松村 八次郎(まつむら はちじろう、1869年10月15日(… 松村 八次郎(まつむら はちじろう、1869年10月15日(明治2年9月11日) - 1937年9月8日)は、日本の陶業家。 肥前国松浦郡曲川村(現在の佐賀県西松浦郡有田町)出身。1891年に東京高等工業学校陶器玻璃工科を卒業し、さらに専攻科で学んだ。1892年に名古屋の松村九助の養子となった。 1896年に硬質磁器の特許を得て、1902年に生産を始めた。
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松村 八次郎(まつむら はちじろう、1869年10月15日(… 松村 八次郎(まつむら はちじろう、1869年10月15日(明治2年9月11日) - 1937年9月8日)は、日本の陶業家。 肥前国松浦郡曲川村(現在の佐賀県西松浦郡有田町)出身。1891年に東京高等工業学校陶器玻璃工科を卒業し、さらに専攻科で学んだ。1892年に名古屋の松村九助の養子となった。 1896年に硬質磁器の特許を得て、1902年に生産を始めた。
海山 太郎(かいざん たろう、1869年10月14日(明治2… 海山 太郎(かいざん たろう、1869年10月14日(明治2年9月10日) - 1931年(昭和6年)6月6日)は、土佐国土佐郡比島(現在の高知県高知市比島)出身で友綱部屋(入門は大坂相撲の猪名川部屋)に所属した大相撲力士。本名は笠井 兎之助(かさい とのすけ、外之助とも)。身長173cm、体重99kg。怪力で知られ、得意手は、小手投げ、すくい投げ、合掌捻り。最高位は関脇。二所ノ関一門の源流を創り上げた。 板垣退助の知遇を得て、高知市潮江新田の板垣邸内の角力場で稽古を積む。大坂相撲の猪名川部屋に入門し、鏡川の四股名を名乗る。1890年(明治23年)5月、板垣退助の推薦により同郷の初代海山太郎が師匠を務める東京の友綱部屋へ移籍、序二段付出となる。
木下 尚江(きのした なおえ、1869年10月12日(明治2… 木下 尚江(きのした なおえ、1869年10月12日(明治2年9月8日)- 1937年(昭和12年)11月5日)は、日本の社会運動家、作家。尚江は本名。 信濃国松本城下(現長野県松本市)に松本藩に代々仕えた下級武士であった木下廉左衛門秀勝の子として生まれる。生来病弱で、5歳の時には重い熱病を患い生死の間をさまよった。父は1876年(明治7年)には巡査となっている。開智学校に入学し、啓蒙主義教育を受ける。1877年に松本で自由民権運動が始まり、祖母に連れられて演説会を聞いていた。また在学中には福沢諭吉『学問のすゝめ』を読んで感動する。1881年に長野県中学校松本支校入学。この頃オリバー・クロムウェルを知って革命を意識、また飯田事件の被告が裁判所に送られる姿を見て怒りを覚える。
金子 有道(かねこ ありみち、1869年10月4日(明治2年… 金子 有道(かねこ ありみち、1869年10月4日(明治2年8月29日)- 1938年(昭和13年)3月18日)は、明治後期から昭和初期の政治家、歌人、神職、華族。貴族院男爵議員。旧名・健麿。 石見国安濃郡川合村(現島根県大田市川合町川合)で物部神社社家・金子有卿の長男として生まれる。父の隠居に伴い、1920年(大正9年)8月30日、男爵を襲爵した。 皇典講究所で学び、1896年(明治29年)物部神社禰宜に就任。1916年(大正5年)御歌所編纂部に嘱託として加わり、『明治天皇御集』『昭憲皇太后御集』の編纂に従事した。その他、久邇宮家御用掛、大礼使典儀官、御歌会始奉行、同頌講、御歌所参候などを務めた。
平出 鏗二郎(ひらで こうじろう、明治2年8月21日(186… 平出 鏗二郎(ひらで こうじろう、明治2年8月21日(1869年9月26日) - 明治44年(1911年)12月19日)は、日本の国文学者・歴史家。字あるいは号は鏗痴。明治期における風俗史研究で知られる。 明治2年(1869年)、尾張国名古屋(現・愛知県名古屋市)に生まれる。 明治23年(1890年)、愛知県立医学専門学校を卒業、翌年上京し、東京帝国大学文科大学国文学科に入学。 明治27年(1894年)、同大学を卒業して文部省図書課に勤め、教科書の検定審査を担当する傍ら、文科大学史料編纂所員として江戸時代国学者の伝記史料を蒐集した。 明治33年(1900年)、史料編纂員を経て文部省を退官。のち小学校修身教科書起草および教科書検定嘱託に就任。
木下 正中 (きのした せいちゅう、1869年9月24日(明… 木下 正中 (きのした せいちゅう、1869年9月24日(明治2年8月19日) - 1952年(昭和27年)1月1日)は、日本の産婦人科医師・医学者。医学博士、東京帝国大学教授。 1869年(明治2年)、木下凞(ひろむ。1844年 - 1914年)の長男として若狭国小浜に出生。木下家はもと小浜藩の藩医の家で、木下宗白が杉田玄白に師事して蘭方外科医になったのに始まり、凞が4代目にあたる。凞は明治維新によって官医となり、1869年(明治2年)から1873年(明治6年)にかけて横浜でヘボンとシモンズに就いて西洋医学の経験を積んだ。その後、京都に移って京都療病院(現在の京都府立医科大学)に勤務、のちに産婦人科医を開業した。
手島 兵次郎(てしま へいじろう、1868年10月22日(明… 手島 兵次郎(てしま へいじろう、1868年10月22日(明治元年9月7日) - 1918年(大正7年))は、日本の検察官、官僚。台湾総督府法務部長、覆審法院検察官長を歴任した。また台湾法制起草委員なども務め、台湾の法制度整備に尽くした。
赤星 典太(あかほし / あかぼし てんた、1868年10月… 赤星 典太(あかほし / あかぼし てんた、1868年10月22日(慶応4年9月7日)- 1958年(昭和33年)6月13日)は、日本の内務官僚、実業家。官選県知事、錦鶏間祗候。 肥後国熊本城下手取本町(現熊本市)出身。熊本藩士・赤星晋作の長男として生まれる。第五高等学校を卒業。1896年(明治29年)帝国大学法科大学を卒業。同年12月、文官高等試験行政科試験に合格。大蔵省に入省し主税局属となる。 1897年(明治30年)司税官・金沢税務管理局在勤となる。以後、根室税務管理局長、札幌税務管理局長、会計検査官補、司法省参事官兼司法書記官、同書記官・総務局会計課長、農商務書記官、行政裁判所評定官などを歴任。
松田 道(まつだ みち、慶応4年9月7日(1868年10月2… 松田 道(まつだ みち、慶応4年9月7日(1868年10月22日) - 1956年(昭和31年)1月15日)は、丹後国中郡峰山(現在の京都府京丹後市峰山町)出身の、明治期から昭和前期の女子教育者。女性として初めて、同志社女子専門学校(現在の同志社女子大学)の校長を務めた。 松田道は、1868年(慶応4年9月7日)、丹後国中郡峰山(現在の京都府京丹後市峰山町室)にて、松田甚八の次女として誕生した。生家は旧峰山藩主の屋敷跡にあったという。時の京都府知事・槇村は学業をよく奨励したので、松田道の父母もこれに倣い、子ども達を学校に通わせるのを好んだ。 創立当時の峰山小学校在学中は冬は藁靴を履いて通い、習字を習いに自宅を訪ねても面倒がらずに面白い話をしてくれた壮年の「高木先生」と、その近所に住み、積雪の日などは自ら背に負って自宅まで送り届けてくれた若い「柴崎先生」のことは晩年まで忘れることはなかった。
松村 貞雄(まつむら さだお、1868年10月21日〈慶應4… 松村 貞雄(まつむら さだお、1868年10月21日〈慶應4年9月6日〉 - 1923年〈大正12年〉2月21日)は日本の外交官。ウラジオストック総領事、サンパウロ総領事等を歴任。 1868年10月21日(慶應4年9月6日)、土佐国土佐郡鴨部村(現・高知県高知市)に土佐藩士の二男として生まれる。1886年(明治19年)に獨逸学協会学校に入り、ドイツ語とラテン語を修業し、1891年(明治24年)に和仏法律学校(現・法政大学)に入学し、1894年(明治27年)に卒業する。1897年(明治30年)に外交官及領事官試験に合格、外務省に入省し、上海領事官補として勤務する。北清事変のときには上海、日露戦争のときにはヨーロッパにあって活躍し、漢口総領事時代には第一革命がおこり、居留地の保護及び列国領事等との折衝にその手腕を振るう。
野沢 卯市(野澤、のざわ ういち、1868年10月20日(明… 野沢 卯市(野澤、のざわ ういち、1868年10月20日(明治元年9月5日)- 1961年(昭和36年)7月26日)は、明治から昭和前期の政治家、実業家。衆議院議員。旧姓・石塚。 佐渡国羽茂郡徳和村(新潟県佐渡郡赤泊村大字徳和を経て現佐渡市徳和)で、素封家・石塚孫四郎の二男として生まれ、野沢長吉の養子となった。進学のため上京する際、寺泊から三国峠を徒歩で進む中で佐渡が本土よりも豊かであると気づき、北前船の恩恵であると判断して、航路整備を生涯の課題とすることに決した。1890年(明治23年)7月、東京専門学校(現早稲田大学)政治科を卒業。1895年(明治28年)家督を相続した。 1895年2月、新潟県会議員に選出され6期在任。
護得久 朝惟(ごえく ちょうい、1868年10月20日(尚泰… 護得久 朝惟(ごえく ちょうい、1868年10月20日(尚泰21年9月5日) - 1923年(大正12年)7月30日)は、沖縄県出身の実業家、政治家。衆議院議員。向氏護得久家十四世。唐名は向鴻弼。 首里山川村(現那覇市首里山川町)で、護得久家十三世・護得久朝常の長男として生まれる。沖縄県尋常中学校を中退して慶應義塾で学んだが、1889年、経済的な理由で退学し帰郷した。 尚泰王の長女・真鶴金との縁談が持ち上り、王の近習は護得久家の経済状態が良くないことから難色を示したが、王の決断で結婚が認められた。1893年9月、尚順、太田朝敷らと協力して『琉球新報』を創刊。尚家の資金により設立した丸一商会、沖縄広運 (株) の社長を務めたほか、沖縄農工銀行頭取、沖縄土地建物 (株) 監査役などを歴任。
向野 堅一(こうの けんいち、1868年10月19日(慶応4… 向野 堅一(こうの けんいち、1868年10月19日(慶応4年9月4日) - 1931年(昭和6年)9月17日)は、明治から昭和初期の実業家。日清戦争当時、軍事探偵として活動した。戦後、満州経済界で活躍した。
山崎 四男六(やまさき しおろく、慶応4年9月4日(1868… 山崎 四男六(やまさき しおろく、慶応4年9月4日(1868年10月19日) - 昭和3年(1928年)8月31日)は、日本の大蔵官僚、宮内官僚。錦鶏間祗候。 肥前国(佐賀県)に石井直信の四男として生まれ、山崎峯次郎の養子となった。1895年(明治29年)、東京帝国大学法科大学を卒業して大蔵属となり、同年に高等文官試験に合格した。大蔵省司税官、同主計官、税関事務官、大蔵書記官、大蔵大臣秘書官、大蔵省参事官、横浜税関長、大蔵省国債局長、同理財局長を歴任した。1914年(大正3年)、宮内省に転じ、内蔵頭に任じられた。その他、朝香宮宮務監督や帝室林野局長官を務めた。退官後は日本銀行監事に就任した。 1928年8月31日薨去。
寺石 正路(てらいし まさみち、1868年10月17日(慶應… 寺石 正路(てらいし まさみち、1868年10月17日(慶應4年9月2日) - 1949年(昭和24年)12月23日)は、高知県の郷土史家。考古学者。作家。
原 富太郎(はら とみたろう、慶応4年8月23日(1868年… 原 富太郎(はら とみたろう、慶応4年8月23日(1868年10月8日) - 昭和14年(1939年)8月16日)は、日本の実業家、美術品収集家、茶人。号は三溪。美濃国厚見郡佐波村(現・岐阜県岐阜市柳津町佐波)出身。 青木久衛の長男として生まれる。小学校卒業後、儒学者の野村藤陰や草場船山に学ぶ。その後上京し、東京専門学校(現・早稲田大学)で政治学・経済学を学び、跡見女学校の教師を務める。1892年、横浜の豪商・原善三郎の孫であり、跡見女学校での教え子であった原屋寿(はら やす)と結婚して原家に入り、家業を発展させた。神奈川県久良岐郡六浦荘村を本拠地とし、絹の貿易により富を築いた。 また富岡製糸場を中心とした製糸工場を各地に持ち、製糸家としても知られていた。
加治 寿衛吉(壽衞吉、かじ すえきち、1868年10月8日(… 加治 寿衛吉(壽衞吉、かじ すえきち、1868年10月8日(明治元年8月23日)- 1926年(大正15年)2月25日)は、明治から大正期の実業家、政治家。衆議院議員。 讃岐国那珂郡丸亀城下(香川県那珂郡丸亀町、仲多度郡丸亀町を経て現丸亀市)で、丸亀藩士・加治重国の二男として生まれる。郷校で学び、1883年(明治16年)に上京して法律学を研究した。 自由民権運動に加わり、1890年(明治23年)愛国公党に入党。その後大同団結運動に参加し、国民自由党に入党してその勢力の拡張に尽力した。 1897年(明治30年)頃から実業界に入り、鹿島鉄道発起人、皇国生命保険会社顧問に就任。1906年(明治39年)東京通信社に入社し、その後社長を務めた。
志田 鉀太郎(しだ こうたろう、1868年10月5日(慶応4… 志田 鉀太郎(しだ こうたろう、1868年10月5日(慶応4年8月20日) - 1951年(昭和26年)3月13日)は、日本の法学者。第5代明治大学総長。 1868年、東京府(後の東京市牛込区、現・東京都新宿区)の一橋徳川家剣術指南番の家に生まれる。東京府尋常中学校、私立東京英語学校などを経て、1894年(明治27年)、東京帝国大学法科大学卒業、同大学院入学。1898年(明治31年)、学習院大学科教授に就任。 1897年(明治30年)から1919年(大正8年)まで新設の東京高等商業学校(のちの東京商科大学、現一橋大学)専攻部初代商法教授。ドイツ留学中に石川巌・石川文吾・神田乃武・瀧本美夫・津村秀松・福田徳三・関一とともに東京高商の大学昇格運動を始め、1920年(大正9年)から東京商科大学保険学担当講師。
志田 鉀太郎(しだ こうたろう、1868年10月5日(慶応4… 志田 鉀太郎(しだ こうたろう、1868年10月5日(慶応4年8月20日) - 1951年(昭和26年)3月13日)は、日本の法学者。
白沢 保美(白澤 保美、しらさわ やすみ、しらさわ ほみ、し… 白沢 保美(白澤 保美、しらさわ やすみ、しらさわ ほみ、しらさわ やすよし、1868年10月3日(慶応4年8月18日) - 1947年(昭和22年)12月20日)は、日本の樹木学者。東京市の初期、都市緑化事業の指導にあたる。農商務省山林局林業試験場(現・森林研究・整備機構)長、日本林学会会長、日本農学会会長、貴族院議員。 1868年(慶応4年)、信濃国安曇郡明盛村(現・長野県安曇野市)の医師・白澤市郎次の家に生まれる。東京へ出て、立教学校(現・立教大学)で修学。1894年(明治27年)、帝国大学農科大学林学科を卒業。大学院で研究のかたわら、農商務省山林局に技師として勤務。 1900年(明治33年)より欧州に2年間留学。
田村 八二(たむら はちじ、慶應4年8月16日(1868年1… 田村 八二(たむら はちじ、慶應4年8月16日(1868年10月1日) - 昭和4年(1929年)8月31日)は、日本の実業家。 播磨国姫路生まれ。1892年高等商業学校(現一橋大学)卒業、三菱合資入社。旭硝子常務取締役、鶴見臨港鉄道取締役、日本板硝子監査役などを歴任した。 父は姫路藩士田村九一で姫路紡績所の創業者。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
笹尾 鉄三郎(ささお てつさぶろう、慶応4年8月15日(18… 笹尾 鉄三郎(ささお てつさぶろう、慶応4年8月15日(1868年9月30日) - 大正3年(1914年)12月30日)は日本のキリスト教の大衆伝道者、牧師、神学校教師、宗教家、讃美歌作家。 淀橋教会初代牧師、聖書学校(柏木聖書学院)初代院長。 1868年8月15日 伊勢安濃郡古河村(後の新町、現在の三重県津市)に、代々庄屋の家柄である父・藤堂藩の郡奉行伊藤篤之助、母・そうの5人兄弟の末子(三男)として誕生。 幼少期に父を亡くす。兄、七左衛門が後見人になる。その土地に中学校がなかったので伊藤家が土地を寄付して、鉄三郎のために中学を創設する。中学時代には肺炎を患い生死をさまよう。 1886年(明治19年)に津中学を卒業後する。
鈴木 菊次郎(すずき きくじろう、1868年9月30日(慶応… 鈴木 菊次郎(すずき きくじろう、1868年9月30日(慶応4年8月15日) - 1935年(昭和10年)2月6日)は、三河国渥美郡田原村(現愛知県田原市)出身の実業家。 1868年9月30日(慶応4年8月15日)、三河国渥美郡田原村325番屋敷において、大工幸左衛門の長男としてこの世に生を受けた。父の幸左衛門は、大工ではあったが、茶の湯や華道、短歌も嗜む教養人でもあった。 成人すると父の家業を継いで、大工の棟梁となり、30歳ごろ同郡赤羽根村の宮田たねを娶った。たねは小物問屋を自ら商い、飴細工を製造販売した。当地においては農家の副業として、自作の大麦により麦芽糖を精製し、引き飴やタン切り飴を売ることが行われていたという。
伊達 武四郎(だて たけしろう、1868年9月28日〈明治元… 伊達 武四郎(だて たけしろう、1868年9月28日〈明治元年8月13日〉 - 1908年〈明治41年〉7月25日)は、日本の政治家、衆議院議員(2期)。 宇和島藩の最後の藩主である伊達宗徳の四男として生まれる。ドイツに留学し、ベルリン大学とライプチヒ大学で学び、ドクトル・ユーリスの学位を受ける。次いでイギリスへ留学する。 帰国後の1902年(明治35年)の第7回衆議院議員総選挙において愛媛県郡部選挙区から壬寅会公認で立候補してトップ当選する。つづく1903年(明治36年)の第8回衆議院議員総選挙では無所属で立候補して再選。衆議院議員を2期務め、1904年(明治37年)の第9回衆議院議員総選挙は不出馬。
清水 澄(旧字体: 淸水 澄、しみず とおる、1868年9月… 清水 澄(旧字体: 淸水 澄、しみず とおる、1868年9月27日〈慶応4年8月12日〉 - 1947年〈昭和22年〉9月25日)は、日本の憲法学者。法学博士。栄典は正二位勲一等。 学習院教授、慶應義塾大学部法律科教授を経て、行政裁判所長官、帝国美術院院長、枢密院議長を歴任した。帝国学士院会員。日本国憲法施行後に国体の危機を憂えて自殺した。 1868年(慶応4年)、石川県金沢市に生まれる。 1884年(明治17年)、帝国大学法科大学仏法科首席卒業。その後、東京府・内務省勤務を経て、学習院教授。1898年から1901年までドイツとフランスに留学する。1905年(明治38年)、法学博士取得。次いで慶應義塾大学部法律科教授(憲法・行政法担当)。
吉川 祐輝(きっかわ すけてる、1868年9月24日(慶応4… 吉川 祐輝(きっかわ すけてる、1868年9月24日(慶応4年8月9日) - 1945年(昭和20年)2月26日)は、日本の農学者。農学博士。族籍は東京府士族。 伊予国松山(愛媛県松山市)出身。吉川祐之の長男。1892年(明治25年)、帝国大学農科大学を卒業。翌年から農事試験場技師を務めた。1901年(明治34年)、東京帝国大学農科大学助教授となり、1904年(明治37年)からは東京農業高等学校(現在の東京農業大学)講師を兼ねた。 1903年(明治36年)に清・韓国へ、1907年(明治40年)にイギリス領セイロン・フランス領インドシナへ派遣された。1909年(明治42年)にイギリス・ドイツ・アメリカ合衆国に留学。
瀬川 光行(せがわ みつゆき、1868年9月24日(慶応4年… 瀬川 光行(せがわ みつゆき、1868年9月24日(慶応4年8月9日) - 1933年(昭和8年)10月6日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 東京都出身。1886年、東京専門学校政治経済科卒。読売新聞記者となる。著述業と出版業に従事し、元元堂書房を経営する。中等教科書協会幹事、陸海軍用達会社社長、磐城炭礦(株)取締役社長、明治製靴(株)取締役を務める。四谷区議、東京市会議員、同参事会員となる。 1924年の第15回衆議院議員総選挙において東京1区から憲政会公認で立候補したが落選。1928年の第16回衆議院議員総選挙において東京1区から立憲民政党公認で立候補して当選した。衆議院議員を1期務めた。
宮崎 友太郎(みやさき ともたろう、1868年9月23日(明… 宮崎 友太郎(みやさき ともたろう、1868年9月23日(明治元年8月8日) - 1929年(昭和4年)12月18日)は、明治から昭和時代初期の政治家、実業家、銀行家。衆議院議員(2期)。 駿河国有渡郡弥勒町(静岡県有渡郡大里村、安倍郡大里村、静岡市を経て現静岡市葵区)出身。宮崎安七郎の長男として生まれ、1898年(明治31年)3月、家督を相続する。静岡中学、専修学校に学び、大里村会議員、所得税調査委員、安倍川水害予防組合議員を務める。 財界では、静岡実業銀行常務取締役、静岡印刷取締役、静岡米穀株式取引所、東海瓦斯、静岡軽便鉄道監査役、富士電気工業、銅山川電力、東洋醸造各取締役、静岡瓦斯監査役、駿河銀行取締役、静岡漁業監査役、静岡貯蓄銀行、吉野水電興業、此花商事各取締役などを歴任した。
永井 一孝(ながい ひでのり、1868年9月23日(慶応4年… 永井 一孝(ながい ひでのり、1868年9月23日(慶応4年8月8日) - 1958年(昭和33年)12月16日)は、日本の国文学者。旧姓は池谷。号は空外。 信濃国筑摩郡福島(長野県木曽郡木曽町福島)出身。1893年東京専門学校文学科第1回卒業生。英文学・演劇学をめざすが、坪内逍遥の勧めで訓詁を関根正直に学ぶ。1895年東京専門学校講師、1907年早稲田大学教授、高等師範部、高等予科で国文学を担当。1943年定年退職して名誉教授。門下に山口剛、竹野長次、佐々木八郎らがいる。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
外山 亀太郎(とやま かめたろう、慶応3年9月26日(186… 外山 亀太郎(とやま かめたろう、慶応3年9月26日(1867年10月23日) - 1918年(大正7年)3月29日)は、日本の遺伝学者。カイコにおいてメンデルの法則を実証した功績で知られる。細菌学者の青木薫は実弟。 相模国愛甲郡上古沢村(現・神奈川県厚木市上古沢)に生まれる。1885年に東京農林学校(1890年に帝国大学農科大学となる)に入学。1892年の卒業後も無給助手として数年留まった。1896年に同年創立された福島県蚕業学校(現・福島県立福島明成高等学校)の初代校長に就任しているが、研究に熱中するあまり排斥運動がおこり、1899年に辞任して東京帝国大学へ大学院学生として戻る。1902年、シャムより蚕業指導者の招聘があり、これに応じるため農科大学の助教授に任ぜられ、農務省蚕業技師長として3年間バンコクに赴任した。
阿部 徳三郎(あべ とくさぶろう、慶応3年9月22日(186… 阿部 徳三郎(あべ とくさぶろう、慶応3年9月22日(1867年10月19日) - 1918年(大正7年)5月14日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)、弁護士。 陸奥国磐井郡弥栄村(現在の岩手県一関市)出身。明治法律学校(現在の明治大学)を卒業。1890年(明治23年)、弁護士試験に合格し、一関に法律事務所を構え、後に盛岡弁護士会常務員に選ばれた。 1898年(明治31年)、一関町会議員に選ばれた。1903年(明治36年)、第8回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。以後、当選回数は6回を数えた。 その他、破産管財人、第八十八銀行法律顧問、一関葉煙草仲買株式会社監査役、東北印刷株式会社取締役などを務めた。
吉良 元夫(きら もとお、1867年10月18日(慶応3年9… 吉良 元夫(きら もとお、1867年10月18日(慶応3年9月21日)- 1938年(昭和13年)10月15日)は、明治から昭和前期の醸造家、政治家。衆議院議員、大分県大野郡上井田村長。号・淡遠。 豊後国大野郡上尾塚村(大分県大野郡上井田村上尾塚、朝地村、朝地町を経て現豊後大野市朝地町上尾塚)で、酒造業・吉良圭蔵の長男として生まれる。竹田町の寺井塾で漢学を修めた。その後、上京して神田共立学校(現開成中学校・高等学校)、三田英語塾(慶應義塾)で学び、哲学館(現東洋大学)を卒業した。 帰郷して家業の酒造業、醤油醸造業を営む。大野郡酒屋組合長、両豊銀行監査役も務めた。日露戦争では豊州新報記者として従軍した。
正岡 子規(まさおか しき、1867年10月14日〈慶応3年… 正岡 子規(まさおか しき、1867年10月14日〈慶応3年9月17日〉 - 1902年〈明治35年〉9月19日)は、日本の俳人、歌人、国語学研究家。名は常規(つねのり)。幼名は処之助(ところのすけ)で、のちに升(のぼる)と改めた。 正岡 子規(まさおか しき、1867年10月14日〈慶応3年9月17日〉 - 1902年〈明治35年〉9月19日)は、日本の俳人、歌人、国語学研究家。名は常規(つねのり)。幼名は処之助(ところのすけ)で、のちに升(のぼる)と改めた。
カール・サダキチ・ハートマン(英語: Carl Sadaki… カール・サダキチ・ハートマン(英語: Carl Sadakichi Hartmann, 旧暦慶応3年10月13日〈新暦1867年11月8日〉 - 1944年11月22日)は、日本出身のアメリカ合衆国の美術家、批評家、詩人。定吉ハートマン、サダキチ・ハルトマンなどの表記もある。写真評論では、シドニー・アラン(Sydney Allan)名を使用することもあった。 ドイツ人の貿易・武器商人カール・ヘルマン・オスカー・ハルトマンと日本人女性さだの次男として、長崎の出島に出生。幼くして母を亡くしたため父がドイツに連れて行き、兄と共にドイツの親戚に引き取られ、ハンブルクで教育を受けた。裕福な一族だったため、私立校へ通うなど当地の最高の教育を受けたが、ドイツに帰国した父親の再婚に伴って転校し、キール海軍兵学校に通う予定だったが、フランスのパリへ家出。
島田 剛太郎(嶋田、しまだ ごうたろう / こうたろう、18… 島田 剛太郎(嶋田、しまだ ごうたろう / こうたろう、1867年10月12日(慶応3年9月15日)- 1945年(昭和20年)2月28日)は、日本の農商務・内務官僚。官選県知事。 越前国勝山藩士・島田静虎、つるの長男(4男3女)として生まれる。京都で旧制中学校の教育を受けて上京し、大学予備門を経て、1890年、帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業。同年7月15日、農商務省に入省し試補となり参事官室に配属された。 1902年、農商務省参事官に就任。以後、林務官、鉱山監督兼農商務省参事官、臨時葉煙草取扱所建築事務官、林野整理局書記官、林務官兼山林局書記官兼農商務書記官などを歴任し、1907年1月、京都府事務官・第一部長兼第三部長となる。
森 越太郎(もり えつたろう、1867年10月11日(慶応3… 森 越太郎(もり えつたろう、1867年10月11日(慶応3年9月14日) - 1957年(昭和32年)11月3日)は、日本の海軍軍人、最終階級は海軍中将。 尾張国前飛保村(現・愛知県江南市)出身。1889年(明治22年)に海軍兵学校を卒業し、翌年に海軍少尉に任官した。軍令部参謀、大本営参謀、陸軍大学校教官、海軍大学校教官、高雄艦長、沖島艦長、三笠艦長、海軍水雷学校校長、海軍技術本部第二部長を歴任した。1918年(大正7年)、海軍中将に昇進し、翌年に予備役に編入された。 その後、愛知時計電機株式会社顧問を務めた。 1944年には地元の前飛保にすずり箱を寄贈。それは現在でも同市内の白山社の蔵に保管されている。
鉞り 鉄五郎(まさかり てつごろう、1867年10月7日〈慶… 鉞り 鉄五郎(まさかり てつごろう、1867年10月7日〈慶應3年9月10日〉 - 1925年〈大正14年〉12月8日)は、現在の千葉県山武市(旧・上総国武射郡)で浦風部屋及び高砂部屋に所属した大相撲力士。本名は今関 鉄五郎。身長体重は不明。最高位は東前頭13枚目。色黒で無愛想な容貌から「鬼」と言われた。 1886年1月初土俵(序ノ口)。1893年5月十両昇進。1894年6月新入幕。しかし、翌1895年1月場所前に大日本帝国陸軍に入営し、近衛師団の軍夫になった。台湾に出征するも、マラリアに罹ってあえなく帰国。1895年5月場所で東十両張出筆頭で復帰するも2勝8敗と負け越し、以後再入幕は叶わなかった。
門野 重九郎(かどの じゅうくろう/ちょうきゅうろう、186… 門野 重九郎(かどの じゅうくろう/ちょうきゅうろう、1867年10月6日(慶応3年9月9日) - 1958年(昭和33年)4月24日)は、明治から昭和時代前期の実業家。実兄に千代田生命保険、日本徴兵保険創立者兼社長で勅撰貴族院議員の門野幾之進がいる。 志摩鳥羽藩の家老・門野亘理の二男として鳥羽(現三重県鳥羽市)に生まれる。1884年(明治17年)慶應義塾大学部理財学および法律学を修了後、1891年(明治24年)帝国大学工科大学土木工学科を卒業し、アメリカのペンシルバニア鉄道に入る。4年間に渡る鉄道敷設工事に従事したのち退社し、欧米の工業事情を視察後、1896年(明治29年)帰朝した。山陽鉄道で新線工事長として勤務後、大倉喜八郎の知遇を得て、1897年(明治30年)大倉組に入り、ロンドン支店長を長く務めたのち1909年(明治42年)に大倉組副頭取、1914年(大正3年)大倉土木(現大成建設の前身)会長となり、1937年(昭和12年)まで在任した。
平山 信(ひらやま しん、1867年10月6日(慶応3年9月… 平山 信(ひらやま しん、1867年10月6日(慶応3年9月9日) - 1945年(昭和20年)6月2日)は、日本の天文学者。名前の「信」は「まこと」と読まれることもある。同姓の天文学者・平山清次(天体力学、古暦の研究及び小惑星の族の発見で有名)とともに、月の裏側にあるクレーター「ヒラヤマ」の名前の由来となっている。 幕臣平山詮の子として江戸(現・東京都)に生まれた。兄に海軍教授・海軍大学校教官の平山順。寺尾寿に師事した。1888年7月に東京帝国大学理科大学星学科(現・東京大学理学部天文学科)を卒業、蘆野敬三郎と共に同学科の第1回卒業生となった。1890年、グリニッジへ留学、その数か月後にはポツダムへと移り、ヘルマン・カール・フォーゲルの下で当時勃興しつつあった天体物理学を学んだ。
関田 嘉七郎(關田、せきた かしちろう、1867年10月6日… 関田 嘉七郎(關田、せきた かしちろう、1867年10月6日(慶応3年9月9日)- 1943年(昭和18年)7月7日)は、明治から大正期の実業家、政治家。衆議院議員、栃木県会議長、栃木県足利郡北郷村長。 下野国足利郡江川村(栃木県足利郡北郷村大字江川を経て現足利市江川町)で、輸出織物業・関田政七郎の長男として生まれる。1886年(明治19年)明治法律学校(現明治大学)に入学し1889年(明治22年)まで学んで帰郷した。 家業の輸出織物業を継承。足利機業組合評議員、足利織物同業組合長、両毛織物同業組合連合会長、足利瓦斯社長、日本大博覧会評議員などを務めた。 政界では、栃木県会議員、同参事会員、同議長、北郷村長、教育諮問会員、県立工業学校商議員、地方森林会議員などを務めた。
杉下 太郎右衛門(すぎした たろううえもん、1867年10月… 杉下 太郎右衛門(すぎした たろううえもん、1867年10月5日(慶応3年9月8日) - 1918年(大正7年)5月4日)は、明治から大正時代の政治家。銀行家。大地主。衆議院議員。貴族院多額納税者議員。名は豊、字は士康、号に耕雲または漣園。 先代杉下太郎右衛門の長男として、飛騨国吉城郡宇津江村(岐阜県吉城郡国府村、国府町を経て現高山市)に生まれる。先祖は源氏で渡邊を姓としたが天保年間に杉下と改めた。生家は農業を営む素封家で代々太郎右衛門を称した。 1893年(明治26年)シカゴ万国博覧会を視察し、帰朝後は前田正名などの実業家と交友を持った。また大日本農会特別会員、地方農業団体委員、日本赤十字社特別社員、杉下合名会社代表社員を務めた。
田島 錦治(たじま きんじ、慶応3年9月7日(1867年10… 田島 錦治(たじま きんじ、慶応3年9月7日(1867年10月4日) - 昭和9年(1934年)6月28日)は、日本の経済学者。号は「赤城」。京都帝国大学初代経済学部学部長。立命館大学第2代学監。同大学第3代学長。財団法人立命館初代協議員。大日本武徳会弓道範士。日本漕艇協会第三代会長。関西漕艇協会初代会長。帝国学士院会員。 江戸・牛込赤城元町(現・東京都新宿区赤城元町)に生まれる。旧制一高から帝国大学法科大学政治学科に進学し、経済学者・社会政策学者で東大七博士の一人に数えられた金井延の指導を受け、欧米留学も経験した。 帰国後は京都帝国大学法科大学にて「経済理論」、「財政学」の講義を担当。京大法科から経済学部が独立したのを機に、1919年(大正8年)京都帝国大学初代経済学部長に就任。
矢橋 亮吉(やばし りょうきち、1867年10月3日(慶応3… 矢橋 亮吉(やばし りょうきち、1867年10月3日(慶応3年9月6日) - 1946年(昭和21年)9月30日)は、日本の実業家・銀行経営者・慈善家。先祖は嵯峨天皇の第12皇子・源融にまで遡る矢橋家・本家の出身。国会議事堂などの日本の近代建築史に残る建造物・高層ビル・ホテル・豪華列車の床材・海外の航空会社のラウンジから自動運転技術・EV・新幹線などまで関わってきた、矢橋グループの一翼を担う矢橋大理石の創業者。 1867年に美濃赤坂で生まれる。明治維新の廃藩置県の時に、徳川家康が織田信長の岐阜城千畳敷御殿を移築し造営させた将軍家専用休泊所であるお茶屋屋敷の払下げを受けた矢橋本家・宗太郎の三男。 実父である矢橋本家・宗太郎の二女で姉の勝(後改幾世)の三男である、大蔵省営繕官僚として中心となって国会議事堂の設計をまとめた甥矢橋賢吉(矢橋惣本家)と上京。
三木 竹二(みき たけじ、慶応3年9月5日(1867年10月… 三木 竹二(みき たけじ、慶応3年9月5日(1867年10月2日) - 明治41年(1908年)1月10日)は、明治の劇評家で、医師。本名は森 篤次郎(もり とくじろう)。兄は小説家の森鷗外、妹は翻訳家・歌人・随筆家の小金井喜美子。 大政奉還の直前、石見国津和野に津和野藩医・森静泰(のちに静男と改名)と峰子の間に次男として生まれた。廃藩置県などによって5歳のときに上京する。子供の頃は、鷗外よりも才があったという[要出典]。 12歳の頃、男爵の河田佐久馬(旧鳥取藩士、元老院議官で1887年子爵に叙せられた)に大変気に入られて養子縁組が決まり、本人もその気になっていた。しかし、親戚から横槍が入った河田家が財産譲与額の変更を第三者を介して伝えてくると、金のことを問題にしたことと、それを人の口を介して告げてきた誠意のない態度に若い鷗外が激怒して破談となった。
長野 宇平治(ながの うへいじ、慶応3年9月1日(1867年… 長野 宇平治(ながの うへいじ、慶応3年9月1日(1867年9月28日) - 昭和12年(1937年)12月14日)は、日本の建築家。日本建築士会初代会長。辰野金吾の弟子として知られ、数々の銀行建築を残した。越後国高田(現:新潟県上越市)生まれ。 初期には和洋折衷意匠の奈良県庁舎等を設計し評価を得た。明治30年(1897年)日本銀行技師となり、辰野金吾工事顧問の指導下で、大阪・京都・小樽各支店等の明治期支店建築9件の設計監理に従事した。明治42年(1909年)日本初のコンペとなる台湾総督府庁舎設計競技に当選した後、大正元年日銀を辞し台湾総督府嘱託を一時務めるとともに、大正2年(1913年)自営の設計事務所を開設し、日銀岡山支店や大倉精神文化研究所等の古典主義様式の建築を設計した。
田付 七太(たつけ しちた、慶應3年9月1日(1867年9月… 田付 七太(たつけ しちた、慶應3年9月1日(1867年9月28日) - 昭和6年(1931年)5月31日)は、日本の外交官。駐ブラジル大使、駐オランダ公使、駐チリ公使。 山口県出身。坪井宗一の三男として生まれ、田付景賢の養子となった。養父の景賢は田付景澄の子孫で幕末の軍事奉行。1896年(明治29年)に東京帝国大学法科大学英法科を卒業し、外交官及領事官試験に合格した。領事官補として元山、漢城に、外交官補としてフランスに勤務。フランス公使館三等書記官、同二等書記官、フランス大使館二等書記官、同一等書記官、外務書記官・大臣官房人事課長、ロシア大使館参事官、フランス大使館参事官を歴任した。1917年(大正6年)、駐チリ公使となり、アルゼンチン、ペルー、ボリビア各国の公使も兼任した。
矢野 荘三郎(やの しょうざぶろう、1867年9月25日(慶… 矢野 荘三郎(やの しょうざぶろう、1867年9月25日(慶応3年8月28日) - 1925年(大正14年)9月25日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 伊予国宇和郡川之石浦(愛媛県西宇和郡川之石村、川之石町、保内町を経て現八幡浜市)で生まれた。1896年大阪府立商業学校(現・大阪市立大学)卒。のちに慶應義塾に学ぶ。鉱業に従事し、伊予製鉱、宇和紡績、第二十九銀行、愛媛鉄道、龍野電気鉄道各(株)取締役、明治製煉(株)専務取締役を務めた。 1912年の第11回衆議院議員総選挙において愛媛県郡部から立憲政友会公認で立候補して当選した。衆議院議員を1期務め、1915年の第12回衆議院議員総選挙には立候補しなかった。
今井 今助(いまい いますけ、慶応2年9月15日〈1866年… 今井 今助(いまい いますけ、慶応2年9月15日〈1866年10月23日〉 - 1948年〈昭和23年〉2月18日)は、明治・大正時代の日本の政治家、実業家。群馬県利根郡川場村出身。衆議院議員(2期)、群馬県会議員(5期)、利根郡会議員、川場村長などを歴任した。 川場村川場湯原の今井悟兵衛の長男として生まれる。今井家は代々名主を務める家柄で、父悟兵衛は領主から帯刀御免・御用達頭取を仰せつけられていた。 今助は1892年(明治25年)に群馬県会議員に当選し、以後1896年(明治29年)、1907年(明治40年)、1911年(明治44年)、1915年(大正4年)の5回当選を果たし、17年間務めた。 1896年(明治29年)、1899年(明治32年)、1903年(明治36年)の3度利根郡会議員に当選。
清家 吉次郎(せいけ きちじろう、慶応2年9月14日(186… 清家 吉次郎(せいけ きちじろう、慶応2年9月14日(1866年10月22日) - 昭和9年(1934年)2月23日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)、愛媛県吉田町長。 伊予国宇和郡喜佐方村(現在の愛媛県宇和島市)に、清家権四郎の二男として生まれる。1889年(明治22年)、愛媛師範学校を卒業し、喜多郡大洲尋常高等小学校に訓導として赴任し、やがて校長に昇進した。1900年(明治33年)、南宇和郡視学に任命され、伊予郡、西宇和郡、北宇和郡の視学を歴任した。 1911年(明治44年)に官を辞し、北宇和郡から県会議員に当選。1919年(大正8年)からは議長を務めた。 1918年(大正7年)、吉田町長に就任。
赤堀 又次郎(あかほり またじろう、1866年10月18日〈… 赤堀 又次郎(あかほり またじろう、1866年10月18日〈慶応2年9月10日〉 - 1945年〈昭和20年〉)は、日本の国学者、国語学者、書誌学者、図書館学者。 明治10年代初頭の東京大学文学部は、洋学尊重の時代的風潮に影響されて和漢文学を専攻する学生は乏しかった。これを憂えた小中村清矩の献策に基づいて、文学部に古典講習科が付設された。赤堀はここに入学し、修業年限3年の後に卒業した。本科に比してこの科に学ぶものが多く、落合直文らの実力を有する学者が輩出して、古典研究の発展に寄与するものが少なくなかった。 1888年(明治21年)創立の私立言語取調所(会長伊達宗城)で、のちに『国語学書目解題』として出版される書籍の編纂に、林 美、落合直澄、逸見仲三郎とともに着手したが出版に至らず、1890年(明治23年)10月9日に取調所の図書、器具、金員の帝国大学への寄付が願い出られて許されたときに、この初稿も含まれていた。