山中 貞則(やまなか さだのり、1921年〈大正10年〉7月… 山中 貞則(やまなか さだのり、1921年〈大正10年〉7月9日 - 2004年〈平成16年〉2月20日)は、日本の政治家。鹿児島県囎唹郡末吉村大字深川(現在の曽於市末吉町深川)出身。位階・勲等は正三位勲一等。称号は沖縄県名誉県民等多数。 衆議院議員(17期)、沖縄開発庁長官(初代)、防衛庁長官(第31代)、自由民主党政務調査会長(第23代)、通商産業大臣(第41代)などを歴任した。 税制のスペシャリストとして長年にわたり自民党税調に君臨し、「税調のドン」と呼ばれた。ニックネームは「ヤマサダ」、「ヤマテイ」。浜田幸一や一部の官僚達からは名前の「貞則」を音読みした「テイソク」と呼ばれた。 旧制宮崎県立都城中学校(現在の宮崎県立都城泉ヶ丘高等学校)、台湾・台北第二師範学校を卒業後、高雄州の国民学校で教職を務める。
金 正熙(キム ジョンヒ、英: Kim Jeong-hui、… 金 正熙(キム ジョンヒ、英: Kim Jeong-hui、1921年7月9日 - 1975年11月2日)は北朝鮮の建築家・都市計画家。1940年代から1950年代にかけて、平壌の都市計画に携わったことで知られる。一般にも1987年に公開された映画『ある建築家に関する話』(한 건축가에 대한 이야기)で知られるようになる。 平壌は朝鮮戦争で壊滅的に破壊されたが、停戦後、ソ連の援助で復興事業が開始され、1951年の金の都市デザインにより、社会主義国特有の広場や、スターリン様式を取り入れたプロパガンダ色の濃い町が建設された。金はその後、平壌のみならず北朝鮮各地の都市復旧建設事業に尽力していく。 平安北道の農家の子として出生。
多田 文久三(ただ ふくぞう、1921年7月8日 - 200… 多田 文久三(ただ ふくぞう、1921年7月8日 - 2006年9月1日)は、兵庫県西宮市出身のプロ野球選手。
小嶋 仁八郎(こじま にはちろう、1921年7月7日 - 1… 小嶋 仁八郎(こじま にはちろう、1921年7月7日 - 1999年11月16日)は、大分県津久見町(現・津久見市)出身のプロ野球選手、高校野球指導者。2020年現在、九州(沖縄除く)で唯一、春夏の甲子園大会で優勝を経験している高校野球監督。 1921年7月7日、津久見町に生まれた。少年時代から野球センスが高く、1933年に開催された北海部郡少年野球大会ではエースとして、津久見小学校を優勝に導いた。津久見小学校卒業後、臼杵中学校(現・大分県立臼杵高等学校)に入学してここでもエースとしてチームを引っ張ったが、甲子園の壁は厚く、遂に在学中に出場を果たす事は出来なかった(大分県予選に出場していたが、1936年夏は大分商業(現・大分県立大分商業高等学校)に1-19、1937年夏は大分工業(現・大分県立大分工業高等学校)に4-8といずれも1回戦で大敗している)。
見掛 道夫(みかけ みちお、1921年7月7日 - 2010… 見掛 道夫(みかけ みちお、1921年7月7日 - 2010年4月15日)は、日本の実業家。兵庫県出身。 1946年に慶応義塾大学経済学部を卒業した後に阪神電気鉄道に入社した。 不動産部長、土地経営部長を経て、1975年5月には取締役に就任し、1980年6月には常務取締役、1982年6月には専務取締役を歴任した。1986年6月には副社長に就任した。1988年には阪神タイガースに出向し、球団社長に就任した。1990年に球団社長を辞任した。 1988年4月に藍綬褒章を受章。 2010年4月15日に肺炎のため死去。88歳没。 この項目は、スポーツ関係者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ポータル スポーツ/プロジェクト スポーツ人物伝)。
杉 冨士雄(すぎ ふじお、1921年7月5日 - 1991年… 杉 冨士雄(すぎ ふじお、1921年7月5日 - 1991年4月25日)は、日本のフランス文学者、プロヴァンス文学者、岡山大学名誉教授。 東京出身。1948年東京大学仏文科卒。1960年よりモンペリエ大学とトゥールーズ大学に留学。1962年岡山大学法文学部教授、1980年文学部教授に就任、1987年に退官後、中国短期大学学長となった。 1964年「「聖女フォワの歌」の文学的一考察」で東京大学文学博士。フランス文学の中でも言語の異なる南仏プロヴァンス語でノーベル文学賞をとったフレデリック・ミストラルを研究・翻訳した。 1984年「青春の思い出」の翻訳と研究で日本翻訳文化賞を受賞した。 1991年4月25日、心筋梗塞のため死去。
藤本 勝次(ふじもと かつじ、1921年7月4日 - 200… 藤本 勝次(ふじもと かつじ、1921年7月4日 - 2000年2月18日)は、日本の中東イスラーム学者、専攻は中世イスラム文化史。 大阪府大阪市生まれ。京都帝国大学東洋史学科でアラビア語を学ぶ。 関西大学文学部教授を兼ね、1975年4月から1982年9月までの間、関西大学東西学術研究所の所長をつとめた。 2000年2月18日、脳梗塞のため死去。
寺尾 五郎(てらお ごろう、1921年〈大正10年〉7月4日… 寺尾 五郎(てらお ごろう、1921年〈大正10年〉7月4日 - 1999年〈平成11年〉8月21日)は、日本の社会運動家。 北海道室蘭市出身。1938年、早稲田大学文学部哲学科に入学後、共産主義運動に参加。1940年に治安維持法違反で検挙。 1943年に召集されるが、1945年に満洲のチチハル航空部隊で反戦活動を行ったかどで憲兵隊に拘束され、東京憲兵隊総本部へ送還。8月15日の敗戦の2日後、警視庁特高課に身柄移管され、治安維持法最後の被告となる。10月10日に豊多摩刑務所から出所し、以後日本共産党本部の専従活動家となる。 1950年にコミンフォルムの『日本の情勢について』をめぐる対立に巻き込まれて「国際派」として除名されるが、「国際派」と「所感派」の統一(日本共産党第6回全国協議会を参照)により5年後に復帰。
服部 銈二郎(はっとり けいじろう、大正10年(1921年)… 服部 銈二郎(はっとり けいじろう、大正10年(1921年)7月3日 - 平成25年(2013年)6月9日)は、日本の地理学者。専門は、都市地理学、地誌学、アーバン・アメニティ論。立正大学名誉教授。日本地理学会名誉会員、日本都市学会顧問、アーバン・アメニティ研究所所長。 大正10年(1921年)7月3日、東京府東京市牛込区に生まれた。間もなく南足立郡千住町に移り、千住町立千寿第一小学校(足立区立千寿本町小学校に統合)に入学した。短歌を趣味とする母の旅行に年数回連れられる内、自身も旅行好きとなり、高学年には一人で日本各地を旅行するようになった。 東京府立第七中学校(東京都立墨田川高等学校)在学中、校友会雑誌に「奥羽地方の交通」「伊豆半島西海岸をめぐりて」を発表した。
松田 瑞穂(まつだ みずほ、男性、1921年7月2日 - 1… 松田 瑞穂(まつだ みずほ、男性、1921年7月2日 - 1998年8月13日)は、日本の実業家。株式会社吉野家初代社長。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
村瀬 敏郎(むらせ としお、1921年7月1日 - 1997… 村瀬 敏郎(むらせ としお、1921年7月1日 - 1997年12月14日)は日本の医師。日本医師会会長を務めた。 旧制横須賀中学校(現・神奈川県立横須賀高等学校)を経て、1946年に慶應義塾大学医学部を卒業。翌年より国立三島病院で勤務し、この頃から小児科を専門とした。1950年に静岡県由比町(現・静岡市清水区)に村瀬医院を開業し、1964年に東京都渋谷区に医院を移している。 1972年からは厚生省予防接種禁忌小委員会の委員なども務め、予防接種行政に関する提言を行なって1976年の予防接種法改正に貢献した。1984年に日本医師会の常任理事となり、公衆衛生への功労で厚生大臣賞を受賞した。翌年には厚生省のAIDS調査検討委員会の委員としてアメリカの状況を調査している。
土井垣 武(どいがき たけし、1921年7月1日 - 199… 土井垣 武(どいがき たけし、1921年7月1日 - 1999年1月25日)は、鳥取県米子市出身のプロ野球選手(捕手)・コーチ、解説者・評論家。 後に若松(わかまつ)と改姓。なお、姓の読みはどいがきではなく正しくはどいかいとと読むと言うが、なかなか正しく読んでもらえず、そのまま「どいがき」で通したと言う。 両リーグ分立前後を代表する捕手で、1947年から1952年まで6年連続でベストナインを獲得。熱血的な性格からニューヨーク・ヤンキースの往年の名捕手にあやかって和製ヨギ・ベラと呼ばれた。末弟にパシフィック・リーグ審判を長らく務めた土井垣幸男がいる。 幼い頃から大阪鉄道局米子野球部のマスコット的存在として可愛がられていた。
戸谷 松司(とたに まつじ、1921年 <大正10年> 6月… 戸谷 松司(とたに まつじ、1921年 <大正10年> 6月30日 - 1999年 <平成11年> 6月26日)は、日本の政治家。姫路市長を務めた。位階は従四位。勲三等旭日中綬章。 印南郡米田町(現・加古川市)に6人きょうだいの3男として生まれる。実家は宝殿駅前の料亭「荒熊」で、父は大阪相撲の元関脇だった。姫路中学校(旧制)、姫路高等学校(旧制)を経て1944年(昭和19年)京都帝国大学工学部土木工学科卒業。建設省に入り、九州電力嘱託、島根県土木砂防電気課長補佐、徳島県土木部河川課長、広島県土木建築部河川課長を歴任。島根時代には竹下登の知遇を得た。 1966年(昭和41年)、兵庫県庁に入り土木部河川部長、企画部長、土木部長を経て1976年(昭和51年)から1983年(昭和58年)まで兵庫県副知事を務めた。
伊勢川 真澄(いせがわ ますみ、1921年6月30日 - 1… 伊勢川 真澄(いせがわ ますみ、1921年6月30日 - 1996年7月26日)は、和歌山県紀の川市出身のプロ野球選手(捕手)。 粉河中学を卒業後、1940年にライオン軍(1941年から朝日軍)へ入団。新人ながら正捕手・広田修三の控えとして49試合に捕手として出場し、1941年・1942年は正捕手を務めた。42年暮れに応召。戦後の1946年に旧朝日軍の選手が独立してゴールドスターを立ち上げる中、伊勢川は旧朝日軍の流れを汲むパシフィックに参加する。ここでも引き続き正捕手を務め、1946年は打率.230(リーグ37位)ながら、主砲の森下重好(54打点)に次ぐ51打点を挙げ、1947年は打率.257(リーグ19位)を記録している。
笹田 和子(ささだ かずこ、1921年(大正10年)6月30… 笹田 和子(ささだ かずこ、1921年(大正10年)6月30日 - 2007年(平成19年)11月30日)は、日本の声楽家(ソプラノ)、オペラ歌手、音楽教育者。 大阪府大阪市出身。小学生の時に美声をかわれて教会の日曜学校で歌う。1939年(昭和14年)、東京音楽学校(現: 東京藝術大学)予科入学。木下保と原信子に師事。本科の同期には同じ声楽部の内田るり子、石井好子、畑中更予(米田更子)、前田幸市郎、器楽部の森正(指揮者)などがいた。1942年(昭和17年)に卒業と同時に藤原歌劇団に入り、同年11月にワーグナーのオペラ『ローエングリン』ヒロインのエルザでデビューを果たす。以来、同歌劇団で1000回余りの舞台を踏み、ワーグナー『タンホイザー』日本初演のエリーザベトなども務めた。
城田 すず子(しろた すずこ、1921年6月30日 - 19… 城田 すず子(しろた すずこ、1921年6月30日 - 1993年)は、日本の元娼婦。17歳で芸者屋に奉公に出たのを皮切りに、南洋の遊郭等で働く。太平洋戦争中慰安所の帳簿係を務めたこともある。戦後はGI(アメリカ軍軍人)を相手に娼売した。更生施設でキリスト教に入信。 下町のパン屋の5人兄弟の長女として生まれ、14歳で母親と死別。17歳で神楽坂の芸者屋に奉公に出た。横浜の新天地の遊郭に住み替えした時点では、芸者屋に1800円ほどの借金があったという。その後、3年契約2500円の話を受け、台湾の澎湖島の妓楼に移る。同地では8か月間働いたが、生活費や着物代で借金は減らなかった。一度東京に戻るも、弟妹の暮らしぶりを見て、3000円の借金で南洋行きを決断する。
李 鍾麟(イ・ジョンニン、朝鮮語: 이종린、1921年6月2… 李 鍾麟(イ・ジョンニン、朝鮮語: 이종린、1921年6月29日 - 1985年6月24日)は、大韓民国の大学教授、政治家。第5代韓国国会議員。 咸南咸州または釜山出身。専修大学予科修了。1944年専修大学経済学部卒、その後東亜大学校法政学部経済学科卒。1948年ソウル大学校大学院法科卒。同年にUN韓国委員団外交代表を務め、その後は咸興医学専門学校講師、戦時連合大学教授、釜山工科大学教授、東亜大学校講師・同大学院政治科主任教授を務めた。1960年の第5代総選挙では民主党の候補として国会議員に当選した。 政界引退後は東国大へ移った。東国大法政大学長在任中の1985年6月24日、ソウル市恩平区の自宅で持病により死去した。
酒井 高男(さかい たかお、1921年6月28日 - 202… 酒井 高男(さかい たかお、1921年6月28日 - 2022年4月25日)は、日本の機械工学者、東北大学名誉教授。 おもちゃ工学で知られた。 長野県上伊那郡西春近村(現伊那市)生まれ。旧制伊那中学(長野県伊那北高等学校)を経て、1944年東北帝国大学工学部航空工学科卒。同特別研究生。1949年東北大学工学部機械工学科助教授、1957年東北大学工学博士。1961年工学部機械工学科教授、1985年定年退官、名誉教授、山形大学工学部教授。1996年勲三等旭日中綬章受勲。1998年東北大学機械系同窓会会長。
青砥 昇(あおと のぼる、1921年(大正10年)6月28日… 青砥 昇(あおと のぼる、1921年(大正10年)6月28日 - 1986年(昭和61年)5月4日)は日本の実業家。元山陰放送社長。 父は元米子信用金庫会長青砥喜三郎、弟は元米子信用金庫会長青砥順。 鳥取県米子市出身。旧制鳥取県立米子中学校、旧制広島高等学校を経て、1945年(昭和20年)京都帝国大学工学部卒業。1948年(昭和23年)米子大栄社長、昭和28年(1953年)ラジオ山陰(現:山陰放送)創設と同時に取締役に就任。1955年(昭和30年)常務取締役を経て昭和49年(1974年)山陰放送社長に就任。 1980年(昭和55年)~昭和61年(1986年)米子商工会議所副会頭のほか鳥取県経営者協会副会長、米子市監査委員、米子ライオンズクラブ会長、日本民間放送連盟理事、ビーエスエス企画・山陰興発・米子空港ビル各取締役などを歴任した。
田中 未来(田中 未來、たなか みき、女性、1921年6月2… 田中 未来(田中 未來、たなか みき、女性、1921年6月28日 - 1999年10月5日)は、日本の保育学者。哲学者田中王堂の一人娘(他の3人は夭折した)。 東京府東京市小石川区白山生まれ。1940年私立立教高等女学校卒業、1943年東京女子大学国語専攻部卒業、1946年早稲田大学文学部哲学科教育学専攻卒業、東京家庭学園助教授、1953年白梅保母学園教授、1955年白梅学園保育科教授、1957年白梅学園短期大学専任講師、1962年助教授、1965年教授、1983年学長。1989年退任。
松田 茂役(まつだ しげゆき、初名は茂行、1921年6月28… 松田 茂役(まつだ しげゆき、初名は茂行、1921年6月28日 - 1988年8月2日)は、将棋棋士。棋士番号は25。鳥取県鳥取市出身。A級在籍10期。金子金五郎九段門下。 (2025年10月2日現在) (2024年11月11日現在) この項目は、将棋の棋士(女流棋士・アマチュアを含む)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:ボードゲーム/プロジェクト:人物伝)。 (棋士番号の割り当てがない棋士 → 「template:日本将棋連盟引退棋士」参照)
植芝 吉祥丸(うえしば きっしょうまる、1921年6月27日… 植芝 吉祥丸(うえしば きっしょうまる、1921年6月27日 - 1999年1月4日)は武道家。日本の合気道の二代目の継承者。父は合気道開祖植芝盛平。次男は三代目道主植芝守央。 昭和20年代の合気会は新規の入門者が中々集まらず、塩田剛三の養神館道場に対して劣勢であった。吉祥丸はこの状況を挽回するために、 といった当時としては革新的な試みを行い、合気道の全国的な普及に成功した。現在合気会は合気道界で最大勢力の合気道統括組織であり、日本国内100万人・世界全体で160万人ともいわれる合気道人口の8割を占める。
菊池 徹(きくち とおる、1921年6月27日 - 2006… 菊池 徹(きくち とおる、1921年6月27日 - 2006年4月10日)は、日本の南極探検家。 1921年、兵庫県武庫郡鳴尾村(現・西宮市)に生まれる。大阪府立北野中学校卒業。中学時代より、登山部に入り登山活動を行う。浪人し、北海道大学予科に入学、1946年3月、北海道大学理学部地質学鉱物学科を卒業する。 大学卒業後、父親の経営する会社の役員につくも、地質学の知識が買われ、商工省の地質調査所に就職する。 1956年、第一次南極地域観測隊の隊員53名の一人に抜擢される。1957年1月29日、南極地域観測隊のメンバーが、南極の東オングル島に上陸する。昭和基地が設営され、菊池徹は、11名の南極越冬隊員の一人となり、1957年の『冬』の越冬活動に参加する。
小倉 志祥(おぐら ゆきよし、1921年6月27日 - 19… 小倉 志祥(おぐら ゆきよし、1921年6月27日 - 1996年5月11日)は、日本の倫理学者、哲学者。東京大学名誉教授。 1921年、愛知県生まれ。東京大学文学部哲学科で倫理学を専修し、1948年に卒業。同大学大学院に進学。 1955年、東京大学文学部非常勤講師に就いた。1957年より東京大学文学部専任講師。1963年に助教授、1971年に教授昇進。1982年、東京大学を定年退官し、名誉教授となった。その後は、1987年より大妻女子大学教授として教鞭をとった。学界では、日本倫理学会の代19代、代20代会長(1984年10月~1990年10月)をつとめた。 1996年、くも膜下出血のため死去。
白光 (はく こう、バイ・クァン、Bai Kwong、192… 白光 (はく こう、バイ・クァン、Bai Kwong、1921年〈民国10年〉6月27日 - 1999年8月27日)は、1940年代から1950年代にかけて活躍した中国の歌手・女優。七大歌后の1人。本名は史永芬。 一筋の白い光がスクリーンに映像を映し出す姿に強い印象を受けたことから芸名を白光とした。女優として『蕩婦心』『一代妖姫』『玫瑰花開』といった映画がヒット。1950年代末に芸能界を引退の後、マレーシアの首都クアラルンプールに移り住み、1999年8月27日に結腸癌で病死。 白光は本名を史永芬といい、1921年に京都市(現:北京市)で生まれた。女学校時代に史永芬は北平沙龍劇団という劇団で、端役ながら新劇女優として曹禺の『日出』などの作品の舞台に立っていた。
新堀 通也(しんぼり みちや、1921年6月26日 - 20… 新堀 通也(しんぼり みちや、1921年6月26日 - 2014年3月24日)は、日本の教育学者・社会学者。学位は、文学博士(広島大学・1961年)。広島大学名誉教授、武庫川女子大学名誉教授。 神戸市出身。第一神戸中学校(現兵庫県立神戸高等学校)・広島高等師範学校を経て、1942年10月広島文理科大学に入学。卒業直前の1945年8月6日に広島市への原子爆弾投下により被爆。同年9月広島文理科大学教育学科を卒業。稲富栄次郎に師事。卒業の翌日、広島女子高等師範学校教諭に就任、翌年広島高師助教授に転任。1951年、広島大学教育学部助教授に配置換えとなり、1971年同教授。1968年からは広島大学助教授併任のまま文部省社会教育官として3年間つとめ、広島大学では教育学部長・大学教育研究センター長などの役職を歴任。
大島 弘(おおしま ひろむ、1921年(大正10年)6月26… 大島 弘(おおしま ひろむ、1921年(大正10年)6月26日 - 1994年(平成6年)2月3日)は、昭和期の大蔵官僚、政治家、弁護士。衆議院議員(2期、日本社会党)。兄は第14代大阪市長の大島靖。 和歌山県、現在の田辺市出身。第三高等学校を経て、1942年(昭和17年)4月、東京帝国大学法学部に入学。1943年(昭和18年)12月、現役入営。1945年(昭和20年)8月、陸軍主計少尉に任官し予備役に編入され臨時召集。同年12月、召集解除となる。1947年(昭和22年)東京帝大法学部政治学科を卒業。同年4月、高等試験行政科・司法科に合格。 卒業後、1947年5月、大蔵省に入省して大蔵事務官に任官し専売局長官官房に配属された。
吉田 正己(よしだ まさみ、1921年6月26日 - 197… 吉田 正己(よしだ まさみ、1921年6月26日 - 1977年12月2日)は、ドイツ文学者。 北海道岩内郡共和町出身。浦和高等学校(旧制)卒、1948年東京帝国大学独文科卒。東京大学教養学部助教授、教授。1972年定年退官。 1977年12月2日、S字結腸癌のため死去。 フロイトなどを訳した。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
板橋 明治(いたばし めいじ、1921年〈大正10年〉6月2… 板橋 明治(いたばし めいじ、1921年〈大正10年〉6月25日 - 2014年〈平成26年〉12月24日)は、日本の農民運動家、政治家。毛里田村議会議員、太田市議会議員。毛里田村鉱毒根絶期成同盟会長として、足尾鉱毒問題の解決に奔走した。百年公害と言われた足尾鉱毒問題を解決に導き、幾多の指標的な成果を全国に提供したとされる。 1921年(大正10年)、群馬県山田郡毛里田村大字只上(現・太田市只上町)に、農業を営む板橋家の長男として生まれた。毛里田村の北側に、銅山と製錬所を擁する足尾山地を源流域とする渡良瀬川が、西から東へと流れている。その川は乳白色ににごり、毛里田の子供は川の水は、その色がもともとの川の水の色だと思って遊んだ。
大橋 智干(おおはし ともひさ、1921年6月25日 - 没… 大橋 智干(おおはし ともひさ、1921年6月25日 - 没年不明)は、山口県出身のプロ野球選手。
今村 充夫(いまむら みちお、1921年6月25日 - 20… 今村 充夫(いまむら みちお、1921年6月25日 - 2015年8月27日)は、日本の民俗学者、歌人。 朝鮮京畿道京城府(現・大韓民国ソウル特別市)生まれ。京城公立中学校(現・ソウル高等学校)卒。旧制國學院大學予科から学部国文学科卒。旧制福井県立小浜中学校教諭、新制若狭高校、石川県立各高等学校の教諭、教頭を経て、石川県立郷土資料館副館長、分館長。国立石川工業高等専門学校講師(1996年当時)。 加能民俗の会会長、石川県歌人協会会長、石川県立郷土資料館(石川県立歴史博物館の前身)副館長、日本民俗学会名誉顧問、金沢市文化財保護審議委員。国立民族学博物館国内資料調査委員。折口信夫に師事。1983年(62歳)の時に『日本の民間医療』弘文堂を公刊する。
福富 久夫(ふくとみ ひさお、1921年(大正10年)6月2… 福富 久夫(ふくとみ ひさお、1921年(大正10年)6月25日 - 没年不明)は、日本の造園学者、造園教育者。千葉大学名誉教授。元日本大学教授。工学博士(1973年5月 、東京大学) 。 東京の品川に生まれ、荏原郡大井町(現・品川区)で育つ。 1939年3月に東京府立化学工業学校(現・首都大学東京)を卒業後、翌年4月に千葉高等園芸学校園芸学科に入学、1942年9月に卒業する。その後、軍に招集された。 1945年12月、戦災復興院計画局施設課に入る。1947年4月に内務省国土計画課に移り、内務省の解体に伴い1948年7月からは建設省計画課勤務となる。 1949年9月、文部教官として千葉大学に出向する。
森田 俊男(もりたとしお、1921年6月25日 - 2010… 森田 俊男(もりたとしお、1921年6月25日 - 2010年8月29日)は、日本の教育研究者。平和・国際教育研究会代表。 戦後日本における平和教育をリードした。元国民教育研究所所長。「九条科学者の会」呼びかけ人を務めていた。
橋口 倫介(はしぐち ともすけ、1921年6月24日 - 2… 橋口 倫介(はしぐち ともすけ、1921年6月24日 - 2002年10月7日)は、日本の西洋史学者。上智大学名誉教授。元上智大学学長。勲二等瑞宝章受章。 1921年、東京府生まれ。1943年東京帝国大学西洋史学科繰り上げ卒業、海軍予備学生となる。 第二次世界大戦後復学し、1947年に東京大学大学院を修了。1951年より上智大学講師、1963年に同教授、1984年に学長となる。1992年に定年退職し、名誉教授。洗礼を受けたキリスト教徒であった。
牛島 盛光(うしじま もりみつ、1921年6月23日 - 2… 牛島 盛光(うしじま もりみつ、1921年6月23日 - 2004年10月27日)は、日本の民俗学者。 熊本県人吉市生まれ。早稲田大学文学部卒業。短期現役海軍主計科士官(11期)を志願し、1944年2月に海軍主計見習尉官となり海軍経理学校に入校。同年9月に経理学校を卒業し、同年12月、海軍主計少尉に任官。1945年9月に主計中尉に進んで予備役に編入された。 アトランタ大学(英語版)大学院修了。熊本短期大学助教授、教授、熊本商科大学教養部教授、1991年定年、熊本学園大学名誉教授。 2004年10月27日、膵臓癌のため死去。
浦 太郎(うら たろう、1920年〈大正9年〉7月22日 -… 浦 太郎(うら たろう、1920年〈大正9年〉7月22日 - 2017年4月)は、日本の数学者。 東京府(現・東京都)出身。 はじめは天文学者を志し萩原雄祐のもとで天文学を学んだが、その後数学に転向し福原満洲雄に師事した。力学系の関数解析の分野で先駆的な業績がある。 1951年9月に戦後第2回フランス政府給付留学生として渡仏したが、マルセイユ港に到着した際、当時マルセイユに滞在していた建築家の吉阪隆正が出迎え、パリに移ってから親交を深めた。帰国後に浦は吉阪に自邸の設計を依頼。1956年に完成した浦邸は、今日吉阪の代表作の1つとして評価されている。 長男浦環は、工学者で東京大学生産技術研究所教授。
山井 湧(やまのい ゆう、1920年7月22日 - 1990… 山井 湧(やまのい ゆう、1920年7月22日 - 1990年4月16日)は、中国思想学者、東京大学名誉教授。 1920年、兵庫県生まれ。中学四修で第一高等学校に入学した。卒業後は東京帝国大学支那哲学科に進学したが、1942年に学徒出陣のため繰り上げ卒業。軍隊では内地勤務であったため、戦後いち早く復員し、大学に戻った。 長く特別研究生、都立高校教諭としての勤務を経て、母校である東京大学文学部中国哲学研究室助手となった。1962年に中央大学助教授として着任。1964年、東京大学文学部助教授に就任。1971年に教授昇進。1981年に東京大学を定年退官し、名誉教授となった〔疑問ありーノート参照〕。その後は大東文化大学教授として教鞭をとり、文学部長も務めた。
金田 正泰(かなだ まさやす、旧姓:竹村、晩年の姓:小武内、… 金田 正泰(かなだ まさやす、旧姓:竹村、晩年の姓:小武内、1920年7月21日 - 1992年12月5日)は、京都府京都市出身の元プロ野球選手(外野手)・コーチ・監督、解説者。
小林 吉彦(こばやし よしひこ、1920年7月20日 - 2… 小林 吉彦(こばやし よしひこ、1920年7月20日 - 2013年2月18日)は、日本の経営者。フジサンケイグループ代表、ニッポン放送会長を務めた。 栃木県出身。1943年に慶應義塾大学法学部を卒業。三井精機、栃木労働基準局での勤務を経て、1954年にニッポン放送に転じ、1960年に産業経済新聞社への出向を経て、1961年にニッポン放送に復帰。1967年5月に取締役に就任し、1968年5月に常務に就任し、1969年5月に専務を経て、1977年6月から1986年6月までにサンケイビル社長を務めた。1992年7月から1993年7月までにフジサンケイグループ本社社長を務め、1993年6月から1997年6月までフジサンケイグループ代表とニッポン放送会長を務めた。
沢田 文吉(さわだ ぶんきち、1920年7月18日 – 20… 沢田 文吉(さわだ ぶんきち、1920年7月18日 – 2006年6月12日)は、日本の棒高跳び選手。 1940年代から1950年代にかけて活躍、日本陸上競技選手権大会優勝9回、アジア大会金メダル2回。1952年ヘルシンキオリンピックでは6位入賞を果たした。 岐阜市出身。1938年、旧制岐阜中学校(現在の岐阜県立岐阜高等学校)在学中、全国中等学校選手権(全国高等学校陸上競技対校選手権大会の前身)で110mハードル走に出場し優勝している(16.8秒)。 東京文理科大学(東京教育大学を経て筑波大学の前身となる官立大学)に進む。1942年、日本学生陸上競技対校選手権大会で優勝(4m00)。同年、日本陸上競技選手権大会で初優勝(4m10)。
服部 治則(はっとり はるのり、1920年(大正9年)7月1… 服部 治則(はっとり はるのり、1920年(大正9年)7月18日 - 2015年(平成27年)2月28日)は、日本の歴史学者・民俗学者である。山梨大学名誉教授。山梨郷土研究会常任理事。正四位。 三重県上野市(現伊賀市)に生まれる。1945年(昭和20年)に東京文理科大学(のちの東京教育大学)史学科国史科を卒業し、1947年には山梨師範学校(のちの山梨大学)助教授になる。山梨県の農村地域における柳田國男の調査にも同行している。 歴史学と民俗学の手法を組み合わせた歴史民俗学的アプローチの研究を行い、1950年代から60年代には山梨県独自の民俗事例として知られる親分子分慣行の研究を行う。これは非血縁の親子関係を結び、親分は子分に経済的庇護を加え子分は親分に対して奉仕する伝統的な人間関係で、服部はその起源を求め武田氏研究へと研究対象を移行する。
林 喜重(はやしよししげ、よししげ、1920年(大正9年)7… 林 喜重(はやしよししげ、よししげ、1920年(大正9年)7月17日 - 1945年(昭和20年)4月21日)は、日本の海軍軍人。海兵69期。大東亜戦争末期、戦闘機「紫電改」搭乗員として本土防空戦に参加。戦死による一階級昇進で最終階級は海軍少佐。 1920年(大正9年)7月17日、神奈川県鎌倉町浄明寺に生まれた。鎌倉町立第二尋常高等小学校、神奈川県立湘南中学校を卒業。1938年(昭和13年)4月、海軍兵学校69期に入校。母親は林が軍に入ってからは毎日裏山のお宮に参拝して無事を祈っていた。1941年(昭和16年)3月に同校を卒業、少尉候補生として練習艦隊の重巡「那智」乗組、練習航海に出発。4月、重巡「摩耶」乗組。
岡崎 功(おかざき いさお、1920年7月17日 - 200… 岡崎 功(おかざき いさお、1920年7月17日 - 2006年)は、日本の右翼活動家・教育者。島根県出身。昭和戦前期から占領期にかけて活動し、1945年に松江騒擾事件を起こした。別名岡崎允佐夫(おかざき いさお)。 松江騒擾事件とは島根県庁の焼き討ち事件で、1945年8月24日、終戦に不満をもった岡崎らが「聖戦続行、昭和維新政府樹立」を要求して皇国義勇軍と名乗り、島根県知事公舎、発電所、新聞社等を襲撃した。襲撃後、皇国義勇軍は罪を不問とする条件で投降したが、岡崎は戦時騒擾罪等で無期懲役となって服役した。1952年、サンフランシスコ平和条約発効等による恩赦で出所。その後、1961年に学校法人淞南学園、現立正大学淞南高等学校を創立して理事長となり、長く学校の経営にあたった。
藤井 貞夫(ふじい さだお、1920年7月16日 - 199… 藤井 貞夫(ふじい さだお、1920年7月16日 - 1997年4月28日)は松下電工代表取締役相談役、合成樹脂工業協会会長。 1935年に松下電器製作所に入社。1963年に松下電工に移籍し取締役となる。1971年に常務取締役、1977年に専務取締役、1981年に代表取締役副社長を経て、1985年3月に代表取締役社長に就任。1989年2月に代表取締役会長。1992年1月11日に亡くなった丹羽正治名誉会長の葬儀・告別式の委員長を務め、同年、代表取締役相談役に退く。 1997年4月28日午前4時10分に脳出血の為死亡。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
富原 孝(とみはら たかし、1920年7月15日 - 200… 富原 孝(とみはら たかし、1920年7月15日 - 2006年3月8日)は、北海道出身の詩人、ジャーナリスト、国際芸能プロモーター。 若い頃からヴァレリーやリルケに傾倒。金子光晴に師事し、新聞記者のかたわら、河邨文一郎らと同人を結成し、詩を次々に発表。特に、アイヌ・コシャマインの戦いを題材にした長篇叙事詩『クオンタインとシクフ』は傑作とされる。「野性」「至上律」「ポエム」「核」同人。1957年に、「赤い呼び屋」と称された神彰のアート・フレンド・アソシエーション(AFA)に参画。制作部長として、木原啓允、工藤精一郎らとともに神彰を支え、数々の国際プロモーションを行う。 1920年、北海道七飯村(現七飯町)の農家に、父輝美、母志づの長男として生まれる。
中村 浩(なかむら ひろし、1920年7月15日 - 198… 中村 浩(なかむら ひろし、1920年7月15日 - 1985年8月23日)は、日本の国文学者、歌人。 大阪市生まれ。本名・米島勉。父は書道家で大阪朝日新聞にも勤務した中村眉山(本名は平三)。父親が阪田の書の代筆をしていた関係で、晩年の阪田三吉と交流があり、のちにその思い出をもとに阪田の27回忌(1972年)に、それを記念した『実録王将伝』を執筆、のちに『棋神・阪田三吉』として刊行した。 國學院大學文学部国文学科卒。折口信夫、金田一京助に師事。戦後、関西大学、薫英学園で教職につき、その後、大阪府議会事務局、四天王寺女子大学、羽衣学園短期大学、辻調理師学校に勤務。
稲葉 義男(いなば よしお、1920年7月15日 - 199… 稲葉 義男(いなば よしお、1920年7月15日 - 1998年4月20日)は、日本の俳優。本名:稲葉 吉久。 千葉県成田市宗吾出身。日本大学専門部芸術科(現・芸術学部)卒業。劇団俳優座に所属していた。 芸術小劇場在籍中に応召。1950年俳優座に入り、『三文オペラ』『桜の園』などの舞台に立った。映画では『七人の侍』で副将格として勘兵衛を補佐する五郎兵衛役を演じた他、多くの作品に出演し名脇役として活躍した。また、『ダイヤル110番』や『ザ・ガードマン』での刑事役や警備員役などテレビドラマにも多く出演した。時代劇では善人役での出演が多いが、悪役として出演することもあった。 1998年4月20日、心筋梗塞のため東京都杉並区の病院で死去。
油屋 亮太郎(あぶらや りょうたろう、1920年(大正9年)… 油屋 亮太郎(あぶらや りょうたろう、1920年(大正9年)7月15日 - 1996年(平成8年)11月9日)は、昭和から平成時代の政治家。長崎県平戸市長。平戸市名誉市民。 平戸市出身。長崎県立中学猶興館卒業。 1955年(昭和30年)から平戸市議会議員4期、1971年(昭和46年)から長崎県議会議員を2期務め、1983年(昭和58年)平戸市長に当選し、4期務めた。4期目の1996年(平成8年)、在職中に死去した。
髙村 健一郎(たかむら けんいちろう、1920年(大正9年)… 髙村 健一郎(たかむら けんいちろう、1920年(大正9年)7月14日 - 2006年(平成18年)2月14日)は、日本の財務官僚、日本専売公社職員。 福岡県大牟田市出身。1938年福岡県中学修猷館、1940年旧制福岡高等学校文科甲類を経て、1942年東京帝国大学法学部政治学科を卒業。 1942年に高等試験行政科に合格し、9月に大蔵省に入省したが、短期現役海軍主計科士官(9期)を志願し、同年9月に補修学生として海軍経理学校に入校。1943年(昭和18年)1月、海軍主計中尉に任官し経理学校を卒業し、長崎監督官事務所に配属。1944年(昭和19年)3月、海軍省主計局契約部第6課に転じ原価計算を担当。
井手 文子(いで ふみこ、1920年7月13日 - 1999… 井手 文子(いで ふみこ、1920年7月13日 - 1999年12月10日)は、日本の近代女性史研究家。 東京府東京市本郷区(現・東京都文京区本郷)生まれ。自由学園高等部卒業。在学中、羽仁五郎を囲む世界史研究講座に参加し、1945年治安維持法により検挙される。戦後は民主主義科学者協会(略称:民科)に所属して1948年の婦人問題研究会(1957年 日本女性史研究会に発展、1963年ごろ 活動停止)の結成に参加、松下圭一らと1960年現代婦人問題研究会(1969年解散)にも参加。平塚らいてうや雑誌「青鞜」の研究、『伊藤野枝全集』(學藝書林)の編纂を行った。1961年に刊行した『青鞜』(弘文堂)では、従来は平塚らいてうを中心として研究されていた青鞜社を、集団としての女性解放運動の視点からとらえ直した画期的な研究書として支持を得た。