大浜晧 / 大濱晧(おおはま あきら、1904年7月22日ー… 大浜晧 / 大濱晧(おおはま あきら、1904年7月22日ー1987年12月20日)は、日本の中国哲学者。 1904年(明治37)沖縄県石垣市登野城生まれ。実姉に『八重山生活誌』の著者である宮城文がいる。 1934年(昭和9)九州帝国大学法文学部支那哲学科卒業、1939年(昭和14)東京帝国大学大学院満期退学。1941年(昭和16)台北帝国大学予科教授となり、敗戦により内地に帰還。1947年(昭和22)東京帝国大学文学部副手着任、1948年(昭和23)11月名古屋大学文学部助教授、1949年(昭和24)同大学教授昇格。1957年(昭和32)文学博士学位授与、1968年(昭和43)定年退官、名古屋大学名誉教授となる。
浦路 輝子(うらじ てるこ、1904年7月22日 - 没年不… 浦路 輝子(うらじ てるこ、1904年7月22日 - 没年不詳)は、日本の女優である。本名は堀内 照子(ほりうち てるこ)。 1904年(明治37年)7月22日、東京府東京市小石川区(現在の東京都文京区)に「堀内照子」として生まれる。 名古屋市内の旧制・尋常小学校を卒業、京都市内の旧制・高等小学校を一年次で終了、長崎県佐世保市の長崎県立佐世保高等女学校(長崎県立佐世保北高等学校と長崎県立佐世保南高等学校の前身)に入学した。1921年(大正10年)、同女学校を三年次で中途退学し、東京少女歌劇団に入団する。1925年(大正14年)には、渡瀬淳子が主宰する「渡瀬淳子演劇研究所」に参加、舞台女優を目指す。
結城 一朗(ゆうき いちろう、1904年7月20日 - 19… 結城 一朗(ゆうき いちろう、1904年7月20日 - 1988年9月15日)は、日本の俳優、演劇プロデューサーである[3][4][5][6][7]。本名松崎 龍雄(まつざき たつお)、旧芸名結城 一郎(ゆうき いちろう)[3][4][6][7]。1930年代、松竹蒲田撮影所の青年スターであり、戦後は舞台や音楽のプロデューサー、テレビ出演に進出した。
鈴木 俊(すずき しゅん、1904年7月20日 - 1975… 鈴木 俊(すずき しゅん、1904年7月20日 - 1975年7月25日)は、日本の東洋史学者。 1904年、東京で生まれた。東京帝国大学文学部東洋史学科で学び、1929年に卒業。 修了後は、東洋大学教授に就いた。後に法政大学教授。戦後は九州大学教授、中央大学教授。1975年に死去。
佐藤 俊夫(さとう としお、1904年〈明治37年〉7月20… 佐藤 俊夫(さとう としお、1904年〈明治37年〉7月20日 - 1990年〈平成2年〉1月12日)は、日本の実業家。新潮社の第3代代表取締役社長。東京府出身。 1928年に法政大学法文学部を卒業と同時に、父・義亮の経営する新潮社に入社。1947年に『小説新潮』を創刊し、その編集長に就任する。1958年に新潮社3代目代表取締役社長に就任。1967年に兄・義夫が急逝し、社長の座を兄の息子・亮一に譲り代表取締役会長となった。 1990年1月12日に肺炎のため死去、86歳。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
丸山 武夫(まるやま たけお、1904年〈明治37年〉7月1… 丸山 武夫(まるやま たけお、1904年〈明治37年〉7月19日 - 1997年〈平成9年〉10月29日)は、日本のドイツ文学者。獨協大学名誉教授。 群馬県吾妻郡中之条町生まれ。旧制中之条農学校、旧制静岡高等学校文科乙類を経て、東京帝国大学文学部独文科卒。旧制第五高等学校講師、旧制松本高等学校教授を経て、1950年東京大学助教授、1953年には教授に就任。1965年に定年退官し、獨協大学教授となる。1969年文学博士。外国語学部長を経て1975年定年退任、名誉教授。 1997年、呼吸不全のため死去。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
荒井 源吉(あらい げんきち、1904年(明治37年)7月1… 荒井 源吉(あらい げんきち、1904年(明治37年)7月19日 - 1983年(昭和58年)9月18日)は、昭和期の政治家。武蔵野町長、武蔵野市長。 東京府北多摩郡武蔵野村の生まれ。1947年(昭和22年)4月、それまで勤めていた武蔵野町職員を辞し、町長選挙に無所属(保守系)で立候補し初当選、武蔵野町第4代町長に就任した。その約7カ月後にそのまま初代市長に就いた武蔵野町最後の町長でもある。武蔵野市が市制施行した1947年(昭和22年)11月から1963年(昭和38年)4月までの間、4期15年と6ヶ月に渡り市長を務める。 1948年(昭和23年)の小学校給食の開始を始めとして、上水道・下水道計画の決定・着工、市立小・中学校の建設(合計11校。
木村 文男(きむら ふみお、1904年7月18日 - 19… 木村 文男(きむら ふみお、1904年7月18日 - 1965年3月20日)は、日本の政治家。自由民主党衆議院議員(3期)。息子は青森県知事や衆議院議員を務めた木村守男。孫は元衆議院議員の木村太郎、木村次郎。 青森県南津軽郡藤崎町出身。父健一は藤崎町の助役や町長を務めた。1925年青森県師範学校を卒業。卒業後は教員となり、その後は青森県属、小学校校長、地方事務官などを務めた。 戦後、政治家を志し、1947年に青森県議に当選。1952年の第25回衆議院議員総選挙で青森2区から自由党公認で立候補して初当選。以来連続3回当選した(その後、所属は日本民主党→自由民主党)。この間、第1次鳩山内閣で北海道開発政務次官に就任した。
松本 雅男(まつもと まさお、1904年7月16日 - 19… 松本 雅男(まつもと まさお、1904年7月16日 - 1993年2月10日)は、日本の会計学者。一橋大学名誉教授。 1904年、和歌山県伊都郡妙寺町(現かつらぎ町)出身。1922年和歌山県立和歌山商業学校卒、1925年山口高等商業学校卒業、同年歩兵第8連隊入営、1927年青島学院商業学校教諭、1929年大日本帝国陸軍少尉、1931年東京商科大学(現一橋大学)本科卒。金融論の井浦仙太郎ゼミ出身で、本科2年時に、論文「戦時戦後におけるわが国為替相場変動の研究」が鳳聚会二等上席に入選し出版される。 大学卒業後は彦根高等商業学校金融論担当助教授就任が一旦決まったが、その後担当が専門外の原価計算及び簿記と変わり、辞任も考えた末以降会計学専攻に転じて高瀬荘太郎に師事し同職を務めた。
山岸 外史(やまぎし がいし、1904年(明治37年)7月1… 山岸 外史(やまぎし がいし、1904年(明治37年)7月16日 - 1977年(昭和52年)5月7日)は日本の評論家。 東京出身。大倉喜八郎の片腕で日本製靴(現在のリーガルコーポレーション)社長などを歴任した山岸覺太郎(1867年-1937年; 米国留学後、山岸藪鶯の筆名でダグラス・フォウセット『空中軍艦』などの翻訳もおこなった)の息子。第七高等学校を経て、東京帝国大学文学部哲学科で出隆に師事。1931年(昭和6年)、同人誌『アカデモス』を主宰。1934年(昭和9年)に『散文』を創刊。創刊号掲載の「『紋章』と『禽獣』の作家たち」で川端康成に、「佐藤春夫論」で佐藤春夫にそれぞれ認められた。 1934年、太宰治や檀一雄たちと共に同人誌『青い花』に参加。
千田 是也(せんだ これや、1904年7月15日 - 199… 千田 是也(せんだ これや、1904年7月15日 - 1994年12月21日)は、日本の演出家、俳優。東京市出身、建築家・伊藤為吉の五男。本名は伊藤 圀夫。
高島 善哉(たかしま ぜんや、1904年7月13日 - 19… 高島 善哉(たかしま ぜんや、1904年7月13日 - 1990年1月10日)は、日本の経済学者、社会学者。専攻はマルクス主義及びアダム・スミス研究。一橋大学名誉教授、関東学院大学名誉教授。 岐阜県出身。旧制岐阜中学校(現岐阜県立岐阜高等学校)首席を経て、1927年東京商科大学(現一橋大学)卒。大学では当初福田徳三ゼミナールに参加したが、福田の留学のため大塚金之助の指導を受けた。卒業論文「経済静学と経済動学の国民経済学的意義:ヨセフ・シュンペーターの研究」だが、おもにマルクス主義とアダム・スミスを研究した。 1927年指導教官大塚金之助の推薦を受け、母校東京商科大学助手に就任。1927年、渋沢栄一の孫である尾高豊作や尾高朝雄の支援を得て設立され、大塚が所長を務める東京社会科学研究所研究員を兼務し、杉本栄一とともに同研究所での活動に従事。
河角 廣(かわすみ ひろし、1904年7月12日- 1972… 河角 廣(かわすみ ひろし、1904年7月12日- 1972年12月12日)は、日本の地震学者。東京帝国大学教授を歴任。 長野県諏訪郡富士見村(現富士見町)出身。長野県立諏訪中学校(現長野県諏訪清陵高等学校)、旧制第一高等学校を経て、1928年東京帝国大学理学部地震学科卒業。同年東京帝国大学地震研究所嘱託となる。1944年教授となり1963年所長に就任。退官後は東京都防災会議地震部会会長などを歴任した。 日本各地の地震危険度と最高震度の期待値を示す「河角マップ」は耐震基準における地震地域係数の根拠となった。また鎌倉や江戸などの古地震を調査し、相模トラフ巨大地震の69年周期説を唱えた(なお当該地震は1923年を最後に発生していない)。
藤沢 桓夫(ふじさわ たけお、1904年7月12日 - 19… 藤沢 桓夫(ふじさわ たけお、1904年7月12日 - 1989年6月12日)は、日本の小説家。「藤沢恒夫」と表記される場合もあるが、これは誤記である。
大庭 さち子(おおば さちこ、1904年7月10日 - 19… 大庭 さち子(おおば さちこ、1904年7月10日 - 1997年3月15日)は、日本の作家、翻訳家。 本名は、片桐 君子。 京都府生まれ。京都市中京区出身。片桐治郎吉の養女となり、片桐武(毎日新聞社金沢支局長など歴任)に嫁した後に離別。京都府立第二高等女学校、同志社女子専門学校英文科卒。京都華頂高等女学校教師のかたわら小説を執筆。 1933年、岬 洋子の筆名による「光、闇を貫いて」でサンデー毎日大衆文藝選外佳作。1939年、「妻と戦争」でサンデー毎日大衆文芸入選、同作で直木賞候補。1941年、『妻と戦争』で新潮社文芸賞第二部受賞、「花開くグライダー」で直木賞候補。1942年、「愛翼一心」で新潮社文芸賞第二部候補。
小国 英雄(おぐに ひでお、1904年(明治37年)7月9日… 小国 英雄(おぐに ひでお、1904年(明治37年)7月9日 - 1996年(平成8年)2月5日)は、日本の脚本家、映画監督。青森県八戸市出身。 青森県八戸市柏崎新町の母の実家玉内家で誕生。旧制八戸中学校(現・青森県立八戸高等学校)時代に同郷の友、松下正寿の兄・正臣の影響で武者小路実篤の作品に傾倒し、小説を実篤に送るなど文学に目覚めた。実篤の勧めで日本バプテスト神学校(現・関東学院大学)に進学し卒業。白樺派の影響を受け、実篤主宰の新しき村に参加する。関東大震災に遭遇し帰郷するも、「大震災救援」のための演劇活動に精力を注いだ。 1929年(昭和4年)に実篤の紹介で日活太秦撮影所に助監督として入社。
渡瀬 凌雲(わたせ りょううん、1904年7月9日 - 19… 渡瀬 凌雲(わたせ りょううん、1904年7月9日 - 1980年5月17日)は日本画家。南画の大家。本名は渡瀬幸成。 長野県下伊那郡根羽村に生まれる。幼いころから大平小洲、山本梅荘に師事。尋常小学校高等科を卒業後は上京して福田浩湖塾に入門。一方で、旧制錦城中学校、正則英語学校に通いながら那智左典に漢学を学んだ。1925年(大正14年)には京都へ移り、福田静処に和漢文学・詩書を学ぶ。以後、京都に定住する。 1933年(昭和8年)第14回帝展に「河口」が初入選、以後は帝展、文展、日展、日本南画院を中心に出品する。1937年(昭和12年)京都市美術展「南紀佐野村」で京都市長賞を受賞。 戦後は同志と南画院を結成して活動を続け、水墨を基調に山水花鳥に新生面を開いた。
島村 三七雄(しまむら みなお、1904年(明治37年)7月… 島村 三七雄(しまむら みなお、1904年(明治37年)7月9日 - 1978年(昭和53年)10月25日)とは、日本の洋画家。大阪府大阪市北区出身。 1904年(明治37年)7月9日、大阪府大阪市北区に生まれる。 1924年(大正13年)3月、大阪府立天王寺中学校卒業。同年4月、東京美術学校西洋画科入学。在学中の1928年(昭和3年)10月、帝展に「読書」が初入選。翌1929年(昭和4年)、東京美術学校西洋画科を卒業。 同年渡仏、フランスで「午後」がサロン・ドートンヌ入選。翌1930年(昭和5年)パリ国立美術学校のリュシアン・シモン教室に入学するも2年後の1932年(昭和7年)に中退する。その後ポール・ランソンのアカデミー・ランソンでフレスコ画法を学び、1933年(昭和8年)からサロン・デザルティスト・フランセに毎年出品を開始、翌1934年(昭和9年)出品の「ユゲット・トノン孃肖像」はマンション・オノラブル賞を受賞している。
坂本 実(さかもと みのる、1904年7月9日 - 1970… 坂本 実(さかもと みのる、1904年7月9日 - 1970年2月6日)は、日本の政治家、実業家。衆議院議員(3期)。
天埜 良吉(あまの りょうきち、1904年(明治37年)7月… 天埜 良吉(あまの りょうきち、1904年(明治37年)7月8日 - 1972年(昭和47年)1月11日)は、日本の土木技術者、内務技官、運輸技官、政治家。運輸省港湾局長、参議院議員。 愛知県出身。1929年(昭和4年)東京帝国大学工学部土木工学科を卒業した。内務省土木局に入り、横浜土木出張所勤務、青森港修築事務所長、仙台土木出張所工務部長などを務めた。1943年(昭和18年)運輸通信省の新設に伴い同省に移った。 1945年(昭和20年)運輸省設置により同省に移り、港湾局計画課長、第三港湾建設局長を歴任し、1955年(昭和30年)に港湾局長に就任し、全国の港湾整備を担い、1958年(昭和33年)に退官した。
梅島 貞(うめじま さだし、1904年7月8日 - 2004… 梅島 貞(うめじま さだし、1904年7月8日 - 2004年4月8日)は、日本の経営者。毎日新聞社社長を務めた。 岡山県岡山市出身。1929年に東京帝国大学法学部法律学科を卒業し、同年に毎日新聞社に入社。1954年1月に取締役に就任し、1958年7月に常務、1961年1月に専務を経て、1968年1月に社長に就任。1972年1月から1977年12月までに最高顧問を務めた。 1974年11月に勲一等瑞宝章を受章。 2004年4月8日に脳梗塞のために死去。99歳没。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
宇野 信夫(うの のぶお、1904年7月7日 - 1991年… 宇野 信夫(うの のぶお、1904年7月7日 - 1991年10月28日)は、日本の劇作家、作家、歌舞伎狂言作者。 埼玉県本庄市生まれ、熊谷市育ち、その後浅草で暮らす。本名信男。埼玉県立熊谷中学校(現:埼玉県立熊谷高等学校)、慶應義塾大学文学部国語国文学科卒業。 父は埼玉県熊谷市で紺屋・染物屋を営んでいて、浅草に東京出張所と貸家(蕎麦屋と道具屋)を持っていた。中学を出た後は、その出張所から大学に通い、卒業後もそこで劇作にいそしみ、1944年まで住み続けた。その時代に、まだ売れていなかった、のちの古今亭志ん生ら貧乏な落語家たちが出入りして、彼らと交際した。6代目三遊亭圓生とも交友が深かった。新作落語をいくつか創作したが、サゲは噺家に一任した。
高木 東六(たかぎ とうろく、1904年7月7日 - 200… 高木 東六(たかぎ とうろく、1904年7月7日 - 2006年8月25日)は、主に昭和期に活躍した日本の作曲家。
与謝野 秀(よさの しげる、1904年7月7日 - 1971… 与謝野 秀(よさの しげる、1904年7月7日 - 1971年1月25日)は、日本の外交官。 1904年、与謝野鉄幹と与謝野晶子の二男として生まれる。学校法人暁星学園、第一高等学校を経て、1928年東京帝国大学法学部政治学科を卒業し外務省入省、在フランス日本国大使館外務書記生となる。 1935年、球磨川電気社長などを歴任した坂内虎次の娘で11歳年下の道子と結婚。その後2男3女に恵まれる。長男に政治家の馨、次男にレジオンドヌール勲章シュヴァリエを叙勲した金融家の達、三女に詩人、美術評論家、フランス文学者の文子がいる。 外務省欧亜局所属時に日独伊三国同盟に反対する見解を示す。第二次世界大戦中は、スペイン、スイス、ドイツなどヨーロッパを中心に駐在。
細谷 恒夫(ほそや つねお、1904年7月6日 - 1970… 細谷 恒夫(ほそや つねお、1904年7月6日 - 1970年8月17日)は、日本の教育哲学者、東北大学名誉教授。ディルタイやフッサールを研究。 山形県出身。旧制山形高校を経て、東京帝国大学文学部卒。広島高等学校(旧制)教授、東北帝国大学助教授、1943年教授。東北大学教授、67年定年退官、名誉教授、山形大学長。
北村 謙次郎(きたむら けんじろう、1904年7月5日 - … 北村 謙次郎(きたむら けんじろう、1904年7月5日 - 1982年6月30日)は、日本の作家、評論家。本名は北村謙二郎。別名に喜多謙。 東京市麹町生まれ。本籍は山形県米沢市。父は逓信省の判任官だった。兄は造園家の北村徳太郎。 1912年に一家で満洲に移住し、大連の小学校と大連一中に通う。大連一中時代に、同級生と文芸同人誌「アンジェラス」を出す。卒業後は東京に帰り、青山学院高等科、國學院大學文学部予科に学ぶが、卒業はしていない。1930年に赤松月船の協力で文芸雑誌「文芸プランニング」を創刊し、宮沢賢治と文通を交わした。太宰治や今官一をはじめ井伏鱒二の家に集う若い作家たちとも交友を持つようになり、「青い花」の創刊に参加し、大半のメンバーが引き継がれた「日本浪曼派」同人となって、小説を発表する。
古川 丈吉(ふるかわ じょうきち、1904年7月5日 - 1… 古川 丈吉(ふるかわ じょうきち、1904年7月5日 - 1994年1月5日)は、日本の政治家。自由民主党衆議院議員(6期)。 大阪府出身。1930年東京帝国大学政治科卒。卒業後は東京市書記、同主事、杉並区議となった。1955年の第27回衆議院議員総選挙で大阪4区から無所属で立候補して初当選した。第2次池田内閣法務政務次官、衆議院運輸、逓信の各委員長を務め、党内では自民党副幹事長、大阪府連会長などを歴任した。1972年の第33回衆議院議員総選挙で落選。その後も2回立候補し続けたが、2回とも落選となり、復帰はならなかった。1980年に勲二等旭日重光章を受章した。この他、旭冷蔵社長を務めた。 1994年1月、死去。
田村 賢作(たむら けんさく、1904年7月5日 - 198… 田村 賢作(たむら けんさく、1904年7月5日 - 1989年1月11日)は、日本の政治家。参議院議員(1期)。 栃木県下都賀郡国分寺町(現下野市)出身。栃木師範学校を卒業。小学校教員を経て、国民学校校長や県視学官などを歴任。1951年(昭和26年)から栃木県議会議員を4期務める。この間、1959年(昭和34年)5月から1960年(昭和35年)9月まで県議会副議長を、1964年(昭和39年)2月から1965年(昭和40年)3月まで県議会議長を務めた。1965年の第7回参議院議員通常選挙で栃木県選挙区から立候補して当選。参議院議員は1期務め、第2次佐藤第1次改造内閣では行政管理政務次官を務めている。
石川 光陽(いしかわ こうよう、本名:石川 武雄。1904年… 石川 光陽(いしかわ こうよう、本名:石川 武雄。1904年(明治37年)7月5日 - 1989年(平成元年)12月26日)は、日本の警察官・写真家。福井県福井市出身。 警視総監直々の命令を受けて東京大空襲の惨状などを撮影したことで知られる。 1904年(明治37年)7月5日、福井県で石川竹次郎、とく夫妻の息子として生まれる。幼少期は、国鉄職員であった父親の仕事の関係上、福井、沼津、松本と転居している。 1919年(大正8年)、松本駅長を最後に退職した父親が写真館を開きたいといったため、東京薬学校(現・東京薬科大学)を中退し東京九段下の蜂谷写真館において修行を積む。2年間の修行後、松本で父親とともに写真館を開く。
金子 吉衛(かねこ きちえ、1904年(明治37年)7月4日… 金子 吉衛(かねこ きちえ、1904年(明治37年)7月4日 - 1990年(平成2年)12月19日)は、埼玉県蕨市の第四代目市長(1967年~1975年)。 1904年、北足立郡蕨町に生まれる。1930年、蕨第一小学校(現:北小学校)、旧制浦和中学、旧制松本高校を経て東京帝国大学経済学部卒[要出典]。1931年、東京市に奉職し、麻布区長(現在の港区)、文京区助役、東京都立養育院院長、監査事務局長を歴任。1961年、東京都住宅公団理事を務め、1966年退職。1967年、蕨市長に就任し、2期8年務める。1971年から郷土史研究会会長として活動した。多数の郷土資料を収集しており、東京市の戦前戦後の文献資料は東京都公文書館に、蕨の郷土史に関する資料・著作は蕨市立図書館・歴史民俗資料館別館に保管されている。
藤本 亀(ふじもと ひさし、1904年7月4日 - 1989… 藤本 亀(ふじもと ひさし、1904年7月4日 - 1989年2月14日)は、日本の経営者。山陽放送社長を務めた。 岡山県出身。1925年に関西大学法学部法科を卒業し、1927年に朝日新聞社に入社。1945年に合同新聞(のちの山陽新聞社)に転じ、1947年に取締役に就任し、1958年には山陽放送常務に就任し、1964年に専務を経て、1974年5月には社長に就任した。1981年6月に会長に就任し、1983年に取締役相談役を経て、1984年6月に相談役に退いた。 1979年5月に勲三等瑞宝章を受章。 1989年2月14日、呼吸不全のために死去。84歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
香山 滋(、1904年〈明治37年〉7月1日 - 1975年… 香山 滋(、1904年〈明治37年〉7月1日 - 1975年〈昭和50年〉2月7日)は日本の小説家で、探険小説や幻想小説で活躍したほか、映画『ゴジラ』の原作者としても知られる。本名は山田 鉀治(やまだ こうじ)。東京都出身。 東京神楽坂に生まれる。新宿区立牛込仲之小学校(当時は東京市牛込尋常小学校)卒。東京府立第四中学時代に横山又次郎『前世界史』を読んだことをきっかけに、恐竜をはじめとした古生物に魅せられ、独学で地質学や古生物学を学ぶ。法政大学経済学部を中退し、1927年、祖父や父と同じく大蔵省に入省して預金部に勤める。1933年に結婚し、一女をもうける。 1940年、北原白秋門下の歌人・筏井嘉一が創刊した短歌誌「蒼生」に参加し、歌人として文芸活動を開始。
小瀧 彬(小滝 彬、こだき あきら、明治37年(1904年)… 小瀧 彬(小滝 彬、こだき あきら、明治37年(1904年)7月1日 - 昭和33年(1958年)5月28日)は、日本の外務・商工官僚、政治家。参議院議員(2期)、防衛庁長官(第6代、第7代)。位階は正三位。 島根県雲南市(旧飯石郡三刀屋町)出身。東山中学、旧制松江高校文科甲類を経て、1927年東京帝国大学経済学部。 総領事、外務省情報部長、貿易庁輸出局長、通商産業省通商監、国際捕鯨委員会日本政府代表、終戦連絡大阪事務局局長。戦時中は陸軍司政官に任命された。 1950年に行われた第2回参議院議員通常選挙の島根県選挙区に自由党公認で立候補。国民民主党公認の櫻内義雄にわずか389票差で敗れた。しかし小瀧側は、櫻内の票の中に無効票(櫻内義雄の父櫻内幸雄の名を書いたものが義雄の有効票に数えられていた)が含まれているとの訴えを起こした。
池田 宣政(いけだ のぶまさ、1904年(明治37年)7月1… 池田 宣政(いけだ のぶまさ、1904年(明治37年)7月1日 - 1988年(昭和63年)1月9日)は、昭和期の政治家、実業家、華族。侯爵、貴族院議員。旧岡山藩池田家第15代当主。初名は政鈞。 岡山県岡山市で、旧岡山藩主家13代当主、侯爵・池田詮政の三男として生まれる。学習院高等科で学んだ。兄で先代の池田禎政がスペインかぜのため26歳で早世し、未婚により子供がいなかったため1920年(大正9年)家督を相続し、同年3月10日、侯爵を襲爵した。1925年(大正14年)欧米各国を視察した。 1934年(昭和9年)6月30日、満30歳となり貴族院侯爵議員に就任。農林省委員、農商務省委員、厚生省行政委員、帝国飛行協会(現日本航空協会)理事などを務めた。
奥村 厚一(おくむら こういち、1904年(明治37年)7月… 奥村 厚一(おくむら こういち、1904年(明治37年)7月1日 - 1974年(昭和49年)6月25日)は、京都市北区生まれの日本画家。 主に風景画を得意とし、大きな作品はもとよりスケッチも味わい深い。1946年(昭和21年)第2回日展において「浄晨」が特選。
有田 二郎(ありた じろう 1904年7月1日 - 1980… 有田 二郎(ありた じろう 1904年7月1日 - 1980年10月28日)は、昭和期の政治家、実業家。衆議院議員(5期)。名村汽船取締役。 性病薬の有田ドラッグを経営し言論活動でも名を馳せた有田音松の次男として生まれる。東京帝国大学倫理科を卒業し、大阪薬学専門学校講師、終戦連絡大阪事務局参与などを歴任。1946年総選挙(大阪府第1区)に日本自由党公認で初当選、その後民主自由党→自由党に所属し当選5回(大阪1区)。衆議院運輸・人事委員長や民主自由党総務・自由党副幹事長を歴任し、第3次吉田内閣では商工政務次官→通産政務次官を務めた。1953年の国会予算審議では、社会党右派の堤ツルヨから「断末魔の自由党」と野次られたのに対して「パン助だまれ」と応え、女性蔑視の暴言として問題になった。
阪本 一郎(さかもと いちろう、1904年7月1日 - 19… 阪本 一郎(さかもと いちろう、1904年7月1日 - 1987年8月2日)は、日本の教育心理学者。東京第一師範学校・東京学芸大学・日本女子大学・立正女子大学短大・文教大学女子短大部の教授を歴任。勲三等瑞宝章受章者。 東京文理科大学教育学部心理学科卒。同研究科博士課程修了。1961年「語彙の教育心理学的研究」で東京教育大学より文学博士の学位を取得。東京府青山師範学校教諭、同付属小学校主事、東京第一師範学校教授、同教育研究所主事、東京学芸大学教授、同付属図書館長、1970年定年、日本女子大学教授、立正女子大学短大教授、文教大学女子短大部教授。 日本読書学会会長、名誉会長、76年国際読書功労賞。児童心理学、教育心理学、児童文化専攻。
塩田 賀四郎(しおた がしろう、1904年〈明治37年〉6月… 塩田 賀四郎(しおた がしろう、1904年〈明治37年〉6月31日 - 1989年〈平成元年〉9月7日)は、昭和期の実業家、ジャーナリスト、政治家。衆議院議員。 兵庫県出身。1923年(大正12年)大阪府立市岡中学校(現大阪府立市岡高等学校)を卒業。早稲田大学法律科で学んだ。 津自動車学院校長、同校主、交通日日新聞記者、三共製作所取締役、生球精工代表取締役、政治新聞社取締役社長、大東建設社長、サン通信社長などを務めた。 日本自由党の創立委員となり同党幹事に就任し、1946年(昭和21年)4月の第22回衆議院議員総選挙で兵庫県第1区に日本自由党公認で出馬して落選。1947年(昭和22年)4月の第23回総選挙で兵庫県第2区に出馬して落選。
岡崎 次郎(おかざき じろう、男性、1904年〈明治37年〉… 岡崎 次郎(おかざき じろう、男性、1904年〈明治37年〉6月29日 - 1984年〈昭和59年〉9月30日以降?)は、日本のマルクス経済学者、翻訳家。マルクスの大著『資本論』の翻訳で知られる。 北海道江差生まれ。第一高等学校を経て、1927年(昭和2年)に東京帝国大学文学部、1929年(昭和4年)に同経済学部を卒業。戦後、1950年(昭和25年)より九州大学教養部教授。ついで法政大学経済学部教授となる。1968年(昭和43年)法政大学教授を辞任、以降は著述業に専念した。 1983年(昭和58年)に青土社から出版した『マルクスに凭()れて六十年 自嘲生涯記』という自伝で向坂逸郎を批判。本書を友人・知人らに献本し、さりげなく別れの会を持った岡崎は、「これから西の方へ行く」という言葉を残して、80歳となる直前の翌1984年(昭和59年)6月6日からクニ夫人とともに死出の旅に出た。
内田 鐡衛(うちだ てつえ、1904年(明治37年)6月29… 内田 鐡衛(うちだ てつえ、1904年(明治37年)6月29日 - 1996年(平成8年)2月18日)は、日本の技術者、実業家、経営者、株式会社コロナ創業者。内田力は長男。 1904年(明治37年)新潟県三条市に生まれる。電機学校(現・東京電機大学)卒業後、20歳の時には逓信省電気事業主任技術者の資格を取得。その技術と知識を生かすべく富山電気(現・北陸電力)へ入社。 入社後4年程で、父に呼び戻され家業であるガソリンコンロの販売を手伝うようになる。家業は順調に進み、販売や修理を通して、燃焼効率や操作性などコンロの様々な改良点を発見した鐡衛は、徐々に自分のアイデアを活かしたコンロを自らの手で作り上げたいという思いを強めていく。
山口 左右平(やまぐち そうへい、1904年(明治37年)6… 山口 左右平(やまぐち そうへい、1904年(明治37年)6月28日 - 1949年(昭和24年)3月26日)は、昭和時代前期の政治家。衆議院議員(1期)。 神奈川県中郡高部屋村上糟屋(伊勢原町を経て現伊勢原市)に生まれる。1930年(昭和5年)京都帝国大学経済学部を卒業する。農業を営む傍ら、産業組合中央会に奉職し、同総務部企画課長、文書課長、満州国開拓協力協議会幹事、農林省委員などを歴任した。 1942年(昭和17年)4月の第21回衆議院議員総選挙では神奈川県第3区から翼賛政治体制協議会推薦で出馬し当選。衆議院議員を1期務めた。戦後、公職追放となった。
水野 勝邦(みずの かつくに、1904年〈明治37年〉6月2… 水野 勝邦(みずの かつくに、1904年〈明治37年〉6月27日 - 1988年〈昭和63年〉1月12日)は、日本の華族(子爵)・政治家・中国研究者。水野家(旧結城藩)第19代当主。旧名は邦で、1924年(大正13年)11月26日、勝邦に改名した。 1928年(昭和3年)に学習院を卒業、東京帝国大学文学部に進学して中国に関する研究を行った。外務省派遣中華民国調査員、専修大学講師、外務省在支特別研究員、北支那開発会社調査局嘱託などを歴任。北平(現在の北京)に「水野公館」を開設し日中外交に携わると共に、中国各地を調査し多くの報告書、論文を執筆した。 1939年(昭和14年)7月10日に貴族院子爵議員に選出され、院内会派研究会所属し、1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
柴生田 稔(しぼうた みのる、1904年6月26日 - 19… 柴生田 稔(しぼうた みのる、1904年6月26日 - 1991年8月20日)は、日本の歌人、国文学者。
滝口 征夫(たきぐち ゆきお、1904年6月26日 - 19… 滝口 征夫(たきぐち ゆきお、1904年6月26日 - 1967年11月17日)は、日本の経営者。 広島県広島市出身。1926年に慶応義塾大学法学部を卒業し、1927年にエヌチーエヌ製作所(現在のNTN)に入社。1949年に取締役に就任し、1956年5月に常務、1959年2月に専務を経て、1959年4月から1964年5月までに社長を務めた。 1967年11月17日、肺癌のために死去。63歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
楢崎 宗重(ならさき むねしげ、1904年6月26日 - 2… 楢崎 宗重(ならさき むねしげ、1904年6月26日 - 2001年7月18日)は、日本の美術史家、立正大学名誉教授。 佐賀県生まれ。旧制五高、東京帝国大学文学部卒業。1942年立正大学教授。1954年「近世風俗画様式史の研究」で東洋大学文学博士。1962年日本浮世絵協会を設立し理事長。1975年定年退任、名誉教授。研究活動の中で収集した美術品は、墨田区に寄贈し、現在はすみだ北斎美術館が所蔵している。
羽後響 助枩(うごひびき すけまつ、1904年6月26日 -… 羽後響 助枩(うごひびき すけまつ、1904年6月26日 - 没年不明)は、秋田県北秋田郡森吉町(現北秋田市)出身で出羽海部屋に所属した元大相撲力士。本名は武石 助松。身長167cm、体重90kg。最高位は西十両筆頭。 1921年1月初土俵、1928年1月十両昇進。十両では負け越したり休場したりと幕下に何度も落ちたりしたが、1931年1月に4回目の十両昇進で東十両7枚目に付いてから定着し、5月に西十両筆頭まで躍進した。この場所と翌10月場所で勝ち越し、次の場所での新入幕が確実とみられたが、1932年1月場所の新番付では入幕どころか1枚下の西十両2枚目にされた。番付発表当日に起きた春秋園事件に加担し、1932年1月脱退(番付上は削除、実質的最終場所は1931年10月)し、天竜三郎率いる新興力士団に加わった。
上島 明(かみじま あきら、1904年6月25日 - 198… 上島 明(かみじま あきら、1904年6月25日 - 1988年10月22日)は、日本の経営者。住友倉庫社長、会長を務めた。位階は従四位。 長野県上伊那郡伊那富村(現辰野町)出身。旧制諏訪中学(長野県諏訪清陵高等学校)を経て、1929年に東京商科大学を卒業し、同年に住友倉庫に入社。1952年11月に取締役に就任し、常務、専務を経て、1965年5月に社長に就任。1970年11月に会長に就任し、1978年6月には相談役に就任。 1971年11月に藍綬褒章を受章し、1977年4月に勲三等旭日中綬章を受章。 1988年10月22日に心不全のため死去。84歳没。死没日付をもって正七位から従四位に進階した。
坊 秀男(ぼう ひでお、1904年〈明治37年〉6月25日 … 坊 秀男(ぼう ひでお、1904年〈明治37年〉6月25日 - 1990年〈平成2年〉8月8日)は、日本の政治家。位階は正三位。 衆議院議員(11期)。財政政策に詳しく衆議院大蔵委員会理事、大蔵政務次官(第1次岸改造内閣)、自由民主党税制調査会長、厚生大臣(第44代)、大蔵大臣(第81代)などを歴任。 和歌山県伊都郡出身。旧制第六高等学校を経て、1930年、東京帝国大学法学部法律学科を卒業後、都新聞、東京日日新聞記者を経て、大政翼賛会財務部副部長を務める。東日の大蔵省詰め記者時代に福田赳夫と知り合い、肝胆相照らす仲となる。1942年旧和歌山1区より翼賛政治体制協議会推薦で第21回衆議院議員総選挙に出馬するも落選する。
近藤 東(こんどう あずま、1904年〈明治37年〉6月24… 近藤 東(こんどう あずま、1904年〈明治37年〉6月24日 - 1988年〈昭和63年〉10月23日)は、日本の詩人。 1904年東京京橋に生まれる。岐阜中学時代より短歌を作り始め、15歳で窪田空穂に年少の才能を賞賛される早熟ぶりを示した。明治大学在学中に「謝肉祭」を創刊。明大卒業後、鉄道省に入り、その一方で詩作をし、春山行夫、竹内隆二、棚夏針手、佐藤一英などと交友をもった。北原白秋に認められ、「詩と音楽」「近代風景」などで新進詩人として出発。27年上海外遊。28年雑誌『詩と詩論』創刊に編集同人として参加、以後「MADAME BLANCHE」「文学」「詩法」「新領土」と戦前戦中のモダニズム詩運動の中心で活動した。
高山 忠雄(たかやま ただお、1904年6月24日 - 19… 高山 忠雄(たかやま ただお、1904年6月24日 - 1980年7月1日)は、東京都出身のサッカー選手、教育者。 東京都生まれ。御影師範附属小時代にサッカーを覚え、兵庫県立第一神戸中学校(神戸一中、現:兵庫県立神戸高等学校)時代には第1回日本フートボール優勝大会(1918年)に出場した。白洲次郎は神戸一中サッカー部の1年先輩に当たる。 1921年に神戸一中を卒業。第八高等学校を経て、東京帝国大学文学部に入学し、快足のフォワードとして活躍。1927年10月に開催された第4回明治神宮競技大会兼ア式蹴球全國優勝競技會(第7回天皇杯全日本サッカー選手権大会)に神戸一中および東京帝大の後輩にあたる若林竹雄らと共に神戸一中クラブのメンバーとして出場して大会優勝に貢献した。