井上 孝(いのうえ たかし、1915年8月2日 - 2002… 井上 孝(いのうえ たかし、1915年8月2日 - 2002年6月17日)は、日本の小説家。 山口県生まれ。早稲田大学仏文科卒業。『早稲田文学』に小説を発表し、1940年「ある市井人の一生」で芥川賞候補。戦後は『早稲田文学』の編集に携わりながら作家活動をおこなった。 2002年6月17日、肺炎のため山口県下関市の病院で死去。86歳没。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
広田 幸一(廣田 幸一、ひろた こういち、1915年8月2日… 広田 幸一(廣田 幸一、ひろた こういち、1915年8月2日 - 2013年6月4日)は、日本の政治家、参議院議員(1期、日本社会党)。 鳥取県鳥取市出身。関西大学専門部中退。陸軍に入り、ソ連軍に抑留され、1948年復員。日本通運に入り、同社の労働組合で活動する。鳥取県議を5期務め、1977年の参院選で鳥取地方区から日本社会党公認で立候補して自民党候補などを破り当選する。国会内では災害対策特別委員長を歴任した。1983年の参院選で落選。 2013年6月4日死去、97歳。死没日をもって正八位から正五位に叙される。
児玉 三夫(こだま みつお、1915年8月1日 - 1996… 児玉 三夫(こだま みつお、1915年8月1日 - 1996年9月23日)は、日本の教育学者。 鹿児島県鹿児島市春日町出身。東京帝国大学(現 東京大学)文学部教育学科卒業。明星大学第2代学長。いわき明星大学創設者、初代学長。長兄は小原一夫、次兄は鰺坂二夫。兄たちが歴史学、地理学、哲学に関心をもっていたため、強く影響を受ける。また、叔父の小原国芳が京都帝国大学で哲学を学び、成城学園の幹部として活躍していたことも影響し、歴史学、地理学、哲学に興味を抱くようになる。京都にするか東京にするかの選択に悩み、結局は東京の文学部の教育学を専攻したことが「回想 教育と私」に記されている。 小学校3年までは鹿児島女子師範学校の付属小学校にて過ごし、3年の途中で私立成城小学校に転校後、中学、高校とも成城で過ごす。
今井田 勲(いまいだ いさお 1915年8月1日 – 198… 今井田 勲(いまいだ いさお 1915年8月1日 – 1989年6月24日)は鹿児島県出身の編集者。 鹿児島県熊毛郡南種子町(種子島)生まれ。旧制中学校時代、今井田榕舟(ようしゅう)の名で自由律短歌を制作し、雑誌にたびたび入選。 1936年日本大学芸術科卒業。1938年、400倍以上の競争率を突破して主婦之友社(現在の主婦の友社)に入社。初代社長石川武美と『主婦の友』編集長本郷保雄に鍛えられる。『主婦之友花嫁講座』全12巻や『続主婦之友花嫁講座』全8巻、『世界名作家庭文庫』全50巻で成功を収める。 数年後に、主婦の友社・講談社・新潮社などの出資で設立された大東亜出版に出向、内閣情報局が大東亜共栄圏のための青年向けに発行した雑誌『ヒカリ』の編集長となる。
小平 忠(こだいら ただし、1915年8月1日 - 2000… 小平 忠(こだいら ただし、1915年8月1日 - 2000年12月3日)は、日本の政治家。衆議院議員(11期)。正三位勲一等。北海道空知郡栗沢町(現・岩見沢市)出身。民主党元衆議院議員で、野田内閣 (第3次改造)で国家公安委員長を務めた小平忠正は実子。 現在の岩見沢市栗沢町茂世丑地区で、戊辰戦争に敗れ北海道に開拓に入った貧しい家庭に生まれた。 1941年に日本大学経済科を卒業後、出征し南方戦線より帰還した。その後、郷里の北海道へ戻り、北海道農協中央会専務理事を経て、1949年、農民新党公認で第24回衆議院議員総選挙に北海道第4区より立候補し初当選。以後通算当選11回。農民協同党→協同党→右派社会党→日本社会党を経て民社党の結成に参加。
村井 長正(むらい ながまさ、1915年(大正4年)7月30… 村井 長正(むらい ながまさ、1915年(大正4年)7月30日 - 1997年(平成9年)5月29日)は、昭和期の侍従、華族(男爵)。加賀八家村井家第13代当主。 加賀藩重臣村井家第12代当主、村井長八郎男爵の子として金沢市に生まれる。1945年(昭和20年)12月15日、父の死去に伴い男爵を襲爵した。 東京帝国大学文学部を卒業。1940年(昭和15年)5月に東宮傅育官となり、東宮侍従。1947年(昭和22年)、故博恭王一年祭に際して皇后宮使の役を務めた。その後、侍従職侍従、皇子傅育官等を歴任した。1965年(昭和40年)、宮内庁を退官し日本大学で倫理学の教鞭をとった。 1997年(平成9年)5月29日未明、自宅において就寝中火災に遭い死去した。
工藤 甲人(くどう こうじん、本名:工藤 儀助(くどう ぎす… 工藤 甲人(くどう こうじん、本名:工藤 儀助(くどう ぎすけ)、1915年7月30日 - 2011年7月29日)は、日本の画家、日本画家。創画会会員。東京芸術大学名誉教授、沖縄県立芸術大学客員教授。 青森県弘前市出身。1934年に上京し、翌年から川端画学校日本画科に入学。岡村葵園や福田豊四郎に師事した。1962年、弘前市から神奈川県平塚市に転居。1971年東京芸術大学助教授、1978年同教授。1983年定年退官後、名誉教授。1988年、沖縄県立芸術大学客員教授。2002年、神奈川県庁に飾られていた工藤の作品が盗難の被害に遭った。2011年7月29日、老衰のため神奈川県平塚市で死去。95歳没。 自然の昆虫や小動物、植物の葉などを繊細な描線で描き、その周りを群青などの単色の岩絵具で色面を大きく取り、装飾的に感じるような構図が特徴とされる。
玉城 康四郎(たまき こうしろう、1915年 <大正4年> … 玉城 康四郎(たまき こうしろう、1915年 <大正4年> 7月29日 - 1999年 <平成11年> 1月14日)は、日本の仏教学者。東京大学名誉教授。世界各地の宗教を研究した。位階は従四位。 熊本県熊本市の浄土真宗の門徒の家に生まれ、熊本中学校卒。高校時代から禅、真宗の師につく。1936年第五高等学校(現・熊本大学)卒、1940年東京帝国大学文学部印度哲学科卒業、大学院に進む。1942年10月召集を受け、敗戦を迎えて熊本の専門学校で教えたあと、1951年再上京し大学院に復帰。 1954年東洋大学文学部勤務。1959年「天台実相観における心の捉え方の問題」で東京大学より文学博士の学位を取得。同年東京大学文学部印度哲学科助教授、1964年教授、1976年定年退官、名誉教授、東北大学教授。
田辺 節郎(たなべ せつろう、1915年7月29日 - 20… 田辺 節郎(たなべ せつろう、1915年7月29日 - 2013年7月10日)は、日本の経営者。アルナ工機社長、宝塚音楽学校校長を務めた。山梨県出身。創業者である小林一三の甥。 1938年に慶應義塾大学経済学部を卒業し、同年に阪神急行電鉄(現在の阪急電鉄)に入社。1959年に宝塚映画製作所代表取締役に就任し、1971年から1975年までに阪急電鉄監査役、1974年から1983年までにアルナ工機社長、1985年から1991年までに宝塚音楽学校校長を歴任した。 2013年7月10日心不全のために死去。97歳没。
具 喆会(ク・チョルェ、朝鮮語: 구철회/具喆會、1915年… 具 喆会(ク・チョルェ、朝鮮語: 구철회/具喆會、1915年7月26日または1918年 - 1965年1月27日)は、日本統治時代の朝鮮の独立運動家、大韓民国のジャーナリスト、実業家、政治家。第4代韓国国会議員。本貫は綾城具氏。 日本統治時代の京畿道水原出身。本籍地はソウル。中央大学予科、立教大学文学部卒。日本統治時代には抗日闘争により3年間投獄された。解放後は漢城日報政治経済部長、民衆日報幹部、水原新聞社社長、政界春秋社社長、国際ニュース社社長、自由新聞社常務取締役を務めた。政界入りした後は民主党中央委員・宣伝部次長・龍仁郡党委員長・京畿道党副委員長を歴任し、1958年の第4代総選挙で民主党の候補として龍仁郡選挙区から当選したが、後は民主党を離党し自由党に移籍した。
大原 亨(おおはら とおる、 1915年7月25日 - 19… 大原 亨(おおはら とおる、 1915年7月25日 - 1990年4月7日)は、日本の政治家。衆議院議員(11期、日本社会党)。 広島県豊田郡本郷町(現三原市)出身。1942年中央大学法学部卒。卒業後は読売新聞社に勤務する。戦後、小学校教員になり、広島県教職員組合委員長や日教組書記次長などを歴任。1952年の第25回衆議院議員総選挙に広島1区で左派社会党より立候補し落選。1955年の第27回衆議院議員総選挙でも落選した。1958年の第28回衆議院議員総選挙において日本社会党公認で立候補して当選。以後連続当選11回を数えた。 1975年2月に広島市長選に出馬し、落選している。 1990年1月の第39回衆議院議員総選挙に立候補せず、政界引退。
毛利 昌三(もうり しょうぞう、1915年7月24日 - 1… 毛利 昌三(もうり しょうぞう、1915年7月24日 - 1999年6月22日)は、日本の教育学者。 熊本県に生まれる。熊本県立玉名中学校、第五高等学校を経て、東京帝国大学文学部を卒業した。 東大卒業後の1940年から東京大学航空研究所航空心理部員となる。 戦後の1947年から熊本師範学校教諭となり、学制改革後の1949年からは熊本大学助教授に移る。1965年に岡山大学教育学部教授に就任した。1980年に退官し、名誉教授となる。その後、ノートルダム清心女子大学教授を1985年まで務めた。この間、1975年にNHK厚生文化事業団より研究奨励賞を受賞している。 その他の役職として日本精神薄弱研究協会評議員や岡山心理学会会長なども歴任した。
吉田 猪佐喜(よしだ いさき、1915年7月24日 - 19… 吉田 猪佐喜(よしだ いさき、1915年7月24日 - 1982年4月10日)は、熊本県出身のプロ野球選手。ポジションは外野手。1950年から1952年までの登録名は吉田 和生(よしだ かずお)。
矢田 俊隆(やだ としたか、1915年〈大正4年〉7月23日… 矢田 俊隆(やだ としたか、1915年〈大正4年〉7月23日 - 2000年7月14日)は、日本の歴史学者・政治学者、北海道大学名誉教授。中欧史を研究。 1915年、三重県桑名市生まれ。1938年、名古屋市の第八高等学校 (旧制)卒業。東京帝國大学文学部に進み、西洋史を専攻する。1938年、東京帝國大学文学部を卒業し、同大学院へ進学。1940年、東京帝國大学大学院文学研究科を修了し、同文学部の副手となる(1943年まで)。 日本大学、東京女子大学などの講師を経て、1949年に成蹊大学政治経済学部教授に就く。1950年、北海道大学法経学部教授となり、1953年の学部改組に伴い法学部教授となった。1957年以降、同大学スラブ研究センター研究員を併任する。
清藤 三津郎(せいとう みつろう、1915年(大正4年)7月… 清藤 三津郎(せいとう みつろう、1915年(大正4年)7月23日 - 2001年(平成13年)11月25日)は、昭和から平成時代前期の政治家。歯科医師。青森県黒石市長。位階は従五位。勲三等瑞宝章。 青森県南津軽郡黒石町前町(現黒石市)に生まれる。日本大学第二中学校を経て、1941年(昭和16年)東京歯科医学専門学校を卒業し、翌年の1942年(昭和17年)に故郷で歯科医を開業する。1948年(昭和23年)南津軽郡歯科医師会会長を経て、1951年(昭和26年)黒石町議会議員に当選。1954年(昭和29年)7月、合併を経て黒石市議会議員となる。1955年(昭和30年)同議長に選ばれ、1967年(昭和42年)まで通算4期市議を務めた。
永井 典彦(ながい のりひこ、1915年7月23日 - 20… 永井 典彦(ながい のりひこ、1915年7月23日 - 2003年1月21日)は、日本の経営者。大阪商船三井船舶(現在の商船三井)社長、会長を務めた。 東京都出身。1944年に東京商科大学を卒業し、同年に三井物産に入社。1942年に三井船舶に転じ、1968年5月に大阪商船三井船舶取締役に就任し、1971年5月に常務、1973年11月に専務を経て、1976年6月に社長に就任。1980年6月に会長に就任し、1984年6月には相談役に就任。 1977年7月に運輸大臣表彰を受け、1978年11月に藍綬褒章を受章し、1985年11月に勲二等旭日重光章を受章し、1989年11月に文部大臣表彰を受けた。 2003年1月21日肺炎のために死去。
斎藤 玄(さいとう げん、1914年8月22日 - 1980… 斎藤 玄(さいとう げん、1914年8月22日 - 1980年5月8日)は、北海道出身の俳人。本名・俊彦。 北海道函館市春日町(現青柳町)に生まれる。祖父斎藤又右衛門は末広町で呉服屋を営み、函館銀行初代頭取や函館商工会議所初代会長などを務めた地元財界の大物だった。父俊三は咀華と号した画家で、二科展に属し川端龍子や斎藤五百枝らと交流があったが、4歳のときに死別した。親類に上田敏がいる(祖父の妹の夫)。 函館中学校、早稲田大学商科卒。大学在学中、新興俳句に惹かれたことから従兄の杉村聖林子に誘われて「京大俳句」に参加し西東三鬼に師事。当初は三樹雄と号した。1938年、旧北海道銀行に入社。1940年、郷里で「壷」を創刊するが、4年後に休刊。
徳末 知夫(とくすえ ともお、1914年8月22日 - 20… 徳末 知夫(とくすえ ともお、1914年8月22日 - 2006年1月29日)は、日本の実業家。帝人代表取締役社長を務めた。 日本統治時代の台湾で生まれる。1938年神戸商業大学(現神戸大学)卒業、帝国人造絹絲入社。戦時中は陸軍主計大尉。戦後復帰し 1957年帝国人造絹絲テトロン販売部次長。1959年帝国人造絹絲テトロン販売部長。1961年帝国人造絹絲企画部長。1962年帝人ニューヨーク出張所長。1965年帝人取締役。1969年帝人常務取締役。1980年から帝人代表取締役社長を務めた。それまでの拡大路線で積み上がった不採算事業の整理を実施。一気に二十件以上の事業や海外案件から撤収するとともに、医療・医薬事業を次世代の成長事業として位置づけ、現在の事業構造の原型を築いた。
金原勇(きんぱら いさむ、1914年8月22日- )は、日本… 金原勇(きんぱら いさむ、1914年8月22日- )は、日本の陸上競技選手・体育学者、筑波大学名誉教授。 旧姓・加島。東京文理科大学卒。1936年全日本陸上競技選手権大会走高跳優勝。1973年「筋の力の出し方に関する基礎的研究 Eccentricな筋力の特性について」で東邦大学医学博士。東京教育大学助教授、教授、スポーツ研究所長、筑波大学体育科学学系長。78年定年退官、筑波大学名誉教授。武蔵野体育研究所主宰。体育原理、バイオメカニクス、陸上競技、トレーニング、コーチングほか。
井上 増吉(いのうえ ますきち、1914年〈大正3年〉8月2… 井上 増吉(いのうえ ますきち、1914年〈大正3年〉8月21日 - 2010年〈平成22年〉10月24日)は、昭和から平成時代の政治家。兵庫県小野市長。位階は従五位。 兵庫県小野市出身。旧制小野中学校(現在の兵庫県立小野高等学校)を卒業。1939年(昭和14年)日本大学商経学部経済科卒業。同年日本放送協会に入った。その後、1946年(昭和21年)、山陽利器に入社した。さらに、1951年(昭和26年)、小野町立病院に入った。そして、1952年(昭和27年)明石市役所に奉職し収入役を務めた。 1976年(昭和51年)の小野市長選挙に立候補して、保守・革新双方の推薦を得て、共産党が支持する新人を破って初当選を果たした。
藤田 宗一(ふじた そういち、 1914年8月20日 - 1… 藤田 宗一(ふじた そういち、 1914年8月20日 - 1980年9月3日)は、大阪府大阪市出身のプロ野球選手(外野手)・コーチ・監督。
早坂 文雄(はやさか ふみお、1914年8月19日 - 19… 早坂 文雄(はやさか ふみお、1914年8月19日 - 1955年10月15日)は、日本の作曲家である。宮城県仙台市出身。 1914年(大正3年)、宮城県仙台市東一番丁(現・青葉区)で、早坂順之助・ふみ江の子として生れる。兄弟姉妹は兄(夭折)、弟、妹2人がおり、他に順之助と先妻との間に生まれた異母兄がいた。早坂家は代々宮城県志田郡三本木町の地主の家系で、祖父の代までは裕福だったと言われるが、父(順之助)の代には没落していた。1918年(大正7年)4月頃に北海道札幌市南7条西7丁目(現・中央区)に転居した。ただし、本人は生涯にわたって故郷は北海道ではなく宮城県であるという意識を持っていたという。家庭はこれといって音楽的環境ではなかったが、父は日本画をたしなみ、早坂も旧制・北海中学校(現北海高等学校)入学時には洋画家になろうと思っていたが、15歳の頃から作曲家を志すようになった。
神前 善一(こうざき よしかず、1914年8月19日 - 1… 神前 善一(こうざき よしかず、1914年8月19日 - 1984年2月6日)は、日本の経営者。和歌山県出身。 1932年に和歌山商業学校を卒業し、同年に松下電工に入社。1947年7月に取締役に就任し、1955年1月に常務、1964年9月に専務を経て、1977年2月には社長に就任。1982年2月から副会長を務めた。 1984年2月6日急性心筋梗塞のために死去。69歳没。
河村 勝夫(かわむら かつお、1914年 <大正3年> 8月… 河村 勝夫(かわむら かつお、1914年 <大正3年> 8月18日 - 2002年 <平成14年> 9月13日)は、日本の経営者。フジクラ社長、会長を務めた。位階は従四位。 山口県出身。1939年に東京商科大学を卒業し、同年に藤倉電線(のちのフジクラ)に入社。1967年11月に取締役に就任し、1971年11月に常務、1973年11月に専務を経て、1976年12月には社長に就任。1982年6月に会長に就任し、1991年6月から相談役を務めた。 1980年4月に藍綬褒章を受章し、1985年11月に勲三等旭日中綬章を受章。 2002年9月13日肺炎のために死去。88歳没。死没日付をもって従四位に叙された。
佐野川谷 安太郎(さのがわや やすたろう、1914年(大正3… 佐野川谷 安太郎(さのがわや やすたろう、1914年(大正3年)8月17日 - 2013年(平成25年)8月18日)は日本の実業家、元佐野安船渠(現・サノヤスホールディングス)社長、会長。大阪府大阪市出身。趣味は、ゴルフ。
土方 三郎(ひじかた さぶろう、1914年8月16日 - 2… 土方 三郎(ひじかた さぶろう、1914年8月16日 - 2002年9月19日)は、日本の経営者。日東電気工業(現:日東電工)社長を務めた。山口県萩市出身。 1935年に高松高等商業学校を卒業し、日立製作所での勤務を経て、同年に日東電気工業(のちの日東電工)に入社。1949年に取締役に就任し、1957年に常務、1961年に専務、1971年11月に副社長を経て、1974年6月に社長に就任。1985年6月に会長に就任し、1989年6月には相談役に就任。 1985年4月に勲三等旭日中綬章を受章。 2002年9月19日老衰のために死去。88歳没。
野澤 晁(のざわ あきら[要出典]、1914年8月15日ー2… 野澤 晁(のざわ あきら[要出典]、1914年8月15日ー2000年5月13日[要出典])は、広島県出身のサッカー選手、日本代表選手(全日本)。フォワード。野澤正雄は実兄。 広島高等師範附属中学(現広島大学附属高校)から1933年、早稲田大学へ入学。早稲田大学ア式蹴球部で、川本泰三、堀江忠男、加茂健、加茂正五、西邑昌一らと関東大学リーグを四連覇、東京大学ア式蹴球部黄金期後の早稲田大学黄金時代に貢献した。 大学在学中の1934年には日本代表に選出され、第10回極東選手権大会(マニラ)出場。足を痛めていた川本に次ぐフォワードとして全3試合にフル出場。第2戦のフィリピン代表戦では、相手に胸を蹴られて肋骨が折れ、意識を無くすほどの重症を負ったが、逆転の決勝ゴールを叩き込むなど3試合3得点を決めた。
延命 直松(えんめい なおまつ、1914年8月14日 - 1… 延命 直松(えんめい なおまつ、1914年8月14日 - 1997年7月10日)は、日本の経営者。アサヒビール社長を務めた。石川県鹿島郡鹿島町(現在の中能登町)出身。 旧制四高を経て1939年に京都帝国大学経済学部を卒業し、同年に住友銀行に入行し、取締役、常務を歴任した。1971年に朝日麦酒専務に就任し、副社長を経て、1976年2月に社長に昇格した。1982年3月に取締役相談役を経て、1983年3月から相談役を務めた。 1984年11月に勲三等瑞宝章を受章した。 1997年7月10日心筋梗塞のために死去。82歳没。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
花房 英樹(はなふさ えいじゅ/ひでき、1914年8月14日… 花房 英樹(はなふさ えいじゅ/ひでき、1914年8月14日 - 1998年1月9日)は、日本の漢文学者。京都府立大学名誉教授。 1914年、鳥取県鳥取市で生まれた。広島文理科大学大学院を修了。 1949年、西京大学助教授に就いた。後に教授昇格。1959年に校名変更となり、以降京都府立大学教授。1961年、学位論文『白氏文集の批判的研究』を広島大学に提出して文学博士号を取得。在職中は学部長も務めた。停年を迎え、名誉教授となった。その後は京都産業大学教授として教鞭をとり、図書館長も務めた。1985年に京都産業大学を退職。 1998年、肺炎のため死去。
草川 俊(くさかわ しゅん、1914年8月13日 - 200… 草川 俊(くさかわ しゅん、1914年8月13日 - 2000年3月6日)は、日本の作家。宮城県石巻市に生まれる。宇都宮高等農林学校(現在の宇都宮大学農学部)卒業。本名:高橋善三郎。1958年、『黄色い運河』、『長城線』、1964年、『赤い運河』、それぞれ直木賞候補。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
伊村 光(いむら ひかり、1914年8月12日 - 1996… 伊村 光(いむら ひかり、1914年8月12日 - 1996年10月15日)は、日本の銀行家。山口銀行頭取を務めた。 山口県出身。1935年に山口高等商業学校を卒業し、同年に百十銀行に入行。1944年3月に山口銀行に転じ、1960年4月に取締役、1967年4月に常務、1970年4月に専務を経て、1974年5月には頭取に就任。1992年6月から会長を務めた。 1983年4月に勲三等瑞宝章を受章。 1996年10月15日呼吸不全のために死去。82歳没。
近岡 善次郎(ちかおか ぜんじろう、1914年(大正3年)8… 近岡 善次郎(ちかおか ぜんじろう、1914年(大正3年)8月10日 - 2007年(平成19年)6月3日)は、日本の洋画家。 1914年(大正3年)山形県新庄市に生まれる。1931年(昭和6年)山形県立新荘中学校(現・山形県立新庄北高等学校)を卒業。1933年(昭和8年)文化学院美術部にて、石井柏亭、有島生馬、山下新太郎に学ぶ。1946年(昭和21年)一水会優賞を受賞。1956年(昭和31年)文部省留学生として渡欧した後、帰国。1960年(昭和35年)一水会会員となる。1961年(昭和36年)太平洋地域絵画展に日本代表として出品(「飛びの森の天狗」)。1963年(昭和38年)第6回安井賞受賞。
今野 圓輔(こんの えんすけ、本名は圓助、1914年8月10… 今野 圓輔(こんの えんすけ、本名は圓助、1914年8月10日 - 1982年7月31日)は、日本の民俗学者、毎日新聞社員。 福島県出身。1941年慶應義塾大学文学部国文学科卒業。佐藤信彦、折口信夫から民俗学の薫陶を受けるとともに、柳田國男に師事。毎日新聞社に勤務しつつ、日本民俗学会評議員などを歴任。1947年民俗学研究所設立の際に牧田茂、直江広治らと共に実務面で尽力した。
後藤田 正晴(ごとうだ まさはる、1914年8月9日 - 2… 後藤田 正晴(ごとうだ まさはる、1914年8月9日 - 2005年9月19日)は、日本の内務・警察・防衛・自治官僚、政治家。
若松 光一郎(わかまつ こういちろう、本名みついちろう、19… 若松 光一郎(わかまつ こういちろう、本名みついちろう、1914年8月8日 - 1995年11月7日)は、日本の洋画家。コラージュの世界的第一人者。 「大地の歌」。グスタフ・マーラーの「大地の歌」を聞きながら、チベットの古代壁画のイメージで描いた150号超を3枚組み合わせた大作である。 東京国立近代美術館、福島県立美術館、いわき市立美術館、郡山市美術館、そしてアートスペースエリコーナに彼の作品が置かれている。
ジュリアーナ・ストラミジョーリ(Giuliana Stram… ジュリアーナ・ストラミジョーリ(Giuliana Stramigioli、1914年8月8日 ローマ - 1988年7月25日 ローマ) はイタリアの日本学者、実業家。ローマ・ラ・サピエンツァ大学教授。『将門記』の研究者。勲三等宝冠章受章。 1914年8月8日、ローマ生。 1936年、ローマ・ラ・サピエンツァ大学にて学位取得。指導教官はジュゼッペ・トゥッチ。同年、第一回日伊交換留学生として京都帝国大学に留学し、日本語と仏教美術を研究する。2年後イタリアに帰国し、ナポリ大学にて教鞭を執るが、その1年後に国際文化振興会(国際交流基金の前身)の奨学金を得て再び日本に留学する。 1936年から1940年の間、ジャーナリズムの分野で盛んに活動。
伊原 徳栄(いはら とくえ、1914年8月6日 - )は、福… 伊原 徳栄(いはら とくえ、1914年8月6日 - )は、福井県出身のプロ野球選手。
村上 素男(むらかみ もとお、1914年8月6日 - 200… 村上 素男(むらかみ もとお、1914年8月6日 - 2004年5月11日)は、日本の経営者、銀行家。東京都民銀行頭取を務めた。 東京都出身。1938年に東京帝国大学法学部法律学科を卒業し、同年に日本興業銀行に入行。1962年に取締役、1965年に常務を経て、1972年2月に東京都民銀行専務に就任し、1973年5月に副頭取を経て、1976年8月には頭取に就任。1979年6月から1982年6月までに会長を務めた。1983年3月から1988年3月に日本銀行政策委員を務めた。 1980年11月に藍綬褒章を受章。 2004年5月11日心不全のために死去。89歳没。
大島 信太郎(おおしま しんたろう、1914年8月5日 - … 大島 信太郎(おおしま しんたろう、1914年8月5日 - 1995年2月24日) は、日本の技術者。国際電信電話副社長や、電気通信学会会長、テレビジョン学会会長などを歴任した。紫綬褒章受章。 1940年九州帝国大学工学部電気工学科卒業、国際電気通信入社。名古屋大学工学部助教授を経て、1950年電気通信研究所入所。喜安善市の下で研究に従事した。1954年国際電信電話入社。1962年九州大学工学博士。国際電信電話取締役研究所長を経て、1977年国際電信電話副社長、電気通信学会会長。1979年テレビジョン学会会長。独創的電気通信研究を行った。紫綬褒章、勲三等旭日中綬章受章。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。
永松 英吉(ながまつ ひできち、男性、1914年8月4日 -… 永松 英吉(ながまつ ひできち、男性、1914年8月4日 - 1992年11月18日)は、日本の元アマチュアボクシング選手。ベルリンオリンピックライト級日本代表。明治大学卒業。歌手の菅原都々子は妻。 大学時代、1934年から3年連続で全日本選手権ライト級に優勝を収めた。 1936年、ベルリンオリンピックにライト級の日本代表として出場し、1回戦にポイント勝ちを収め、2回戦でこの大会の銀メダリストとなるニコライ・ステパロフ(英語版)(エストニア)との対戦にポイント負けとなった。 この項目は、ボクシング関係者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJボクシング/PJキックボクシング)。
岩崎 寿男(いわさき ひさお、1914年8月3日 - 200… 岩崎 寿男(いわさき ひさお、1914年8月3日 - 2005年10月24日)は、日本の実業家。元三菱自動車工業顧問。 近藤宏太郎の四男として新潟県に生まれた(出生地は東京府…現:東京都)。1937年京都帝国大学工学部機械工学科を卒業し、三菱重工業に入社。岩崎俊弥(旭硝子創業者)の三女・温子と結婚し、俊弥未亡人(すなわち妻・温子の母)八穂の婿養子となった。 名古屋航空機製作所、名古屋発動機製作所、静岡発動機製作所、川崎機器製作所勤務を経て東京自動車製作所に転じる。1958年10月同所川崎製造部長に、1965年3月川崎自動車製作所副所長に就任。1967年5月同所長となったが、同年妻・温子に先立たれた。
岡田 茂(おかだ しげる、1914年〈大正3年〉8月3日 -… 岡田 茂(おかだ しげる、1914年〈大正3年〉8月3日 - 1995年〈平成7年〉7月20日)は、日本の実業家。三越社長(1972年 - 1982年)。 1972年から老舗百貨店・三越の社長を10年務めて「流通界の革命児」と呼ばれたが、一方で三越社内にワンマン体制を敷いて「岡田天皇」とも呼ばれるほどの権勢をふるった。愛人の竹久みちへの不正な利益供与など背任行為問題を起こしたことで、1982年の「三越事件」により社長職を解任され、後に特別背任で逮捕、裁判で有罪判決を受けるなど、明暗二様を生きた。 京都府京都市で生まれた。父親は雅号を紫郊といい、京友禅染めの下絵描きだったが、岡田が生まれてまもなく上京。
岡田 又三郎(おかだ またさぶろう、1914年8月2日 - … 岡田 又三郎(おかだ またさぶろう、1914年8月2日 - 1984年3月2日)は、昭和期の洋画家、日展理事。東京都出身。荒削りの大胆な技法で背景の省略された処理の巧みさと、伝統的な写実性を兼ね備えた風格ある画風が特徴。岡田三郎助、浦和画家の寺内萬治郎に師事。1965年にフランスのサロン・ドートンヌで日本人初の金賞を受賞、フランス政府から芸術勲章を授与された。 親しい友人に、三木武夫がいる。
大江 季雄(おおえ すえお、1914年(大正3年)8月2日 … 大江 季雄(おおえ すえお、1914年(大正3年)8月2日 - 1941年(昭和16年)12月24日)は、日本の元陸上競技選手。元棒高跳日本記録保持者。1936年ベルリンオリンピック銅メダリスト。京都府舞鶴市出身。旧制舞鶴中学校(京都府立西舞鶴高等学校)、慶應義塾大学卒業。 1935年、第6回国際学生陸上(ブダペスト)で4m10をマークし準優勝した。1936年、4m34の日本新記録を樹立。同年、ベルリンオリンピックで4m25の記録で西田修平と2・3位を分け合い、帰国後にお互いのメダルを切断して「銀・銅2色の友情のメダル」を作成した美談は有名であり、西田は大江を銅メダルながら2位の表彰台に立たせたと言う。
木下 順二(きのした じゅんじ、1914年〈大正3年〉8月2… 木下 順二(きのした じゅんじ、1914年〈大正3年〉8月2日 - 2006年〈平成18年〉10月30日)は、日本の劇作家、評論家。代表作に『夕鶴』がある。日本劇作家協会顧問。母方の伯父は佐々醒雪(俳人、国文学者)。著名な進歩的文化人(戦後民主主義者)であった。 東京市本郷区(現・東京都文京区本郷)生まれ。父は熊本県伊倉町長を務めた木下弥八郎、祖父は玉名郡長・衆議院議員を務めた木下助之。異母兄は天文学者の木下國助、異母姉・静は侍従次長の木下道雄に嫁いだ。第二女子師範附属小学校を経て郷里熊本市に戻る。実家は祖父の代まで惣庄屋を務めた熊本の名家だった。旧制熊本中学(現熊本県立熊本高等学校)、第五高等学校を経て1936年、東京帝国大学文学部英文科に入学し、中野好夫の指導でシェイクスピアを専攻した。
福田 克美(ふくだ かつみ、1914年8月1日 - 1987… 福田 克美(ふくだ かつみ、1914年8月1日 - 1987年8月28日)は、日本の実業家。日本ガイシ取締役社長や、同社取締役会長を務めた。 岐阜県立本巣中学校(現岐阜県立本巣松陽高等学校)を経て、1936年東亜同文書院卒業、日本碍子入社。第一業務部次長を経て、1956年取締役に昇格。1962年常務取締役。1966年専務取締役。1969年取締役社長。1972年藍綬褒章受章。1977年取締役会長。1979年紺綬褒章受章。
梶川 静雄(かじかわ しずお、1914年(大正3年)8月1日… 梶川 静雄(かじかわ しずお、1914年(大正3年)8月1日 - 1978年(昭和53年)2月9日)は、昭和期の労働運動家、実業家、政治家。衆議院議員(1期)。 鳥取県気高郡鹿野町(現鳥取市鹿野町)で、梶川俊造の四男として生まれる。鳥取第二中学校(現鳥取県立鳥取東高等学校)、第六高等学校を経て、1924年(大正13年)九州帝国大学法文学部法律科を卒業。 その後、満洲国の大同学院を卒業し、満洲国国務院官吏となった。その後、徴兵されて終戦を迎え、日本に帰国した。鳥取県労働組合会議顧問、日本農民組合鳥取県支部連合会顧問、日本社会党鳥取支部書記長などを務めた。 1947年(昭和22年)4月、第23回衆議院議員総選挙に鳥取県全県区から日本社会党公認で出馬して当選し、衆議院議員に1期在任した。
長岡 三重子(ながおか みえこ、1914年〈大正3年〉7月3… 長岡 三重子(ながおか みえこ、1914年〈大正3年〉7月31日 - 2021年〈令和3年〉1月19日)は、日本の女子水泳選手、実業家、能楽師。 1914年7月31日、山口県徳山市(現在の周南市)で、商家の7人兄弟の次女として生まれる。勉強熱心な家庭で山口県立徳山高等女学校(現在の山口県立徳山高等学校)に進学。同校を卒業したのち、1938年(昭和13年)、23歳の時に長岡守治と結婚し、藁工品の卸問屋「田布施長岡本店」に嫁ぐ。その後、守治との間に2人の子(二男)を授かり、専業主婦として一家を支え続けた。 1968年(昭和43年)、夫・守治が56歳で死去。53歳で家業を継ぐこととなったが、当時藁工品から化学製品への移行期で藁工品は斜陽になりつつあった。
立原 道造(たちはら みちぞう、1914年〈大正3年〉7月3… 立原 道造(たちはら みちぞう、1914年〈大正3年〉7月30日 - 1939年〈昭和14年〉3月29日)は、昭和初期に活躍し、24歳8か月で急逝した日本の詩人。建築家としての足跡も残した。別筆名(旧制一高時代の短歌投稿時に使用)に、三木祥彦・山木祥彦がある。東京帝国大学工学部建築学科卒業、学位(当時は称号)は工学士(東京帝国大学)。東大建築学科在学中の3年間、同学科より辰野賞を連続受賞、詩作では1938年に中原中也賞を受賞。 東京都中央区に生まれた。東京府立三中で芥川以来の秀才と称された。一高在学中に三中の先輩でもある堀辰雄を知り、また室生犀星に師事。東大在学中の夏に、信濃追分に滞在、土地の旧家の孫娘に恋をする。
上林 吾郎(かんばやし ごろう、1914年7月30日 - 2… 上林 吾郎(かんばやし ごろう、1914年7月30日 - 2001年6月21日)は、日本の経営者。文藝春秋社長、会長を務めた。京都府京都市出身。 1939年に早稲田大学文学部国文科を卒業し、同年に文藝春秋新社に入社。 出版部長、「文学界」・「オール讀物」・「週刊文春」・「文藝春秋」各編集長を経て、1961年に取締役に就任し、専務、副社長を経て、1984年6月に社長に就任。1988年5月には会長に就任。 2001年6月21日、肺炎のために死去。86歳没。