佐藤 繁彦(さとう しげひこ、1887年9月24日 - 19… 佐藤 繁彦(さとう しげひこ、1887年9月24日 - 1935年4月16日)は、日本の牧師、神学校教師。日本におけるマルティン・ルターの研究の開拓者である。 1887年(明治20年)福島県会津若松市に生まれる。1907年(明治40年)に第一高等学校に入学する。 同年キリスト教に入信して、組合教会の指導者の海老名弾正から本郷教会で洗礼を受ける。1910年(明治43年)に東京帝国大学に入学するが、同年京都帝国大学に転校する。1913年(大正2年)、京都帝大卒業後、東京帝大大学院でルターの研究を始めた。大学院時代は、日本基督教会の神学校の東京神学社でも学び、富士見町教会で牧会する植村正久に師事した。
浮谷 竹次郎(うきや たけじろう、1887年(明治20年)9… 浮谷 竹次郎(うきや たけじろう、1887年(明治20年)9月24日 - 1965年(昭和40年)3月8日)は、大正から昭和時代の政治家・実業家。千葉県東葛飾郡市川町長、初代市川市長。北総鉄道支配人。 浮谷権兵衛の弟として千葉県に生まれる。浮谷家は葛飾郡市川新田で農業を営み、当主は代々権兵衛を名乗っていた。東京府立第三中学校(現・東京都立両国高等学校)、東北帝国大学農科大学予科を経て、1913年(大正2年)7月に同大畜産科を卒業する。卒業後、志願兵として1年従軍し、1917年(大正6年)陸軍騎兵少尉に進んだ。 ついで、北海道技手、東北帝国大学農科大学予科講師、宮城県農業技師、京成電軌重役秘書、会計・工務課長、北総鉄道支配人、成田鉄道会社取締役建設部長などを歴任。
中塚一碧楼(なかつか いっぺきろう、1887年(明治20年)… 中塚一碧楼(なかつか いっぺきろう、1887年(明治20年)9月24日 - 1946年(昭和21年)12月31日)は、日本の俳人。本名・直三(なおぞう)。俳号は他に一碧(いっぺき)。 岡山県浅口郡玉島町(現・岡山県倉敷市玉島勇崎)の旧家で製塩業等を営む実業家・中塚銀太の四男に生まれる。 1900年(明治33年)岡山中学(現・岡山県立岡山朝日高校)入学。1906年(明治39年)中学卒業の年に洗礼を受けクリスチャンとなる。翌、1907年(明治40年)早稲田大学商科に入学する。大学時代は飯田蛇笏に兄事し俳句を学ぶ。早稲田吟社にも一時参加。後に早大を中退し帰郷。 帰郷後の一碧楼は守旧的な『国民俳壇』の句風よりも、新傾向俳句運動を展開する河東碧梧桐の『日本俳句』に傾倒。
下村 定(しもむら さだむ、1887年(明治20年)9月23… 下村 定(しもむら さだむ、1887年(明治20年)9月23日 - 1968年(昭和43年)3月25日)は、日本の陸軍軍人、政治家。最終階級は陸軍大将。位階勲等功級は正三位勲一等功三級。 陸軍大臣(第56・57代)、教育総監(第27代)、参議院議員(1期)などを歴任した。 本籍地は高知県。旧土佐藩士で、陸軍中佐・金沢聯隊区司令官の下村定辞の長男として石川県金沢市に生まれる。 金沢第一中学校、名古屋陸軍幼年学校を経て、1908年(明治41年)12月、陸軍士官学校第20期を皇族を除いた6番/273名の成績で卒業する。砲兵科では、橋本群(陸軍省軍務局軍事課長、参謀本部第1部長を歴任、のち中将)に次いで2番の成績であった。
砂山 角野(すなやま かくや、1886年10月21日 - 1… 砂山 角野(すなやま かくや、1886年10月21日 - 1937年8月15日)は、日本光学工業(現ニコン)のレンズ設計者。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
島津 忠重(しまづ ただしげ、1886年〈明治19年〉10月… 島津 忠重(しまづ ただしげ、1886年〈明治19年〉10月20日 - 1968年〈昭和43年〉4月9日)は、日本の海軍軍人、貴族院議員。 島津氏第30代当主。島津忠義の四男であるが、兄たちの早世によりその嫡男(跡取り)となる。海軍少将正二位勲一等公爵。神号は「島津忠重命」。幼名は秀丸。 姉は邦彦王妃俔子で、香淳皇后の叔父にあたり、第125代天皇明仁の大叔父にあたる。 仙巌園で生まれ、幼少時代を過ごし、島津家庭尋常小学校(忠重とその兄弟が通うための学校)に通う。1898年(明治31年)2月1日、父・忠義の薨去により家督を相続し、公爵を襲爵する。叔父の島津珍彦が後見人となる。ほどなく鹿児島より上京し、学習院に編入学する。
鈴木悦(すずき えつ、1886年10月17日 - 1933年… 鈴木悦(すずき えつ、1886年10月17日 - 1933年9月11日)は、著作家・記者・労働運動の指導者・大学講師。 レフ・トルストイの『戦争と平和』の全訳やカナダでの労働組合運動で知られる(後述)。 鈴木と田村の文学碑が、豊橋市高師緑地の駐車場の西側にある。二人の顔のレリーフと瀬戸内寂聴の撰文が組み合わされており、高さは約5メートルである。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
黒田 徳米(くろだ とくべい、1886年10月17日 - 1… 黒田 徳米(くろだ とくべい、1886年10月17日 - 1987年5月15日)は、日本の博物学者・貝類学者。日本の貝類研究の第一人者。日本で初めての貝類総目録を完成させ、日本貝類学会の創設者の一人でもある。発見した貝の新種は650種に及ぶ。 兵庫県三原郡福良浦(現:南あわじ市福良向谷)出身。学歴は小学校卒業のみである。1901年(明治34年)、京都の平瀬與一郎の丁稚奉公をしながら、彼の貝類の研究を手伝う。1919年(大正8年)、平瀬貝類博物館閉鎖に伴い、2年間にわたって残務処理を行う。1921年京都帝国大学助手。1928年(昭和3年)、日本貝類学会の創設にかかわり、のち会長となる。日本産貝類の分布や種類をあきらかにし、「日本産海棲貝類目録」などを刊行した。
古田 俊之助(ふるた しゅんのすけ、1886年(明治19年)… 古田 俊之助(ふるた しゅんのすけ、1886年(明治19年)10月15日 - 1953年(昭和28年)3月23日)は、日本の実業家で、第七代住友総理事である。第2次大戦の敗戦により、住友財閥が解体され、住友最後の総理事となる。 京都府葛野郡衣笠村字等持院(現・京都市北区等持院北町)の寺侍井上数馬・エンの五男として生まれる。1899年(明治32年)14歳の時、大阪製鎖所を経営する古田敬徳の養子となり、大阪府一中(現・大阪府立北野高等学校)に進んだ。六高を経て、1910年(明治43年)東京帝国大学工科大学を卒業し、住友総本店に入社する。 入社以来、ほとんど住友伸銅所の技術畑を歩き、1935年(昭和10年)の住友金属工業誕生とともに、専務取締役に任ぜられ、翌1936年(昭和11年)には合資理事として住友の大幹部の1人となった。
石川 節子(いしかわ せつこ、旧姓 堀合、1886年〈明治1… 石川 節子(いしかわ せつこ、旧姓 堀合、1886年〈明治19年〉10月14日 - 1913年〈大正2年〉5月5日)は日本の女性歌人。石川啄木の妻。 1886年(明治19年)に岩手県南岩手郡上田村(現・盛岡市)上田新小路11番地(現在の岩手大学農業資料館付近)に生まれる。堀合家は南部家臣の家系であり、父・忠操は岩手郡役所に勤めていた。節子が生まれて3年半後の1890年(明治23年)4月に一家は新山小路に転居している。9人兄弟(男子3・女子6)の長姉で、末の弟とは22歳の年齢差があった。すぐ下の妹であるふき子は後述するように、宮崎郁雨の妻となった。 1892年(明治25年)に盛岡第一尋常小学校を、1899年(明治32年)3月に盛岡高等小学校を卒業する。
秋田 重季(あきた しげすえ、1886年(明治19年)10月… 秋田 重季(あきた しげすえ、1886年(明治19年)10月12日 - 1958年(昭和33年)2月13日)は、明治から昭和時代の技術者、政治家、華族。貴族院子爵議員、秋田家第14代当主。旧名・重光。 旧公家出身の伯爵大原重朝の二男であったが、元三春藩主で子爵の秋田映季に嫡男が居なかったため、その娘の芳子と結婚して秋田家を継いだ。養父の死去に伴い1907年(明治40年)3月6日、子爵を襲爵。 1910年(明治43年)に東京帝国大学工科大学を卒業。同年、逓信省臨時発電水力調査局雇となり、鉄道院技手、同技師などを務める。また、歌会始講頌となる。 1919年(大正8年)5月17日、貴族院子爵議員に選出され、研究会に属し貴族院が廃止された1947年(昭和22年)5月2日まで在任。
本間 久雄(ほんま ひさお、明治19年(1886年)10月1… 本間 久雄(ほんま ひさお、明治19年(1886年)10月11日 - 昭和56年(1981年)6月11日)は、日本の英文学者・国文学者。文学博士。早稲田大学名誉教授、実践女子大学名誉教授。弟に日本画家の本間国生がいる。米沢市出身。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
菅 隆俊(かん たかとし、1886年10月9日 - 1961… 菅 隆俊(かん たかとし、1886年10月9日 - 1961年7月16日)は、日本の自動車技術者。トヨタ自動車工業取締役設計部長を経て、豊田工機社長を務めた。紫綬褒章受章。 香川県三豊郡財田村(現・三豊市)出身。1914年東京高等工業学校(のちの東京科学大学)機械科卒業。1916年住友私立職工養成所(のちの住友工業高等学校)仕上・旋工・鍛工場主任。1920年に豊田佐吉の豊田式織機株式会社(のちの豊和工業)に転じる。 1933年に豊田喜一郎により豊田自動織機製作所に招聘される。1934年には自動車量産化のためアメリカ合衆国で調査を行い、挙母工場(のちのトヨタ自動車本社工場)の設計責任者を務め、岩岡次郎、豊田英二、齋藤尚一と建設構想にあたった。
吉井 勇(よしい いさむ、1886年(明治19年)10月8日… 吉井 勇(よしい いさむ、1886年(明治19年)10月8日 - 1960年(昭和35年)11月19日)は、明治末期から昭和中期の日本の歌人、劇作家、小説家である。元伯爵(華族)。宮中歌会始選者、日本芸術院会員。本名の読み仮名は「よしい いさみ」。 “いのち短し、戀(こひ)せよ、少女(をとめ)”の歌詞で知られる『ゴンドラの唄』の作詞者。北原白秋らと「パンの会」を結成。石川啄木らとは雑誌「スバル」を発行して耽美派の拠点とした。京都の祇園を愛し、「祇園歌人」の異名で呼ばれた。人生享楽の世界を歌った代表作『酒ほがひ』(明治43年)のほか、『祇園歌集』(大正4年)、『人間経』(昭和9年)、『天彦』(昭和14年)などがある。
草野 豹一郎(くさの ひょういちろう 1886年10月7日 … 草野 豹一郎(くさの ひょういちろう 1886年10月7日 - 1951年9月12日)は、日本の裁判官、法学者、弁護士。
栗山 茂(くりやま しげる 1886年〈明治19年〉10月6… 栗山 茂(くりやま しげる 1886年〈明治19年〉10月6日 - 1971年〈昭和46年〉2月3日)は、日本の外交官、最高裁判所判事(任期は1947年8月4日 - 1956年10月5日)。 福井中学、東京府立一中、第一高等学校(旧制)を経て、1913年(大正2年)東京帝国大学卒業。 1913年(大正2年)外交官領事官試験に合格し、1914年(大正3年)外務省入省。在フランス日本国大使館一等書記官としてフランス駐在。フランス語が堪能で、鋭い国際的視野を持っていたが、辛口の論客として知られていた。1919年(大正8年)パリ講和会議と1921年(大正10年)ワシントン会議で全権委員随員を務める。 1933年(昭和8年)に外務省条約局長、1937年(昭和12年)に駐スウェーデン大使、1939年(昭和14年)に駐ベルギー大使兼ルクセンブルク公使に就任。
大久保 繁雄(おおくぼ しげお、1886年(明治19年)10… 大久保 繁雄(おおくぼ しげお、1886年(明治19年)10月6日 - 1958年(昭和33年)3月17日)は、昭和の日本の実業家。三菱石油社長や千代田化工建設初代社長・会長を歴任した。 大久保為昭の四男として長崎県に生まれる。1912年7月東京帝国大学政治科卒業後、三菱合資会社に入社。1918年三菱鉱業(現三菱マテリアル)、翌年三菱商事に入社し、香港・大阪・シンガポールなどで支店長を務めた。1944年6月三菱石油(現 JXTGエネルギー)に移ると、同年11月より同社社長を務める。1948年に同社工事部が分離独立して千代田化工建設が発足すると初代社長に就任。1957年11月、同社会長となり、玉置明善が次代社長となった。
佐々木 喜善(ささき きぜん、1886年〈明治19年〉10月… 佐々木 喜善(ささき きぜん、1886年〈明治19年〉10月5日 - 1933年〈昭和8年〉9月29日)は、日本の民俗学者、作家、文学者、文学研究者、民話・伝説・習俗・口承文学の収集家、研究家。一般には学者として扱われるが、佐々木自身は資料収集者であり学者ではないと称している。 オシラサマやザシキワラシなどの研究と、400編以上に上る昔話の収集は、日本の民俗学、口承文学研究の大きな功績で、「日本のグリム」と称される。 岩手県土淵村(現在の岩手県遠野市土淵)の裕福な農家に育つ。母方の祖父である万蔵は近所でも名うての語り部で、喜善はその祖父から様々な民話や妖怪譚を吸収して育つ。その後、祖父の医者になる期待を背負い、明治35年、岩手県医科学校(現在の岩手医科大学)に入学するも、医師としての将来を思い描くことができず、2年後に中退する。
田中 壽一(たなか じゅいち、1886年(明治19年)10月… 田中 壽一(たなか じゅいち、1886年(明治19年)10月5日 - 1960年(昭和35年)11月11日)は、日本の物理学者。学校法人名城大学創設者。福岡県山門郡柳河町(現・福岡県柳川市)出身。 柳河尋常小学校、柳河高等小学校、福岡県立中学伝習館(現・福岡県立伝習館高等学校)、東京高等工業学校(現東京工業大学)電気科電気機械分科を卒業(明治42年)。卒業後逓信省(現総務省)に入り、電気事業者届出落成電気工作物の検査・監査に当たった。その当時の部下が後に東海大学を創立した松前重義である。明治45年(1912年)4月、明治専門学校(現九州工業大学)助教授となったが、大正4年(1915年)8月東北帝国大学理科大学物理学科(現東北大学理学部)に入学して勉学に励んだ。
徳川 義親(とくがわ よしちか/ぎしん、1886年(明治19… 徳川 義親(とくがわ よしちか/ぎしん、1886年(明治19年)10月5日 - 1976年(昭和51年)9月6日)は、日本の政治家、植物学者、狩猟家。尾張徳川家第19代当主。位階・勲等・爵位は従二位勲二等侯爵。戦前の貴族院議員で、第25軍軍政顧問。戦後は社会党を支援して党顧問となるが、公職追放を受けた。日ソ交流協会会長。戦前マレー半島で虎狩りをしたことから、虎狩りの殿様として親しまれた。自伝に『最後の殿様』がある。 父は越前松平家・松平慶永(春嶽)で、1908年に尾張徳川家の婿養子となり、家督を相続した。同家の東京移転に際し、愛知県下の土地等の財産の処分を指揮し、1931年に財団法人徳川黎明会を設立して、同家伝来の什宝・書籍を同財団付属の徳川美術館・蓬左文庫で保存・公開した。
阿野 季忠(あの すえただ、1886年(明治19年)10月4… 阿野 季忠(あの すえただ、1886年(明治19年)10月4日 - 1944年(昭和19年)12月3日)は、大正から昭和期の実業家、政治家、華族。貴族院子爵議員、陸軍主計少尉。旧公家の阿野家。 子爵・阿野実允の三男として生まれ、父の死去に伴い、1887年(明治20年)10月20日、子爵を襲爵した。 1912年(明治45年)7月、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。1913年(大正2年)十五銀行に入行し、秘書業務部副長、監理課長、大阪支店長、取締役、副頭取などを歴任。その他、藤永田造船所取締役、第一信託取締役、園池製作所会長、蓬莱殖産専務取締役、帝国倉庫運輸監査役などを務めた。 1944年3月24日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し、研究会に所属して活動したが、出征し同年12月に戦死した。
中村 武羅夫(なかむら むらお、1886年(明治19年)10… 中村 武羅夫(なかむら むらお、1886年(明治19年)10月4日 - 1949年(昭和24年)5月13日)は、日本の編集者、小説家、評論家。 北海道岩見沢村生まれ。家は鳥取県からの開拓移民で旧士族の家系。岩見沢村立東小学校卒。岩見沢尋常高等小学校卒業後、進学を望むも家のりんご園経営が没落したため断念。小学校の代用教員を経て、博文館の「文章世界」で小説が次点佳作となったのをきっかけに1907年に上京。大町桂月、徳田秋声と親しくなり彼らの紹介で、小栗風葉門下に入る。 後に真山青果の紹介で『新潮』記者となり、明治末から大正期にかけて同誌の中心的編集者として活躍した。『中央公論』の滝田樗陰と並んで大正期の名編集者と称された。
小林 與次右ヱ門(与次右衛門、こばやし よじえもん、1886… 小林 與次右ヱ門(与次右衛門、こばやし よじえもん、1886年〈明治19年〉10月4日 - 1962年〈昭和37年〉11月9日)は、昭和時代の政治家。神奈川県高座郡相模原町長、相模原市長。 神奈川県高座郡上溝村(溝村、上溝町を経て、現相模原市中央区)に生まれる。上溝小学校高等科、津久井郡湘南村葉山島東林教校修業、溝村立上溝実業補習学校を経て、早稲田大学講義録中学科、文学科、法律科などに取り組む。家業の農業に従事する傍ら1911年(明治44年)から1916年(大正5年)まで鳩川農業学校教諭嘱託、助教諭を務め、鎌倉郡立農事講習所講師を歴任した。1932年(昭和7年)神奈川県会議員に当選し、2期務め、1941年(昭和16年)上溝町助役、同年相模原町会議員に転じ、1947年(昭和22年)には相模原町長に就任した。
長谷川 赳夫(はせがわ たけお、1886年(明治19年)10… 長谷川 赳夫(はせがわ たけお、1886年(明治19年)10月3日 - 1980年(昭和55年)6月25日)は、大正から昭和時代戦前の政治家。官僚。貴族院多額納税者議員。錦鶏間祗候。 長谷川市郎左衛門の長男。新潟県出身。1896年(明治29年)家督を相続し前名の亀一郎を改める。1913年(大正2年)東京帝国大学法科大学を卒業し、同大学院を修学する。文官高等試験に合格する。 1915年(大正4年)貴族院試補となって以降、衆議院、貴族院、内閣(内閣官房総務課長)各書記官、帝都復興院、臨時震災救護事務局各兼任書記官、臨時営繕局事務官、法制局勅任参事官、内閣統計局長などを歴任した。ほか、資源局、社会局各参与、新潟県農業会長、国際統計協会正会員などを務めた。
遠藤 卓治(えんどう たくじ、1886年〈明治19年〉10月… 遠藤 卓治(えんどう たくじ、1886年〈明治19年〉10月3日 - 没年不明)は、日本の農民、埼玉県多額納税者。有限責任行幸村信用販売購買組合理事。 埼玉県北葛飾郡行幸村(現・幸手市)出身。遠藤鎛吉の二男。1925年、家督を相続する。農業を営む。貴族院多額納税者議員選挙の互選資格を有する。 趣味は園芸、盆栽、読書。宗教は禅宗。住所は埼玉県北葛飾郡行幸村大字千塚。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
石崎 伝蔵(いしざき でんぞう、旧字体: 石崎 傳藏、188… 石崎 伝蔵(いしざき でんぞう、旧字体: 石崎 傳藏、1886年(明治19年)10月2日 - 1999年(平成11年)4月29日)は、日本の教育者で同国最高齢だった男性。 旧制・茨城縣立太田中學校(現在の茨城県立太田第一高等学校)を卒業後、大里尋常小学校の教員となり、、茨城県内の旧制高等小学校の校長などを務めた。1912年に結婚し、2男2女の子がいた。1928年3月に退職後青年会長、村会議員等に就いた。第二次世界大戦後の1946年に妻は死去した。生前、健康の秘訣は「1日5000回の足踏み、風呂はぬるめ、肉ならば牛」と語っていた。1日最低5時間は読書にあてるという活字好きで、長女と2人暮らしだったが、1997年6月頃より歩行が不自由となり、1999年3月頃より体調を崩して自宅療養していた。
小沢 治三郎(旧字体: 小澤 治三郞、おざわ じさぶろう、1… 小沢 治三郎(旧字体: 小澤 治三郞、おざわ じさぶろう、1886年(明治19年)10月2日 - 1966年(昭和41年)11月9日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。海兵37期。第31代となる最後の連合艦隊司令長官を務めた。 1886年(明治19年)10月2日、宮崎県児湯郡高鍋町24で元高鍋藩士の小沢寅太郎とヤツの次男として生まれる。宮崎中学(現・県立宮崎大宮高校)に在学中、不良青年と争いになり柔道の投げ技で撃退したが、暴力沙汰として退学処分となる。陸軍軍人だった兄・宇一郎の上官・牛島貞雄から日露戦争の戦場満州より「過ちを改むるに憚ること勿れ」(論語 学而第一 8からの引用)の手紙を送られた事をきっかけに上京し、1905年に成城中学校へ転入した。
横井 礼以(よこい れいじ、1886年〈明治19年〉10月1… 横井 礼以(よこい れいじ、1886年〈明治19年〉10月1日 - 1980年〈昭和55年〉6月22日)は、日本の画家。勲等は勲四等。名古屋造形芸術短期大学名誉教授、社団法人二紀会名誉会員。本名は横井 禮一(よこい れいいち)。当初は横井 禮市(よこい れいいち)との筆名を用いた。なお、本名の「禮一」、および、かつての筆名の「禮市」の「禮」は「礼」の旧字体であるため、横井 礼一(よこい れいいち)、横井 礼市(よこい れいいち)とも表記される。なお、筆名の「礼以」については新字体を用いている。 緑ヶ丘洋画研究所主宰、二科会参与、第二紀会委員、名古屋造形芸術短期大学造形芸術科教授などを歴任した。 愛知県海部郡弥富村(現弥富市)出身の洋画家である。
池田 水藻(いけだ みずも、1886年(明治19年)10月1… 池田 水藻(いけだ みずも、1886年(明治19年)10月1日 - 1967年(昭和46年)12月27日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 鹿児島県川辺郡平山村(川辺村平山、川辺町平山を経て、現在の南九州市川辺町平山)出身。陸軍士官学校第19期、陸軍大学校第30期卒業。1923年(大正12年)8月、陸軍歩兵少佐に進級し、同年9月時点で歩兵第30連隊大隊長の任にあった。1925年(大正14年)12月に第14師団参謀に転じ、1928年(昭和3年)3月8日に歩兵第63連隊附となり、松江高等学校に配属された。同年3月24日には陸軍歩兵中佐に進級し、1931年(昭和6年)3月には学校配属を解かれ、歩兵第63連隊附となり、1932年(昭和7年)5月に高崎連隊区司令官に着任し、6月には陸軍歩兵大佐に進級した。
石川 一衛(一衞、いしかわ かずえ、1886年(明治19年)… 石川 一衛(一衞、いしかわ かずえ、1886年(明治19年)9月30日 - 1960年(昭和35年)9月1日)は、日本の実業家、政治家。参議院議員。 埼玉県榛沢郡新戒村(のち大里郡新会村、現:深谷市)で生まれる。埼玉県立熊谷中学校を卒業した。 日本蹄鉄社長、釜渕木材工業取締役、釜渕産業取締役、日米工業会長などを務めた。 政界では、民主党埼玉県副支部長を務め、1947年4月、第1回参議院議員通常選挙で埼玉県地方区から立候補して当選(任期3年)し、その後、国民民主党に所属して参議院議員を一期務めた。議員退任後、埼玉県モーターボート競走会長を務めた。1957年3月、埼玉県大里郡豊里村(新会村の後継自治体)育英資金として10万円寄付より同年9月28日に紺綬褒章受章する。
勝田 孝興(かった たかおき、1886年9月30日 - 19… 勝田 孝興(かった たかおき、1886年9月30日 - 1976年5月23日)は、日本のアイルランド文学者・語学者。 島根県松江市出身。1911(明治44)年、東京帝国大学(現在の東京大学)英文科卒。1925年から2年間、文部省から推薦されアイルランド留学。旧制神奈川県立横須賀中学校(現・横須賀高校)、旧制千葉県立佐倉中学校(現・佐倉高校)の各教諭、旧制商船学校、旧制山形高等学校(現・山形大学)の各教授を経て同志社大学教授に転じ、同専門学校英星版部長を兼任。戦後は滋賀大学教授、大阪工業大学教授。専門はアイルランドの文芸復興関連の演劇やアングロ・アイリッシュの発音に関する研究。著書多数。1976年5月23日に脳血栓のため89歳で逝去。
青木 文教(あおき ぶんきょう、 1886年(明治19年)9… 青木 文教(あおき ぶんきょう、 1886年(明治19年)9月28日 - 1956年(昭和31年)11月7日)は、日本のチベット研究者で僧侶。チベット=西本願寺間の交換留学生としてチベットのラサ市に派遣され、ダライ・ラマ13世の教学顧問を務めた。 1886年、浄土真宗本願寺派末寺正福寺(現在の滋賀県高島市)生まれ。京都府立第二中学校から京都仏教大学(現龍谷大学)に入学。在学中の1910年(明治43年)、西本願寺法主・大谷光瑞の命でインドで仏教遺跡調査に従事し、1911年(明治44年)、ロンドンで教育事情調査に従事する。同年、清国のチベット進軍を逃れてインドのダージリンに亡命していたダライ・ラマ13世に謁見し、学僧ツァワ・ティトゥーを日本への留学生として同行する。
小栗 常太郎(おぐり つねたろう、1886年9月28日 - … 小栗 常太郎(おぐり つねたろう、1886年9月28日 - 1962年7月5日)は愛知県出身の飛行家。東京で小栗飛行学校を開設し校長を務めた。医療ソーシャルワーカーの先駆者である浅賀ふさは妹。 愛知県知多郡半田の大資産家として知られた小栗家。常太郎は小栗富治郎の長男として1886年(明治19年)9月28日に出生。父は酒や醤油に時計の製造、銀行や紡績業など事業の多角化を進めていた。 常太郎は1900年(明治33年)に旧制県立岡崎中学へ入学したが一年の途中で退学。巣鴨の家庭学校を経て1903年(明治36年)7月、留岡幸助に従いアメリカ留学のため横浜港から土佐丸で太平洋を渡った。その後、ミリタリー・スクールを経て1905年(明治38年)9月にペンシルベニア大学へ入学。
近藤 信竹(こんどう のぶたけ、1886年(明治19年)9月… 近藤 信竹(こんどう のぶたけ、1886年(明治19年)9月25日 - 1953年(昭和28年)2月19日)は、日本の海軍軍人。海兵35期首席・海大17期。最終階級は海軍大将。 1886年9月25日、大阪府で近藤堅三の次男として生まれる。天王寺中学を経て、海兵35期。入校時の席次は114番、2年次は6番、3,4年次は首席。同期に高須四郎、野村直邦らがいる。1907年11月20日、35期を首席で卒業、少尉候補生となる。1908年12月25日、海軍少尉に任官。 1923年12月1日、海軍中佐に進級。1924年(大正13年)2月5日、東宮武官(侍従武官兼務)に任命され、翌日には摂政宮・皇太子(昭和天皇、当時23歳)と皇太子妃(香淳皇后)に謁見する。
渡辺 剛二(わたなべ ごうじ、1886年〈明治19年〉9月2… 渡辺 剛二(わたなべ ごうじ、1886年〈明治19年〉9月24日 - 1959年〈昭和34年〉7月11日)は、日本の実業家、医師である。宇部興産(現・UBE)初代会長。 1886年(明治19年)、山口県厚狭郡宇部村(現宇部市)でのちに沖ノ山炭坑(UBEの前身)を創業する渡辺祐策の次男として生まれる。熊本医学専門学校を経て京都帝国大学医学部を卒業し、父・祐策が創業した沖ノ山炭鉱の医局設立に携わる。 1934年(昭和9年)、祐策の死去に伴い沖ノ山炭坑の社長を引き継ぐ。1942年(昭和17年)、宇部興産設立に伴い同社会長に就任。また、山口県議会議長や山口県医師会長も兼務し、山口県立医学専門学校(のちの山口県立医科大学、現山口大学医学部)の設立に尽力した。
二代目 市川 松蔦(いちかわ しょうちょう、1886年(明治… 二代目 市川 松蔦(いちかわ しょうちょう、1886年(明治19年)9月23日 - 1940年(昭和15年)8月19日)は歌舞伎役者。本名は鈴木 鐵彌(すずき てつや)。屋号は若松屋。 東京市四谷区(現在の東京都新宿区)出身。初代市川左團次の門人となり、1896年(明治29年) 9月東京歌舞伎座『鬼一法眼三略巻』で市川左喜松を名乗って初舞台。師の死後は子息の二代目市川左團次一座に加わり、若女形として腕を上げる。 1906年(明治39年)9月明治座の初代左團次追善興行『世響太鼓功』でお静実ハ梅が枝と巴御前の二役を勤め市川莚若と改名。1911年(明治44年) 正月明治座で二代目市川松蔦を襲名した。1913年(大正2年) には二代目左團次の妹で日本舞踊の高橋幸子と結婚。
桑木 崇明(くわき たかあきら、1885年(明治18年)10… 桑木 崇明(くわき たかあきら、1885年(明治18年)10月22日 - 1945年(昭和20年)12月6日)は、日本の陸軍軍人。陸士16期恩賜・陸大26期恩賜。最終階級は陸軍中将。 本籍石川県。桑木崇台歩兵大佐の三男として広島で生まれる。広島一中、広島陸軍地方幼年学校(首席)、中央幼年学校(首席。次席は永田鉄山。)を経て、1904年(明治37年)10月、陸軍士官学校(16期)(全兵科では4番/549名であり、砲兵科首席、恩賜)を卒業。同年11月、砲兵少尉に任官し野砲兵第14連隊付となる。1905年(明治38年)3月から1906年(明治39年)2月まで日露戦争に出征。1910年(明治43年)11月、陸軍砲工学校普通科(恩賜)高等科(16期)を卒業。
本間 善庫(ほんま ぜんこ、1885年(明治18年)10月2… 本間 善庫(ほんま ぜんこ、1885年(明治18年)10月22日 - 1960年(昭和35年)11月17日)は、台湾総督府官僚。福島県郡山市長。 福島県安達郡本宮町(現在の本宮市)出身。1911年(明治44年)に東京帝国大学法科大学政治科を卒業した。愛知県属、同警視、同幡豆郡長を務め、台湾総督府警視に転じた。その後台中州警務部長、台北州警務部長、新竹州内務部長、台湾総督府内務局地方課長、澎湖庁長、台東庁長、台湾総督府交通局理事を歴任した。 退官後は財団法人拓殖奨励館参事、台湾青果株式会社常務取締役、同相談役、台湾協会常務理事、台湾製塩株式会社監査役などを務めた。 戦後の1947年(昭和22年)に郡山市長に選出された。
竹原 傳(たけはら つとう、1885年10月22日 - 没年… 竹原 傳(たけはら つとう、1885年10月22日 - 没年不詳)は、日本の実業家。 竹原松次郎の長男として、福岡県宗像郡河東村(現・宗像市)に生まれる。1905年福岡県立中学修猷館を経て、1910年東京高等商業学校(現・一橋大学)を卒業。 1910年南満州鉄道に入社し、山東鉄道管理部員、鉄道事務官、用度課長を務めたが、その後、貝島商業津久見出張所長、中央火災傷害保険参事、戸畑鋳物業務部長、同大阪工場長、同鐵管継手販売専務取締役などを歴任。 1938年7月、満洲重工業開発総裁鮎川義介が、竹原の経営手腕を高く評価し、同和自動車工業理事長に抜擢される。1939年5月満洲自動車製造が設立されると理事に就任。
飯盛 里安(いいもり さとやす、1885年10月19日 - … 飯盛 里安(いいもり さとやす、1885年10月19日 - 1982年10月13日)は日本の分析化学者、理学博士。1917年9月創立間もない財団法人理化学研究所 (通称:理研) に入所し、主に放射性鉱物と希元素の研究を行う。1919年イギリスに留学し、オックスフォード大学のフレデリック・ソディ教授のもとで放射化学を学んだ。帰国後、日本では未開拓の分野だった放射化学を導入し基礎を築き確立させた功績、放射性鉱物の研究に生涯を捧げた科学者として「日本の放射化学の父」と呼ばれている。太平洋戦争中は、理研の仁科芳雄を中心に進められた原子爆弾開発研究 (二号研究) に加わり、ウラン鉱の探索・採掘・精製を行なった。戦後は人造宝石の研究を行い、ビクトリア・ストン、メタヒスイをはじめとする一連の人造宝石 (IL-stoneと総称) の発明者としても知られている。
大島 高精(おおしま たかよし、1885年10月17日 - … 大島 高精(おおしま たかよし、1885年10月17日 - 1964年3月6日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 大分県佐伯市出身。アメリカに渡り、ヴァンダービルト大学、シカゴ大学、コロンビア大学大学院で学ぶ。帰国後万朝報の記者となり、主筆となる。その後、陸海軍の嘱託講師を経て、関東軍、支那派遣軍、北支派遣軍の各司令部の嘱託となる。 1942年(昭和17年)の第21回衆議院議員総選挙では郷里の大分1区(当時)から翼賛政治体制協議会の推薦を受けて立候補して当選する。翼政会政調陸軍委員となった。戦後、推薦議員のため、公職追放となり、追放解除後も立候補することはなかった。1964年(昭和39年)死去。
高橋 忠治(たかはし ちゅうじ、1885年(明治18年)10… 高橋 忠治(たかはし ちゅうじ、1885年(明治18年)10月16日 - 1964年(昭和39年)1月24日)は、日本の海軍軍人、山口市長。最終階級は海軍大佐。 山口県吉敷郡大内村(現在の山口市)出身。高木権次郎の二男として生まれ、高橋千代造の養子となった。1907年(明治40年)、海軍兵学校を卒業。1908年(昭和41年)、海軍少尉に任官し、1929年(昭和4年)に海軍大佐となった。その間、舞鶴鎮守府副官、大湊要港部副官、海軍軍令部員、菱艦長、海軍水雷学校教官、磐手副長、第7駆逐隊司令、第1駆逐隊司令、第29駆逐隊司令を歴任した。1931年(昭和6年)、予備役。 在郷軍人会山口連合分会副会長を経て、1935年(昭和10年)に山口市長に選出された。
柳原 白蓮(やなぎわら びゃくれん、1885年〈明治18年〉… 柳原 白蓮(やなぎわら びゃくれん、1885年〈明治18年〉10月15日 - 1967年〈昭和42年〉2月22日)は、大正から昭和時代にかけての歌人。本名は宮崎燁子(みやざきあきこ)、旧姓:柳原(やなぎわら)、北小路(きたこうじ)、伊藤(いとう)。大正三美人の一人。白蓮事件で知られる。 父は柳原前光伯爵。大正天皇の生母である柳原愛子の姪で、大正天皇の従妹にあたる。 東京に生まれた。父・前光が華やかな鹿鳴館で誕生の知らせを聞いたことから「燁子」と名付けられる。母のりょうは没落した新見正興の娘で、前光の妾のひとりで柳橋の芸妓であった。燁子は生後7日目に柳原家に引き取られ、前光の正妻・初子の次女として入籍される。
渡辺 銕蔵(わたなべ てつぞう、明治18年(1885年)10… 渡辺 銕蔵(わたなべ てつぞう、明治18年(1885年)10月14日 - 昭和55年(1980年)4月5日)は、大正・昭和期の経済学者、教育者、政治家、実業家。東宝争議時の東宝社長。 大阪市生まれ。9歳から広島県広島市本通電停前の書店・積善館店主の子として育つ。 広島済美小学校(広島偕行社付属済美学校)~広島一中~第一高等学校を経て明治43年(1910年)、東京帝国大学法科大学政治学科を首席で卒業。同年から文部省特派海外留学生として英国・ドイツ・ベルギーに留学。 大正2年(1913年)帰国し東京帝国大学法科大学助教授となる。同年北里柴三郎の長女と結婚。大正5年(1916年)教授、大正6年(1917年)法学博士。
鈴木 敏也(すずき としや、1885年〈明治18年〉10月1… 鈴木 敏也(すずき としや、1885年〈明治18年〉10月13日 - 1945年〈昭和20年〉12月9日)は、日本の国文学者。広島文理科大学教授。族籍は愛知県士族。号は菫村。 愛知県・鈴木光雄の長男。1914年7月、東京帝国大学文科大学国文学科卒業。1926年、家督を相続する。広島高師教授をへて1929年に広島文理大教授となる。 広島高師教授を兼ねる。1945年8月6日、広島市への原子爆弾投下により被爆。学長事務取扱に任命された。1945年12月9日に死去した。 著作に『近世日本小説史』、『近代国文学素描』などがある。住所は広島市牛田本町。
安井 藤治(やすい とうじ、1885年〈明治18年〉10月1… 安井 藤治(やすい とうじ、1885年〈明治18年〉10月11日 - 1970年〈昭和45年〉7月8日)は、明治期から昭和期の陸軍軍人、政治家。従三位勲一等。陸軍中将まで昇った後、鈴木貫太郎内閣の国務大臣(無任所)を務めた。 富山県出身。商業・安井藤蔵の長男として生まれる。富山中学校、名古屋陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1905年(明治38年)11月、陸軍士官学校(第18期)920名中を首席卒業。同期生には、陸軍大将になった山下奉文、岡部直三郎、阿南惟幾、山脇正隆、藤江恵輔等がいる。 1906年(明治39年)6月、歩兵少尉に任官し、石川県金沢市野田村に駐屯する歩兵第35聯隊附となる。 1913年(大正2年)11月、陸軍大学校(第25期)を優等で卒業。
岩橋 小弥太(いわはし こやた、明治18年(1885年)10… 岩橋 小弥太(いわはし こやた、明治18年(1885年)10月11日 - 昭和53年(1978年)12月9日)は、日本の歴史学者。國學院大學名誉教授。 1885年(明治18年)、大阪府大阪市東区に生れた。1904年3月、大阪府立天王寺中学校を卒業。同級には西田直二郎、折口信夫、武田祐吉らがいた。私立國學院大學師範部国語漢文科に進学し、1907年(明治40年)7月に卒業。 卒業後は、1097年8月より大阪市史編纂事務嘱託に就いた。1909年3月、大阪市を辞めて三省堂編修所に勤務し、『辞林』の増補に従事。1911年4月からは国書刊行会に勤務した。1914年(大正3年)9月、三井家史編纂事務を嘱託される、1916年12月まで従事。
手塚 敏雄(てづか としお、1885年10月11日 - 19… 手塚 敏雄(てづか としお、1885年10月11日 - 1969年7月30日)は、日本の実業家。川崎重工業社長、会長を務めた。 栃木県河内郡河内町出身。1916年に東京帝国大学法学部を卒業し、翌年に川崎造船所に入社した。取締役を経て、1950年8月に川崎重工業社長に就任し、1961年7月に会長に就任した。1954年1月からは川崎航空機社長も兼任し、1961年11月からは同社会長を務めた。 関西テレビ放送取締役、ラジオ関西取締役なども歴任した。1965年に勲三等瑞宝章を受章した。 1969年7月30日急性肺炎のために死去。83歳没。
諸戸 精太(もろと せいた、1885年(明治18年)10月1… 諸戸 精太(もろと せいた、1885年(明治18年)10月11日 - 1931年(昭和6年)10月2日)は、日本の地主、三重県多額納税者、資産家、実業家。諸戸タオル代表社員。族籍は三重県平民。氏は諸戸氏、家名は諸戸家。 三重県桑名郡桑名町(現桑名市)生まれ。三重県の富豪初代諸戸清六の次男。二代目諸戸清六の兄。1907年、分家して一家を創立する。農業、林業、養魚業を営む。傍ら諸戸精太商会を主宰し、高級タオルの製織を為し、業礎を築く。 諸戸殖産合名会社、合名会社諸戸精太商会、諸戸タオル合名会社各代表社員、保証責任西諸戸家信用購買販売利用組合理事長、桑名商工会長、桑名郡動力組合長、桑名郡水産会長などをつとめる。
篠原 英太郎(しのはら えいたろう、1885年(明治18年)… 篠原 英太郎(しのはら えいたろう、1885年(明治18年)10月10日 - 1955年(昭和30年)3月7日)は、日本の内務官僚。林内閣の内務次官、官選県知事、京都市長。 長野県木曽郡木祖村出身。篠原武兵衛の五男として生まれる。第三高等学校を経て、1911年7月、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業し、内務省に入り山梨県属となる。1912年11月、文官高等試験に合格した。 以後、石川県理事官、朝鮮総督府殖産局土地改良課長、内務省大臣官房文書課長、同都市計画課長、北海道庁土木部長などを歴任。 1927年5月、山形県知事に就任。1929年10月、文部省普通学務局長に転じた。1931年12月、岡山県知事に就任。