長に当選。6期24年務めた。
一瀬 智司(いちのせ ともじ、1922年5月31日 - 20… 一瀬 智司(いちのせ ともじ、1922年5月31日 - 2010年4月6日)は、日本の行政学者。国際基督教大学・石巻専修大学名誉教授。公共企業論。 千葉県市川市出身。東京大学法学部卒。53年同大学院修了、67年「公共企業体の財務管理に関する理論的・実証的研究 予算の役割、とくに資本予算の特質と設備計画の問題を中心にして」で経済学博士を取得。1948年会計検査院勤務、1953年埼玉大学講師、55年助教授、1963年国際基督教大学教授。社会科学研究所長、社会科学科長、1988年名誉教授。石巻専修大学教授、名誉教授。
キノ トール(1922年5月30日〈または5月31日〉 - … キノ トール(1922年5月30日〈または5月31日〉 - 1999年11月29日)は、日本の劇作家、脚本家、演出家。本名は木下 徹(きのした とおる)。東京都出身。テアトル・エコー顧問。妻は、産婦人科医、性医学評論家であるドクトル・チエコ(本名:木下 和子)。 出生時の姓名は松宮 徹。父は東京市世田谷区在住の松宮三郎。のちに木下荘()(満洲パルプ工業常務)の養子となる。俳優の松宮五郎(本名:隆)は、徹の実弟にあたる。 日本大学芸術学部卒業。第二次世界大戦中、予備学生として学徒出陣、海軍航空隊中尉で終戦を迎える。戦後、「独立劇場」設立。「東京青年劇場」を経てテアトル・エコーに入団。脚本家、演出家として劇団活動の基礎を築いた。
能村龍太郎(のうむらりょうたろう、1922年5月29日 - … 能村龍太郎(のうむらりょうたろう、1922年5月29日 - 2006年1月19日)は、昭和後期-平成時代の経営者。 1922年(大正11年)生まれ、市岡中学校(現・大阪府立市岡高等学校)を卒業。1946年(昭和21年)、「能村縫工所」を設立し、リュックサックや船舶用シートを製造する。1947年(昭和22年)、株式会社に組織を変更、太陽工業と改称し社長となる。1977年(昭和52年)、会長に就任。各種テントを中心に業績をのばし技術開発を進め、東京ドームの屋根膜などの施工を担う。1985年(昭和60年)のつくば博では、テント製パビリオンの9割、大阪万博のアメリカ館などのパビリオンを手がける。その他、関西経済同友会の幹事を務め、1995年(平成7年)には大阪文化賞を受賞する。
小畑 幸雄(おばた ゆきお、1922年5月28日 - 201… 小畑 幸雄(おばた ゆきお、1922年5月28日 - 2015年11月24日)は、日本の経営者。野村不動産社長を務めた。東京都出身。 1942年に大阪商科大学高商部を卒業し、同年に野村證券に入社。1962年11月に取締役に就任し、1966年11月に常務、1971年4月に専務、1973年11月に副社長、1981年12月に監査役を経て、1983年12月に野村不動産会長に就任し、1985年12月には社長も兼任。1987年12月に相談役に就任。 2015年11月24日狭心症のために死去。93歳没。
高橋 壽常(たかはし としつね、1922年5月28日 - 1… 高橋 壽常(たかはし としつね、1922年5月28日 - 1996年2月8日)は、日本の実業家。日本生命保険元副社長。関西経済同友会元代表幹事。 神奈川県横浜市出身。東京商科大学(現一橋大学)卒業。大学卒業後、日本生命保険に入社したのちも、経済学の勉強を続けた。日本生命保険副社長や、日本生命財団理事長を歴任し、1985年から1987年にかけては弘世現に続き日本生命保険出身者としては歴代2人目となる関西経済同友会代表幹事を務め、太平洋経済協力会議バンクーバー総会に参加するなどした。1994年企業メセナ協議会メセナアワードを日本生命財団が受賞し理事長として登壇した。 1996年2月8日、呼吸不全のため死去。
鮎川 十糸子(あゆかわ としこ、1922年5月28日 - 2… 鮎川 十糸子(あゆかわ としこ、1922年5月28日 - 2007年4月6日)は、大阪府大阪市出身の日本の女優。本名・西川寿美(にしかわ としみ)。 大阪市東区(当時。現・中央区)生。四条畷高等女学院女学校を卒業後、東宝京都撮影所に俳優養成所の生徒として入社。1941年東宝東京撮影所に移籍し、石田民三監督作品「をり鶴七変化」の主演に抜擢。以後も石田、並びにマキノ正博監督の作品を中心に活躍し、1943年に松竹京都撮影所に移籍。中でも1950年に上映された『七つの宝石』では大坂志郎とのベッドシーンで話題となった。 1958年松竹を退社した後は、テレビのドラマやアニメ『じゃりン子チエ』の竹本菊(おバァ)役などで活躍。
宮城 黎子(みやぎ れいこ、1922年5月27日 - 200… 宮城 黎子(みやぎ れいこ、1922年5月27日 - 2008年6月1日)は、東京都大田区田園調布出身の女子テニス選手。東京府立第三高等女学校卒。 1950年代から60年代にかけて一世を風靡し、全日本選手権では1952年にシングルス初優勝。男女通じ最多となるシングルス10回(8連覇を含む)、ダブルス11回、混合ダブルス11回優勝。史上最多となる合計32個のタイトルを獲得している。 1964年、第2回フェデレーションカップ(現・フェドカップ)の日本代表選手に選ばれた。この年に全豪選手権と全米選手権にも出場し、42歳にして4大大会に挑戦した。全豪選手権は初戦敗退に終わったが、全米選手権では1回戦を突破し、2回戦でビリー・ジーン・モフィット(アメリカ、当時21歳)に挑戦したことがある。
徳永 勇雄(とくなが いさお、1922年5月27日 - 20… 徳永 勇雄(とくなが いさお、1922年5月27日 - 2003年10月1日)は、日本の建築学者。 長崎県に出生。東京大学卒業後、同大学院修了。専門は建築経済。工学博士。明治大学で教鞭を執り、後に名誉教授。1965年に建築産業の構造分析に関する一連の研究で、日本建築学会賞受賞。その他、日本建築積算協会名誉会長、日本建築学会建築社会システム委員会委員長(1976~1983年)、全日本建築士会会長などを務めた。 [人物レファレンス事典: 昭和 (戦後)・平成編, 第 2 巻 日外アソシエーツ, 2003]
大河原 太一郎(おおかわら たいちろう、1922年〈大正11… 大河原 太一郎(おおかわら たいちろう、1922年〈大正11年〉5月26日 - 2017年〈平成29年〉3月5日)は、日本の農林水産官僚、政治家。群馬県出身。 参議院議員(3期)、農林水産大臣(村山内閣)、参議院予算委員長、農林水産事務次官などを歴任した。 群馬県碓氷郡松井田町新堀(現・安中市松井田町新堀)生まれ。松井田小学校、旧制高崎中学、旧制水戸高校を経て、東京帝国大学法学部に進学する。1943年(昭和18年)学徒出陣により経理軍人として樺太に赴任。1947年(昭和22年)東京帝国大学法学部政治学科を卒業。高等文官試験に合格して1947年農林省に入省。農政局に配属。農業協同組合課長、農地課長、大臣官房予算課長、企業流通部長、畜産局長等を経て大臣官房長、食糧庁長官、農林水産事務次官を歴任。
住田 正二(すみた しょうじ、1922年(大正11年)5月2… 住田 正二(すみた しょうじ、1922年(大正11年)5月26日 - 2017年(平成29年)12月20日)は、日本の官僚、実業家、運輸事務次官やJR東日本社長を務めた。 東京都副知事などを務めた住田正一の次男として生まれる。兄は住田俊一。兵庫県神戸市生まれだが、父の正一が呉造船所社長だった事から、本籍は居住経験のない広島県呉市で広島県人会にも登録されていた。またワイズメン・グループの大来佐武郎のあとを継いで、1979年ワイズメンに選ばれる。国際情勢研究会会長、国際戦略研究所副会長、アジア調査会理事などを歴任。1983年勲二等旭日重光章。 小学校から旧制高校まで成蹊で過ごし、同級生には緒方四十郎や堀江鉄弥がいた。
鈴木 精二(すずき せいじ、1922年5月25日 - 200… 鈴木 精二(すずき せいじ、1922年5月25日 - 2000年6月1日)は日本の実業家。三菱化成(現三菱ケミカル)代表取締役社長や、同社取締役会長、経団連副会長、石油化学工業協会会長、日本化学工業協会会長などを務めた。勲一等瑞宝章受章。 東京府(現・東京都)出身。旧制京北中学校を経て、旧制東京商科大学(現一橋大学)卒業。陸上競技部出身。三菱化成(のちの三菱化学、現在の三菱ケミカル)代表取締役社長、同社取締役会長、同社相談役、三菱化成生命科学研究所代表取締役、経済団体連合会(現日本経済団体連合会)副会長、石油化学工業協会会長、日本化学工業協会会長などを務めた。1986年藍綬褒章受章。1993年ダイヤ高齢社会研究財団初代理事長。