鳴海 文四郎(なるみ ぶんしろう、1877年(明治10年)1… 鳴海 文四郎(なるみ ぶんしろう、1877年(明治10年)10月1日 - 1933年(昭和8年)2月28日)は、明治から昭和時代初期の政治家、実業家、醸造家。鳴海醸造店第4代当主。衆議院議員(2期)。幼名は明治郎。 青森県南津軽郡黒石町(現黒石市)出身。同郡浅瀬石村(現黒石市)の鳴海久兵衛家の分家で屋号は久〇(きゅうまる)といい、中町で1808年(文化5年)から代々酒造業を営んだ。江戸時代は稲村屋を名乗っていた。別家・鳴海理兵衛の長男として生まれ、のち3代鳴海文四郎の養嗣子となった。 黒石町会議員などを経て、1917年(大正6年)4月の第13回衆議院議員総選挙では青森県郡部から立憲政友会所属で出馬し当選。
蘆田 伊人(あしだ これと、1877年(明治10年)9月28… 蘆田 伊人(あしだ これと、1877年(明治10年)9月28日 - 1960年(昭和35年)6月6日)は、明治から昭和にかけて活動した日本の歴史地理学者。旧福井藩士家に生まれ、早稲田大学卒業後、東京帝国大学史料編纂掛に所属、次いで越前松平家等華族諸家や帝国学士院の委嘱により歴史調査に携わった。『大日本地誌大系』『大日本読史地図』の編纂や、明治大学蔵蘆田文庫などで知られる。 1877年(明治10年)9月28日、石川県管下越前国足羽郡福井日ノ出下町(旧新屋敷、現・福井県福井市日之出)に、石川県第三師範学校(後の福井師範学校)漢学教授蘆田碩と福井藩士有沢権四郎娘岩子の間の長男に生まれた。1882年(明治15年)9月旭小学校に入学、1891年(明治24年)に福井県尋常中学校(現・福井県立藤島高等学校)に進んだ。
鈴木 清寿(すずき きよひさ、1877年〈明治10年〉9月2… 鈴木 清寿(すずき きよひさ、1877年〈明治10年〉9月28日 - 1937年〈昭和12年〉10月18日)は、大正から昭和時代戦前の政治家。神奈川県平塚市長。 平塚で質屋を営む鈴木春蔵の長男として生まれる。平塚小学校、東京大成学館を経て、東京法律専門学校を卒業後に帰郷した。日露戦争開戦の年に中郡役所書記となり、ついで1918年(大正7年)から同14年まで神奈川県庁地方課勤務となる。 1925年(大正14年)9月、平塚町助役、1927年(昭和2年)3月に同町長代理を経て、1929年(昭和4年)6月、22代町長に就任した。1932年(昭和7年)4月に平塚市が市制施行すると市長代理を経て、同年8月に初代市長に就任し、翌年病気により退任した。
兼坂 隆(かねさか たかし、1877年(明治10年)9月25… 兼坂 隆(かねさか たかし、1877年(明治10年)9月25日 - 1961年(昭和29年)12月16日)は、日本の海軍軍人。海兵27期。海大甲種10期。最終階級は海軍中将。号は三州。 千葉県出身。八雲艦長、横須賀海兵団長、砲術学校長、大要司令官などを歴任。 1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた。
一條 成美(いちじょう せいび/なるみ、男性、1877年9月… 一條 成美(いちじょう せいび/なるみ、男性、1877年9月25日 - 1911年3月16日)は、明治時代の日本の画家。
北村 耕造(きたむら こうぞう、1877年(明治10年)9月… 北村 耕造(きたむら こうぞう、1877年(明治10年)9月25日- 1939年(昭和14年)6月27日)は、日本の建築家。宮中顧問官。 京都で、代々近衛家の家臣をつとめる家に生まれる。 1903年(明治36年)に東京帝国大学建築学科を卒業。同期の卒業生には佐野利器、佐藤功一、大熊喜邦、田辺淳吉らがおり、同期の集名「どんぶり会」の一人。 卒業後は建築請負業清水満之助商店本店(現・清水建設)に入社。在籍中には海外の建築界を視察するために一年間の長期出張を命ぜられた。 1913年(大正2年)に清水組大阪支店長を歴任したのち、1917年(大正6年)に清水組を退社。今度は財団法人理化学研究所建設工事主任技師へと転じた。
伍堂 卓雄(ごどう たくお、1877年(明治10年)9月23… 伍堂 卓雄(ごどう たくお、1877年(明治10年)9月23日 - 1956年(昭和31年)4月7日)は、日本の政治家、実業家、海軍造兵中将。東京府士族。正三位。工学博士。
水内 吉藏(1876年(明治9年)10月21日 – 不明)は… 水内 吉藏(1876年(明治9年)10月21日 – 不明)は、日本の裁判官。
高木 利平(たかぎ りへい、1876年(明治9年)10月19… 高木 利平(たかぎ りへい、1876年(明治9年)10月19日 - 1931年(昭和6年)9月7日)は、日本の農業経営者、政治家。衆議院議員、埼玉県北葛飾郡彦成村長。 埼玉県葛飾郡上口村(のち北葛飾郡彦成村、現:三郷市上口)の農家に生まれる。1894年、慶應義塾大学を卒業して家業を継いだ。 彦成村会議員、埼玉県会議員、同参事会員、同副議長、彦成村長などを務めた。 1915年、北葛飾郡の非政友派を取り纏めて北葛飾倶楽部を組織。同年3月、第12回衆議院議員総選挙で埼玉県選挙区から立憲同志会所属で出馬して当選。第13回総選挙では 憲政会所属で出馬して当選したが、1917年10月24日に議員を辞職し、衆議院議員を二期務めた。
田村 哲 (通称: たむら てつ; 英語表記: S(ator… 田村 哲 (通称: たむら てつ; 英語表記: S(atoru) Tetsu Tamura; 出生名: たむら さとる、「哲」の元の読み; 1876年〔明治9年〕10月18日 – 1909年〔明治42年〕8月19日) は、日米で活躍した明治時代日本の気象学者・海洋学者。2021年ノーベル物理学賞受賞者の眞鍋淑郎が在籍した米国気象庁に日本人として初めて専門官として勤務したのは後述のとおり田村であり、高等数学応用の気象学者であることも共通する。また斯学の教育者にして米国の高等教育事情を調査・紹介した教育学者。 1876年(明治9年)10月18日、山形県置賜郡米澤北寺町(現、米沢市中央3丁目)に没落した米沢藩士田村芳政の三男として出生。
阿部 茂雄(あべ しげお 1876年(明治9年)10月14日… 阿部 茂雄(あべ しげお 1876年(明治9年)10月14日 – 没年不明)は、日本の裁判官。
保科 陽治(ほしな ようじ、1876年(明治9年)10月12… 保科 陽治(ほしな ようじ、1876年(明治9年)10月12日 - 1945年(昭和20年)2月7日)は、明治後期から昭和前期の農業経営者、政治家。衆議院議員、島根県簸川郡出西村長。 島根県出雲郡阿宮村(簸川郡出西村、斐川村、斐川町を経て現出雲市斐川町阿宮)で、保科昌三郎の長男として生れ、1904年(明治37年)家督を相続。1892年に和仏法律学校(法政大学)を卒業する。1893年(明治26年)4月に上京し、1897年(明治30年)東京専門学校(現早稲田大学)邦語政治科を卒業。農業を営む。 出西村会議員、学務委員、所得税調査委員に在任。1906年(明治39年)島根県会議員に選出され、同参事会員、出西村農会長、島根県農会幹事、簸川郡会議員なども務めた。
小野 義一(おの ぎいち、1876年(明治9年)10月7日 … 小野 義一(おの ぎいち、1876年(明治9年)10月7日 – 1950年(昭和25年)5月25日)は、日本の大蔵官僚、政治家。大蔵次官、衆議院議員、東京市助役。 高知県幡多郡、のちの宿毛村与市明(宿毛町を経て現宿毛市)出身。小野義為、キミの長男として生まれる。高知一中、東京府立四中を経て、1898年(明治31年)7月、第一高等学校政治科を首席で卒業。1903年(明治36年)7月、東京帝国大学法科大学政治学科を首席の優等で卒業し、銀時計を授与された。東大の同期には小川郷太郎や上杉慎吉、馬場鍈一ら。同年同月、大蔵属に任官し主計局兼参事官付となる。同年11月、文官高等試験行政科試験に次席合格。この時の首席合格者は馬場鍈一だった。
櫻田 壽(さくらだ ひさし、1876年(明治9年)10月6日… 櫻田 壽(さくらだ ひさし、1876年(明治9年)10月6日 – 1944年(昭和19年)6月19日)は、日本の裁判官。宮城控訴院長、広島控訴院長。
千崎 如幻 (せんざき にょげん、1876年10月5日? -… 千崎 如幻 (せんざき にょげん、1876年10月5日? - 1958年5月7日)は、サハリン出身の日本の臨済宗の僧侶、20世紀初期にアメリカに禅を広めた。義弟に彫刻家の工藤敬三(旧名:千崎敬蔵)がいる。
赤松 桂(あかまつ かつら、1876年(明治9年)10月5日… 赤松 桂(あかまつ かつら、1876年(明治9年)10月5日 - 1943年(昭和18年)8月26日)は、大正から昭和時代前期の政治家。愛媛県北宇和郡高光村長、宇和島市長。 愛媛県宇和郡宇和島御殿町(現在の宇和島市)で士族・告森桑圃の四男として生まれ、北宇和郡高光村の旧庄屋・赤松新古の養嗣子となる。1900年(明治33年)東京専門学校(現・早稲田大学)政治科を卒業する。 1910年(明治43年)5月より郷里の高光村長を5期務めたのち、1930年(昭和5年)5月に清家吉次郎の補欠で県会議員となり、任期満了まで務めた。1936年(昭和11年)7月、宇和島市長に就任するが、任期途中の1938年(昭和13年)3月、病気を理由に辞任した。
新村 出(しんむら いずる、1876年(明治9年)10月4日… 新村 出(しんむら いずる、1876年(明治9年)10月4日 - 1967年(昭和42年)8月17日)は、日本の言語学者、文献学者。京都大学教授・名誉教授で、ソシュールの言語学の受容やキリシタン語の資料研究などを行った日本人の草分けである。
富田 八郎(とみた はちろう、1876年10月4日 - 19… 富田 八郎(とみた はちろう、1876年10月4日 - 1947年11月29日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 滋賀県出身。東京専門学校で学ぶ。酒造業を営む。伊香郡議、同議長、滋賀県議、所得税調査委員、木之本町(現・長浜市)長、伊香相救社理事社長、木之本製糸、滋賀県農工銀行、滋賀県合同貯蓄銀行、江州日日新聞社各(株)取締役、江北銀行取締役頭取、滋賀県酒造組合連合会会長、全国酒造組合連合会評議員、近江信託(株)監査役となる。 1928年の第16回衆議院議員総選挙において滋賀県全県区から立憲政友会公認で立候補して当選した。衆議院議員を1期務めた。1930年の第17回衆議院議員総選挙には出馬しなかった。
佐藤 庄助(さとう しょうすけ、1876年(明治9年)10月… 佐藤 庄助(さとう しょうすけ、1876年(明治9年)10月4日 - 1944年(昭和19年)10月25日)は、明治から昭和前期の農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員。 水沢県栗原郡有馬村有壁(宮城県栗原郡萩野村、金成町を経て現栗原市金成有壁)で、旧有壁宿本陣の佐藤家に生まれた。札幌農学校を卒業し、さらに慶應義塾、養正塾、セントアンドリーチャーチ英語学校で学んだ。農業を営む。 1896年(明治29年)徴兵され陸軍騎兵少尉となり除隊。1903年(明治36年)9月、宮城県会議員に選出された。1904年(明治37年)6月に応召して県議を辞職し、満州軍に属して日露戦争に出征した。陸軍騎兵中尉に昇進して除隊。
植田 松蔵(うえだ まつぞう、1876年(明治9年)9月30… 植田 松蔵(うえだ まつぞう、1876年(明治9年)9月30日 - 没年不明)は、日本の実業家。彦島運輸社長。植田合名会社代表。日本紙製造取締役。 山口県豊浦郡彦島町(現・下関市)出身。彦島の素封家・植田惣五郎の長男。弟は彦島町長の植田末蔵。由緒ある家系の血を享けて悠然貴公子のごとく何等の煩悶もなく成育した。 1921年、家督を相続した。天性磊落、名利に恬淡であった。政治に野心なく、社交に趣味がなかったため、比較的世に知られなかった。 『商工資産信用録 第43回』によると植田松蔵(調査年月・1940年2月)は「正身身代・H、年扱高又は年収・不詳、信用程度・Cb、職業・貸地貸家、労力請負」である。
藤井 彦四郎(ふじい ひこしろう、1876年9月29日 - … 藤井 彦四郎(ふじい ひこしろう、1876年9月29日 - 1956年12月13日)は、日本の実業家。日本の化学繊維市場の礎を築いたパイオニアの1人と言われる。 1876年、三代目藤井善助の次男・磯松として滋賀県神崎郡北五個荘村大字宮庄に生まれる。9歳で先代彦四郎の養子となり、家督を相続し襲名。 滋賀県商業学校(後の滋賀県立八幡商業高等学校)に入学するも中退。朝鮮元山の近江商人宮原商店に奉公し修業を積む。その後、京都に戻り、長兄と共に父・善助の家業を手伝う。 父・善助の死後、分家し、1907年に糸商「藤井彦四郎商店」(現・藤井株式会社)を創業する。 藤井は、フランスにおいて人工絹糸(レーヨン)が発明されたことを知ると、フランス、ドイツから見本品を輸入し「人造絹糸」と名付けて宣伝活動を行った。
松井 鉄夫(まつい てつお、1876年9月26日 - 194… 松井 鉄夫(まつい てつお、1876年9月26日 - 1941年10月16日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 東京都出身。京都帝国大学法律科で学ぶ。台湾日日新聞記者となり、台湾旧慣調査会の事務に従事する。関東州民政署商工事務嘱託、南満州鉄道(株)社員を経て、大豆撒粕工場と満州耐火煉瓦工場を創立する。ほか、中華電気工業、旅順銀行、東亜証券商品信託各(株)重役、大阪帝国通信社、大日本興農各(株)取締役となる。 1920年の第14回衆議院議員総選挙において群馬2区から憲政会公認で立候補して当選する。衆議院議員を1期務め、1924年の第15回衆議院議員総選挙に立候補したが落選した。1941年に死去した。
横山 隆俊(よこやま たかとし、1876年(明治9年)9月2… 横山 隆俊(よこやま たかとし、1876年(明治9年)9月25日 - 1933年(昭和8年)12月19日)は、明治から昭和期の実業家、政治家、華族。貴族院男爵議員。従三位勲四等。加賀八家横山家第14代当主。 石川県石川郡金沢で加賀八家横山家当主・横山隆平の長男として生まれる。父の死去に伴い、1903年(明治36年)8月14日に男爵を襲爵した。 第四高等学校補充科で学び、その後、東京に出て専修学校に入学し、田尻稲次郎、阪谷芳郎などから理財学を学び、1897年(明治30年)に卒業し帰郷した。父が経営していた尾小屋鉱山に入り事業の拡大を図った。また親族横山隆興が経営していた平金鉱山(岐阜県)と合併して横山鉱業部を設立し、さらに大蔵鉱山(山形県)、宮田又鉱山(秋田県)などを買収して経営を拡大した。
安藤 正純(あんどう まさずみ、1876年(明治9年)9月2… 安藤 正純(あんどう まさずみ、1876年(明治9年)9月25日 - 1955年(昭和30年)10月14日)は、大正から昭和期のジャーナリスト、政治家。位階は正三位、勲等は勲一等。文部大臣(第71代)、国務大臣、衆議院議員(11期)。 東京府東京市浅草区浅草松葉町(現在の東京都台東区松が谷)にある、真宗大谷派真龍寺の住職、安藤了戒の子として生まれ、僧籍を有する。青年時代は宗門改革運動に情熱を燃やしていた。1895年に哲学館(現東洋大学)、1899年に東京専門学校(現早稲田大学)哲学科をそれぞれ卒業。陸羯南主宰の新聞『日本』記者を経て、東京朝日新聞に入社し、1920年には取締役編集局長となる。同年の衆議院議員総選挙に旧東京7区から無所属で立候補し当選を果たす。
津田 信夫(つだ しのぶ、1875年10月23日 - 194… 津田 信夫(つだ しのぶ、1875年10月23日 - 1946年2月17日)は日本を代表する鋳金工芸作家。東京美術学校(現在の東京芸術大学)教授、芸術院会員。
上島 鳳山(うえしま ほうざん、明治8年(1875年)10月… 上島 鳳山(うえしま ほうざん、明治8年(1875年)10月23日 - 大正9年(1920年)7月25日)は、日本の明治から大正にかけて活動した日本画家。同時代の北野恒富や菅楯彦、岡本大更らと共に、近代の大阪を代表する画家の一人である。 岡山県小田郡笠岡村字八軒屋(現在の笠岡市笠岡)に、辻嘉平の次男として生まれる。本名は寿治郎で、鳳山は画号で、画房を鳳鳴画室と称した。父嘉平は、初め刀鍛冶、後に理化学機械製造を仕事としていた。祖父・辻鳳山は円山派の絵師で、小寺清先編『備中名勝考』の挿絵を描いており、鳳山の号もこの祖父に由来していると考えられる。幼少から画家を志し、はじめ大阪出身で円山応立の弟子・木村貫山に学び、ついで西山完瑛・渡辺祥益に師事する。
田部 隆次(たなべ りゅうじ、1875年(明治8年)10月2… 田部 隆次(たなべ りゅうじ、1875年(明治8年)10月20日 - 1957年(昭和32年)12月20日)は、日本の英文学者。 富山県の南日家に生まれ、生後まもなく田部家の養子となる。兄に英語教育者の南日恒太郎、弟に別の田部家へ養子に入った英文学者の田部重治がいる。村松剛・村松英子の母方の祖父。村松えりの曾祖父。 富山中学校、早稲田大学専門部を経て、東京帝国大学英文科でラフカディオ・ハーンに学び、後年ハーンの研究を行った。女子学習院教授を務め、第一書房の『小泉八雲全集』を大谷正信らと共訳した。 1921年学習院大学教授をしていた時に、近所付合いをしていた小泉一雄(ラフカディオ・ハーンと妻セツの長男)に見送られて横浜から一年間の留学に発った。
富永 徳磨(とみなが とくま、1875年10月19日 - 1… 富永 徳磨(とみなが とくま、1875年10月19日 - 1930年4月30日)は駒込基督会牧師。 八木重吉に洗礼を授けたことでも知られる。 主著『基督の新精神』。黎明会の会員でもあった。 1875年(明治8年)大分県南海部郡佐伯町(現佐伯市)に生まれる。佐伯小学校を経て、藩校の鶴谷学館で学ぶ。1891年に佐伯教会で洗礼を受ける。鶴谷学館に在学中に、教師として薫陶を受けた国木田独歩の影響を受けて、1894年(明治27年)国木田と共に上京する。 植村正久のもとで神学、聖書を学ぶ、1901年(明治34年)に按手礼を受けて、日本基督教会の牧師になる。1903年(明治36年)に金沢石浦教会(現・日本基督教団金沢教会)の牧師に就任する。
三井 徳宝(みつい とくほう、1875年〈明治8年〉10月1… 三井 徳宝(みつい とくほう、1875年〈明治8年〉10月16日 - 1952年〈昭和27年〉4月6日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。 山梨県北巨摩郡清春村で三井泉林の長男として生まれる。漢学を修める。1893年(明治26年)、帯広に移り銅鉄金物店を開業。その後、野付牛町の開拓に関わり、農業、鉱山業も手掛ける。北海林産取締役、北海農産工業取締役、北海道造営取締役、北海道拓殖監査役などを務めた。 政界では、帯広町会議員、相続税審査員、所得調査委員を歴任。また、河西支庁選出の北海道会議員を1904年(明治37年)から1916年(大正5年)まで連続4期務めた。その間1910年(明治43年)11月から1913年(大正2年)11月まで第7代同副議長を務めた。
大里 広次郎(おおさと ひろじろう、1875年(明治8年)1… 大里 広次郎(おおさと ひろじろう、1875年(明治8年)10月11日 – 1955年(昭和30年)2月28日)は、衆議院議員(憲政会→立憲民政党)。内科医。 福岡県穂波郡飯塚町(現在の飯塚市)に福間嘉七郎の四男として生まれ、大里文龍の養子となった。1898年(明治21年)に第五高等学校医学部を卒業し、東京帝国大学医科大学に学んだ。福岡県立病院医員、嘉穂郡郡医となり、大阪病院を開業した。さらに飯塚保健組合病院長を務め、嘉穂郡医師会長、福岡県医師会長、九州連合医師会長を歴任した。また教育者としても飯塚高等女学校長、嘉穂看護婦学校長、九州医学専門学校理事・評議員となった。その他、九州自動車株式会社取締役を務めた。
千秋 季隆(せんしゅう すえたか、1875年(明治8年)10… 千秋 季隆(せんしゅう すえたか、1875年(明治8年)10月10日 - 1941年(昭和16年)5月12日)は、日本の政治家・教育者。位階は従四位。爵位は男爵。貴族院男爵議員。 愛知県愛知郡熱田(現名古屋市熱田区)で熱田神宮大宮司・千秋季福の二男として生まれる。兄・季美の死去に伴い、1877年(明治10年)5月30日に家督を相続。1884年(明治17年)7月8日、男爵を叙爵した。 1900年(明治33年)東京帝国大学文科大学国文学科を卒業。國學院講師、早稲田大学講師を経て、学習院教授となる。 その他、東京帝国大学附属図書館図書目録編纂嘱託、宗教制度調査会委員、神社制度調査会委員、神祇院参与、皇典講究所理事などを務めた。
根井 久吾(ねい きゅうご、1875年〈明治8年〉10月10… 根井 久吾(ねい きゅうご、1875年〈明治8年〉10月10日 - 1941年〈昭和16年〉6月5日)は、大正から昭和時代前期の政治家、教育者。宮崎県宮崎市長。 宮崎県宮崎郡清武村(現在の宮崎市)出身。伊東享の三男として生まれ、根井見益の養子となった。1902年(明治35年)、東京帝国大学文科大学哲学科を卒業。陸軍少尉、陸軍中尉に任じ、日露戦争に出征した。高知県立第四中学校(現・高知県立中村中学校・高等学校)に勤務し、宮崎県立宮崎中学校(現・宮崎県立宮崎大宮高等学校)教諭、宮崎県立延岡中学校(現・宮崎県立延岡高等学校)校長兼教諭を経て、愛媛県立松山中学校(現・愛媛県立松山東高等学校)校長となる。
近藤 達児(こんどう たつじ、1875年(明治8年)10月9… 近藤 達児(こんどう たつじ、1875年(明治8年)10月9日 - 1931年(昭和6年)9月22日)は、衆議院議員(立憲国民党→革新倶楽部→立憲政友会)、弁護士。 福島県安達郡二本松町(現二本松市)に旧二本松藩典医近藤玄貞の二男として生まれる。京華中学校、第四高等学校を経て、1909年(明治42年)に東京帝国大学法科大学独法科を卒業した。在学中の1906年(明治39年)に大日本輸出羽二重株式会社を設立して常務取締役に就任し、また渋川起業株式会社取締役にも就いていた。しかし卒業した後は職を辞して、1910年(明治43年)に弁護士を開業し、また大学院で会社法を研究した。 日本橋区会議員、同議長、東京市会議員を経て、1917年(大正6年)の第13回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。
荒木 久九郎(あらき ひさくろう、1875年〈明治8年〉10… 荒木 久九郎(あらき ひさくろう、1875年〈明治8年〉10月8日 - 没年不明)は、日本の商人(呉服太物商)、政治家、実業家、荒木合名会社社員。合資会社荒木呉服店代表。境貿易監査役。境電気取締役。鳥取県西伯郡境町会議員。 鳥取県西伯郡境町(現・境港市)出身。荒木重造の実兄である。境製糸社員だったが1902年にその出資額全部を社員の荒木徳三郎へ譲渡し退社する。国産古着、白木綿、呉服、反物、綛糸卸商を営む。 荒木呉服店は土地に於ける第一流の商店であったが、家族に不幸が続き、営業に全力を注ぐことができなかったので、1914年10月にやむなく整理を発表した。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。
島地 大等(しまじ だいとう、1875年〈明治8年〉10月8… 島地 大等(しまじ だいとう、1875年〈明治8年〉10月8日 - 1927年〈昭和2年〉7月4日)は、浄土真宗の僧侶。旧姓は姫宮、幼名は等。新潟県頸城郡三郷村(現・上越市)出身。4年間の上京を経て、1893年に西本願寺の文学寮(現龍谷大学)に入学した。1897年に大学林へ進学、1899年は大学林高等科へ進学。1902年に島地黙雷の養嗣子(法嗣)となり、黙雷亡き後は盛岡の願教寺住職となる。曹洞宗大学(現駒澤大学)、日蓮宗大学(現立正大学)、東洋大学などで教え、1923年から東京帝国大学でインド哲学を教えた。数え53歳で死去。子の島地黙猊が跡を継ぎ、『天台教学史』など多くの遺稿が刊行された。 この項目は、仏教に関連した書きかけの項目です。
竹内 権兵衛(たけうち ごんべえ、1875年(明治8年)10… 竹内 権兵衛(たけうち ごんべえ、1875年(明治8年)10月7日 - 1945年(昭和20年)8月10日)は、大正から昭和時代戦前の政治家。実業家。貴族院多額納税者議員。幼名は幸太郎。 茨城県久慈郡、のちの太田町(現常陸太田市)出身。先代権兵衛の長男として生まれ、1913年(大正2年)家督を相続と共に幼名を改める。 1914年(大正3年)以降、茨城県農工銀行監査役、日本製鋼取締役、日本赤十字社茨城支部商会議員などを歴任した。ほか、水浜電車社長、茨城土木工業、鹿島軌道、日立電気各取締役を務めた。 1918年(大正7年)9月29日には茨城県多額納税者として貴族院議員に互選され、1921年(大正10年)5月17日に除名されるまで務めた。
松田 源治(まつだ げんじ、1875年〈明治8年〉10月4日… 松田 源治(まつだ げんじ、1875年〈明治8年〉10月4日 - 1936年〈昭和11年〉2月1日)は、日本の弁護士、政治家。衆議院議員(当選9回)。族籍は大分県平民。拓務大臣、文部大臣、衆議院副議長を務めた。 大分県宇佐郡柳ヶ浦村出身。松田録兵衛の二男。家は貧しく学資はなく、郷里で小学代用教員や電信技手をつとめた。1894年(明治27年)、上京した。苦学しながら、東京法学院(現:中央大学)や日本法律学校(現:日本大学)で学んだ。 法学博士、岡村輝彦の玄関番として住み込みをしながら1896年(明治29年)に、日本法律学校を卒業した。1897年(明治30年)、文官高等試験並びに判検事登用試験に合格。
多田 鼎(ただ かなえ、1875年(明治8年)10月3日 … 多田 鼎(ただ かなえ、1875年(明治8年)10月3日 - 1937年(昭和12年)12月7日)は、日本の学僧、宗教家。愛知県出身。大谷派伝道講究院初代院長を務めた。院号及び法名は、「信斯院釋慶悟」。 愛知県宝飯郡五井村(現在の蒲郡市)の常円寺で生まれる。 1896年(明治29年)に真宗大学へ進学、白川党(清沢満之らによる宗派変革活動)に加わったため、退校処分となる。(次年には復校が許可される) 1900年(明治33年)、清沢満之の仮宅浩々洞において暁烏敏、佐々木月樵などと「精神主義」に身を投じる。 また、浩々洞の機関誌『精神界』の刊行を1901年(明治34年)に始める。 1902年(明治35年)真宗大学の嘱託教授に就任する。
竹内 賀久治(たけうち かくじ、明治8年(1875年)10月… 竹内 賀久治(たけうち かくじ、明治8年(1875年)10月3日 - 昭和21年(1946年)11月18日)は、日本の弁護士、教育者、政治活動家。法政大学総長、第二東京弁護士会会長、国本社専務理事。学位は法学博士。 岡山県窪屋郡白楽市村(現在の倉敷市)に生まれる。苦学して、明治26年(1893年)に陸軍教導団に合格。明治30年(1897年)に二等軍曹となり、歩兵第21連隊(広島)に配属。翌年陸軍士官学校に入学する(11期) 。しかし上官と喧嘩をし、陸軍を退職。その後、麻布中学の体操教師をしながら和仏法律学校夜間部に通う。 明治37年(1904年)日露戦争に出征、砲兵少尉として能美島砲台に配属され、翌年大連に上陸するも病により内地送還、召集解除となる。
益田太郎冠者(ますだたろうかじゃ、1875年(明治8年)9月… 益田太郎冠者(ますだたろうかじゃ、1875年(明治8年)9月25日 - 1953年(昭和28年)5月18日)は、日本の実業家・劇作家・音楽家。貴族院議員。男爵。東京都出身。本名、太郎。
原田 藤次郎(はらだ とうじろう、1874年(明治7年)10… 原田 藤次郎(はらだ とうじろう、1874年(明治7年)10月21日 - 1948年(昭和23年)1月5日)は、明治時代後期から大正時代の政治家、銀行家。衆議院議員。 原田佐治郎の長男として、青森県西津軽郡森田村(現・つがる市森田町)に生まれる。農業を営む傍ら青森県農工銀行取締役を歴任する。1920年(大正9年)第14回衆議院議員総選挙で青森県第4区から立憲政友会所属で出馬して当選し、2期務めた。 在任中は五能線の五所川原以西の延伸に尽力し、1924年(大正13年)には陸奥森田駅まで列車が走るようになり、翌年には鰺ケ沢まで、1934年(昭和9年)には深浦まで開通した。1933年(昭和8年)から1946年(昭和21年)までは西津軽郡土淵堰、悪水路の両水利組合議員を務め、農業水利の改善に尽くした。
小竹 岩楠(しの いわぐす、1874年(明治7年)10月18… 小竹 岩楠(しの いわぐす、1874年(明治7年)10月18日 - 1933年(昭和8年)10月5日)は、日本の実業家。郷里の和歌山県で日高川水力電気での水力発電事業を成功させたのち、南紀白浜温泉を開発。明光バスなども設立した。 和歌山県日高郡島村(現・御坊市)に生まれる。小学校、中学校時代を首席で通し、1893年に御坊村の小竹家の養子となった。 和歌山県立和歌山中学校(現・和歌山県立桐蔭高等学校)を経て、1894年に高等高等商業学校(現・一橋大学)に進学した。 同校を病気で中退後、鎌倉市の円覚寺で2年間修行し、和歌山に帰郷し兄弟で家業の木材業を再興し、資産家となった。 日高郡で初となる製材所として、1901年に日高製材所を設立。
安原 仁兵衛(やすはら にへえ、1874年10月18日 - … 安原 仁兵衛(やすはら にへえ、1874年10月18日 - 1931年8月6日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)。 滋賀県出身。明治法律学校で学ぶ。滋賀県議、同議長となる。また、近江重布(株)、高島銀行各取締役を務めた。 1920年の第14回衆議院議員総選挙において滋賀2区から立憲政友会公認で立候補して当選。1924年の第15回衆議院議員総選挙では87票差で落選。1928年の第16回衆議院議員総選挙では滋賀県全県区から立候補して返り咲いた。衆議院議員を2期務めた。1930年の第17回衆議院議員総選挙には出馬しなかった。1931年死去。
脇村 市太郎(わきむら いちたろう、1874年(明治7年)1… 脇村 市太郎(わきむら いちたろう、1874年(明治7年)10月18日 - 1960年(昭和35年)4月8日)は、日本の薬剤師、実業家。田辺銀行監査役、田辺町会議員。田辺市名誉市民。 現在の田辺市で脇村市太夫の長男として生まれた。1893年(明治26年)帝国大学医科大学中退。家業の薬種商、山林業を営む。 1956年(昭和31年)に脇村奨学会を設立し、和歌山県の大学進学者に育英奨学金を支給している。 田辺市文化交流センター「たなべる」には脇村市太郎像が設置されている。
棚次 辰吉(たなつぐ たつきち、明治7年(1874年)10月… 棚次 辰吉(たなつぐ たつきち、明治7年(1874年)10月15日 - 1958年5月19日)は、日本の発明家、実業家。 東かがわ市における手袋産業の育ての親とされる人物である。東かがわ市の白鳥神社の敷地内にある手袋神社に銅像がある。 讃岐国大内郡松原村(現在の香川県東かがわ市松原)出身。明治22年に教蓮寺に奉公に出る。明治24年に大阪に行き、メリヤス商店に入り、従兄弟の両児舜礼の下で手袋などの製造販売を修得する。明治27年に独立した。明治30年にメリヤス加工のミシンを考案した。明治32年に教蓮寺内に積善商会を起こし、手袋の製造を始める。大正5年に大阪手袋工場を創業した。 その後、第一次世界大戦の特需により、東かがわ市内に手袋会社や工場が多く作られ、現在まで続く東かがわ市における手袋産業発展のきっかけになった。
平山 清次(ひらやま きよつぐ、1874年(明治7年)10月… 平山 清次(ひらやま きよつぐ、1874年(明治7年)10月13日 - 1943年(昭和18年)4月8日)は、日本の天文学者。 宮城県仙台市出身。寺尾寿の弟子で、天体力学及び古暦の研究で有名。小惑星の「族」を発見した功績により月の裏側のクレーターに「ヒラヤマ」と名づけられた。ヒラヤマは清次と同姓の天文学者・平山信(太陽の理論的な研究、小惑星の観測や発見及び軌道決定、日食観測、天体物理学・恒星天文学及び測地学に多大な業績を残した)の2人の名前に由来しているが、清次と信の間には血縁・姻戚関係はない。墓所は仙台市泰心院。 平山清次の門下生には萩原雄祐、鏑木政岐、広瀬秀雄らがいる。
坂本 助太郎(さかもと すけたろう、1874年10月12日 … 坂本 助太郎(さかもと すけたろう、1874年10月12日 - 1944年11月14日)は、日本の官僚・内務技官。土木技師・土木工学者。関西高等工学校・関西高等工業学校(現:大阪工業大学)第2代理事長。工学博士(東京帝国大学)。内務省大阪土木出張所元所長。土木学会元関西支部長。元阪神上水道組合長。河川工学(特に淀川)の権威の一人。位階は従三位、勲等は勲三等。 専門は、土木工学・河川工学/海岸工学、水工学。 1874年宮城県仙台生まれ。1900年東京帝国大学工科大学土木工学科卒業。内務省第5区(大阪)土木監督署にて主任として、淀川第1工区改修工事に従事。1911年同省東京土木出張所に異動し、利根川第3期改修工事従事に従事。
満谷 国四郎(みつたに くにしろう、1874年(明治7年)1… 満谷 国四郎(みつたに くにしろう、1874年(明治7年)10月11日 - 1936年(昭和11年)7月12日)は、日本の洋画家である。十五老とも称した。 1874年10月11日に満谷準一郎と世辞との間に三男として、岡山県賀陽郡門田村(もんでむら・現総社市門田)に生まれた。現在は「満谷国四郎先生 生誕之地」と刻まれた石碑が建てられている。叔父の堀和平は県下で洋画の草分けと言われた人で、幼い国四郎は堀家に行くたびに和平の画技を見て強い感銘を受けた。さらに、浅尾小学校では代用教員をしていた吉富朝次郎に愛され、岡山中学校(現・岡山県立岡山朝日高等学校)に進むと松原三五郎に画才を認められた。1891年(明治24年)、ついに中学を3年で退学。
池上 秀畝(いけがみ しゅうほ、1874年(明治7年)10月… 池上 秀畝(いけがみ しゅうほ、1874年(明治7年)10月11日 - 1944年(昭和19年)5月26日)は、明治時代から昭和にかけての日本画家。特に山水・花鳥画を得意とした。 長野県上伊那郡高遠町(現在の伊那市)に紙商兼小間物屋の次男として生れる。本名は國三郎。祖父池上休柳は、家業は番頭に任せて高遠藩・御用絵師に狩野派を学び、慶応2年(1866年)には自らの画論『松柳問答』を刊行、その翌年亡くなっている。父池上秀華も、岡本豊彦から四条派を学び、祖父と同様、俳句や短歌を詠み、茶道や華道に凝るといった趣味三昧の生活ぶりだったという。今でも高遠から上伊那各地の旧家には、彼らの作品が所蔵されている。
八田 宗吉(はった そうきち、1874年(明治7年)10月9… 八田 宗吉(はった そうきち、1874年(明治7年)10月9日 - 1938年(昭和13年)1月16日)は、日本の政治家、実業家、陸軍軍人である。幼名は吉之丞。立憲政友会所属の衆議院議員。馬議員、鉄道代議士、百姓代議士などの異名があった。 日本医科大学教授で衆議院議員の八田貞義は息子。 福島県河沼郡日橋村(現・会津若松市)出身。福島中学を経て、陸軍軍人となり歩兵大尉まで進級している。故郷である日橋村村長となったのが政治家としての第一歩で、県会議員、参事会員を歴任。実業家としては福島県農工銀行、只見川水力電気、日本化学工業、会津電力の役員を務めている。 1917年(大正6年)福島二区から衆議院議員に初当選。