豊山 勝男(ゆたかやま かつお、1937年8月18日 - )… 豊山 勝男(ゆたかやま かつお、1937年8月18日 - )は、新潟県新発田市出身で時津風部屋に所属した元大相撲力士。本名は内田 勝男(うちだ かつお)。最高位は東大関。現役時代の体格は189cm、137kg。得意手は突っ張り、右四つ、吊り、寄り、上手投げ。元日本相撲協会理事長(第8代)。 母子家庭に育ち、苦学しながら文武両道に励んだ。新潟県立新発田商工高等学校定時制在学中は陸上(投擲競技)や野球で活躍。一時はプロ野球の有名球団からの誘いもあったが、OBである先生の勧めにより東京農業大学農学部農芸化学科に進学し、相撲部に入部。相撲の経験は無かったが4年次には学生横綱となり、その実績が認められて1961年3月場所に時津風部屋から、異例の幕下10枚目格付出という破格待遇で初土俵を踏んだ。
林 春生(はやし はるお、1937年8月18日 - 1995… 林 春生(はやし はるお、1937年8月18日 - 1995年2月28日)は、日本の作詞家、テレビプロデューサー。 本名:林良三。島根県大田市出身。 テレビ番組制作の際は本名の「林良三」を、作詞家としての活動の際はペンネームである「林春生」を使用していた。 作曲家すぎやまこういちの妹と結婚し、すぎやまは義兄に当たる。 島根県立邇摩高等学校から島根県立松江高等学校(現:島根県立松江北高等学校)に転校し卒業後、1956年、法政大学文学部に入学。 在学中にニッポン放送でアルバイトをしながら、1960年、卒業と同時にフジテレビに入社。 フジテレビでは『ザ・ヒットパレード』『新春かくし芸大会』『ミュージックフェア』『リブ・ヤング!』等の番組でディレクター・プロデューサーとして活動した。
大熊 一夫(おおくま かずお、1937年8月17日 - )は… 大熊 一夫(おおくま かずお、1937年8月17日 - )は日本のジャーナリスト。1970年、アルコール依存症を装って精神科病院に潜入入院し、『ルポ精神病棟』を朝日新聞社会面に連載。精神科病院廃絶に向け活動を行った。 東京生まれ。東京大学教養学部教養学科(科学史・科学哲学)を卒業して朝日新聞記者に。週刊朝日副編集長、アエラ・スタッフライターをへて無所属のジャーナリストに。 1998年から大阪大学人間科学部教授。担当はソーシャルサービス論。日本の国立大学に初めて出来た福祉系講座の初代教授。2002年に定年退官。 1970年、アルコール依存症を装って精神科病院に潜入入院し、『ルポ精神病棟』を朝日新聞社会面に連載。
前畑 幸子(まえはた さちこ、1937年8月16日 - )は… 前畑 幸子(まえはた さちこ、1937年8月16日 - )は、日本の政治家、元参議院議員(1期)。 愛知県名古屋市出身。南山大学文学部卒。1979年中京大学大学院修了。同年税理士事務所を開く。1986年の第14回参議院議員通常選挙で愛知県選挙区から日本社会党公認で立候補したが次点で落選。1989年の第15回参議院議員通常選挙で愛知県選挙区から社会党公認で立候補して当選。1995年に社会党を離党し、同年の第17回参議院議員通常選挙で無所属・社会党推薦で立候補したが落選した。1998年の第18回参議院議員通常選挙にて民主党から比例区で出馬するも落選。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。
髙村 弘毅(たかむら ひろき、1937年8月15日 - )は… 髙村 弘毅(たかむら ひろき、1937年8月15日 - )は、日本の地理学者。立正大学地球環境科学部名誉教授。同大学元学長(第29・30代)。専門は、水文学、水資源学、地下水学。学位は文学博士(立正大学・論文博士・1976年)。青森県三戸郡倉石村(現・五戸町)出身。2014年春、瑞宝中綬章を受章。
嵯峨 健四郎(さが けんしろう、1937年8月15日 - 2… 嵯峨 健四郎(さが けんしろう、1937年8月15日 - 2011年11月1日)は、秋田県秋田市上北手出身のプロ野球選手(投手)。 秋田商業高では、エースとして1954年秋季東北大会準決勝に進むが、盛岡商業高に敗退。翌1955年も夏の甲子園県予選を勝ち抜き、奥羽大会に進むが1回戦で盛岡工業高に敗れる。なお、高校時代の1年後輩には、後に大毎オリオンズや阪急ブレーブスなどで活躍する三平晴樹がいた。三平も高校卒業後、嵯峨と同じルートでプロ入りしている(但し、プロでチームメイトになる事は無かった)。 高校卒業後は、社会人野球の日本鉱業日立に入団。1956年の都市対抗野球にエースとして出場、準々決勝に進むが大昭和製紙に敗れる。
小板橋 徹(こいたばし とおる、1937年8月15日 - )… 小板橋 徹(こいたばし とおる、1937年8月15日 - )は、日本の登山家。群馬県安中市出身。日本山岳ガイド協会、日本山岳会の会員。 群馬県立高崎工業高等学校電気通信科から東京理科大学数学科に進学し、卒業。1958年2月、後にエベレスト遠征隊を送る有名山岳会である第2次RCCの設立に際して同人として参加。1963年 結婚し「泰磨 徹」に改名。 1970年11月 全日本アーチェリー選手権大会出場
中本環(なかもと たまき、男性、1937年8月15日- )は… 中本環(なかもと たまき、男性、1937年8月15日- )は、日本文学研究者。 広島県呉市生まれ。広島大学文学部国文科卒、同大学院博士課程満期退学、尾道短期大学講師、比治山女子短期大学助教授、熊本大学教育学部助教授、教授、2003年定年退官。文学雑誌『町塾』を刊行する。光村図書の小中学校国語教科書の編纂にも携わった。
田中 登(たなか のぼる、1937年8月15日 - 2006… 田中 登(たなか のぼる、1937年8月15日 - 2006年10月4日)は、日本の映画監督。 長野県白馬村出身。長野県大町高等学校を経て明治大学文学部仏文科入学。在学中、黒澤明の『用心棒』にアルバイトとして参加する。 1961年、200倍以上の難関を勝ち抜いて日活演出部に入社。フランス映画狂いで、付けられたニックネームは「ムッシュ」。助監督会の幹事も務めた。 日活がロマンポルノ路線に転向すると、1972年『花弁のしずく』で監督デビュー。翌1973年に撮った『㊙女郎責め地獄』では美術の川崎軍二と組んだグロテスクかつサイケデリックな映像美が評価され、日本映画監督協会新人賞奨励賞を受賞した。その後も田中&川崎コンビで秀作を量産、1975~1978年に3本がキネマ旬報ベスト・テン入りを果たした。
高旗 正人(たかはた まさと、1937年8月14日 - )は… 高旗 正人(たかはた まさと、1937年8月14日 - )は、日本の教育社会学者、岡山大学名誉教授。専攻は教育社会学・教育方法学。 岡山県倉敷市生まれ。1960年岡山大学教育学部卒業。1966年広島大学大学院教育学研究科博士課程満期退学、広島大学助手、1969年滋賀大学教育学部講師、1970年助教授、1977年教授、1985年岡山大学教育学部教授。1994年「T・パーソンズ規範論の教育社会学的研究 学級秩序の理論的考察」で教育学博士の学位を取得。2004年岡山大を定年退官、名誉教授、中国学園大学教授。2008年退職。2017年4月、瑞宝中綬章を受章。
森本 草介(もりもと そうすけ、1937年8月14日 - 2… 森本 草介(もりもと そうすけ、1937年8月14日 - 2015年10月1日)は、日本の洋画家である。 1937年(昭和12年)、画家・森本仁平の長男として朝鮮全羅北道に生まれる。アジア・太平洋戦争中の1943年(昭和18年)に内地へ帰ったものの再度朝鮮へ戻り、1945年(昭和20年)に日本が敗戦すると、一家での逃避行を強いられた。岩手・東京で育つ。子の森本純(1970- )も画家で美人画を描く。 1951年(昭和26年)墨田区立堅川中学校へ転入学。 1958年(昭和33年)、東京芸術大学絵画科油画専攻に入学し、在学中の1961年(昭和36年)に安宅賞を受賞した。 1962年(昭和37年)に大学を卒業すると専攻科に進んで翌年に修了、東京芸術大学の助手となった。
森 健兒(もり けんじ、1937年8月13日 - )は、広島… 森 健兒(もり けんじ、1937年8月13日 - )は、広島県福山市生まれ、広島市育ちの元サッカー選手。木之本興三と共にJリーグを創設した最大の功労者である[3][4][5][6][7][8][9]。
前岡 勤也(まえおか きんや、1937年8月13日 - )は… 前岡 勤也(まえおか きんや、1937年8月13日 - )は三重県亀山市出身の元プロ野球選手。旧姓、旧登録名(1958年まで)は井崎勤也(いざき きんや)。
石川 明(いしかわ あきら、1937年(昭和12年)8月12… 石川 明(いしかわ あきら、1937年(昭和12年)8月12日 - 2004年(平成16年)3月30日)は日本の実業家。 1937年(昭和12年)8月12日千葉県野田市に生まれる。1960年3月に東京電機大学工学部電気通信工学科(現・情報通信工学科)を卒業後、同年4月チッソに入社、半導体向けシリコン材料の生産・検査などを4年ほど担当する。 しかし集積回路の考案者であるジャック・キルビーがいたテキサス・インスツルメンツにあこがれ、日本テキサス・インスツルメンツに転職し、生産技術の革新、工場の立ち上げ、組合運動への対応等の実績を残す。 その後本社副社長兼日本テキサス・インスツルメンツの社長として国際提携を担当、売上高にして年間1000億から1500億円の事業を毎年一つずつ立ち上げた。
石田 美栄(いしだ みえ、1937年〈昭和12年〉8月11日… 石田 美栄(いしだ みえ、1937年〈昭和12年〉8月11日 - )は、日本の政治家。元参議院議員(1期)。元衆議院議員(1期)。 津田塾大学英文科を卒業、その後中国短期大学教授となった。1993年の第40回衆議院議員総選挙で民社党幹部林保夫の後継として岡山2区から立候補し江田五月社民連代表の支援も有り初当選した(無所属)。 衆議院議員任期途中の1995年、同年7月23日執行の第17回参議院議員通常選挙で岡山県選挙区(当時定数2)より新進党公認で立候補したことで、告示日の同月6日付で公職選挙法の規定により衆議院議員を退職(自動失職)となった。投開票の結果、得票数2位で当選し参議院議員に鞍替えとなった。
金子 宗平(かねこ そうへい、1937年〈昭和12年〉8月1… 金子 宗平(かねこ そうへい、1937年〈昭和12年〉8月10日 - 2006年〈平成18年〉7月31日)は、昭和時代の日本の陸上競技選手。元円盤投日本記録保持者。ローマオリンピック代表・1964年東京オリンピック代表。日本選手権5連覇、日本記録更新7回など、数々の記録を打ち立てた。群馬県沼田市出身。身長175センチメートル、体重78キログラム。 群馬県沼田市硯田町出身。薄根中学校から群馬県立高崎工業高等学校に進学。高校では陸上部に所属し、1954年の関東大会で40m45をマークし優勝。翌1955年の関東大会で47m50の高校新記録を樹立し優勝し、酒田で開催された全国大会でも優勝。 翌1956年日本大学へ進学。
前野 育三(まえの いくぞう、1937年8月10日 - )は… 前野 育三(まえの いくぞう、1937年8月10日 - )は、日本の法学者、弁護士。関西学院大学名誉教授。専門は、刑事法(刑法、刑事政策、少年法)。元民主主義科学者協会法律部会理事。法学修士。兵庫県出身。2016年、春の叙勲で瑞宝中綬章を受章。
秋谷浄恵(あきたに じょうけい、1937年8月10日 - )… 秋谷浄恵(あきたに じょうけい、1937年8月10日 - )は、日本の実業家。日清オイリオグループ代表取締役社長、会長、特別相談役、日本植物油協会会長を歴任。 東京都出身。横浜市立大学商学部卒業、日清製油入社。1996年代表取締役社長。2002年には経営統合を実現し、日清オイリオグループに改組。2011年には特別顧問に就き、日本植物油協会会長なども務めた。2023年食料産業特別貢献大賞受賞。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
小川 薫(おがわ かおる、1937年8月8日 - 2009年… 小川 薫(おがわ かおる、1937年8月8日 - 2009年4月27日)は、日本の実業家。総会屋。「最後の総会屋」と呼ばれた。 広島市の歓楽街・弥生町の入口、下柳町(現中区銀山町)生まれ。当地は証券街で、かつ遊郭もあり、ヤクザの多い街でもあった。1945年、7歳国民学校二年の夏、爆心地から1.1キロの自宅で被爆。薫は釣りに行くため自宅を出る直前だった。幸い家族もみな軽傷で済んだ。1946年、戦場から父親が復員。戦前から経営していた電器店を再開したが、父は博徒岡組(のちの共政会)組長・岡敏夫と親しく野球賭博を始め店を潰し、その後は食堂を営んだ。 小川の兄・義夫と弟・明男の三人は喧嘩が滅法強く「小川三兄弟」と恐れられたが、叔父の田部武雄がプロ野球選手だったこともあり、野球もうまく、みな野球強豪高校でレギュラーとなった。
藤本 勝巳(ふじもと かつみ、1937年8月8日 - )は、… 藤本 勝巳(ふじもと かつみ、1937年8月8日 - )は、和歌山県出身の元プロ野球選手(内野手)。
西原 正(にしはら まさし、1937年8月4日 - )は、日… 西原 正(にしはら まさし、1937年8月4日 - )は、日本の国際政治学者。財団法人平和・安全保障研究所理事長。国際安全保障学会会長。防衛大学校名誉教授。専門は、国際政治学。大阪府出身。
辻 三太郎(つじ さんたろう、1937年8月4日 - )は、… 辻 三太郎(つじ さんたろう、1937年8月4日 - )は、日本の俳優、声優、お笑いタレント。本名、辻 茂。旧芸名は辻しげる、辻シゲル。東京都出身。
松山 和夫(まつやま かずお、1937年8月4日- )は、… 松山 和夫(まつやま かずお、1937年8月4日- )は、日本の経営者。B-Rサーティーワンアイスクリーム社長、会長を務めた。 青森県出身。1961年に慶應義塾大学経済学部を卒業し、同年に明治乳業に入社した。 1984年にハインツジャパン副社長に就任し、1987年にボーデンインターナショナルインク社長、1990年にボーデンジャパン社長を経て、1994年9月にB-Rサーティーワンアイスクリーム顧問に就任し、1995年3月には社長に昇格。2008年1月から2020年3月までに会長を務めた。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
小倉 桂子(おぐら けいこ、1937年8月4日 - )は、日… 小倉 桂子(おぐら けいこ、1937年8月4日 - )は、日本の被爆体験証言者、通訳。平和のためのヒロシマ通訳者グループ代表。 被爆体験を英語で証言できる数少ない被爆者として年間およそ2,000人に自らの体験を伝え続けている。夫は小倉馨(広島平和記念資料館第3代館長)。 広島市生まれ。 1945年8月6日、8才の時に爆心地より2.4キロの広島市牛田町で被爆。1959年、広島女学院大学英文学部卒業。 1962年、広島市役所勤務の小倉馨(米国生まれで17歳年上)と結婚。 1979年8月、夫の小倉馨が平和宣言を書いている途中で、くも膜下出血で亡くなる(妻・桂子が42歳、長男が12歳、長女が15歳の時)。
石塚 克彦(いしづか かつひこ、1937年8月4日 - 20… 石塚 克彦(いしづか かつひこ、1937年8月4日 - 2015年10月27日)は、日本の舞台演出家。本名同じ。画号は「烏山(うざん)」。武蔵野美術学校洋画科卒。日本劇作家協会会員。 古美術研究で奈良に遊学後、平城京発掘に参加。シナリオライター山形雄策に師事。劇団新制作座、統一劇場を経て、1983年、劇団ふるさときゃらばんを創立。脚本・演出・美術プランナーとして、第1作ミュージカル『親父と嫁さん』を上演、文化庁芸術祭賞を受賞。1987年、第3回日本舞台芸術家組合賞を受賞。 1991年、日米合作ミュージカルのメインライターとして「LABOR OF LOVE」を上演、日米両国ツアー、バルセロナオリンピック芸術祭に招聴される。
宮部 シズエ(宮部 シズヱとも、みやべ しずえ、1937年8… 宮部 シズエ(宮部 シズヱとも、みやべ しずえ、1937年8月3日 - )は、日本の元競泳選手。奈良県出身。ヘルシンキオリンピック・ローマオリンピック日本代表。50m自由形・100mバタフライ・200mバタフライ元日本記録保持者。現姓は辻内。 奈良県宇智郡野原町(現五條市)出身。 野原町立野原中学校在籍時の1952年6月に行われた日本選手権兼ヘルシンキオリンピック最終選考会において50m自由形2位・100m自由形4位に入り、ヘルシンキオリンピック日本代表に選出された。7月から8月にかけてヘルシンキオリンピックが開催されたが、100m自由形予選落ちに終わった。 高校は五條高等学校に進学。1953年、日本選手権の50m自由形で初の日本一になる。
久保田 宏(くぼた ひろし、1937年8月2日 – 2014… 久保田 宏(くぼた ひろし、1937年8月2日 – 2014年9月24日)は、日本の医師。教育者。名寄市立大学初代学長。名寄市立大学短期大学部元学長。北海道中川郡美深町出身。 北海道名寄高等学校卒業。1961年北海道大学理学部卒業。1965年同医学部卒業。同年、北海道大学病院勤務。その後、市立旭川病院胸部外科部長などを経て、1991年名寄市立総合病院副院長。市立名寄短期大学非常勤講師。1993年名寄市立総合病院院長。2003年名寄市立総合病院名誉院長。風連町国民健康保険診療所所長。名寄市文化賞受賞。2006年名寄市立大学初代学長・名寄市立大学短期大学部学長に就任。2010年名寄市立大学・名寄市立大学短期大学部退官。
大賀 正行(おおが まさゆき、1937年8月2日 - 202… 大賀 正行(おおが まさゆき、1937年8月2日 - 2024年4月15日)は、日本の部落解放運動家。部落解放・人権研究所名誉理事。 部落解放同盟中央執行委員、部落解放研究所理事を歴任。 大阪市東淀川区西淡路(日之出地区)出身。被差別部落出身ではない父親と被差別部落出身の母親の間に非嫡出子として生まれる。父親は鏡会社の工場長、母親はその工場の工員であった。大阪市立啓発小学校2年の時、父親の正妻のもとに引き取られ、和歌山市で異母姉兄と共に育てられる。和歌山師範附属小学校(現・和歌山大学教育学部附属小学校)に編入学したが、1945年7月9日の和歌山大空襲で被災したため日之出地区に戻り、さらにまた父親のもとに移るなど、被差別部落の内外を往復して育つ。
三輪 定宣(みわ さだのぶ、1937年8月2日 - )は、日… 三輪 定宣(みわ さだのぶ、1937年8月2日 - )は、日本の教育学者、千葉大学名誉教授、帝京短期大学教授。 岐阜県出身。1969年東京大学大学院教育学研究科博士課程満期退学、相模女子大学講師、高知大学助教授、千葉大学教育学部助教授を経て、教授となる。2002年定年退官し、名誉教授となり、帝京平成大学教授も務めた。 2013年千葉県知事選挙に日本共産党推薦で出馬、敗れた。
久保田 成子(くぼた しげこ、1937年8月2日 - 201… 久保田 成子(くぼた しげこ、1937年8月2日 - 2015年7月23日)は、新潟県西蒲原郡巻町(現:新潟市西蒲区)出身でニューヨークを拠点に活動した美術家・映像作家である。映像と彫刻を組み合わせた「ヴィデオ彫刻」の先駆的な存在として国際的に評価された。夫は同じ美術家のナム・ジュン・パイク。 1937年、新潟県西蒲原郡巻町(現:新潟市西蒲区)に生まれる。 母方久保田家の曾祖父・十代右作(久保田右作)は貴族院議員、地元小千谷市の発展に尽力した。母方の祖父・久保田彌太郎は水墨画家(雅号は翁谷)。成子は祖父の影響で芸術的な雰囲気の家庭に育つ。高校から新潟大学教授に絵を習い、在学中「二紀展」に入選。高校の美術教員が彫刻家であったことと、女性の彫刻家が少なかったという理由から、久保田は彫刻の道を志すようになる。
大心 昇(だいしん のぼる、1937年8月2日 - 2012… 大心 昇(だいしん のぼる、1937年8月2日 - 2012年3月20日)は、北海道山越郡長万部町出身で宮城野部屋(入門時は高嶋部屋)に所属した大相撲力士。本名は長田 留雄(ながた とめお)→長田 留男( - とめお)。最高位は東前頭8枚目(1966年9月場所)。得意手は右四つ、寄り、蹴手繰りなど。現役時代の体格は179cm、115kg。 18歳の時上京し、高嶋部屋に入門。1956年9月場所で初土俵を踏んだ。同期の初土俵には、後の横綱・大鵬(当初、納谷)や小結・沢光(同、沢向)などがいる。翌年1月場所にて、「長葉山」の四股名で序ノ口に付いた。同場所では5勝3敗と勝ち越し、上々の「大相撲デビュー」となったが、2勝目は納谷から挙げている(因みに納谷(大鵬)との対戦は、同場所以降、2度と叶わなかった)。
鎌田 敏夫(かまた としお、1937年8月1日 - )は、日… 鎌田 敏夫(かまた としお、1937年8月1日 - )は、日本の脚本家・小説家。日本脚本家連盟理事長。日本統治時代の朝鮮の京城府生まれで、徳島県育ち。徳島県立城東高等学校、早稲田大学政治経済学部経済学科卒業。 大学卒業後、シナリオ作家協会の主催するシナリオ研究所(現在のシナリオ講座)で学び、井手俊郎に弟子入りする。1967年、『でっかい青春』にて脚本家デビュー。以降、『飛び出せ!青春』『俺たちの旅』など一連の“青春ドラマシリーズ”をメインライターとして支えた。『俺たちの旅』の中で、中谷隆夫(オメダ、演:田中健)とその妹の真弓(演:岡田奈々)が母子家庭育ちという設定は、鎌田自身が母子家庭育ち(両親が別居)であったことが反映しているということで、「両親がいる家庭に馴染みが無いので、普通の家族が描けなかったのではと思う」と語っている。
泉 信也(いずみ しんや、1937年(昭和12年)8月1日 … 泉 信也(いずみ しんや、1937年(昭和12年)8月1日 ‐ )は、日本の運輸官僚、政治家。勲章は旭日大綬章。 参議院議員(3期)、国家公安委員会委員長(第75・76代)、内閣府特命担当大臣(防災担当、食品安全担当)などを歴任した。息子は財務官僚の泉恒有。 福岡県浮羽郡吉井町(現・うきは市)出身。福岡県立明善高等学校、九州大学工学部土木工学科卒業。 運輸省に入省、本省港湾局開発課長、同建設課長、第四港湾建設局長などを歴任した。また、和歌山県庁に一時出向しており、土木部港湾課にて課長を務めた。1991年4月、大臣官房審議官を最後に退官。 なお、この間には、中国、フィリピン、ペルー、メキシコなどの発展途上国を訪問しており、技術協力等の活動を展開した。
阿部 征司(あべ せいじ、1937年〈昭和12年〉8月1日 … 阿部 征司(あべ せいじ、1937年〈昭和12年〉8月1日 - 2012年〈平成24年〉12月29日)は、日本のテレビプロデューサー・映画プロデューサー・作詞家。秋田県鹿角郡花輪町(現・鹿角市)出身。早稲田大学教育学部社会学科卒業。東映でテレビ番組制作や映画製作に携わった。 作詞家としてのペンネームは中瀬当一、田中守。脚本家としてのペンネームとしては、東映プロデューサーの平山亨との共同筆名「海堂肇」がある[要出典]。 1937年(昭和12年)8月1日、秋田県鹿角郡花輪町(現・鹿角市)において、阿部重吉とハツエの二男として生まれた。阿部家は映画館の花輪劇場の経営者だった。実家が映画館だったこともあり、幼い頃から映画業界を志した。
富島 五郎(とみしま ごろう、1937年7月31日 - 20… 富島 五郎(とみしま ごろう、1937年7月31日 - 2018年12月20日)は、茨城県出身のプロ野球選手。 土浦第三高校では、エースとして1954年秋季関東大会県予選準決勝に進むが、水戸一高に惜敗。高校同期に石上滋夫がいる。 1956年に石上とともに南海ホークスへ入団。1年目から一軍で起用され4勝を挙げるが、その後はやや伸び悩む。1960年にはウエスタン・リーグで防御率1位を記録。1961年にも4勝、1962年には自己最多の40試合に登板するが、1964年限りで引退。引退後は日立電線の土浦工場に勤務した。
金子 晃(かねこ あきら、1937年(昭和12年)7月31日… 金子 晃(かねこ あきら、1937年(昭和12年)7月31日 - )は、日本の会計学者、弁護士、法学博士、慶應義塾大学名誉教授、元会計検査院長(2期)、会計検査院検査官。公認会計士・監査審査会(金融庁)会長。瑞宝大綬章受章。 公共調達と競争政策に関する研究会座長、独占禁止法基本問題懇談会座長代理、社会保険庁の在り方に関する有識者会議座長、経済企画庁国民生活審議会委員、公正取引委員会独占禁止懇話会委員、国民生活センター非常勤理事、再販問題検討小委員会座長、建設業適正取引推進機構内官製談合防止法遵守の手引研究委員会座長、日本証券業協会規律委員会委員等を歴任。
森 一夫(もり いちお、1937年7月30日 - )は、教育… 森 一夫(もり いちお、1937年7月30日 - )は、教育学博士(広島大学論文博士)、大阪教育大学名誉教授。 日本理科教育学会会長、日本教科教育学会理事、日本生活科・総合的学習学会常任理事、日本科学教育学会評議員を歴任。 シンガポールの学校理科教育に貢献。 1984年3月、政府派遣教育制度改善専門家(エキスパート)としてシンガポール教育省カリキュラム開発研究所にて、日本で言うところの理科学習指導要領及び国定理科教科書作成指導とその開発研究並びに現職教育や実践研究のありかた等について同国の校長や視学官への指導と講演に従事した。 以下の表彰・受賞歴がある。 主要な研究テーマは「自然認識の発展(達)と形成」である。
大谷 武雄( おおたに たけお、1937年7月30日[要出典… 大谷 武雄( おおたに たけお、1937年7月30日[要出典] - )は、日本の経営者。品川白煉瓦元社長。 山口県出身である。1960年3月、山口大学文理学部卒業。同年、品川白煉瓦に入社。1999年6月28日、同社専務に就任し、2004年同社相談役となる。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
橋本 龍太郎(はしもと りゅうたろう、1937年(昭和12年… 橋本 龍太郎(はしもと りゅうたろう、1937年(昭和12年)7月29日 - 2006年(平成18年)7月1日)は、日本の政治家、登山家。位階は正二位。勲等は大勲位。学位は法学士(慶應義塾大学)。岡山県総社市名誉市民。剣道錬士六段。
中山節夫(なかやませつお、1937年7月29日 - )は日本… 中山節夫(なかやませつお、1937年7月29日 - )は日本の映画監督。熊本県菊池郡合志町(現合志市)出身。 1960年、多摩美術大学付属芸術学園映画科を卒業し、日活撮影所に入所。1962年よりフリーの助監督として多数の作品に携わった。その後熊本に帰郷し、1969年に映画デビュー作「あつい壁」を監督した。ハンセン病に対する根強い差別を扱い、話題になった。 2007年『新・あつい壁』を手がける。 この項目は、映画監督に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:映画/PJ映画)。
義原 武敏(よしはら たけとし、1937年7月29日 - 2… 義原 武敏(よしはら たけとし、1937年7月29日 - 2010年)は、島根県安来市出身の元プロ野球選手(投手)。 安来中学校(現在の安来市立第一中学校)から米子東高校に進学。高校再編に伴って野球部員が分散を余儀なくされ戦力が手薄となっていたため1年春から先発投手として起用される。1953年秋季中国大会県予選決勝で境高の米田哲也に投げ勝ち本大会に進むが、準決勝でエース横溝桂を擁する岡山東商に敗れ春の選抜出場を逸する。2年時の1954年には阪神軍でプレー経験がある監督の大橋棣の下、夏の甲子園に出場。1回戦は滝川高に延長11回サヨナラ勝ち。2回戦に進出するが、榎本喜八らのいた早稲田実に敗れる。1954年は持病の肋間神経痛のため精彩を欠き、夏の県予選は準決勝で倉吉東高に敗退した。
伊藤 光四郎 (いとう こうしろう、1937年7月28日 -… 伊藤 光四郎 (いとう こうしろう、1937年7月28日 - 2011年11月30日)は、島根県簸川郡大社町出身の元プロ野球選手(外野手)・コーチ、解説者。
守随 武雄(しゅずい たけお、1937年7月28日 - )は… 守随 武雄(しゅずい たけお、1937年7月28日 - )は、日本の経営者。日本ビクター社長を務めた。 東京都出身。1961年に慶應義塾大学法学部政治学科を卒業し、同年に松下電器産業に入社。1993年6月に取締役に就任し、1994年6月には日本ビクター社長に就任。2001年6月に顧問に就任。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
岩田 順介(いわた じゅんすけ、1937年7月28日 - 2… 岩田 順介(いわた じゅんすけ、1937年7月28日 - 2006年5月5日)は、日本の政治家。衆議院議員(3期)。 飯塚商業高等学校(現在廃校)を経て、西日本短期大学法学部を卒業後に福岡県職員となり、飯塚土木事務所に勤務する。その後、自治労福岡県本部委員長や福岡県評副議長などを経て、1990年2月に行われた第39回衆議院議員総選挙で日本社会党の多賀谷真稔(衆議院副議長)の後継として、旧福岡2区から立候補し初当選。 社会党シャドーキャビネットにおいて田辺誠時代は自治政務次官、山花貞夫時代は官房副長官の任に就いた。そして、社会民主党を経て、1996年の旧民主党結党に参画。民主党福岡県連初代代表(松本龍は民主党九州比例代表)に就任。
宮島 将郎(みやじま まさろう、1937年〈昭和12年〉7月… 宮島 将郎(みやじま まさろう、1937年〈昭和12年〉7月27日 - 2025年〈令和7年〉5月23日)は、日本のテレビプロデューサー・実業家、元ラジオパーソナリティー、社会運動家、音楽家。 東京都新宿区出身。東京教育大学附属高等学校(現:筑波大学附属高等学校)卒、1962年(昭和37年)慶應義塾大学商学部卒。在学中は慶應義塾ワグネル・ソサィエティー男声合唱団に所属し副指揮者を務める。2025年(令和7年)現在埼玉県入間市に在住していた。 1962年(昭和37年)日本テレビ放送網株式会社入社、芸能局音楽班配属。教育・音楽番組を制作。宮島が最も気に入っている番組は幼児教育番組『カリキュラマシーン』だという。
香西 隆男(こうざい たかお、1937年7月26日 - 2… 香西 隆男(こうざい たかお、1937年7月26日 - 2024年4月29日)は、日本のアニメーター、キャラクターデザイナー。香川県出身。東京芸術大学卒。 漆職人を目指して、高松工芸高等学校へ。しかし漆にかぶれる体質から、東京芸術大学彫刻科へ進学する。卒業後は、東映動画(現:東映アニメーション)に入社。アニメのことを全く知らずに、東映で実写映画のスタッフになろうと入社試験を受けての入社だったという。アニメ映画『西遊記』を経て、アニメーターとなる。入社4年後の1964年に、永樹凡人、我妻宏、小泉謙三らと共に退社し、ハテナプロの設立に参加。同プロでは東映動画作品の『魔法使いサリー』などの作画を担当した。
新谷 琇紀(しんたに ゆうき、1937年7月26日 - 20… 新谷 琇紀(しんたに ゆうき、1937年7月26日 - 2006年8月31日)は、日本の具象彫刻家。
田中 喜八郎(たなか きはちろう、1937年7月26日 - … 田中 喜八郎(たなか きはちろう、1937年7月26日 - )は、大分県出身の元プロ野球選手。ポジションは投手。
美濃口武雄(みのぐち たけお、1937年7月26日 - 20… 美濃口武雄(みのぐち たけお、1937年7月26日 - 2021年8月28日)は、日本の経済学史学者。一橋大学名誉教授。 東京市中野区で美濃口時次郎の長男として生まれる。成蹊中学校・高等学校を経て、1962年一橋大学経済学部卒(中山伊知郎ゼミ)、1967年同大学院博士課程単位取得退学(師は荒憲治郎)、一橋大学経済学部専任講師、1969年オックスフォード大学留学(ブリティッシュ・カウンシル・スカラー)、1971年助教授、1978年教授。2001年定年退任、名誉教授となり、関東学院大学教授、富士大学大学院初代研究科長を務めた。 指導学生に蜂谷豊彦一橋大学教授、池尾愛子早稲田大学教授、小峯敦法政大学教授、大熊英司元テレビ朝日アナウンサーなど。
宗方 勝巳(むなかた かつみ、1937年〈昭和12年〉7月2… 宗方 勝巳(むなかた かつみ、1937年〈昭和12年〉7月25日 - 、本名同じ)は、日本の俳優。一般財団法人グリーンクロスジャパン評議員。大阪府堺市出身。現在は神奈川県鎌倉市在住。妻は女優の長内美那子。旧芸名は宗方 勝己(読みは同じ)及び谷川 勝巳(たにがわ かつみ)。 明治大学付属中野高等学校定時制を経て明治大学文学部仏文科卒業。 1958年にテレビドラマ『バス通り裏』に出演して知名度を上げ人気に。 長内美那子とは、テレビドラマ『古都』での共演がきっかけで1967年に結婚。 2006年に脳梗塞を患い、2007年には大腸癌を併発し闘病生活を送っていたが現在は克服している。 また妻と共にワイドショーの司会も務めるなど多岐に渡り活躍。