吹田 徳雄(すいた とくお、1911年12月20日 - 19… 吹田 徳雄(すいた とくお、1911年12月20日 - 1981年12月18日)は日本の工学者。大阪大学名誉教授。原子力安全委員会初代委員長。理学博士(大阪帝国大学、1947年)。徳島県海部郡美波町(旧日和佐町)出身。 大阪市立都島工業学校、神戸高等工業学校電気科を経て、1937年に大阪帝国大学工学部電気工学科卒業。学生時代はテニス部のキャプテンであった。1949年、大阪大学工学部電気工学科の教授(電気材料学講座)となる。1957年、原子核工学専攻原子炉工学講座教授(電気工学兼務)。1963年には京都大学教授となり、1969年から1970年まで大阪大学工学部長事務取扱を勤めた。 1975年に大阪大学を退官し、近畿大学教授となる。
金森 政雄(かなもり まさお、1911年(明治44年)12月… 金森 政雄(かなもり まさお、1911年(明治44年)12月18日 - 2001年(平成13年)8月15日)は、日本の技術者、実業家。三菱重工業取締役社長や、同社取締役会長、経団連副会長、日本プラントメンテナンス協会会長、日本造船工業会会長などを歴任した。勲一等瑞宝章受章。 山口県山口市野田生まれ。1932年(昭和7年)旧制福岡高等学校を卒業。1935年(昭和10年)九州帝国大学工学部冶金学科卒業し、三菱重工業に入社。1971年(昭和46年)三菱重工業技術本部長。 1977年(昭和52年)三菱重工業取締役社長。1981年(昭和56年)三菱重工業取締役会長。 1986年(昭和61年)日本プラントメンテナンス協会会長。
二宮 武夫(にのみや たけお、1911年(明治44年)12月… 二宮 武夫(にのみや たけお、1911年(明治44年)12月18日 – 1983年(昭和58年)1月20日)は、昭和期の教育者、労働運動家、政治家。衆議院議員。旧姓・松田。位階は正五位。 大分県大分郡石城川村高崎(挾間村、挾間町を経て現由布市挾間町高崎)で、松田克馬の三男として生まれる。1932年(昭和7年)大分県師範学校専攻科を卒業。大分県下の小中学校教員を務めた。この間に二宮家の養子となる。 戦後、組合運動に加わり、1948年(昭和23年)大分県教職員組合書記長、1949年(昭和24年)同教組執行委員長に就任。その他、憲法擁護大分県会長、バレーボール大分県協会会長などを務め、1951年(昭和26年)大分県議会議員に当選して3期在任し、大分県地方労働委員にも就任した。
山崎 平八郎(やまざき へいはちろう、1911年12月16日… 山崎 平八郎(やまざき へいはちろう、1911年12月16日 - 1989年1月11日 )は、日本の農林官僚、政治家。 国土庁長官(第14代、第2次中曽根内閣)、衆議院議員(7期)などを歴任。福岡県大川市出身。勲一等瑞宝章受章。 山崎四郎の息子として生まれた。幼くして父と死別したため、子供のいない父方の伯父・達之輔(のちに立憲政友会所属代議士、農林大臣・逓信大臣・農商務大臣)に育てられた。自治大臣を務めた山崎巌は父方の叔父にあたる。 旧制佐賀高等学校を経て1939年九州帝国大学農学部農業工学科卒業。 大学卒業後、農林省に入省。九州農政局長を退官後の1969年、前年死去した叔父・巌の後継者として衆議院議員選挙に福岡3区から自由民主党公認で立候補し初当選(当選同期に小沢一郎・羽田孜・梶山静六・渡部恒三・奥田敬和・林義郎・綿貫民輔・塩崎潤・森喜朗・村田敬次郎・松永光・江藤隆美・中山正暉・浜田幸一など)。
池田 進(いけだ すすむ、1911年12月16日 - 197… 池田 進(いけだ すすむ、1911年12月16日 - 1976年10月25日)は、日本の教育学者。 三重県生まれ。1933年京都帝国大学文学部哲学科卒、1936年同教育学科卒。大阪女子大学助教授、1955年京都大学教育学部助教授、教授。1971年「比較教育学研究序説」で京大教育学博士。 与党自由民主党推薦で教育法案について意見を具申したことがある。 1976年10月25日、脳内出血のため京都市東山区の官舎にて死去。64歳。喪主は長男の池田善郎(当時京都大学農学部助教授)が務めた。
和田 勇一(わだ ゆういち、1911年12月16日 - 19… 和田 勇一(わだ ゆういち、1911年12月16日 - 1993年12月19日)は、英文学者。 東京生まれ。1935年東京帝国大学文学部英文科卒。戦後、熊本大学教授。熊本大学スペンサー研究会を率いた。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
遠藤 武(えんどう たけし、1911年(明治44年)12月1… 遠藤 武(えんどう たけし、1911年(明治44年)12月16日 - 1992年(平成4年)12月10日)は、日本の学者。専門は、近世日本の服飾及び生活文化史。文学博士。東京市出身。 1935年(昭和10年)、立教大学文学部史学科卒業。帝室博物館研究員、日本実業史博物館主事、文部省学術課史料館文部事務官兼和洋女子大学教授、文化女子大学主任教授並びに文化学園博物館館長、福島大学・大妻女子大学・静岡女子大学・関東学院女子短期大学・郡山女子短期大学・湘北短期大学講師、歴任。文化女子大学名誉教授。日本服飾学会会長、日本風俗史学会東京副支部長、文化財保護審議会専門委員、神奈川大学日本常民文化研究所理事、江戸東京博物館資料収集委員などを務める。
金田 邦夫(かねだ くにお、1911年(明治44年)12月1… 金田 邦夫(かねだ くにお、1911年(明治44年)12月15日 - 1962年(昭和37年)10月6日)は、日本の実業家、サンスターの創業者。広島県安芸郡坂町出身。 大阪に出て1932年、金田兄弟商會を設立し自転車や履物用ゴム糊の製造を開始。1941年、4社のゴム製造業者統合により帝國合同護謨工業が設立され、翌年社長に就任。太平洋戦争期の空襲で工場の大半を焼失したが戦後1946年、金田軽金属チューブ工業所(同年改組し金田金属工業)を設立し、焼け残ったゴム糊を金属チューブに充填する機械を活かし、金属チューブ容器の開発に成功。その後取引先であった星光社からの相談によりチューブに歯磨剤を充填し、金属チューブ入り練歯磨剤を開発し発売した。
大築 邦雄(おおつき くにお、1911年〈明治44年〉12月… 大築 邦雄(おおつき くにお、1911年〈明治44年〉12月14日 - 1991年〈平成3年〉10月25日)は日本の作曲家。 東京市小石川区新諏訪町(現:東京都文京区後楽)出身。父は麹町女学校を創立した大築佛郎。祖父は陸軍中将の大築尚志。 東京高等学校 (旧制)理科在学中から作曲を始め、1935年、第4回音楽コンクールに「管絃楽のためのトッカータ」で入選。1936年、宮内省雅楽部募集の雅楽に基づく管弦楽曲のコンクールに「舞」(ダンス・ラント)が入選。1940年京都帝国大学文学部卒。大学在学中、1937年、管弦楽曲「行列」でワインガルトナー賞に2等入選。京都帝大卒業後は同大学院に進み、音楽理論史や日本音楽を研究。
大石 初太郎(おおいし はつたろう、1911年12月13日 … 大石 初太郎(おおいし はつたろう、1911年12月13日 - 2003年5月25日)は、日本の国語学者、国立国語研究所名誉所員。 静岡県出身。静岡県立掛川中学校(現在の静岡県立掛川西高等学校)を経て、1939年東京文理科大学国文科卒業。国立国語研究所所員、専修大学教授、1982年定年となり文教大学教授を務めた。現代口語を研究し、『敬語』はロングセラーとなった。 1988年、勲四等瑞宝章を受章。2003年5月25日、呼吸不全のため死去。
鈴木 棠三(すずき とうぞう、1911年12月13日 - 1… 鈴木 棠三(すずき とうぞう、1911年12月13日 - 1992年7月13日)は、日本の国文学者・国語学者。本名、鈴木 脩一(しゅういち)。 1911年、静岡県庵原郡飯田村(現清水市)に生まれる。1929年、静岡県立静岡中学校を経て、國學院大學予科に入学、在学中から柳田國男、折口信夫に師事(郷土研究会で折口信夫の講義を聴き、1929年6月ごろより柳田國男の書斎に出入りする)。1931年、國學院大學国文科入学、1934年、同大卒業。1934年4月〜1935年3月、中学校国語教科書の編集に従事。以降、柳田國男の指導により農村・漁村の民俗および口承文芸の調査に従事。1935年、國學院大學学部研究科に在籍。
正野 重方(しょうの しげかた、1911年12月12日 - … 正野 重方(しょうの しげかた、1911年12月12日 - 1969年10月27日)は、日本の気象学者。理学博士。専門は気候力学。大阪市出身。 旧制大阪府立生野中学校、旧制大阪高校から東京帝国大学に進み、気象学を専攻。藤原咲平教授に師事した。1934年(昭和9年)、東京帝国大学理学部物理学科卒業。中央気象台付属測候技術官養成所講師、1938年(昭和13年)中央気象台技師、1939年(昭和14年)理学博士、1944年(昭和19年)東京帝国大学理学部助教授、1949年(昭和24年)東京大学理学部教授に就任。日本の気象学の基礎を築き、1950年(昭和25年)、大気擾乱の研究で日本学士院賞を受賞した。 1950年(昭和25年)、昭和天皇の招きで開かれた座談会形式の合同進講に宇田道隆、坪井忠二、辻光之助、藤本治義とともに出席。
三井 為友(みつい ためとも、1911年12月12日 - 1… 三井 為友(みつい ためとも、1911年12月12日 - 1998年9月13日)は、日本の教育学者。東京都立大学名誉教授。 旧名・松井大造。長野県諏訪郡富士見町出身。旧制諏訪中学校卒、第一高等学校卒、在学中左翼活動で検挙される。京都帝国大学文学部哲学科から東大に転じ、1937年東京帝国大学文学部教育学科卒。1940年同大学院教育学修士課程修了。 脚気のため帰郷、諏訪高等女学校(現長野県諏訪二葉高等学校)で教えた際千野敏子を教えた。1943年から東大学生主事補を務め、1944年東京第二師範学校教授に就任するが、同年5月応召、北満洲からボルネオ島に転戦し敗戦を迎える。捕虜生活ののち1946年7月帰国。
平井 正穂(ひらい まさお、1911年12月10日 - 20… 平井 正穂(ひらい まさお、1911年12月10日 - 2005年2月24日)は、日本の英文学者。
河石 達吾(かわいし たつご、1911年(明治44年)12月… 河石 達吾(かわいし たつご、1911年(明治44年)12月10日 - 1945年(昭和20年)3月17日)は、大日本帝国陸軍の軍人、最終階級は陸軍大尉。水泳選手。1932年ロサンゼルスオリンピック100m自由形銀メダリスト。慶應義塾大学法学部出身。
瀬島 龍三(せじま りゅうぞう、1911年12月9日 - 2… 瀬島 龍三(せじま りゅうぞう、1911年12月9日 - 2007年9月4日)は、日本の陸軍軍人、実業家。
深瀨 信千代(ふかせ のぶちよ、1911年12月7日 - 1… 深瀨 信千代(ふかせ のぶちよ、1911年12月7日 - 1985年9月25日)は、日本の実業家、元官僚、元俳優である。終戦後の一時期、牧 壮吉(まき そうきち)を名乗り、東宝の専属俳優として活動していた。 1911年(明治44年)12月7日、北海道函館市に生まれる。 函館市立弥生小学校、旧制奈良県立奈良中学校(現在の奈良県立奈良高等学校)、旧制第四高等学校文科(乙類)をそれぞれ卒業後、京都帝国大学法学部(現在の京都大学)に進学する。旧制高校時代は時習寮委員長を務め、また、大学時代まで陸上競技部の投擲選手としてもならした。 1934年(昭和9年)、京都帝国大学卒業と同時に満洲国へ渡り、南満州鉄道株式会社に入社。
渡邊 左武郎(わたなべ さぶろう、1911年〈明治44年〉1… 渡邊 左武郎(わたなべ さぶろう、1911年〈明治44年〉12月6日 - 1997年〈平成9年〉10月2日)は、日本の医学者、人類学者。医学博士(北海道帝国大学)。札幌医科大学第4代学長、北海道開拓記念館第3代館長。 北海道生まれ。1928年北海道庁札幌第一中学校卒業。1931年北海道帝国大学予科修了。1935年、北海道帝国大学医学部卒業、同医学部解剖学第2講座助手。1940年同臨時附属医学専門部教授。 1941年陸軍軍医に徴兵される。1945年、宮崎県にて終戦をむかえる。 1946年北海道庁立女子医学専門学校(後の札幌医科大学)教授。1950年札幌医科大学医学部解剖学教室初代教授。1956年札幌医科大学大学院医学研究科解剖学担当教授。
高坂 好(こうさか このむ、1911年12月5日 - 197… 高坂 好(こうさか このむ、1911年12月5日 - 1971年8月17日)は、日本の教員、歴史家、郷土史家。 兵庫県飾磨郡荒川村(現在の姫路市)に生まれる。1930年、姫路高等学校文科甲類に入学し、1933年に卒業した。同年、東京帝国大学文学国史学科に入学した。同期入学に磯貝正義、井上清、奥田真啓、新城常三らがいる。卒業論文「中世に於ける地方寺院−特に寺領荘園の場合」をまとめ、1936年に卒業。兵庫県立龍野高等女学校教諭を経て、鹿児島県立第二鹿児島中学校に教諭として勤める。その傍ら、1939年9月から1941年9月まで鹿児島県史編纂のため臨時委員を委嘱された。同年11月から兵庫県立第一神戸商業学校教諭となるも病気のため1942年7月に退職した。
清浦 雷作(きようら らいさく、1911年12月5日 - 1… 清浦 雷作(きようら らいさく、1911年12月5日 - 1998年8月18日)は、日本の応用化学者、公害問題評論家。 1959年に水俣病の原因調査をした際に「有機アミン説」を唱え、マスコミ操作も積極的に行った。御用学者の一例として知られる。 1937年、東京工業大学応用化学科卒業。同大学副手、助教授、教授を歴任した。 1959年7月22日、熊本大学水俣病研究班は、武内忠男や徳臣晴比古らの研究に基づいて、「水俣病の原因は有機水銀であることがほぼ確定的になった」という発表を行った。新日本窒素肥料(現・チッソ)水俣工場から排出された水銀による被害である疑いが濃くなると、清浦は8月24日に水俣を訪れ、5日間現地を調査した。
大軒 順三(おおのき じゅんぞう、1911年(明治44年)1… 大軒 順三(おおのき じゅんぞう、1911年(明治44年)12月4日 - 1982年(昭和57年)1月28日)は、日本の実業家。日本経済新聞社元社長。静岡県出身。 1934年に早稲田大学政治経済学部卒業。同年に日本経済新聞社の前身である中外商業新報社に入社した。 シンガポール支局長、日本経済新聞大阪本社代表などを経て、1954年には取締役に就任し、常務、専務を経て、日本経済新聞の創刊100周年になる1976年3月からは社長に就任。積極的な営業展開により発行部数を着実に伸ばしていき、経営基盤をより強化していった。 テレビ東京、日経マグロウヒル社などの取締役にも兼任し、1979年からは日本新聞協会会長を務め、新聞業界の販売正常化と電算機による新聞製作の推進を務めた。
三木 安正(みき やすまさ、1911年12月3日 - 198… 三木 安正(みき やすまさ、1911年12月3日 - 1984年5月31日)は、日本の教育心理学者。東京大学名誉教授。 東京出身。旧制姫路高等学校卒、1936年東京帝国大学文学部心理学科卒。1938年愛育研究所所員、文部省学校教育局、名古屋大学教授、1954年東京大学教育学部教授。1972年定年退官、名誉教授。1930年代に岩波書店刊行の雑誌『教育』を間にはさみ成立した児童学研究会に参加。のちに全日本特殊教育研究連盟を結成、旭出学園を創立。1980年朝日賞受賞。1982年勲二等瑞宝章受章。幼児教育、知的発達障害児の教育が専門。日本教育心理学会名誉会員。
加藤 陸奥雄(かとう むつお、1911年12月2日 - 19… 加藤 陸奥雄(かとう むつお、1911年12月2日 - 1997年3月8日)は日本の生物学者。位階は正三位。 宮城県仙台市生まれ。専門は昆虫生態学。 兄に化学者の加藤多喜雄(仙台名誉市民)、地球物理学者の加藤愛雄、弟に地質学者の加藤磐雄がいる。大甥(甥の息子)に数学者の加藤文元。 指導学生に松田達郎などがいる。
吉山 博吉(よしやま ひろきち、1911年(明治44年)12… 吉山 博吉(よしやま ひろきち、1911年(明治44年)12月1日 - 2007年(平成19年)5月2日)は、日本の実業家、第4代日立製作所社長・会長、電気学会会長、環太平洋産業連関分析学会設立発起人等を歴任した。 山口県萩市に生まれた。旧制第一高等学校から東京帝国大学工学部電気工学科に進み、1935年(昭和10年)大学卒業と同時に日立製作所に入社した。入社後は主として重電畑を歩み、1952年(昭和27年)電機事業部技術部長となり、1961年(昭和36年)11月取締役、1964年(昭和39年)11月常務、1968年(昭和43年)5月専務、1969年(昭和44年)11月副社長などを経て1971年(昭和46年)11月社長に就任、1981年(昭和56年)6月に社長退任、会長に就任、1987年(昭和62年)6月に会長退任。
森 有正(もり ありまさ、1911年11月30日 - 197… 森 有正(もり ありまさ、1911年11月30日 - 1976年10月18日)は、日本の哲学者、フランス文学者。 東京府豊多摩郡淀橋町角筈(現・東京都新宿区西新宿)生まれ。明治時代の政治家森有礼の孫に当たる。父の森明は有礼の三男で、有馬頼寧の異父弟、キリスト教学者、牧師。母は伯爵徳川篤守の娘。祖母寛子は岩倉具視の五女。妹は世界平和アピール七人委員会の委員を務めた関屋綾子。 生後間もない1913年に洗礼を受けてクリスチャンとなり、6歳からフランス人教師のもとでフランス語、後にラテン語を学んだ。暁星小学校・暁星中学校から東京高等学校 (旧制)を経て1938年に東京帝国大学文学部哲学科を卒業(卒論は『パスカル研究』)、同大学院を経て東京帝国大学の特研生、副手、助手を歴任。
田村 泰次郎(たむら たいじろう、1911年11月30日 -… 田村 泰次郎(たむら たいじろう、1911年11月30日 - 1983年11月2日)は、日本の小説家である。三重県三重郡富田村(現・四日市市富田)出身。早稲田大学在学中より小説を多く書いたが、応召して中国を転戦。戦中の経験に基づく独特の生命観に裏打ちされた「肉体派作家」として熱狂的に支持された。 高知県出身の中学教師である父親と、京都府出身の母親のもとに生まれる。母親は文章や歌を書くことが好きな人だった。11歳上の姉と5歳上の兄がおり、姉も文学好きだった。父親が校長を務めていた四日市の旧制富田中学(現三重県立四日市高等学校)を経て、1929年第二早稲田高等学院に入学。1931年早稲田大学文学部仏文科に進学した。
四手井 綱英(しでい つなひで、1911年11月30日 - … 四手井 綱英(しでい つなひで、1911年11月30日 - 2009年11月26日)は、日本の森林生態学者。京都大学名誉教授。京都府立大学名誉教授。京都府生まれ。 里山概念の普及に大きな影響を与えた人物であり、関連する数多くの著書を出している。また、京大山岳部出身で、京都大学学士山岳会での京大ヒマラヤ遠征隊の裏方を長らく務めた。また、京大教授時代は「探検部」の顧問も務めた。
鯛中 新(たいなか しん、1911年(明治44年)11月30… 鯛中 新(たいなか しん、1911年(明治44年)11月30日 - 1992年(平成4年)8月20日)は、日本の囲碁棋士。兵庫県出身、久保松勝喜代名誉九段門下、日本棋院、関西棋院に所属、九段。関西棋院早碁名人戦、関西棋院選手権戦優勝など。じっくりした棋風。 神戸市に生まれる。旧制神戸一中卒業。1927年に久保松勝喜代に入門。1929年初段。1942年五段。1946年六段。1950年の関西棋院設立に参加。以後関西棋院では橋本宇太郎八段に次ぐ六段として重鎮として活躍し、同年の日本棋院との東西対抗戦では杉内雅男に勝ち。続く勝ち抜き戦では副将として出場したが梶原武雄に敗れた。 1951年七段、第7期本因坊戦リーグ入りし、4勝2敗となって5人による同率決戦に進むが、1回戦で高川格に敗退。
藻利 重隆(もうり しげたか、1911年11月30日 - 2… 藻利 重隆(もうり しげたか、1911年11月30日 - 2000年2月18日)は、日本の経営学者。専門は労務管理。一橋大学名誉教授、山梨学院大学名誉教授である。博士(商学)(1960年、一橋大学にて取得)。紫綬褒章及び勲二等瑞宝章受章。元日本経営学会理事長。 1911年、愛媛県松山市で生まれた。1924年3月、愛媛師範学校附属小学校(現・愛媛大学教育学部附属小学校)を卒業し、愛媛県立松山商業学校(現・愛媛県立松山商業高等学校)に進学。1929年3月に卒業し、同年4月に無試験で山口高等商業学校(現・山口大学経済学部)に入学した。在学中の1930年4月から1932年3月まで、山口高等商業学校特待生であった。
藤田 義光(ふじた よしみつ、1911年11月30日 - 1… 藤田 義光(ふじた よしみつ、1911年11月30日 - 1986年6月26日)は、日本の政治家。位階は従三位。 自由民主党衆議院議員(9期)。無派閥。 熊本県生まれ。1937年中央大学法学部を卒業。大学在学中は、真法会に所属。朝日新聞記者を経て、1949年、第24回衆議院議員総選挙において熊本1区で民主党から立候補し、初当選。1962年9月、第2次池田第2次改造内閣で自治政務次官に就任。1969年、日本社会党と公明党から衆議院内閣委員長解任決議案が提出されたが61票差で否決。1979年の四十日抗争では、大平正芳に投票する。 1986年の第38回衆議院議員総選挙に10期目を目指して立候補したが、選挙期間中となる同年6月26日、死去した。
本間 文子(ほんま のりこ、1911年11月29日 - 没年… 本間 文子(ほんま のりこ、1911年11月29日 - 没年不詳)は、日本の女優。本名は武田 サダ(たけだ - )。旧芸名は本間 敦子など。息子は、元俳優の園田哲也。
矢沢 恒雄(やざわ つねお、1911年〈明治44年〉11月2… 矢沢 恒雄(やざわ つねお、1911年〈明治44年〉11月29日 - 1994年〈平成6年〉5月17日)は、昭和から平成時代前期の政治家。埼玉県加須市長。加須市名誉市民。 埼玉県北埼玉郡加須町(現加須市)出身。日本大学文学部中退。埼玉県に奉職し、同教育民政部厚生課住宅係長、秘書課長、民生部長、農林部長、総務部長を経て、1984年(昭和59年)加須市長に当選。3期務めた。没後の1994年(平成6年)9月、加須市名誉市民に推挙された。
小林 純一(こばやし じゅんいち、1911年11月28日 -… 小林 純一(こばやし じゅんいち、1911年11月28日 - 1982年3月5日)は、日本の児童文学作家、童謡詩人。日本音楽著作権協会常務理事を務めた。 現在の東京都新宿区生まれ。本名は小林純一郎。中央大学経済学科を中退した。北原白秋に師事し、東京市、日本出版文化協会、日本少国民文化協会などに勤務しながら、第二次「赤い鳥」「チクタク」などに童謡を投稿した。戦後は文筆に専念した。日本童謡協会、日本児童文学者協会の設立に関与し、理事長、常任理事を務めた。 1971年に日本童謡賞功労賞、1979年に日本童謡賞、1978年に『少年詩集・茂作じいさん』で赤い鳥文学賞を受賞した。また没後の1982年に日本童謡賞特別賞、1995年に「小林純一・芥川也寸志遺作集 こどものうた」で日本童謡賞特別賞を受賞した。
森田 喜美男(もりた きみお、1911年(明治44年)11月… 森田 喜美男(もりた きみお、1911年(明治44年)11月28日 - 2002年(平成14年)7月30日)は、日本の政治家。1973年から1997年まで東京都日野市長を務めた。全国市長会理事、東京都市長会顧問などを歴任。 鳥取県出身。東京帝国大学農学部実科を卒業後、旧満州で農業指導員を務め、終戦後は日野市内で養鶏場を経営。同市議を2期務めた後、1973年の同市長選に出馬。日本社会党、日本共産党、公明党などでつくる「新しい革新日野市政をつくる会」を支持母体として、保守系の現職・古谷栄をやぶり初当選、都内9番目の革新市政が誕生した。 その後5期連続で市長を務め、1993年の市長選ではこれまで与党だった社会党が離脱し、共産党単独推薦で臨むこととなったが2新人をやぶり6選。
吉武 素二(よしたけ もとじ、1911年 <明治44年> 1… 吉武 素二(よしたけ もとじ、1911年 <明治44年> 11月28日 - 1999年 <平成11年> 2月14日)は、日本の気象技官。気象庁長官を務めた。位階は従三位。 山口県防府市出身。1934年に東京帝国大学理学部物理学科を卒業し、後に中央気象台に入庁。1966年に仙台管区気象台長を経て、1969年から1971年までに気象庁長官を務めた。 1981年に勲二等旭日重光章を受章 1999年2月14日に多臓器癌のために死去。87歳没。死没日付をもって従六位から従三位に進階した。
久保 正幡(くぼ まさはた、1911年11月26日 - 20… 久保 正幡(くぼ まさはた、1911年11月26日 - 2010年1月20日)は、日本の法制史学者。東京大学名誉教授。西洋法制史専攻。 栃木県出身。1931年に武蔵高等学校を卒業し、東京帝国大学法学部入学。1934年に法律学科を卒業。助手を経て、1936年に助教授、1946年教授。1951年「サリカ法典」で日本学士院賞受賞。1954年「フランク時代におけるゲルマン法とローマ法」で東京大学法学博士。1965年東大法学部長。1972年定年退官、名誉教授、國學院大學教授。1982年退職。日本学術会議会員、宗教法人審議会委員。
内山榮一(うちやま えいいち、1911年(明治44年)11月… 内山榮一(うちやま えいいち、1911年(明治44年)11月25日 - 2012年(平成24年)4月10日)は、日本の政治家、税理士。東京都台東区長(4期)、台東区議会議員(4期)、東京都議会議員(3期)を歴任した。 埼玉県大里郡、のちの岡部町(現深谷市)出身。1935年、法政大学経済学部卒業。その後税理士事務所を開く。 1951年から台東区議会議員を4期務め、1967年、台東区選出の都議会議員の死去による補欠選挙に自由民主党公認で立候補し、当選し、都議会議員を3期務めた。1975年4月に台東区長に当選。1991年4月まで4期16年務めた。 旧東京音楽学校奏楽堂の老朽化にともなう移築問題が起きた際、愛知県の明治村に建物を移築する計画に対して、上野公園敷地内への移築を推進し台東区内での保存を守ったことで知られる。
河田 誠一(かわだ せいいち、1911年〈明治44年〉11月… 河田 誠一(かわだ せいいち、1911年〈明治44年〉11月23日 – 1934年 〈昭和9年〉2月3日)は、香川県出身の日本の詩人であり小説家。 早稲田大学第二高等学院では田村泰次郎と出会い、深い交流があったほか井上友一郎や坂口安吾などと文学活動を行った。文芸誌『東京派』や『桜』を創刊し、豊かな才能を認められながらも、結核により22歳で没した。 あまり知られた存在ではないが、詩人・作家として昭和初期に期待されたホープであった。代表作は「新城榛名の手記」『河田誠一詩集』。 1911年(明治44年)に香川県三豊郡仁尾町中津賀(現在の三豊市)に父武治、母マスノの間に4人兄弟の次男として生まれる。生まれてすぐ叔母の家に預けられるものの5歳ごろに実家に戻る。
光岡 良二(みつおか りょうじ、1911年11月23日 - … 光岡 良二(みつおか りょうじ、1911年11月23日 - 1995年4月29日)は、ハンセン病の歌人。 兵庫県生まれ。東京帝国大学文学部哲学科2年修了時にハンセン病を発病、1933年、多磨全生園に入院、北条民雄と知り合う。1936年、山室のぶ子(光岡芳枝)と結婚。戦中戦後一時社会復帰するものの、1948年再発し、再入院。文芸活動のほか、全患協などで活動。多磨全生園の生活記録を集めた『倶会一処 患者が綴る全生園の七十年』の編纂の中心となった。厚木叡(あきら)、岸根光雄の筆名を用いた。
阿部 三亥(あべ かずい、1911年11月23日 - 196… 阿部 三亥(あべ かずい、1911年11月23日 - 1964年7月9日)は、日本の保健医療学者である。医学博士。 福島県に生まれ、1940年東京文理科大学心理学科卒。1943年東京慈恵会医科大学医学科卒。東京教育大学教授。学校保健に関して様々な著作を残す。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
金子 登(かねこ のぼり、1911年11月23日 - 198… 金子 登(かねこ のぼり、1911年11月23日 - 1987年7月6日)は、日本の指揮者、東京芸術大学名誉教授。 1934年に東京音楽学校ピアノ科を卒業し、ヨゼフ・ローゼンシュトックに指揮を学び、1936年に東京音楽学校研究科を修了した。また副科でファゴットを学び、紀元二千六百年奉祝交響楽団にもファゴット奏者として参加している。 1936年に服部正が創設したコンセール・ポピュレール(後の青年日本交響楽団)にファゴット奏者として参加し、1942年には指揮者も務めた 。 1943年から1945年に東京交響楽団常任指揮者を務めた。1945年にはアーニーパイル交響楽団を組織している。 1952年から1956年にウィーンへ留学し、クレメンス・クラウス、カール・ベームらに師事する。
小西 英雄(こにし ひでお、1911年(明治44年)11月2… 小西 英雄(こにし ひでお、1911年(明治44年)11月23日 - 1964年(昭和39年)12月8日)は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員(1期)、参議院議員(3期)。 愛媛県新居郡神郷村(現新居浜市)で生まれた。別子銅山で働き、鷲尾勘解治の自彊舎で学び1927年(昭和2年)に卒業した。優秀工員として評価され満州に派遣された。その後独立して康徳金属会社を設立し社長となる。戦時下では、関東軍嘱託、軍需省生産隊本部長などを務めた。 戦後、1947年(昭和22年)4月の第23回衆議院議員総選挙で愛媛県第2区から日本自由党公認で出馬したが落選。1949年(昭和24年)1月の第24回総選挙に民主自由党公認で出馬して当選し、衆議院議員に1期在任した。
大泉 源郎(おおいずみ げんろう、1910年(明治43年)1… 大泉 源郎(おおいずみ げんろう、1910年(明治43年)12月20日 - 2005年(平成17年)12月28日)は、日本の政治家。北海道苫小牧市2代目市長(1963年5月~1983年4月)。苫小牧市名誉市民。 勇払郡苫小牧村(現・苫小牧市)に質屋の三男として生まれる。室蘭商業学校に進学して程無く旧制北海中学校に編入し(同級生として坊屋三郎がいる)、同校卒業後に苫小牧へ戻るが職が見つからず、当時の苫小牧町役場に臨時職員として入庁し徴税課員を経て常勤に。1947年(昭和22年)町長の田中正太郎に36歳で助役に抜擢され、1948年(昭和23年)の市制を迎える。 1963年(昭和38年)に引退する田中市長の後継を決める市長選で、北海道衛生部長を務めた稲垣是成らを破って初当選。
奥平 泉一(おくひら せんいち、1910年 <明治43年> … 奥平 泉一(おくひら せんいち、1910年 <明治43年> 12月20日 - 1978年 <昭和53年> 3月26日)は、日本の経営者。住友信託銀行社長を務めた。位階は従四位。勲二等瑞宝章。 大分県出身。1934年に京都帝国大学経済学部を卒業し、同年に住友信託銀行に入行。1957年5月に取締役に就任し、1962年11月に常務、1963年7月に専務、1969年5月に副社長を経て、1972年5月から1976年9月までに社長を務めた。 1978年3月26日に腎不全のために死去。67歳没。死没日付をもって従四位に叙され、勲二等瑞宝章を追贈された。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
成瀬 幡治(なるせ ばんじ、1910年12月17日 - 19… 成瀬 幡治(なるせ ばんじ、1910年12月17日 - 1992年12月3日)は、日本の政治家、労働運動家。参議院議員(4期、日本社会党)。 愛知県西加茂郡小原村(現豊田市)に生まれる。本城小学校(現豊田市立本城小学校)卒業。1931年(昭和6年)、愛知第一師範学校専攻科卒業。教員となり、終戦後、愛知県教員組合の初代委員長に就任し、組合運動に参加。学校生活協同組合理事長なども務めた。 1950年(昭和25年)6月の第2回参議院議員通常選挙に愛知県選挙区から日本社会党公認で立候補し、地方区としては全国最多得票数で初当選を果たした。1962年(昭和37年)に3選。 1966年(昭和41年)、翌年2月執行の愛知県知事選挙の候補者に社会党は成瀬を擁立。
石井 英子(いしい ひでこ、1910年12月15日 - 19… 石井 英子(いしい ひでこ、1910年12月15日 - 1998年6月7日)は、講談の定席として知られた東京・上野の寄席「本牧亭」の経営者。 寄席「鈴本亭」(鈴本演芸場)の席亭であった鈴木孝一郎の三女として、東京・上野に生まれる。東京府立第一高等女学校(後の東京都立白鷗高等学校・附属中学校の前身)を卒業した。 曲芸師であった春本助次郎(2代目)と結婚し、娘2人をもうけるが、5年で死別する。 父・鈴木孝一郎は、戦後1948年に再開した本牧亭の経営を英子に委ね、席亭とした。1950年以降、本牧亭は40年にわたって講談の定席として維持されたが、1990年に閉場した。 1992年には、池之端の料理屋の2階に場所を移し、「池之端本牧亭」として、定員30人の小規模な形で本牧亭を再開したが、以降の経営は娘夫婦に委ね、長女の清水孝子を席亭とし、その夫清水基嘉を本牧亭社長として、自らは会長となって「隠居」を自称していた。
田原 武雄(たはら たけお、1910年(明治43年)12月1… 田原 武雄(たはら たけお、1910年(明治43年)12月15日 - 1988年(昭和63年)10月25日)は、昭和期の農業協同組合指導者、政治家。参議院議員(1期)。 鹿児島県揖宿郡頴娃村(頴娃町を経て現南九州市)で生まれる。1938年(昭和13年)陸軍士官学校(少尉候補者19期)を卒業した。1944年(昭和19年)勲五等瑞宝章受章。 戦後、頴娃町議会議員、頴娃町農業振興会長、青戸農業協同組合長、鹿児島県信用農業協同組合連合会監事、同農業信用基金協会監事、同農民政治連盟副委員長、同経済農業協同組合連合会会長、全国農業協同組合連合会理事、全国茶生産団体連合会会長、えい農業協同組合長、鹿児島県農業協同組合連合会理事、同県茶振興会会長、熊本果実連合会理事、南栄糖業監査役などを務めた。
川口 久雄(かわぐち ひさお、1910年12月14日 - 1… 川口 久雄(かわぐち ひさお、1910年12月14日 - 1993年5月4日)は、日本の国文学者、比較文学者。文学博士。専門は平安朝漢文学、日中比較文学。 1937年、東京文理科大学国文科卒。陸軍予科士官学校教授、金沢高等師範教授を経て、金沢大学法文学部教授を務めた。1969年、任期満了の助手を一方的に履免しようとしたことで、金沢大学法文学部に大学紛争のきっかけを作った。当時、金沢大学法文学部文学科に在籍していた木越治によれば、履免理由は助手が「学生に好意的すぎるという理由」だったという。木越は、川口を「学者としてはとても優秀な人。ただし、私は当時から今に至るまで大嫌いです」と評している。金沢大学定年後、大東文化大学東洋研究所教授。
入矢 義高(いりや よしたか、1910年(明治43年)12月… 入矢 義高(いりや よしたか、1910年(明治43年)12月13日 - 1998年(平成10年)6月30日)は、日本の中国文学者。中国禅を中心とした仏教学者。専門は中国古典文学。学位は、文学博士。名古屋大学名誉教授、京都大学名誉教授。日本学士院会員。正四位勲二等瑞宝章。 1910年、鹿児島県鹿児島市で英語教師・入矢祐雲の長男として生まれた。1928年、福岡県立小倉中学校を卒業。1932年に福岡高等学校を卒業し、京都帝国大学に進学。ドイツ文学を専攻したいと考えていたが、父の意向で中国文学へと転向し、倉石武四郎の指導を受けた。1936年、京都大学文学部文学科を卒業。 卒業後は、広島県立中学(旧制)の教員となり、県立呉第一中学校に勤務。
三田 政吉(みた まさきち、1910年(明治43年)12月1… 三田 政吉(みた まさきち、1910年(明治43年)12月12日 - 2006年(平成18年)1月25日)は、日本の実業家。料亭「濱田家」の二代目。明治座の元代表取締役会長。 兄は元三田観光企業社長・三田庄三郎。息子は料亭濱田家、明治座社長の三田芳裕。孫は明治座常務取締役の三田光政と元フジテレビアナウンサーの三田友梨佳。 1910年(明治43年)、東京市日本橋区青物町(現中央区日本橋)に生まれる。父・五三郎は板前の職人で、日本橋の福井楼という料亭の料理長だった。政吉が生まれてから2年後の1912年(大正元年)に、父・五三郎は日本橋人形町の玄冶店跡地にて料亭「濱田家」を創業。子供の時はデパートに行くのが楽しみだった。