辻 永(つじ ひさし、1884年〈明治17年〉2月20日 -… 辻 永(つじ ひさし、1884年〈明治17年〉2月20日 - 1974年〈昭和49年〉7月23日)は、日本の洋画家。広島県広島市生まれ、茨城県水戸市育ち。 広島県広島市に生まれ、後に父の任地変更に伴い家族で茨城県水戸市に移り住んだ。水戸警察署長を務めた父の趣味が書画、骨董品の蒐集および草花、西洋野菜の育成であったことが永の絵画と植物の方面へ影響を及ぼした、と水戸市立博物館は2011年辻永植物画特別展の際に記している。 水戸中学校在学時代の1900年(明治33年)に白馬会会員で図画教師の丹羽林平宅に同居しつつ油絵を学び、以後東京美術学校西洋画科本科に進学し黒田清輝、岡田三郎助らに師事し洋画家となった。
杉 道助(すぎ みちすけ、1884年(明治17年)2月20日… 杉 道助(すぎ みちすけ、1884年(明治17年)2月20日 - 1964年(昭和39年)12月14日)は、日本の実業家。第二次世界大戦後における大阪・関西財界の代表者。曽祖父は吉田松陰の父である杉常道、祖父は松陰の兄の杉民治。 八木商店社長となり、大阪商工会議所会頭を23年間務め、日本商工会議所副会頭、新日本放送(現・MBSメディアホールディングス)社長、海外市場調査会(現・日本貿易振興機構(略称:JETRO(ジェトロ)を設立後、理事長となる。鳩山一郎内閣において日ソ交渉全権顧問、日韓会談首席代表として政界にも関与した。位階は正三位、勲等は勲一等。 山口県山口市に生まれた。父の相次郎は県庁勤めをしていた。
片上 伸(かたがみ のぶる、1884年(明治17年)2月20… 片上 伸(かたがみ のぶる、1884年(明治17年)2月20日 - 1928年(昭和3年)3月5日)は、日本の文芸評論家、ロシア文学者。初期は「天弦」の号で執筆活動をしていたので、片上天絃(片上天弦)の名でも知られる。 1884年、愛媛県今治市波止浜生まれ。一族は裕福な庄屋であり、伸の父・良(つかさ)は月番所詰めの役人であった。幼いころから神童と呼ばれ、新聞・雑誌の投稿欄の懸賞金を学資に当てていたという。旧制愛媛県立松山中学校(現・愛媛県立松山東高等学校)を卒業後、1900年に東京専門学校(現・早稲田大学)予科に入学する。在学中は英文学を学んだが、一方で当時勃興期であった自然主義文学に傾倒。卒業後は『早稲田文学』の記者をとなり、後に早稲田大学の教員となった。
加藤 隆義(かとう たかよし、明治16年(1883年)3月2… 加藤 隆義(かとう たかよし、明治16年(1883年)3月20日 - 昭和30年(1955年)2月10日)は、大正から昭和期の日本の海軍軍人、華族。最終階級は海軍大将。子爵。広島県出身で旧姓は船越。同郷の加藤友三郎元帥から養子に迎えられ、以後加藤姓を名乗る。
磯井 如真(いそい じょしん、1883年(明治16年)3月1… 磯井 如真(いそい じょしん、1883年(明治16年)3月19日 - 1964年(昭和39年)8月23日)は、日本の漆芸家。本名は雪衛(ゆきえ)、あらため雪枝。 香川県高松市出身。香川県立工芸学校(現、香川県立高松工芸高等学校)を卒業後、大阪山中商会で中国漆器の修理などに携わり、技術を習得した。1909年に高松に戻り、製法が絶えて久しかった香川漆器を独自研究を重ねて復興し、近代化を確立した。讃岐漆芸の中興の祖と称される。母校の工芸学校や工芸研究所で後進の育成にもあたっている。1936年(昭和11年)の文展(帝展の代わりに開催)に出品した「漆サボテンにホロホロ鳥飾棚」で選奨を受賞。1953年(昭和28年)には岡山大学教授に就任。
茅野 蕭々(ちの しょうしょう、1883年3月18日 - 1… 茅野 蕭々(ちの しょうしょう、1883年3月18日 - 1946年8月29日)は、日本のドイツ文学者、詩人、翻訳家。本名は茅野 儀太郎、号は暮雨。妻は歌人の茅野雅子(旧姓:増田)。 長野県諏訪郡上諏訪村(現諏訪市)出身。諏訪郡立実科中学校、第一高等学校を経て、1908年東京帝国大学独文科卒業。同科の同級生に小宮豊隆、小牧健夫、1年上に成瀬無極、一年下に小野秀雄がいた。第三高等学校教授、慶應義塾大学教授、日本女子大学教授を歴任した。 旧制一高在学中から与謝野鉄幹が主宰する新詩社の『明星』同人として短歌、詩、評論等を寄せ、妻雅子とともに活躍した。「蕭々」は与謝野鉄幹から与えられたペンネームである。
次田 大三郎(つぎた だいざぶろう、1883年〈明治16年〉… 次田 大三郎(つぎた だいざぶろう、1883年〈明治16年〉3月18日 - 1960年〈昭和35年〉9月15日)は、貴族院勅選議員ならびに廣田内閣の法制局長官、幣原内閣の内閣書記官長。第六高等学校、東京帝国大学卒業。幼名は七五三五郎。 後妻は三菱総理事や南満州鉄道副総裁を務めた江口定条の長女。日本共産党議長などを務めた野坂参三は義弟。 岡山県邑久郡南幸田村(幸島村、西大寺市水門町を経て現在の岡山市東区)出身。次田大三郎の四男・七五三五郞として生まれる(1914年に襲名)。東京帝国大学法科大学政治科卒業。東京帝大卒業後は官僚となる。1909年(明治42年)11月、高等文官試験行政科を合格。茨城県属。
宮良 長包(みやら ちょうほう、1883年3月18日 - 1… 宮良 長包(みやら ちょうほう、1883年3月18日 - 1939年6月29日)は、20世紀前半の日本の作曲家、教育者。沖縄県八重山郡石垣町(現・石垣市)出身、石垣市名誉市民。 1883年(明治16年)石垣町新川に生まれる。宮良家は音楽的才能に恵まれ、長包の叔父・長次は、八重山民謡の代表として広く愛唱されている「トバラーマ(とぅばらーま)」の名歌手で、長包の妹・ヌヘマは1935年(昭和10年)にコロムビア・レコードで八重山民謡を録音している。 石垣南尋常小学校、八重山島高等小学校を経て、1903年(明治36年)、首里の沖縄師範学校に入学。卒業後、八重山高等小学校(現:石垣市立登野城小学校)訓導として教育者となる。
西方 利馬(にしかた としま、1883年(明治16年)3月1… 西方 利馬(にしかた としま、1883年(明治16年)3月17日 - 1973年(昭和48年)11月8日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員(6期)。 山形県東置賜郡中川村(現・南陽市)で、旧米沢藩の中山城代家中(陪臣)の西方家に生まれる。1919年中央大学法律科卒。中山葡萄、山形新聞各社長、山形県議、山形県体育会長などを務め、1924年の第15回衆議院議員総選挙において山形県第4区(当時、小選挙区)から立憲政友会公認で立候補して初当選。以来当選6回。立憲政友会総務、内閣東北局委員、内務省委員などを歴任する 。 戦後、大政翼賛会の推薦議員のため、公職追放となる。1951年追放解除。1973年死去。
青木 泰助(あおき たいすけ、1883年3月14日 - 19… 青木 泰助(あおき たいすけ、1883年3月14日 - 1952年9月26日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 千葉県出身。1909年明治大学法科選科修了。1913年(財)警務協会経営警察官練習所卒。千葉県野田、佐原、北条の各警察署長、同県刑事課長を歴任。千葉県議、同参事会員、同議長、県労務調停委員会委員長となる。 1946年の第22回衆議院議員総選挙において千葉県から日本進歩党公認で立候補して当選する。翌1947年の第23回衆議院議員総選挙において千葉3区から民主党公認で立候補したが落選した。 このほか白井自動車(株)取締役、土木建築(資)松井組常任顧問を務めた。1952年死去。
藤田 傊治郎(ふじた うんじろう、1883年(明治16年)3… 藤田 傊治郎(ふじた うんじろう、1883年(明治16年)3月13日 - 没年不詳)は、日本の内務官僚。台湾総督府官僚。 岡山県出身。1911年(明治44年)、東京帝国大学法学部英法科を卒業し、翌年に高等文官試験に合格。岐阜県属、神奈川県属、同鎌倉郡長、同理事官、兵庫県理事官、同視学官、秋田県警察部長、関東庁事務官兼参事官・警務局警務課長兼警察官練習所長、同内務局学務課長、広島県学務部長、鹿児島県内務部長、栃木県内務部長を歴任した。一時休職の後、1932年(昭和7年)、千葉県書記官・内務部長に任命された。 1935年(昭和10年)、台湾総督府交通局理事・逓信部長に転じ、翌年には台南州知事、ついで台北州知事に就任した。
村尾 圭介(むらお けいすけ、1883年3月13日 - 19… 村尾 圭介(むらお けいすけ、1883年3月13日 - 1959年7月19日)は日本の医師、弓道家。結核の専門医で、学位は医学博士。 静岡県浜名郡小野口村(現・浜松市)出身で、東京帝国大学で学んだ。学生時代は高野六郎と毎日顔を合わせていた。高野によると、当時の村尾は陽気なやんちゃ坊主で、既に弓道の極意に達していた。1909年のクリスマスの頃に大学を出た。 初め故郷の浜松で勤めた。研究分野を病理から外科へ、外科から結核へ変えた。研究の目的で1920年夏に上京し、開設されたばかりの公立結核療養所・東京市療養所に勤めた。病室の仕事と研究室の仕事をもった。江古田にあった東京市療養所には本郷から通った。1923年の関東大震災に遭い、東京市療養所の敷地に避難して、そこの自動車小屋の2畳敷の部屋に住み着いた。
高村 光太郎(たかむら こうたろう、1883年〈明治16年〉… 高村 光太郎(たかむら こうたろう、1883年〈明治16年〉3月13日 - 1956年〈昭和31年〉4月2日)は、日本の詩人・歌人・彫刻家・画家。本名は高村 光太郎(たかむら みつたろう)。父は彫刻家の高村光雲。 日本を代表する彫刻家であり画家でもあったが、今日にあって『道程』『智恵子抄』などの詩集が著名で、教科書にも多く作品が掲載されており、日本文学史上、近現代を代表する詩人として位置づけられる。著作には評論や随筆、短歌もあり能書家としても知られる。弟が2人おり下の弟は鋳金家の高村豊周。甥(豊周の息子)は写真家の高村規である。父である高村光雲などの作品鑑定も多くしている。 東京府東京市下谷区下谷西町三番地(現:東京都台東区東上野一丁目、二丁目付近)出身。
大塚 甚之助(おおつか じんのすけ、1883年(明治16年)… 大塚 甚之助(おおつか じんのすけ、1883年(明治16年)3月13日 - 1951年(昭和26年)3月19日)は、大正から昭和時代の政治家。実業家。醸造家。衆議院議員。静岡県会議長。 静岡県志太郡藤枝宿(藤枝町を経て現藤枝市)出身。生家は酒造業を営み、父の先代大塚甚之助は志太電気会社や藤相鉄道などを創設した実業家。 藤枝町長、同町会議員、静岡県会議員、同副議長、議長、静岡県鉄工組合連合会理事、同酒造組合連合会長、全国酒造組合中央会理事、藤相鉄道監査役、静岡県酒類販売社長を歴任した。 1946年(昭和21年)4月の第22回衆議院議員総選挙では静岡全県区から出馬し当選。衆議院議員を1期務めた。議員在任中は日本自由党総務、衆議院請願委員長を務めた。
朝倉 希一(あさくら きいち 1883年3月12日 - 19… 朝倉 希一(あさくら きいち 1883年3月12日 - 1978年4月20日)は、明治から昭和期の機械工学者、鉄道技術者。
加藤 鐐五郎(かとう りょうごろう、1883年3月11日 -… 加藤 鐐五郎(かとう りょうごろう、1883年3月11日 - 1970年12月20日)は、日本の政治家。衆議院議長(第48代)、法務大臣(第4代)。衆議院議員(12期)。 愛知県瀬戸市出身。政界入りする前は医学博士号を持つ医師であり、戦前の帝国議会時代より衆議院議員選挙に通算12回当選。戦時中は政友会系の地方紙で現在の中日新聞社の前身の1紙に当たる新愛知新聞社の顧問を務めていた。 造船疑獄に対する指揮権発動で法務大臣を辞任した犬養健の後任法相となり、さらに警職法改正をめぐる国会審議混乱の責任を取って衆議院議長を辞任した星島二郎の後任議長に就任したことから、医師出身の政治家という自らの経歴とあわせ「後始末の専門のヤブ医者」を自称したことで知られている。
吉岡 重三郎(よしおか じゅうさぶろう、1883年3月10日… 吉岡 重三郎(よしおか じゅうさぶろう、1883年3月10日 - 1974年3月22日)は、大阪府大阪市出身の実業家。東京テアトル株式会社創業者。 1883年(明治16年)3月10日、大阪府大阪市の吉岡勘三郎の三男として生まれた。大阪高等商業学校(後の旧制大阪商科大学、大阪市立大学の母体の一つ)在学中は野球部捕手として活躍し、1903年(明治36年)に大阪高等商業学校を卒業した。1909年(明治42年)に箕面有馬電気軌道(阪急電鉄の前身)に入社して営業を担当。同時期に入社した人物には佐藤博夫がいる。1915年(大正4年)には同社が建設した豊中球場の活用策として、全国中等学校優勝野球大会(現・全国高等学校野球選手権大会)を発案して大阪朝日新聞の(当時社会部長)長谷川如是閑らと交渉し開催を実現させた。
前田 直造(まえだ なおぞう、1883年(明治16年)3月1… 前田 直造(まえだ なおぞう、1883年(明治16年)3月10日 - 1943年(昭和18年)4月10日)は、日本の逓信官僚。 三重県出身。第一高等学校を経て、1909年(明治42年)に東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。翌年に高等文官試験に合格した。逓信局書記、通信事務官補、通信副事務官、逓信局副事務官、逓信局事務官、逓信書記官を歴任し、その間に和歌山郵便局長、京都中央電話局長、北海道逓信局総務部長、熊本逓信局監察課長、同監理課長、東京逓信局規画課長を務めた。さらに逓信局電話課長、電務局規画課長などを歴任。1927年(昭和2年)、仙台逓信局長に就任し、大阪逓信局長、東京逓信局長も務めた。1933年(昭和8年)、退官。
澤部 元信(さわべ もとのぶ、1883年(明治16年)3月1… 澤部 元信(さわべ もとのぶ、1883年(明治16年)3月10日 - 1973年 <昭和48年> 4月6日)は、日本の政治家。初代茨城県下妻市長(2期)。勲五等双光旭日章。位階は正六位。 ハライチの澤部佑の曽祖父。 1903年(明治36年)、明治法律学校を修了する。1921年(大正10年)真壁郡下妻町会議員となる。その後、1933年(昭和8年)と1939年(昭和14年)に下妻町長に就任。町長は1943年(昭和18年)まで務めた。 戦後公職追放となり、追放解除後の1952年(昭和27年)下妻町長に復帰する。1954年(昭和29年)下妻町は真壁郡上妻村・結城郡総上村・豊加美村・筑波郡高道祖村を編入し、下妻市が発足し、町長から初代市長となった。
金子 喜代太(かねこ きよた、1883年(明治16年)3月9… 金子 喜代太(かねこ きよた、1883年(明治16年)3月9日 - 1971年(昭和46年)6月6日)は、日本の実業家。結婚によって浅野総一郎の親戚になり、浅野財閥の多数の企業の重役を務めた。 1883年(明治16年)3月に、高知県の金子虎太郎の長男として生まれた。東京高等師範学校(筑波大学)の物理化学科を1907年(明治40年)に卒業した。 或いは数学科を卒業した。 教師として数年間働いてから、東京帝国大学(東京大学)に入学して、穂積八束博士宅に寄寓して、昼は学生、夜は教師をして苦学しながら、法科 または政治科を大正4年に卒業した。 卒業後に最初は三菱合資に就職したが、 穂積八束博士の娘であり穂積重威の妹でもある女性と結婚して、浅野総一郎の親戚となり、大正6年に浅野セメント(太平洋セメント)に転職した。
白勢 黎吉(しろせ れいきち、1883年〈明治16年〉3月9… 白勢 黎吉(しろせ れいきち、1883年〈明治16年〉3月9日 - 没年不詳)は、台湾総督府官僚。実業家。 新潟県北蒲原郡新発田町(現在の新発田市)出身。今井文三の二男として生まれ、白勢家を継いだ。1909年(明治42年)に東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、高等文官試験に合格した。台湾総督府鉄道部書記、同事務官、交通局理事、鉄道部長兼総務課長、交通局総長を歴任した。 退官した後は、台湾青果社長、常磐簡易火災保険会社常務取締役、東海運輸株式会社社長、台湾土地建物株式会社取締役、台湾乗合自動車事業組合理事長、台湾自動車事業組合連合理事などを務めた。
広部 達三(廣部 達三、ひろべ たつぞう、1883年〈明治1… 広部 達三(廣部 達三、ひろべ たつぞう、1883年〈明治16年〉3月9日 - 没年不明)は、日本の農学者。東京帝国大学農学部教授。農林省農事試験場技師。旧姓・太田。 宮城県仙台市生まれ。太田可一の弟。1907年、東京帝国大学農学科卒業。1912年、広部銀行頭取・広部清兵衛の養子となる。農科大学講師兼農事試験場嘱託同技師農林技師歴職。また広部拓殖社員である。 『広部農具論』、『広部農用機具』などの著書がある。趣味は庭球、柔道、弓道、スケート、写真。住所は東京市渋谷区神山町。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
森 万吉(萬吉、もり まんきち、1883年(明治16年)3月… 森 万吉(萬吉、もり まんきち、1883年(明治16年)3月8日 - 没年不明)は、明治時代後期から昭和時代前期の台湾総督府官僚。台南市尹。花蓮港庁長。 東京府荏原郡馬込村(馬込町、東京市大森区を経て、現東京都大田区)に生まれる。1907年(明治40年)3月、台湾総督府雇となり、同年7月、文官普通試験に合格する。1908年(明治41年)4月、統計講習会を修了し、土木局勤務を拝命する。ついで臨時台湾工事部書記、土木局庶務課勤務、台北庁属、内務局土木課庶務係長などを経て、1924年(大正13年)12月、新竹州苗栗郡守となる。1926年(大正15年)1月、台南州虎尾郡守、1928年(昭和3年)9月、台中州豊原郡守を経て、1932年(昭和7年)4月、台南市尹に就任。
米津 政賢(よねきつ まさただ、1883年(明治16年)3月… 米津 政賢(よねきつ まさただ、1883年(明治16年)3月8日 - 1941年(昭和16年)8月19日)は、明治から昭和期の技術者、政治家、華族。貴族院子爵議員。位階および勲等は正三位・勲二等。 旧長瀞藩主・米津政敏の長男として生まれる。父の死去に伴い、1895年(明治28年)11月22日、子爵を襲爵した。 学習院中等科、第六高等学校を経て、1908年(明治28年)7月、東京帝国大学農科大学を卒業。同年、農商務省嘱託となる。以後、農商務省種畜牧場嘱託、農林省嘱託、同畜産試験場嘱託、畜産博覧会審査官、第2回神奈川県有畜農業経営共進会審査長などを務めた。 1915年(大正4年)6月12日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し、研究会に所属して活動し、死去するまで5期在任した。
塩沢 幸一(しおざわ こういち、1883年(明治16年)3月… 塩沢 幸一(しおざわ こういち、1883年(明治16年)3月5日 - 1943年(昭和18年)11月17日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍大将。長野県伊那郡大草村(現上伊那郡中川村)出身。実家は養命酒で有名な養命酒製造で塩沢はその四男。妻すがは代議士・北原阿智之助次女。文芸評論家の中沢臨川は次兄。
伊木 壽一(いぎ ひさいち、明治16年(1883年)3月3日… 伊木 壽一(いぎ ひさいち、明治16年(1883年)3月3日 - 1970年11月28日)は、日本の歴史学者。専門は日本古文書学。 1883年(明治16年)、山口県大津郡三隈村(現在の山口県長門市)で山口県士族伊木尚義の長男として生まれた。山口中学校、山口高等学校を経て、東京帝国大学文科大学史学科に進学。1906年に卒業。同大学大学院に入学し、古文書学を専攻した。 1907年、東京帝国大学史料編纂掛嘱託となり、『大日本古文書』の伊達家文書・相良家文書等の編纂に従事。1908年からは國學院大學、1911年からは慶應義塾大学部で講師として古文書学を講義した(兼任)。1925年に史料編纂官となり、『大日本史料』第9編の編纂を手掛けた。
和田 三造(わだ さんぞう、1883年(明治16年)3月3日… 和田 三造(わだ さんぞう、1883年(明治16年)3月3日 - 1967年(昭和42年)8月22日)は、明治・大正・昭和期の日本の洋画家、版画家。帝国美術院会員。1953年(昭和28年)、大映映画『地獄門』で、色彩デザイン及び衣裳デザインを担当し、この作品で、1954年(昭和29年)の第27回アカデミー賞で衣裳デザイン賞を受賞。
武田 久吉(たけだ ひさよし、1883年3月2日 - 197… 武田 久吉(たけだ ひさよし、1883年3月2日 - 1972年6月7日)は、日本の植物学者、登山家。
朝倉 文夫(あさくら ふみお、1883年〈明治16年〉3月1… 朝倉 文夫(あさくら ふみお、1883年〈明治16年〉3月1日 - 1964年〈昭和39年〉4月18日)は、明治から昭和の彫刻家(彫塑家)である。号は紅塐(こうそ)。「東洋のロダン」と呼ばれることもある。位階は正三位。舞台美術家・画家の朝倉摂(摂子)は長女、彫刻家の朝倉響子は次女。 1883年(明治16年)、大分県大野郡上井田村(現豊後大野市朝地町)村長であった渡辺要蔵の三男として生まれる。11人兄弟の5番目の子であった文夫は1893年(明治26年)の10歳の時に朝倉種彦(衆議院議員・朝倉親為の弟にあたる)の養子となるが、入学した大分尋常中学校竹田分校(在学中に「竹田中学校」に独立。現大分県立竹田高等学校)を3度も落第し、いたたまれなくなった母・キミにより1902年(明治35年)、当時既に東京で新進気鋭の彫刻家として既に活躍していた9歳年上の兄・渡辺長男を頼って上京することになる。
森 恪(もり かく、1883年〈明治16年〉2月28日 - … 森 恪(もり かく、1883年〈明治16年〉2月28日 - 1932年〈昭和7年〉12月11日)は、昭和戦前期の日本の実業家、政治家、衆議院議員。名の「恪」を「かく」とも読むが、本来の読みは「つとむ」。 「東洋のセシル・ローズ」を自認した帝国主義者。軍部と提携し、日本の中国侵出に大きな役割を果たした。また、三井物産天津支店長、中国興業株式会社社長、外務政務次官、内閣書記官長、立憲政友会幹事長を務めた。 1883年2月28日、大阪府大阪市西区江戸堀に生まれる。父は判事・大阪市議会議長を務めた森作太郎。慶應義塾幼稚舎を卒業したが、成績不良と素行不良のため慶應義塾普通部に進めず、大阪に帰郷。その後、東京商工中学校(最終学歴)を卒業。
足立 正(あだち ただし、1883年(明治16年)2月28日… 足立 正(あだち ただし、1883年(明治16年)2月28日 - 1973年(昭和48年)3月29日)は、日本の実業家・財界人。位階勲等は正三位勲一等旭日大綬章。号立堂。王子製紙社長、ラジオ東京(現・TBSホールディングス)初代社長・会長、日本民間放送連盟初代会長。日本商工会議所名誉会頭。東京高等商業学校(現一橋大学)卒業。 1883年(明治16年)鳥取県境町(現・境港市)朝日町に生まれる。1905年(明治38年)東京高等商業学校(現一橋大学)を卒業、三井物産へ入社。1920年(大正9年)王子製紙取締役に就任、1942年(昭和17年)同社社長就任 1951年(昭和26年)ラジオ東京(現・TBS)創立に当たり取締役社長。
内藤 正剛(ないとう まさたけ、1883年(明治16年)2月… 内藤 正剛(ないとう まさたけ、1883年(明治16年)2月28日 - 1959年(昭和34年)1月22日)は、日本の衆議院議員(立憲民政党)、弁護士。 岡山県阿賀郡新見村(現在の新見市)出身。関西法律学校(現在の関西大学)を卒業した後、中央大学で学び、判事検事登用試験に合格した。司法官試補となったが、後に弁護士となり、大阪弁護士会副会長を務めた。弁護士のかたわら大阪市会議員・同議長、大阪府議会議員・同議長を歴任した。 1932年(昭和7年)、第18回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第20回まで3回連続当選を果たした。 戦後、公職追放となる。1951年追放解除。 その他に大阪木材相互市場株式会社顧問、関西大学監事などを務めた。
土屋 興(つちや おき、1883年〈明治16年〉2月25日 … 土屋 興(つちや おき、1883年〈明治16年〉2月25日 - 1927年〈昭和2年〉12月1日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)。 静岡県駿東郡、のちの沼津町(現沼津市)出身。1910年、慶應義塾大学政治科卒。卒業後はイギリスに留学し、1914年、ロンドン大学政治経済科卒。大阪毎日新聞に入り、記者となる。その後、東洋加工紙、富士護謨工業、富士川製紙、関東紡績各(株)取締役、富士薬品工業(株)監査役、土屋(資)代表社員、荏原郡議、大崎町(現・品川区)議となる。 1920年の第14回衆議院議員総選挙において東京13区から立憲政友会公認で立候補して当選する。1924年の第15回衆議院議員総選挙では政友本党公認で立候補して再選した。
菅源三郎(かん げんざぶろう、1883年(明治16年)2月2… 菅源三郎(かん げんざぶろう、1883年(明治16年)2月24日 - 1942年(昭和17年)5月20日)は、日本の航海士、船長。 1883年、愛媛県越智郡歌仙村(現在の菊間町)で生まれる。愛媛県の松尾尋常小学校、旧制西条中学校(現愛媛県立西条高等学校)を経て1908年に商船学校を卒業し、日本郵船に入社。その後日本郵船の外国航路の乗組船員として熱田丸、阿波丸などの乗務に就く。1916年に甲種船長免状を取得した後に三菱合資会社、近海郵船へ移籍して日華連絡航路、日台連絡航路の乗務に従事し、1939年に東亜海運に移って上海航路の乗務に就いた。 第二次世界大戦時に定期船長崎丸の船長として海軍の捜索要請に協力、揚子江河口にてアメリカの客船「プレジデント・ハリソン」を発見し、これを追跡して座礁させた。
神鞭 常孝(こうむち つねたか、1883年(明治16年)2月… 神鞭 常孝(こうむち つねたか、1883年(明治16年)2月24日 – 1956年(昭和31年)6月27日)は、日本の大蔵官僚。南満州鉄道理事、北支那開発副総裁。 京都府出身。衆議院議員・法制局長官神鞭知常の長男として生まれる。第四高等学校を経て、1907年(明治40年)に東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、同年に高等文官試験に合格した。大蔵省に入って、ロンドン駐在財務官附となり、1911年(明治44年)に帰国。税関事務官として横浜税関に勤務し、大蔵省関税課長、横浜税関長を歴任した。 1927年(昭和2年)、南満州鉄道株式会社の理事に就任し、経理部長・販売部長・用度部長を務めた。さらに昭和製鋼所常務取締役となり、1938年(昭和13年)からは北支那開発株式会社の副総裁を務めた。
田口 易之(たぐち やすゆき / えきし、1883年(明治1… 田口 易之(たぐち やすゆき / えきし、1883年(明治16年)2月24日 - 1965年(昭和40年)2月13日)は、日本の検察官、内務・警察官僚、政治家。官選大分県知事、和歌山市長。 岡山県西北条郡上田邑村(田邑村を経て現津山市上田邑)出身。田口徳一郎の二男として生まれた。1912年10月、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。同年12月、司法官試補に任じられ静岡地方裁判所検事局事務修習となる。 1913年10月、静岡区裁判所検事代理に就任。同年7月、検事に昇格し名古屋地方裁判所検事局勤務となる。以後、富山区裁判所検事、輪島区裁判所検事、金沢区裁判所検事などを歴任。1920年6月、内務省に転じ、大阪府警視・刑事課長に就任。
佐々井 一晁(ささい いっちょう / かずあきら、1883年… 佐々井 一晁(ささい いっちょう / かずあきら、1883年(明治16年)2月22日 - 1973年(昭和48年)1月12日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。本名・佐々井晁次郎。 兵庫県氷上郡、のちの葛野村(現丹波市)で生まれる。1909年神戸市バルモーア英学院高等部卒。卒業後は逓信書記官補、小学校教員、内務省社会局、中央教化団体連合会の各嘱託などを務める。その後、大日本党を組織し、主宰となり、引き続き同党をやまとむすびと改称し、主宰を務めた。1942年の総選挙(いわゆる翼賛選挙)では兵庫5区から非推薦で立候補して当選する。同選挙区では1940年に衆議院で「支那事変処理中心とした質問演説」(いわゆる反軍演説)を行ったために議会を除名された斎藤隆夫も非推薦で立候補してトップ当選し、この選挙区では定員3名のうち2名が大政翼賛会の推薦を受けなかった非推薦の候補が当選した数少ない選挙区となった。
志賀 直哉(しが なおや、1883年〈明治16年〉2月20日… 志賀 直哉(しが なおや、1883年〈明治16年〉2月20日 - 1971年〈昭和46年〉10月21日)は、日本の小説家。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。 宮城県石巻生まれ、東京府育ち。明治から昭和にかけて活躍した白樺派を代表する小説家のひとり。「小説の神様」と称せられ多くの日本人作家に影響を与えた。代表作に「暗夜行路」「和解」「城の崎にて」「小僧の神様」など。 志賀直哉は1883年(明治16年)2月20日、宮城県牡鹿郡石巻町に、父・志賀直温と母・銀の次男として生まれた。父・直温は当時第一銀行石巻支店に勤務していた。明治期の財界で重きをなした人物である。母・銀は、伊勢亀山藩の家臣・佐本源吾の娘であった。
松島 肇(まつしま はじめ、1883年2月20日 - 196… 松島 肇(まつしま はじめ、1883年2月20日 - 1961年4月15日)は、日本の外交官。
今村 明光(いまむら あきみつ、1883年(明治16年)2月… 今村 明光(いまむら あきみつ、1883年(明治16年)2月19日 - 1950年〈昭和25年〉4月7日)は、日本の医学者、内科学者。旧制東京女子医学専門学校(現・東京女子医科大学)教授。学位医学博士。 1883年、鹿児島県の士族今村明清の六男として鹿児島市にて生まれた。中学造士館を経て、1904年7月に第七高等学校造士館を卒業(第三部医科志望、第1回卒業生)。1909年12月東京帝国大学医科大学卒業。続けて同大学の病理学教室で研究、次いで大学附属医院に勤務。1919年東京帝国大学医学部講師嘱託となる。1921年12月8日、東京帝国大学より医学博士の学位を受領。1922年6月東京帝国大学医学部助教授に任じられる。
林 儀作(はやし ぎさく、1883年(明治16年)2月19日… 林 儀作(はやし ぎさく、1883年(明治16年)2月19日 - 1935年(昭和10年)1月20日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)、ジャーナリスト。号は濁川。 新潟県雑太郡相川町(現在の佐渡市)出身。佐渡鉱山学校卒業後、佐渡毎日新聞に勤務。同郷の長谷川世民(本名:長谷川淑夫、長谷川海太郎・潾二郎・濬・四郎兄弟の父)に誘われて函館に渡り、北海新聞に入るが、筆禍事件により禁固刑を受ける。出獄後は平出喜三郎が経営する函館新聞で編集長を務め、後に函館日日新聞理事・主筆となった。その他、東洋印刷会社社長、財団法人函館共働宿泊所理事長、函館東部職業紹介所所長を歴任した。 函館市会議員、北海道会議員、同参事会員を経て、1932年の第18回衆議院議員総選挙に出馬して当選を果たした。
福田 関次郎(ふくだ せきじろう、1882年(明治15年)3… 福田 関次郎(ふくだ せきじろう、1882年(明治15年)3月18日 - 1979年(昭和54年)7月14日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員(通算3期)。 山口県出身。1904年、関西法律学校(現・関西大学)卒。朝鮮で小学校校長をした後、京都製薬所長、七寿肥料(株)社長などを務め、京都市議、京都府議を経て、1932年の第18回衆議院議員総選挙において京都1区(当時)から中立(無所属)で立候補して初当選した。以来3回連続当選。当選後の会派は第一控室を経て、立憲民政党に入った。民政党解党後は鳩山一郎率いる同交会に入り、1942年の翼賛選挙では非推薦で立候補したが落選した。 戦後の1946年の第22回衆議院議員総選挙と翌1947年の第23回衆議院議員総選挙(京都1区)に日本自由党公認で立候補したがいずれも落選し、政界から引退した。
大橋 廣(おおはし ひろ、1882年(明治15年)3月18日… 大橋 廣(おおはし ひろ、1882年(明治15年)3月18日 - 1973年(昭和48年)2月20日、女性)は、日本の植物学者・教育者である。日本女子大学第5代学長。日本家政学会を設立し、初代会長を務めた。 1882年(明治15年)、岡山県倉敷市に生まれた。同志社女学校に入学した後、親の命により中退して結婚する。一子をもうけるが、後に離婚する。離婚後、日本女子大学校に入学し、英文学部および教育学部第二部博物科を卒業。日本女子大学校で教えた後、1922年から1926年までシカゴ大学に留学し、シカゴ大学で植物学の博士号を取得した。 帰国後は日本女子大学校の師範家政学部で家庭黴菌学などを教えた。1947年日本女子大学校長に就任し、1956年まで務めた。
斎藤 鷲太郎(さいとう わしたろう、1882年〈明治15年〉… 斎藤 鷲太郎(さいとう わしたろう、1882年〈明治15年〉3月18日 - 1936年〈昭和11年〉8月3日)は、衆議院議員(立憲政友会→政友本党)。弁護士。 愛知県額田郡幸田村(現在の幸田町)出身。1902年(明治35年)、明治法律学校(現在の明治大学)を卒業。1906年(明治39年)から8年間、関東都督府で警部や属官を務める。1915年(大正4年)に弁護士試験に合格。翌年に大連市に事務所を開業し、1919年(大正8年)より関東州弁護士会長を3回務めた。さらに大連市会議員に選出された。 1920年(大正9年)、第14回衆議院議員総選挙に出馬し当選を果たした。
橋田 邦彦(はしだ くにひこ、1882年(明治15年)3月1… 橋田 邦彦(はしだ くにひこ、1882年(明治15年)3月15日 - 1945年(昭和20年)9月14日)は、日本の医学者、教育者。医学博士。号は無適。旧姓藤田。生理学者藤田敏彦(東北帝大名誉教授)の実弟。 「科学する心」を推称、学校教育での自然観察を推進するなど、戦後の科学教育においても影響を与えた。また、興亜工業大学(現・千葉工業大学)の創立に際して、政府代表として関わっている。 日本で最初に「実験生理学」を提唱するなどして生理学者・医学者として多くの業績を上げた。その名声ゆえに近衛文麿・東條英機両首相より文部大臣として招聘された。このため、太平洋戦争敗戦後にGHQよりA級戦犯容疑者として指名されて、警察が迎えに来た際、服毒自殺をした。
山道 襄一(やまじ じょういち、1882年(明治15年)3月… 山道 襄一(やまじ じょういち、1882年(明治15年)3月15日 - 1941年(昭和16年)5月11日)は、日本の政治家、ジャーナリスト。所属政党は憲政会→立憲民政党→国民同盟→立憲民政党。衆議院議員を10期務めた。 広島県賀茂郡板城村福本(現・東広島市西条町福本)出身。1906年(明治39年)に早稲田大学大学部政治経済学科卒業。鳥取新聞社の主筆を務めた後、韓国に渡り、『大韓日報』の主筆となり、また習俗慣行の調査にあたった。韓国併合後、大韓日報が廃刊になると、雑誌『新半島』を経営し、朝鮮総督府の嘱託として引き続き習俗調査を行った。のちに『中国新聞』主筆も務めた。 1912年(大正元年)、衆議院広島県郡部補欠選挙に当選した。
浪ノ音 健藏(なみのおと けんぞう、1882年3月14日 -… 浪ノ音 健藏(なみのおと けんぞう、1882年3月14日 - 1967年11月25日)は、現在の青森県青森市出身で高砂部屋に所属した力士。本名は鎌田 健藏。11代振分。166cm、79kg。最高位は西関脇。 子供の時から小兵ながら土地相撲で取っていたが、1897年の夏に高砂の一行が巡業に来た時に同県の綾浪を頼り入門した。1898年1月初土俵、1906年1月新入幕。入幕3場所目には小結に上がり、当時大関であった荒岩亀之助を引き落としで破る殊勲を挙げた。1907年5月関脇昇進。それ以降は中堅に甘んじた。1914年5月幕下に陥落して引退し11代振分を襲名。振分部屋を創設し、大ノ高などを育て、勝負検査役などを務めた。
島田 朋三郎(しまだ ともさぶろう、1882年(明治15年)… 島田 朋三郎(しまだ ともさぶろう、1882年(明治15年)3月12日 - 1945年(昭和20年)9月4日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍法務中将。 1882年(明治15年)に徳島県で生まれた。東京帝国大学法学部を卒業し、高等試験司法科試験に合格。文官として陸軍法務部に奉職する。各師団の法務部長などを歴任し、甘粕事件・五・一五事件の軍法会議に法務官として参加している。その後第1師団法務部長に就任し、1935年(昭和10年)に発生した相沢事件を裁いた軍法会議に検察官として参加し、相沢三郎に死刑を求刑した。 1938年(昭和13年)に関東軍隷下の第4軍法務部長に転じ、1939年(昭和14年)に支那派遣軍法務部長を経て、1940年(昭和15年)に東部軍法務部長に就任。
河合 義一(かわい ぎいち、1882年(明治15年)3月11… 河合 義一(かわい ぎいち、1882年(明治15年)3月11日 - 1974年(昭和49年)7月25日)は、日本の農民運動家、政治家。衆議院議員(2期)、参議院議員(1期)。 兵庫県加古郡、のちの高砂町(現高砂市)で、蔵元の家に生まれた。同志社中学校で学び、高砂教会で洗礼を受けた。1904年、東京外国語学校仏語科を卒業し、日本銀行に入行。その後、病気となり治癒したが、1911年、日銀を退職して帰郷した。 1919年、高砂町会議員に就任。賀川豊彦の活動に共鳴し農民組合運動に参加。日本農民組合東播連合会長、同兵庫県連合会長を務め、小作争議指導のため投獄されたこともあった。また、日本労農党などを経て社会大衆党に所属し、1937年4月、第20回衆議院議員総選挙に兵庫県第三区から出馬して初当選した。
花田 比露思(はなだ ひろし、1882年3月11日 - 19… 花田 比露思(はなだ ひろし、1882年3月11日 - 1967年7月26日)は、日本の教育者・歌人。 福岡県朝倉郡安川村(現・朝倉市)に生まれる。本名・大五郎。京都帝国大学法学部を卒業し、大阪朝日新聞記者となる。調査部長兼論説委員として寺内内閣に批判的な論調を張るも、1918年米騒動にからんだ白虹事件で連帯責任を取って辞職する。 大阪朝日退職後は大正日日新聞、読売新聞などに勤めた。1924年に京都帝大に招かれ、学生監となる。 その後は和歌山高等商業学校(現・和歌山大学)校長、福岡商科大学初代学長、別府大学長、大分大学長を務めた。大分大学名誉教授となる。 歌人としては、正岡子規に傾倒し,歌誌『潮騒』(のち改題し『あけび』)を創刊・主宰した。