日比野 正治(ひびの まさはる、1885年(明治18年)2月… 日比野 正治(ひびの まさはる、1885年(明治18年)2月2日 - 1947年(昭和22年)3月7日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 愛知一中を経て、鳥羽商船学校本科修了後、1906年11月海軍兵学校(34期)を卒業し、1907年に少尉任官。1912年海軍砲術学校高等科を卒業後、第3艦隊副官、「鞍馬」分隊長を歴任。1917年、海軍大学校(甲種)を卒業。以後、「春日」乗組、軍令部第3班第5課参謀、アメリカ大使館付武官補佐官、「鬼怒」副長などを歴任。 1927年、「大井」艦長となり、さらに「浅間」艦長、海軍大学校教官、「日向」艦長を歴任し、1932年海軍少将に進級。以後、第1戦隊司令官、第11戦隊司令官を務め、1936年に海軍中将・駐満海軍部司令官を拝命。
和崎 ハル(わざき ハル、1885年2月1日 - 1952年… 和崎 ハル(わざき ハル、1885年2月1日 - 1952年12月30日)は日本の美容師、政治家。衆議院議員(1期)を歴任した。旧姓、栗谷。 秋田県秋田市楢山南新町出身。1904年秋田県立秋田高等女学校(現・秋田県立秋田北高等学校)卒業。上京して女子音楽学校で学ぶ一方、キリスト教小学校に勤務する。在学中に陸軍騎兵将校和崎豊之と結婚する。1921年に美容師となり、1922年に夫が死去すると故郷の秋田に戻る。秋田初の美容師として生計を立てたと言われる。 和崎の美容院は評判を呼び、秋田魁新報社の身の上相談欄の回答者に和崎が選ばれるほどであった。同年、早川かいらと日本基督教婦人矯風会秋田支部を設立し、公娼廃止運動に尽力した。
針重 敬喜(はりしげ けいき、1885年〈明治18年〉2月1… 針重 敬喜(はりしげ けいき、1885年〈明治18年〉2月1日 - 1952年〈昭和27年〉6月5日)は日本の編集者、アマチュアテニス選手。『武侠世界』などの雑誌で主筆を務め、また日本のテニスの普及・振興に尽力した。 山形県南置賜郡南原芳泉村(現・米沢市芳泉町)出身。父親の幸主は地元の名士で、住民から記念碑を建立されるほどであった。 米沢中学(現・山形県立米沢興譲館高等学校)を経て1903年(明治36年)に早稲田大学英文科に入学。早稲田を選んだのは坪内逍遥に憧れたためであった。また、庭球部に入部し、ここから本格的にテニスを始めることとなる。 早稲田大学卒業後、読売新聞、東京日日新聞を経て、1912年(明治45年)、押川春浪に請われて飛田穂洲と共に武侠世界社に入社。
岡本 幹輔(おかもと かんすけ、1885年〈明治18年〉2月… 岡本 幹輔(おかもと かんすけ、1885年〈明治18年〉2月1日 - 1939年〈昭和14年〉2月25日)は、日本の政治家。衆議院議員。 山形県飽海郡漆曽根村(現酒田市)で岡本敏貞の二男として生まれる。1902年(明治35年)、山形県立荘内中学校を卒業し、さらに1906年(明治39年)、東京高等商業学校を卒業した。同年7月、三井物産会社に入社し、札幌出張所、本店営業部などで勤務。1914年(大正3年)8月、日本製鋼所に移り、横須賀出張所長、室蘭支店会計主任、同支店商務主任、同事務部次長、同労務係長を歴任。その他、室蘭商業会議所特別議員、(株) 瑞穂商会顧問を務めた。 1920年(大正9年)5月、第14回衆議院議員総選挙において北海道第5区から憲政会所属で出馬し当選。
塩川 正蔵(正藏、しおかわ しょうぞう、1885年(明治18… 塩川 正蔵(正藏、しおかわ しょうぞう、1885年(明治18年)2月1日 - 1952年(昭和27年)12月1日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)、内務官僚。弁護士。 静岡県富士郡大宮町(現在の富士宮市)出身。1913年(大正2年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業。高等文官試験に合格し、静岡県警部、同保安課長、岡山県後月郡長、同吉備郡長、同小田郡長、同水産課長を歴任した。1921年(大正10年)、東京市主事となり、商工課長、土木局庶務課長などを務めた。さらに麻布区長、本郷区長、京橋区長を歴任し、1935年(昭和10年)に東京市理事に就任した。退職後は弁護士を開業した。 1937年(昭和12年)、第20回衆議院議員総選挙に静岡2区から立憲政友会で出馬し、当選を果たした。
田辺 徳五郎(田邊 徳五郎、たなべ とくごろう、1885年(… 田辺 徳五郎(田邊 徳五郎、たなべ とくごろう、1885年(明治18年)2月1日 - 1947年(昭和22年)5月20日)は、大正から昭和時代前期の政治家、実業家、銀行家、地主、神奈川県多額納税者。衆議院議員(神奈川県第1区選出、当選1回)。旧姓は渡邊、旧名は眞吉、あるいは真吉。 神奈川県鎌倉郡戸塚駅(戸塚町を経て現横浜市戸塚区)に生まれる。渡邊三左衛門の弟。1909年(明治42年)長崎高等商業学校を卒業。横浜石川中村町(現南区中村町)の地主で金融業を営む田辺徳五郎の養嗣子となり、先代の没後に襲名する。 1914年(大正3年)田辺合資会社を設立。1922年(大正11年)横浜市会議員に当選し、1942年(昭和17年)まで務めた。
中馬 猪之吉(ちゅうまん / ちゅうま いのきち、1885年… 中馬 猪之吉(ちゅうまん / ちゅうま いのきち、1885年(明治18年)1月31日 - 1971年(昭和46年)1月23日)は、大正から昭和期の農業指導者、政治家。参議院議員(1期)、鹿児島県国分市長(第2代)、鹿児島県会議長。 鹿児島県囎唹郡国分郷(現・霧島市)で、中馬猪之助の長男として生まれる。1906年(明治39年)12月、神戸高等商業学校(現神戸大学)を中退した。1922年(大正11年)父の隠居に伴い家督を相続し農業を営む。 青年団長などを務め、1923年(大正12年)9月、鹿児島県会議員に選出され1947年(昭和22年)まで連続5期在任した。この間、副議長、議長、東国分村長、大政翼賛会鹿児島県支部常務委員などを務めた。
福田 千代作(ふくだ ちよさく、1885年(明治18年)1月… 福田 千代作(ふくだ ちよさく、1885年(明治18年)1月30日 - 没年不明)は、日本の実業家。中華電気製作所、支那興業各取締役。住友本社、呉服販売店支配人。上海居留民団長。族籍は広島県士族。 広島県士族・福田千次郎の四男。広島市西白島町出身。1904年、県立広島中学校卒業。直に広島県より推選され清国留学生を命ぜられた。1907年、上海東亜同文書院商務科を卒業した。上海に在住し、支那貿易事務に従った。1935年、甥・光次郎方より分家した。 宗教は神道。趣味は大弓、漢籍。住所は広島市西白島町、上海市。
小谷 節夫(こたに せつお、1885年1月28日 - 195… 小谷 節夫(こたに せつお、1885年1月28日 - 1959年8月30日)は、日本の政治家。岡山県阿哲郡新見町(現・新見市)生まれ。近藤鶴代は妹。 新見の旧家・近藤家に生まれ、8歳の時に真庭郡八束村(現・真庭市)の小谷家の養子となる。岡山中学校(現・岡山県立岡山朝日高等学校)卒業後、1906年に上海の東亜同文書院入学(第5期生)。古河鉱業(現・古河機械金属)を経て、1914年に青島で『大青島報』(後の『青島大新民報』)を創刊、1916年には貿易会社「天佑公司」を創立した。帰国後、1928年に衆議院議員に当選し、1945年の日本の敗戦後に公職追放された。岡山では親切運動を展開した。
大島 忠康(おおしま ただやす、1885年(明治18年)1月… 大島 忠康(おおしま ただやす、1885年(明治18年)1月28日 - 1964年(昭和39年)4月1日)は、日本の鉄道官僚。樺太庁豊原市長。 富山県下新川郡道下村(現在の魚津市)出身。1913年(大正2年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業して、高等文官試験に合格した。鉄道院書記、同参事補、同参事、鉄道省参事を務め、仙台鉄道局庶務課長、札幌鉄道局教習所長、室蘭運輸事務所長を歴任した。1930年(昭和5年)に樺太庁鉄道事務所長に就任した。 退官後、富山県で弁護士を開業し、1940年(昭和15年)には魚津町(現在の魚津市)の町長に就任した。 1942年、豊原市長に就任。終戦後はソ連軍との折衝に尽力し、1947年(昭和22年)に引き揚げた。
前田 青邨(まえだ せいそん、1885年〈明治18年〉1月2… 前田 青邨(まえだ せいそん、1885年〈明治18年〉1月27日 - 1977年〈昭和52年〉10月27日)は、日本画家。位階は従三位。岐阜県中津川市出身。本名、前田 廉造(まえだ れんぞう)。妻は荻江節の5代目荻江露友。三女の夫が美術史家の秋山光和。 青邨は大和絵の伝統を深く学び、歴史画を軸に肖像画や花鳥画にも幅広く作域を示した。ことに武者絵における鎧兜の精密な描写は有名である。 1935年(昭和10年)、帝国美術院の改革が行われると会員に選出されるが、翌1936年(昭和11年)年に示された平生改革案に反対して横山大観ら日本芸術院メンバーなどとともに会員を辞任する。その後、1937年(昭和12年)に帝国美術院が改組して帝国芸術院として発足すると芸術院会員となった。
向井 忠晴(むかい ただはる、1885年1月26日 - 19… 向井 忠晴(むかい ただはる、1885年1月26日 - 1982年12月19日)は実業家。太平洋戦争期における三井財閥の指導者。1970年勲一等旭日大綬章。
北原 白秋(きたはら はくしゅう、1885年1月25日 - … 北原 白秋(きたはら はくしゅう、1885年1月25日 - 1942年11月2日)は、日本の詩人、童謡作家、歌人。帝国芸術院会員。本名:北原 隆吉(きたはら りゅうきち)。 詩、童謡、短歌以外に、新民謡でも『ちゃっきり節』など傑作を残している。生涯に数多くの詩歌を残し、今なお歌い継がれる童謡を数多く発表し活躍した時代は「白露時代」と呼ばれ、三木露風と並び評される近代日本を代表する詩人である。 弟はそれぞれ出版人となり、北原鉄雄は写真・文学系出版社アルスを、北原義雄は美術系のアトリエを創業した。娘は三菱財閥創業家・岩崎家の末裔に嫁いだ。従弟の北原正雄は写真系の玄光社を創業した。 1885年(明治18年)1月25日、熊本県玉名郡関外目村(現:南関町)に長男として生まれ、まもなく福岡県山門郡沖端村(現:柳川市)にある家に帰る。
板垣 征四郎(いたがき せいしろう、1885年〈明治18年〉… 板垣 征四郎(いたがき せいしろう、1885年〈明治18年〉1月21日 - 1948年〈昭和23年〉12月23日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大将。栄典は正三位・勲一等・功二級。満洲国軍政部最高顧問、関東軍参謀長、陸軍大臣などを務めた。 関東軍高級参謀として石原莞爾とともに満洲事変を決行し、第二次世界大戦においては第7方面軍司令官を務め、関東軍防疫給水部(731部隊)の設立にも関わった[要出典]。戦後の極東国際軍事裁判にてA級戦犯として死刑判決を受け処刑された。 征四郎の曽祖父・佐々木伊兵衛は、盛岡藩上士(御徒目付を務めた)。 征四郎の祖父・佐々木直作(文化14年〈1817年〉- 明治27年〈1894年〉)は、漢学の素養が深く、嘉永3年(1850年)に侍講として盛岡藩に出仕し、藩校作人館助教を経て、明治元年(1868年)に盛岡藩首席家老・楢山佐渡が鳥羽・伏見の戦いの直後に上洛した際に 勘定奉行 兼 京都留守居役 として随行するなど、藩の中心人物の一人であった。
尾崎 放哉(おざき ほうさい、本名:尾崎 秀雄〈おざき ひで… 尾崎 放哉(おざき ほうさい、本名:尾崎 秀雄〈おざき ひでお〉、1885年〈明治18年〉1月20日 - 1926年〈大正15年〉4月7日)は、日本の俳人。『層雲』の荻原井泉水に師事。種田山頭火らと並び、自由律俳句のもっとも著名な俳人の一人である。 鳥取県鳥取市出身。大正15年、4月7日(大学時代の恩師・穂積陳重と同日)に南郷庵で死去。死因は癒着性肋膜炎合併症、湿性咽喉カタル。 種田と並ぶ「自由律俳句の雄」。活動の場を荻原の主宰する『層雲』に求め、僧形に身をやつし、貧窮のうちに病没した点でも共通している。 一高俳句会に属し、東京帝国大学法科大学(現・東京大学法学部)在学中も『ホトトギス』や『國民新聞』に投句していたが、いずれも定型律で、ほどなく句作からも離れた。
下条 康麿(しもじょう やすまろ、1885年(明治18年)1… 下条 康麿(しもじょう やすまろ、1885年(明治18年)1月20日 - 1966年(昭和41年)4月25日)は、日本の政治家、内務官僚、統計学および社会学者。経済学博士。貴族院議員、参議院議員、吉田茂内閣の文部大臣を歴任した。
鷲津 鈆平(わしづ しょうへい、1885年1月20日 - 1… 鷲津 鈆平(わしづ しょうへい、1885年1月20日 - 1970年2月20日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。
田崎 信蔵(たざき しんぞう、1885年〈明治18年〉1月2… 田崎 信蔵(たざき しんぞう、1885年〈明治18年〉1月20日 - 1942年〈昭和17年〉4月1日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)。 大阪府若江郡、のちの中河内郡八尾村(八尾町を経て現八尾市)出身。大阪薬学校(現・大阪大学大学院薬学研究科・薬学部)卒。卒業後は法政大学で学んだ。京都商工信用組合常務理事、(株)小川合金製作所取締役、京都建築工匠組合長、京都勧業無尽(株)取締役となり、京都市会議員、同副議長となる。 1924年の第15回衆議院議員総選挙において京都2区から革新倶楽部公認で立候補して初当選。1928年の第16回衆議院議員総選挙では京都1区から革新党公認で立候補して再選した。衆議院議員を2期務めた。
大柏 清三郎(おおかし せいざぶろう、1884年〈明治17年… 大柏 清三郎(おおかし せいざぶろう、1884年〈明治17年〉2月18日 - 没年不明)は、大正から昭和時代前期の政治家。香川県丸亀市長。 1905年(明治38年)関西大学専門部法律学科を卒業し、大阪府属となる。1909年(明治42年)香川県属に転じ、1919年(大正8年)高松市助役職務管掌を経て、1920年(大正9年)高松市助役に就任し、爾来15年間勤続する。1934年(昭和9年)7月、助役を辞し、同月25日に丸亀市長に当選した。
飯田 貞固(いいだ さだかた、1884年(明治17年)2月1… 飯田 貞固(いいだ さだかた、1884年(明治17年)2月18日 - 1977年(昭和52年)9月15日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。 新潟県刈羽郡山横沢村(小国村、小国町を経て現長岡市)出身。山横沢村長・飯田貞一の長男として生れる。組合立小国高等小学校、仙台陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1905年(明治38年)3月、陸軍士官学校(17期)を卒業。翌月、騎兵少尉に任官し近衛騎兵連隊付となる。騎兵第22連隊付などを経て、1912年(大正元年)11月、陸軍大学校(24期)を卒業した。 1913年(大正2年)12月、参謀本部付勤務となり、独立第18師団副官として青島の戦いに参加。1914年(大正3年)11月、青島守備軍参謀に就任。
野波 治平太(のなみ じへいた、1884年〈明治17年〉2月… 野波 治平太(のなみ じへいた、1884年〈明治17年〉2月17日 - 没年不明)は、日本の醸造家、鳥取県多額納税者、野波商店経営主。 鳥取県米子市の醤油醸造業者である。1941年11月3日、善行者として表彰を受ける。貴族院多額納税者議員選挙の互選資格を有する。住所は鳥取県米子市法勝寺町。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
堀江 季雄(ほりえ すえお、1884年(明治17年)2月16… 堀江 季雄(ほりえ すえお、1884年(明治17年)2月16日 - 1946年(昭和21年)2月23日)は、枢密院書記官長、貴族院勅選議員。 東京府に市野良樹の二男として生まれ、堀江敬慎の養子となった。1909年(明治42年)、東京帝国大学法科大学政治科を卒業。滋賀県属となり、1913年(大正2年)に高等文官試験に合格した。滋賀県警視、同野洲郡長を経て、同理事官、岐阜県理事官を歴任。1920年(大正9年)、枢密院書記官に転じ、行政裁判所評定官、枢密院議長秘書官などを務めた。1939年(昭和14年)枢密院書記官長に就任した。 退官後の1945年(昭和20年)8月3日に貴族院議員に勅選され、死去するまで在任した。
大村 一蔵(おおむら いちぞう、1884年(明治17年)2月… 大村 一蔵(おおむら いちぞう、1884年(明治17年)2月15日 - 1944年(昭和19年)1月29日)は日本の鉱山技師。石油調査・研究を専門とし、帝国石油副総裁や日本地質学会会長を歴任したほか、アマチュアスポーツの指導者としても活動した。 鳥取県鳥取片原二十番屋敷(現:鳥取市片原町)生まれ。鳥取県尋常中学校(現:鳥取県立鳥取西高等学校)、明治学院普通学部(現:明治学院高等学校)、第五高等学校(現:熊本大学)を経て、1907年(明治40年)、東京帝国大学理科大学(現:東京大学理学部)地質学科に入学。 帝大卒業後、下関市の黒鉛会社を経て、1912年(明治45年)に、当時日本石油と並ぶ二大石油会社であった宝田石油(本社・長岡市)に技師として入社。
有馬 浅雄(ありま あさお、明治17年〈1884年〉2月15… 有馬 浅雄(ありま あさお、明治17年〈1884年〉2月15日 - 昭和18年〈1943年〉10月6日)は、日本の政治家。衆議院議員。 長野県上伊那郡伊那部村(現伊那市)生まれ。明治41年(1908年)に上京し、東京府北豊島郡滝野川町役場の吏員となる。後に助役、町長に推挙され、東京府会議員となる。 東京府税務協議会長、東京府五郡町村互助会長、大日本消防協会理事、帝都教育会理事など各種団体の役員、顧問、相談役に就任して奔走し、九十九里漁業会社などの企業重役も務める。 昭和7年(1932年)第18回衆議院議員総選挙に長野県3区から出馬し当選、同年東京市会議員に当選。同11年(1936年)に政界を引退し、大政翼賛会東京支部常務員となったが、太平洋戦争中の同18年(1943年)に没した。
岩田 熊吉(いわた くまきち、1884年〈明治17年〉2月1… 岩田 熊吉(いわた くまきち、1884年〈明治17年〉2月14日 - 没年不明)は、日本の実業家。錦隆汽船、岩田海運各社長。合資会社岩田商店代表社員。 鳥取県西伯郡境町(現・境港市)に生まれる。1894年に西伯郡和田村(現・米子市和田町)の小学校を卒業して間もなく一家は米子町(現・米子市)に移転したため熊吉も同地に移り、1898年に境町の海運業岡田回漕店に入る。 1913年に同店を辞し、神戸の岡田信吉朗の後援により現地に独立開業する。1935年に合資会社に組織変更、その代表社員に就任する。1938年に岩田海運を創立して社長となる。海運業並びに石炭商を営む。また会社の重役である。 趣味は読書、園芸、読書。
長 世吉(ちょう つぎよし、1884年(明治17年)2月12… 長 世吉(ちょう つぎよし、1884年(明治17年)2月12日 - 1963年(昭和38年)10月8日)は、貴族院書記官長、貴族院勅選議員。 大分県出身。父は漢学者で書家の長三洲、兄は歴史学者の長寿吉。1914年(大正3年)に京都帝国大学法科大学政治科を卒業した。京都府属、同久世郡長を経て、貴族院書記官となり、内務参事官、法制局参事官、臨時議院建築局事務官、同書記官、大蔵省営繕管財局書記官を兼ねた。貴族院庶務課長を経て、1931年(昭和6年)に貴族院書記官長に就任し、営繕管財局参与も兼ねた。 退官後の1938年(昭和13年)4月2日に貴族院議員に勅選され、1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
大橋 亦兵衛(おおはし またべえ、1884年(明治17年)2… 大橋 亦兵衛(おおはし またべえ、1884年(明治17年)2月11日 - 1946年(昭和21年)10月16日)は、大正から昭和時代戦前の政治家。治水家。衆議院議員。静岡県会議長。静岡県磐田郡井通村長。俳号は天竜。 大橋頼摸の長男として、静岡県豊田郡小立野村(豊田郡井通村、磐田郡井通村、豊田村、豊田町を経て現磐田市)に生まれる。1912年(大正元年)家督を相続する。書籍業を営む。浜松中学校を卒業する。 井通村会議員、同村長を経て、1919年(大正8年)静岡県会議員に当選。1926年(大正15年)同議長に推された。1928年(昭和3年)2月の第16回衆議院議員総選挙では静岡県第3区から立憲政友会所属で出馬し当選。
藤岡 郊二(ふじおか ひろじ、1884年(明治17年)2月8… 藤岡 郊二(ふじおか ひろじ、1884年(明治17年)2月8日 - 不明 )は、日本の実業家である。倉敷紡績・倉敷絹織(現クラレ)の取締役。岡山県総社市出身。 1884年(明治17年)2月、岡山県吉備郡日美村(現在の総社市)で代々医者の家系である藤岡信道の次男として生まれる。旧制高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)を経て、1903年(明治36年)、第六高等学校 (旧制)へ入学し、同級生に建築家の薬師寺主計がいた。1906年(明治39年)、同校を卒業、東京帝国大学工学部電気科へ進学した。1909年(明治42年)7月に同大学を優良で卒業。兵庫県に当時あった龍野電気株式会社へ主任技師として就職した。 2年間、龍野電気に務めた後、1911年(明治44年)7月より、倉敷紡績へ転職する。
木下 信(きのした まこと、1884年〈明治17年〉2月8日… 木下 信(きのした まこと、1884年〈明治17年〉2月8日 - 1959年〈昭和34年〉6月27日)は、日本の内務官僚、政治家。憲政会系県知事、台湾総督府総務長官、衆議院議員。 長野県上伊那郡中箕輪村(現:箕輪町)に木下彦四郎の四男として生まれる。第一高等学校を経て、1909年(明治42年)7月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。1911年(明治44年)11月、文官高等試験行政科試験に合格し内務省に入省、長野県属となる。 以後、熊本県鹿本郡長、同上益城郡長、長野県小県郡長、同県理事官、秋田県警察部長、北海道庁拓殖部長、警視庁刑事部長、同警務部長などを歴任。 1924年(大正13年)6月、鳥取県知事に就任。
橋 健行(はし けんこう、1884年〈明治17年〉2月6日 … 橋 健行(はし けんこう、1884年〈明治17年〉2月6日 - 1936年〈昭和11年〉4月18日)は日本の精神科医。医学博士。正五位。作家・三島由紀夫の伯父で、橋倭文重の兄。 1884年(明治17年)2月6日、石川県金沢区(現・金沢市)で、父・橋健三(漢学者)と母・こう(漢学者・橋健堂の三女)の間の長男として誕生。その後、生母・こうの死亡により、1890年(明治23年)から、健三の後妻・トミ(こうの妹で橋健堂の五女)に育てられる。やがて、妹や弟たち(雪子、正男、健雄、行蔵、倭文重、重子)が生まれる。 1901年(明治34年)、開成中学校を卒業。同級生には斎藤茂吉がいた。同年、第一高等学校に進学。
鳩山 秀夫(はとやま ひでお、1884年2月4日 - 194… 鳩山 秀夫(はとやま ひでお、1884年2月4日 - 1946年1月29日)は、日本の法学者、元衆議院議員。専門は民法。東京都出身。
佐賀ノ海 初太郎(さがのうみ はつたろう、1884年2月4日… 佐賀ノ海 初太郎(さがのうみ はつたろう、1884年2月4日 - 1937年3月24日)は、現在の福岡県柳川市出身で湊部屋、出羽海部屋に所属した力士。本名は松永 初太郎。7代二子山。170cm、90kg。最高位は西前頭6枚目。 生まれは福岡県三潴郡蒲池村(現在の柳川市)だが、その後佐賀市唐人町に移住。このことが、のち四股名の由来となった。 大坂相撲に在籍したが、1906年に東上。常陸山谷右エ門の弟子になり、5月に幕下付出で初土俵。1908年5月に十両昇進。1911年2月に入幕した。左四つからの上手投げ、立ち合いからの叩き込みを得意とした。1916年1月に引退し、先代師匠の未亡人と婚姻し二子山を襲名したが、常陸山の逆鱗に触れ1918年5月に廃業した。
望月 政友(もちづき まさとも、1884年(明治17年)2月… 望月 政友(もちづき まさとも、1884年(明治17年)2月1日 - 1944年(昭和19年)3月1日)は、明治末から昭和前期の実業家、政治家。衆議院議員。 和歌山県伊都郡兄井村(見好村兄井を経て現かつらぎ町)で、実業家、政治家・望月右内の長男として生まれる。居村小学校、奈良県立五條中学校(現奈良県立五條高等学校)、第六高等学校を経て、1908年(明治41年)東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業した。 その後、農商務省に入省し、特許局に配属され1909年(明治42年)6月まで在任した。退官後に帰郷し、1917年(大正6年)1月、家督を相続し家業に従事。同年、玉川水道取締役となり、その他、東京電燈などの経営に参画した。
今井田 清徳(いまいだ きよのり / せいとく、1884年(… 今井田 清徳(いまいだ きよのり / せいとく、1884年(明治17年)2月1日 - 1940年(昭和15年)5月8日)は、日本の逓信官僚、政治家。貴族院議員、朝鮮総督府政務総監、逓信次官。旧姓・国塩。 岡山県赤坂郡神田村(赤磐郡鳥取中村、高陽村、山陽町を経て現赤磐市)出身。旧岡山藩士・国塩与三郎の三男として生まれ、磐梨郡佐伯北村(赤磐郡吉井町を経て現:赤磐市)今井田善十郎の養嗣子となる。関西中学校、第六高等学校を経て、1909年7月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。通信属となり逓信省通信局に配属。同年11月、文官高等試験に合格。 1910年4月、通信事務官・大阪中央郵便局長に就任。以後、神戸逓信管理局総務部長、逓信省電気局管理課、東部逓信局経理部規画課長などを歴任。
小笠原 数夫(おがさわら かずお、1884年(明治17年)2… 小笠原 数夫(おがさわら かずお、1884年(明治17年)2月1日 - 1938年(昭和13年)9月4日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。旧姓・島田。 福岡県出身。旧小倉藩士・農業、島田耕蔵の三男として生まれ、小笠原長舒の養子となる。高等小学校、熊本陸軍地方幼年学校、陸軍中央幼年学校を経て、1904年(明治37年)10月、陸軍士官学校(16期)を卒業。同年11月、歩兵少尉に任官し歩兵第14連隊付となる。1905年(明治38年)4月から同年11月まで日露戦争に出征。1916年(大正5年)11月、陸軍大学校(28期)を卒業し歩兵第14連隊中隊長に就任した。 参謀本部付勤務(通信課)、参謀本部員、陸大教官、飛行第6大隊付、国際連盟帝国空軍代表随員(1924年6月 - 1925年3月)などを務め、1924年(大正13年)8月、歩兵中佐に昇進。
上山 草人(かみやま そうじん、1884年1月30日 - 1… 上山 草人(かみやま そうじん、1884年1月30日 - 1954年7月28日)は、日本の俳優。本名は三田 貞(みた ただし)。号は半月。 坪内逍遥の文芸協会を経て、妻の山川浦路らと近代劇協会を設立して新劇俳優として活動。1919年(大正8年)に渡米してからは映画界に転向し、ラオール・ウォルシュ監督、ダグラス・フェアバンクス主演の活劇映画『バグダッドの盗賊』に出演。ハリウッドで活躍した日本人俳優の一人となった。帰国後の出演作に『赤西蠣太』『七人の侍』などがある。 1884年(明治17年)1月30日、現在の宮城県遠田郡涌谷町に父・上山五郎の次男として、五郎の愛人である角川浦路との間に生まれる。父は産婦人科病院を経営していた医者で、宮城医学校教授を務めた。
手代木 隆吉(てしろぎ りゅうきち、1884年(明治17年)… 手代木 隆吉(てしろぎ りゅうきち、1884年(明治17年)1月30日 - 1967年(昭和42年)3月31日)は、日本の教育者・政治家・弁護士・実業家。衆議院議員(当選6回、日本進歩党)。北海道有珠郡紋鼈(現・北海道伊達市)出身。号は「胡山」。 父、要蔵。母、エミの長男として誕生。母の父が仙台藩亘理伊達家の藩士手代木順造。 明治4年の亘理伊達家の北海道移住に際し一家で渡道(当時エミは4歳)。後に太田家より要蔵を入婿で迎え手代木家より分家。 エミの兄(長男)は伊達、苫小牧などの戸長、村長を歴任した手代木茂篤(隆吉の叔父)[出典無効] 1906年(明治39年)北海道尋常師範学校(現在の北海道教育大学札幌校)卒業後、北海道の旧制小学校の訓導や校長を経て、1918年(大正7年)中央大学法学部卒業。
永雄 策郎(ながお さくろう、1884年(明治17年)1月2… 永雄 策郎(ながお さくろう、1884年(明治17年)1月28日 - 1960年(昭和35年)2月10日)は、日本の経済学者。東亜経済調査局主事、拓殖大学教授、近畿大学教授、富士短期大学大世学院教授。専門は植民政策学。東京帝国大学経済学博士。 主に大正期から戦後復興期にかけて活動を展開した。京都府竹野郡の名士の家に生まれ、第五高等学校を経て東京帝国大学法科大学を卒業。出版社への短期間の勤務を挟み、大学時代の縁で満鉄の東亜経済調査局に入ると、後に主事となりこれを運営する側に立った。この際、高校時代から関わりのあった大川周明を採用させたことが、結果として歴史的に重要な意義を持つ。 それからは審査役の身分で大連の満鉄本社へ渡り、当地の教育機関において植民政策の講師を務める。
中村 亀三郎(なかむら かめざぶろう、1884年1月28日 … 中村 亀三郎(なかむら かめざぶろう、1884年1月28日 - 1944年11月2日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。
鈴木 鎮雄(すずき しずお、1884年(明治17年)1月28… 鈴木 鎮雄(すずき しずお、1884年(明治17年)1月28日 - 1968年(昭和43年)5月27日)は、日本の建築家。宮内省に勤務した。 1884年、東京府士族鈴木信一の長男として生まれる。 1910年、東京帝国大学工科大学建築学科を卒業。同期に内藤多仲、安井武雄らがいる。大学卒業後、宮内省内匠寮に勤務。 1914年に宮内技師となる。1924年には欧米各国を視察した。 1931年、臨時帝室博物館造営課長に異動した北村耕造の後を継ぎ、工務課長となる。1943年に工務部長、宮内技監に就任(1946年3月まで)。 戦後は宮内庁調査員、工学院大学講師などを務めた。
宇佐美 寛爾(うさみ かんじ、1884年(明治17年)1月2… 宇佐美 寛爾(うさみ かんじ、1884年(明治17年)1月27日 – 1954年(昭和29年)2月10日)は、日本の鉄道官僚。南満洲鉄道理事、華北交通総裁。 岐阜県出身。1907年(明治40年)に東京帝国大学法科大学政治学科を卒業し、鉄道院に入った。九州鉄道管理局在籍中、同局と八幡製鐵所の疑獄事件で収賄容疑がかかり1918年(大正7年)7月5日、一審の福岡地方裁判所では無罪判決が出るも、後に覆り、懲役5月の実刑判決が1919年(大正8年)7月25日確定、休職中だった鉄道院参事を失官。これにより正七位返上を命じられ、勲六等及び大礼記念章を褫奪された。 1920年(大正9年)、南満洲鉄道株式会社に転じ、運輸部営業課長、鉄道部次長、鉄道部長、奉天事務所長、哈爾浜事務所長を歴任した。
平井 三男(ひらい みつお、1884年(明治17年)1月26… 平井 三男(ひらい みつお、1884年(明治17年)1月26日 - 1945年(昭和20年)3月24日)は、日本の朝鮮総督府・内務官僚。民政党系官選県知事。 熊本市四軒町において士族・平井太郎八とシゲ(前田案山子の長女)の三男として生まれる。第五高等学校を首席で卒業。1909年、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業し大学院に進む。1910年11月、文官高等試験行政科試験に合格。朝鮮総督府に入り同府警部となる。 以後、総督府道事務官、全羅北道財務部長、総督府事務官、度司部司税局専売課長、仁川税関長、平安南道内務部長兼特殊財産管理局事務官、朝鮮総督府殖産局商工課長、同学務局学務課長兼鉄道局理事、京城法学専門学校校長などを歴任。
中村 又七郎(なかむら またしちろう、1884年(明治17年… 中村 又七郎(なかむら またしちろう、1884年(明治17年)1月26日 - 1963年(昭和38年)6月7日)は、日本の衆議院議員、初代糸魚川市長。位階は従五位。勲四等瑞宝章。 新潟県西頸城郡糸魚川町(現在の糸魚川市)出身。1907年(明治40年)、早稲田大学政治経済科を卒業した。一年志願兵として陸軍主計少尉に任じられた。早稲田大学講師、『中央新聞』記者、『自由通信』記者を務めた後、『高田日報』主筆となり、後には高田日報社社長に就任した。また糸魚川町会議員、糸魚川町長、新潟県会議員、同参事会員に選ばれ、糸魚川町長時代には北陸線列車雪崩直撃事故の対応に尽力した。その他に帝国在郷軍人会糸魚川町分会長、同西頸城郡分会副会長、西頸城郡教育会副会長、西頸城郡水産会長、新潟県漁業組合聯合会長などを務めた。
木原 七郎(きはら しちろう、1884年(明治17年)1月2… 木原 七郎(きはら しちろう、1884年(明治17年)1月25日 – 1951年(昭和26年)12月24日)は、衆議院議員(立憲民政党)、最後の官選広島市長。ジャーナリスト。 広島県安芸郡矢野村(現在の広島市安芸区)出身。1906年(明治39年)、早稲田大学政治経済科を卒業。芸備日日新聞社に入り、1919年(大正8年)に副社長に就任し、1925年(大正14年)には社長の早速整爾の死に伴い後任の社長になった。その他に日本鋼鎖株式会社取締役、帝国通信社副社長などを務めた。 広島県会議員を経て、1930年(昭和5年)の第17回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。合計で3期務めた。 1945年(昭和20年)8月6日、原爆投下で広島市が壊滅し粟屋仙吉市長も被爆死すると、同年10月その後任として同市長に就任、最後の官選広島市長となった。
林 為良(はやし ためよし、1884年(明治17年)1月25… 林 為良(はやし ためよし、1884年(明治17年)1月25日 - 1933年(昭和8年)6月22日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 鹿児島県徳之島の花徳(現大島郡徳之島町花徳)出身。素封家林元俊の長男として生まれた。1909年、早稲田大学商科卒。農業を営み、所得税調査委員、相続税審査委員、大島郡電気(株)取締役となる。 1917年の第13回衆議院議員総選挙において鹿児島県大島選挙区から立憲政友会公認で立候補して当選する。衆議院議員を1期務め、1920年の第14回衆議院議員総選挙には立候補しなかった。1933年死去。
荻洲 立兵(おぎす りっぺい、1884年〈明治17年〉1月2… 荻洲 立兵(おぎす りっぺい、1884年〈明治17年〉1月24日 - 1949年〈昭和24年〉12月22日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。旧姓:伊藤。 愛知県出身。伊藤松左衛門の四男として生まれ、陸軍二等薬剤官・荻洲郁次郎の養子となる。愛知一中、名古屋陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1905年3月、陸軍士官学校(17期)を卒業。翌月、歩兵少尉に任官し歩兵第6連隊補充隊付となる。参謀本部付勤務などを経て、1916年11月、陸軍大学校(28期)を卒業した。 歩兵第6連隊中隊長、陸軍歩兵学校教官、スイス駐在、ドイツ駐在、陸大教官、近衛歩兵第4連隊付、歩兵第44連隊長、第11師団司令部付(支那政府応聘、北京陸大教官)、第1師団司令部付、留守第9師団参謀長、第1師団参謀長などを歴任し、1933年10月、陸軍少将に進級。
高木 逸磨(たかぎ いつま、1884年1月24日 - 196… 高木 逸磨(たかぎ いつま、1884年1月24日 - 1960年12月5日 )は、日本の医師、細菌学者、社会事業家、医学博士。 長崎県大村市で高木武夫の長男として生まれる。東京帝国大学医学部卒業後、母校の伝染病研究所(現・東京大学医科学研究所)研究員、医学部助手、講師、助教授を経て教授に就任。さらに、駒込病院長、滝乃川学園医務室長、同仁会華北防疫所長などを歴任した。1929年には、鼠咬症の研究(共同研究)で学士院賞を受賞した。戦後は、横浜医科大学(現・横浜市立大学医学部)学長、滝乃川学園第5代学園長をつとめた。墓所は多磨霊園(3-1-32) 滝乃川学園の創立者石井亮一の妻で、第2代学園長をつとめた石井筆子の実家渡辺男爵家とは縁戚にあたる。
田邊 隆二(たなべ りゅうじ、1884年(明治17年)1月2… 田邊 隆二(たなべ りゅうじ、1884年(明治17年)1月23日 - 1945年(昭和20年)2月14日 )は日本の逓信官僚であり実業家でもある。東大を学業優秀で卒業し、国から恩賜の銀時計を授与されたいわゆる「銀時計組」であり、卒業後、逓信省入省を経て、事務次官候補となり、京都電燈社長を経て、初代関西配電(現:関西電力)社長となった。日本電信電話工事の社長も務めた。岡山県倉敷市出身。 1884年(明治17年)岡山県児島郡粒江村(現:倉敷市)の生まれ。生家である田邊家は、素封家で代々庄屋をつとめており、この家系の父・田邊彦太郎と母・歌の次男として出生。旧制高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)へ進学し、1902年(明治35年)に同校を卒業、東京にある第一高等学校の文科イギリス法学科へ進学した。
加藤 完治(かとう かんじ、1884年(明治17年)1月22… 加藤 完治(かとう かんじ、1884年(明治17年)1月22日 - 1967年(昭和42年)3月30日)は、日本の教育者、農本主義者、剣道家。
千年川 亀之助(ちとせがわ かめのすけ、1884年1月21日… 千年川 亀之助(ちとせがわ かめのすけ、1884年1月21日 - 1936年3月4日)は、青森県西津軽郡木造町(現・つがる市)出身で高砂部屋、立田山部屋に所属した力士。本名は小嶋 佐兵衛。6代立田山。170cm、94kg。最高位は東小結。得意技は左四つ、寄り、掬い投げ。 1900年5月場所で初土俵。入門当初は体質が弱く病気勝ちで、当時の高砂親方に出世の見込みが無いと諭されて一旦は帰郷させられたが、力士への思いを断ち難く再び上京し、同郷の立田山部屋に入門した。そのため番付表に自身の名が初めて現れたのは1902年5月場所のときで、その場所は序二段であった。1907年1月場所で十両昇進。1908年1月場所で新入幕、1911年6月場所には小結に昇進した。