羽田 武嗣郎(はた ぶしろう、1903年〈明治36年〉4月2… 羽田 武嗣郎(はた ぶしろう、1903年〈明治36年〉4月28日 - 1979年〈昭和54年〉8月8日)は、日本の政治家。位階は従三位。 衆議院議員(7期)。第80代内閣総理大臣を務めた羽田孜の父。 長野県小県郡和田村(現・長和町)に羽田貞義の三男として生まれる。福島中学(現・福島県立福島高等学校)、旧制新潟高等学校を経て、1929年に東北帝国大学法文学部卒業。東京朝日新聞社に入社し、政治部に勤務。 政治部記者から鉄道大臣秘書官となり、1937年に立憲政友会公認で第20回衆議院議員総選挙に立候補し当選。「羽田書店」を創立する。社員には後に独立してみすず書房を創業する小尾俊人らがいた。 1939年の政友会分裂に際しては中島知久平が総裁を務める政友会革新同盟(革新派、中島派)に所属。
小原 敬士(おはら けいじ、1903年4月27日 - 197… 小原 敬士(おはら けいじ、1903年4月27日 - 1972年3月26日)は、日本の経済史学者、経済地理学者。専門はアメリカ経済で、一橋大学経済研究所所長、アメリカ学会会長、経済地理学会会長等を歴任した。学位は、経済学博士(一橋大学・論文博士・1962年)。 静岡県浜名郡浜名町で誕生する。名古屋市立名古屋商業学校を経て、神戸高等商業学校(現神戸大学)に進み、さらに東京商科大学(現一橋大学)に入学して、金子鷹之助に師事して外国経済史を学ぶ。 1929年大学卒業、同年横浜市立商業専門学校(現横浜市立大学)助教授。同教授を経て、1938年に早瀬利雄とともに治安維持法違反で寿町警察署に連行され、1941年から休職となり、1942年に懲役2年執行猶予3年の裁判が確定し失職し、金融経済研究会研究主任となった。
徐 珉濠(ソ・ミノ、朝鮮語: 서민호、1903年4月27日 … 徐 珉濠(ソ・ミノ、朝鮮語: 서민호、1903年4月27日 - 1974年1月24日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の独立運動家、実業家、政治家。初代光州府尹、米軍政下の全羅南道知事・江原道知事、第2・5・6・7代韓国国会議員、第5代国会民議院副議長を歴任した。 本貫は利川徐氏、号は月坡(ウォルパ、월파)。父は実業家で元南鮮貿易代表の徐和日。 全羅南道高興郡(本籍は東江面魯東里)または宝城郡筏橋邑出身。16歳のときに三・一運動に参加し、半島木鐸紙事件により逮捕され、ソウル刑務所で6ヶ月間服役した。1923年早稲田大学政経学科卒、1925年ウェズリアン大学卒、1927年コロンビア大学大学院政治社会学部修了。
中西 信太郎(なかにし のぶたろう、1903年4月26日 -… 中西 信太郎(なかにし のぶたろう、1903年4月26日 - 1976年6月3日)は、日本の英文学者、京都大学名誉教授。 京都府生まれ。京都帝国大学英文科卒業。京都女子高等専門学校教授などを経て1934年京都帝大文学部助教授、1949年京大教授。1967年定年退官、名誉教授、関西大学教授、甲南女子大学教授。 シェイクスピアの「ソネット集」を完訳した。 園部高等学校の校歌の作詞も手がけた。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
原田 常治(はらだ つねじ、1903年〈明治36年〉4月26… 原田 常治(はらだ つねじ、1903年〈明治36年〉4月26日 - 1977年〈昭和52年〉8月23日)は、昭和期の出版事業家。株式会社同志社(のちの婦人生活社、2003年に倒産)を創立する。同志社を創立させる前は、講談社『講談倶楽部』編集長をつとめた。1976年に書かれた『古代日本正史』の著作者として有名。千葉県生まれ。日本大学卒業。1973年4月、勲四等瑞宝章を受章。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
八木 信雄(やぎ のぶお、1903年(明治36年)4月25日… 八木 信雄(やぎ のぶお、1903年(明治36年)4月25日 - 没年不明)は、昭和時代前期の朝鮮総督府官僚。黄海道知事。全羅南道知事。 鹿児島県鹿児島市生まれ。現在の鹿児島県奄美市名瀬出身。名瀬小学校2年の時の1910年(明治43年)8月に、八木彦助の養子となって上京。秋田県立秋田中学校(現秋田県立秋田高等学校)を経て、1923年(大正12年)第七高等学校造士館文科卒業。1925年(大正14年)高等試験行政科に合格し、翌年東京帝国大学法学部政治科を卒業する。朝鮮総督府に奉職し、黄海道、慶尚北道各警務課長、警務局勤務、黄海道警務部長、警務局警務課長などを経て、1942年(昭和17年)11月、警務局保安課長に任じた。
李 教善(イ・ギョソン、朝鮮語: 이교선/李敎善、1903年… 李 教善(イ・ギョソン、朝鮮語: 이교선/李敎善、1903年4月23日または1905年4月23日 - 1970年2月14日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の教育者、政治家。第4代商工部長官、第2・5代韓国国会議員(第5代は参議員)を歴任した。 本貫は全州李氏、号は松巌(ソンアム、朝鮮語: 송암/松巖)。キリスト教徒。 京畿道安城郡(現・安城市)出身。中東中学校本科を経て、1934年立教大学経済学部商学科卒。全州の中学校教員を経て、1940年渡米しニューヨーク大学研究科で商学を専攻した。1945年に京城師範学校・京城法学専門学校講師を務め、光復を迎えた。その後は米軍政庁の軍政長官秘書長、民政長官補佐官、中央物価行政処長を経て、1948年にソウル大学校副総長となり、その後は食糧営団理事長、自由党政権下の第4代商工部長官(1952年3月27日~11月6日)、第5代国会参議院軍関係不正調査特別委員会委員長、中東高等学校校長、ソウル学院院長、中東学院理事長、忠武公記念事業会理事長を務めた。
井原 岸高(いはら きしたか、1903年〈明治36年〉4月2… 井原 岸高(いはら きしたか、1903年〈明治36年〉4月23日 - 1992年〈平成4年〉9月25日)は、日本の政治家。衆議院議員(8期)。 愛媛県、のちの伊予三島市(現四国中央市)で生まれた。1916年(大正5年)三島尋常高等小学校(現四国中央市立三島小学校)卒業後、土建業を営み、丸和商事、井原建設工業(株)を創立、社長、会長となる。 政界では、三島町会議員となり、1947年(昭和22年)に愛媛県議会議員に当選して2期在任し、県政クラブ会長、同副議長、同議長を歴任 1958年(昭和33年)2月9日に行われた第27回衆議院議員総選挙愛媛2区補欠選挙で自由民主党から出馬して初当選し、以後補欠選挙での当選2回を含めて通算8期務める。
森嶋 太郎(もりしま たろう、1903年4月22日 - 19… 森嶋 太郎(もりしま たろう、1903年4月22日 - 1989年8月8日)は、日本の数学者。東京理科大学名誉教授。和歌山県出身。 数論、代数学を東京大学で学ぶ。フェルマー予想に取り組んだことで知られる。津田塾大学、陸軍士官学校の教授も務めた。1979年勲三等瑞宝章受章。 mを31以下の素数としよう。 p を素数とし、 x, y, z を xp + yp = zp がなりたつ正整数とする。そして p が xyz を割り切らないとする。 このとき p2 は mp − 1-1 を割り切る。 Gundersonはその博士論文の中で、上の定理の証明の問題点を挙げた。 A. Granvilleらも同意し、森嶋の証明を承認できないとしている。
璽光尊(じこうそん、1903年(明治36年)4月22日 - … 璽光尊(じこうそん、1903年(明治36年)4月22日 - 1983年(昭和58年)8月16日)は、璽宇(じう)の教祖。本名は「長岡良子(ながおか ながこ)」。 璽光尊こと長岡良子は、1903年(明治36年)、岡山県御津郡江与味村(現久米郡美咲町江与味)に農家の娘として誕生した。当時の名前は大澤 ナカ(おおさわ なか、大澤 奈賀とも)。 璽宇の公式見解によると、璽光尊は旧岡山藩池田家第13代当主の侯爵池田詮政と安喜子夫人との間に生まれたご落胤であるという。ただし「落胤」とは高貴な男性が配偶者ではない女性と関係して産ませた私生児のことを意味する語なので、この場合は意味が通じない。安喜子夫人は皇族の出自で、池田家へ降嫁する前は安喜子女王といった。
入江 啓四郎(いりえ けいしろう、1903年4月20日 - … 入江 啓四郎(いりえ けいしろう、1903年4月20日 - 1978年8月13日)は、日本の国際法学者・ジャーナリスト。 鳥取県西伯郡春日村(現・米子市)生まれ、上海で育つ。1919年豊浦中学校中退。1921年日本中学校卒業。1923年第一早稲田高等学院卒業。1927年3月、早稲田大学法学部卒業。1927年4月、ジャパンタイムズに記者として入社。その後、日本新聞連合社記者を経て、1936年1月、同盟通信社に勤務、1937年に同社パリ支局長。1939年に同社ジュネーヴ支局長。『ヴェルサイユ体制の崩壊』全3巻を上梓する。1945年同社編集局外信部長。1945年、時事通信社編集局外信部長。1946年、同社時事研究所長。
古賀 繁一(こが しげいち、1903年4月20日 - 199… 古賀 繁一(こが しげいち、1903年4月20日 - 1992年12月4日)は、日本の経営者、造船技術者。三菱重工業社長、会長を務めた。福岡県出身。 福岡県柳川市の出身で旧制伝習館中学、旧制第五高校を経て、1926年に東京帝国大学工学部船舶工学科を卒業し、同年に三菱造船に入社した。戦艦「武蔵」の設計に携わっていた。1964年に三菱重工業専務に就任し、1971年12月に社長に昇格した。1973年5月から1977年までに会長を務め、1977年から相談役を務めた。 国際貿易促進協会副会長、成蹊学園理事長なども歴任した。 1967年に藍綬褒章を受章し、1973年に勲一等瑞宝章を受章した。 1992年12月5日肺炎のために死去。
筒井 竹雄(つつい たけお、1902年〈明治35年〉5月20… 筒井 竹雄(つつい たけお、1902年〈明治35年〉5月20日 - 1968年〈昭和43年〉9月15日)は、日本の朝鮮総督府官僚、陸上自衛官。初代陸上幕僚長。 和歌山県出身。筒井熊吉の長男として生まれる。和歌山中学、第五高等学校を経て、東京帝国大学に入学。1925年(大正14年)11月、高等試験行政科試験に合格。1927年(昭和2年)3月、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。 1927年(昭和2年)4月、拓務省に入省し、朝鮮総督府属となり内務局に配属。以後、専売局属、咸鏡南道地方課長、京畿道学務課長、咸鏡北道警察部長、警務局図書課長、内務局地方課長などを歴任し、終戦時は黄海道知事であった。たまたま京城に出張中であったが、総督府からソ連軍の情報を得て急遽、任地に戻った。
島 芳夫(しま よしお、1902年5月20日 - 1985年… 島 芳夫(しま よしお、1902年5月20日 - 1985年11月)は、日本の倫理学者、京都大学名誉教授。 福井県生まれ。1926年京都帝国大学文学部哲学科卒。1936年、同助教授、京大教授、1966年、定年退官、大谷大学教授。文学博士。
副島 民雄(そえじま たみお、1902年5月20日 - 19… 副島 民雄(そえじま たみお、1902年5月20日 - 1975年7月10日)は、日本の哲学者、歌人。妻・百合子は太田秀穂の長女。 佐賀県出身。1927年東京帝国大学文学部哲学科卒。1962年「プラトンの後期における生成について」で京都大学文学博士。熊本大学教授、1963年九州大学文学部教授。1967年定年退官、お茶の水女子大学教授、日本ルーテル神学大学教授を務めた。古代ギリシア哲学専門で、『水甕』所属で短歌を詠んだ。
橋本 石洲(はしもと せきしゅう、1902年5月19日 - … 橋本 石洲(はしもと せきしゅう、1902年5月19日 - 1986年1月21日)は、日本の伊勢派正風の俳諧師。本名、橋本 隆介(はしもと りゅうすけ)。 三重県伊勢市宮後西河原町に生まれる。生家は代々外宮祠官町年寄師職ならびに徳川幕府直轄伊勢山田奉行所御旗本支配組頭を務めた家柄であった。13歳の頃から漢学を父実幹に習い、郷土史を血族の松木時彦に学んだ。漢詩は久志本博石主幹の神都天南吟社に属し、服部擔風・本宮三香などと交渉があった。 三重県宇治山田商業学校(現宇治山田商業高等学校)を卒業。1年次在学中に剣道の試合の際、受け損なって鼓膜を破られ、以来耳が不自由であった。 早くから俳諧を早苗庵汀鷗に学んで雲夢園石洲と号した。
佐藤 匡玄(さとう きょうげん、1902年5月19日 - 1… 佐藤 匡玄(さとう きょうげん、1902年5月19日 - 1993年10月7日)は、日本の東洋学者、教育者。第2代愛知学芸大学(現・愛知教育大学)学長、東方文化研究所研究員、建国大学助教授などを務めた。 愛知県豊橋町または豊岡村に生まれる(現在の豊橋市東田町)。京都帝国大学文学部支那哲学科卒業。1935年(昭和10年)、第三高等学校講師となる。 1938年(昭和13年)から2年間、文部省文化事業部在支特別研究員として中国に留学した。1940年(昭和10年)、東方文化研究所研究員を命ぜられる。1941年(昭和16年)、満州国の建国大学助教授に就任。東洋文化の解明に学究的情熱を傾注した。 終戦まで建国大学に在職。
六角 英通(ろっかく ひでみち、1902年(明治35年)5月… 六角 英通(ろっかく ひでみち、1902年(明治35年)5月19日 - 1987年(昭和62年)12月19日)は、昭和期の電気工学者、政治家、華族。貴族院子爵議員。工学博士。 京都市で子爵・六角玄通の長男として生まれる。1907年(明治40年)9月、父の死去に伴い家督を継承し、同年11月27日、子爵を襲爵した。 1924年(大正13年)学習院高等科を卒業し、1927年(昭和2年)東北帝国大学工学部電気学科を卒業。1930年(昭和5年)逓信省に入省し電気試験所技師に就任。東北大学講師、同教授などを経て、1963年(昭和38年)から1976年(昭和51年)まで相模工業大学(現湘南工科大学)学長を務めた。
吉野 一之助(よしの かずのすけ、1902年〈明治35年〉5… 吉野 一之助(よしの かずのすけ、1902年〈明治35年〉5月19日 - 没年不明)は、日本の政治家。埼玉県会議員。 埼玉県北埼玉郡南河原村(現・行田市)出身。吉野貞蔵の長男。1921年に熊谷中学校を卒業する。農業を営んだ。 1926年に南河原村青年団長に就任、同村長、北埼玉郡町村会理事を歴任して、1947年に埼玉県議に当選、総務常任委員長に就任する。 傍ら1946年に元荒川支派川普通水利組合会議員に選ばれ、1950年に羽生地区署管内西部交通安全協会長に推された。 趣味は剣道、庭球、読書。宗教は真宗。住所は埼玉県北埼玉郡南河原村。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
伊藤 正雄(いとう まさお、1902年(明治35年)5月17… 伊藤 正雄(いとう まさお、1902年(明治35年)5月17日 - 1978年(昭和53年)7月20日)は、国文学者。 大阪府大阪市東区(現中央区)北浜生まれ。弁護士山口房五郎の次男。弁護士伊藤徳三の養子となり東京四谷で育ち、のち大阪に移る。第三高等学校卒、1927年東京帝国大学文学部国文科卒。28年神宮皇學館教授、1941年神宮皇學館大學附属専門部教授。1946年京都女子専門学校教授、1947年兵庫県社会教育課嘱託、1948年兵庫県立社会研究所員、49年旧制甲南高等学校教授、51年甲南大学教授、1949-1957年天理大学教授を兼ねる。1972年甲南大学定年、名誉教授、神戸女子大学教授。近世文学および福沢諭吉を研究した。
野副 鉄男(のぞえ てつお、1902年5月16日 - 199… 野副 鉄男(のぞえ てつお、1902年5月16日 - 1996年4月4日)は、日本の化学者、理学博士。台北帝国大学教授を経て、戦後、東北大学理学部教授、同大学名誉教授。文化勲章受章者、日本学士院会員、仙台市名誉市民(本籍地は東京都新宿区)。 宮城県仙台市に生まれる。旧制仙台一中、旧制二高を経て、1926年(大正15年)に東北帝国大学理学部化学科を卒業。同年7月当時日本領であった台湾に渡り台湾総督府専売局に勤務する。1927年(昭和2年)工業部に籍を置き、台湾総督府中央研究所助手となる。1929年(昭和4年)台湾に台北帝国大学が新設されると理農学部化学科助教授に就任し、有機化合物の構造研究や大学の教育に尽力した。
平井 弥之助(ひらい やのすけ、1902年(明治35年)5月… 平井 弥之助(ひらい やのすけ、1902年(明治35年)5月16日 - 1986年(昭和61年)2月21日)は日本の電力土木技術者、電力事業経営者。昭和時代の電力開発に卓越した見識と強い使命感をもって貢献したと伝承されている。また女川原子力発電所等の建設にあたっては貞観地震、慶長三陸地震による大津波を考慮した適切な技術的助言を与えた。平井彌之助とも書く。 主な経歴は『土木史研究』第18号による。 平井は次に示す伝承のように、技術者としての合理性と電気事業者としての責任感に基づいて地震・津波対策の重要性を説いた。地震・津波の恐ろしさを実感していたと云われ、「貞観大津波(869年)は岩沼の千貫神社まで来た」と語っていたという。
湯浅 与三(ゆあさ よぞう、1902年(明治35年)5月16… 湯浅 与三(ゆあさ よぞう、1902年(明治35年)5月16日 - 1977年(昭和52年)12月17日)は、日本の牧師である。 湯浅治郎と湯浅初子の第13子として京都府に生まれる。1910年(明治43年)に東京府に移り、日本組合基督教会霊南坂教会に通う。1919年(大正8年)11月16日、霊南坂教会牧師小崎弘道から洗礼を受ける。その後、青山学院(旧制)高等学部を卒業して米国へ留学し、オーバリン大学神学部を卒業、1931年(昭和6年)に帰国する。1940年(昭和15年)、按手礼を受け牧師になる。佐久、沼田の教会の牧師をした後、初台教会に移った。墓所は多磨霊園。
小川 一平(おがわ いっぺい、1902年(明治35年)5月1… 小川 一平(おがわ いっぺい、1902年(明治35年)5月16日 - 1982年(昭和57年)8月8日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。 政治家小川平吉の長男として長野県諏訪郡富士見村(現富士見町)に生まれる。東京高等師範付属小学校、旧制第一高等学校を経て、東京帝国大学政治学科卒業。昭和4年(1929年)三菱銀行に入行、同17年(1942年)に退社、同年戦時生活相談所常任理事に就任し、岡谷市に支所を設けて、首都圏から諏訪地方への工場疎開を推進した。 同21年(1946年)第22回衆議院議員総選挙に長野県から出馬し当選。同26年(1951年)後楽園スタヂアム取締役、同32年(1957年)常務、同42年(1967年)副社長、同46年(1971年)花月園観光社長を歴任した。
鄭芝溶(チョン・ジヨン、1902年陰暦5月15日 - 195… 鄭芝溶(チョン・ジヨン、1902年陰暦5月15日 - 1950年)は朝鮮の詩人。1930年代を代表する詩人であり、同世代と後輩達に大きな影響を与えた。鄭の詩は異国情緒、伝統的郷土情緒、そしてカトリックに依拠する宗教性の3つの傾向を持つ。 1902年陰暦5月15日、忠清北道沃川郡沃川面下桂里40番地に生まれる。父は延日鄭氏の鄭泰国、母は河東鄭氏の鄭美河の間の1人息子である。家は、父の鄭泰国が薬局を経営していて裕福であったが、ある年に洪水に見舞われ、生活が傾いていく。幼い頃は池龍と呼ばれた。1913年、恩津宋氏の宋在淑と結婚する。 1918年、徽文高等普通学校に入学する。この頃から詩の創作活動を始め、この年の12月、『曙光』創刊号に小説「三人」を発表した。
長沢 規矩也(ながさわ きくや、1902年(明治35年)5月… 長沢 規矩也(ながさわ きくや、1902年(明治35年)5月14日 - 1980年(昭和55年)11月21日)は、日本の中国文学者、書誌学者。号は静あん。書斎号は学書言志軒。
金 声福(キム・ソンボク、朝鮮語: 김성복/金聲福、1902… 金 声福(キム・ソンボク、朝鮮語: 김성복/金聲福、1902年5月14日 - 1982年4月28日または4月29日)は、大韓民国の警察官僚(総警)、政治家。第3代韓国国会議員。 本貫は光山金氏。仏教徒。 全羅南道宝城郡出身。普成高等普通学校卒、東京正則学校英文科修了、日本大学法科専門部卒。大韓独立促成国民会宝城郡支部支部長、民統宝城郡事務局長、立法議院宝城郡代議員、治安局教育科兼警察専門学校勤務員、大同青年団・大韓青年団宝城郡団団長、宝城中学校後援会、宝城郡顧問、康津警察署・木浦警察署・大邱警察署署長、金泉地区・高霊地区戦闘司令官を務めた。1954年の第3代総選挙で無所属で当選し、まもなく自由党に入党した。
岡沢 秀虎(おかざわ ひでとら、1902年5月13日 - 1… 岡沢 秀虎(おかざわ ひでとら、1902年5月13日 - 1973年3月8日)は、ロシア文学者、評論家。 1902年、山口県生まれ。豊浦中学を卒業して、早稲田大学露文科に進んだ。在学中は早大童話会に所属。1940年、早稲田大学教授に就任。 太平洋戦争後の1946年、復活した露文科の再建にあたる。早稲田大学露文科に米川正夫を迎え、後進の育成に尽くした。研究者としてはスターリン体制の欠陥を指摘していた。
石丸 重治(いしまる しげはる、1902年(明治35年)5月… 石丸 重治(いしまる しげはる、1902年(明治35年)5月12日 - 1968年(昭和43年)12月12日)は、美術評論家。慶應義塾大学教授(法科)。 島根県出身。叔父に柳宗悦 。1915年(大正4年)、府立一中(現・都立日比谷高校)に入学したが半途(中途)退学。1927年(昭和2年)、慶應義塾大学英文科卒業。一中時代は小林秀雄や西竹一(バロン西、半途退学)、迫水久常、原奎一郎らと同期。また「青銅時代」を創刊するなど、この中学校の頃から評論に携わっていた。小林秀雄などとは、同人誌「山繭」を主宰し、また柳宗悦や吉田璋也、河井寛次郎らの民藝運動に初期には関わっている。 美術評論家として知られ、主な著作に『英国の工芸』(工政會出版部、1930年)、『英国教会本寺考』(好學社、1953年)。
高柳 真三(たかやなぎ しんぞう、1902年(明治35年)5… 高柳 真三(たかやなぎ しんぞう、1902年(明治35年)5月12日 - 1990年(平成2年)1月4日)は、日本の法制史学者、東北大学名誉教授。「高柳眞三」とも表記される。 石川県金沢市出身。1919年石川県立金沢第一中学校(現石川県立金沢泉丘高等学校)卒業。1922年旧制第四高等学校、1925年東京帝国大学法学部卒業(恩師:中田薫 )。1925年東北帝国大学法文学部助手、1927年同助教授、1941年、東北帝国大学法文学部教授。1949年宮城県女子専門学校 (旧制)校長。1951年東北大学教養部長。1952年9月「明治家族法史」にて東北大学にて法学博士受く。1958年、東北大学法学部長。1966年、定年退官、名誉教授、岩手県立大学盛岡短期大学部学長。
佐藤 信彦(さとう のぶひこ、1902年5月11日 - 19… 佐藤 信彦(さとう のぶひこ、1902年5月11日 - 1977年2月3日)は、慶應義塾大学文学部教授などを務めた、日本の国文学者。 彦根藩出身の軍人であった父の任地だった島根県那賀郡浜田町(後の浜田市の中心部)で生まれ、宮城県立仙台第一中学校(宮城県仙台第一高等学校の前身)を経て、東京の私立日本中学校(日本学園中学校・高等学校の前身)に転じ、校長だった杉浦重剛の薫陶を受けた。1920年に卒業して、慶應義塾大学文学部予科に入学し、1924年には本科国文学科に進んで、折口信夫の指導を受け、川合貞一や田中豊蔵に学ぶ。1927年に大学を卒業して予科の国語教師に採用され、その後、1943年に藤山工業図書館の事務監督・主事、1945年から1947年にかけて工学部事務監督を兼任となり、戦中戦後の混乱期に、大学行政の一翼を担った。
荒谷 直之介(あらたに なおのすけ、明治35年(1902年)… 荒谷 直之介(あらたに なおのすけ、明治35年(1902年)5月11日 - 平成6年(1994年)2月18日)は、日本の水彩画家。本名、直之助。[要出典]日展評議員、参与を勤めた。 水彩では困難とされていた人物表現にこだわった昭和を代表する水彩画家。 明治35年(1902年)5月11日、富山県富山市南田町に父鶴次郎、母コトの次男として[要出典]生まれる。 早くから画家を志し、赤城泰舒に師事する。その後、葵橋洋画研究所で黒田清輝らに学ぶ。 昭和11年(1936年)に日本水彩画会の第一賞を受賞、昭和15年(1940年)には昭和洋画奨励賞を受賞し、水彩画家としての頭角を現す。1940年には小堀進や春日部たすくらとともに「水彩連盟」を結成する。
岡 次郎(おか じろう、1902年 <明治35年> 5月10… 岡 次郎(おか じろう、1902年 <明治35年> 5月10日 - 1986年 <昭和61年> 5月4日)は、日本の経営者。富士石油社長、会長を務めた。位階は従四位。 佐賀県出身。1925年に東京帝国大学法学部英法科を卒業し、同年に東京電灯に入社。 1942年に関東配電(のちの東京電力)に転じ、1951年5月に取締役に就任し、1952年9月に常務、1959年1月にアラビア石油顧問1960年2月に常務を経て、1964年4月に富士石油社長に就任。1975年5月に会長、1981年6月に取締役相談役を経て、1984年6月には相談役に就任。1978年6月には共同石油会長に就任し、1979年5月から同年10月までに社長も兼任し、1980年6月には相談役に就任。
津屋 弘逵(つや ひろみち、1902年5月10日 - 198… 津屋 弘逵(つや ひろみち、1902年5月10日 - 1988年12月25日)は、日本の地質学者。 岐阜県出身。1926年東京帝国大学理学部地質学科を卒業。1937年理学博士の学位を取得。1930年、東京帝国大学地震研究所助教授に就任し、1940年に教授に昇格。1945年に研究所所長となる。1963年に定年退官し、東京大学名誉教授となる。 地質学的・岩石学的研究から富士山が3つの火山体からなることを解明した。1973年勲二等旭日重光章受勲、1978年度秩父宮記念学術賞受賞。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
江川 宇礼雄(えがわ うれお、1902年〈明治35年〉5月7… 江川 宇礼雄(えがわ うれお、1902年〈明治35年〉5月7日 - 1970年〈昭和45年〉5月20日)は、日本の俳優、映画監督、脚本家。本名はウィリー・メラー(後に江川 ウレオ)。愛称は「ウレシュウ」。 1902年(明治35年)、ドイツ極東艦隊海軍病院薬局長として来日したドイツ人のフリードリッヒ・ウィルヘルム・メラーと河内出身の日本女性ゑいの次男として神奈川県横浜市山下町(現在の同県同市中区同町)に生まれる。幼い時に、両親が離婚。父は長男を連れてドイツに帰国、母にひきとられた江川は本名を「ウィリー」から「ウレオ」に改名した。 1915年(大正4年)に神奈川師範附属小学校を卒業、同級生に青柳信雄、中田晴康(脚本家)、国木田虎雄、高橋英一がいた。
城 夏子(じょう なつこ、1902年5月5日 - 1995年… 城 夏子(じょう なつこ、1902年5月5日 - 1995年1月13日)は、日本の作家。 和歌山県西牟婁郡周参見町(現・すさみ町)出身。本名・福島静。和歌山県立和歌山高等女学校(現・和歌山県立桐蔭中学校・高等学校)卒。在学中から少女小説を書き、1924年『薔薇の小径』を刊行。『女人藝術』『婦人戦線』などに小説を発表。戦後は少女小説や童話を書く。
栃ノ花 善治郎(とちのはな ぜんじろう、1902年5月4日 … 栃ノ花 善治郎(とちのはな ぜんじろう、1902年5月4日 - 1992年4月23日)は昭和時代の大相撲力士。春日野部屋所属。本名は原→秋山善治郎。最高位は十両2枚目。 現在の東京都渋谷区出身。旧制錦城中学に入り、相撲部で主将をつとめ、1919年の全国大会で活躍した。翌1920年卒業後に春日野部屋に入門し、5月に初土俵を踏む。1927年1月十両昇進。十両を4場所連続在位したが、幕下に落ちた。1928年3月再十両を果たしたが、全休してそのまま25歳で廃業した。1992年に満89歳で死去した。
鏡岩 善四郎(かがみいわ ぜんしろう、1902年5月4日 -… 鏡岩 善四郎(かがみいわ ぜんしろう、1902年5月4日 - 1950年8月6日)は、青森県上北郡四和村(現:青森県十和田市)出身で粂川部屋に所属した大相撲力士。本名は佐々木 善四郎(ささき ぜんしろう)。最高位は西大関。 1902年5月4日に青森県三戸郡猿辺村(現:三戸町)に生まれる。幼いころに父親と死別し、母親の再婚に伴い上北郡四和村に移り住む。 子供の時から草相撲に出場し、怪力として鳴らした。そんな善四郎少年を見つけた粂川から勧誘されて粂川部屋に入門、1922年1月場所で初土俵を踏んだ。入門が遅かったために昇進も遅く、1927年10月場所で新十両昇進、1928年3月場所で新入幕を果たしたが、入幕時で既に25歳と決して速くなかった。
多屋 頼俊(たや らいしゅん、1902年5月3日 - 199… 多屋 頼俊(たや らいしゅん、1902年5月3日 - 1990年7月13日)は、日本の国文学者。仏教文学会主宰。大谷大学研究科修了、京都大学委託研究生。 仏教的な見地から『源氏物語』を研究し、「源氏物語の思想」として世に問う。和讃の定義を初めてした学者で、現在までこの定義は生きている[要出典]。真宗の僧として最高の学階講師に任じられた。 ※< >は研究誌・専門雑誌を示す 『源氏物語』の解釈として定説になっていた光源氏の須磨への引退は、《「朧月夜尚侍との関係の露見」と「藤壺中宮との密通による自責の念》であるということに対し、「宿世の因縁」と「もののけ」が主原因とした。テキストを正確に読むという手法を尊重し、現代の倫理観で全て処理するというのではなく、『源氏物語』制作時代の思想を先に解明するという多屋博士独特の研究法が高く評価された。
有竹 修二(ありたけ しゅうじ、1902年5月2日 - 19… 有竹 修二(ありたけ しゅうじ、1902年5月2日 - 1976年6月3日)は、日本のジャーナリスト。 兵庫県出身。慶應義塾大学卒。1926年朝日新聞社に入社。1942年論説委員となり「神風賦」(「天声人語」の前身)を担当。1946年時事新報に移り、編集局長などをへて常務。のち産業経済新聞論説委員。政治家伝記を書いたほか、講談にも造詣が深かった。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
岩崎 與八郎(いわさき よはちろう、1902年(明治35年)… 岩崎 與八郎(いわさき よはちろう、1902年(明治35年)5月1日 - 1993年(平成5年)12月28日)は、鹿児島県の実業家で、岩崎産業グループの創業者である。岩崎与八郎と表記されている場合もある。 1902年(明治35年)5月1日、当時の鹿児島県囎唹郡岩川村(岩川町、大隅町を経て現在の曽於市の一部)に、父斎藤斉(さいとうひとし)と母岩崎たねの間に生まれる。父は宮崎県西諸県郡小林村(現在の小林市)出身の人物で、岩川の種畜場に来て働いているうちに岩崎たねと結婚したが、酒飲みであることをたねの両親に嫌われて與八郎誕生後まもなく離縁され、與八郎は岩崎姓で育つことになった。父親は、與八郎が小学生のうちに死去している。
中村 栄孝(なかむら ひでたか、1902年5月1日-1984… 中村 栄孝(なかむら ひでたか、1902年5月1日-1984年1月4日)は、大正・昭和期の歴史学者。
黒沼 健(くろぬま けん1902年(明治35年)5月1日 -… 黒沼 健(くろぬま けん1902年(明治35年)5月1日 - 1985年(昭和60年)7月5日)は、日本の超常現象、超古代文明研究・執筆者で、SF作家・翻訳家としても活動した。本名は左右田 道雄(そうだ みちお)。 父の左右田信二郎は銀行家の左右田金作の弟で、経済学者で銀行家の左右田喜一郎は道雄からみて従兄弟にあたる。 神奈川県横浜市に生まれる。東京帝国大学法学部ドイツ法学科卒業。 1931年より海外探偵小説の翻訳を始める。戦前は雑誌『新青年』を中心に活躍したほか、日本文藝家協会や日本児童文芸家協会などに所属し、日本推理作家協会では理事を務めた。 東宝映画『空の大怪獣 ラドン』の原作、同『大怪獣バラン』の原案、大映テレビ室(大映テレビの前身)制作のテレビドラマ『海底人8823』の原作・脚本・主題歌作詞なども手がけた。
古川 正彦(ふるかわ まさひこ、1902年〈明治35年〉5月… 古川 正彦(ふるかわ まさひこ、1902年〈明治35年〉5月1日 - 1942年〈昭和17年〉9月19日)は、日本の醸造家、実業家、地家主、広島県多額納税者。 山口県出身。男爵・毛利祥久の五男。古川久吉の養子となる。1926年、早稲田大学専門部政治経済科を卒業。1929年、法学部英法科を卒業。 醤油醸造業を営む。藝備鉄道取締役、梅田機械製作所監査役などをつとめる。また地主・家主である。 趣味は碁、釣り。宗教は真宗。住所は広島市舟入幸町。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
吉田 正俊(よしだ まさとし、1902年4月30日 - 19… 吉田 正俊(よしだ まさとし、1902年4月30日 - 1993年6月23日)は、明治期から昭和期にかけての歌人、実業家。 福井県福井市出身。旧制福井中学校(現福井県立藤島高等学校)、東京帝国大学法学部卒業。石川島造船所自動車部門に入社し、のちにいすゞ自動車専務取締役や相談役を務めた。1974年、勲三等瑞宝章受章。東京都杉並区天沼に居を構えた。 歌人としては1925年「アララギ」に入会、土屋文明に師事し、のち選者、発行人。歌誌「柊」選者。高度経済成長期を背景に写実主義を貫いた。1965年『くさぐさの歌』で第11回日本歌人クラブ推薦歌集(現・日本歌人クラブ賞)、1976年『流るる雲』で第27回読売文学賞、1988年『朝の霧』で第23回迢空賞受賞。
竹中 恒夫(たけなか つねお、1902年4月30日 - 19… 竹中 恒夫(たけなか つねお、1902年4月30日 - 1971年2月4日)は、日本の政治家、参議院議員(1期)、歯科医師。日本歯科医政連盟会長、日本歯科医師会会長。 兵庫県洲本市出身。大阪歯科医学専門学校卒業、歯学博士。1956年7月、第4回参議院議員通常選挙に出馬し、初当選。1963年10月、参議院地方行政委員長に就任。1965年6月、第1次佐藤第1次改造内閣で大蔵政務次官に就任。 1971年2月4日死去、70歳。死没日をもって勲二等旭日重光章追贈、正四位に叙される。
武安 千春(たけやす ちはる、1902年 <明治35年> 4… 武安 千春(たけやす ちはる、1902年 <明治35年> 4月29日 - 1991年 <平成3年> 2月13日)は、日本の経営者。日本セメント社長、会長を務めた。山口県出身。位階は正四位。 1927年に京都帝国大学経済学部を卒業し、同年4月に浅野セメント(のちの日本セメント)に入社。1949年12月に取締役に就任し、1961年12月に常務、1964年12月に副社長を経て、1966年12月には社長に就任。1974年12月に会長に就任し、1982年7月には相談役に就任。 1972年11月に勲二等瑞宝章を受章。 1991年2月13日呼吸不全のために死去。88歳没。死没日付をもって正八位から正四位に進階した。
入佐 俊家(いりさ としいえ、1902年(明治35年)4月2… 入佐 俊家(いりさ としいえ、1902年(明治35年)4月26日 - 1944年(昭和19年)6月19日)は、日本の海軍軍人(海兵52期卒)。戦死による二階級特進で最終階級は海軍少将。 鹿児島県出身。郵便局長・入佐俊祥の息子として生れる。鹿児島二中を経て、1924年(大正13年)7月、海軍兵学校(52期)を卒業。翌年12月、海軍少尉に任官。1928年(昭和3年)12月から翌年11月まで第19期飛行学生として学んだ。 日中戦争時から陸攻隊を率いて多大な戦果をあげ、その技量と用兵から陸攻の神様 海軍の至宝と言われた。常に指揮官先頭を実践し、部下からも上司からも絶大な信頼を寄せられた。 鹿屋空飛行長で太平洋戦争開戦を迎え、南方進攻作戦に活躍、その後、海軍兵学校教官として内地へ帰還するが、1944年(昭和19年)3月、再建された機動部隊(第一機動艦隊)の第六〇一海軍航空隊司令兼空母大鳳の飛行長として新鋭空母大鳳に乗り組むことになる。
正岡 旭(まさおか あきら、1902年〈明治35年〉4月25… 正岡 旭(まさおか あきら、1902年〈明治35年〉4月25日 - 没年不明)は、日本の医師(産婦人科医)。医学博士。広島市医師会会長。正岡病院院長。 広島県広島市吉島町、正岡政太郎の長男。広島一中、松山高校を経て1928年、岡山医大卒業。同大学安藤産婦人科教室に入り1933年6月まで勤続、研究。 1932年、医学博士の学位を受く。1933年、正岡産婦人科医院開設、院長就任。1955年、第21回広島県医師会代議員会会長をつとめた。 1972年、勲四等叙勲。宗教は真宗。趣味はスポーツ、粘土細工、陶器。住所は広島市猫屋町。
三好 十郎(みよし じゅうろう、1902年4月23日 - 1… 三好 十郎(みよし じゅうろう、1902年4月23日 - 1958年12月16日)は、昭和初期から終戦後の復興期にかけて活動した劇作家、詩人、小説家。 佐賀県佐賀市八戸町生まれ。戸籍上は父の兄の子で、旧姓は森。孤児として育つ。4歳で三好家の養子になり、12歳で両親と育ててくれた祖母を失う。旧制佐賀中学校(現・佐賀県立佐賀西高等学校)を経て、早稲田大学英文科卒業。早稲田大学在学中の1924年(大正13年)に「早稲田文学」に詩「雨夜三曲」など五篇を発表してデビュー。サンジカリズムからマルクス主義に接近。壺井繁治らと左翼芸術同盟を結成し、ナップの下部組織プロット(日本プロレタリア劇場同盟)に属して、プロレタリア劇の作家として活動。