益田 喜頓(ますだ きいとん、本名木村 一、1909年9月1… 益田 喜頓(ますだ きいとん、本名木村 一、1909年9月11日 - 1993年12月1日)は、日本の俳優。昭和期を代表するコメディアンである。芸名の「ますだきいとん」は三大喜劇王の一人、「バスター・キートン」のもじり。
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益田 喜頓(ますだ きいとん、本名木村 一、1909年9月1… 益田 喜頓(ますだ きいとん、本名木村 一、1909年9月11日 - 1993年12月1日)は、日本の俳優。昭和期を代表するコメディアンである。芸名の「ますだきいとん」は三大喜劇王の一人、「バスター・キートン」のもじり。
雍仁親王妃勢津子(やすひとしんのうひ せつこ、1909年〈明… 雍仁親王妃勢津子(やすひとしんのうひ せつこ、1909年〈明治42年〉9月9日 - 1995年〈平成7年〉8月25日)は、日本の皇族。秩父宮雍仁親王の妃。旧名は松平節子(まつだいら せつこ)。身位は親王妃。お印は菊(きく)。 旧会津藩主・松平容保の六男で外交官の松平恆雄の長女。母は鍋島直大(侯爵、佐賀藩11代藩主)の娘・信子。 父の任地イギリスのロンドンで生まれる。生後数か月で帰国し、その後北京、天津、ワシントンの領事館・大使館で少女期を過ごす。1925年(大正14年)に渡米し、米国ワシントンD.C.のフレンドスクール(現シドウェル・フレンズ・スクール)で学び卒業。いわゆる帰国子女で、英語に堪能なだけでなく、外国人を前にした英語のスピーチはお手のものだったという。
小川 半次(おがわ はんじ、1909年9月9日 - 1994… 小川 半次(おがわ はんじ、1909年9月9日 - 1994年12月26日)は日本の政治家。衆議院議員(10期)、参議院議員(1期)。 京都予備学校(のちの京都商業)を経て、1932年、立命館大学法学部卒業。京都市議会議員(1936-1939年の3期)、京都府議会議員(左京区選出、1940年より1期)を経て、1946年の第22回衆議院議員総選挙に日本進歩党より出馬し初当選。以後衆議院(京都1区)10回、参議院(京都府選挙区)1回当選。改進党、日本民主党を経て保守合同で自由民主党に参加。所属派閥は岸派→福田派。 厚生大臣秘書官、衆議院予算委員長・文化委員長、自民党副幹事長、全国組織委員長、中央政治大学院学長、国民運動本部長、参議院予算委員長、裁判官弾劾裁判所裁判長などを歴任。
八田 貞義(はった さだよし、1909年9月8日 - 198… 八田 貞義(はった さだよし、1909年9月8日 - 1986年12月20日)は、日本の政治家。位階は従三位。 自由民主党衆議院議員(9期)。 現在の福島県会津若松市出身。父は陸軍省参与官などを務めた八田宗吉。会津中学を経て1933年に日本医科大学を卒業後、東京市衛生試験所医学部長、厚生省国立衛生試験所細菌部長、日本医科大学教授を経て、1955年の第27回衆議院議員総選挙に自由党公認で福島2区から立候補し初当選。以後通算当選9回。恩給問題に詳しく、予算編成では党の実力者として恩給予算の適正化に尽力した。 自由民主党では池田→前尾→大平派に所属し、1962年には第2次池田内閣第2次改造内閣において内閣官房副長官を務めるなどしたが、1963年に同一選挙区から初当選した伊東正義が大平正芳の古くからの親友であったため、以降伊東に地盤を切り崩されるようになる。
片桐 典徳(かたぎり つねのり、1909年9月8日 - 19… 片桐 典徳(かたぎり つねのり、1909年9月8日 - 1991年9月21日)は、日本の実業家、鉄道実業家。京浜急行電鉄代表取締役社長、会長など重職を歴任。中興の祖と言われる。 長野県下伊那郡神稲村(現豊丘村)生まれ、旧制飯田商業学校(長野県飯田長姫高等学校)を経て、1930年昭和鉄道学校高等科卒業、湘南電気鉄道入社、駅務係として勤務しながら旧制横濱専門学校高等商業科(現:神奈川大学)1934年卒業。大東急解体後、京浜急行電鉄1955年総務部長、1975年5月27日から1981年6月25日まで社長。1975年からエヌケービー代表取締役社長。1980年12月に横浜新都市センターが設立されると同社社長に就任。
位野木 寿一(いのき(いのぎ) かずいち、1909年(明治4… 位野木 寿一(いのき(いのぎ) かずいち、1909年(明治42年)9月8日 - 2006年(平成18年)7月16日)は、日本の地理学者。学位は、理学博士(東京教育大学)。大阪教育大学名誉教授。 香川県生まれ。1935年東京文理科大学地理学科卒、1935年静岡中学校(現・静岡県立静岡高等学校)教諭、1936年大阪府天王寺師範学校教諭、1949年大阪学芸大学助教授、校名変更で大阪教育大学教授、1966年附属図書館長、1975年定年退官、名誉教授。1961年「戦後における戦災衛星都市堺の変貌」で、理学博士(東京教育大学)。 2006年7月16日、心不全のため死去。
出雲 八重子(いずも やえこ、1909年9月8日 - 没年不… 出雲 八重子(いずも やえこ、1909年9月8日 - 没年不詳)は、日本の女優である。本名は泉 ヤエ(いずみ やえ)。別名に出雲 八枝子、出雲 八恵子がある。 1909年(明治42年)9月8日、青森県八戸町(現八戸市)に生まれる(原籍地は鹿児島県鹿児島市新照院町九八)。実科高等女学校卒業後、エリアナ・パヴロワのもとでダンスを習う。 1930年(昭和5年)5月、松竹蒲田撮影所に入社、五所平之助監督の『微笑む人生』で映画デビューする。1932年(昭和7年)に斎藤寅次郎監督の『女は寝て待て』で主演の小倉繁の相手役に抜擢され、以来、剽軽で愛敬のある顔が買われて、斎藤監督の短編喜劇映画に重用された。『腰の抜けた女』では主役を務め、キネマ旬報ベストテンに第7位でランキングされた『この子捨てざれば』では女房役を好演、短編喜劇の三枚目女優として活躍した。
平田 九州男(ひらた くすお、1909年9月7日 - 198… 平田 九州男(ひらた くすお、1909年9月7日 - 1989年10月26日)は、日本の経営者。富士写真フイルム(現在の富士フイルム)社長を務めた。 大分県中津市出身。1933年に関西学院高等商学部を卒業し、1934年に富士写真フイルムに入社。1954年に取締役に就任し、1964年に常務、1969年6月に専務を経て、1971年6月に社長に就任。1980年5月に会長に就任。 1974年4月に藍綬褒章を受章し、1979年4月に勲二等瑞宝章を受章。 1989年10月26日、呼吸不全のために死去。80歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
金丸 吉生(かなまる よしお、1909年 <明治42年> 9… 金丸 吉生(かなまる よしお、1909年 <明治42年> 9月6日 - 1995年 <平成7年> 9月20日)は、日本の経営者、銀行家。百五銀行頭取を務めた。位階は正五位。 三重県鈴鹿市出身。1934年に慶應義塾大学経済学部を卒業し、1940年に百五銀行に入行。1955年10月に取締役に就任し、1957年10月に常務、1963年10月に専務を経て、1969年5月に副頭取に就任し、1977年11月に頭取に昇格。1991年6月に会長に就任。1987年6月から1995年6月までに近畿日本鉄道取締役を務めた。 1980年11月に勲五等瑞宝章を受章し、1988年11月に勲三等旭日中綬章を受章。 1995年9月20日心筋梗塞のために死去。
中川 順夫(なかがわ のりお、1909年9月5日 - 200… 中川 順夫(なかがわ のりお、1909年9月5日 - 2004年)は、日本の映画監督、脚本家である。伊世 亜夫の筆名も持つ。 1909年(明治41年)9月5日、大阪府に生まれる。 1926年(大正15年)、旧制・大阪府立今宮職工学校(現在の大阪府立今宮工科高等学校)を卒業、1930年(昭和5年)、新興キネマ演出部に入社した。1934年(昭和9年)、田坂具隆監督の『月よりの使者』に助監督としてついた後に、脚本部に異動した。1939年(昭和14年)、須山真砂樹監督の『泣き笑ひの天国』で脚本家としてデビューした。 その後、読売新聞社映画部、日本映画社に移籍し、ドキュメンタリー映画の製作に携わる。1940年(昭和15年)、『オモチャの科学』で監督としてデビューした。
大谷 日出夫(おおたに ひでお、1909年9月4日 - 19… 大谷 日出夫(おおたに ひでお、1909年9月4日 - 1971年)は、日本の俳優である。サイレント映画末期の主演俳優で、トーキー以降、とくに第二次世界大戦後は脇に回った。本名鈴木 盛夫(すずき もりお)。 1909年(明治42年)9月4日、福島県、現在の郡山市に生まれる。安積中学を卒業後、一時期鉄道工場に勤務する。 1932年に日活太秦撮影所に入社し、1933年(昭和8年)2月1日、東京・浅草公園六区の富士館等で公開された、辻吉朗監督、湊邦三原作のサイレント映画『霧行燈』に主演して、満23歳で映画界にデビューした。 1934年(昭和9年)、新興キネマの発足に参加、多くの映画に主演した。1942年(昭和17年)の戦時統制による同社の大映(現在の角川映画)への合併後は、出演作の記録がない。
時実 利彦(ときざね としひこ、1909年9月4日 - 19… 時実 利彦(ときざね としひこ、1909年9月4日 - 1973年8月3日)は、日本の生理学者。東京大学名誉教授。専門は大脳生理学。医学博士。岡山県和気郡備前町(現備前市)生まれ。その名前を冠した時実利彦記念賞もある。 時実は、実験脳生理学の手法を日本に導入、大脳皮質の活動水準を調節し行動に至る神経活動を電気生理学的に体系づけた。 大学の恩師に橋田邦彦がいる。また数学者の岡潔と親交があり、岡の晩年は時実よりも岡の方が大脳生理学の師に近い関係であった。
江草 隆繁(えぐさ たかしげ、1909年(明治42年)9月4… 江草 隆繁(えぐさ たかしげ、1909年(明治42年)9月4日 - 1944年(昭和19年)6月15日)は、日本の海軍軍人。海兵58期。五二一空陸上爆撃機搭乗員として参加したあ号作戦で戦死した。最終階級は海軍大佐。 1909年(明治42年)9月4日、広島県芦品郡有磨村下有地(現・福山市芦田町)に農家の九右衛門とキタの三男として生まれる。江草家は旧家で代々地主である。江草姓は、同地方の戦国時代の豪族などに見られ、広島と岡山の県境に多く見られる。 1925年(大正14年)、海軍兵学校と陸軍士官学校の両方を合格。江草は海兵に行く気だったが、入校直前の身体検査で結核と誤診されて海兵57期には入校できなかった。
池田 遊子(いけだ ゆうし、本名:保夫、1909年9月3日 … 池田 遊子(いけだ ゆうし、本名:保夫、1909年9月3日 - 2006年4月9日)は日本の彫刻家。仏像の制作を中心に制作活動を行う。その傍らアバンギャルドな作品も多数制作。1950年代には大阪市立美術館の三階屋根裏部屋を仕事場とし、次々と意欲的な作品を生み出した。
鮫島 眞男(さめしま さねお、1909年9月2日 - 199… 鮫島 眞男(さめしま さねお、1909年9月2日 - 1995年10月2日)は、日本の国会職員、日本の法学者。第4代衆議院法制局長。衆議院法制局退官後は、城西大学と近畿大学の教授を務めながら商法を研究。位階は正三位。 鹿児島県日置郡東市来村長里(現・日置市東市来町長里)にて生まれ、1922年3月鶴丸尋常小学校卒業。鹿児島県立第二鹿児島中学校 (旧制)へ入学し、2年次から修了まで首席。1926年に同中を4年修了して、第七高等学校造士館 (旧制)へ進学し同校文科でも首位の成績。1930年3月第七高等学校造士館文科卒業。同年東京帝国大学法学部法律学科に入学、1933年、同学科を卒業。 1932年の高等試験司法科に合格し、1933年大学卒業後函館地方裁判所司法官補に任じられ、1934年12月より判事(東京地方裁判所、水戸地方裁判所)。
小林 静雄(こばやし しずお、1909年(明治42年)9月2… 小林 静雄(こばやし しずお、1909年(明治42年)9月2日 - 1945年(昭和20年)1月24日)は、日本の能楽研究者。研究のみならず能評、さらに新作能の創作など才気にあふれた活動で将来を嘱望されたが、第二次世界大戦で戦死した。 東京世田谷の生まれ。1932年(昭和7年)、早稲田大学文学部国文学科卒業。卒業論文は能作者・観世信光について研究した「観世小次郎信光事蹟考」。これら能作者の研究は後に、代表作『謡曲作者の研究』(1942年(昭和17年))に結実することとなる。大学卒業後から読売新聞・国民新聞などに能評を掲載する一方、大学院在学中の1933年(昭和8年)には『能楽史料・第一輯』を刊行。
石橋 毅(いしばし たけし、1909年〈明治42年〉9月2日… 石橋 毅(いしばし たけし、1909年〈明治42年〉9月2日 - 1943年〈昭和18年〉9月23日)は、日本の実業家、政治家、千葉県多額納税者。計器製作業、合資会社石橋計器製作所代表社員。 千葉県香取郡本大須賀村久井崎(のち昭栄村、大栄町、現成田市)出身。石橋敬五郎の長男。石橋計器を創立、自動車関係メーターの製作に従事する。 本大須賀教育会長、村会議員、郡農副会長、県山林会評議員、郡産業組合共同処理所管理組合長、郡家禽購買販売利用組合長、東京市葛飾産業報国連合会理事、千葉木材工業社長、石橋計器製作所長、北総自動車合同、成鉄タクシー、常総合同運輸各取締役をつとめる。 その他、1935年〈昭和10年〉3月、千葉県立中央図書館落成記念として、父敬五郎蒐集の漢籍類1,041冊を寄贈したことでも知られる。
岩元 達一(いわもと たついち、1909年(明治42年)9月… 岩元 達一(いわもと たついち、1909年(明治42年)9月1日 - 1982年(昭和57年)6月23日)は、日本の実業家、政治家。山形屋会長、貴族院多額納税者議員。 鹿児島県鹿児島市で、実業家・岩元善蔵(岩元信兵衛弟)の三男として生まれ、伯父・信兵衛の養嗣子となり、山形屋の6代目を継承した。第一鹿児島中学校(現鹿児島県立鶴丸高等学校)を経て、1934年(昭和9年)慶應義塾大学法学部を卒業した。その後、東京銀座の松屋に入社し、デパート経営を経験した。 1935年(昭和10年)山形屋の取締役に就任し、1943年(昭和18年)会長となる。その他、田辺鉄工所監査役、新生工業副社長、日本瓦斯取締役、小牧組取締役などを務めた。
中村 佳永子(なかむら かえこ、1909年(明治42年)9月… 中村 佳永子(なかむら かえこ、1909年(明治42年)9月1日 - 1987年(昭和62年))は、日本のピアニスト。元徳島文理大学音楽学部教授。 神戸絢、井口秋子に師事し、1931年(昭和6年)に東京音楽学校(現:東京芸術大学音楽学部)甲種師範科を卒業。卒業の際、二条厚基賞を受賞。 音楽学校卒業後は徳島女子短期大学部音楽科(現:徳島文理大学短期大学部音楽科)の講師となり、後に徳島女子大学音楽学部(現:徳島文理大学音楽学部)の教授に就任する。 第二次世界大戦後の徳島県内のピアノ教育に尽力し、東京芸術大学・桐朋学園大学・神戸女学院大学・大阪音楽大学などの大学にピアニストを輩出した。また門下生に相愛大学名誉教授の片岡みどりなどがいる。
エドガートン・ハーバート・ノーマン (英語: Edgerto… エドガートン・ハーバート・ノーマン (英語: Edgerton Herbert Norman 、1909年9月1日 - 1957年4月4日)は、カナダの外交官。日本史の歴史学者。日本生まれ。終戦直後に、日本通であるため、GHQにも影響を与えた。1956年に在エジプト・カナダ大使として、カイロに赴任し、スエズ動乱における国際連合緊急軍の派遣を成功に導くことに尽力し、和平に貢献した。ソ連のスパイの疑いをかけられ自殺した。 1909年、在日カナダ人宣教師のダニエル・ノーマンの子として現在の長野県軽井沢町で生まれた。父ダニエル(1864年 - 1941年)は1897年に来日し、1902年から長野市に住み、廃娼運動、禁酒運動に尽くしたが、ハーバート自身はシェリー酒を嗜みながら雑誌を読むタイプだった。
水島 早苗(みずしま さなえ、1909年8月31日 - 19… 水島 早苗(みずしま さなえ、1909年8月31日 - 1978年2月25日)は、日本のジャズボーカリスト。鹿児島県出身。本名は永田喜子。立教高等女学校卒業。トニー相良名義でも活動していた。 日本のジャズ草創期を代表する女性ボーカリスト。また自らも歌手として活動する一方で、1957年には「水島早苗ボーカル研究所」を設立して後進の育成にも取り組み、弟子にはマーサ三宅、金子晴美、佐良直美、前野曜子、伊集加代らがいる。 死後の1985年には、ジャズ専門紙『ジャズワールド』が水島の功績を称える意味で「水島早苗ジャズヴォーカル賞」(現在の日本ジャズヴォーカル賞)を創立するなど、その功績は高く評価されている。
見砂 直照(みさご ただあき、1909年8月30日 - 19… 見砂 直照(みさご ただあき、1909年8月30日 - 1990年6月20日)は、日本のジャズミュージシャン、バンドマスター。石川県金沢市出身。自身のバンド「見砂直照と東京キューバン・ボーイズ」を率いた。 父は追分節の名手である見砂東楽、息子は2005年に再結成した東京キューバン・ボーイズのリーダー・見砂和照(みさご かずあき)。また、娘が岩佐徹(フジテレビ・WOWOWの元アナウンサー)と結婚したことから、岩佐にとっては義父に当たる。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、音楽関係者(バンド等)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:音楽/PJ:芸能人)。
細谷 俊夫(ほそや としお、1909年〈明治42年〉8月29… 細谷 俊夫(ほそや としお、1909年〈明治42年〉8月29日 - 2005年〈平成17年〉5月16日)は、日本の教育学者。 東京府北多摩郡清瀬村生まれ。旧制東京府立第六中学校、旧制浦和高等学校を経て、1932年に東京帝国大学文学部教育学科を卒業。尋常小学校の訓導を経て、1946年岡崎高等師範学校教授、名古屋大学教育学部の創設に参加、1949年名大教授。1952年東大教育学部教授、1970年定年退官、名誉教授、立教大学教授。白梅学園短期大学学長。産業技術教育を研究、日本産業教育学会理事長。1937年には教育科学研究会技術教育研究部会に参加した。 妻は入沢宗寿(教育学者)の長女。長女はコロンビア大学C・V・スター東アジア図書館司書で、牧野成一(言語学者、プリンストン大学名誉教授)の妻。
太田青丘(おおた せいきゅう、1909年8月28日 - 19… 太田青丘(おおた せいきゅう、1909年8月28日 - 1996年11月15日)は、昭和・平成期の歌人、漢文学者、法政大学名誉教授。専門は中国詩学。文学博士。歌誌『潮音』主宰。妻(後妻)は歌人の太田絢子。青丘の娘は京都大学国語国文科卒の木村雅子(生母は満喜子)で『潮音』現主宰。 長野県東筑摩郡広丘村(現・塩尻市)生まれ。本名・兵三郎(ひょうざぶろう)。太田水穂の兄・嘉曾次の三男で、父の没後に水穂・四賀光子夫妻の養子となる。当初は漢詩の創作から始まり、1928年(昭和3年)水穂の歌誌『潮音』に入会。旧制武蔵高等学校を経て、1934年(昭和9年)東京帝国大学文学部中国文学科卒。東大大学院をへて文部省国民精神文化研究所所員。
藤井 貢(ふじい みつぐ、1909年8月28日 - 1979… 藤井 貢(ふじい みつぐ、1909年8月28日 - 1979年10月23日)は、東京市出身の俳優、元ラグビー選手。日本代表・キャップは1。
大西 芳雄(おおにし よしお、1909年(明治42年)8月2… 大西 芳雄(おおにし よしお、1909年(明治42年)8月28日 - 1975年(昭和50年)3月4日)は、日本の憲法学者。京都帝国大学法学部教授・立命館大学教授を経て、立命館大学名誉教授。妻は藤井行徳の娘。 京大憲法学・国法学の正系とされる森口繁治に師事。1940年から1947年まで京都大学の憲法学講座を担当した(40年から43年までは黒田覚と分担。帝国憲法第一章、同第二章を黒田覚が担当。大西芳雄の担当は第三章以下。)。戦後、同僚の教授が大西の著作を地方軍政部に投書したことが端緒となり、戦中の著作である『国家と法律学』の記述内容を問題視され、国家主義者として佐伯千仭と共に教職追放処分を受ける。
田辺 正男(たなべ まさお、1909年8月28日 - 200… 田辺 正男(たなべ まさお、1909年8月28日 - 2002年4月17日)は、日本の国文学者・国語学者・教育者。学位は、文学博士(國學院大学・1961年)。國學院大学名誉教授、元国学院女子短期大学初代学長。三重県亀山市生まれ。東京都育ち。田邊正男とも表記される。 国語学者として中学校・高等学校の多くの国語教科書・古文教科書・指導要領の策定に関わった この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。
大久保 忠利(おおくぼ ただとし、1909年8月28日 - … 大久保 忠利(おおくぼ ただとし、1909年8月28日 - 1990年6月1日)は、日本の言語学者・国語学者・文筆家。 神奈川県小田原市生まれ。1929年東京外国語学校卒。新聞記者、ユーモア作家、中学教師などを経て、東京都立大学教授。言語学、国語学、国語教育などについて多くの著述活動をした。
新田 圭二(にった けいじ、1909年〈明治42年〉8月27… 新田 圭二(にった けいじ、1909年〈明治42年〉8月27日 - 1996年〈平成8年〉12月14日)は、日本の政治家、経営者。山口県宇部市長(第17代)。宇部興産(現:UBE)取締役山陽無煙鉱業所長、日本石灰工業所社長。 1934年(昭和9年)、慶應義塾大学法学部を卒業。宇部興産(後のUBE)グループにおいて、同社取締役山陽無煙鉱業所長、宇部化学工業(後の宇部マテリアルズ)専務取締役を歴任した。1947年(昭和22年)4月22日、宇部市基本財産として多額の私財を寄付し紺綬褒章を受章。 また社業と並んで宇部市議会議員を務め、1952年(昭和27年)には教育委員会制度の発足に伴い市議会代表として教育委員に選出。
山口 正(やまぐち ただし、1909年(明治42年)8月26… 山口 正(やまぐち ただし、1909年(明治42年)8月26日 - 2000年(平成12年)5月26日)は、日本の国文学者。茨城大学名誉教授。上代文学、特に『万葉集』が専門だが、作文教育にも関わった。 鹿児島県加治木(現・姶良市加治木町)生まれ。鹿児島県立加治木中学校 (旧制)を経て、1930年3月第七高等学校造士館 (旧制)文科卒業。1933年東京帝国大学文学部国文科卒業。海城中学校(現・海城高等学校)教諭、1936年長野県飯田中学校(現・長野県飯田高等学校)教諭、釜山高等女学校教諭、水戸高等学校教授、茨城大学文理学部助教授、教養部教授、1975年定年退官、名誉教授。2000年5月26日、虚血性心不全のため死去。
宮原 誠一(みやはら せいいち、1909年8月26日 - 1… 宮原 誠一(みやはら せいいち、1909年8月26日 - 1978年9月26日)は、日本の教育学者。東京大学名誉教授。専攻は社会教育学。彼の教育学の核心は自己教育ととしての社会教育、共同学習と相互教育の連動であり、それを簡明に論説したのが戦前の「形成と教育」(1940)、戦後の「教育の本質」(1949)や「社会教育の本質」(1949)である(山田正行『平和教育の思想と実践』同時代社、2007年、参照)。 東京生まれ。旧制水戸高校を経て東京帝国大学文学部教育学科卒業後、新興教育研究所、教育科学研究会で活動ののち、1940年法政大学講師。戦後は文部省社会教育局勤務などを経て、1953年東京大学教育学部教授。
加倉井 秋を(かくらい あきを、1909年8月26日 - 1… 加倉井 秋を(かくらい あきを、1909年8月26日 - 1988年6月2日)は、茨城県出身の俳人、建築家。本名は昭夫。日本画家の加倉井和夫は弟。 茨城県出身。東京美術学校(現・東京芸術大学)建築科卒業。建築会社勤務を経て、1970年より武蔵大学教授(美術工芸史)。 俳句は1936年より、「あきを」の号で「馬酔木」に投句。1938年より「秋を」に改めて「若葉」に投句、富安風生に師事する。1941年より「若葉」編集長。1946年、安住敦らと俳句作家懇話会を結成。のちに同人誌「諷詠派」創刊に参加。1948年、「若葉」第一期同人。1955年、愛媛療養所の機関誌であった「冬草」の雑詠選者。1959年より「冬草」を東京に移管し主宰となる。
竹内 不忘(たけうち ふぼう、1909年8月26日 - 20… 竹内 不忘(たけうち ふぼう、1909年8月26日 - 2011年6月29日)は、日本の彫刻家。本名は竹内 延吉(たけうち のぶよし)。 長野県小県郡和村(現東御市)出身。川端画学校に学ぶ。1931年、日本美術協会に出品し銅賞。1935年に第1回東邦彫朔院賞、1937年に文展に『山』を出品、1938年に第3回東邦彫朔院恩賜賞受賞。その後も出展を続け、1965年に日展審査員、1966年に日展会員。 1979年に紺綬褒章受章。1990年、池袋西口公園に『平和の像』を建立している。故郷である東御市には東御市立和小学校の『太陽の子』、東御市役所前市民交流広場の『雷電像』などがある。 2011年6月29日、心不全のため東京都豊島区の自宅で[要出典]死去。
森岡 俊男(もりおか としお、1909年8月25日 - 19… 森岡 俊男(もりおか としお、1909年8月25日 - 1979年10月29日)は、日本の実業家。関西電力元社長、会長。愛媛県松山市出身。 1934年に早稲田大学法学部を卒業し、宇治川電気(のちの関西電力)に入社した。 取締役、専務、副社長を経て、1975年7月からは社長を務め、電源開発問題などに取り組むが、体調不良により1977年6月に辞任。労務畑が長く、荒れた労使関係の調整に尽力した。 日本万博博覧会協会理事、宇治電ビル会長、山陽電気鉄道取締役などを歴任した。 1968年10月に藍綬褒章を受章。 1979年10月29日脳血栓により京都市内の自宅で死去。70歳没。
富田 富士雄(とみた ふじお、1909年8月24日 - 19… 富田 富士雄(とみた ふじお、1909年8月24日 - 1999年3月12日)は、日本の社会学者・社会運動家。 横浜市生まれ。1934年関東学院神学部卒業。社会的キリスト教運動に参加して検挙。戦後米国に学んだのち関東学院大学教授、1968年関東学院長。横浜コミュニティ研究会会長。1972年横浜文化賞受賞、1982年勲三等瑞宝章受勲。 1970年 日本大学 文学博士 論文の題は「人口社会学の基本問題」。
片桐 顕智(かたぎり あきのり、1909年8月23日 - 1… 片桐 顕智(かたぎり あきのり、1909年8月23日 - 1970年1月29日)は、日本の歌人、日本文学研究者、文筆家。 長野県野沢温泉村豊郷生まれ。新潟県社会教育課勤務の片桐佐太郎の三男。 旧制新潟高等学校卒、1935年東京帝国大学文学部国文科卒。日本放送協会に勤務、編成局社会部長、ラジオ局文芸部長、芸能局次長、1960年総合放送文化研究所所長。1952年に『NHK短歌』を創刊。 1965年退職、1966年跡見学園女子大学教授。 学生時代に歌誌『真人』に参加。落合直文、斎藤茂吉を研究。日本エッセイストクラブ賞選考委員を務めた。
森永 健次郎(もりなが けんじろう、1909年(明治42年)… 森永 健次郎(もりなが けんじろう、1909年(明治42年)8月23日 - 1994年(平成6年)2月11日)は、日本の映画監督である。 1909年(明治42年)8月23日、佐賀県小城郡内の村(現在は多久市域)に生まれる。 1934年(昭和9年)に開所した日活多摩川撮影所に入社し、1936年(昭和11年)には首藤寿久監督の『日蝕は血に染む』に「監督」として名を連ねる。同作は満27歳を目前にした同年7月8日に公開された。1942年(昭和17年)1月、日活の製作部門が他社と合併して大映(大日本映画製作)を形成すると、翌1943年(昭和18年)には、朝鮮映画製作という会社で『昭和19年』という国策映画を監督する。
宮沢 縦一(みやざわ じゅういち、1908年9月22日 - … 宮沢 縦一(みやざわ じゅういち、1908年9月22日 - 2000年7月8日)は、音楽評論家。東京都出身。京都帝国大学法学部を卒業した。在学中にエマヌエル・メッテルの指導を受ける。オペラ中心に解説、評論を行い、武蔵野音楽大学教授を務めた。1968年にNHK放送文化賞、1972年に紫綬褒章を受賞した。1987年に脳梗塞で倒れ、第一線を退いたが、以後も妻の秋子の口述筆記による「オペラシリーズ」などを出版した。
本多 秋五(ほんだしゅうご、1908年(明治41年)9月22… 本多 秋五(ほんだしゅうご、1908年(明治41年)9月22日 - 2001年(平成13年)1月13日)は、愛知県西加茂郡猿投村(現:豊田市)出身の文芸評論家である。 1912年、4歳で母と死別。1921年、旧制愛知県立第五中学校(現・愛知県立瑞陵高等学校)入学。同人誌『朱雀』に参加。1926年、旧制第八高等学校に入学。1929年、東京帝国大学文学部国文科に入学、マルクス主義に近づく。1930年、ロシア革命記念日のデモに参加し検挙される。1932年、東大を卒業。卒論は「森鷗外研究」、大学院に進学する。1933年、治安維持法違反で検挙され翌年釈放、郷里に帰る。のちに長兄について満洲を訪問。1936年に上京し、逓信省電務局無線課に勤務。
岸上 康夫(きしがみ やすお、1908年(明治41年)9月2… 岸上 康夫(きしがみ やすお、1908年(明治41年)9月22日 - 1990年(平成2年)4月6日)は、日本の裁判官。最高裁判所判事。京都府出身。 小、中学を1年ずつ飛び級をして三高に進み、1930年(昭和5年)3月に京都帝国大学法科を卒業。1931年(昭和6年)12月に判事となり、大阪、神戸、東京地裁などに勤務。1952年(昭和27年)7月から6年2ヶ月、最高裁経理局長として老朽化したり戦災になった裁判所庁舎の復興に務めた。 その後、鹿児島地・家裁所長、最高裁事務次長、東京高裁判事、仙台高裁長官、東京高裁長官を歴任した。長官時代は「長官や所長の仕事は人事問題と会計、経理が中心。落ち着いて裁判ができるような環境をつくるという台所仕事」と話す。
八島 太郎(やしま たろう、1908年9月21日 - 199… 八島 太郎(やしま たろう、1908年9月21日 - 1994年6月30日)は、日本とアメリカとで活躍した日本人画家、絵本作家である。本名 : 岩松 淳(いわまつ じゅん)。鹿児島県肝属郡小根占村出身。作家の伊佐千尋、俳優のマコ岩松は息子。
天野 武一(あまの ぶいち、1908年9月21日 - 199… 天野 武一(あまの ぶいち、1908年9月21日 - 1997年12月2日)は、日本の検察官。最高裁判所判事。 1932年(昭和7年)に東京帝国大学法科を卒業。石川島造船所に入社したが、転身。1934年(昭和9年)に司法官試補となり、1935年(昭和10年)に検事となった。 東京地検が振り出し、1943年(昭和18年)に司法省刑事局に勤務。司法大臣秘書官、法務府人事課長、経理部長を歴任。1955年(昭和30年)に東京地検特捜部長に就任し、売春汚職事件を摘発した。その後、甲府地検検事正、法務総合研究所長、神戸地検検事正、大阪地検検事正を務めた。大阪地検検事正時代には大阪タクシー汚職事件を手掛けた。
山岸 宏(やまぎし ひろし、1908年(明治41年)9月20… 山岸 宏(やまぎし ひろし、1908年(明治41年)9月20日 - 没年不明)は、日本の海軍軍人。最終階級は中尉。妻は皇族賀陽宮家の従姉妹あや子。 新潟県出身(高田市東城町を経て、現上越市東城町)。名士の家に7人キョウダイの次男として生まれ、父の宏隆は日露戦争に出征した陸軍歩兵大尉で、在郷軍人高田分会長や新潟県会議員を2期、副県会議長も歴任した。姉の多嘉子は従軍記者として日中戦争に赴いた後、北支で宣撫教育に携わった。新潟県立高田中学校(現新潟県立高田高等学校)を経て、陸士海士ともに合格、父が山岸家伝来の刀を手に日露戦争に従軍して敵が恐れをなしたことに憧れ、短剣生活を夢に1928年(昭和3年)3月、海軍兵学校(56期)を卒業。
澤田 三郎(さわだ さぶろう、1908年(明治41年)9月2… 澤田 三郎(さわだ さぶろう、1908年(明治41年)9月20日 - 2002年(平成14年)8月29日)は、日本の政治家。福島県須賀川市長(5期)。 1932年京都帝国大学経済学部卒業。愛知、兵庫、富山の各県に勤務した後、陸軍司政官となる。戦後、福島県岩瀬地方事務所長などを経て、1951年須賀川市長に当選する。 市長就任後はまず、赤字財政からの脱却に取り組み、地方財政再建特別措置法を受け入れ、市役所内部の機構改革に取り組んだ。市職員の研修を実施し、職員の資質と勤務能率の向上を図った。また、市税滞納者の整理に力を入れるとともに、歳出入両面での努力の結果、1期目で負債を完済させ、自主独立の財政計画を達成させるに至った。
安達 良助(あだち りょうすけ、1908年(明治41年)9月… 安達 良助(あだち りょうすけ、1908年(明治41年)9月20日 - 1967年(昭和42年)5月11日)は、昭和期の実業家、政治家。参議院議員。 山形県山形市出身。東京帝国大学を中退した。 1933年(昭和8年)山形県履物組合連合会理事に就任。その他、山形県桐樹奨励会理事、同木履工業組合理事、同桐材統制組合理事、山形県桐材(株)監事、山形県下駄統制組合理事長、同桐紙工業組合理事長、日本木履製造組合連合会常任理事、山形市体育会理事、山形県体育協会理事などを務めた。 1947年(昭和22年)4月の第1回参議院議員通常選挙に全国区から民主党公認で出馬して当選(補欠、任期3年)し、国民民主党に所属し参議院議員を1期務めた。
平野 婦美子(ひらの ふみこ、1908年9月19日 - 20… 平野 婦美子(ひらの ふみこ、1908年9月19日 - 2001年6月)は、日本の教育者。 千葉県出身。旧姓は佐久間。千葉女子師範卒。千葉県長浦尋常小学校。1930年、結婚し姓を平野に改め、市川尋常高等小学校へ赴任、1937年(昭和12年)病気により一時休職。1938年(昭和13年)6月より東京市第四日野小学校などで教諭を務めた。 市川尋常高等小学校在籍中より寒川道夫、国分一太郎らの綴り方教師と交流し、「東京綴方の会」に参加。さらに教育科学研究会の言語教育研究部会に参加。1940年(昭和15年)に出版した『女教師の記録』は文部省の推薦図書に指定される。千葉県においても東京都においても模範訓導として表彰された。
吉田 忠雄(よしだ ただお、1908年9月19日 - 199… 吉田 忠雄(よしだ ただお、1908年9月19日 - 1993年7月3日)は、日本の実業家で、YKKの創業者。富山県出身。魚津市、黒部市の名誉市民。神奈川県藤沢市に居住していた。YKK二代目社長・YKK AP創業者吉田忠裕は長男。 富山県下新川郡下中島村住吉(現在の魚津市住吉)で生まれる。魚津尋常高等小学校卒業後の1928年に上京。 古谷商店の社員を経て1934年にYKKの前身であるサンエス商会を設立し、ファスナーの生産を始める。以降、YKKを世界的な企業に育て上げた。兄弟の吉田久松もYKKの設立に貢献した。 魚津町議会議員、魚津商工会議所初代会頭(1949年~)、富山地方裁判所魚津支部民事司法委員なども務めた。
島袋 龍夫(しまぶくろ たつお、1908年9月19日 - 1… 島袋 龍夫(しまぶくろ たつお、1908年9月19日 - 1975年5月31日)は、沖縄県の空手家。沖縄空手の流派の一つ、一心流を創始した空手の大家の一人である。娘婿に上江洲安儀。 島袋龍夫は、1908年(明治41年)に具志川村宇喜屋武(現うるま市喜屋武)士族の長男として生まれた。1907年(明治40年)に旧藩時代に「間切」は現在の行政区「村に改められたので、屋取(やーどぅい)(士族の集落)出身の人々はまだ士族意識を持っており、その出自を誇ったものである。龍夫は兄弟10名の子宝家庭の出身で何かと将来を期待されていた。末っ子の弟・島袋永三も空手をやり、後世少林流の使い手として世に知られる存在となる。
鷲尾 洋三(わしお ようぞう、1908年 (明治41年)9月… 鷲尾 洋三(わしお ようぞう、1908年 (明治41年)9月18日 - 1977年(昭和52年)4月26日)は、日本の編集者、実業家。文藝春秋副社長を務めた。東京生まれ。 慶應義塾大学文学部卒業後、1932年(昭和7年)文藝春秋社入社。36年谷崎潤一郎の二番目の妻だった古川丁未子と結婚。戦時中、三たび応召されるが生き延びる。 戦後、菊池寛が文藝春秋を解散すると、車谷弘らと佐佐木茂索を社長に迎えて文藝春秋新社を創立。池島信平を『文藝春秋』編集長とし、のち自身も編集長を担い、谷崎の「幼少時代」を連載した。その後、取締役出版局長、専務、副社長を歴任した。 1969年(昭和44年)丁未子の死後、千代と再婚した。
豊田 三郎(とよだ さぶろう、1908年〈明治41年〉9月1… 豊田 三郎(とよだ さぶろう、1908年〈明治41年〉9月18日 - 2015年〈平成27年〉12月6日)は、日本の昭和 - 平成期の洋画家。 福井県大野郡下味見村(現・福井市)生まれ。福井農林学校(現・福井農林高校)を卒業し家業の農業に従事していたが25歳で上京、帝国美術学校(現・武蔵野美術大学)へ入学。卒業後は中島飛行機製作所に勤務。1950年に教員となり、郷里・福井県内の公立中学校で1968年まで美術を教えた。 1989年に「ふるさとの山河」でサロン・ド・パリ展大賞受賞。豊かな緑の杉の描写を特徴とし、「トヨダグリーン」とも表現される。2001年、当時の福井県足羽郡美山町より、名誉町民の称号が贈られた。