今 官一(こん かんいち、1909年(明治42年)12月8日… 今 官一(こん かんいち、1909年(明治42年)12月8日 - 1983年(昭和58年)3月1日)は、日本の小説家。 青森県弘前市西茂森町に藤田三次郎(藤田匡の一族)の孫、今宮吾の三男として生まれる。東奥義塾の学生時代、1926年(昭和2年)に中田重治より洗礼を受ける。 早稲田大学露文科中退。同郷の太宰治と親しく、桜桃忌の名は今によって名付けられた。 1956年(昭和31年)、『壁の花』で第三十五回直木賞を受賞。
児玉 幸多(こだま こうた、1909年〈明治42年〉12月8… 児玉 幸多(こだま こうた、1909年〈明治42年〉12月8日 - 2007年〈平成19年〉7月4日)は、日本の歴史学者。学位は、文学博士。学習院大学名誉教授。学習院大学学長・学習院女子短期大学学長を歴任。品川区立品川歴史館名誉館長、千曲市名誉市民。「日本近世農村・交通史の泰斗」と呼ばれた。 1909年、長野県更級郡稲荷山町(現在の千曲市稲荷山)生まれ。 旧制東京府立第二中学、旧制成蹊高等学校を経て、東京帝国大学国史学科に入学。児玉が少年期を過ごした故郷の稲荷山町は、江戸時代の善光寺街道最大の宿場町として栄え、明治期までは商都としても栄えた街であった。その最大の理由は、善光寺街道として知られる北国街道と北国西街道の事実上の合流点であり、善光寺街道から谷街道が分岐する交通の要衝であったためである。
山中 要作(やまなか ようさく、1909年 <明治42年> … 山中 要作(やまなか ようさく、1909年 <明治42年> 12月6日 - 2003年 <平成15年> 12月13日)は、日本の地方公務員、経営者。埼玉県副知事、テレビ埼玉初代社長を歴任。埼玉県出身。 1943年に中央大学法学部を卒業。 山形県地方課長を経て、埼玉県庁で商工部長、企業部長、総務部長を歴任し、1969年には副知事に就任。1973年に埼玉県住宅供給公社理事長を経て、1978年から1983年までにテレビ埼玉初代社長を務めた。 1980年に勲三等旭日中綬章を受章。 2003年12月13日老衰のために死去。94歳没。
太田 俊穂(おおた としほ、1909年12月5日 - 198… 太田 俊穂(おおた としほ、1909年12月5日 - 1988年1月15日)は、日本の経営者・評論家。 岩手県盛岡市出身。岩手縣立盛岡中學校(現在の岩手県立盛岡第一高等学校)を経て、東京外国語学校中退。東京日日新聞盛岡支局を経て、1944年岩手日報に入り、編集局長。岩手放送の開局に参与、1961年社長となる。日本現代詩歌文学館初代館長であり、郷土史家としても知られ、多くの著作を書いた。
嶋田 啓一郎(しまだ けいいちろう、1909年12月5日 -… 嶋田 啓一郎(しまだ けいいちろう、1909年12月5日 - 2003年9月24日)は、日本の社会福祉学者。石川県出身。 岡村重夫、孝橋正一らとともに日本を代表する社会福祉学者と言われている。[要出典]同志社大学教授。社会福祉の価値論(哲学)を軸に人権を重視した社会福祉力動論をとなえる。賀川豊彦の後継者として灘生活協同組合理事として理論と実践の両面から協同組合の運営にたずさわる。竹内愛二とともに日本キリスト教社会福祉学会の創設に尽力した。 主著(編集)に『社会福祉体系論』『社会福祉の思想と人間観』など多数。 キリスト者として社会福祉学の研究に尽力したことで1994年にキリスト教功労者を受賞。
原島 宏治(はらしま こうじ、1909年〈明治42年〉12月… 原島 宏治(はらしま こうじ、1909年〈明治42年〉12月4日 - 1964年〈昭和39年〉12月9日)は、日本の政治家、宗教家、小学校教員。 東京都大田区議会議員(1期)、参議院議員(1期)、創価学会理事長(第3代)、公明党中央執行委員会委員長(初代)などを歴任した。 東京都西多摩郡奥多摩町生まれ。幼名は鯉之助。 1929年(昭和4年)、東京府青山師範学校を卒業。以降26年間、東京各地の小学校教員に就いた。 1940年(昭和15年)、創価教育学会(現:創価学会)の設立と同時に入会する。 1943年(昭和18年)の創価学会弾圧により、治安維持法違反と不敬罪の容疑で牧口常三郎、戸田城聖らが逮捕・投獄された後、留守番役として苦闘した。
阿武 巌夫(あんの いずお、1909年12月2日 - 193… 阿武 巌夫(あんの いずお、1909年12月2日 - 1939年12月18日)は、日本の男子陸上競技選手。専門は短距離走。山口県出身。 1909年12月22日、山口県阿武郡大井村字市場(現・萩市大井)に、大井八幡宮宮司の阿武四郎の長男として生まれる。 生家の大井八幡宮は阿武郡18郷の総社で参道が100メートル (m)を超える長さだったため、幼少期から参道をトラックに見立てて走り込んでいた。母校、大井尋常高等小学校(現 • 萩市立大井小・中学校)の運動会では俊足過ぎてトラックのカーブを曲がりきれなかったという 1922年(大正13年)4月、旧制山口県立萩中学校(現・山口県立萩高等学校)に進学。萩中時代では従兄弟のいる萩市椿町の金谷天満宮に下宿し、当地から学校まで毎日走って登校していた。
樋口 和博(ひぐち かずひろ、1909年12月1日 - 20… 樋口 和博(ひぐち かずひろ、1909年12月1日 - 2009年2月7日)は、日本の裁判官、弁護士。 長野県上伊那郡川島村(現辰野町)生まれ。旧制松本第二中学(現長野県松本県ヶ丘高等学校)、旧制松本高校文科甲類、京都帝国大学法学部卒業。昭和11年司法官試補、以後、大阪、青森、高松、長野、東京の各地裁で約38年間裁判官生活を送る。昭和49年定年退官。昭和50年1月、弁護士登録(東京弁護士会)。
伊関 佑二郎(いぜき ゆうじろう、1909年12月1日 - … 伊関 佑二郎(いぜき ゆうじろう、1909年12月1日 - 1999年1月17日)は、日本の外交官。外務省アジア局長、駐オランダ兼アイルランド特命全権大使、駐インド兼ネパール特命全権大使。 東京出身。日本統治時代の朝鮮の大田中学校(のちの大田高等学校)を経て、1929年第三高等学校文科甲類卒業。1932年東京帝国大学法学部政治学科卒業、外務省入省。1949年公職資格訴願審査委員会事務局長。1950年警察予備隊総隊副総監(警視監)。1951年外務省連絡局長。同年外務省国際協力局長。1952年に日米合同委員会でいわゆる米軍基地を決定する協定に署名した。その後MSA協定の交渉に関わった。1954年香港総領事。
阿部 憲一(あべ けんいち、1909年11月30日 - 19… 阿部 憲一(あべ けんいち、1909年11月30日 - 1989年3月28日)は、日本の政治家。参議院議員(2期、公明党)、学校法人創価学園理事長を歴任。 長野県北佐久郡岩村田町(現・佐久市)出身。旧制野沢中学(長野県野沢北高等学校)、旧制水戸高等学校を経て、1933年東京帝国大学経済学部卒。卒業後は海運会社に勤務し、1949年栗林商船取締役から1961年飯野海運取締役を経て、1965年渋沢海運社長に就任。また、創価学会理事を務める。 1967年の東京都知事選に無所属(公明党・推薦)で立候補したが、得票数3位で落選(当選者は美濃部亮吉)。 1968年の第8回参議院議員通常選挙に東京都選挙区(改選数4)から公明党公認で立候補して、第1位で初当選。
浅川 純直(あさかわ すみなお、1909年(明治42年)11… 浅川 純直(あさかわ すみなお、1909年(明治42年)11月29日 - 1991年(平成3年)3月9日)は、昭和時代の政治家。宮城県角田市長。奥州浅川氏の末裔。位階は正五位。 宮城県角田市生まれ。1942年(昭和7年)中央大学法学部卒。東京都職員を経て帰郷、角田市議会議長(4・5・6・7代)、角田市長(8・9代)を歴任。1990年(平成2年)市長を引退した。 角田市幡守会(角田石川藩家中の子孫の会)の会長を務めた。1991年死去。死没日付をもって正五位に叙された。
松ノ里 直市(まつのさと なおいち、1909年11月29日 … 松ノ里 直市(まつのさと なおいち、1909年11月29日 - 1985年1月26日)は、青森県五所川原市出身で出羽海部屋に所属した大相撲力士。本名は工藤 直市。身長は177cm、 体重は113kg。最高位は西前頭3枚目(1942年5月場所)。得意手は右四つ、寄り。 1926年1月場所に初土俵を踏む。その後、1932年1月の春秋園事件で天竜、大ノ里らにつき協会を脱退、翌年設立の関西角力協会にも参加した。 関西角力協会では幕内で活躍した。関西角力協会の解散後に帰参し、1938年1月場所に三段目筆頭格から再出発。その場所で10勝2敗の好成績を挙げ、翌5月場所には幕下に復帰して優勝を果たした。1939年1月場所は十両に昇進して9勝4敗の成績を挙げて、翌5月場所で新入幕を果たし、12勝3敗の好成績を挙げた。
田嶋 好文(たしま こうぶん、1909年〈明治42年〉11月… 田嶋 好文(たしま こうぶん、1909年〈明治42年〉11月28日 - 1963年〈昭和38年〉3月5日)は、昭和期の弁護士、実業家、政治家。衆議院議員。 高知県出身。1933年(昭和8年)中央大学法学部を卒業した。 弁護士として働く。神戸製鋼所名古屋工場法律顧問、林金属工業代表取締役、大同衛生材料常任監査役などを務めた。 1946年(昭和21年)4月の第22回衆議院議員総選挙で愛知県第1区から諸派で出馬して落選。1947年(昭和22年)4月の第23回総選挙で旧愛知1区に国民協同党公認で出馬したが落選。1949年(昭和24年)1月の第24回総選挙で民主自由党公認で出馬して初当選し、1953年(昭和28年)4月の第26回総選挙まで再選され、衆議院議員に連続3期在任した。
山本 和(やまもと かのう、1909年11月28日 - 19… 山本 和(やまもと かのう、1909年11月28日 - 1995年3月8日)は、日本基督教団牧師、神学者。日本の代表的なバルト主義者。 岡山県出身。東京帝国大学経済学科卒業、日本神学校卒業。関東学院大学教授を経て、玉川大学教授。日本基督教団松山教会にて牧会。『救済史の神学』で文学博士。 日本基督教団より大東亜共栄圏に在る基督教徒に送る書翰の原案作成者である。彼はバルト神学を借用してこの使徒書簡を書いた。 大のバルト好きであった。バルトの肖像を飾り、その肖像にそっくりのパイプを買ってきてふかすほどだった。 日本キリスト教協議会編纂の『キリスト教大事典』の悪魔、救済史などを執筆。「悪魔」の項目で、キリスト教の教理としての伝統的な悪魔観を否定している。
石本 他家男(いしもと たけお、1909年(明治42年)11… 石本 他家男(いしもと たけお、1909年(明治42年)11月25日 - 1988年(昭和63年)5月27日)は、日本の実業家である。デサントの創業者であり社長、会長を務めた。 石川県石川郡鶴来町(現在の白山市)に生まれる。1923年(大正12年)に大阪で丁稚奉公となり、1935年(昭和10年)2月に独立し、現在のデサントのルーツとなったツルヤを創業した。第二次世界大戦中は兵士となるが、戦時中の1946年(昭和21年)に復員となり戦後にはグラブやミットの製造及び販売を始める。1957年(昭和32年)にはツルヤの独自ブランドである「デサント」を立ち上げ、翌1958年(昭和33年)にはスポーツウェアの製造販売を始めた事により「石本商店」に商号変更し株式会社化された。
柴本 重理(しばもと しげみち、1909年11月24日 - … 柴本 重理(しばもと しげみち、1909年11月24日 - 1992年6月21日)は、日本の経営者。ブリヂストンタイヤ社長を務めた。長野県下高井郡延徳村(現・中野市)出身。 旧制神奈川県立横浜第二中学を経て、1933年に東京帝国大学経済学部経済学科を卒業し、1933年に内国貯金銀行に入行、1939年にブリヂストンタイヤに入社。1947年12月に取締役に就任し、1949年に常務、1958年に専務を経て、1963年3月に副社長に就任し、1973年5月に社長に昇格。1981年3月に会長、1982年3月に取締役相談役を経て、1983年3月から相談役を務めた。 1971年4月に藍綬褒章を受章し、1980年4月に勲二等旭日重光章を受章した。
春木 猛(はるき たけし、1909年11月24日 - 199… 春木 猛(はるき たけし、1909年11月24日 - 1994年1月31日)は、日本の法学者。法学博士(東北大学、1962年)。 専門は国際法、国際政治学。元青山学院大学教授、元学校法人青山学院常務理事。 国際法のほか英語教授法の権威としても知られたが、1973年に教え子の女子学生を強姦したとするスキャンダルにより失脚した。 朝鮮生まれ。青山学院専門部卒業。東北帝国大学博士課程修了。 1933年 - オクシデンタル大学(アメリカ)歴史政治科卒業。ブラウン大学修士課程修了。 1936年 - 南カリフォルニア大学大学院政治学科博士課程修了。 1939年 - 青山学院専門部講師、日本大学講師。1945年 - 日本大学予科講師。
間 端夫(あいだ まさお、1909年11月24日 - 199… 間 端夫(あいだ まさお、1909年11月24日 - 1994年5月29日)は、日本の経営者。福岡県出身。 1933年に九州帝国大学法学部法学科を卒業し、同年8月に八幡製鉄所に入社。1954年12月に参与に就任し、1961年2月に愛知製鋼専務を経て、1962年6¥2月に副社長に就任し、1964年2月から1969円12月までに社長を務めた。1972年5月から1976年9月までに日本特殊鋼社長を務めた。 1994年5月29日心不全のために死去。84歳没。
白杉 庄一郎(しらすぎ しょういちろう、1909年11月24… 白杉 庄一郎(しらすぎ しょういちろう、1909年11月24日 - 1961年6月15日)は、日本の経済学者。経済学史やマルクス経済学の研究者として知られる。 京都府与謝郡市場村(現・与謝野町)出身。1928年に京都師範学校(現・京都教育大学)本科第2部に入学し、翌年卒業。続けて京都帝国大学経済学部に入学(当初選科、1930年より本科)し、1931年に大学院に進学。石川興二に師事し、1934年に京都帝大経済学部講師に就任した。1940年に助教授に昇格するが、太平洋戦争終結後に経済学部で起きた「戦争責任の自己批判」論に伴い、1946年に京都帝大を退職する。1947年、彦根経済専門学校(1949年より滋賀大学経済学部)の教授となる。
長谷川 茂(はせがわ しげる、1909年11月24日 - 2… 長谷川 茂(はせがわ しげる、1909年11月24日 - 2001年7月4日)は、日本の実業家。 福岡市に生まれる。1929年、福岡県中学修猷館を経て、1934年、東京帝国大学法学部法律学科を卒業し大阪商船に入社。 1947年10月、関西汽船に転じ、1957年8月取締役となり、1958年6月常務、1959年8月東京支店長、1962年8月専務を経て、1966年8月社長に就任する。1973年8月相談役、1974年8月顧問となる。
佐倉 直男(さくら なおお、1909年11月23日 - 没年… 佐倉 直男(さくら なおお、1909年11月23日 - 没年不明)は、日本の数学者。信州大学名誉教授。専門は微分積分学。 長野県東筑摩郡塩尻町(現・塩尻市)出身。旧制松本第二中学(現・長野県松本県ヶ丘高等学校)、旧制松本高等学校を経て、1932年(昭和7年)東北帝国大学卒業。旧制上田中学(現・長野県上田高等学校)教諭を経て1938年(昭和13年)京城高等工業学校教授。1944年海軍兵学校教官。1946年松本高等学校教授、1950年信州大学文理学部助教授、1966年理学部教授を務めた後、1970年(昭和45年)定年退官、名誉教授。 佐倉の名「直男」は「ただお」ではなく「なおお」と読む。彼の教え子の一人で、信州大学文理学部最後の入学生でもある猪岐(いのまた)英夫は、信州大学理学部同窓会報の中で佐倉の想い出をこう記している。
谷口 鉄雄(たにぐち てつお、1909年11月23日 - 1… 谷口 鉄雄(たにぐち てつお、1909年11月23日 - 1995年3月17日)は、日本の美術史学者。専門は東洋美術。 福岡県八幡市(現在の北九州市八幡西区)に生まれる。旧制福岡高等学校文科を経て、1933年に九州帝国大学法文学部哲学科を卒業。卒業後は、法文学部の副手に採用され、1935年助手、1948年九州大学文学部講師、1951年助教授を経て、1955年に教授に就任する。1966年 - 1968年に文学部長を務めた。1973年に定年退官し、名誉教授となる。 退官後は、九州産業大学教授に就任。学外では、1973年 - 1978年北九州市立美術館長、1982年 - 1988年石橋美術館(ブリヂストン美術館)長を兼任した。
稲村 耕雄(いなむら やすお、1908年12月21日 - 1… 稲村 耕雄(いなむら やすお、1908年12月21日 - 1967年4月24日)は、日本の無機化学者、色彩学者。元東京工業大学教授。インターカラー共同設立者。 父は中型ゆかた本舗の染色会社社長で、経営者になるため当初は東京高等商業学校(現一橋大学)を志望していたが、戦後恐慌のため家業が倒産し、1930年に東京高等工業学校染料科を卒業。1933年東京工業大学染料化学科卒業。1938年から日仏交換留学生としてコレージュ・ド・フランス、モンペリエ大学科学研究所に留学。 東京工業大学講師、東京工業大学助教授を経て、東京工業大学教授。1949年大阪大学理学博士。 1953年日本流行色協会発起人。1963年インターカラー設立。
山田 坂仁(やまだ さかじ、1908年12月20日 - 19… 山田 坂仁(やまだ さかじ、1908年12月20日 - 1987年6月3日)は、日本の哲学者。 長野県諏訪郡豊田村(現・諏訪市)出身。旧制長野県立諏訪中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校)、旧制松本高等学校を経て、1929年東京帝国大学文学部哲学科卒業、報知新聞社入社。プロレタリア科学研究所、唯物論研究会に所属し、「哲学のレーニン的段階」に関する論争に参加、山岸辰蔵・薬袋俊二・鵜飼隆夫などの筆名で機関誌『唯物論研究』などを執筆。1937年東京府立第九中学校(現・東京都立北園高等学校)英語教師。1940年読売新聞社外報部嘱託。1943年北隆館出版部長。1946年千葉工業大学予科教授。1957年明治大学経営学部教授。
長谷川 鉱平(長谷川鑛平、はせがわ こうへい、1908年12… 長谷川 鉱平(長谷川鑛平、はせがわ こうへい、1908年12月20日 - 1995年7月16日)は、日本の編集者、文筆家。 岐阜県出身、名古屋市生まれ。1924年、私立目白中学校3年編入学、埴谷雄高が同期。1926年、目白中学校4年修了で第一高等学校 (旧制)に入ったが1928年に病気のため退学。1929年、法政大学予科第二部入学。法政大学文学部哲学科卒。岩波書店、1946年中央公論社勤務、『思想の科学』などの編集に当たる。63年中央公論社を定年退職。本州大学教授、改称で長野大学教授、1984年退職。文学、哲学などについて執筆した。
田村 しげる(たむら しげる、本名:田村 茂、1908年(明… 田村 しげる(たむら しげる、本名:田村 茂、1908年(明治41年)12月20日 - 1980年(昭和55年)10月14日)は、昭和期の作曲家。妻は作詞家の寺尾智沙、娘は女優の田村奈巳。 京都府中郡峰山町(現京丹後市)出身。家は、現在の田村写真館(京丹後市峰山町白銀)1925年(大正14年)地元の宮津中学校を卒業し上京。武蔵野音楽学校に入学。1927年(昭和2年)3月7日に発生した北丹後地震で故郷の家が被災し、財産を喪失。苦学する。 1931年(昭和6年)武蔵野音楽大学を卒業。ビクターレコードから「酔って笑って」を作曲し作曲家デビュー。翌年キングレコードの専属となって松島詩子らの曲を作曲し、さらにポリドールレコードの東海林太郎などにも曲を提供した。
横山 林二(よこやま りんじ、1908年(明治41年)12月… 横山 林二(よこやま りんじ、1908年(明治41年)12月20日-1973年(昭和48年)2月25日)は、日本の自由律俳句の俳人。層雲の荻原井泉水に師事、のちプロレタリア俳句運動に転じ、新興俳句弾圧事件により投獄された。戦後は新俳句人連盟常任委員、現代俳句協会会員。東京都生まれ、本名は吉太郎。 東京都港区に生まれ、芝新網町に育つ。父は露天商、母は日雇労働者、二人の姉は芸者と女工という貧しい家庭だった。新網の特殊小学校、専修商業学校を経て早稲田大学政経学部を卒業。14歳の時に関東大震災を経験。関東大震災朝鮮人虐殺事件や甘粕事件を契機に社会性俳句に目覚め、その年の1923年、荻原井泉水が選者をしていた朝日新聞の自由律俳句欄に投句、翌年にはその井泉水が主宰する層雲に入会、同じ層雲の栗林一石路や橋本夢道らとプロレタリア俳句運動を展開する。
大村 武彦(おおむら たけひこ、1908年12月19日 - … 大村 武彦(おおむら たけひこ、1908年12月19日 - 1994年8月23日)は、日本の銀行家。西日本相互銀行社長、会長を務めた。福岡県出身。位階は正五位。 1936年に九州帝国大学法科を卒業し、同年に朝鮮銀行に入行。 1947年3月に福岡税務署で勤務し、1948年3月に熊本財務局理財局長を経て、1952年2月に西日本相互銀行に転じ、1964年5月に取締役に就任し、1968年5月に常務、1971年5月に専務を経て、1973年7月に社長に就任。1982年10月に会長に就任し、1984年6月に名誉会長を経て、1986年6月に常任相談役に就任。 1975年9月に藍綬褒章を受章し、1981年4月に勲三等瑞宝章を受章。
夏目 伸六(なつめ しんろく、1908年(明治41年)12月… 夏目 伸六(なつめ しんろく、1908年(明治41年)12月17日 - 1975年(昭和50年)2月11日)は、日本の随筆家。 夏目漱石と夏目鏡子の二男として東京市牛込区(現在の東京都新宿区)早稲田南町に生まれる。伸六の上に姉4名と兄がいた。漱石は、名前を「申年に生まれた6番目の子ども」ということで「申六」とする予定だったが、「先生、いくらなんでも人間の子供ですから、ニンベンをつけて『伸』にしましょう」と漱石の弟子である小宮豊隆から言われ、「伸六」となった。 父の死去時には数えで9歳(小学校2年生)であった。暁星小学校および同中学校を経て慶應義塾大学文学部予科に進み、その後、日本フィルハーモニー交響楽団からチェリストとして声がかかり、同独文科を中退した。
上林 貞治郎(かんばやし ていじろう、1908年(明治41年… 上林 貞治郎(かんばやし ていじろう、1908年(明治41年)12月16日 - 2001年(平成13年)4月14日)は、日本の経済学者。半世紀を超える大学での教育活動や多くの著書を通じ、一貫して科学的社会主義の立場を貫徹し、学生や労働者に大きな影響を与えた。経済学博士。 1908年、大阪府堺市熊野の由緒ある商家に父・栄吉と母・コウの長男として生まれる。 堺市立熊野小学校、大阪市立第一商業学校(のちの天王寺商業)、大阪高等商業学校(のちの大阪商科大学高商部)を経て、1932年、大阪商科大学第一期生として、首席で同大学を卒業。 1932年、大阪商科大学大学院に入学。1933年に同大学副手となり、助手、講師嘱託を経て、 1939年に高商部教授、 1941年に助教授へと昇進した。
山田 申吾(やまだ しんご、1908年(明治41年)12月1… 山田 申吾(やまだ しんご、1908年(明治41年)12月15日 - 1977年(昭和52年)7月7日)は日本画家。父は日本画家山田敬中。 父 敬中、母 はな の次男として東京府滝野川村(現・東京都北区)田端に生まれる。1926年(大正15年) 東京美術学校日本画科へ入学。同学年に東山魁夷、橋本明治、加藤栄三らがいる。1930年(昭和5年)第11回帝展で《水辺初夏》が初入選。1931年(昭和6年)東京美術学校を卒業。卒業制作は《武蔵野》。その後、結城素明に師事する。 1944年(昭和19年) 私立麻布中学教諭となる。後に日本画家となる野田修一郎は麻布中学校時代に山田に師事している。 1950年(昭和25年) 第6回日展へ出品した《馬」》で特選、白寿賞を受賞する。
向井 久万(むかい くま、1908年(明治41年)12月14… 向井 久万(むかい くま、1908年(明治41年)12月14日 - 1987年(昭和62年)1月20日)は、日本画家。創画会会員。 大阪府泉南郡上之郷(現・泉佐野市)生まれ。1929年(昭和4年)、京都高等工芸学校図案科卒業。妻も同じく日本画家の広田多津。 1941年(昭和16年)、「男子生まる」を文展に出品して特選を受賞。 1948年(昭和23年)、創造美術を結成。この後、西山翠嶂に師事、裸婦像と花鳥画に才能を発揮した。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
吉川 逸治(よしかわ いつじ、1908年12月14日 - 2… 吉川 逸治(よしかわ いつじ、1908年12月14日 - 2002年12月5日)は、日本の美術史学者。西洋美術史専攻。東京大学名誉教授。従兄は中国文学者の吉川幸次郎。 神奈川県横浜市生まれ。旧制神奈川県立横浜第一中学校、旧制浦和高等学校、東京帝国大学文学部美学美術史学科卒業。矢代幸雄に師事。1933年から1939年までフランスに留学、アンリ・フォシヨンに師事。「サン・サヴァン教会堂のヨハネ黙示録画の研究」でパリ大学より博士号取得。ロマネスク建築・壁画研究を専門とした。 1947年東京芸術大学教授を経て1953年東京大学文学部助教授、1955年教授、1969年定年退官後、大和文華館館長。後に名古屋大学教授、東海大学教授。
出雲路 敬和(いずもじ よしかず、1908年12月13日 -… 出雲路 敬和(いずもじ よしかず、1908年12月13日 - 1978年4月19日)は、神職、京都評論家。 京都市出身。出雲路信直の子孫。國學院大學文学部卒、立命館大学教授、成安女子短期大学学長。
森田 正義(もりた まさよし、1908年12月13日 - 2… 森田 正義(もりた まさよし、1908年12月13日 - 2004年12月2日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。栃木県岩舟町名誉町民。 栃木県下都賀郡寒川村(間々田町を経て現小山市)出身。1932年、東京帝国大学経済学部卒業。生家は地元の名家であった。寒川村長などを務めた。応召して日中戦争に従軍し陸軍主計曹長となる。 1942年の第21回衆議院議員総選挙において帝国議会当時の旧衆議院栃木2区から翼賛政治体制協議会の推薦を受け出馬して当選、1期活動した。在任中は内務省委員などを務めた。1945年(昭和20年)12月1日に衆議院議員を辞職。戦後は公職追放を経て、追放解除後は岩舟町長となり、1964年から1980年までの4期在職した。
神田 坤六(かんだ こんろく、1908年〈明治41年〉12月… 神田 坤六(かんだ こんろく、1908年〈明治41年〉12月10日 - 2005年〈平成17年〉5月20日)は、元群馬県知事。海軍司政官。 1908年(明治41年)12月10日、新潟県中蒲原郡横越村(現・新潟市)出身。新潟県立新潟中学校、官立新潟高等学校を経て東京帝国大学法学部に進み、在学中に高等試験行政科に合格。卒業後は静岡県庁勤務を皮切りに内務省官僚として地方行政に携わった。戦後は鹿児島県経済部長を勤めた後、群馬県教育民生部長に就いたことから群馬県との関わりを持つこととなった。その後総務部長等を経て竹腰俊蔵知事のもとで群馬県副知事就任。竹腰知事の後任として1960年(昭和35年)の群馬県知事選挙に出馬し当選。
板東 依彦(ばんどう よりひこ、1908年12月10日 - … 板東 依彦(ばんどう よりひこ、1908年12月10日 - 1987年10月6日)は、日本の経営者。関西ペイント社長を務めた。 徳島県出身。1931年に東京帝国大学工学部応用化学科を卒業し、同年に関西ペイントに入社。1958年11月に取締役に就任し、常務、専務、副社長を経て、1972年5月に社長に就任。1978年5月には取締役相談役に就任し、同年6月から相談役に専任。 1973年11月に藍綬褒章を受章し、1980年11月に勲三等瑞宝章を受章。 1987年10月6日に脳梗塞のために死去。78歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
松下 忠(まつした ただし、1908年12月10日 - 19… 松下 忠(まつした ただし、1908年12月10日 - 1994年8月9日)は、日本の漢文学者。 熊本県出身。1938年東京文理科大学漢文学科卒。諸橋轍次に師事。1962年「江戸時代の詩風及び詩論の研究」で東京教育大学文学博士。和歌山大学教授、72年定年退官、名誉教授、日本大学教授。1972年「江戸時代の詩風詩論―明清の詩論とその摂取」で日本学士院賞・恩賜賞受賞。同年和歌山県文化賞、1980年勲二等瑞宝章受章。和歌山大学名誉教授の生駒道弘は女婿
大塚 徹(おおつか とおる、1908年(明治41年)12月8… 大塚 徹(おおつか とおる、1908年(明治41年)12月8日 - 1976年(昭和51年)12月2日)は、日本の詩人。 脊椎カリエスを患いながらも、叙情詩の発表を続け、播磨地域を中心とする多くの文学人に影響を与えた。また、ハーモニカ演奏や民謡、歌謡、学校歌の作詞等に多芸に活躍した。 兵庫県姫路市堺町で質屋を営む大塚捨次の三男として生まれる。母・まさは芸に秀で、若い頃の桂米朝、坂東大蔵らが出入りしていた。長兄が出奔し、次兄が早逝したため、時計古物商を営んで父母を養ったという。 旧制姫路中学3年在学時、飾磨港で水泳中に飛び込みをし、脊髄を損傷、3年間闘病する。その後脊髄カリエスも患い、一生疼痛と闘うこととなる。
林 泰(はやし やすし、1908年 <明治41> 12月8日… 林 泰(はやし やすし、1908年 <明治41> 12月8日 - 1988年 <昭和63年> 7月1日)は、日本の経営者。山陽特殊製鋼社長を務めた。東京都出身。位階は正五位。 1932年に東京帝国大学経済学部経済学科を卒業。髙島屋での勤務を経て、1942年に日本製鉄を経て、、1950年4月に富士製鐵に転じ、1957年5月に取締役に就任し、1960年6月に常務、1967年2月に専務・日鉄セメント社長を経て、1973年7月には山陽特殊製鋼社長に就任。1980年6月に会長に就任し、1984年6月には相談役に就任。 1979年11月に勲三等瑞宝章を受章。 1988年7月1日大腸がんのために死去。79歳没。
前田 利民(まえだ としたみ、1908年(明治41年)12月… 前田 利民(まえだ としたみ、1908年(明治41年)12月8日 - 1983年(昭和58年)3月2日)は、昭和期の華族(子爵)。 七日市前田家第13代当主前田利定子爵の子として生まれる。1944年11月1日、父の死去に伴い子爵を襲爵した。 日本大学経済学部を卒業後、安田銀行、高崎板紙などに勤務した。1983年死去、家督は従甥の史貞が継いだ。
別技 篤彦(べっき あつひこ、1908年12月7日 - 19… 別技 篤彦(べっき あつひこ、1908年12月7日 - 1997年4月17日)は、日本の地理学者。 陸軍少将・別技嘉助の長男として東京に生まれる。東京府立第五中学校(現東京都立小石川高等学校)卒。1928年静岡高等学校文科甲類卒業。1932年京都帝国大学文学部史学科卒。1938年大阪商科大学予科教授、戦時中地理調査のためジャワ派遣軍に所属、南方文化研究室長。1946年帰国。1949年大阪商科大学を退職し、福井大学教授となり、1952年からは神戸商科大学教授を兼任。1954年立教大学教授、74年定年退任、名誉教授。 1962年「東南アジア諸島の居住と開発史」により京都大学から文学博士の学位を授与される。
吉原 慎一郎(よしはら しんいちろう、1908年12月7日 … 吉原 慎一郎(よしはら しんいちろう、1908年12月7日 - 2009年8月2日)は、日本の建築家。株式会社創和建築設計事務所(現 株式会社創和三幸設計)創業者。 横浜市長であった飛鳥田一雄とは神奈川県立第一中学校(現 神奈川県立希望ヶ丘高等学校)の同窓であり、その縁で横浜市内を中心とした建築物の設計を数多く手がけたことで知られている。
廣 慶太郎(ひろ けいたろう、1908年12月7日 - 19… 廣 慶太郎(ひろ けいたろう、1908年12月7日 - 1998年10月20日 )は、日本の経済人・経営者。
友永 英夫(ともなが ひでお、1908年(明治41年)12月… 友永 英夫(ともなが ひでお、1908年(明治41年)12月6日 - 1945年(昭和20年)5月14日)は、日本の海軍軍人。潜水艦を専門とする技術士官として、自動懸吊装置、重油漏洩防止装置を開発し、2度にわたり海軍技術有功章を受章した。第二次世界大戦中にドイツへ赴き、その帰途でドイツの降伏を迎え、乗艦していた「Uボート」艦内で庄司元三とともに自決。最終階級は海軍技術大佐。 現在の釜山広域市に土木技術者の父の三男として生まれた。本籍は山口県。日本に帰国後も父の仕事の関係で住居を転々とした。旧制鳥取県立鳥取第一中学校(現・鳥取県立鳥取西高等学校)、旧制第一高等学校理科を経て1929年(昭和4年)に東京帝国大学工学部船舶工学科に進んだ。
加藤 恵三(かとう けいぞう、1908年〈明治41年〉12月… 加藤 恵三(かとう けいぞう、1908年〈明治41年〉12月5日 - 1982年〈昭和55年〉6月26日、本名は「慶次」とも)は将棋棋士。棋士番号は22。故石井秀吉七段門下。東京都江東区出身。 明治41年、東京市深川区(現・東京都江東区)生まれ。小学校卒業後に家業を助けながら、1929年(昭和4年)に石井秀吉七段の門下となる。 1931年(昭和6年)初段入段、1937年(昭和12年)四段、その翌年に五段。 1957年(昭和32年)に引退。1968年の表彰感謝の日に七段を贈られる。 正義派で親孝行、人に好かれる明るい性格であり、また、若手の面倒をよく見る世話好きの人情家であった。 1982年6月26日、食道がんのため死去、享年73。
大和 与一(やまと よいち、1908年〈明治41年〉12月3… 大和 与一(やまと よいち、1908年〈明治41年〉12月3日 - 1988年〈昭和63年〉4月29日)は、昭和期の労働運動家、政治家。参議院議員(3期)。剣道5段で日本武道館常任理事を務めた。 大韓帝国、のちの京城府(現ソウル特別市)で運送店経営・大和興次郎、露子の長男として生まれる。龍山中学校(現龍山高等学校)を経て、1934年(昭和9年)早稲田大学専門部政経科を卒業した。 朝鮮総督府鉄道局に入局し、終戦時は釜山駅旅客主任を務めていた。朝鮮半島からの引揚者60万人の輸送に従事し最終船で日本に戻り、1946年(昭和21年)運輸省鉄道総局東京鉄道局桐生駅駅手に就任。日本国有鉄道が発足し高崎鉄道管理局勤務となる。
宇都宮貞子(うつのみや さだこ、1908年12月3日 - 1… 宇都宮貞子(うつのみや さだこ、1908年12月3日 - 1992年2月12日)は、日本の民俗学者、草花研究家、随筆家。 長野県長野市生まれ。旧制県立長野高等女学校卒。東京女子大学中退。民俗学の一環として野の草花を研究し、60歳以後多くの著作を執筆した。1984年エイボン教育賞受賞。1992年、脳梗塞のため死去。
朝比奈 一男(あさひな かずお、1908年(明治41年)12… 朝比奈 一男(あさひな かずお、1908年(明治41年)12月2日 - 1986年(昭和61年)10月23日)は日本の内科医、生理学者。元東邦大学医学部長、生理学第一講座初代教授。東邦大学名誉教授。日本で初めて脳波を記録した。旧名倭男。東京府東京市小石川区白山御殿町(現・東京都文京区白山)出身。 1934年(昭和9年)、名古屋医科大学卒業。第一内科入局(勝沼精蔵)。勝沼とともに訪独。1937年(昭和12年)10月、医学博士を授与される。1938年(昭和13年)6月、哈爾浜医科大学助教授(内科)。1941年(昭和16年)7月、名古屋帝国大学助教授(航空医学研究所・第一航空医学 勝沼精蔵)。1945年(昭和20年)12月(環境医学研究所・第4部門職業性疾患学方面 勝沼精蔵)。
稲垣 優(いながき まさる、1908年12月2日 - 200… 稲垣 優(いながき まさる、1908年12月2日 - 2006年1月6日)は、日本の数学者。専門は微分幾何学。第10代東海大学学長、第3代国際武道大学学長を務める。熊本県熊本市出身。 東海大学水泳部初代主将 東海大学付属本田記念幼稚園、第3代園長も務めた。東海大学名誉教授、理事。1987年、勲二等瑞宝章受章。