玉木 英彦(たまき ひでひこ、1909年9月26日 - 20… 玉木 英彦(たまき ひでひこ、1909年9月26日 - 2013年)は、日本の物理学者・科学史家。
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玉木 英彦(たまき ひでひこ、1909年9月26日 - 20… 玉木 英彦(たまき ひでひこ、1909年9月26日 - 2013年)は、日本の物理学者・科学史家。
吉藤 幸朔(よしふじ こうさく、1909年 <明治42年> … 吉藤 幸朔(よしふじ こうさく、1909年 <明治42年> 9月26日 - 1995年 <平成7年> 3月11日)は、日本の法学者。元通産官僚。位階は正四位。 吉藤の主要著作である『特許法概説』は、1968年に初版が発行されたもので、実務に重点を置き、通常の法律書とやや異なる構成を採るものの、日本の特許法についての基本書とされる。以後、改訂を加えて1994年12月には第10版に達し、吉藤の没後も、熊谷健一の補訂により1998年11月発行の第13版まで刊行が続けられた。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
岩月 達夫(いわつき たつお、1909年〈明治42年〉9月2… 岩月 達夫(いわつき たつお、1909年〈明治42年〉9月26日 - 1980年〈昭和55年〉8月25日)は、日本の経営者。日本電装(現在のデンソー)社長を務めた。 愛知県出身。1930年に名古屋高等商業学校を卒業。 日本火災海上保険、トヨタ自動車工業での勤務を経て、1949年12月に日本電装取締役に就任し、1951年10月に常務、1955年12月に専務、1962年8月に副社長を経て、1967年2月に社長に就任。1973年2月には会長に就任した。 1973年4月に藍綬褒章を受章。 1980年8月25日、肺炎のために死去。70歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
横山 光雄(よこやま みつお、1909年9月25日 - 20… 横山 光雄(よこやま みつお、1909年9月25日 - 2010年10月20日)は、日本の造園家、造園学者。大学教員として造園都市計画教育に関わり、他方で戦前の旧満洲国の各都市の都市計画、千里ニュータウン計画、駒沢オリンピック公園建設、旧運輸省観光支援策・離村再生・レクリエーション整備、など関与。千葉大学、東京大学、日本大学で教鞭を執る。1969年から1971年まで、日本造園学会会長を務めた。 神奈川県横浜市出身。1930年(昭和5年)、駒場時代の東京帝国大学農学部農学科に入学、丹羽鼎三の園芸第二研究室に入り、1933年(昭和8年)大学院に進学、造園学を学ぶ。 1935年(昭和10年)大学院修了後、埼玉県に2年間奉職し、また東京緑地計画協議会に関与し、東京緑地計画の立案作業に従事。
小林 清周(こばやし せいしゅう、1909年9月25日 - … 小林 清周(こばやし せいしゅう、1909年9月25日 - 1994年)は、日本の建設官僚、建築生産・建築計画学者。建設省営繕局計画課長・技官、大阪工業大学工学部建築学科元教授、建築学教室担当。日本建築学会建築経済委員会専門委員、鴻池組取締役を歴任した。 専門は、建築生産・建築物維持管理、建築計画。 新潟県高田市(現・上越市)出身。1934年に東京工業大学建築学科を卒業後、海軍技師に。小林の就職時の逸話として「清水建設を30秒で落ち、 海軍省を30秒で合格」して海軍省に入った、というのがある。これは清水建設の面接の際に途中で社長が入ってきたときだれだかわからず、挨拶をしなかったところ、専務から「君は請負に向かない」と断られ、その話を海軍省の面接でするとその場で合格となったということからきている。
中村 貞一(なかむら さだいち、1909年9月24日 - 没… 中村 貞一(なかむら さだいち、1909年9月24日 - 没年不明)は、日本の林学者、造園学者。 京都大学、島根県立島根農科大学(現在の島根大学生物資源科学部)、信州大学、名城大学などで長く教育と研究にあたる。専門は防火樹に関する実験的研究であるが、別に観光レクリエーションと日本庭園史を手がけた。 1929年、第八高等学校文科乙類を卒業する。東京帝国大学法学部法律学科に進学するが、結核にかかり1935年に中途退学した。療養後の1942年9月から京都帝国大学に入学し、1945年、京都帝国大学農学部林学科を卒業した。同年より京都大学農学部助手(演習林、造園学教室)を経て1953年に京都大学講師となる。
岡倉 士朗(おかくら しろう、1909年9月24日 ‐ 19… 岡倉 士朗(おかくら しろう、1909年9月24日 ‐ 1959年2月22日)は、日本の演出家。美術史家の岡倉天心の甥。 新築地劇団、ぶどうの会と民衆芸術劇場(のち劇団民藝)と渡り、歌舞伎やオペラなどの演出にも携わった。 東京市本郷区丸山新町(現・文京区白山)出身。 立教大学在学中の1929年に発足した新築地劇団に参加する。演出は土方与志から指導を受けた。大学卒業後も引き続き劇団に在籍した。新築地劇団在籍中に『土』(長塚節作、1937年)や『綴方教室』(豊田正子作、1938年3月)を演出して評価を受ける。1940年8月に新築地劇団を退団するが、治安維持法違反で[要出典]検挙され、翌年保釈された。
鴨 良弼(かも よしすけ、1909年〈明治42年〉9月23日… 鴨 良弼(かも よしすけ、1909年〈明治42年〉9月23日 - 1994年〈平成6年〉5月4日)は、日本の法学者・裁判官・教育者。刑事訴訟法学者。東北大学名誉教授。東北大学法学部教授を経て、一橋大学法学部で刑事訴訟法講座の初代教授を務めた。 1909年、福島県石城郡湯本町生まれ。1929年、青山師範学校を卒業。卒業後は、東京の旧制尋常小学校に教員として勤務した。1940年、司法試験(旧制)合格。九州帝國大学法文学部に入学し、1941年に卒業。司法修習生(旧制)となる。 1942年、東京地方裁判所判事。1944年からは秋田地方裁判所判事。その後、仙台地方裁判所判事を経て、1952年東北大学法学部助教授に着任。
大谷 省三(おおたに せいぞう、1909年9月23日 - 1… 大谷 省三(おおたに せいぞう、1909年9月23日 - 1994年5月6日)は、日本の農業経済学者、東京農工大学名誉教授。子は大谷禎之介。 島根県出身。東京帝国大学卒。帝国農会などで日本農業の生産力構造などを研究。東京農工大学助教授。1951年、教授。1972年、退官、岐阜経済大学教授。マルクス主義農業経済学者で、1963年には農業問題研究会議の創設に加わる。日本農業経済学会会長。 1958年に大躍進政策が行われている中華人民共和国を訪問し、試験田で敷き詰められた稲の上に乗った経験から、毛沢東らが主導した「密植」の成果であると主張したが、当時の中国では他の場所で育てた苗を敷き詰めるなどの偽装が頻繁に行われていた(実際には「密植」は植物の生態を全く無視した疑似科学であり、これらの誤った農業指導が中華人民共和国大飢饉をもたらして大量の死者を出している)。
川島 奈美子(かわしま なみこ、1908年10月22日 - … 川島 奈美子(かわしま なみこ、1908年10月22日 - 没年不詳)は、日本の女優である。川島 なみ子(かわしま なみこ)とも。本名高野 千代(たかの ちよ)。 1908年(明治41年)10月22日、東京市神田区(現在の東京都千代田区神田)に生まれる。 神田錦町の正則英語学校中等科(現在の正則学園高等学校)を4年次で修了し、1925年(大正14年)、東亜キネマ甲陽撮影所に入社する。満18歳となる1926年(大正15年)、西本武二監督の『漁村の唄』で映画界にデビュー、同作で注目される。1927年(昭和2年)、同社が甲陽撮影所を閉鎖、等持院の「東亜キネマ京都撮影所」に製作拠点の一元化にともない、京都に異動する。
馬屋原成男(うまやはら しげお、1908年10月21日-19… 馬屋原成男(うまやはら しげお、1908年10月21日-1984年9月18日)は、刑法学者。東京出身。東京帝国大学法学部独法科卒。刑事法学専攻。弁護士となり、その後東京高等検察庁検事。1964年駒澤大学法学部教授、79年定年退任。 江戸時代のわいせつ文書の研究もおこないわいせつ罪についても論文がある。墓所は多磨霊園。
鏡山 猛(かがみやま たけし、1908年 <明治41年> 1… 鏡山 猛(かがみやま たけし、1908年 <明治41年> 10月20日 - 1984年 <昭和59年> 10月24日)は、日本の考古学者。位階は正五位。 福岡県浮羽郡田主丸町(現・久留米市)生まれ。1932年九州帝国大学法文学部史学科卒。1934年九州帝大法文学部助手、1936年講師。その後兵役につき、1946年公職追放、1951年解除。1952年九州大学文学部助教授を経て、1958年九州大学考古学講座初代教授。1972年に定年退官、名誉教授、太宰府に新設の九州歴史資料館の館長に就任、約10年間務めた。1965年レジオン・ドヌール勲章、1972年西日本文化賞受賞、1980年勲三等瑞宝章受勲。1984年死去。
山添 三郎(やまぞえ さぶろう、1908年〈明治41年〉10… 山添 三郎(やまぞえ さぶろう、1908年〈明治41年〉10月20日 - 2007年〈平成19年〉1月15日)は、日本の生化学者、エスペラント学者、医師。医学博士。群馬大学名誉教授、世界エスペラント協会名誉会員。元日本エスペラント学会参与。 新潟県新潟市田中町(現 新潟市中央区田中町)出身。1925年(大正14年)3月に新潟中学校を4年で修了(四修)、1928年(昭和3年)3月に新潟高等学校を卒業、1932年(昭和7年)3月に新潟医科大学を卒業。 1932年(昭和7年)4月に新潟医科大学医化学教室助手に就任、1937年(昭和12年)1月に日本労働科学研究所に入所、4月に新潟医科大学から医学博士の学位を取得、1939年(昭和14年)9月に満州の満鉄開拓科学研究所に入所、1942年(昭和17年)2月に北京大学衛生学教授に就任、1945年(昭和20年)に太平洋戦争に陸軍軍医として応召、青島で終戦、最終階級は陸軍軍医少尉、1947年(昭和22年)11月に北海道の三菱美唄労働科学研究所に主任として入所。
尾本 信平(おもと しんぺい、明治41年(1908年)10月… 尾本 信平(おもと しんぺい、明治41年(1908年)10月17日 - 平成11年(1999年)4月19日)は、三井金属(現・三井金属鉱業)社長・会長・名誉相談役。位階は従三位。
尾高 邦雄(おだか くにお、1908年10月17日 - 19… 尾高 邦雄(おだか くにお、1908年10月17日 - 1993年9月11日)は、日本の社会学者。東京大学文学部名誉教授。子爵・渋沢栄一の孫にあたる。 1908年、実業家・尾高次郎の五男として東京市根岸に生まれた。1926年に東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業。附属中の同級生には、勝田守一、宗像誠也(共に「東大教育の3M」)らがいた。第二高等学校を経て、東京帝国大学文学部社会学科に入学。次第にマックス・ウェーバーに関心を持つようになった。1932年に卒業論文『社会学における了解的方法』を提出して卒業。 卒業した同1932年に、母校・東京帝国大学文学部副手に採用された。
宮本 顕治(みやもと けんじ、1908年〈明治41年〉10月… 宮本 顕治(みやもと けんじ、1908年〈明治41年〉10月17日 - 2007年〈平成19年〉7月18日)は、日本の政治家・共産主義者・文芸評論家。通称ミヤケン。 戦前の非合法政党時代からの日本共産党の活動家であり、戦後、1958年に党の書記長に就任してから40年間、日本共産党を指導した。参議院議員(2期)を務め、日本共産党書記長、同委員長、同議長を歴任。国会に議席を持つ国政政党の党首でありながら、国会議員ではなかった時期がある。 山口県熊毛郡光井村(現・光市)出身。父は、隣の島田村で米穀、肥料、雑貨などの小売商を営んでいたが、中学入学当時に破産状態になり、都濃郡富田村(現・周南市)にあった母の実家に預けられ、そこから中学に1年くらい通った。
板垣 與一(いたがき よいち、1908年 <明治41年> 1… 板垣 與一(いたがき よいち、1908年 <明治41年> 10月15日 - 2003年 <平成15年> 8月28日)は、日本の経済学者、国際政治学者。1932年に旧制東京商科大学を卒業。以後同大学(のち一橋大学)を研究拠点とし、戦前は植民地政策を研究領域として南方軍占領地の軍政に関与。戦後はアジア政治経済を研究領域とし、アジア経済研究所の設立を提言した。1972年亜細亜大学教授、経済学部長。1988年八千代国際大学初代学長。1972年一橋大学名誉教授。1980年勲二等瑞宝章受章。1984年経済社会学会会長。位階は正四位。 1908年、富山県射水郡新湊町(現射水市)の漁師の家に生まれた。1921年に富山県立高岡甲種商業学校(現富山県立高岡商業高等学校入学。
相馬 遷子(そうま せんし、1908年10月15日 - 19… 相馬 遷子(そうま せんし、1908年10月15日 - 1976年1月19日)は、日本の俳人、医師。本名は相馬富雄。 長野県出身。東京帝国大学医学部卒。 水原秋櫻子に俳句の指導を受け、1940年より「馬酔木」同人。1945年より同人会長。同時に1938年から「鶴」同人、石田波郷に兄事する。同年斎藤玄の斡旋で句集『草枕』を出版。故郷の自然を詠み堀口星眠、大島民郎などとともに馬酔木高原派と呼ばれたが、山本健吉は遷子の句に他の「高原派」にはない、「鶴」との関わりからくる境涯性を指摘している。以後の句集に『山国』(1956年。一般にはこれが第一句集とされている)、『雪嶺』(1969年)、『山河』(1976年)、『相馬遷子全句集』(1982年)がある。
小川 芳男(おがわ よしお、1908年10月15日 ‐ 19… 小川 芳男(おがわ よしお、1908年10月15日 ‐ 1990年7月31日)は、日本の英語学者。東京外国語大学名誉教授。神田外語大学初代学長。日本語教育学会初代会長。 岡山県生まれ。東京外国語学校英語科卒。戦後、東京外国語大学助教授、1955年教授、1961年学長。NHKラジオ「基礎英語」を長く担当した。 1972年、中央教育審議会の委員に就任。1977年初代日本語教育学会副会長。 発音を重視した英語教授法を広めた人物として一般に知られている。英語教育においては「語学の学習は根本的には誤りをおかさせないようにすることが大切である。(中略)間違ったことは、耳にも聞かせず口にも発音させず目にも見せず手でも書かせないようにしなければならない(中略)たとえば生徒に英語を音読させる場合でも最後まで黙って聞いていてそれから強制するのではなく、間違いを犯した場合はただちにその場で矯正するようにしなければならない」という考えを一般に広めている。
秘田 余四郎(ひめだ よしろう、1908年10月15日 - … 秘田 余四郎(ひめだ よしろう、1908年10月15日 - 1967年9月18日)は、字幕翻訳家、翻訳家、小説家。本名・姫田 嘉男(ひめだ よしお)。 徳島県板野郡一条村(現・阿波市)生まれ。幼時一家で上京。東京府立第四中学校中退、成城中学校卒業、1931年東京外国語学校フランス語卒業。1936年東和商事映画部に入社し、フランス映画を始めとする字幕作成に活躍。1938年に解雇され、「香具師もの」小説を書く。1940年陸軍通訳。仏印へ渡り、字幕翻訳を中華電影で続け、上海で高見順と知り合い生涯の友となる。敗戦で鎌倉へ引き揚げ。また、海外小説の翻訳(一部、姫田嘉男名義)もおこなった。 RKOの作品を中心に外国映画をテレビ局に配給する企業、日本テレピックスを設立したが、同社は秘田の死後に倒産し、秘田の弟によって東京放映として再興されたが、彼が山田かつらの一人娘と結婚したことがきっかけで鬘の卸売業を始めたことで東京放映の事業は縮小されてしまったと同社で働いていた諸橋健一は述べている。
松野 幸泰(まつの ゆきやす、1908年(明治41年)10月… 松野 幸泰(まつの ゆきやす、1908年(明治41年)10月13日 - 2006年(平成18年)5月22日)は、日本の政治家。岐阜県知事、自由民主党衆議院議員。孫は自民党衆議院議員の棚橋泰文。妻は43年間穂積村・町長(現:瑞穂市)を務めた松野友。子に元岐阜県議会議員松野幸昭と前瑞穂市長の松野幸信がいる。 岐阜県本巣郡穂積村(現・瑞穂市)出身。名古屋育英商業学校(現:東邦高校)卒業、岐阜県農業講習所(現:岐阜農林大学校)入所。その後、兵役を経て、家業の農業に従事した後、1933年(昭和8年)9月「松野メリヤス」を創業。 穂積村会議員で、戦時中は翼壮の構成員となる。そのため戦後は公職追放を受ける。追放解除後は岐阜県会議員、岐阜県議会議長を経て、1958年(昭和33年)10月、岐阜県知事選に出馬し初当選。
松本 秋男(まつもと あきお、1908年〈明治41年〉10月… 松本 秋男(まつもと あきお、1908年〈明治41年〉10月13日 - 1992年〈平成4年〉1月2日)は、日本の工学者・元官僚。工学博士。北海道大学名誉教授、元北見工業大学学長、元電気通信学会副会長。北海道札幌市出身。 1931年(昭和6年)北海道帝国大学工学部を卒業し、逓信省入省。国際電気通信(現KDDI)技術研究所長などを経て、1947年(昭和22年)北海道大学工学部教授。1959年(昭和34年)電気通信学会副会長。1970年(昭和45年)北海道大学停年退官。同名誉教授。1970年(昭和45年)北見工業大学理事・北見工業大学2代学長に就任。1978年北見工業大学退官。 電気工学を専門とし、伝達回路網学を研究。
星川 長七(ほしかわ ちょうしち、1908年10月13日 -… 星川 長七(ほしかわ ちょうしち、1908年10月13日 - 1996年9月17日)は、日本の法学者。 山形県新庄市出身。早稲田大学法学部卒業。早稲田大学法学部教授を務めた後、1987年から1991年まで初代駿河台大学学長を務めた。1980年、勲三等瑞宝章を受章。1996年9月17日、腎不全のため死去。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。 この項目は、法学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝)。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
加藤 高蔵(高藏、かとう たかぞう、1908年(明治41年)… 加藤 高蔵(高藏、かとう たかぞう、1908年(明治41年)10月12日 - 1968年(昭和43年)7月13日)は、昭和期の酒造家、政治家。衆議院議員(7期)。 茨城県東茨城郡吉田村(現水戸市元吉田町)で、酒醸業・加藤鉄之介の長男として生まれる。水戸工業学校(現茨城県立水戸工業高等学校)を経て、1931年(昭和6年)明治学院高等商業部(現明治学院大学)を卒業した。家業を継いで、茨城県酒造組合連合会長、明利酒類取締役社長などを務めた。 1942年(昭和17年)吉田村長に就任し、その後再選され、1946年(昭和21年)4月の第22回衆議院議員総選挙に茨城県選挙区から日本進歩党公認で出馬して初当選。
八島 光(やしま みつ、英語: Yashima Mitsu … 八島 光(やしま みつ、英語: Yashima Mitsu 1908年10月11日 - 1988年12月7日)は、日本出身でアメリカ合衆国で活動した芸術家(画家)、活動家。夫(のち事実上離婚)は八島太郎。子女として信(マコ岩松)と八島桃(本名:岩松桃子)がいる。本名は笹子智江(八島太郎との結婚後は岩松姓)で、「新井光子」を名乗った時期もある。 1908年に母の実家のあった東京市赤坂で生まれる。8人きょうだい(上4人が女子、下4人が男子)の次女だった。父の笹子謹(ひとし)は千葉県出身で大阪高等工業学校卒業後、大阪鉄工所(現・日立造船)に就職し、光の出生当時は広島県因島にある備後船渠に勤務していた。
竹内 壽平(たけうち じゅへい、1908年〈明治41年〉10… 竹内 壽平(たけうち じゅへい、1908年〈明治41年〉10月11日 - 1989年〈平成元年〉11月3日)は、静岡県浜名郡小野口村大字小松(現浜松市浜名区小松)出身の検察官。プロ野球コミッショナー。位階は正三位。 第八高等学校を経て東京帝国大学法学部卒。法務省刑事局長、法務事務次官。東京高検検事長を経て1970年より3年間、検事総長を務める。法務省時代、馬場義続の知遇を得る。法務事務次官時代に田中伊三次法務大臣が馬場の後の検事総長に竹内を起用する案を持っていたが、竹内は法務・検察の序列を軽視した人事では検事長クラスの中に辞表を提出する者が出て混乱すると進言し、田中は断念した。 退官後にスイスのジュネーブで開かれた国際会議に政府代表団団長として出席した。
上村 悦子(うえむら えつこ、1908年10月11日 - 1… 上村 悦子(うえむら えつこ、1908年10月11日 - 1999年2月12日)は、日本の国文学者。専門は王朝女流文学、特に『蜻蛉日記』。日本女子大学名誉教授。 京都市生まれ。1933年日本女子大学校大学本科文学科国文学部卒業。1943年日本女子大学校国文学部教員。1948年日本女子大学専任講師、1949年助教授、1958年教授。1964年「蜻蛉日記 校本・書入・諸本の研究」で名古屋大学文学博士。1977年日本女子大を定年退職、名誉教授、東洋女子短期大学教授、図書館長。1986年教授職を退職し、翌年東洋女子短期大学を退職。1982年勲四等宝冠章。没後、従五位を贈られた。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。
肥沼 信次(こえぬま のぶつぐ、1908年10月9日 - 1… 肥沼 信次(こえぬま のぶつぐ、1908年10月9日 - 1946年3月8日)は、日本の医学者。第二次世界大戦後のドイツで医療活動に尽力し、現地で病没した。ヴリーツェン市名誉市民、医学博士(ベルリン大学) 1908年、東京の八王子の外科医・肥沼梅三郎とハツの次男(長男とも)として生まれる。父・梅三郎は済生学舎に学んだ軍医で、八王子市中町で医院を開業していた。信次の妹の梅治はのちに、子爵で日本医科大学細菌学研究所員の花園公栄に嫁いだ。 東京府立二中(現立川高校)を卒業後医学を志し、日本医科大学から東京帝国大学放射線研究室へと進み、1937年、日本政府の国費留学生としてドイツに渡り、ロベルト・コッホ研究所を経てベルリン大学医学部放射線研究室の客員研究員となる。
川平 朝申(かびら ちょうしん、1908年10月9日 - 1… 川平 朝申(かびら ちょうしん、1908年10月9日 - 1998年8月20日)は沖縄民政府の官僚、放送局経営者、民俗学者。戦後沖縄にはじめて日本語放送局(ラジオ)を開局し、戦後沖縄文化復興に貢献。 沖縄のアナウンサー第一号となり、後に沖縄放送協会会長となった川平朝清は実弟。甥はタレントの川平慈英。 伊江御殿支流向氏伊江殿内の家系である(伊江殿内の家祖は御殿四世:向嘉続・伊江按司朝敷の四男、向和声・伊江朝叙。1835年に川平姓に改め川平殿内となる。)。 沖縄県立第二中学校(沖縄県立那覇高等学校)卒業。戦前、台湾総督府情報部でラジオ番組の制作に従事。戦争中、台湾軍に従軍。戦後、引き上げの際、大量の日本語図書を焼け野原になった沖縄に持ち帰る。
冨田 恒男(とみた つねお、1908年<明治41年>10月8… 冨田 恒男(とみた つねお、1908年<明治41年>10月8日 - 1991年<平成3年>6月23日)は日本の生理学者。医学博士。慶應義塾大学医学部名誉教授で医学部長を務めた。アメリカ合衆国のイェール大学名誉教授。眼の網膜の情報処理機構の研究で知られ、視覚神経生理学、感覚生理学の世界的権威とされる。1972年(昭和47年)、紫綬褒章受章。1978年(昭和53年)、勲二等瑞宝章受章。位階は従四位。愛知県岡崎市出身。
野村 良雄(のむら よしお、1908年10月8日 - 199… 野村 良雄(のむら よしお、1908年10月8日 - 1994年2月4日)は、日本の音楽学者、キリスト教学者。音楽美学のほか、キリスト教の典礼などを研究、音楽学会会長。カトリック教徒。 東京出身。東京帝国大学文学部美学科を卒業。上智大学教授、慶應義塾大学教授、東京藝術大学教授、1984-93年東邦音楽大学学長。
津峯山 政雄(つみねさん まさお、1908年10月8日 - … 津峯山 政雄(つみねさん まさお、1908年10月8日 - 没年不明)は、昭和時代の大相撲力士。出羽海部屋所属。本名は岩戸 政雄。最高位は十両4枚目。 徳島県阿南市出身。出羽海部屋に入門し、1926年5月に序ノ口に就く。1933年5月十両に昇進。この場所3勝8敗と負け越し、幕下に落ちる。1934年5月に十両に復帰。しかし、この場所から3場所続けて負け越し、十両で一度も勝ち越すことなく再び幕下に落ち、1938年5月で廃業した。
井上 晴丸(いのうえ はるまる、1908年10月7日 - 1… 井上 晴丸(いのうえ はるまる、1908年10月7日 - 1973年10月5日)は、日本の農業経済学者。 山口県出身で税関長などを務めた井上徳太郎の二男として兵庫県神戸市中山手通二丁目の税関官舎で生まれる。 五高を経て、1934年東京帝国大学農学部農業経済学科卒、農林省に入る。立田信夫の筆名で講座派マルクス主義の立場から協同組合論などを展開。1938年に中華民国出張、39年から興亜院技師、43年に帰国、農林省米穀利用研究所技師。戦後の1946年農政局経営課長となり農地改革を進めるが49年レッドパージで農林省を追われ、10年間東畑精一会長の農業発達史調査会メンバーとして「日本農業発達史」の編集、執筆に従事。
気賀 健三(きが けんぞう、1908年〈明治41年〉10月6… 気賀 健三(きが けんぞう、1908年〈明治41年〉10月6日 - 2002年〈平成14年〉2月15日)は、日本の経済学者、慶應義塾大学名誉教授。 同じく経済学者であった気賀勘重の子として東京に生まれる。1930年慶應義塾大学経済学部経済学科卒業、同学部助手。1937年同助教授、1942年教授。1956年、「社会的進歩の原理 : 経済政策原理の社会哲学的研究」で慶應義塾大学より経済学博士を取得。1974年定年退職、名誉教授、成城大学教授。学校法人桑沢学園理事長、教科書正常化国民会議会長[要出典]。 はじめソ連経済を研究し、ソ連、東欧研究会代表理事だったが、スタンスは反共主義で民主社会主義研究会議理事であった。
三代目 市川 段四郎(いちかわ だんしろう、1908年(明治… 三代目 市川 段四郎(いちかわ だんしろう、1908年(明治41年)10月5日 - 1963年(昭和38年)11月18日)は大正から昭和期の歌舞伎役者。本名は喜熨斗 政則(きのし まさのり)。屋号は澤瀉屋。定紋は三升の中に段の字、替紋は八重澤瀉。東京市浅草区生まれ。 猿之助一座で幹部として活躍したが病に倒れ、長男が三代目市川猿之助を襲名するのを見届けると、父の初代市川猿翁の後を追うようにして死去した。 趣味は音楽。住所は東京市京橋区(現・東京都中央区)明石町。 夫人は女優の高杉早苗で、その間に2男1女。長男が二代目市川猿翁、次男が四代目市川段四郎。長女は市川靖子、その元夫は俳優の川合伸旺。
清水 将夫(、1908年〈明治41年〉10月5日 - 197… 清水 将夫(、1908年〈明治41年〉10月5日 - 1975年〈昭和50年〉10月5日)は、日本の俳優。旧字体: 淸水將夫。 明治大学中退後、滝沢修や宇野重吉らと共に劇団民藝を結成し、死去するまで劇団の代表的俳優として活躍した。また、映画俳優として戦前期から松竹キネマ・新興キネマの作品に出演し、戦後も舞台活動の傍らバイプレーヤーとして数多くの作品に出演した。黒澤明監督作品の常連でもあり、出演本数は300本以上にのぼる。 妻は女優の高野由美。 1908年(明治41年)10月5日、東京府東京市牛込区に生まれる。明治中学在学中から、キリスト教青年会の演劇サークルに入り、新劇に興味を抱く。1926年(大正15年)、明治大学文科に入学後、新劇俳優を目指す。
ディック・ミネ(1908年10月5日 - 1991年6月10… ディック・ミネ(1908年10月5日 - 1991年6月10日)は、徳島県徳島市出身の日本人ジャズ・ブルース・流行歌歌手、ギタリスト、俳優、タレント。訳詞家・編曲家としては本名の三根 徳一(みね とくいち)を名乗り、第二次世界大戦中の敵性語規制の時代には三根 耕一(みね こういち)と名乗った。創成期のテイチクレコードの立役者で、日本のジャズ・シンガーの嚆矢として数多くの名演を残すとともに、日本の創成期の流行歌においても多くのヒットを飛ばした。また、トーキー以降の日活と同社が提携したミュージカル映画をはじめとして映画にも多く出演し、その後純然たる俳優としても活躍した。結婚は3回、初婚相手は死別、2回目と3回目の女性は姉妹。
栗谷川 平五郎(くりやがわ へいごろう、1908年10月4日… 栗谷川 平五郎(くりやがわ へいごろう、1908年10月4日 - 1993年2月20日)は、北海道名寄市出身のクロスカントリースキー、ノルディック複合選手。 戦前を代表する名選手の一人である。 旧制札幌第一中学校 → 札幌鉄道管理局(現・JR北海道鉄道事業本部) → 明治大学 → 札幌鉄道管理局 札幌一中から札幌鉄道管理局に入り、1928年の第6回全日本スキー選手権大会クロスカントリースキーの個人30kmとリレーで優勝。その後明大に進み、1929年から31年までの全日本学生スキー選手権大会の個人18kmで3連覇した他、1930年の全日本スキー選手権大会のノルディック複合で優勝する。1932年レークプラシッドオリンピックでは、クロスカントリースキー個人長距離(18km)と個人耐久(50km)、ノルディック複合の3種目にエントリーする。
森 喜作(もり きさく、1908年〈明治41年〉10月4日 … 森 喜作(もり きさく、1908年〈明治41年〉10月4日 - 1977年〈昭和52年〉10月23日)は、群馬県桐生市出身の農学者(農学博士)。森式純粋培養菌種駒製造法の発明者で、現在の原木シイタケ栽培技術を確立した。森産業株式会社創業者。歴史学者の羽仁五郎は叔父。 1908年(明治41年)、群馬県桐生市の素封家・森家の次男として生まれる。桐生中学校、宇都宮高等農林学校を経て1935年(昭和10年)京都帝国大学農学部を卒業。 大学在学中に大分県を訪れた際、シイタケの発茸を祈る農夫の姿を見てシイタケ栽培の研究を決意(後述)、大学卒業の翌年に森食用菌蕈研究所を設立して研究を開始した。1942年(昭和17年)森式純粋培養菌種駒製造法を開発し、翌1943年(昭和18年)に特許を取得した。
中島 斌雄(なかじま たけお 1908年10月4日 - 19… 中島 斌雄(なかじま たけお 1908年10月4日 - 1988年3月4日)は、東京府東京市出身の俳人・国文学者。本名は武雄。旧号月士。 芝区(現港区)生。東京帝国大学文学部国文科大学院修了。近世文学、俳諧史を専攻。日本女子大学名誉教授。 旧制芝中学校在学時、同級生の漫画家・小川たけしが刊行した『虎落笛』という雑誌に投句している。後に俳句を小野蕪子に師事し「鶏頭陣」に所属。東大俳句会で高浜虚子の指導を受け「ホトトギス」「馬酔木」に投句。 一時中断を経て1946年「麦」を創刊。同誌に俳諧史研究からの理念をもとに現代俳句に関する評論を連載。句作においては知的な構成と叙情とを特徴とし、時に難解な表現に傾きつつも独自の道を辿った。
岡田 章雄(おかだ あきお、1908年〈明治41年〉10月2… 岡田 章雄(おかだ あきお、1908年〈明治41年〉10月2日 - 1982年〈昭和57年〉3月18日)は、日本の歴史学者。中世後期から近世初頭にかけての日本と西洋の交流史が専門。東京大学史料編纂所教授、青山学院大学教授を歴任。 1908年(明治41年)群馬県前橋市に生まれる。群馬県師範学校附属小学校を経て、群馬県立前橋中学校に入学し埼玉県立浦和中学校へ転校。旧制浦和高等学校を経て、1932年(昭和7年)東京帝国大学文学部国史科を卒業。 大学卒業とともに大倉精神文化研究所副本作成部国書校正係嘱託となる。1933年(昭和8年)東京大学史料編纂所嘱託として入所。この頃から歴史地理学会の委員として『歴史地理』の編集に携わる。
金沢 嘉市(かなざわ かいち、1908年10月2日 - 19… 金沢 嘉市(かなざわ かいち、1908年10月2日 - 1986年10月10日)は、日本の教育者・教育評論家。 愛知県出身。41年の教員生活で世田谷区立祖師谷小学校校長などを務め、定年後には「児童教育研究家」の肩書で活動した。 1908年(明治41年)10月2日に愛知県宝飯郡蒲郡町平田村(現・蒲郡市平田町)に生まれた。父親は平田村の副区長や区長を務めた。1915年(大正4年)に蒲郡町立東部小学校に入学し、1921年(大正10年)に宝飯郡実業学校(その後愛知県立蒲郡農学校に改称、現在の愛知県立蒲郡高等学校)に入学して教員の道を目指した。1927年(昭和2年)に東京の青山師範学校二部(東京学芸大学の前身)に入学し、1928年(昭和3年)に青山師範学校を卒業して小学校教師となった。
増田 四郎(ますだ しろう、1908年(明治41年)10月2… 増田 四郎(ますだ しろう、1908年(明治41年)10月2日 - 1997年(平成9年)6月22日)は、日本の歴史学者。一橋大学名誉教授。第5代一橋大学学長、東京経済大学理事長。日本学士院会員。文化勲章受章者。位階は従三位。日本学術振興会会長、国立大学協会副会長等を歴任。 専門は西洋史、西洋経済史。西洋社会・経済史の変遷を、実証研究と比較社会史・地域史の方法論を用いて研究した。 1908年、奈良県山辺郡波多野村(後の山添村)生まれ。旧制上野中学校(後の三重県立上野高等学校)卒業後、東京商科大学付属商業教員養成所入学。1932年東京商科大学(後の一橋大学)卒業。学部では日本経済史を専攻し、幸田成友の指導を受ける。
横山 復次(よこやま またつぐ、1908年(明治41年)10… 横山 復次(よこやま またつぐ、1908年(明治41年)10月2日 - 1990-93年(平成2-5年) )は、日本の薬学者であり教育者でもある。長崎医科大学教授(現・長崎大学医学部)を務めた後、岐阜薬科大学教授、エーザイ研究所長 。長崎医科大学時代に長崎原爆を経験した。岡山県出身。 1908年(明治43年)に岡山県に生まれる。その後、1923年(大正12年)旧制岡山県立高梁中学校(現・岡山県立高梁高等学校)に入学、卒業を経て、1928年(昭和3年)第一高等学校理科乙類へ入学し、1931年(昭和6年)同校を卒業。同年に東京帝国大学医学部薬学科へ入学、1934年(昭和9年)3月に同大学を卒業し、助手として京都帝国大学薬学科で薬学研究を続けた。
郡司 信夫(ぐんじ のぶお、1908年10月1日 - 199… 郡司 信夫(ぐんじ のぶお、1908年10月1日 - 1999年2月11日)は、栃木県出身のボクシング評論家。 大田原中学校から大正大学を経て、1930年に誠文堂新光社に入社。スポーツ誌編集に携わる。 1934年に独立してガゼット出版社を設立、「ボクシング・ガゼット」誌を創刊した。時同じくして「拳道会ボクシング練習場」を設立。拳道会は解散するが、戦後に「日本拳闘株式会社」を設立。一方、ガゼット誌の編集はベースボール・マガジン社に吸収されるまで約30年担当。 1952年からは30年に渡りTBSのボクシング解説者を務め、日本テレビの平沢雪村、フジテレビの石川輝らとともにボクシング解説者の草分けと呼ばれた。
山地八郎(やまじ はちろう 1908年10月1日 - 199… 山地八郎(やまじ はちろう 1908年10月1日 - 1999年6月9日)は、日本の元商工・通産官僚。長崎県南高来郡口之津町出身。
古賀 専(こが あつし、1908年10月1日 - 1993年… 古賀 専(こが あつし、1908年10月1日 - 1993年12月20日)は、昭和時代の労働運動家。通称は専(せん)。全国造船重機械労働組合連合会(造船重機労連)初代委員長。 佐賀県神埼郡城田村(現神埼市)生まれ。長崎県佐世保市出身。1923年佐世保尋常高等小学校を卒業。佐世保海軍工廠に電気工の見習として入り、佐世保海軍工廠教習所高等科を卒業。1924年海軍労働組合連盟佐世保労愛会に加盟。1927年佐世保民衆党、ついで社会民衆党で活動。1928年三・一五事件で検挙され解雇。1930年佐世保社会民衆党常任書記となり、西日本坑夫組合の結成に参加、主事。1932年柚木炭鉱争議で検挙。1937年中国へ渡った。
松下 久道(まつした ひさみち、1908年9月30日 - 1… 松下 久道(まつした ひさみち、1908年9月30日 - 1980年9月3日)は、日本の地球科学者。専門は石炭地質学。福岡県福岡市生まれ。 1934年に京都帝国大学理学部地質学鉱物学科を卒業。同学部大学院に進学して、中村新太郎のもとで炭田地質学の研究を始める。同年山根新次の招きで九州帝国大学工学部採鉱学教室副手に採用となり、翌年助手に昇任。1939年、九州帝国大学に理学部が新設されると同時に、同学部地質学教室の助教授になり、渡辺久吉・杉健一・吉村豊文を助けて、松本達郎とともに地質学教室の基礎づくりに尽力。1949年に同教室に国内ではじめて石炭地質学講座が開設され、初代担当教授に就任した。同年、「九州北部に於ける古第三紀層の層序学的研究」により、京都大学より理学博士の学位を取得。
村田 武雄(むらた たけお、1908年9月30日 - 199… 村田 武雄(むらた たけお、1908年9月30日 - 1997年3月16日)は、音楽評論家・国立音楽大学名誉教授。東京都出身。 1950年代から1980年代にかけて、クラシック音楽に関する書籍などを多数執筆し、その普及につとめた。海外の音楽関連の書籍の翻訳なども手がけている。晩年は、当時の音楽評論家の代表格として数えられる存在だった。 堀内敬三の後を受けてNHKラジオ第1放送のクラシック音楽専門の番組「音楽の泉」2代目パーソナリティとして、1959年度から1987年度まで、延べ30年近くの長きにわたって担当したことで知られた。永井荷風と疎開先の岡山で知り合った。また、慶應義塾大学・国立音楽大学などでは、教授として音楽史について教鞭を執っていた。
茂田井 武(もたい たけし、1908年9月29日 - 195… 茂田井 武(もたい たけし、1908年9月29日 - 1956年11月2日)は、昭和時代に活躍した日本の童画家。 その素朴でいながら独特の雰囲気に絵本愛好家の間では知られる作家である[要出典]。素朴で大胆なデフォルメが特徴で谷内六郎、山本夏彦も絶賛している[要出典]。江國香織の『薔薇の木 枇杷の木 檸檬の木』の表紙絵にもなっている。 東京日本橋の旅館「越喜」に生まれる。1923年、関東大震災で生家が全焼、翌1924年には母を病で亡くす。1926年旧制赤坂中学校卒業。その後、太平洋画会研究所、川端画学校、本郷絵画研究所に学ぶ。アテネ・フランセで中原中也と出会う。 1930年にハルピンからシベリア鉄道でパリへ渡り、働きながら独学で絵を書き続ける。