冨田濱 正治(とみたはま まさじ、1914年4月27日 - … 冨田濱 正治(とみたはま まさじ、1914年4月27日 - 没年不明)は、昭和時代の大相撲力士。高砂部屋から大山部屋に所属。三重県四日市市出身。本名は広瀬 政治(ひろせ まさじ)。最高位は西十両9枚目。得意技は左四つ、寄り。 1931年5月場所に初土俵。1939年5月場所に十両に昇進。この場所は6勝9敗と負け越した。関脇・高登が引退し大山部屋を興すとともに移籍し、その最初の場所である翌1940年1月場所でも3勝12敗と大きく負け越し、幕下に陥落した。1941年5月場所に27歳で廃業した。
小野 義彦(おの よしひこ、1914年4月25日 - 199… 小野 義彦(おの よしひこ、1914年4月25日 - 1990年11月19日)は、日本の経済学者、大阪市立大学名誉教授。マルクス主義の立場から資本主義批判を行った。日本共産党における主流派のアメリカ従属論を批判した。主流派が、日本のアメリカ従属から脱する民族民主革命と社会主義革命が必要とする二段階革命論を唱えたことに対して日本はアメリカに従属しておらず、戦術としてアメリカ従属を利用する日本の独占資本主義に対する一段階革命論を提唱し、事実上日本共産党から排除された。1963年9月に平民学連からシンパ学生を率いて民主主義学生同盟を結成した。 東京府東京市四谷区生まれ。仙台第二中学校から第一高等学校へ進んだが、1933年に左翼活動のため中退。
前田 新太郎(まえだ しんたろう、1914年4月25日 - … 前田 新太郎(まえだ しんたろう、1914年4月25日 - 没年不明)は、日本の経済学者。財政学専攻。北海道大学経済学部長、千葉大学人文学部教授、福島大学経済学部教授などを務めた。 愛知県出身。名古屋市立名古屋商業学校(現名古屋市立名古屋商業高等学校)を経て、1936年名古屋高等商業学校(現名古屋大学経済学部)卒業。1939年東京商科大学(現一橋大学)卒業。中山伊知郎門下。 横浜市立横浜商業専門学校(現横浜市立大学)助教授を経て、1943年同教授。1951年文部教官任官、北海道大学法経学部経済学科助教授(財政学)。 1962年北海道大学経済学博士。北海道大学経済学部教授を経て、1963年から北海道大学経済学部長を併任し、学部創立十周年記念事業の構想を発表し、クラーク会館で記念祝賀会を行った。
武部 本一郎(たけべ もといちろう、1914年4月24日 -… 武部 本一郎(たけべ もといちろう、1914年4月24日 - 1980年7月17日)は、日本のイラストレーター。出版美術家連盟会員、児童出版美術家連盟会員、少年文芸作家クラブ会員。 大阪府出身。ペンネームに城青児、宇田野武、宇多野武、鈴江四郎。父は日本画家の武部白鳳。1960年代から1970年代にかけてSFアートの世界で活躍した。 甲陽中学校卒業。在学中から画学校で絵を学ぶ。第二次大戦が終わった1945年に京都府に移住し、画業を開始。行動美術展覧に入展したのを始めとして数々の賞に入選するが、1953年頃より宇田野武の名前で街頭紙芝居を手がける。翌年から少年画報社からの依頼で『少年画報』に絵物語を描き始め、集英社の『おもしろブック』でも連載を行なった。
山内 一夫(やまのうち かずお、1914年4月24日 - 1… 山内 一夫(やまのうち かずお、1914年4月24日 - 1993年10月1日)は、日本の法制官僚・法学者。専門は行政法。学習院大学名誉教授。 東京市(現新宿区)出身。1938年東京帝国大学法学部政治学科卒。内閣法制局総務長官室主幹。内閣法制局第三部長、1959年内閣法制局第一部長、1964年学習院大学法学部教授、法学部長、85年定年、名誉教授。
後宮 虎郎(うしろく とらお、1914年4月22日 - 19… 後宮 虎郎(うしろく とらお、1914年4月22日 - 1992年6月12日)は、日本の外交官。駐オランダ大使、駐タイ大使、駐韓大使や国立京都国際会館の館長を務めた。 1914年京都府生まれ。父は後宮淳、義父は吉見信一。旧制第三高等学校文科甲類を経て、東京帝国大学進学。 1936年に外交科試験に合格し、1937年に東京帝国大学法学部政治学科を卒業して外務省に入省した。 1938年に徴兵され、京都市伏見区にある陸軍の輜重隊に所属し、二等兵から始まり終戦前には中尉まで昇進している。 外務省に戻り、1949年管理局在外邦人課長、1951年アジア局第二課長(後の中国課長)、1952年在アメリカ合衆国日本国大使館一等書記官、1954年大臣官房総務課長、1956年大臣官房参事官、1957年経済局外務参事官、1960年在タイ日本国大使館公使、1962年アジア局長などを歴任。
三戸サツヱ(みとさつえ、1914年4月21日 - 2012年… 三戸サツヱ(みとさつえ、1914年4月21日 - 2012年4月7日)は教師、研究者。小学校、中学校の教員をしながら、1948年から始まった京都大学の宮崎県串間市幸島(発音は本により、コウシマと、コージマがある)のサルの研究に加勢した。三戸はサル全数の個体識別を行い、戸籍を作り、サルがイモを洗って食べる習慣の発生と伝達など発見し、サル学の発展に貢献した。1970年から1984年にかけて、京都大学霊長類研究所研究員になった。著書の名義では三戸サツエの表記も使われる。
末永 聡一郎(すえなが そういちろう、1914年4月21日 … 末永 聡一郎(すえなが そういちろう、1914年4月21日 - 1985年8月14日)は、日本の経営者。三菱重工業社長を務めた。福岡県出身。 1947年に東京帝国大学工学部を卒業し、三菱重工業に入社。長崎造船所長を務め、1970年5月に取締役に就任した。常務を経て、1977年6月に副社長に就任し、1981年6月に社長に昇格した。 1983年から日本航空宇宙工業会会長を務め、経済団体連合会常任理事も務めた。 1985年8月14日腎不全のために死去。79歳没。
舘盛 静光(たてもり せいこう、1914年〈大正3年〉4月2… 舘盛 静光(たてもり せいこう、1914年〈大正3年〉4月21日 ‐ 2002年〈平成14年〉12月17日)は、日本の政治家。相模原市長(5期)。位階は従四位。 神奈川県相模原市出身。神奈川師範学校中退。大沢村書記から1941年の合併後は相模原町書記、大沢出張所長などを経て、相模原市役所に勤務する。1956年から同市教育長を15年勤め、1971年市助役に就任する。1977年の市長選挙に立候補して初当選、5期務めた。1997年引退。2002年死去。死没日付をもって従四位に叙された。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
田丸 秀治(たまる ひではる、1914年4月20日 - 19… 田丸 秀治(たまる ひではる、1914年4月20日 - 1990年1月25日)は、日本の実業家。電通代表取締役社長、代表取締役相談役、日本広告業協会理事長等を歴任。マルさんの愛称で親しまれた。 鹿児島県鹿児島市生まれ、出身。旧制鹿児島県立第一鹿児島中学校(現鹿児島県立鶴丸高等学校)を経て、1935年第七高等学校造士館文科卒業。1938年東京帝国大学文学部を卒業。旧制中学校の教諭を経て、七高先輩の吉田秀雄に招かれて1948年に日本電報通信社に入社。部長、局長を経て、1967年に電通常務取締役に就任。その後、専務取締役を経て、1977年に代表取締役社長に就任。同時に吉田秀雄記念事業財団の理事長にもなる。
神谷 尚男(かみや ひさお、1914年4月17日 - 201… 神谷 尚男(かみや ひさお、1914年4月17日 - 2015年2月6日)は、日本の検察官。元検事総長、弁護士。岩手県出身。位階は正三位。 盛岡中学、旧制静岡高等学校、1937年東京帝国大学法学部卒業。法務省人事課長、東京地方検察庁検事正、法務事務次官を歴任。 ロッキード事件では東京高検検事長として、検察首脳会議では布施健検事総長と共に事件の積極的な解明を主張した。1977年、布施の後任として検事総長に就任後は、ダッカ日航機ハイジャック事件、ダグラス・グラマン事件などに関わる。1979年に退官し、帝京大学教授、弁護士となった。 2015年2月6日、老衰のため死去。100歳没。没後に正三位を追叙された。
井口 小夜子(いぐち さよこ、1914年(大正3年)4月17… 井口 小夜子(いぐち さよこ、1914年(大正3年)4月17日 - 2003年(平成15年)11月9日)は昭和期の歌手。東京市神田区出身。本名は田沼とみ子(旧姓:井口)。 生家は東京・神田の文具店。東京市立忍岡高等女学校1年生のときの音楽講師は四家文子だった。武蔵野音楽学校に進み、卒業の頃、大日本雄弁会講談社のレコード部(のちのキングレコード)の歌手募集に応募し、「赤城の子守唄」を歌って合格。専属歌手第1号となった。 童謡歌手として1935年(昭和10年)キングレコードより「ベゴニアの花」でデビュー。1939年(昭和14年)、武蔵野音楽学校本科声楽部を首席で卒業し、キングレコードより「乙女十八」で歌手デビュー。
中村 八朗(なかむら はちろう、1914年4月16日 - 1… 中村 八朗(なかむら はちろう、1914年4月16日 - 1999年2月3日)は、昭和期の小説家。 長野県長野市出身。旧制長野中学(現長野県長野高等学校)、第二早稲田高等学院(現早稲田大学高等学院)を経て早稲田大学文学部仏文科卒業。吉江喬松にフランス文学を学んだ。高等学院時代に八木義徳、辻亮一、多田裕計らとともに同人誌『黙示』を創刊。『黙示』に載せた小説「或る尼僧の話」を丹羽文雄に評価され、以後師事する。1937年、丹羽の推挙により『早稲田文学』に処女作「古い絆」を発表、文壇デビューを果たす。初期の作品は僧侶を題材としたものが多かった。 大学卒業後、1938年から早稲田大学出版部に勤務するが、翌年応召され、松本市の歩兵第50連隊を経て、盛岡市の陸軍予備士官学校に入る。
遊部 久蔵(あそべ きゅうぞう、1914年4月16日 - 1… 遊部 久蔵(あそべ きゅうぞう、1914年4月16日 - 1977年12月12日)は、日本の経済学者。古典学派とマルクスの価値論および経済学史を研究。 東京府(現・東京都)出身。慶應義塾大学卒。東洋経済新報社、東亜研究所、戦後は慶應義塾大学助教授。1953年に教授、経済学部長。1977年、在職中に死亡。享年63。
杉本 尚雄(すぎもと ひさお 1914年4月16日 – 1… 杉本 尚雄(すぎもと ひさお 1914年4月16日 – 1970年8月10日 )は、日本の歴史研究者。 熊本県鹿本郡出身。1934年熊本師範学校を卒業し、1935年東京高等師範学校文科に入学。1938年に同校を卒業し、東京文理科大学国史学専攻に入学。1941年に同学を卒業。東京高等師範学校助教授などを経て、1944年東京第二師範学校教授。その後、熊本師範学校教授となり、1949年に熊本大学助教授、1960年に同教授。 専門は日本中世史で、武士団の祭祀組織や九州地方の宮座組織、肥後菊地氏の研究を進め、1961年「中世の神社と社領」により、東京教育大学から文学博士の学位を授与される。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。
石津 光恵(いしづ みつえ、1914年4月16日 - 没年不… 石津 光恵(いしづ みつえ、1914年4月16日 - 没年不明)は、日本の陸上競技(投擲)選手。女子円盤投・砲丸投の元日本記録保持者。山中高等女学校在学中、1932年ロサンゼルスオリンピックに円盤投とやり投で出場した。広島県初の女子オリンピック選手である。 現在の広島県廿日市市出身。山中高等女学校に進む。 1931年、日本陸上競技選手権大会の円盤投・砲丸投で優勝。1931年11月の明治神宮競技大会で、円盤投の日本記録を出したという。1931年には砲丸投で10.14mを出し、「10mの壁」を突破した。 1932年ロサンゼルスオリンピックに出場、円盤投で7位、やり投で8位。 山中高等女学校卒業後は、日本女子体育専門学校(現在の日本女子体育大学)に進学。
藤岡 謙二郎(ふじおか けんじろう、1914年4月15日 -… 藤岡 謙二郎(ふじおか けんじろう、1914年4月15日 - 1985年4月14日)は、日本の地理学者。学位は、文学博士(京都大学・1961年)。京都大学名誉教授。 京都府出身。1935年高知高等学校卒業。京都帝国大学文学部史学科卒業。 1938年京都帝国大学文学部副手、1939年立命館大学講師、1945年立命館大学法文学部助教授、教授を経て、1949年京都大学教養部助教授、翌年教授。1978年定年退官。同年、奈良大学文学部教授となり、1985年定年退職。 1961年、「わが國律令時代における地方都市及び交通路の歴史地理学的研究」で京都大学より文学博士の学位を取得。逝去にあたり、正四位勲三等旭日中綬章。
林屋 辰三郎(はやしや たつさぶろう、1914年4月14日 … 林屋 辰三郎(はやしや たつさぶろう、1914年4月14日 - 1998年2月11日)は、日本の歴史学者・文化史家。 立命館大学教授・京都大学人文科学研究所教授・京都国立博物館長などを歴任。中世史の研究において大きな足跡を残した。 1914年(大正3年)、石川県金沢市に生まれた。父は茶商を営んでいた四代林屋新兵衛で、四男であったことから生後1年足らずのうちに新兵衛の次兄林屋次三郎の養子となり、生家を離れて東京に移った。 1924年、中華民国・北京に一家で渡航・居留。2年後の1926年、中学校入学準備のため単身帰国した。慶應義塾幼稚舎に入学し1927年に慶應義塾普通部に進学。翌1928年京都に移住し、京都府立京都第一中学校第2学年に編入学した。
吉田 正男(よしだ まさお、1914年4月14日 - 199… 吉田 正男(よしだ まさお、1914年4月14日 - 1996年5月23日)は、昭和初期に活躍した中等学校野球、大学野球及び社会人野球の選手。昭和6年(1931年)から昭和8年(1933年)にかけて、夏の甲子園大会で3連覇の偉業を達成した中京商業学校(現・中京大学附属中京高等学校)のエース。甲子園で史上最多となる23勝を記録した。
平松 譲(ひらまつ ゆずる、1914年4月13日 - 201… 平松 譲(ひらまつ ゆずる、1914年4月13日 - 2013年7月21日)は、日本の洋画家。 東京都の三宅島出身。白日会会員として白日会展において中沢賞、内閣総理大臣賞を受賞。日展文部大臣賞を受賞。 1992年に『TOKYO』で日本芸術院賞を受賞し、1995年に日本芸術院会員となる。元日展顧問。 三宅島出身ということもあり、風景画を得意としていた。 2013年7月21日、急性肺炎により死去。99歳没。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
島村 武久(しまむら たけひさ、1914年4月12日 - 1… 島村 武久(しまむら たけひさ、1914年4月12日 - 1996年10月5日)は、日本の官僚。妻は石川岩吉の三女。 高知県出身。1938年(昭和13年)、東京帝国大学法学部卒業。日産自動車販売、日本自動車配給会社に勤務後、1944年(昭和19年)に軍需省軍需管理官となる。戦後、商工省、通商産業省、総理府原子力総務局長、科学技術庁官房長などを経て、1965年(昭和40年)4月に通産省官房審議官で退官。 1965年11月より古河電気工業取締役、1973年から1977年まで副社長、1976年から1979年まで原子燃料工業代表取締役社長となる。1978年から1985年まで原子力委員会委員。1978年から1979年まで日本原子力産業会議常任理事。
葛西 清美(かさい きよみ、1914年(大正3年)4月10日… 葛西 清美(かさい きよみ、1914年(大正3年)4月10日 - 1995年(平成7年)2月20日)は、日本の銀行家、実業家。みちのく銀行頭取、青森朝日放送初代社長を務めた。 青森県出身。青森県立弘前中学校(現・青森県立弘前高等学校)、東北帝國大学法学部法律学科を卒業後、東北興業に入社。子会社等を担当する。 その後、持病を再発したこともあり、前夫人の祖父にあたる唐牛敏世のすすめで弘前無尽(弘前相互銀行の前身)に入社する。入社早々、いきなり支配人兼営業部長をまかせられ困惑したという。役員昇格後は、主に内部改革をまかせられ、コンピューターを業界に先駆けて導入するなどして、弘前相銀は、バイタリティあふれる相互銀行として急成長を果たした。
岸田 麗子(きしだ れいこ、1914年(大正3年)4月10日… 岸田 麗子(きしだ れいこ、1914年(大正3年)4月10日 - 1962年(昭和37年)7月26日)は、日本の画家。洋画家・岸田劉生の娘で、劉生の連作集「麗子像」のモデル。モデルとなった絵画には「麗子微笑」(重要文化財東京国立博物館所蔵他)等がある。 岸田劉生と岸田蓁の娘として生まれる。 鎌倉女学院在学中の1929年(昭和4年)に15歳で父を喪う。1937年(昭和12年)武者小路実篤の新しき村で知り合った歯科医師の瀧本貞次郎と結婚し和歌山市に住んで、1940年(昭和15年)娘・夏子を儲ける(夏子の他に姉弟もいる)。戦後は東京に住むが、瀧本と別れ、年下の臼井幸四郎と結婚し、臼井は岸田姓を名のった。
近衛 十四郎(このえ じゅうしろう、1914年4月10日 -… 近衛 十四郎(このえ じゅうしろう、1914年4月10日 - 1977年5月24日)は、戦前から戦後にかけて活躍した時代劇俳優。数多くの時代劇ファンを魅了する殺陣は「日本映画史上最も殺陣の上手い役者」「古今東西ナンバー1」と評される。本名、目黒 寅彦(出生名は寅一、のち改名)。新潟県長岡市出身。 新潟県長岡市西新町で、父・目黒多七、母・ミカの長男として生まれる(姉と妹に挟まれた長男だが、実の長男は早世しており正確には次男)。13歳で父を亡くし、その後は母によって育てられる。 長岡工業学校卒業後、映画俳優を目指し、1932年市川右太衛門プロダクションに研究生として入団する。最初の芸名は長岡秀樹だった。
池田 みち子(いけだ みちこ、1914年4月10日 - 20… 池田 みち子(いけだ みちこ、1914年4月10日 - 2008年1月7日)は、日本の作家。 京都府出身。日本大学芸術科卒業後、日本写真公社に勤務する傍ら『三田文学』などで小説を書き始め、1940年(昭和15年)には「上海」で第11回芥川賞候補となった。 戦後は作家専業となり、女の性を赤裸々に描いた1950年(昭和25年)の「醜婦伝」で注目され、中間小説を多数執筆。「肉体派の風俗作家」と呼ばれる。1981年(昭和56年)、『無縁仏』で平林たい子文学賞を受賞。1982年(昭和57年)の『生きる』は翌年、NHKのドラマ人間模様でドラマ化された。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
種田 孝一(おいた こういち、1914年4月9日 - 199… 種田 孝一(おいた こういち、1914年4月9日 - 1996年9月11日)は、東京府出身の実業家。また、サッカー選手としてもハーフバック、フルバックのポジションでプレーした。叔父は種田虎雄。 東京府立五中(現・小石川高校)、旧制水戸高校を経て、東京帝国大学に入学しア式蹴球部に所属。 在学中の1936年にベルリンオリンピックのサッカー日本代表に選出された。 本来のポジションはハーフバック(現在の守備的MFに相当)だが、1936年のベルリンオリンピックでは、ドイツ到着後に現地指導者から指導を受けた日本代表が従来の2-3-5システムから3-2-5システムに変更したため、長身で守備的な種田が3バックの中央のフルバック(現在のスイーパーに相当)にコンバートされた。
川越 藤一郎(かわごえ とういちろう、1914年4月9日 -… 川越 藤一郎(かわごえ とういちろう、1914年4月9日 - 2002年4月16日)は、昭和初期の日本の元ラグビー選手。後に日本ラグビーフットボール協会第9代会長。 京都府立京都第一中學校(現在の京都府立洛北高等学校・附属中学校)を経て、早稲田大学(以下、早大)に進学。1937年度シーズンには早大の主将を務め、東西学生ラグビーフットボール対抗王座決定戦の制覇に貢献。また日本代表選手として、1936年のニュージーランド学生代表 (NZU) 戦でキャップ1を獲得した。 その後、1987年〜1992年まで関西ラグビーフットボール協会会長(後に同協会名誉会長に就任)、1992年〜1994年まで日本ラグビーフットボール協会第9代会長を務めた。
戸田 弘(とだ ひろむ、1914年4月9日 - 1980年3… 戸田 弘(とだ ひろむ、1914年4月9日 - 1980年3月25日)は、日本の裁判官。最高裁判所判事。位階は正三位。 愛媛県出身。1938年(昭和13年)に東京帝国大学法科を卒業。同年司法官試補となり、その後に東京や広島などに勤務。広島勤務時代には原爆投下に遭うも、直接被害を被らなかった。 1949年(昭和24年)に現行刑事訴訟法のスタートと共に荒しい時代の刑事裁判に取り組み、最高裁調査官、東京地裁判事等を務め、その後、司法研修所教官、浦和地裁所長、横浜地裁所長、大阪高裁判事、高松高裁長官、東京高裁長官等を歴任した。東京地裁八王子支部の裁判長時代には10年間も裁判記録がロッカーに埋もれていた八王子職安事件について「刑事訴追の利益がない」として公訴を棄却した(控訴審では破棄された)。
山﨑 芳樹(やまさき よしき、1914年(大正3年)4月8日… 山﨑 芳樹(やまさき よしき、1914年(大正3年)4月8日 - 2014年(平成26年)3月10日)は、広島県広島市出身の実業家。 マツダ5代目社長。元広島商工会議所会頭。元サッカー選手・東洋工業蹴球部(のちのマツダSC、現サンフレッチェ広島)創設者、初代監督。 広島県安芸郡仁保島村大河(現・広島市南区北大河町)生まれ。生家は広島の旧家、父も技術者。 広島高等師範学校附属小学校(現広島大学附属小学校)5年生からサッカーを始め、広島県立第一中学校(現広島県立広島国泰寺高等学校)でもサッカー部に所属する。二浪した後、広島高等工業学校機械工学科(現広島大学工学部)に入学。 1938年(昭和13年)、東洋工業へ入社、以降生産技術畑を歩む。
坪内 道典(つぼうち みちのり、1914年4月7日 - 19… 坪内 道典(つぼうち みちのり、1914年4月7日 - 1997年9月16日)は、愛媛県伊予郡郡中町(現:伊予市)出身の元プロ野球選手(外野手)・コーチ・監督。
杉本 盛(すぎもと のぼる、1914年(大正3年)4月6日 … 杉本 盛(すぎもと のぼる、1914年(大正3年)4月6日 - 生没不明)は、昭和時代の競泳選手。 高知県に生まれる。日本大学在学中、1932年ロサンゼルスオリンピックに競泳日本代表として男子400m自由形に出場し5位に入賞した。
平野 仁啓(ひらの きみひろ/じんけい、1914年4月6日 … 平野 仁啓(ひらの きみひろ/じんけい、1914年4月6日 - 1996年11月25日)は、日本の文芸評論家。 広島県生まれ。本名・保。明治大学文学部卒、明大教授、1985年定年退職、名誉教授。20代には、同人文芸誌「批評」にも参加した。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
田村 幸久(たむら ゆきひさ、1914年4月2日 - 199… 田村 幸久(たむら ゆきひさ、1914年4月2日 - 1990年8月9日)は、日本の外交官。外務省に入省後、フランス書記生としてキャリアをスタートさせ、駐カンボジア日本国特命全権大使、在カサブランカ日本国領事などを歴任した。最後の在外公館長は駐アルジェリア大使であった。 父は外交官、国際法学者の田村幸策。 1939年(昭和14年)、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。前年に高等試験(外交科)に合格し、外務省に入省した。最初はフランス書記生として勤務した。 その後、在カサブランカ日本国領事館領事、在カンボジア日本国特命全権大使などを務め、カンボジアとの経済・技術協力や貿易取極に関する業務に携わった。
天野 慶之(あまの けいし、1914年4月1日 - 2002… 天野 慶之(あまの けいし、1914年4月1日 - 2002年10月31日)は、日本の水産学者。東京都町田市出身。 水産講習所(現東京海洋大学)卒。1975年より東京水産大学教授。1977年から1979年まで日本冷凍協会会長。1979年から1985年まで東京水産大学学長。 1953年に発表した『主婦の食品手帖 五色の毒』は、日本で初めて食品添加物の有害性を警告したとされている。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
船山 馨(ふなやま かおる、1914年3月31日 - 198… 船山 馨(ふなやま かおる、1914年3月31日 - 1981年8月5日)は、日本の小説家。船山春子の夫。次男は彫刻家の船山滋生。戦後文学の旗手として活躍し、代表作に『石狩平野』『お登勢』などがある。 北海道札幌市生まれ。実父の小林甚三郎は余市町の出身で、馨の出生当時は東北帝国大学農科大学(現・北海道大学農学部)の学生であった(後に北海道拓殖銀行などに勤務)。母方の実家の意向で母方の船山姓を名乗り、実父とも生後間もなく離別した。なお、馨によると甚三郎はクリスチャンで、トルストイなどの文学愛好者でもあったという。養父は新聞記者・森笛川。 札幌二中(現北海道札幌西高等学校)に在学中、組合教会に通った。
岩倉 義男(いわくら よしお、1914年〈大正3年〉3月31… 岩倉 義男(いわくら よしお、1914年〈大正3年〉3月31日 - 2002年〈平成14年〉7月8日)は日本の高分子化学者。工学博士。 東京工業大学教授、東京大学教授などを歴任。ジイソシアナートとグリコールとの重付加反応によってポルランと名付けたポリウレタンの合成に成功。反応性高分子および耐熱性高分子などの分野で多くの業績を上げた。 群馬県北群馬郡榛東村出身。
西野 照太郎(にしの てるたろう、1914年3月31日 - … 西野 照太郎(にしの てるたろう、1914年3月31日 - 1993年12月30日)は、日本のアフリカ研究家。徳島県出身。京都帝国大学卒。海軍嘱託として蘭印ジャカルタに駐在。1948年から国立国会図書館勤務、専門調査員としてアフリカや南太平洋の問題を研究し著述をなした。
小川 徹(おがわ とおる、1914年3月31日 - 2001… 小川 徹(おがわ とおる、1914年3月31日 - 2001年4月1日)は、日本の地理学者・民俗学者。岡山県生まれ。 東京帝国大学理学部地理学科卒。1972年「沖縄民族社会の歴史地理的研究」で、文学博士(広島大学)の学位を取得。法政大学文学部助教授、教授、1973年駒澤大学教授、1990年退職。
安田 保雄(やすだ やすお、1914年3月31日 - 199… 安田 保雄(やすだ やすお、1914年3月31日 - 1998年6月)は、国文学者。立教大学講師、鶴見女子大学教授、成蹊大学教授等を歴任。 近代文学、比較文学、上田敏が専門。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
青山 良道(あおやま よしみち、1914年(大正3年)3月3… 青山 良道(あおやま よしみち、1914年(大正3年)3月31日 - 1986年(昭和61年)4月23日)は、日本の政治家、教諭。東京都中野区長(2期)、東京都議会議員(3期)を務めた。位階は従五位。勲四等旭日小綬章。 長男は石原慎太郎東京都知事の下で東京都副知事を務めた青山佾。 静岡県御殿場市生まれ。1943年立正大学専門部地理学科卒業。東京府立第三中学校(現・東京都立両国高等学校)教諭、東京都高等学校教職員組合委員長を務めた。 1955年、日本社会党公認で東京都議会議員選挙に出馬し、初当選を果たした。3期目任期中の1965年に都議を辞職した。 1971年2月26日から1979年2月9日まで足掛け3期、中野区教育委員を務めた。
山本 悍右(やまもと かんすけ、1914年3月30日 - 1… 山本 悍右(やまもと かんすけ、1914年3月30日 - 1987年4月2日)は、名古屋市を拠点に、戦前から戦後にかけて活動した日本の写真家、詩人、編集者である。 1930年代から1940年代にかけて、名古屋の前衛的な詩・写真・出版のネットワークのなかで、シュルレアリスム写真やフォトモンタージュを制作し、詩誌『夜の噴水』の編集・発行、VOUへの参加、写真グループ青憧社の会報『CARNET BLEU』の編集など、詩・写真・出版をまたぐ活動を展開した。 その活動は戦時下の統制強化と重なり、『夜の噴水』の終刊や警察の取り調べを経験し、ナゴヤ・フォトアバンガルドの改称と解散にも直面した。 没後は2001年の東京ステーションギャラリーにおける回顧展、2013年のJ・ポール・ゲティ美術館での「Japan's Modern Divide」展、2021年・2022年のメトロポリタン美術館・テート・モダン共同企画「Surrealism Beyond Borders」展、名古屋市美術館、東京都写真美術館の展覧会などを通じて再評価が進んだ。
糸賀 一雄(いとが かずお、1914年3月29日 - 196… 糸賀 一雄(いとが かずお、1914年3月29日 - 1968年9月18日)は、日本の社会福祉の実践家。 知的障害のある子どもたちの福祉と教育における先駆的な役割を担い、戦後日本の障害者福祉を切り開いた第一人者として知られる。 鳥取市立川町出身。母子家庭で育つ。旧制鳥取県立鳥取第二中学校(現・鳥取県立鳥取東高等学校)から旧制松江高等学校(現・島根大学)を経て、1938年京都帝国大学文学部哲学科を卒業する。 小学校の代用教員を経て、1940年滋賀県庁に社会教育主事補として奉職し、近藤壌太郎知事によって秘書課長に抜擢され、終戦直後まで滋賀県の要職を歴任する。 また、この間に教育哲学者の木村素衛や学生義勇軍同志会会長であった十河信二、『次郎物語』の作者である下村湖人らと親交を結ぶ。
本居 貴美子(もとおり きみこ、 1914年(大正3年)3月… 本居 貴美子(もとおり きみこ、 1914年(大正3年)3月28日 - 1972年(昭和47年)12月15日)は、日本の歌手。父は作曲家の本居長世。童謡歌手の本居みどりは姉である。 本居長世の次女として生まれた。昔から父の影響で人の前で歌う機会が多かった。頌栄高等女学校を卒業した。 本居長世作曲の「赤い靴」、「青い眼の人形」などがある。
志賀 淑雄(しが よしお、1914年(大正3年)3月28日 … 志賀 淑雄(しが よしお、1914年(大正3年)3月28日 - 2005年(平成17年)11月25日)は、日本の海軍軍人。海兵62期。最終階級は海軍少佐。東京都出身。旧姓は四元。 大正3年、東京府(現・東京都)で四元賢助海軍少将の三男として生まれる。本籍は鹿児島。父の賢助は、海軍兵学校教官として山本五十六、豊田副武らを教えており、子供の教育にも厳格であった。山口中学を経て、1931年(昭和6年)4月海軍兵学校62期に入学。同期に伏見宮博英王がおり、伏見宮が掃除の時間に列に割り込んだ際、志賀はそれを注意してバケツを蹴飛ばした。その件が殴ったという噂に飛躍して多少の摩擦も生じたが、後に父の訃報を受けた志賀に帰宅許可が出たのは伏見宮の計らいであった。
公文 公(くもん とおる、1914年〈大正3年〉3月26日 … 公文 公(くもん とおる、1914年〈大正3年〉3月26日 - 1995年〈平成7年〉7月25日)は、日本の数学教育者。「公文式」学習指導法の考案と普及に尽力した。 高知県長岡郡大津村(現:高知市大津)の農家に生まれる。下知尋常小学校(現:高知市立昭和小学校)から土佐中学校を経て1933年に高知高等学校を卒業。1936年、大阪帝国大学理学部数学科を第1期生として卒業。高知県立海南中学校(現:高知県立高知小津高等学校)の数学教師となるが、翌年の1937年、召集令状により退職をして同県の朝倉連隊に二等兵として入隊し、満洲国に出兵。3年後の1940年に召集解除となって帰国。海軍兵学校海軍文官海軍教授の試験に合格し、茨城県の土浦海軍航空隊で教鞭を執るが、後に奈良県の天理海軍航空隊に勤務し、1944年に高知県の浦戸航空隊に転属をして、終戦を迎える。
篠田 治男(しのだ はるお、1914年3月26日 - 201… 篠田 治男(しのだ はるお、1914年3月26日 - 2011年7月28日)は、日本の経営者。岐阜県岐阜市出身。 1936年に秋田鉱山専門学校燃料学科を卒業し、同年に日本揮発油(のちの日揮)に入社。1958年に取締役に就任し、1966年に常務、1972年に専務を経て、1978年に副社長に就任し、1980年には社長に昇格。1984年に取締役最高顧問に就任。 2011年7月28日心不全のために死去。97歳没。
杉全 直(すぎまた ただし、1914年3月26日 - 199… 杉全 直(すぎまた ただし、1914年3月26日 - 1994年1月23日)は、日本の洋画家。浦和画家。元東京芸術大学教授、多摩美術大学教授。東京都品川区出身。 洋画家であるが、東京美術学校系統のシュルレアリスムのグループで目立った活動をしていた「貌」に参加し、平面作品のみではなく、立体作品を中心に制作した時期もある。現代日本美術展、日本国際美術展などで優秀賞を受賞し、日本の抽象絵画をリードする一人となった。 2021年1月9日から3月28日まで三重県立美術館にて「ショック・オブ・ダリ ― サルバドール・ダリと日本の前衛」展が開催されサルバドール・ダリに影響を受けた日本の作家として杉全直他、 靉光、浅原清隆、池田龍雄、石井新三郎、小牧源太郎、斎藤長三、島津純一、白木正一、高山良策、難波架空像(香久三)、浜田浜雄、早瀬龍江、尾藤豊、福沢一郎、藤田鶴夫、古沢岩美、森堯之、矢崎博信、山下菊二、山本昌尚、吉井忠、米倉壽仁、渡辺武の24人とダリの作品が展示され、同年4月24日から6月27日まで諸橋近代美術館でも同展覧会が開催された 。
庭野 正之助 (にわの しょうのすけ、1914年3月25日 … 庭野 正之助 (にわの しょうのすけ、1914年3月25日 - 2004年1月11日)は、日本の実業家。日本鉱業(現ENEOSホールディングス)の社長・会長や日本鉱業協会会長を務めた。勲一等瑞宝章。 新潟県十日町市川原町生まれ。旧制新潟県立十日町中学校(のちの新潟県立十日町高等学校)卒業後、1936年旧制東京商科大学(のちの一橋大学)卒業。内池廉吉ゼミ出身。大学予科時代には、文部省による東京商科大学予科および専門部廃止案に反対し籠城闘争を決行(籠城事件)。後藤達郎(のちにホテルオークラ社長)らとともに警察に検挙され勾留されたが、商法の本間喜一教授や民法の常盤敏太教授の尽力で釈放された。 1936年日本鉱業入社、1964年取締役、1971年専務、1973年副社長。
十返 肇(とがえり はじめ、1914年〈大正3年〉3月25日… 十返 肇(とがえり はじめ、1914年〈大正3年〉3月25日 - 1963年〈昭和38年〉8月28日)は、香川県出身の作家、文芸評論家、編集者。 本名は十返 一(とがえり はじめ)。筆名=大方宗多(オオカタ ソウダ)。 高松市生まれ。料亭・淀川楼の長男に生まれる。 旧制高松中学校を経て、1935年(昭和10年)日本大学芸術科卒業。在学中から中河与一主宰「翰林」の同人となり、文芸時評を連載。東京市麹町区土手三番町に下宿していたとき、近所の吉行エイスケに師事。 森永製菓宣伝部に勤務。後に、第一書房に入社して「新文化」(「セルパン」改題) 編集長。 戦後、丹羽文雄に勧められて十返肇という筆名を名乗る。
八木 好美(やぎ よしみ、1914年(大正3年)3月24日 … 八木 好美(やぎ よしみ、1914年(大正3年)3月24日 - 1996年(平成8年)5月17日)は、兵庫県揖保郡越部村觜崎(現たつの市新宮町觜崎)出身の詩人。 1914年(大正3年)、警察官であった父肔哉の長男として、越部村觜崎に生まれる。本名美衛。尋常小学校の頃、父の仕事のため一時姫路に住むが、後に帰郷し兵庫県立龍野中学校に入学。龍野中学校時代、作文を先生に褒められた事が文学を志すきっかけとなった。この頃から『愛誦』『若草』『山脈』『昭和詩人』等に詩を投稿するようになり、『山陰詩人』『詩創元』『ばく』等の同人に参加の他、自らも『火虹』『深苑』等の同人誌を主宰した。生涯の友である大塚徹、植原繁市らと出会ったのもこの頃である。