梅津 只圓(うめづ しえん、文化14年4月17日(1817年… 梅津 只圓(うめづ しえん、文化14年4月17日(1817年6月1日) - 明治43年(1910年)7月3日)は幕末明治の喜多流シテ方能楽師。福岡市出身。通称は源蔵、諱は利春。夢野久作『梅津只圓翁伝』の題材となった。 文化14年(1817年)4月17日、福岡藩召抱能楽師シテ方、梅津源蔵正武の長男として薬院中庄に生まれた。幼名は政之進、栄で、藩主黒田長溥の命で利春と改名した。 天保3年(1832年)春、喜多六平太能静と師弟関係を結び、「翁」の允可を受けた。弘化元年(1844年)春と嘉永元年(1848年)春の2度上京し、喜多六平太能静に直接指導を受けた。弘化3年(1846年)3月家督を継ぐ。 嘉永5年(1852年)3月自宅舞台で「翁」を初披露し、藩主黒田斉溥に御装束預を命じられた。
景山 龍造(かげやま りょうぞう、文化14年(1817年)4… 景山 龍造(かげやま りょうぞう、文化14年(1817年)4月 - 明治5年8月18日(1872年9月20日))は、幕末の武士(鳥取藩士)、儒者。幼名は礼太郎。諱は守正。字は雍卿。号は道村。従五位。 父は医者・儒者であり優れた教育者だった景山粛。 先考氏景山、名義春、字立碩、粛之考七右衛門者其兄也、父称長三郎農夫也、性剛毅而有奇才、聞善若驚疾悪如讐、以節倹治家致貨以恵子孫、甫弱冠有高志、傷世多夭横、乃学医京千木嶋子、敏悟之質夙極其秘薀頗精干瘂科治方之活桟(中略) 時に寛政六(1794年)寅歳、先年の語り伝へ知るし置。大家と言は、先年後醍醐天皇様御こしかけ遊ばされ候家也。之により大家と言。大家の先祖影山道くわんと言人也。
物集 高世(もずめ たかよ、文化14年2月1日〈1817年3… 物集 高世(もずめ たかよ、文化14年2月1日〈1817年3月18日〉 - 1883年〈明治16年〉1月2日)は豊後国出身の国学者。通称・丈右衛門、正策、正孝、真風とも称した。号は「葎屋」(むぐらのや)。 1817年(文化14年)、商家の次男として杵築藩に生まれた。物集家の祖先は山城国物集女(もずめ)村(現・京都府向日市物集女町)から出、のち大阪で金屋という屋号の豪商となったが、一族の一人が杵築に移り住み、物集女から物集に改姓したと伝えられる。金屋は杵築城下きっての豪商で、高世の弟・雄蔵が継いだが、のちに倒産した。 漢学を儒臣元田竹渓に、後に国学を定村直孝と直好に学び、平田篤胤の復古思想やその学風に共感して直接教えを受けた。
菅 運吉(すが うんきち、1817年(文化14年)3月 - … 菅 運吉(すが うんきち、1817年(文化14年)3月 - 1877年(明治10年)8月10日)は、幕末の秋田藩(佐竹藩)の御用商人。木材で財をなし、江戸深川にも木場を置き、御三家(尾州、紀州、水戸)の御用達をつとめ、秋田屋仁左衛門と称し、“幕末の紀文”と呼ばれた。 秋田神社(千秋公園内)、京都下鴨神社にも木材を寄進している。秋田出身の財界人として、息子の礼治(秋田第四十八銀行頭取)、孫の礼之助(東京電力会長、経団連評議会議長)と三代にわたる家系。 秋田藩内の雄勝郡雄勝町秋ノ宮岳ノ下(現在の秋田県湯沢市)に、藩から肝煎(きもいり)として山の管理を任されていた父、菅太右衛門(九代目)の子として生まれる。
井上 八郎(いのうえ はちろう、1816年11月5日(文化1… 井上 八郎(いのうえ はちろう、1816年11月5日(文化13年9月16日) - 1897年(明治30年)4月2日)は、江戸時代の武士・剣客・幕府軍人。名は清虎(きよとら)、号は延陵(えんりょう)。 延岡藩藩士井上主膳の子として日向国東臼杵郡延岡に生まれる。 1828年(文政11年)、江戸へ出て千葉周作(北辰一刀流)の道場・玄武館に入門。 1851年(嘉永4年)、飛騨郡代・小野高福に招聘され飛騨高山(現 岐阜県高山市)に赴く。同地で高福の子の小野鉄太郎(後の山岡鉄舟)に剣術を教える。 幕末期に幕臣となり、講武所剣術師範役並、遊撃隊頭取、歩兵奉行を歴任。 明治維新で静岡へ転じ、浜松城代、中泉奉行等を務める。
中沼 了三(なかぬま りょうぞう、 1816年9月6日(文化… 中沼 了三(なかぬま りょうぞう、 1816年9月6日(文化13年8月15日)- 1896年(明治29年)5月1日)は隠岐国周吉郡中村(現在の島根県隠岐の島町中村)出身の儒学者。名は之舜。了三は通称。字は魯仲。号は葵園(きえん)。贈正五位。 文化13年8月15日(1816年9月6日)隠岐国(島根県隠岐の島)で医師の中沼養碩、母テツの三男として生まれる。天保6年(1835年)京都に上り、山崎闇斎の流れを汲む崎門学派浅見絅斎の学統である鈴木遺音(恕平)の門下として儒学を学んだ。天保14年(1843年)、鈴木遺音の没後に葵園浅見安正の学統を承け、京都で開塾。学習院講師、孝明天皇の侍講となる。門人には西郷従道、桐野利秋、川村純義、千葉貞幹、松田重助らがあり、中沼塾は薩摩藩士が多く、竹村東野門下でもあった中岡慎太郎も西郷隆盛との接触を図り入門している。
浅野 長祚(あさの ながよし、文化13年6月9日〈1816年… 浅野 長祚(あさの ながよし、文化13年6月9日〈1816年7月3日〉 - 1880年〈明治13年〉2月17日)は、江戸時代末期(幕末)、明治時代の幕臣(旗本)、蔵書家、書画家、芸術鑑定家。字は胤卿、通称は金之丞、号の梅堂で知られる。官途は中務少輔、和泉守、備前守など。他に池香、蔣潭、蝦侶斎漱芳閣、楽是幽居、柏洪楼とも名乗った。 文化13年(1816年)、江戸飯田町(現・千代田区)で旗本浅野長泰(号は金谷)の子として生まれる。家系は播磨赤穂藩浅野家の支族(家原浅野家)で、家禄3500石の上級旗本であった。幼少より父から漢詩・和歌・俳句等を学び、書画をよくした。出羽亀田藩主岩城隆喜の3女直子と結婚。
木原 桑宅(きはら そうたく、文化13年2月30日(1816… 木原 桑宅(きはら そうたく、文化13年2月30日(1816年3月28日) - 明治14年(1881年)8月23日)は、江戸時代末期から明治時代初期の儒者。広島藩士。名は籍之。字(あざな)は君茅。通称は慎斎、慎一郎。別号に撚白老人。
河竹 黙阿弥(かわたけ もくあみ、旧字体:默阿彌、1816年… 河竹 黙阿弥(かわたけ もくあみ、旧字体:默阿彌、1816年3月1日(文化13年2月3日)- 1893年(明治26年)1月22日)は、江戸時代幕末から明治にかけて活躍した歌舞伎狂言作者。本名は吉村 芳三郎(よしむら よしさぶろう)。俳名に其水(きすい)。別名に古河 黙阿弥(ふるかわ-)。江戸日本橋生まれ。 江戸・日本橋の裕福な商家吉村勘兵衛の二男に生まれたが、若い頃から読本、芝居の台本、川柳や狂歌の創作にふけるようになり、14歳で道楽が過ぎて親から勘当された。貸本屋の手代となって生計をたてるようになるが、仕事はそっちのけで朝から晩まで読書三昧の日々を送る。これが将来の糧となる。 やがて「芳芳」の雅号で狂歌や俳句、舞踊などで頭角をあらわすようになると、天保6年(1835年)にはとうとう仕事を辞めて、芝宇田川町の踊りの師匠お紋(歌舞伎役者二代目澤村四郎五郎の娘)の紹介で、五代目鶴屋南北の門下となり、勝 諺蔵(かつ げんぞう)と名を改める。
賀来 飛霞(かく ひか、文化13年1月30日(1816年2月… 賀来 飛霞(かく ひか、文化13年1月30日(1816年2月27日) - 明治27年(1894年)3月10日)は、豊後国国東郡高田(現在の大分県豊後高田市)出身の本草学者。名は睦之、字は季和、通称は睦三郎。 1816年(文化13年)、当時島原藩領であった豊後国国東郡高田に生まれる。豊後大神氏流賀来氏の系統で、家業は医者であったが、幼くして父を失う。兄佐之とともに幼時から帆足万里に医学や本草学を、十市石谷に写生画を学ぶ。さらに京都で山本亡羊に本草学を学び、その後、九州各地や東北、北陸・甲信越地方等で植物の現地調査を行って、大量の観察記録と精密な写生図を残した。 1844年(弘化元年)には、島原藩領であった豊後国宇佐郡佐田村(現在の大分県宇佐市安心院町佐田)で医業を開業。
佐藤 信寛(さとう のぶひろ、文化12年12月27日(181… 佐藤 信寛(さとう のぶひろ、文化12年12月27日(1816年1月25日) - 明治33年(1900年)2月15日)は、江戸時代後期の長州藩藩士。幼名は三郎、のち通称を寛作、諱を信寛と名乗る。号は蝦洲。正五位。佐藤家第10代当主。 子孫に首相を務めた岸信介(姓が違うのは岸家へ養子に出されたため)・佐藤栄作の兄弟(曾孫)、および安倍晋三(来孫)がいる。 現在の山口県熊毛郡田布施町に、萩藩士・佐藤源右衛門(佐藤家第9代当主)の長子として生まれる。源右衛門の弟には坪井九右衛門がいる。 藩校明倫館に入り山県太華に学び、江戸にて清水赤城につき長沼流兵学を修め、吉田松陰に兵要禄を授けた。井上馨や伊藤博文、木戸孝允らとも親交があったという。
伊藤 八兵衛(いとう はちべえ、1816年1月13日(文化1… 伊藤 八兵衛(いとう はちべえ、1816年1月13日(文化12年12月15日) - 1878年(明治11年)8月10日)は、幕末の豪商。水戸藩の金子御用達(きんすごようたし)などを務めたが、為替投機で失敗し没落した。画家・淡島椿岳の実兄。大実業家・渋沢栄一の後妻 兼子の実父。 武蔵国川越の小ヶ谷村(現埼玉県川越市小ヶ谷)に、豪農内田家の分家である内田善蔵の長男として生まれた。 末弟の米三郎(後の淡島椿岳)と2人で川越を発ち江戸に出て、小石川伝通院前の伊勢屋長兵衛方で奉公する。伊勢屋長兵衛は「伊勢長」(いせちょう)という江戸きっての質商であった。八兵衛はそこで頭角を現わし、伊勢屋の一族であり「京橋十人衆」と謳われた幕府の大御用商人である伊藤家の婿養子となる。
鹿島 重正(かしま しげまさ、1816年 - 1857年)は… 鹿島 重正(かしま しげまさ、1816年 - 1857年)は、伯耆国米子(現・鳥取県米子市)の商人、歌人。下鹿島家3代目。次助と称する。 嘉永年間に、米子城四重櫓が腐朽して改築が必要になった時、本家とともにその費用を負担して再建する。翠の屋と号し、和歌をよくする。加納諸平編『類題鰒玉集』4編に名がみえる。『鰒玉集作者姓名録』3編は重正が編集した。墓所は米子市寺町の心光寺。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
寶川 石五郎(たからがわ いしごろう、1816年〈文化13年… 寶川 石五郎(たからがわ いしごろう、1816年〈文化13年〉 - 1858年8月26日〈安政5年7月18日〉)は、雷部屋に所属した力士。大坂相撲時代には朝日山部屋、東京へ移行してからは粂川部屋にも所属していた。本名は佐伯 石五郎。 身長,体重とも不明だが、体格は大きく3尺(約90cm)の入り口では常に体を斜めにして入ったと伝わる。出身地は現在の香川県観音寺市(旧・讃岐国豊田郡。 最高位は西前頭筆頭。丸亀藩の抱え。 最初は4代朝日山(真鸖政吉)の弟子として大坂相撲で取り、その後東上して1840年10月初土俵(序二段附出し)。1848年1月新十両(東二段目10枚目となり十両相当となった)。1849年3月場所では7勝1敗1分の好成績を挙げ、優勝相当成績を挙げた。
小谷田 勝五郎(こやた かつごろう、文化12年10月10日〈… 小谷田 勝五郎(こやた かつごろう、文化12年10月10日〈1815年11月10日〉- 明治2年12月4日〈1870年1月5日〉)は、幕末、明治時代の農家。平田篤胤の著書『勝五郎再生記聞』の題材となった人物として知られる。 人が生まれ変わるという伝承は世界各地にあるが、小谷田勝五郎の話は、当事者が実在し、生没年や住んでいた場所、墓所などを明確に確認できるという点で、他の生まれ変わり伝承とは一線を画する。 武蔵国多摩郡中野村(現在の東京都八王子市東中野)の農家、小谷田源蔵の息子として生まれる。 1822年(文政5年)のある夜、突然家族に「自分はもとは程久保村(現・日野市程久保)の須崎藤蔵という子どもで、6歳の時に疱瘡で亡くなった」と言い、あの世に行ってから生まれ変わるまでのことを語った。
水毛生 伊余門(みもう いよもん、文化12年(1815年)9… 水毛生 伊余門(みもう いよもん、文化12年(1815年)9月25日 - 明治23年(1890年)6月)は、幕末から明治時代にかけての農事指導者。石川県石川郡野々市村(現・野々市市)出身。荒地の開墾や養蚕の普及、寺子屋による教育活動などに尽力し、明治11年(1878年)に藍綬褒章を受章した 。 水毛生家は江戸時代から村役人を務めた家柄で、代々の当主は伊右衛門(伊余門)を名乗り、地域の指導者であると同時に文化人でもあった。屋敷は切妻妻入の農家形式に町家の要素を備える独特の構造であり、茶室「可夕亭」をはじめ京風の数寄屋造りが施されている。大正期には茶室の増築も行われ、庭園には加賀藩主前田利常が馬をつないだと伝わる大杉があった。
白石 照山(しらいし しょうざん、文化12年8月10日(18… 白石 照山(しらいし しょうざん、文化12年8月10日(1815年9月12日) - 1883年10月3日)は、江戸時代後期の儒学者、漢学者。初名は牧太郎、通称は五郎右衛門、のちに常人。雅号は照山、または素山。名は牧。字は伯羊。 中津藩の下士で祐筆の久保田武右衛門(号は勇閑)の長男として生まれるが、白石団右衛門の養子となる。藩校・進脩館は上士の子弟でなければ入学できない風潮となっていたため、進脩館の教授野本白巌の私塾で学び、その優秀さから藩校に推薦された。同校では若くして督学に任命された。 1838年(天保9年)督学の職を辞して江戸に上り、はじめは古賀侗庵に師事し、翌年に昌平黌に入学する。その優秀さから、書生を牽引する役職である斎長詩文掛に任じられた。
美泉 定山(みいずみ じょうざん、文化12年1月7日(181… 美泉 定山(みいずみ じょうざん、文化12年1月7日(1815年2月15日) - 明治10年(1877年)11月4日)は、備前国周匝村(現在の岡山県赤磐市)出身の僧侶である。のちに北海道に渡って広く布教活動を行った。札幌市南区の定山渓は、彼の名に由来する。「美泉」という苗字は明治初期の法律に従うため、定山があえて作った姓である。 文化12年(1815年)、備前国曹洞宗の名刹妙音寺の二男として生まれる。17歳の時に実家を出て、高野山の道場で修行を積んだ後に、北上して仙台、出羽三山、秋田の太平山三吉神社などに滞在し、布教活動を行う。 1853年(嘉永6年)に蝦夷地に渡り、1866年(慶応2年)に張碓(はりうす)から2人のアイヌ人の先導のもと内陸に入り温泉を発見した。
一力 長五郎(いちりき ちょうごろう、1815年(文化12年… 一力 長五郎(いちりき ちょうごろう、1815年(文化12年) - 1859年9月21日(旧暦8月25日))は、常陸国河内郡若柴村(現在の茨城県龍ケ崎市若柴)出身で木瀬部屋に所属した大相撲力士。本名は山崎 安好(やまざき やすよし)。 常陸国河内郡若柴村で生まれる。1837年10月場所において序ノ口から初土俵を踏み、1849年11月場所で新入幕を果たした。結果的に三役昇進は果たせなかったものの、劔山谷右エ門、小柳常吉に強く、両者には無敗だったことから江戸相撲の中では「大物食い」として名を馳せた。1859年に奥州・一ノ関で行われた巡業に参加中、急逝した。44歳没。死因は病死または斬殺と伝わる。 出身地である龍ケ崎市若柴の星宮神社には、一力が奉納したと伝わる灯篭2基が残っている。
養鸕 徹定(うがい てつじょう、文化11年3月15日〈181… 養鸕 徹定(うがい てつじょう、文化11年3月15日〈1814年5月4日〉 - 1891年〈明治24年〉3月15日)は、幕末・明治期の浄土宗僧侶・仏教史家。 筑後国久留米にて久留米藩士鵜飼万五郎政善・久保氏の次男に生まれる。6歳で地元の西岸寺に入り、後に京都や江戸で修行する。21歳の時に増上寺にて宗脈を受ける。後に増上寺学寮を掌った。文久元年(1861年)に浄国寺住職となる。文久3年(1863年)自身の羅漢研究を纏めた『羅漢図讃集』を刊行する。これは今日から見ても高い学術的価値を持つ著作であり、徹定の優れた学識が窺える。また徹定は羅漢の知識を狩野一信に教え、増上寺に残る計100幅にも及ぶ一信の「五百羅漢図」制作にも役立った。
田能村 直入(たのむら ちょくにゅう、文化11年2月15日(… 田能村 直入(たのむら ちょくにゅう、文化11年2月15日(1814年4月5日) - 明治40年(1907年)1月21日)は、幕末から明治時代にかけて活躍した日本画家。日本最後期の文人画家として知られる。 田能村竹田の養継子。幼名は、はじめ松太、のち傳太。諱は、はじめ蓼、のち痴。字は、はじめ虚紅、のち顧絶。号は、はじめ小虎、のち直入。通称は小虎とした。別号に竹翁、忘斎、煌斎、芋仙、布袋庵、無声詩客などがある。豊後直入郡竹田町(現在の大分県竹田市)生まれ。 豊後国直入郡竹田町(現・大分県竹田市)において、岡藩士三宮伝右衛門の三男として生まれる。伯父渡辺蓬島が田能村竹田の幼児期の師であったことから紹介され、文政5年(1822年)9歳のときに竹田の画塾に入門。
小野 湖山(おの こざん、文化11年1月12日(1814年3… 小野 湖山(おの こざん、文化11年1月12日(1814年3月3日) - 1910年(明治43年)4月10日)は、幕末から明治時代の漢詩人。名は長愿・字は舒公、通称は仙助・侗之助、別号に玉池仙史と称した。大沼枕山、鱸松塘とともに、明治の三詩人と称された。近江国の生まれ。 文化11年1月12日(1814年3月3日)、三河吉田藩領であった近江国浅井郡高畑村(現滋賀県長浜市高畑町)に、医師・横山玄篤(東湖)の長子として生まれた。横山家は加賀藩家老横山党と同族で平安時代前期の公卿・小野篁の後裔と伝えられ、後に小野へ改姓した。 当初家業を継ぐべく彦根藩医に医術を学ぶが、本人の好む所でなかったことから、近村の儒者・大岡右仲(松堂)に経書史書を学び、文政9年(1826年)に父と共に京都において頼山陽に面謁し朱子学漢詩を学ぶことを決意した。
森 寛斎(もり かんさい、1814年3月2日〈文化11年1月… 森 寛斎(もり かんさい、1814年3月2日〈文化11年1月11日〉 - 1894年〈明治27年〉6月2日)は、日本の幕末から明治時代に京都を中心に活躍した絵師、日本画家。本姓は石田。幼名は幸吉、のち尚太郎。諱は公粛。字は子容、または寛仲。寛斎は号で、別号に桃蹊、晩山、造化室、天開図画楼。 森狙仙、森徹山、森一鳳・寛斎と続く森派の絵師。若い頃は攘夷運動に熱中したのとは裏腹に、温和で情趣的な画風で、「明治の応挙」と評された。 長州藩士、石田傳内道政の三男として生まれる。父道政は藩の分限帳などに名が無く、家督を継いだ長兄は『金禄券根帳』に「給禄米壱石八斗」とあることから、微禄の下級藩士だったようだ。
鴻 雪爪(おおとり せっそう、1814年2月20日(文化11… 鴻 雪爪(おおとり せっそう、1814年2月20日(文化11年1月1日) - 1904年(明治37年)6月18日)は、幕末・明治期の宗教家である。備後国出身であり、曹洞宗の僧侶として全昌寺・孝顕寺・清凉寺住職を歴任した。明治期には仏教の改革運動に取り組み、仏僧の肉食妻帯を認めさせた。その後、還俗し神職となった。大教院長。御嶽教2代管長。禅僧としては鉄面清拙とも名乗り、ほかに江湖翁の号も用いた。 文化11年1月1日(1814年2月20日)、備後国因島に誕生。俗姓は宮地。父親は宮地長光(与三兵衛)、母親は木原氏の某。幼名は不明。雪爪は次男であり、兄に松之助、弟に与三兵衛秀明がいた。鴻が自ら記すところによれば、宮地氏は醍醐天皇の皇子である源高明に系譜を遡ることができる家柄であり、氏は保安年間に備中宮地荘を賜ったことに由来するという。
黒岩 壽太郎(くろいわ じゅたろう、1814年(文化11年)… 黒岩 壽太郎(くろいわ じゅたろう、1814年(文化11年) - 1857年6月13日(安政4年5月22日))は、讃岐国香川郡(現・香川県高松市錦町)出身の大相撲力士。本名は不明。幕末屈指の強豪でありながら不幸にも三役に登れぬまま現役で亡くなった。最高位西前頭筆頭。 始め大坂相撲の5代押尾川に入門。のち江戸に下り7代雷の弟子となり1845年(弘化2年)10月二段目に付け出される。好成績を残しながら番付はあまり上がらなかったが1849年(嘉永2年)11月相撲会所の英断により二段目11枚目から一躍入幕を果たした。 入幕後も期待に応え大関小柳常吉に3勝1敗4分、のちの大関猪王山森右エ門に4勝2敗3分1預、のちの横綱雲龍久吉に1勝1敗5分と強豪相手に一歩も譲らぬ活躍を見せた。
神戸の長吉(かんべのながきち、1814年 - 1880年3月… 神戸の長吉(かんべのながきち、1814年 - 1880年3月20日)は、日本の侠客である。村上元三の小説『次郎長三国志』に同名で登場、「荒神山の喧嘩」の中心となった人物である。神戸長吉(読み同)とも。「神戸の長吉」と呼ばれる前は吉五郎(きちごろう)と名のっていた。本名は初芝 才次郎(はつしば さいじろう)。 1814年(文化11年)、下総国千葉郡浜野村(現在の千葉県千葉市中央区浜野町)に生まれる。小島政二郎の小説『次郎長日向』(1955年)には、吉良の仁吉(本名・太田仁吉、1839年 - 1866年)に対して加勢のお礼を述べに来て、その帰りに角井門之助に斬殺される「よね」という母が登場するが、フィクションである。
左 行秀(さの ゆきひで、1813年12月17日(文化10年… 左 行秀(さの ゆきひで、1813年12月17日(文化10年11月25日) - 1887年(明治20年)3月5日)は、日本の江戸時代末期の刀鍛冶。新々刀の名匠。土佐正宗の異名を持つ幕末の土佐藩を代表する名工。作刀期は1840年(天保11年)~1870年(明治3年)。士族。 文化10年11月25日(1813年12月17日)、伊藤五佐衛門の次男として、筑前国上座郡朝倉星丸村(現・福岡県朝倉市)に生まれる。次男であったため、伊藤姓ではなく母方の伯父の姓である豊永氏を名乗った。諱は「信国」のち「行秀」、字は初め「久兵衛」と称し土佐藩召抱ののち「久左衛門」と改める。号は「東虎」。遠祖は南北朝時代の筑前左文字派の刀工で、自ら「左文字三十九代末孫」と称した。
嘉納 希芝(かのう まれよし、文化10年10月24日〈181… 嘉納 希芝(かのう まれよし、文化10年10月24日〈1813年11月16日〉 - 明治18年〈1885年〉9月15日)は、日本の廻船業者(江戸時代)、官吏(明治時代)。通称は治郎作、次郎作とも。幼名は幸丸。 講道館の創始者である嘉納治五郎は希芝の三男。 文化10年10月24日(1813年11月16日)、近江国坂本村に、日吉大社の神職・生源寺希烈の次男として生まれる(四男という説もある。)。嘉納家に逗留していた際に論語を教えたことが縁で、嘉納家二代目当主・嘉納治作の娘である定子と結婚した。その後、養父の治作を継いで摂津国御影村の廻船問屋の廻船業を継いだ。 文久2年(1862年)、勝海舟の指導を受け、和田岬、神戸・西宮の砲台築造工事を請け負った。
伴林 光平(ともばやし みつひら/ばんばやし みつひら、文化… 伴林 光平(ともばやし みつひら/ばんばやし みつひら、文化10年9月9日(1813年10月2日) - 文久4年2月16日(1864年3月23日))とは、幕末の国学者、歌人、勤王志士。幼名は信丸、後に左京。通称、六郎。一時、並木春蔵の変名を使用。法名は大雲坊周永。号は破草鞋道人、八丘、斑鳩隠士、蒿斎、岡陵など。伴林の名は、生家近くの伴林氏神社(祭神:高御産巣日神、天押日命、道臣命。大伴氏の祖神を祀る)にちなむ。 河内国志紀郡林村(現:藤井寺市林)浄土真宗尊光寺に父 賢静・母 原田氏の次男として生まれ、西本願寺の学寮(後に同学寮因明学教授)、薬師寺、大和郡山の光慶寺等で仏道修行、各地で仏道・朱子学・国学・和歌を学ぶ(父は出生前に他界、母も六歳の時に亡くなった)。
林 勇蔵(はやし ゆうぞう、文化10年7月16日(1813年… 林 勇蔵(はやし ゆうぞう、文化10年7月16日(1813年8月11日) - 明治32年(1899年)9月24日)は幕末明治期の長州藩/山口県の豪農。 文化10年(1813年)7月16日、周防国吉敷郡矢原村(現山口市)に生まれ、13歳で同郡上中郷(現山口市小郡町)の林家の養子となる。林家は、延宝7年(1679年)に四代・文左衛門が初めて上郷村庄屋役を勤めたのを契機に、以後代々庄屋役および小郡宰判大庄屋役などを歴任して幕末に至った。勇蔵は林家第十代当主にあたり、天保12年(1841年)上中郷庄屋、安政2年(1855年)小郡宰判大庄屋となった。 元治元年(1864年)12月15日、高杉晋作らが功山寺で挙兵すると、勇蔵はこれを金銭的に支援する。
小河 一敏(おごう かずとし、文化10年1月21日(1813… 小河 一敏(おごう かずとし、文化10年1月21日(1813年2月21日) - 明治19年(1886年)1月31日)は、堺県知事、宮内省御用掛。通称は弥右衛門。 岡藩士の子として、豊後国竹田に生まれた。朱子学・陽明学を学び、また詩歌や文章も善くし、早くから尊皇攘夷の志をいだいた。嘉永6年(1853年)のマシュー・ペリーによる黒船来航を機に九州地方北部の各地を遊説して久留米藩の真木和泉や熊本藩の宮部鼎蔵らと交わった。安政6年(1859年)には気吹舎に入門して国学の徒となり、平田銕胤嫡男平田延胤とは懇意の間柄にあった。藩論が尊王派と佐幕派に分かれ対立すると、尊王派の指導者として活動し、薩摩藩と結んで倒幕を画策して挙兵を図るが文久2年(1862年)の寺田屋騒動で挫折した。
日根 対山(ひね たいざん、文化10年(1813年) - 明… 日根 対山(ひね たいざん、文化10年(1813年) - 明治2年3月13日(1869年4月24日))は、幕末の文人画家。 日根野とも呼ばれる。名を盛長、字を成言・小年、対山のほかに茅海・錦林子・同楽園・雲煙楼・酔墨庵などと号した。和泉国日根郡中庄村湊(現在の大阪府泉佐野市湊)に生まれる。 日根又衛門の三男として生まれる。幼い頃より絵を好み、はじめ土佐派の桃田栄雲に学び、大坂に出た後岡田半江に就いて南画を学んだ。泉佐野の豪商・里井浮丘とは幼なじみで、浮丘の庇護を受け中国絵画の臨模などで画業を磨いた。 28歳で京都に遊び、経学と書を貫名菘翁に師事した。京都移住後は勤王家の梁川星巌、頼三樹三郎、藤本鉄石、中西耕石らと親交を結ぶ。
菊池 金吾(きくち きんご、1812年10月12日(文化9年… 菊池 金吾(きくち きんご、1812年10月12日(文化9年9月9日) - 1893年(明治26年)5月4日)は、江戸時代から明治時代の武士(盛岡藩士)、実業家。明治期に盛岡一の大富豪となった。 陸奥国稗貫郡亀ヶ森村(現在の岩手県花巻市大迫町)にて盛岡藩上級武士の藤枝宮内家臣(藩主から見れば陪臣)菊池弥兵衛、セキの三男として生まれた。父弥兵衛は金吾を医者にしようと、紫波郡郡山駅(現在の紫波町日詰と二日町の上町・下町を合わせた通称地名)に住む木村某という医師に預けたが、数日で脱走し実家に帰った。 1826年(文政9年)、盛岡に出て藩の重臣である加判役の花輪伊豆守に仕えた。後に同藩士大石貫一郎家に養子として入り、大石金吾と名乗る。
小南 五郎(こみなみ ごろう、文化9年(1812年)10月 … 小南 五郎(こみなみ ごろう、文化9年(1812年)10月 - 明治15年(1882年)2月22日)は、幕末の土佐藩士。名は良和。通称は五郎、五郎右衛門。迅衝隊士。 土佐国土佐藩下土佐郡大川筋(現高知県高知市大川筋2丁目)に生まれる。 大目付をつとめ、1853年に山内容堂より側用役として抜擢される。 安政の大獄時には、井伊直弼の容堂に対する追及をかわす為に、小南などの重臣が身代わりとなって幽閉処分を受ける。のちに復帰し大目付に就任するが、尊皇攘夷主義の土佐勤皇党に協力的だったため、勤皇党弾圧時には任を解かれ、失脚。勤皇党盟主武市瑞山をはじめ、平井収二郎、間崎哲馬ら同志が相次いで切腹に追い込まれる中、小南も武士の位を剥奪され、町人と同じ位に落とされるという屈辱的な処罰を受ける。
岡田 佐平治(おかだ さへいじ、文化9年7月10日(1812… 岡田 佐平治(おかだ さへいじ、文化9年7月10日(1812年8月16日) - 明治11年(1878年)3月3日)は、幕末-明治時代の農業指導者、報徳運動家。名は清忠。字は至誠。号は無息軒。 遠江国佐野郡倉真村(現:静岡県掛川市)の豪農。15歳で家を継ぐ。二宮尊徳の報徳思想を安居院庄七から学び感銘し、嘉永元年(1848年)居村に牛岡組報徳社を結社。長男良一郎と共に領内の荒地開墾、窮民救済に尽力した。明治8年(1875年)遠江国報徳社を設立し、社長となる。 大正7年(1918年)、従五位を追贈された。
大原 其戎(おおはら きじゅう、四時園其戎、文化9年5月18… 大原 其戎(おおはら きじゅう、四時園其戎、文化9年5月18日(1812年6月26日) - 明治22年(1889年)3月31日)は、伊予松山の俳人。通称は熊太郎、沢右衛門。 青年期の正岡子規が俳句の指導を受けた人物である。 伊予国(現・愛媛県)の三津浜に生まれた。父親は綿・麻織物を扱う太物商で俳人の其沢である。万延元年(1860年)、京都に出て七世桜井梅室に入門し、二条家から宗匠の免許を受けた。その後、故郷に戻り俳諧結社の明栄社を興し、明治13年(1880年)に月刊俳誌『真砂の志良辺』を創刊した。同誌に投稿した俳人は800人に達した。 上京後、俳句に興味を持った正岡子規が、明治20年(1887年)の2度目の帰郷の際、友人の勝田主計の勧めで其戎のもとを訪ね、句稿を見せて批評を仰いだ。
鈴木 重胤(すずき しげたね、文化9年5月5日(1812年6… 鈴木 重胤(すずき しげたね、文化9年5月5日(1812年6月13日) - 文久3年8月15日(1863年9月27日))は、江戸時代後期の皇学者である。 1812年(文化9年)、淡路国津名郡仁井村(現:兵庫県淡路市仁井)の庄屋・穂積重威の5男として生まれる。幼名は雄三郎、通称は勝左衛門、橿廼家・厳橿本・府生・柱州と号し、諱は重胤。 1825年(文政8年)ころ、大坂鴻池家に商業見習いに住み、父の遺訓で国学を志望し、大坂や神戸で奉公のかたわら学問に励んだ。1832年(天保3年)、江戸在住の平田篤胤に書信で教えを受けるが、面会できないうちに篤胤は亡くなる。1834年(天保5年)ころ大国隆正に入門。 嘉永・安政にかけて『延喜式祝詞講義』『日本書紀伝』の著述に努めたが、1857年(安政4年)、篤胤の養子・銕胤らと不和が生じ、1858年(安政5年)には破門される。
村上 忠順(むらかみ ただまさ、1812年5月11日〈文化9… 村上 忠順(むらかみ ただまさ、1812年5月11日〈文化9年4月1日〉 - 1884年〈明治17年〉11月22日)は、三河国碧海郡堤村(現・愛知県豊田市高岡町新馬場)出身の国学者・刈谷藩御典医。忠順の蔵書は「村上文庫」として刈谷市中央図書館が所蔵している。幼名は賢次、字は承郷、号は蓬盧。 忠順は医業を「生活の方便」と割り切っており、国学の奥義を極めることに心血を注いだ。三河地方の国学者としては吉田藩の羽田野敬雄と並び称され、「東の羽田野、西の村上」として知られた。 祖父は村上忠直、父は村上忠幹(ただもと)、母は美志子。文化9年(1812年)4月1日、三河国碧海郡堤村(現・愛知県豊田市高岡町)の新馬場(しまんば)に生まれた(次男)。
葛原 勾当(くずはら こうとう、文化9年3月15日(1812… 葛原 勾当(くずはら こうとう、文化9年3月15日(1812年4月26日)- 明治15年(1882年)9月8日)は、日本の地歌箏曲家、作曲家。盲人ながら江戸後期から明治期に生き、自作の木活字を用いて『葛原勾当日記』を長年つけたことで知られる。孫は童謡作家葛原しげる。 出身は備後国安那郡八尋村(広島県深安郡神辺町、のち福山市)。庄屋矢田重知の長子として生まれた。本姓矢田、幼名柳三、諱は重美。名は琴の一、のち美濃一。雅号一泉、俳号似月。3歳で痘を病み、両眼とも失明。9歳で琴を始め、11歳で京都の松野勾当(のち検校)に師事し、生田流箏曲を修めた。14歳で座頭になり、その翌年帰郷し、備後・備中両国を中心に広く琴を教授するかたわら、たびたび上洛してはその技を磨いた。
白石 正一郎(しらいし しょういちろう、文化9年3月7日(1… 白石 正一郎(しらいし しょういちろう、文化9年3月7日(1812年4月18日)- 明治13年(1880年)8月31日)は、奇兵隊のスポンサー、長府藩の支藩である清末藩の御用商人。名は資風。通称は駒吉。または熊之助。号は橘円。商人の自由を求めて、家が破滅するまで奇兵隊へ財政支援し明治維新をバックアップした。明治政府より感謝を込めて正五位を贈られた。 文化9年(1812年)、長門国赤間関竹崎に萬問屋(荷受問屋)小倉屋を営んでいた白石卯兵衛・艶子の長男(8代目)として生まれた。米、たばこ、反物、酒、茶、塩、木材等を扱い、ほかに質屋を営み酒もつくった。もともと下関は西国交通の要衝であったため、長州藩など多くの藩から仕事を受けて、資金は豊富であった。
山田 千疇(やまだ ちうね、1812年 - 1876年)は、… 山田 千疇(やまだ ちうね、1812年 - 1876年)は、尾張国中島郡中野村(のちの稲沢市)出身の国学者。 尾張国中島郡中野村において、松平数馬に仕えた数右衛門の子金次郎として出生。歌は木村千斎に師事する。また、国学は植松茂岳に学ぶ。尾張藩に仕え、明倫堂の国学助教見習および神祇改役見習を歴任する。廃藩置県により、失職したのち教導職へと転じ、私塾を開いた。旧蔵書および自筆稿本を中心に260点が名古屋市蓬左文庫に寄託されている。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
美馬 君田(みま くんでん、1812年(文化9年)- 187… 美馬 君田(みま くんでん、1812年(文化9年)- 1874年)は、幕末の尊攘運動家。 君田本姓は鎌田氏、名は諧、字は和南といい、通称援造・三嶺、号は君田、俳号は土仏・桜水と称した。 文化9年、阿波国美馬郡重清村字谷口(現徳島県美馬市)にて出生。願勝寺44代の住職である。諸国をまわり、のち讃岐(香川県)琴平で日柳燕石や植田有年ら同志とともに尊攘をとなえた。天保14年(1843)病気のため還俗して讃岐の琴平に住んだ。 君田は博学達識の人で和歌・俳句などに優れていたが、とくに知られているのは琴平在住の勤王の志士桂小五郎・高杉晋作・坂本竜馬と交流があり、特に日柳燕石とは「燕石ある処には必ず君田あり、君田の影には常に燕石あり」と言われるほどであった。
神野 金平(じんの きんぺい、1812年〈文化8年12月〉 … 神野 金平(じんの きんぺい、1812年〈文化8年12月〉 - 1905年〈明治38年〉12月)は、尾張国海西郡江西村の庄屋役を務める家に生まれる。父の名も金平で、家督相続して7代目神野金平となった。 神野家は大和国神野(現奈良県五條市西吉野町神野)出身との伝えから「神野」を名乗ったものと思われる。 室町時代に美濃国に移住し、戦国時代末期に尾張国海西郡江西村へ移り、以後、代々木曽川の水難に堪えて、田畑の開墾、農事に励んできた。 子は小吉(後の3代富田重助)、実太郎、三甫吉、三代吉、岸郎(後の神野金之助)と長女の栄。 なお諸説あるが、神野家は「じんの」から「かみの」に大正12年(1923年)に改称したと神野新田資料館のパネルに記載されているので、ここでは「じんの」金平とする。
松尾 多勢子(まつお たせこ、文化8年5月25日(1811年… 松尾 多勢子(まつお たせこ、文化8年5月25日(1811年7月15日) - 明治27年(1894年)6月10日)は、幕末期の尊皇派女性志士。島崎藤村の「夜明け前」にも活写されている。彼女の名前は本来「(お)多勢」と表記されたが、明治時代以降、女性の名前には「・子」を付ける慣習に従って表記されるようになった。 信濃国伊那郡山本村(現在の長野県飯田市)の豪農・竹村常盈の長女として生まれた。19歳で伴野村(現・豊丘村)の旧家・松尾佐次右衛門淳斎に嫁いだ。夫婦仲は良く7人の子を育てながら、家業の傍らともに和歌や平田派国学などを夫ともに学んだりした。 文久2年(1862年)に、病身の夫から許しを得て51歳で上洛し、尊皇攘夷運動に参加、公家の白川家、大原家に出入りするようになった。
竹居 安五郎(たけい やすごろう、文化8年4月15日(181… 竹居 安五郎(たけい やすごろう、文化8年4月15日(1811年6月5日) - 文久2年10月6日?)は、日本の侠客。言葉にどもりがあり、竹居の吃安(どもやす)とも言われる。本名は中村安五郎で、名は安蔵とも記される。甲州博徒の一人で、上黒駒村出身の黒駒勝蔵の兄貴分としても知られる。 甲斐国東八代郡竹居村(山梨県笛吹市八代町竹居)に生まれる。生家の中村家は竹居村の名主を務めた家柄で、父は甚兵衛、母は「やす」。安五郎は甚兵衛の4男。父の甚兵衛は無宿人を取り締まる郡中総代にも任じられている。 安五郎の青年期には甲斐国でも無宿・博徒の活動が活発化し、天保7年(1836年)8月に発生した天保騒動は甲斐一国規模の一揆となり、「悪党」と呼ばれた多くの無宿が騒動に参加し激化した。
渡 忠秋(わたり ただあき、1811年3月4日(文化8年2月… 渡 忠秋(わたり ただあき、1811年3月4日(文化8年2月10日) - 1881年(明治14年)6月5日)は、幕末から明治初期の歌人。御歌所御用掛。本姓は鳥居氏。通称は新太郎、楊園・桂蔭と号した。 1811年3月4日((旧暦)文化8年2月10日)近江国高島郡舟木(現滋賀県高島市安曇川町南舟木)に生まれ、鳥居家より渡家を継いだ。楊園の号は、『万葉集』のあど川柳の歌(霰降り遠江のあど川柳、刈れどもまたも生ふちう あど川柳)にちなんで名付けたと伝えられる。同郷の国学者 中江千別に学び、のちに和歌の道を志し、京都に出て香川景樹の門に入る。 家を弟に譲り京都に住み、時の右大臣三条実万に仕え、香川景樹の没後は桂園派を守った。
江木 鰐水(えぎ がくすい、1811年1月16日(文化7年1… 江木 鰐水(えぎ がくすい、1811年1月16日(文化7年12月22日) - 1881年(明治14年)10月8日)は、江戸時代後期から明治期の備後福山藩(現福山市)の儒学者、洋学者、開港論者。 藩校誠之館教授・医者・備後福山藩儒官。名は戩(ゆき)字は晋戈(しんか)。通称は繁太郎。号は健斎・三鹿斎。文化7年12月22日(1811年1月16日)安芸国豊田郡戸野村(現広島県東広島市河内町戸野)の庄屋福原与曽八(藤右衛門貞章)の三男として生まれる。 文化12年(1815年)6歳のとき父を亡くす。福山藩医・五十川菽斎(いかがわしゅくさい)および篠崎小竹に師事。福山藩医・江木玄朴の家を継ぎ江木を名乗るも、医術を好まず。
三枝 雲岱(さいぐさ うんたい、文化8年〈1811年〉 - … 三枝 雲岱(さいぐさ うんたい、文化8年〈1811年〉 - 明治34年〈1901年〉3月21日)は、日本の画人。本名は小野 太(おの ゆたか)。 甲斐国巨摩郡明野村浅尾新田(現・山梨県北杜市明野地区)で小野家の子として生まれた。14歳の時に蔵原村(現・北杜市高根町蔵原)の宝源寺三枝氏を継いだ。幼児より絵をたしなみ、甲府の画家竹村三陽(竹邨三陽)に師事し、その後京都に出て、日根対山に南宗画を学び、明治13年(1880年)3月、明治天皇山梨巡幸の際に「御嶽新道」・「玉堂富貴」2帖を作り献上した。 特に花鳥、中でも牡丹を描いたものが多い。山水画にもすぐれた作品があり、梅・蘭・百合・まつり・くちなし・桂花・水仙の七香に竹と石を配した「七香三友図」。
加藤 千浪(かとう ちなみ、1810年12月15日(文化7年… 加藤 千浪(かとう ちなみ、1810年12月15日(文化7年11月19日) - 1877年(明治10年)11月18日)は、幕末から明治時代の国学者・歌人。通称は弥三郎または弥助。号は萩園。 陸奥国白河(現在の福島県白河市)にて加藤美方と母緑川氏の子として生まれる。幼少より勉学を好み、後に江戸に出て、岸本由豆流に国学を学ぶ。歌道や書に長けていたという。 明治維新後、歌人としての名声が高く、多くの門人を抱えた。この中には伊東祐命や中島歌子などがいる。1877年(明治10年)11月18日逝去。享年68歳。墓所は深川の臨川寺。妻は三宅氏で、子供はなく養子を関氏よりとった。 顕彰碑が向島区の牛嶋神社に建立された。
三国 大学(みくに だいがく、文化7年10月1日(1810年… 三国 大学(みくに だいがく、文化7年10月1日(1810年10月28日) - 明治29年(1896年)5月31日)は、幕末の商人、儒学者。豪商三国鶴叟の三男。諱は直準。字は士繩。別称・与吉郎。鷹巣、碌々山人と号、出家後は幽眠と称した。 越前国坂井郡三国の生まれ。当初は彦根藩士中村漁村に徂徠学を学んだ。同門で机を並べていたのが、当時は彦根藩主の息子ながら先の定まらぬ捨扶持の部屋住みの身分であり、しかしのちに幕府大老として安政の大獄を主導する井伊直弼であった。 天保3年(1832年)上洛して折衷学派を学んで梁川星巌や森田節斎らと交流する。天保7年(1836年)には私塾を開き、また『孝経傍訓』を著すなどした。