沢野 淳(さわの じゅん、1859年(安政6年4月28日) … 沢野 淳(さわの じゅん、1859年(安政6年4月28日) - 1903年(明治36年)7月25日)は、明治時代の農学者。位階は正五位、勲等は勲五等。 摂津国三田藩の家老沢野応吉の長男として生まれる。大阪開成所で学び、工部大学校に入ろうと上京したが、考え直して勧農局に入る。農学を学び、駒場農学校農芸化学科(現在の東京大学駒場地区キャンパス)を1883年に卒業し、助教授となる。 その後農商務省に入省。1889年、ドイツ帝国に出張を命じられ、農業事情を視察する。その後、アメリカ、フランス、インド、セイロンと巡った。各国の技術を視察した沢野は、陸奥宗光農商務大臣に西ヶ原の農事試験場の創設を提案し、1893年初代の東京場長となった。
斎藤 金吾(さいとう きんご、1859年4月27日(安政6年… 斎藤 金吾(さいとう きんご、1859年4月27日(安政6年3月25日) - 1941年(昭和16年)6月12日)は、明治から大正時代の政治家。大地主。衆議院議員(1期)。 豪農・斎藤安右衛門の長男として出羽鶴岡藩領田川郡、のちの山形県田川郡播磨村(西田川郡播磨村、栄村を経て現鶴岡市)に生まれる。同村加藤良磨に学んだのち鶴岡の中台元について漢籍を修めた。1881年(明治14年)戸長役場に入り、1889年(明治22年)町村制施行と共に栄村助役、1893年(明治26年)同村長に就任する。この間、1891年(明治24年)には西田川郡会議員に当選し、郡制廃止まで33年間在任。1895年(明治28年)からは山形県会議員となり3期務めた。
倉光 藤太(くらみつ とうた、1859年4月26日(安政6年… 倉光 藤太(くらみつ とうた、1859年4月26日(安政6年3月28日)- 1935年(昭和10年)7月13日)は、明治から大正期の漁業家、政治家。衆議院議員。幼名・棟太郎。 壱岐国壱岐郡箱崎村(長崎県壱岐郡芦辺町を経て現壱岐市)で、水産業、先代倉光藤太、モトの長男として生まれる。和漢学を修めた。1890年(明治23年)4月、藤太を襲名した。 家業の水産業を継ぎ、その改良発展に尽力した。壱岐実業会副会長に就任。 1908年(明治41年)5月の第10回衆議院議員総選挙で長崎県郡部区から無所属で出馬して初当選。実業界に専念するため第11回総選挙に立候補しなかったが、1915年(大正4年)3月の第12回総選挙に立憲同志会から出馬して再選され、衆議院議員に通算2期在任した。
中川 久知(なかがわ ひさとも、1859年4月23日(安政6… 中川 久知(なかがわ ひさとも、1859年4月23日(安政6年3月21日)- 1921年(大正10年)11月12日)は、明治から大正期の博物学者、政治家。衆議院議員、九州博物学会終身会長。青年期に一時、板倉久知を名乗る。熊本県近世博物学の開拓者。 岡藩主・中川久昭の二男として生まれる。藩校・由学館で漢籍を学んだ。1871年(明治4年)上京し、丹羽家塾、逢坂学舎、東京英語学校、開成学校で学んだ。1877年(明治10年)東京大学理学部に入学。同年10月13日、旧安中藩主板倉家当主・板倉種子(板倉勝殷四女)の入夫となり家督を相続したため東大を中退。しかし、1880年(明治13年)1月17日に隠居し、同月19日に離縁となり中川家に復籍した。
渡辺 暢(わたなべ とおる / のぶ、1858年5月20日(… 渡辺 暢(わたなべ とおる / のぶ、1858年5月20日(安政5年4月8日) - 1939年5月24日)は、日本の司法官、政治家。貴族院議員。旧佐倉藩士。
荒野 由次郎(こうの よしじろう、1858年5月20日(安政… 荒野 由次郎(こうの よしじろう、1858年5月20日(安政5年4月8日)- 1911年(明治44年)5月9日)は、明治時代の政治家。貴族院多額納税者議員。 常陸国鹿島郡大船津村(茨城県鹿島郡豊津村、鹿島町を経て現鹿嶋市)の糟谷清兵衛の次男として生まれ、のち同郡中野村大字荒野(大野村、鹿島町を経て現鹿嶋市)の荒野清右衛門の養子となる。農業を営んだ。 1898年(明治31年)茨城県多額納税者として補欠選挙で貴族院議員に互選され、同年7月5日から1899年(明治32年)1月12日まで在任。同年4月18日、補欠選挙で互選され、1904年(明治37年)9月28日まで務めた。
神津 善之助(こうづ ぜんのすけ、1858年5月19日(安政… 神津 善之助(こうづ ぜんのすけ、1858年5月19日(安政5年4月7日) - 没年不明)は、日本の実業家。志賀銀行頭取。北佐久肥料社長。佐久鉄道取締役。族籍は長野県平民。 信濃国佐久郡志賀村(現・長野県佐久市志賀)出身。神津重三郎の長男。1883年、家督を相続する。銀行会社の重役である。住所は長野県北佐久郡志賀村。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
中沢 岩太(なかざわ いわた、1858年5月12日(安政5年… 中沢 岩太(なかざわ いわた、1858年5月12日(安政5年3月29日) - 1943年(昭和18年)10月12日)は、明治から大正時代の日本の応用化学者。帝国学士院会員。工学博士。京都帝国大学理工科大学初代学長、京都高等工芸学校初代校長を務めた。大学教授のほか、官庁の役職や民間企業の顧問も務め、官民学で黎明期の日本の無機化学工業(主に酸・アルカリ工業やガラス工業)を指導し、発展に寄与した。また、日本の近代窯業の育ての親であるワグネルのもとで陶芸の染料研究に従事したほか、自らも趣味で日本画を描き美術展の審査員を務めるなど、化学者である一方美術工芸にも深い関わりを持ち、日本の美術工芸の近代化・発展に功績を残した。
高須 峯造(たかす みねぞう、1858年5月8日(安政5年3… 高須 峯造(たかす みねぞう、1858年5月8日(安政5年3月25日)- 1934年(昭和9年)5月14日)は、明治から昭和初期の日本の弁護士・実業家・政治家。衆議院議員。 伊予国越智郡、のちの愛媛県越智郡近見村を経て現今治市)で、農業・高須吉一郎の四男として生れた。農業を手伝い、漢学塾で学ぶ。1878年(明治11年)大阪の難波学舎で学び、1879年(明治12年)慶應義塾に転じ政治学、経済学を修め、1882(明治15年)に帰郷。代言人(弁護士)となった。 1883年(明治16年)愛媛県会議員の越智郡選出議員の欠員により繰上当選し、以後、連続3期在任した。当初、代言人の藤野政高と親交を持ったが、藤野らが松山士族中心の党派形成を行ったことに反発し、小林信近、井上要らと改進党の組織を設け、井上とは共同法律事務所を設置するなど、終生親交を保った。
北条 時敬(ほうじょう ときゆき、1858年5月6日(安政5… 北条 時敬(ほうじょう ときゆき、1858年5月6日(安政5年3月23日) - 1929年(昭和4年)4月27日)は明治時代から大正時代にかけての日本の教育者。号は廓堂。 旧制山口高等学校、旧制第四高等学校、広島高等師範学校校長、東北帝国大学総長、学習院長、貴族院議員を歴任した。 1858年(安政5年)、加賀国金沢(現・石川県金沢市池田町)で金沢藩士の次男として生まれた。幼名は粂次郎(くめじろう)。生家は鎌倉北条氏の末裔を称した。金沢英学校、金沢啓明学校で数学、英語、漢学を学び、県から将来を嘱望されて、給付生として東京へ留学を命じられた。東京帝国大学理学部数学科に入学して学び、1885年(明治18年)に卒業。
竹内 清明(たけうち せいめい、1858年5月4日(安政5年… 竹内 清明(たけうち せいめい、1858年5月4日(安政5年3月21日) - 1929年(昭和4年)12月24日)は、明治から大正時代の政治家、実業家、新聞経営者。衆議院議員(1期)。 弘前藩士・竹内多作の長男として弘前城下(現青森県弘前市)に生まれる。廃藩後、一家は南津軽郡浅瀬石村(現黒石市)へ移住する。ついで黒石町に住んだ。1877年(明治10年)召募巡査として西南戦争に参加し、その帰郷の際に政治家を志した。1886年(明治19年)黒石の政治結社益友会の常任書記に任じた。ほか、東津軽郡書記、戸長、山形村長、南津軽郡会議員、同参事会員などを歴任した。 1908年(明治41年)5月の第10回衆議院議員総選挙では青森県郡部から出馬し当選。
楠瀬 幸彦(くすのせ ゆきひこ、旧字体: 楠瀨幸彥、1858… 楠瀬 幸彦(くすのせ ゆきひこ、旧字体: 楠瀨幸彥、1858年4月28日〈安政5年3月15日〉- 1927年〈昭和2年〉10月13日)は、日本陸軍の軍人、陸軍大臣。最終階級は陸軍中将。 土佐国土佐郡高知城下南奉公人町(現:高知県高知市)で、土佐藩士楠瀬正志の長男として生まれる。 東京海南私塾、陸軍幼年学校を経て、1880年(明治13年)12月、陸軍士官学校(旧3期)を卒業。フランス留学、陸士教官、近衛砲兵連隊中隊長、参謀本部第1局員、参謀本部副官、ロシア公使館付などを歴任。 1894年(明治27年)11月、臨時京城公使館付(韓国政府軍部顧問)となり、三浦梧楼公使らと共に、1895年(明治28年)10月8日に発生した閔妃暗殺事件(乙未事変)に係わったとして、同年10月から翌年1月まで入獄したが、1896年(明治29年)1月14日、第5師管軍法会議において無罪判決を受け釈放された。
小沢 豁郎(おざわ かつろう、安政5年3月12日(1858年… 小沢 豁郎(おざわ かつろう、安政5年3月12日(1858年4月25日) - 明治34年(1901年)3月19日)は、日本の陸軍軍人、国粋主義者。清仏戦争に乗じて清国改造の革命を起こそうとした。東邦協会設立発起人。 信濃国上諏訪宿(現長野県諏訪市)に生まれる。年少時に江戸に出てフランス語を学び、次いで陸軍幼年学校を経て陸軍士官学校に入り、1879年(明治12年)に陸軍工兵少尉に任ぜられる。1883年(明治16年)に参謀本部出仕となり、翌年清国に派遣され、福州に駐在して諜報任務に当たる。 清国の地下組織「哥老会」と結んで清朝転覆を企て、山口五郎太、鈴木恭堅、松本亀太郎、中野二郎、樽井藤吉と連絡を取り合い策謀するところにあったが、本国より柴五郎が駆けつけ、計画は中止となった。
鶴見 守義(つるみ もりよし、1858年4月25日(安政5年… 鶴見 守義(つるみ もりよし、1858年4月25日(安政5年3月12日) - 1939年(昭和14年)12月18日)は、明治から大正時代の司法官。大審院判事。関西法律学校創立者。 日光(現栃木県日光市)に生まれる。1876年(明治9年)県の貢進によって司法省法学校に入学し、1884年(明治17年)同校卒業と同時に司法省御用掛を拝命する。1886年(明治19年)大阪始審裁判所判事補となり、同年6月、判事に、1890年(明治23年)には部長判事に進む。1895年(明治28年)長崎控訴院判事に転じるまで在阪する。この間、関西法律学校創立に関与し初代学監としてフランス民法を講じた。1899年(明治32年)大審院判事となり、1922年(大正11年)まで務めた。
池上 四郎(いけがみ しろう、1857年5月11日〈安政4年… 池上 四郎(いけがみ しろう、1857年5月11日〈安政4年4月18日〉 - 1929年〈昭和4年〉4月4日)は、日本の警察官僚、政治家。第6代大阪市長、第6代朝鮮総督府政務総監。族籍は大阪府平民。文仁親王妃紀子は曾孫に当たる 1857年、陸奥国耶麻郡(現・福島県会津若松市)で生まれた。会津藩士・池上武輔の二男、あるいは四男。池上三郎の実弟。11歳のときに戊辰戦争を経験する。兄の友次郎は、鳥羽・伏見の戦いの正月五日の戦で戦死。父・武輔は井深宅右衛門の第二遊撃隊の組頭として越後小千谷で新政府軍と戦い、負傷する(北越戦争)。会津戦争時に四郎は、兄の三郎と共に会津若松城に篭城した。白虎隊への入隊を強く希望したが、15歳以上の規約のため数えで12歳の四郎は除外された。
影山 秀樹(かげやま ひでき、1857年5月11日(安政4年… 影山 秀樹(かげやま ひでき、1857年5月11日(安政4年4月18日) - 1913年(大正2年)10月15日)は、明治時代の政治家、実業家、銀行家。大地主。衆議院議員(3期)。 駿河国富士郡岩本村(静岡県富士郡岩松村岩本を経て現富士市)の農家に生まれる。1872年(明治5年)沼津兵学校附属小学校を卒業し、山梨県の近藤漢学塾で漢籍を修めたのち上京・遊学し、1877年(明治10年)帰郷し、岩松村および富士郡の地主惣代となった。1880年(明治13年)富士勧業を創立して社長となり養蚕、製糸、製茶などの事業に傾倒する。1883年(明治16年)には県庁に要請し、養蚕伝習所を設け静岡県内に蚕の温度飼育法を広めた。
稲野花 倉吉(いねのはな くらきち、1857年(安政4年)5… 稲野花 倉吉(いねのはな くらきち、1857年(安政4年)5月8日(旧暦4月15日) - 1889年(明治22年)9月15日)は、尾張国中島郡(現:愛知県一宮市)出身の元大相撲力士。本名は高木 倉吉(たかぎ くらきち)で、8代・田子ノ浦の養子だった際は大坪 倉吉(おおつぼ くらきち)。 1857年(安政4年)5月8日(旧暦4月15日)に尾張国中島郡(現:愛知県一宮市)で生まれる。1876年1月場所で二段目(現在の幕下)から初土俵を踏むと、1880年1月場所で新十両に昇進、1881年1月場所では西十両9枚目の地位で8勝1敗1分の優勝相当成績を挙げた。1883年1月場所で新入幕を果たすと、同年5月場所で6勝3敗1休の優勝次点の好成績を挙げるが、これが生涯唯一の勝ち越しとなってしまった。
関 春茂(せき はるしげ、1857年5月8日(安政4年4月1… 関 春茂(せき はるしげ、1857年5月8日(安政4年4月15日) - 1939年(昭和14年)2月26日)は、日本の政治家。衆議院議員、青森県八戸町長。 八戸藩士・関彦市の息子として八戸城下で生まれる。1875年(明治8年)に蛇口胤親によって開設された八戸で初の英学校「開文舎」で学ぶ。翌年に陸奥国八戸光学会でギリシア正教の洗礼を受ける。1881年(明治14年)に明治天皇が八戸に巡幸した際には漢詩の祝詞を贈ったこともある。 1888年(明治21年)に青森県会議員に初当選、翌年に奈須川光宝らと自由党系の政治結社である八戸土曜会を結成した。1904年(明治37年)3月、第9回衆議院議員総選挙で青森県郡部から選出され、衆議院議員に1期在任した。
寺田 省帰(てらだ せいき、1857年5月6日(安政4年4月… 寺田 省帰(てらだ せいき、1857年5月6日(安政4年4月13日)- 1942年(昭和17年)12月9日)は、日本の教育者、実業家、政治家。 衆議院議員、小樽貨物火災保険株式会社社長、富国火災海上保険株式会社社長などを歴任した。 下総国相馬郡井野村(現・茨城県取手市)で、農業・寺田伊兵衛の二男として生まれる。 1877年、千葉県師範学校を卒業。千葉県行徳小学校長、山形県鐘秀学校長、京都府属兼京都府高等女学校教諭を歴任。1890年、釧路小学校長に転じた。 1892年、榎本武揚、北垣国道が所有する小樽の十万余坪を宅地として開発する際、その経営を行う北辰社の主幹に就任。その後、小樽商業会議所特別議員、北海道水力電気取締役、旭川市街軌道社長、小樽運輸社長、小樽漁港社長などを務めた。
内藤 新一郎(ないとう しんいちろう、1857年5月4日〈安… 内藤 新一郎(ないとう しんいちろう、1857年5月4日〈安政4年4月11日〉- 1935年〈昭和10年〉12月6日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。功三級。孫は映画美術監督の内藤昭。 出羽国最上郡新庄城下三本橋(山形県最上郡新庄町沼田三本橋を経て現新庄市沼田町)で新庄藩士内藤秀升の三男として生れ、1879年(明治12年)5月に家督を相続した。 1875年(明治8年)兵学寮(陸軍士官学校前身)に入り、1877年(明治10年)4月、陸軍歩兵少尉に任官。西南戦争に歩兵第9連隊小隊長として出征。日清戦争では第3師団高級副官として従軍。 1902年(明治35年)5月、歩兵大佐に進み歩兵第38連隊長に就任。
石橋 喜祐(いしばし きゆう、1857年4月27日〈安政4年… 石橋 喜祐(いしばし きゆう、1857年4月27日〈安政4年4月4日〉 - 没年不明)は、日本の篤農家、実業家。石材販売合資会社代表社員。早良銀行、姪浜魚市、姪浜石材各取締役。族籍は福岡県平民。 福岡県平民・石橋太七の二男。1874年5月、分家して一家を創立した。銀行、会社役員である。住所は福岡県早良郡姪浜町(現・福岡市西区姪浜)。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
平田 二郎(ひらた じろう、1857年4月24日(安政4年4… 平田 二郎(ひらた じろう、1857年4月24日(安政4年4月1日)- 1910年(明治43年)3月31日)は、明治期の政治家、銀行家。衆議院議員、鹿児島県会議長。 大隅国囎唹郡国分郷(鹿児島県西囎唹郡国分村、姶良郡国分村、国分町、国分市を経て現霧島市)で、平田祐拙、みよ の長男として生まれる。 折田兼至、長谷場純孝らと共に自由民権運動に参加した。1882年(明治15年)九州改進党の結成に加わり、その後、鹿児島同志会が組織され委員となった。国分村会議員に就任。1886年(明治19年)10月、鹿児島県会議員に選出された。同常置委員となり、1892年(明治25年)3月に副議長、1898年(明治31年)11月に第11代県会議長に就任。
小林 芳郎(こばやし よしろう、安政4年3月29日(1857… 小林 芳郎(こばやし よしろう、安政4年3月29日(1857年4月23日) - 昭和11年(1936年)3月23日)は、明治から大正期にかけて活動した日本の検事。大正時代初期には大阪控訴院検事長として辣腕をふるい、「検察の神様」と呼ばれた。 肥前国水ヶ江(現・佐賀県佐賀市)において、葉隠の武士、佐賀藩士 南里与助の四男として生まれる。生まれてすぐに、与助の兄・小林丈蔵の養子となった。このころ、叔父にあたる真崎秀郡や、その友人である楠田英世と交流を持った。上京ののち東京開成学校に学ぶも中退。明治12年(1879年)、中村正直の私塾・同人社に入学した。 明治16年(1883年)に判事補となり、のちに判事から検事に転じる。
佐藤 愛麿(さとう あいまろ(よしまろ)、1857年4月22… 佐藤 愛麿(さとう あいまろ(よしまろ)、1857年4月22日〈安政4年3月28日〉 - 1934年〈昭和9年〉1月12日、満76歳没)は、日本のメソジスト派牧師、外交官(特命全権大使)、宮中顧問官。 弘前藩家老山中逸郎泰靖の次男として生まれる。幼名は次郎。勘定奉行佐藤清衡の養子になり、20歳の時に愛麿と改名。 1875年(明治8年)ジョン・イングより洗礼を受け、弘前バンドの一人として伝道に従事。東奥義塾創設と同時に入学し、弘前公会の設立に参画した。 1876年(明治9年)に菊池九郎、本多庸一、イングに引率されて、東北巡幸中の明治天皇に謁見し、珍田捨巳、伊東重らと共に英文演説を奉呈した。 1877年(明治10年)イングの紹介で、珍田捨巳らとともにアメリカのインディアナ・アスベリー大学(現・デポー大学)に留学し、Bachelor of Arts 及び Master of Philosophy を取得。
瀬川 昌耆(せがわ まさとし、安政3年4月17日〈1856年… 瀬川 昌耆(せがわ まさとし、安政3年4月17日〈1856年5月20日〉- 1920年(大正9年)12月21日)は、日本の医学者、小児科医。医学博士。瀬川小児病院初代院長。
四宮 有信(しのみや ゆうしん、1856年5月19日(安政3… 四宮 有信(しのみや ゆうしん、1856年5月19日(安政3年4月16日) - 1903年(明治36年)12月12日)は、日本の政治家、衆議院議員(4期)。 下総国印旛郡新橋村(のち千葉県印旛郡富里村→富里町→富里市)出身。鹿山中学校(現・千葉県立佐倉高等学校)で学び、後に漢籍を学ぶ。農業を営み、学務委員、七栄村(現・富里市)外十二ヶ村戸長、印旛郡徴兵参事員、千葉県会議員となる。また、房総馬車会社を経営した。 1894年3月の第3回衆議院議員総選挙において千葉2区から立憲改進党公認で立候補して初当選する。以来1898年8月の第6回衆議院議員総選挙まで連続4回当選した。1902年の第7回衆議院議員総選挙は不出馬。
秋保 親兼(あきほ ちかかね、1856年(安政3年)5月13… 秋保 親兼(あきほ ちかかね、1856年(安政3年)5月13日 - 1915年(大正4年)5月29日)は出羽国田川郡鶴岡(現・山形県鶴岡市)出身の政治家、衆議院議員(2期)、済急社監査役、庄内煙草社長である。 1856年(安政3年)5月13日、庄内藩士・伴弥平の3男として生まれる。その後、庄内藩校致道館で学ぶ。 1872年(明治5年)、松ヶ岡開墾に参加。1880年(明治13年)、済急社(現・荘内銀行)の設立に関わる。 1889年(明治22年)、鶴岡町会議員就任。西田川郡会議員、山形県会議員に就任。1894年(明治27年)9月1日、第4回衆議院議員総選挙(旧山形3区・立憲革新党公認・2119票獲得)初当選。
川俣 英夫(かわまた ひでお、1856年5月11日〈安政3年… 川俣 英夫(かわまた ひでお、1856年5月11日〈安政3年4月8日〉 - 1924年〈大正13年〉1月23日)は、現在の栃木県那須烏山市出身の医師、教育者。 1856年4月下野国烏山藩に生まれる。14歳のとき、烏山藩学校に入門。横浜の高島学校、修文館を経て東京英語学校(後の東京大学予備門)に入学。帝国大学医学部別科、東亜医学校をへて1880年(明治13年)東京府医学開業試験に合格し、郷里にて開業する。烏山町町議会議員、烏山町長を歴任する。医師として万民公平の観点から、貧困者の積極的治療を行う傍ら、地域教育の重要性を真摯に考え、県立中学校の設立を栃木県に誓願するも、却下されてしまう。その後、私財を投じて私立烏山学館(後の私立烏山中学校をへて、栃木県立烏山中学校から、現在の栃木県立烏山高等学校の前身)を設立。
高橋 順太郎(たかはし じゅんたろう、安政3年3月28日(1… 高橋 順太郎(たかはし じゅんたろう、安政3年3月28日(1856年5月2日) - 大正9年(1920年)6月4日)は明治・大正期の、医師、医学博士、薬理学者。東京帝国大学医科大学、初代薬物学教授。医術開業試験医員、日本薬局方調査委員、理学文書目録委員会委員、東京帝国大学評議委員などをつとめた。正三位勲一等瑞宝章。通称:順太郎、諱:信之(もりゆき)。石川県金沢市出身。著作に「河豚之毒」「肝油ノ効果ヲ論ス」「『ファゴール』二就テ」など 安政3年3月28日(1856年5月2日)、加賀藩知行御算用者小頭高橋荘兵衛(110石・通称:荘兵衛、諱:作善)・石橋鈴(御算用者:石橋良蔵・長女)の嫡男として、金澤勘解由町(金沢市瓢箪町)に生まれる。
一ノ矢 藤太郎(いちのや とうたろう、1856年4月29日(… 一ノ矢 藤太郎(いちのや とうたろう、1856年4月29日(安政3年3月25日) - 1923年(大正12年)2月15日)は、青森県南津軽郡田舎館村出身で高砂部屋に所属した大相撲力士。本名は福士 藤太郎。最高位は大関。現役時代の体格は178cm、95kg。 角界の革命児と謳われた初代高砂に入門し、1880年(明治13年)5月場所序ノ口。序ノ口から7場所目となる1883年(明治16年)5月場所で入幕を果たす。彼の入幕以降2026年3月場所時点まで143年間、青森県出身の幕内力士(現在は錦富士が平幕に在位)が不在だった場所は一度もない。幕下二段目から十両を一気に飛び越しての昇進であり、期待の大きさをうかがわせる。
梶野 甚之助(かじの じんのすけ、1856年4月29日(安政… 梶野 甚之助(かじの じんのすけ、1856年4月29日(安政3年3月25日)- 1942年(昭和17年)8月5日)は、日本の自動車実業家である。名は仁之助とも表記される。 相模の津久井郡に生まれる。幼年期に実父との死別により、醤油製造業の家系の養子となりその丁稚となった。明治維新後は横浜の灯台局に勤務し、1879年(明治12年)に同地蓬莱町(現在は中区に所在)に二輪車製造工場を設置し、木製の前輪駆動自転車やその三輪車の製造を始めた。その後は事業の拡大により、同地高島(現在は西区に所在)に自動車製造工場を移転し、現在の自動車とほぼ同じ鉄製及びタイヤを使用した安全型の自動車の製造を始める。 1895年(明治28年)には前述の自動車が電信用のものに採用され、同年に開催された第4回内国勧業博覧会に梶野が製造した自動車が出品され受賞する。
市田 兵七(いちた/いちだ ひょうしち、1856年4月29日… 市田 兵七(いちた/いちだ ひょうしち、1856年4月29日(安政3年3月25日) - 1914年(大正3年)5月29日)は、明治時代の政治家、銀行家。衆議院議員(2期)。 陸奥弘前藩領津軽郡木作新田(青森県西津軽郡木造町を経て現つがる市)に生まれる。近江国神崎郡市田村(滋賀県神崎郡竜田村、北五個荘村、五個荘町を経て現東近江市)を本拠とした市田家の子孫。1885年(明治18年)西津軽郡会議員に当選し、議長代行者を務める。1891年(明治24年)には青森県会議員となり、1904年(明治37年)の第9回衆議院議員総選挙では工藤行幹の急死に伴う補欠選挙で当選した。第10回総選挙でも憲政本党の非公認で出馬し当選。
河上 謹一(かわかみ きんいち、安政3年3月23日(1856… 河上 謹一(かわかみ きんいち、安政3年3月23日(1856年4月27日) - 1945年(昭和20年)7月31日)は、戦前日本の外交官、実業家。岩国藩出身。東京大学法科大学第一期卒生。農商務省・文部省書記、東京商業学校校長、上海総領事、アメリカ合衆国領事、外務省通商局長、日本銀行理事、住友本店理事、南満洲鉄道監事。 安政3年(1856年)3月23日岩国藩士河上毅の長男として生まれた。慶応元年(1865年)藩校養老館に入学、後に敬義社で東沢瀉にも学んだ。明治3年(1870年)10月藩唯一の貢進生に抜擢され、東京に出て大学南校に入学、1878年(明治11年)6月東京大学法科大学を卒業し、日本初の法学士となった。
高鍋 篤郎(たかなべ とくろう、1856年4月25日(安政3… 高鍋 篤郎(たかなべ とくろう、1856年4月25日(安政3年3月21日)- 1920年(大正9年)11月16日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 淡路国津名郡、のちの兵庫県津名郡広石村(五色町を経て現洲本市)で生まれた。漁業に従事する。兵庫県会議員、同常置委員となる。 1912年の第11回衆議院議員総選挙において兵庫県郡部から立憲政友会公認で立候補して当選。衆議院議員を1期務めた。1915年の第12回衆議院議員総選挙には立候補しなかった。大浦事件で1916年に懲役2か月、執行猶予3年、追徴金300円の判決を受けた。これにより大礼記念章を褫奪された。1920年死去。
高橋 五郎(たかはし ごろう、1856年4月24日(安政3年… 高橋 五郎(たかはし ごろう、1856年4月24日(安政3年3月20日) - 1935年9月7日)は、明治時代から昭和初期の翻訳家、啓蒙的英文学者、英語学者、言語学者、評論家、教育者である。 聖書の翻訳や英語教育を行い、立教大学、早稲田大学、駒澤大学で教授を歴任した。 1856年(安政3年)に越後国柏崎の庄屋の家に生まれる。本名は吾良である。1868年、群馬県高崎に行き、竜門寺で市川左近に漢学や仏学を学ぶ。1871年より牧野再竜、高崎藩校の田中毛野に学ぶ。 1873年に洋学を学ぶために上京し、緒方塾で緒方惟孝(緒方城次郎、緒方洪庵の三男)に学び、植村正久と知り合いになる。1875年(明治8年)に横浜へ行き、植村の紹介でアメリカ・オランダ改革派教会の宣教師S・R・ブラウンのブラウン塾で英学と英語、仏語、独語を習った。
和田 維四郎(わだ つなしろう、安政3年3月17日(1856… 和田 維四郎(わだ つなしろう、安政3年3月17日(1856年4月21日) - 大正9年(1920年)12月20日)は、日本の鉱物学者、書誌学者、貴族院議員。号は雲村。 若狭国(現在の福井県)で小浜藩士和田耘甫の三男として生まれる。幼名は猪三太、または三吉。 明治3年(1870年)旧暦10月に小浜藩の貢進生として満14歳で上京し、大学南校に入学。明治5年(1872年)に大学南校が廃止されると和田は第一大学区第一番中学に入学し、ドイツ語コースを選択する。明治6年(1873年)に第一大学区第一番中学は開成学校と改称し、ドイツ語コースは鉱山学科となり、和田はカール・アウグスト・シェンクに鉱物学を学ぶ。
櫻井ちか(さくらい ちか、1855年5月19日(安政2年4月… 櫻井ちか(さくらい ちか、1855年5月19日(安政2年4月4日) - 1928年(昭和3年)12月19日)は、日本の教育者。櫻井女学校、櫻井女塾を設立して、日本における初期の女子教育を担った。なお、自著でちか子との表記も見られる。 1855年(安政2年)東京日本橋で生まれる。1872年(明治5年)海軍士官の櫻井昭悳(さくらいあきのり)と結婚。神田の芳英社、横浜の共立女学校で英語を学ぶ。洗礼を受け、キリスト教徒となる。その後、明悳もちかの影響を受けてキリスト教徒となる。 1876年(明治9年)日本人による初めてのキリスト教主義の女子学校として、桜井女学校を設立する。1879年(明治12年)同校は経営難に陥る一方で、ちかと昭悳夫婦は函館に赴任することとなった。
久保田 鼎(くぼた かなえ、安政2年3月27日(1855年5… 久保田 鼎(くぼた かなえ、安政2年3月27日(1855年5月13日) - 1940年1月10日)は近代日本の官僚。奈良および京都帝室博物館の館長、東京美術学校校長などを務めた。号は理道。 中津藩士久保田安兵衛の次男として江戸小石川で生まれ、理三郎と名付けられた。幼少期に両親を亡くした後、臼杵藩の江戸藩邸にいた叔父の白石照山に引き取られて漢書の句読などを受けている。明治維新の時期は収入の確保に苦労したが、1873年に東京府桜川学校で授業生の職を得て、さらに半年後には文部省の写字生となった。筆生や権少禄を経て1877年1月に九等属、同年12月に八等属へと昇進を重ねた。七等属に昇進した1880年には文部少輔の九鬼隆一の中国地方巡視に随行し、以後九鬼と接触する機会が増えた。
永野 万蔵(ながの まんぞう、1855年5月13日(安政2年… 永野 万蔵(ながの まんぞう、1855年5月13日(安政2年3月27日) - 1924年(大正13年)5月21日)は、カナダに移住したことが記録されている最初の日本人。 1855年(安政2年)、肥前国高来郡口之津村(現・長崎県南島原市)に生まれる。少年時には石炭運搬船で働いていたとも、大工の見習いをしていたともいう。のちにイギリス船に乗り組むようになった。 1877年(明治10年)5月、ブリティッシュコロンビア州ニューウェストミンスターで船を降り、カナダに入国。フレーザー川で鮭漁の漁師として働き、のちにはバンクーバーで木材を船に積み込む仕事をはじめた。1884年に日本へ一旦帰国したのち、アメリカ合衆国シアトルに渡ってタバコ屋と食堂を始めた。
墨 宇吉(すみ うきち、1855年5月7日(安政2年3月21… 墨 宇吉(すみ うきち、1855年5月7日(安政2年3月21日) - 1938年(昭和13年)5月14日)は、尾張国葉栗郡玉ノ井村(現・愛知県一宮市)出身の実業家。 幼少期は実兄とともに家業である艶屋(織物の艶出し業)を手伝う。1888年(明治21年)分家し、その翌年起、1891年(明治24年)には小信に居を移し、次第に業務を拡大した。 1911年(明治44年)に、墨合名会社を設立。 1924年(大正13年)、艶金興業を設立。 出生地である一宮市木曽川町玉ノ井にある念敬寺には、1963年(昭和38年)に銅像「墨宇吉像」が建立されている。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
栗原 亮一(くりはら りよういち、1855年5月6日(安政2… 栗原 亮一(くりはら りよういち、1855年5月6日(安政2年3月20日)- 1911年(明治44年)3月13日)は、明治期の日本の政治家、ジャーナリスト。衆議院議員。旧姓は中村。 志摩国鳥羽藩士中村武市の三男として生まれ、同藩士・栗原亮休の養子となる。藩校で漢学を修める。明治の初めに上京し同人社で学んだ。 1876年、自主社を創立し『草莽雑誌』『莽草雑誌』を刊行して政府批判を行う。自由民権運動に加わり自由党の結党に参加。『自由新聞』の主筆を務め、1882年、板垣退助の渡欧に随行した。『東雲新聞』の主筆となり、大同団結運動に加わった。 1890年7月、第1回衆議院議員総選挙において三重県第一区から出馬し当選。
田村 源太郎(たむら げんたろう、1855年4月30日〈安政… 田村 源太郎(たむら げんたろう、1855年4月30日〈安政2年3月14日〉 - 1926年〈大正15年〉4月28日)は、日本の商人(肥料商)、醸造家、政治家、地主。 鳥取県西伯郡米子町(現・米子市)の人。芳太郎の長男。家業は肥料及び酒類醸造業で、屋号は田村屋。家業に努め奮励したため貨財を倍殖し、名望いよいよ起り、米子有数の豪商となる。1901年、東糀区区長に当選。 1913年、米子町会議員に当選する。終始一貫熱心精励町治の発展に尽瘁する。1926年、米子町功労者旌表規定により功労章を贈られる。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
亀井 万喜子(かめい まきこ、1855年4月22日(安政2年… 亀井 万喜子(かめい まきこ、1855年4月22日(安政2年3月6日) - 1927年3月24日)は、三省堂創業者。 江戸駿河台に生まれる。両親を幼くして亡くして明治維新となり、困窮を極めた。養子に亀井忠一を迎え、履物屋など、様々な商売を営んだが、1882年に神保町に移って始めた商売が古書店で、これが三省堂書店の礎となった。 当時、主に学生を相手に書籍を売り買いしていたが、ほとんどが洋書で、それはドイツ語や英語だった。万喜子も忠一もそれらを読むことができず、学生に騙され、高く買い、安く売ることが少なくなかった。そのため、万喜子はそれらを習うことにした。毎日、店を閉め、家事を終えてから出かけた。まず、ドイツ語、次に英語を身に付けた。
中川 源造(なかがわ げんぞう、安政2年3月4日(1855年… 中川 源造(なかがわ げんぞう、安政2年3月4日(1855年4月20日) - 明治40年(1907年)4月14日)は、日本の政治家。衆議院議員(憲政本党)、新潟県高田町長。 越後国高田横春日町(現在の新潟県上越市)に中川源蔵の子として生まれる。東京に遊学の後、第8大区用掛を務めた。1880年(明治13年)、県会議員に当選し、また中頸城郡総町村組合会議員・議長となり、信越鉄道の建設に尽力した。1882年(明治15年)、室孝次郎とともに上越立憲改進党を結成し、翌年に高田新聞を創刊した。 1889年(明治22年)から翌年にかけて高田町長を務め、1893年(明治26年)に再選されて1896年(明治29年)まで在職した。
諫早 家崇(いさはや いえたか、1854年5月16日〈嘉永7… 諫早 家崇(いさはや いえたか、1854年5月16日〈嘉永7年4月20日〉 - 1912年〈明治45年〉1月24日)は、明治時代の華族(男爵)、長崎県の大地主、長崎県多額納税者。14代諫早邑主諫早茂孫の長男。叔父諫早一学(茂孫の次々代邑主)の養子。千吉郎。勲等は勲四等。 肥前国高来郡諫早に生まれる。1871年(明治4年)にドイツに留学し、1880年(明治13年)より外務省、太政官、参事院等に勤務する。 1893年(明治26年)10月10日に貴族院多額納税者議員として、選出された。1898年(明治31年)8月4日、貴族院議員を辞任した。この時は、会派には所属せず、無所属だった。 1897年(明治30年)には養父の功により男爵に叙爵された。
関田 可通(せきだ よしみち、1854年5月11日〈嘉永7年… 関田 可通(せきだ よしみち、1854年5月11日〈嘉永7年4月15日〉 - 1909年〈明治42年〉3月2日)は、明治時代の政治家。貴族院多額納税者議員。初名は満作。 土佐国長岡郡大埇村(現・南国市大そね)の素封家・関田伊三郎(関田猪三郎)の長男として生まれる。生家は代々農業を営む大地主で、上田100町歩を有した。戊辰戦争の際には少年鼓手として従軍。1870年(明治3年)城下の朝倉町(現・高知市南はりまや町)に移り、酒造業を始め、1876年(明治9年)陶冶学校に学んだ。以後小学校訓導、長岡郡書記、所得税調査委員を経て高知県会議員に当選した。 自由民権運動家として物部川堤防事件、三大事件建白運動、選挙干渉事件などで活躍した。
大久保 端造(おおくぼ たんぞう、1854年(安政元年5月1… 大久保 端造(おおくぼ たんぞう、1854年(安政元年5月10日) - 1916年(大正5年)6月25日)は、日本の弁護士・政治家。衆議院議員(1期)。 常陸国新治郡(のち茨城県新治郡安飾村→出島村→霞ヶ浦町、現・かすみがうら市)生まれ。法律学を学ぶ。戸長を経て、代言人となり、弁護士の業務に従事する。東京弁護士会副会長、東京市京橋区会議員を務めた。 1890年の第1回衆議院議員総選挙において茨城5区から自由党所属で立候補するが5票差で落選した。1892年の第2回衆議院議員総選挙では自由党から立候補したが次点で落選した。1894年3月の第3回衆議院議員総選挙では自由党から立候補して当選した。同年9月の第4回衆議院議員総選挙で落選。
目黒 徳松(めぐろ とくまつ、1854年5月7日(安政元年4… 目黒 徳松(めぐろ とくまつ、1854年5月7日(安政元年4月11日)- 1899年(明治32年)12月31日)は、明治期の地主、実業家、政治家。衆議院議員。号・楓堂(ふうどう)。 越後国魚沼郡、のちの新潟県北魚沼郡須原村(守門村須原を経て現魚沼市須原)で、須原村庄屋・目黒五郎助の息子として生まれる。1868年1月26日(明治元年1月2日)家督を相続した。 戸長を務める。1880年(明治13年)10月、新潟県会議員半数改選で初当選し、1883年(明治16年)1月まで在任。1882年(明治15年)12月、小千谷町(現小千谷市)で魚沼立憲改進党が結成されると関矢孫左衛門、岡田龍松らと共に加わった。1887年(明治20年)7月、新潟県会議員補欠選挙で当選し1888年(明治21年)11月まで在任。
井内 恭太郎(いうち きょうたろう、嘉永7年4月10日(18… 井内 恭太郎(いうち きょうたろう、嘉永7年4月10日(1854年5月6日) - 昭和9年(1934年)3月9日)は、明治時代から大正時代の官吏。徳島県阿波市出身。 嘉永7年4月10日(1854年5月6日)、阿波国阿波郡大俣村(現在の徳島県阿波市)で生まれる。徳島県庁に入り、海部郡長・麻植郡長・美馬郡長を歴任。1902年(明治35年)より名西郡長を務め、吉野川から水をひく麻名用水、板名用水の建設・整備に力を注いだ。 1934年(昭和9年)3月9日、79歳で亡くなる。没後、名西郡石井町の麻名用水土地改良区に銅像が建つ。 この項目は、日本の歴史に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:日本/P:歴史/P:歴史学/PJ日本史)。
柴田 孟甫(しばた もうほ、安政元年4月5日〈1854年5月… 柴田 孟甫(しばた もうほ、安政元年4月5日〈1854年5月1日〉 - 昭和元年〈1926年12月30日〉)は、静岡県出身で1889年に東京で公証人に任命された最初期の公証人のひとりであり、大正4年(1915年)に懲戒免職となった。女優の三浦環は長女。 安政元年(1854年)、遠江国城東郡朝比奈村(現在の静岡県御前崎市)に、父・秀吉の長男として生まれる。幼少期より聡明で、早くから和漢の学問に通じ「神童」と評された。14歳の時には、浜松県知事による計算能力者の選抜において第一位に選ばれるなど、若くしてその才を示した。 20歳で戸長に就任し、村の行政事務を担い、その真摯な仕事ぶりで信頼を得た。その後、榛原郡の書記を務めた。